夜明け前  長与専斎による「医制76条」の制定
 明治7(1875)年に制定された「医制」は、わが国の医師法と医療制度の根源をなすもので、總則、医学校令、教員並外国教員職制、医師の開業制度、産婆、鍼灸、薬舗及売薬規定の76ヶ条より成る。

 また、薬で暴利を貧る悪徳医師がはびこる様になったため、「医制」の起草者・長与専斎はこの弊風を除く為に、医制の第41条に、欧州の医療制度を倣った医薬分業の理念をとり入れ、「医師たる者は、自ら薬を鬻(ひさ)ぐ(売る)ことを禁ず、医師は処方書を病家に附与し、相当の診察料を受くべし」との条文を掲げた。これが医師会と薬剤師会との間に100年間に渡って綿々と続いた医薬分業抗争の起点である。しかし、その当時は薬剤師の側に分業に対する態勢が整っていなかった。

 この「医制」は、一説に相良知安の「医制略則」が下敷きになったとも言われている。
 

「長與專齋(ながよせんさい、天保9年8月28日(1838年10月16日)-明治35年(1902年)9月8日)」

 肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に代々仕える漢方医の家系に生まれる。姓は藤原、名は秉継。

 ●略 歴

 大村藩の藩校である五教館(長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後、安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門する。適塾に入門した時の塾頭が伊藤慎蔵で、その後5年近くを敵塾で過ごし、1858年塾頭の福沢諭吉が江戸に出た後塾頭になっている。のち大村藩の侍医となった。

 文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。数奇な運命の巡りあわせか、専斎は、司馬凌海とは同じ佐倉順天堂の佐藤泰然の門人で佐賀藩の医官相良知安と長崎でともに、ポンペの後任ボードウインに師事することになる。この相良知安こそが明治新政府のドイツ医学の導入に心血を注ぎ初代の医務局長になった人物である。薩長藩閥政治の犠牲となり歴史から抹殺され悲惨な生涯を送ることとなる。

 1868年(慶応4年)長与専斎は精得館の学頭になり1868年(明治元年)5月選挙で長崎精得館の頭取になり、10月にこの精得館が長崎医学校になるとこの校長に選ばれている。

 1871年(明治4年)7月に文部省が設置され江藤新平が初代文部卿になり学制の改革が急速に行われた時、専斎は東京に転勤になり、これまで医学の主要な舞台が長崎から東京に移って行くことになる。転勤後、この当時激しかった薩長藩閥政治の混乱に巻き込まれることなく、その後の衛生行政政策の立案に大きく貢献できる貴重な体験となった岩倉具視らの欧米使節団の一行に加っている。

 長与専斎にとって、アメリカではそれほどの収穫も得られなかった。しかしながら、ヨーロッパ、特にドイツでの医療制度および衛生行政の視察の経験は帰国後の医療行政を確立するために大いに活かされた。維新以後欧米文化の進んでいるのに驚いた日本政府と国民は、医療制度も含め、この遅れを取り戻すべく「旧来のろう習を破り」「知識を世界に求め」を国是として政府が先頭にたって積極的に欧米文化の輸入と摂取に勤めた。その結果驚くべき早さで日本の薬学をはじめ医療制度が確立されていった。

 専斎はドイツで池田謙斎、桂太郎、松本ケイ太郎、長井長義らの協力のもと日本の医療行政の基盤である「医制」七十六条の構想を練る。

 その基本の姿勢が次の文に表わされている。「是れ実に其の本源を医学に資り、理化工学気象統計等の所科を包容して之を政務的に運用し、人生の危害を除き国家の福祉を完うする所以の仕組にして、流行病伝染病の予防は勿論、貧民の救済、土地の清潔、上下水の引用排除、市街家屋の建築方式より薬品染料飲食物の用捨取締に至るまで、凡そ人間生活の利害に繋がれるものは細大となく収拾網羅して一団の行政をなし、「サニテーツウエーセン」「オツフェントリヘ・ヒゲー子」など称して国家行政の重要機関となれるものなりき」。

 それは、専斎が帰国した翌年1874年には、衛生行政組織、医事、薬事、公衆衛生のみならず、医学教育について定めた総合法典である医制が公布され、さらに翌年には内務省衛生局が設置されている、事でもわかる。この重要な任務を担ったのが長与専斎である。

 専斎は帰国後(明治6年3月)文部省医務局長に就任し、1875年(明治8年)6月には医務局が内務省に移されると同時に医務局を衛生局と改名しその初代衛生局長に就任している。

 これから本格的に長与専斎の衛生行政が始まることになる。まず最初に手がけようとしたのが種痘との予防と検梅制度である。ところがこの時コレラが大流行することになりその対策に窮することになる。

 安政5年の長崎から始まった大流行を経験している専斎は海港検疫の重要性を認識しコレラ予防の諸規則を立案する。種痘対策をできたばかりの衛生局の最大の仕事として位置付けた。それは1849年モーニケから伝わり佐賀、大阪、京都、東京等全国にと広められていたが、かなり時間が立っているためその効力がおち、新しい牛痘苗が必要になり、ここに特牛を求め接種し痘かを取り出すことに成功した。

 しかし国の財政改革の必要から種継所は私立衛生会に委託し衛生局長が監督することになる。この種継所は後で官立となる。

 司薬場は贋敗薬(にせ薬)輸入などを取り締まるため最初東京、京都、大阪に設けられたが、後で京都は廃止され、新たに長崎、横浜に設置され、最後は東京、横浜、大阪の3ヵ所になった。

 これら司薬場の設置にはゲールツが大きな役割をはたす。東京、大阪の司薬場試植園には内外の薬草を植え、その成分・効能をしらべ薬局方制定に役立てようとした。輸入粗悪薬品の検査のための司薬場の設置であったが、検査が甘く、同一の薬でも強弱精粗の度が違い、十分にその機能を発揮できなかった。

 一方で、専斎は、医学部内に薬学科を設置するなどして薬業社会の意識の改革、制度の改良を促しながら、これらは薬局方がないのが大きな原因と判断し日本薬局方制定のため明治13年10月にその編纂委員会を設けた。以上のような経緯を経て明治19年6月内務省令をもって初めて日本薬局方が発布され、明治20年7月から施行された。

 日本薬局方編集総裁および委員は次のような人々であった。総裁は元老院幹事細川潤次郎、委員は陸軍軍医総監松本順、同軍医監林紀、海軍軍医総監戸塚文海、一等侍医池田謙斎、内務省衛生局長長与専斎、東京大学医学部教授三宅秀、海軍中医監高木兼寛、陸軍二等薬剤正兼二等軍医正永松東海、柴田承桂、東京司薬場教師オランダ人エーキマン、横浜司薬場教師オランダ人ゲールツ、東京大学医学部教師ドイツ人ベルツおよびランガルト、オランダ人ブッケマン。

 このようにして薬局方が準備されていったが、依然として医薬品は輸入にたより取り締まり難しく、日本薬局方に適合したわが国独自の薬品を製造することが必須となり、明治18年衛生局監督の下に国庫援助の大日本製薬会社が開業し、ここから近代製薬業が始ることになる。

 ●医学教育制度の確立

 1874年(明治7年)に教育令が発布されて文部省が刷新されると、先にも出てきたドイツ医学導入に功績のあった相良知安等は医務局長や東京医学校長等を罷免され、新たに長与専斎がこれらの後任に任命された。

 まず医学校の移転から始まった。最初、藤堂氏の藩邸跡にあった医学校を、相良は現在の上野公園に移転しようと計画したが、この上野境内は歴史上重要でしかも市内有数の景勝地であり首都の第一公園にすべきとのボードウインの意見に従い、現在の加賀藩前田氏跡に移転することを決めた。

 明治9年(12月)には開校式を行い、1878年(明治11年)には第1期の医学士が誕生している。ここで医学教育は一段落し、専斎は衛生業務に専念すべく校長(このときは校長は綜理となっている)に、先にでたボードウイン時代の同僚池田謙斎を推薦し、専斎は副綜理になっている。

 次に医師の試験制度について、明治政府の医療制度が確立されるまで、わが国の医師のほとんど(3万人近く)は父子師弟相伝の漢方医で、西洋のことは忌み嫌い、自分達の流派や家伝を頑固に守り、まるで宗教信徒のようであると、専斎はいっている。

 このような状態のなかで試験を実施するのは困難と思われたが、医務衛生の根本問題であり試験を急いだ。それは1875年(明治8年)2月の事であった。試験科目は物理、化学、解剖、生理、病理、内科、外科及薬剤学であった。今後医師になろうとするものはこの試験に合格し免状を与えられ、今まで開業していた者は試験なしで免状が与えられる、ということが文部省より東京、京都、大阪の3府に達せられた。

 このときの受験者に落第した者はいなかった。その後いくつかの改革を経て1883年(明治16年)に試験規則を医師免許規則に改めるなどして大体の基礎ができた。このとき中央政府に試験委員を設け、東京、京都、長崎の三地方で春秋に試験が実施された。漢方医からの抵抗は避け難いことであった。

 1886年(明治19年)には、女子としてわが国最初の医籍登録者、荻野吟子が誕生している。荻野は、東京女子師範学校を卒業したあと私立医学校好寿院を終了し、内務省の医術開業試験を受けようとしたところ、受験を拒否され、専斎の尽力で受験が認めらている。

 1900年(明治23年)薬品取締の規則が制定されたころ医薬分業論が起ってくる。このころ処方の調合と劇毒薬品の取扱は薬剤師が、自家患者への薬剤の調整は医師が行っている。

 長与専斎には、この他、コレラ対策、水道、下水システムの完備等々、衛生行政に関わる多くの功績がある。

 ●家 系

 長男・長與稱吉も医師であり、専斎の功により男爵を授けられた。二男・長與程三は実業界に進み、日本輸出絹連合会組長。三男・長與又郎は病理学者で東京帝国大学総長、男爵。四男・岩永裕吉は同盟通信社の初代社長。五男・長與善郎は白樺派の作家、劇作家。

 専斎は3才で大村藩五教館で漢学の修業を初め、その後16才で祖父の勧めにより緒方洪庵の適塾(適々塾)に入門している。