夜明け前  ドイツ医学の採用に薩長土肥の思惑
 ドイツ医学の採用について、佐賀藩徴士相良知安は、激烈な態度でイギリス医学の阻止をはかった。吉村昭『日本医家伝』には、知安の「激烈な態度」は、大政奉還にも重要な役割を果たした土佐藩主・山内容堂(イギリス医学採用を奨める中心人物)に対し、「言葉は荒々しく」「すさまじい口調」で迫り、藩主鍋島閑叟にたしなめられたとある。

 一介の徴士に過ぎない相良知安が、それほど大きい態度に出られたのは、薩長土肥と四番目に位置づけられているが、戊辰戦争に貢献した佐賀藩をバックにしていたからだ。 ドイツ医学の採用は、長州・肥前(佐賀)と薩摩・土佐との争いでもあった。


「薩長の争い」

 このような時代背景で、当然イギリスは新政府がイギリスの影響を強く受けねばならないと思っていた。蘭学が医学と同義語のように、イギリスの学問はイギリス医学と同義語であらねばならなかった。医学をイギリスにすることにより、日本の西洋文明はイギリスの影響下に置くことが出来ると、パークスは思ったのである。

 薩英戦争以後、イギリスと親密な仲にあった薩摩藩はイギリス医学こそ日本の目指す医学であると思った。そして、その希望にウィリスは戊辰戦争でその持てる医学でしっかりと答えたのである。

 しかし、長州藩は薩摩藩とは考えを異にした。薩摩と長州は犬猿の仲であった。もし、イギリス医学を日本が取り入れたなら、ますます薩摩藩の力は強くなり、イギリスの日本における影響力も強くなるであろう。当時のイギリスは中国を始め、東洋で一番力を持っていた国であった。イギリスの力を日本から駆逐しなければならない。その為にはイギリス医学を日本から排除しなければならない。

 では、どの国の医学を日本は採用すれば良いのであろうか。この事こそ新政府内部の長州藩首脳が抱える最も大きな問題であった。この当時は医学こそその国の文化や科学の象徴であったのである。薩摩藩の言うとおりイギリス医学を採り入れれば、イギリスの影響を強く受けるのである。その事を長州藩は恐れた。

 既に江戸幕府は日本の医学をオランダ医学にすることを考えていた。だからこそオランダ商館の医師であるポンペに医学所の林洞海と伊東玄朴の息子である、林研海、伊東方成を預け、オランダに送ったのである。

 長州は江戸幕府がポンペの後任者であるボードウィンと交わした契約を無視することは出来ない。だから江戸幕府の方針どおりオランダ医学を日本の正式医学にしようと当初は考えていた。しかし、イギリス医学を推す薩摩との摩擦は避けねばならなかった。

 この当時、オランダ医学の教科書はドイツ医学の翻訳であることが多かった。そして、日本の蘭学の発展に大きく寄与したシーボルトはドイツ人であることも、その決定に大きく関わっていたであろう。結果的にはドイツ医学が正式に日本の医学として採用されたのである。

 この決定に破れたウィルスは征韓論で敗れた西郷隆盛と伴に鹿児島に向かった。のち西南戦争で西郷隆盛が非業の死を遂げると、日本でのイギリス医学の敗北は決定的なものとなるのである。

 ドイツは維新当時には東洋での権益を全くと言って良いほど持っていなかった。ドイツ医学を日本が取り入れても、ドイツの影響が日本に及ぶことはないと考えたのである。長州藩の思惑どおりドイツ医学を取り入れることにより、日本はイギリスやフランスの影響力を排除することに成功した。

 以後、大日本帝国憲法を始めとして、日本はドイツの考え方で政策の決定を行うようになる。この考えは特に長州を中心とした陸軍に強かった。

 逆に、西南戦争で敗れた薩摩はその政治的勢力は衰えた。やむなく薩摩は当時の軍隊の中心である陸軍に対する影響力を放棄せざるを得なかった。薩摩は海軍を中心に勢力を伸ばしたのである。後述するが、高木兼寛はこの流れの中で活躍することになる。

 海軍は当然イギリスの影響力を強く受ける事となる。もし、新政府がイギリス医学を取り入れ、西郷隆盛の西南戦争が無かったら、その後の日本医学史、いや日本史は大きく変わっていたであろう。

「鍋島家 35万7千石」

 肥前佐賀藩は、35万石の大藩である。維新後「薩長土肥」といって藩閥政府の一角を占めているが、薩摩や長州、土佐にくらべて、幕末期に活躍したという印象がないし、常に4番目に呼ばれる存在でしかない。どのようにして、その地位を得たのか。その秘密は、当代きっての国際通にして、「二重鎖国」をとりつづけた異色の名君・鍋島閑叟の存在にあったのである。

 天保元年(1830)、鍋島閑叟は肥前佐賀藩の藩主となった。佐賀藩の財政もひどいもの。閑叟、江戸から帰国しようとした当日に、借金取りが押しかけて、出発を延ばさなければならなかったという。藩政改にあたってまずすべきことは財政再建だった。そのためには藩主の権力を強くする必要がある。佐賀には小城、蓮池、鹿島の支藩があったが、それらの権限を奪って、代官の権限を強化、こうして中央集権的な体制を築いて、藩主による改革を推し進める基磐を作っていった。

 閑叟は、有明海干拓や農地改革を断行して、農業生産性を向上させるとともに、綿花栽培、砂糖製造、磁器製造などの殖産興業政策を推し進め、ほかにも、櫨・楮・海産物などを生産して領外へ売り出した。なかでも重要なのは、松浦郡山代炭坑や、高島炭坑、杵島郡福母炭坑などの石炭の採掘で、これを輸出して大きな利益を上げるこができた。

 大阪商人からはそろばん大名と呼ばれるほどであった。しかし、これらの貿易で得た利益を軍事費に充てた。もし本気で佐賀藩が軍事行動を起せば、日本を統一できるだけの軍事力があった。これによって、軍事の近代化をはじめとする藩政改革を行うことができたのである。他藩の改革は、優秀な家臣によって行われたが、佐賀は藩主みずからが改革の推進者だったのである。

 佐賀藩の特殊事情は、福岡藩とともに、1年交代で、長崎警備を担当していたことだった。外国船来航が増えてくると、海防の必要性からも、軍備の近代化を急がねばならない。二か所に反射炉を作って大砲を量産することに成功し長崎港内の砲台を整備して、港外の伊王島、神ノ島にも砲台を建設した。

 幕府のために多数の大砲を製造もしており、ペリー来航に慌てた幕府が、大砲製造の技術者を佐賀藩から借り受けたほどだから、その技術水準は日本一であり、佐賀藩は、いわば当時の日本の大砲工場なのであった。しかし、その技術は秘密とされ、津軽・土佐・長州から技術援助を求められても、それをすべて断っていたほどだ。

 長崎に海軍伝習所ができると、伝習生140名のうち幕府派遣が40名なのに対して、佐賀藩は48名も派遣している。彼らはとくに優秀だったといわれ、彼らがもととなった佐賀の海軍は日本一の海軍といわれた。また、閑叟は、長崎を通じて海外の情報も入手しており、橋本左内の幕政改革案で外国事務宰相に擬せられるほどの国際通で、彼自がオランダ船に来りこんで操縦法をたずねるなど、西欧技術への好奇心は強く、蘭癖大名とも呼ばれていた。

 その積極的な好奇心はとどまるところを知らず、安政3年(1856)には、藩士島義勇を箱館に派遣して蝦夷地を調査させ、開港したばかりの箱館での対外貿易の可能性を模索していた。ほかにも、幕府の遣米使節など機会があれば藩士を送り、西洋の知識を求めていた。ところが、閑叟は、改革を通じて藩の力を蓄え、さらに、独裁的な権力を持ちながらも、他の雄藩の藩主たちのような、幕政や朝廷の政治工作に、まったく興味を示さなかった。それどころか、せっかく多数の藩士を長崎海軍伝習所へ派遣して、航海術をはじめ近代科学を学ばせながら、軍事技術の他藩への移転を防ぐため、他藩との交流を禁ずる、「二重鎖国」政策をとりつづけた。目は海外に向いていても、一国内では閉ざされていたというわけである。

 文久2年(1862)、尊王擾夷派と公武合体派の確執が高まるなかで、佐賀藩の存在は重みを増し、朝廷からも、幕府からも、協力要請があった。閑叟は、隠居した気楽さからか、ついに中央政界進出、要請に応じて上洛し、朝廷と幕府間の調整につとめた。海外事情に明るい閑曳が攘夷であるわけはなく、公武合体派だった。

 これをチャンスと、二重鎖国の佐賀藩を飛び出したのが江藤新平だった。江藤は、嘉永3年に結成された尊王攘夷派の秘密結社・義祭同盟に加わり、そこで他藩の尊攘派の動きに刺激されての脱藩だった。この義祭同盟とは、副島種臣の兄の国学者枝吉神陽が結成したもので、藩を否定して、朝廷を中心にした国家をめざした。江藤や副島のほかにも、大木喬任、大隈重信と、のちの明治政府の要人たちがメンバーに揃っていた。

 閑叟は、体力の衰えもあり、また、他藩との折衝もスムーズにいかず、早々に佐賀へと引き揚げてしまった。江藤のほうは、京都で桂小五郎とともに活動、まず藩論を変えることが先決と、佐賀へ戻った。しかし、二重鎖国を破っての脱藩によって永蟄居が命ぜられ、他の義祭同盟のメンバーも、藩内にとどまって目立った行動を起こしていなかった。

 しかし、慶応3年(1867)12月、王政復古の大号令が下されると、さすがの佐賀藩も、あわてて江藤を上京させた。しかし、佐賀藩の軍勢は鳥羽・伏見の戦いに間に合わなかった。ようやく、佐賀藩の軍事力がその威力を示したのは、上野の彰義隊を攻撃したときだった。佐賀藩の最新鋭アームストロング砲の砲撃によって、勝負はたった一日で決着がついたのである。これ以後の戊辰戦争でも、佐賀藩の近代的な装備は大いに活躍した。

 こうして佐賀藩は、どうにか薩摩、長州、土佐に次ぐ4番日の地位を得ることができたのである。閑叟は、幕政改革に提言することも、参与会議に出席することもできたし、最新の技術と軍事力に裏付けられた実力もあった。しかし、動かなかった。結局、閑叟にとっては、日本よりも藩のほうが重要だったのだろう。

 閑叟のこの間の立場は、日和見主義とか二股膏薬とか言われているが、彼の独裁と二重鎖国政策が、藩内の派閥抗争や、志士たちの無謀な拳丁兵への参加を、未然に防ぐことになった。その結果、多くの優秀な人材を失わないまま、新政府に送りこむことができたのである。

 注「徴士(ちょうし)」
 「明治元年から同2年までの間、各藩の藩士や地方の有才の者で朝廷に召し出された者の称」(『日本国語大辞典』より)