夜明け前  ドイツ医学の採用

 ドイツ医学の採用に先立って、明治元年には新政府によってイギリス医学の採用が決定されていた。これは、戊辰戦争に従軍したイギリス人医師、ウイリアム・ウイリスの敵味方区別することのない献身的な活躍があったからである。先ずは時代背景として戊辰戦争から稿を起こすことにする。

「戊辰戦争とは」

 明治元年(1868)は、鳥羽・伏見の戦いから箱館戦争まで戦争に明け暮れた1年であり、これを戊辰戦争という。前年の慶応3年10月14日(1867年11月9日)15代将軍の徳川慶喜は公議政体論に基づき、二条城で大政奉還を行い、12月9日(1868年1月3日)、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた薩摩藩兵ら5藩の軍で京都御所9門を固められた。

 御所への立ち入りは藩兵によって厳しく制限され、驚いた二条摂政や朝彦親王なども参内を禁止された。そうした中、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内し、御所内学問所において明治天皇臨席の元、王政復古の大号令が下された。これを契機として、鳥羽・伏見の戦いが始まる。

「鳥羽・伏見の戦い」

 慶応4年1月3日-6日(グレゴリオ暦1868年1月27日-30日))は、戊辰戦争の緒戦にあたり、京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた戦いである。

 開戦に積極的で無かったとされる慶喜は大坂城におり、旧幕府軍の敗戦が決定的となり、7日には慶喜に対して追討令が出た報を聞くと、その夜僅かな側近及び老中・板倉勝静、同・酒井忠惇、会津藩主・松平容保・桑名藩主・松平定敬と共に密かに城を脱し、大阪湾に停泊中の幕府軍艦・開陽丸で江戸に退却した。旧幕府軍の総大将の徳川慶喜の撤退と、新政府軍の砲兵力、新政府軍の優勢により多くの藩が旧幕府軍を見限ったことで、旧幕府軍の全面敗北となった。以後、戊辰戦争の舞台は江戸市街での上野戦争や、北陸地方、東北地方での北越戦争、会津戦争、箱館戦争として続く。

「上野戦争」

 慶応4年5月15日(グレゴリオ暦1868年7月4日))は、江戸上野(東京都台東区)において彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦いである。

「会津戦争」

 慶応4年および明治元年(1868年)に起こった戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩、長州藩を中心とする明治新政府と会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府勢力との間で行われた戦いである。主に現在の福島県、新潟県、栃木県が戦場となった。なお、同時期に進行していた長岡藩をめぐる戦いは北越戦争として区別される場合が多い。

 会津藩は若松城に篭城して抵抗し、佐川官兵衛らは開城後も城外での遊撃戦を続けたが、9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。孤立した会津藩は明治元年9月22日(11月6日)、新政府軍に降伏した。同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が降伏したのはその2日後である。旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった(箱館戦争)。

「箱館戦争」

 慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年)5月18日には本陣五稜郭も降伏し、亀田八幡宮で総裁榎本武揚ら旧幕府軍幹部と新政府軍の陸軍参謀黒田清隆(了介)との間で終戦調停が行われ、箱館戦争および戊辰戦争は終結した。

 イギリス公使も初代のオールコックは幕府に援助していたが、次ぎのイギリス公使であるパークスは、薩英戦争によって薩摩など雄藩の実力と、幕府の衰退を知ることになった。以後、パークスは薩摩や長州を援助、逆にフランスは幕府を援助して、戊辰戦争はイギリスとフランスの代理戦争の様相を呈していた。

 フランスは幕府に前面協力を約束していたのである。もし幕府と薩長が戦えば日本はフランス、あるいはイギリスの植民地になっていたかもしれない。しかし幸いにも徳川慶喜が、天皇に対して恭順の態度を示したために、日本はフランスやイギリスの影響を排除することが出来たのである。もし、徳川慶喜が全面戦争を決断していたら、日本史は確実に変っていたであろう。徳川慶喜の功績は現代の日本人にとって計り知れない。


「ウィリアム・ウィリス」

 英国人医師ウィリアム・ウィリス(1837〜1894)は1837年5月1日、北アイルランドフアマナー郡エニスキレンの郊外で生まれた。1859年エジンバラ大学医学部を卒業後、ロンドンのミドルセクス病院での臨床外科医として働き文久元年(1861)24歳で英国公使官付医官兼書記として来日した。

 1862年の生麦事件の際には、殺害された英国商人リチャードソン治療のため横浜外国人居住区から馬で生麦まで駆けつけた一人といわれている。

 1864年の天然痘の大流行では、横浜に作られた急場の痘瘡病院の責任者として、天然痘を制圧するために働いた。1868年鳥羽伏見の戦いが始まると、ウィリスの実力は如何なく発揮される。

 戊辰戦争では、薩長の兵士の中で多くの負傷者が出たために、薩摩軍の司令官の大山巌は当時兵庫にいたウィリスに負傷兵を診療するように、イギリス公使のパークスに許可を願い出た。パークスは「人間の苦悩を和らげる仕事ならいつでも喜んで協力します。」と答えた。

 ウィリスは兵庫から京都に向かうが、当時の京都は外国人が入る事を禁じられていた。やむなくウィリスは大阪で足止めを食らうが、西郷隆盛の努力により、ウィリスは京都に入る事ができた。

 京都の相国寺には、鳥羽伏見の戦いでの負傷兵があふ溢れていた。その中に西郷隆盛の弟、西郷従道がいた。彼の治療に当ったことで、のちウィリスと西郷隆盛との親密な友好が生まれる事となる。

 横浜に帰ったウィリスは江戸での彰義隊と薩長軍との戦いで負傷した兵士たちの治療に当る事となる。最初は江戸の東禅寺で負傷兵の治療に当ったが、ウィリスがイギリス副領事としての公務があるため、負傷者を横浜に移す事になった。ちょうどその時、イギリスから医師であるシッドールがイギリス大使館に赴任していた。

 新政府はイギリス大使館にシッドールを江戸に派遣するように要請、シッドールは江戸の籐堂屋敷に臨時の軍病院を作ることになった。シッドールも江戸の臨時軍病院で目覚しい働きをした。

 戊辰戦争がさらに北に広がり、会津城での戦いとなるとウィリスは医師として従軍した。この時、幕府軍に従軍していたのが松本良順であった。ここでウィリスは奇妙な光景を目の当りにする。彼の従軍記録には次ぎのように記されている。

 『私は会津の負傷兵がほとんど運び込まれてこないことに気付いて、"敵だからといってみだりに人を殺すことは人道に反する。"と機会あるごとに主張した。しかし、会津軍は天皇の権威をないがしろにして侮辱したのだから、負傷兵といえども助けるわけにはいかないのだ。"と新政府軍の兵士たちは言った。』

 この考えにウィルスは「病人に敵も味方もいない」と猛反対したという。高木兼寛も会津に出兵しそこで西洋医学とくに外科手術のすばらしさを目の当たりにすることになった。

 会津での戦いが終わるとウィリスは江戸の籐堂屋敷にあったシッドールの軍病院を一般病院に変え医学所として西洋医学の教育の場にすることを主張、イギリス公使のパークスも援助した。彼等の主張は新政府に取り入れられ、幕府の医学所を「医学校兼大病院」として復活させることにした。ウィリスは明治2年(1869年)31歳の若さで東京医学校兼大病院の院長に就任した。

 しかし、同年五月に新政府の医学取調御用掛、佐賀藩相良智安、福井藩岩佐純の二人が英国流の臨床重視の医学教育・医療制度ではなく、伝染病研究主体のドイツ医学の採用を強固に主張しその意見が採用された。オランダ医学も多くをドイツ医学を模範としていたためというのがいうのがその理由であった。そのためわずか二ヶ月で院長の職を辞さねばならなくなった。

 同年12月、西郷隆盛はウィリアム・ウィリスの官軍時代からの恩に報いるため不遇な処遇に対し、高給で鹿児島医学校兼病院(鹿児島大学医学部の前身)へ迎え入れることにした。ここで高木兼寛は2年間ウィリアム・ウィリスから英語と医学を学ぶことになる。