夜明け前  ドイツ医学の採用と相良知安

 ドイツ医学採用の必要性について、相良知安が説いた相手は誰だったのか、資料が少ないのではきりとは言えないが、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、後藤象二郎・鍋島閑叟、山内容堂であったと思われる。この席に西郷隆盛は鹿児島に帰っていていなかった。また、後押ししたのが同藩の大隈重信である。

 戊辰戦争まで最大の実力者は西郷隆盛であったが、戦後は大久保利通が新政府を主導する中心人物となり、西郷隆盛との関係は微妙になっていく。そして大久保利通が最も頼りにしたのが木戸孝允である。このような状況下でドイツ医学の採用が決定された。

「相良知安」(さがら・ともやす1836〜1906)

 相良知安は天保7年佐賀藩医の相良柳庵の子として生まれた。佐賀で蘭学を学んだ 後、佐倉順天堂の佐藤尚中のもとで外科学を学んだ。さらに長崎に国内留学し精得 館でオランダ人医師ボールドインに学んだ。その後佐賀に戻り、藩主鍋島閑叟の侍医 となり、明治維新後、閑叟に随い上京した。

 明治2年医学校取調所御用掛を命じられた。この地位を生かして政府に岩佐純とともにドイツ医学の採用を提言したのである。

 明治3年冤罪により投獄されたが、明治5年無罪となり、同時に第一大学医学校長(東大医学部の前身)に就任、翌年初代の文部省医務局長を兼任した。

 1872(明治5)、文部省内に医務課が設置。初代局長は相良知安。
 1872 8/3、相良知安、医学校校長兼文部省医務局長に。
 1873 6/13、相良知安、医務局長罷免。代わりは長与専斎。
 1874 9/30、相良知安、医学校校長罷免

 その後、しばらく文部省に籍を置いたが、野に下った。後半生は不遇であり、生活費にも困るような状況で、明治39年(1906)に亡くなった。

 なお、冤罪の理由は、山内容堂の怒りのためとか、藩閥政治の政争に巻き込まれたためとか言われているが、明確ではない。

 東大病院の東側、池之端門の近くの高台、看護寮のある木立の中に、相良知安の顕 彰碑が立っている。

相良知安

相良知安

相良知安

相良知安