夜明け前   西洋医学の導入

 日本の近代医療と医療制度の改革は明治維新によって大きく前進する。つまり漢方医学から西洋医学への転換である。幕末、西洋医学といえばオランダ医学(蘭学)であった。シーボルトの来日以来、西洋医学を志す者は長崎へ遊学した。ここでしか学べなかったからである。

■ シーボルトの来日

 シーボルトが初来日し、滞在したのは江戸時代の文政6年(1823)から文政12年(1829)の7年間である。この時代は化政年間と呼ばれ、江戸時代の文化的な欄熟期のひとつで,伊能忠敬、上田秋成、十返舎一九、小林一茶、歌川豊国などの文化人が活躍した。政治的にも一種の小康状態にあり、健康・医学に対する関心も高かった。

 独立を回復したオランダは、1814年に日本との貿易を中国とともに独占していたオランダ領東インドの統治権をイギリスから売買の形式で譲り受けた。国家財政の立て直しを図るため、貿易の純益がもっとも大きかった日本との関係を一層深めることに力をいれることを政策としたのである。

 その一環として、日本の歴史、国土、社会制度、物産などについての総合的な自然科学的調査を行う方針が検討された。これは、対日貿易の振興に向けての1種の対策であったが、同時にオランダに対する日本側の受けを良くするための日本への文化的貢献もその視野に入れてのものだった。

 そこで、オランダは日本でとくに歓迎される医学と博物学の振興に力を入れる政策を打ち出した。これは,すでに指摘されているようにその当時の日本医学は漢方主流で,ヨーロッパの新しい医学の知識や技術の移入が遅れていること。また、こうした最新の医学知識・技術の教授が渇望されていたことへの的確な対応である。

 シーボルト家は中部ドイツ出身の名門で、多くに学才が認められ、とくに医者や医学教授を多く輩出している。彼の家系も祖父の代から貴族に列せられていた名門で、父クリストフはヴュルツブルクの大学教授で、ユーリウス病院の第一医師であった。しかし、シーボルトは2歳のとき父を失った。母、アポローニアは9歳になった彼を伴い、市の南西の郊外に移り、13歳でヴュルツブルクの高等学校に入学するまで、シーボルトはこの地で過した。

 卒業と同時に大学に進み医学を学んだ。ヴュルツブルクでは、父の友人でもあり博物学に造詣の深かった。解剖学と生理学のイグナーツ・デリンガー教授の家に下宿した。そして1820年に優秀な成績で卒業すると、母が住み、彼自身も幼児を過ごしたハイディグスフェルトで医者として開業した。

「オランダ領東インド陸軍勤務」

 シーボルトは、自分が名門の貴族の出だという誇りと自尊心が強かったと言われている。それが彼をして一生を町の開業医として終わることを許さなかったのだろう。このシーボルトの性格をよく知っていた伯父は、一族の旧友で現在オランダ陸海軍軍医総監兼国王ウィレム一世侍医でもあるフランツ・ヨゼフ・ハルパウル(Franz Joseph Harbaur)にシーボルトの就職について斡旋を依頼した。オランダ領東インド陸軍勤務の外科軍医少佐という職をハルパウルはシーボルトに斡旋し、ここにシーボルトとオランダとの関係が芽生えることになる。

「特別の任務を帯びて日本に派遣される医師」

 1822年9月にオランダのロッテルダムを出航した乗船「ヨンゲ・アドリアナ」(Jonge Adriana)号は、およそ5ヶ月でジャワ島のバタヴィアに到着し、ここでシーボルトは砲兵連隊の軍医に配属された。しかし、彼はすぐに総督のファン・デル・カペレン男爵(Goderd Alexander Gerard Philip van der Capellen)の目に止まる。カペレンよりシーボルトはバタヴィア芸術科学協会員に任命され、前に述べた特別の任務を担って日本に派遣させられる医師に抜擢された。

 カペレンはシーボルトに日本でのあらゆる種類の学術調査の権限を与え、総督府がこれに要する経費を負担すること、収集した資料の所有権はオランダ政府にあることについての契約をシーボルトとの間に結んだ。

「オランダ海軍軍医が教えてくれた近代西洋医学」

 日本は鎖国状態であったとはいえその当時の世界情勢を、少なくとも一部の幕府高官はかなり正確に把握していたようである。それらはオランダを通じて蓄えられた知識に他ならない。とは言え1853年(嘉永六年)、唯一の窓口「長崎の出島」ではなく浦賀沖に現れたペリー率いる四隻の黒船が幕府に与えた衝撃がいかに大きなものであったかは想像に難くない。

 幕府がまずなによりも海防の充実を図ることを考えたのは当然のことであろう。早速、長年友好を続けてきたオランダに協力を求め、軍艦の寄贈と二隻の軍艦建造、並びに海軍教育班の派遣などの話し合いが成立した。オランダにとっても日本との交易拡大は有利だと考えたのであろう。

 1855年(安政二年)、軍艦スームビング号(日本名観光丸)がオランダ国王からの贈り物として幕府に寄贈された。この船の乗員、ライケンらは教師となり、長崎に開設された海軍伝習所で、第一次海軍伝習は始まった。この年に来日したオランダ軍医ファン・デン・ブルック(Jan Karel van den Broek)は長崎奉行からの依頼を受け、長崎通詞達に化学・物理学の伝習を始めたが、断片的な「科学教室」といったものであったらしい。

 オランダ人の先生が日本語を話すわけもなく、通詞という通訳を介しての、または通詞自身が生徒であった。海軍伝習には幕府のみならず、各藩からも伝習生が参加することができた。筑前藩から長崎に来ていた河野禎造は我が国最初の無機分析化学書「舎密便覧」(1895年)を著した。この本はドイツの分析化学者 H. Rose の Handbuch der analytischen Chemie が原本である。オランダの H. Kramer Hommes が翻訳して1845年に出版したものをファン・デン・ブルックが門弟の河野に与え、彼はこれを翻訳した。第一次海軍伝習は1857年に終了した。

■ 第二次海軍伝習とポンペの来日

 1857年(安政四年)、カッテンディケを隊長とする第二次海軍伝習の派遣教官団37名が、ヤパン号で来航した。咸臨丸(もともとの名前はヤパン号)は幕府がオランダに頼んで造ってもらった船で勝は第一次海軍伝習で中心的役割を果たした。その咸臨丸は第二次海軍伝習の派遣教官団を乗せて長崎にやってきた。この中に、幕府の軍医派遣の要請に応えてカッテンディケが選んだオランダ海軍二等軍医ポンペが入っていた。ポンペこの時若干28歳。彼はその時から5年間にわたり日本に滞在し、日本の医学教育に大きな一歩を標すことになる。

 一方ポンペを迎える日本側の中心として活躍したのは松本良順である。松本良順は下総佐倉の生まれで順天堂医院の開祖、佐倉藩医佐藤泰然の次男として生まれた。幕府医官松本良輔の養子となり長崎に来ていた。この当時は蘭方禁止の時代で漢方医が力をもっていたようで、松本良順も表向きは漢方医であった。なお松本良順は後、明治維新に際しては養家の関係から幕府方についたが、その後許されて病院を設立したそうである。やがて山懸有朋に知られ、陸軍軍医部の編成に努め、1873年(明治六年)初代の陸軍軍医総監となった。「養生法」「通俗衛生小言」などを著し、晩年は趣味人として自適の生活を送り、1907年(明治四十年)没した。

「医学伝習の始まり」

 やがて、第二次海軍伝習が始まり、海に囲まれた日本の海岸を守るため咸臨丸に乗り込んだ伝習生達は波にもまれながら日夜海軍伝習に打ち込み始めた。一方、日本の長崎の地を踏みしめたポンペは松本良順らに迎えられ、医学の医の字はおろか、その土台となるべき基礎科学の知識にさえ乏しい者たちに、西洋医学を文字通り一から一人で伝えようと悪戦苦闘を始めた。

 1857年(安政四年)11月12日、出島の前にあった長崎奉行所西役所の医学伝習所(現在の長崎県庁所在地)で医学伝習(医学教育)は始められた。なお、長崎大学医学部はこの日を創立記念日としている。医学伝習が始まって間も無い1857年12月末には、ポンペは長崎に天然痘が蔓延しはじめたので公開種痘も開始している。はじめは海軍伝習の一部として始まったこの医学伝習であったが、1860年(万延元年)には海軍伝習が終了し、カッテンディケ隊長以下の隊員は帰国した。ポンペとハルデスは残り、医学伝習所は長崎の街を見下ろす東方の丘の小島郷に場所を移して医学所となり、その隣には日本最初の洋式病院である養生所が設置された。

「ポンペの医学伝習」

 ポンペに課せられた使命は日本人に西洋医学、つまりポンペの学んだ医学を教えることであった。ポンペが偉かった点にうわべだけの医学術を教えたのではなく、物理、化学等のいわゆる基礎科目を含めて解剖学、生理学、病理学等の講義から系統的な医学教育を始めたことがあげられる。

 現在では医学部の学生が基礎科学科目の勉強からスタートするのは当然のことであるが、当時の日本では基礎科学の知識レベルが著しく低かった(ほとんどなかった?)ことを考えると、極めて困難な道を選んだわけである。医学伝習においては西洋医学のイロハも知らない伝習生に言葉の壁を乗り越えて立ち向かわなければならなかったのである。教える側、教わる側の困難と苦労は計り知れない。この難業を若くして成し遂げたポンペの偉業は強く、高く称賛されるべきである。

「ポンペのカリキュラム」

 ポンペが長崎で教えた医学はポンペ自身の学んだものである。ポンペのカリキュラムが知られているが、明らかにポンペの出身校であるユトレヒト陸軍軍医学校のカリキュラムに準拠したものであることがわかる。採鉱学が含まれているのは長崎奉行の要望に応えた結果のようである。軍医学校の特徴である、理論と実地能力のバランスのとれた医師の養成が長崎にも受け継がれた。そのため内容は臨床的であり、しかも救急治療に直ちに役立つような実学であった推測されている。

 ここでは一日わずか3時間の講義だが、最初は言葉の問題が大きく、後半の臨床医学の講義は一日8時間にも及んだ。何度も繰り返すが言葉の壁は如何ともなしがたい。オランダ語の堪能な松本良順、司馬凌海そして佐藤尚中は、昼にあったボンペの講義をもう一度夜復講して他の学生の理解を助ける努力をした。

 ポンペによる医学伝習はそのものが日本ではじめての系統的なものであるが、医学教育の歴史から見て重要なはじめてがいくつかある。その一つが1859年9月(安政六年八月)に西坂の丘の刑場で三日間に渡って行われた日本初の死体解剖実習である。ポンペはその後も死体解剖を行っているが、その見学者の中にはシーボルトの娘お稲(楠本いね)も混じっていた。この解剖実習は簡単に実現したものではなく、その許可が下りるまでは、図版をパリから取り寄せた紙製の人体解剖模型(キュンストレーキ)によって説明していた。

〇 病院「養生所」

 1861年8月に日本で最初の西洋式の病院である養生所が医学所と並んで設置されたことである。養生所設置への道のりも易しいものではなかった。日本滞在の5年の間、ポンペは数多くの患者を治療し、猛威を振るったコレラとも戦った。コレラの治療法としては、キニーネとアヘンを配合したものを飲み、入湯することであった。ポンペの努カは、漢方医の治療を上回る成果を挙げコレラも沈静化したので、長崎の町の人々はポンペに次第に信頼と尊敬を寄せるようになっていった。

 養生所は医学校(医学所)に付置された日本で最初の124ベッドの西洋式附属病院である。ポンペは多くの日本人医学生に対して養生所で系統的な講義を行い・患者のベツドサイドで医の真髄ともいうべきものを教えた。その教え子達によって本邦に西洋医学が定着したので、近代西洋医学教育の父と称されている。

 ポンペの著書に、次のような学生を教え諭した言葉が記されている。「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んた以上、もはや医師は自分自身のものでほなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい。」ポンペのこの言葉は医学を志す学生のみならず、医療の一翼を担う薬学部の学生にとっても共通の言葉である。ボンペは後任ボードウィンの着任を待って1862年11月に帰国したが、最後に学生に卒業証書を手渡している。

■ ボードウィンの来日

 ポンペの創設した長崎の医学校、養生所の二代目オランダ人医学教師として、1862年(文久二年)に来日したのがボードウィン(Bauduin Antonius Franciscus)であった。ボードウィンもポンペの教育方針を継承して、医学と同時に理化学も教授した。 k ボードウィンは、ユトレヒト陸軍軍医学校で生理学教授として、学生であったポンペを教えている。ボードウインは高名なドンデルスと共に生理学の教科書を著していて、ポンペはその著書を養生所の講義に用いていた。

 ポンペの帰国後、長崎の医学校、養生所の二代目オランダ人医学教師として、1862年(文久二年)に来日したのがボードウィン(Bauduin Antonius Franciscus)であった。ボードウィンもポンペの教育方針を継承して、医学と同時に理化学も教えた。

 ボードウィンは、1822年ドルトレヒトの生まれで、1843年ユトレヒト大学を卒業し、グロニンゲン大学で医学博士となっている。ユトレヒト陸軍軍医学校の教官として、学生であったポンペを教えている。ボードウインは高名なドンデルスと共に生理学の教科書を著していて、ポンペはその著書を養生所の講義に用いていた。

 出島に在住していた弟のオランダ貿易会社駐日筆頭代理人アルベルト・ボードウインの薦めにより、教え子ポンペの後任として1862年に養生所教頭となった。ボードウィンは生理学だけでなく、外科手術学の教科書や検眼鏡の使用法を蘭訳本にするほど、臨床的知識が豊富で医学全般を教授できた能力を持っていたようである。

 長崎大学医学部にはボードウインの生理学、眼科、内科の講義録が残されている。生理学の講義録を読むと最新の惜報を含み、臨床的知識を織り込みながら生理学全般にわたった素晴らしい内容である。例えば「交感神経と蔓延(迷走)神経が心臓を拮抗的に二重支配しており、蔓延神経をエレキで刺激すると心臓は止まり、切断すると交感神経が優位となり心拍数が増加すると教えている。交感神経と迷走神経の拮抗性は脳脊髄神経や交感神経の電気刺激が行われるようになった19世紀中頃に明らかになった新知見である。」と述べられている。特に眼科術に優れていたことは多くの本に記されている。

 ボードウィンはまた物理、化学の教育を医学教育から切り離して独立させることを幕府に進言し、1864年(元治元年)八月に養生所内に分析究理所が新たに設けられた。当時の言葉で、分析は化学、究理は物理のことで、分析究理所とは理化学校という意味である。分析究理所は1865年末に完成し、養生所は精得館と改称された。ボードウィンはこの分析究理所に理化学専門教師としてオランダからハラタマを招くこととし、1866年長崎に着任している。

■ ハラタマの来日

 クーンラート・ウォルテル・ハラタマ(Koenrad Wolter Gratama)は、1831年4月25日にオランダのアッセンで十一人兄弟姉妹の末弟として生まれた。父は裁判官で後にアッセン市長にもなっている。ハラタマはユトレヒトの国立陸軍軍医学校を卒業後、三等軍医として一年間ネイメーヘンで軍務につき、1853年に母校である軍医学校の理化学教師となった。一方で、ユトレヒト大学の医学部、自然科学部に学生として在籍した。その間に二等軍医に昇格していた。

 1865年(慶応元年)の末に日本政府の幕府からハラタマに長崎分析究理所における理化学教師として招聘され、翌年4月16日長崎に来ている。ハラタマの任務はボードウィンの下、養生所での調剤なども含めた病院の監督業務と、分析究理所での化学、物理学、薬物学、鉱物学、植物学などの自然科学の講義であった。

 その講義は医学所(精得館)の医学教育の基礎教育を担当する意味もあった。新たに設立された分析究理所の運営はハラタマに任された。ハラタマのオランダ語の講義は、随行する三崎嘯輔が通訳してほかの学生に伝えたと推測されている。この学生達の中に、後に日本の医学、科学の先覚者となる池田謙斎、戸塚静伯、松本圭太郎、今井厳などがいた。

「ハラタマの化学教育」

 精得館所蔵の化学実験器具の図入目録を写した「分析道具品立帳」によれば全部で59種、250点以上の化学実験器具が図解されている。薬瓶、漏斗、坩堝、浮秤、各種ガラス器具など、当時のヨーロッパでの化学実験の器具は一応揃っていた。化学試薬、薬品も送られてきていたであろうから、分析究理所の化学実験はハラタマがユトレヒト大学で行っていた水準をそのまま移した高度なものであったと思われる。

 その頃までの日本では、大阪の適塾や江戸の開成所で化学実験が試みられたという記録はあるが、徳利を蒸留器に、そこに穴を開けた茶わんを漏斗に使うという有り様で、西欧流の本格的な化学実験は長崎でのみ可能で、ハラタマの分析究理所がわが国での組織的な化学教育の最初であったと考えられる。つまり、日本の化学教育においてはじめて化学実験が行われたのが長崎の分析究理所であったということになろう。

 ハラタマの実験教育は徹底しており、化学志望の学生には、薬瓶に必ず内容物の名を記入したラベルを貼ることを命じた。今、水を入れて実験台に運ぶところだと言いわけしても聞き入れられず、ラベルを貼っていないとその水を捨てさせるという厳格なものであった。精得館の医学生もはじめはハラタマの理化学の講義を聴講に来るものが多かったが、その厳格な教育に耐えられず、次第に去って行って午後の理化学の専門講義を聴くものは少数となった。そこで、ハラタマは午前に医学生向きの一般化学講義を開始し、医学生も多く出席した。

 ボードウィンが精得館の教官を交代したい旨を幕府に願い出て、後任の医師としてこれまでと同じユトレヒト陸軍軍医学校の出身であるマンスフェルト(Constant George van Mansvelt)が1866年に長崎に着任した。

 ボードウィンは日本の医学教育、並びに理化学教育は中心地である江戸で行うべきであるという考えを持っていたようで、精得館の教頭をマンスフェルトと交代した後、ボードウィンは帰国する直前にハラタマと一緒に江戸に出向き幕府にその考えを提言している。この考えは受け入れられ、ハラタマへ幕府から江戸に理化学校開設が決定した旨の通告が来て、ハラタマは江戸で新学校設立に当たることになった。

 そのためハラタマの長崎滞在は一年にも満たず、1867年始めに江戸へ向かうこととなった。ハラタマの江戸行きの一ヶ月前、わが国薬学の創始者である長井長義がハラタマについて化学を学ぶつもりで長崎に到着したが、すれ違いとなっている。理化学校建設のため江戸へ着いたハラタマであったが、計画は全く進まずいらだたしい日々を送らなければならなかったことが日記に残されている。

 ボードウィンはまた、日本とオランダの間を複数回往復しているようである。1867年教え子緒方惟準(緒方洪庵次男)を連れて一度オランダに帰り、惟準をユトレヒト陸軍軍医学校(一般にはユトレヒト大学とされているが)に入学させる手続きをしてすぐ日本へ戻っている。

 その後、遅れている江戸に医学校を開設するという幕府との交渉を続け、1867年、幕府との約定書を結ぶことに成功する。しかし、大政奉還が1867年11月で、翌年には明治新政府が成立しているわけであるから、時はまさに維新の動乱のまっただ中のことである。オランダ政府に日本再渡航の許可をもらうため帰国し江戸の学校の創設準備中に、政権は明治政府に移りイギリスとの新しい条約が結ばれていた。再び江戸に戻ったボードウィンが働くべき場所はなかった。

「大阪でのハラタマ」

 1868年に発足した明治政府は、当初大阪を首都にという考えもあり、幕府が交わしていた契約を引き継ぐ形でボードウインとハラタマを大阪に招聘し医学校と理化学校を建設しようとした。同年ハラタマは大阪舎密局の建設に着手したが、ここでもすんなりことが運ぶことはなかった。建設はまたもや遅れに遅れた。ボードウィンの大阪入りが遅れたためハラタマは大福寺の仮病院で診察の仕事をこなさなければならなかった。

 ボードウィンは遅れて1869年3月に着任した。1869年4月オランダから帰朝した緒方惟準を院長として正式に大阪府仮病院(大阪大学医学部の前身)が発足し、医学校教頭ボードウィンの講義が始まった。遅れていた舎密局の建設もその後、大阪府管轄となって再開されて、同年6月には開校にこぎ着け、ハラタマはその教頭となった。

「ハラタマの成果」

 前述のごとく、明治維新を目前に来日したハラタマは幕末維新の動乱の中を過ごした。ハラタマの任務であった西欧近代科学の日本への移植は、まず長崎の分析究理所で開始されたが、長崎の滞在期間は一年にも満たず、教育を受ける側の日本人学生にも準備と認識の未熟な点があり直接見るべき成果を挙げることはできなかった。

 しかし間接的には、ハラタマの長崎滞在は薬学の先覚者長井長義を生む契機となった。また、分析究理所時代の学生、池田謙斎は東京大学医学部の初代総理としてわが国医学の発展に大きな足跡を残した。そして、大阪舎密局におけるハラタマの化学教育は大きな成果を挙げることになった。

 また、舎密局の聴講生であった高峰譲吉は、消化酵素タカジアスターゼの発見、アドレナリンの結晶化などの世界的レベルの業績を挙げた。ハラタマの舎密局時代の助手村橋次郎は、大坂衛生試験所の初代所長となった。この村橋の教え子の池田菊苗は、東京大学理学部教授となり、日本伝統の昆布のうま味成分を研究しグルタミン酸ナトリウムを分離している。これが現在の、調味料およびアミノ酸製造産業のもととなっている。

■ シーボルト・プロジェクトの最も重要な協力者 ビュルガーの来日

「ビュルガーの生い立ち」

 シーボルトと異なり、ハインリッヒ・ビュルガー(Heinrich Burger: 1806-1858)の背景には不明な点が多かった。生年が1806年であることがいくつかの研究から明らかにされたのもつい最近のことである。彼はドイツ・ハーメルンのユダヤ人家庭の7番目の子供として生まれ、ごく短期間ゲッチンゲン大学で数学と天文学を学んでいる。1821年に数学、1822年には天文学のエンロールメントが確認されている。その後彼は、アムステルダムから蘭領東インドのジャワへ渡り、1823年にはバタヴィア近郊ウェルテフレーデの軍の病院の見習い薬剤師となっている。

 ビュルガーの学歴については、その他にも不明な点が多いのだが、この時に薬学に関する徒弟的な教育を受けたものと考えられる。これはヨーロッパでの正規の制度的な医学・薬学教育による資格と言いうるものではないと考えられる。

 このことを考えるのに、近年注目を集めている、植民地における科学的活動についての歴史研究を参照する必要があるだろう。いわゆる植民地的な環境では有能な即戦力の養成が望まれていた。有能なユダヤ人青年がこの期間に薬学を実地で学んだとしても、何の不思議もないだろう。

 1825年に、彼は3等薬剤師に昇進しているという記録が残っている。彼が昇進したこの1825年に、シーボルトが要請した助手の一人として、ビュルガーは画家フィレネーフ(Carl Hubert de Villeneuve: 1800-1874) とともに日本へ赴いている。ビュルガーは出島のオランダ商館付き医師フォン・シーボルトの下での「薬剤師」として来日した。

「日本最初の医薬分業」

 「日本最初の近代的な医師」をとりあえずシーボルトとするならば、さしずめビュルガーは「日本最初の近代的薬剤師」となるだろう。また、ビュルガーの日本への到来は、日本での「医薬分業」の最初の例として考えられる。従来から多くの医師が出島を訪れているが、「専門的」で「職業的」な「薬剤師」をともなったのは、シーボルトまでは皆無である。いうまでもなく、ビュルガーは、最初の薬剤師であり、近代的医薬分業の観点から見て画期的であったと言える。

 それまでの日本の医療は医学と薬学がほぼ完全に融合し、伝承的手法と経験的により医師が自ら薬を調合していた。安土桃山時代にポルトガルとの交易から伝わった南蛮医学もまた「前近代」医学に範疇できるといえる。なぜなら、外科については、南蛮医学の先進性は認められるが、内科的な医学および薬学について南蛮医学のなかで紹介されたのは、ヨーロッパでの錬金術的な製薬学の段階であると考えられるからである。

 シーボルトやビュルガーの時代になり、ヨーロッパにおいて科学と医療との発展が見られ、とりわけ薬剤師制度・薬局方が普及した。この近代的医療が二人によってもたらされたと言える。

 出島での医療に、いわゆる『バタビア局方』と呼ばれる、蘭領東インドの都市局方書が使用されていた。当時、蘭領東インド、バタヴィア(もしくはバタビア:現在のジャカルタ)にはVOCのマークで示される東インド会社が置かれオランダの極東へ重要な拠点であった。蘭領東インドは、オランダとは気候・風土ともに全く異なる南方であり、また風土病の地とされていたことから、オランダ人が東インドでは熱帯病に冒されるケースが後を断たなかった。

 19世紀になっても、オランダを出国した商人・船員のうち、2割程度が健康のうちに帰還できなかったというデーターもある。オランダの東インド進出に際して、熱帯医療の研究は不可欠のことであった。そのために、オランダ人による、熱帯医療の研究は、非常に進んでいた。

「シーボルトの最も重要な協力者」

 ビュルガーについては、フォン・シーボルトの助手ということ以外には、従来あまり知られてきていない。そもそも「薬剤師」という資格でシーボルトの下に派遣された彼の業績については、シーボルトの影に隠れていた。

 シーボルトおよびビュルガーの収集による日本産生薬とそれに関連するコレクションの調査、日本産岩石・鉱物、および関連する化石・有用金属の精練過程の中間生成物などのコレクションに関する調査:日本での気象観測記録の調査。などにより、シーボルトの有能な研究協力者としてのビュルガーの実像が徐々に明らかになりつつある。

 その後の彼の活躍ぶりは、まさにシーボルトの右腕と呼べるものである。彼がシーボルトに付き従い、その調査・研究活動をよく助けた様子は、1826年の江戸参府の日記などに散見される。薬剤師しての彼の本分はそもそも医療用の薬品の製造・管理などにあった。その面でシーボルトを補佐したことはいうまでもない。日本産の薬品などの収集についても彼の貢献が認められる。

 岩石・鉱物についてのコレクションについては、前述したが、ライデンに残る多くのコレクションから、ビュルガーの貢献ぶりが判る。薬物のコレクションの中にも無機鉱物など、薬品として使われるものが含まれているが、このコレクショは体系的な地質調査の一環であると考えられ、総合的な日本の自然誌研究の一部をなすものであるという位置づけができる。

「シーボルト帰国後も継続して調査」

 これらがシーボルトによる日本の博物学的研究の重要な一環をなしていたことはいうまでもない。シーボルトが出島を追放された後も残り、博物学の標本を送り続けたのもこのビュルガーである。鉱物の研究のなかでも特に有用鉱物、なかでも銅の鉱石については、日本からの重要な輸出産品であったということからも、多くのコレクションをしている。

 日本におけるシーボルトの博物学研究のなかで、ビュルガーが鉱物学・地質学的な調査・収集活動の多くの部分を担っていた。ライデン国立地質学・鉱物学博物館(現在は自然誌博物館の地質学・鉱物学部門)には、シーボルト・コレクションの一環として、かなり系統だった、数多くの日本産の鉱物標本が保存されている。これは、西欧近代地質学的な観点から見る、日本初の本格的な地質・鉱物のコレクションとも言えるものであり、貴重なものである。このコレクションの収集・整理に実際に現地であたっていたのが、主にビュルガーであった。

 また日本に残っている例として、シーボルトの江戸滞在中は、旗本の博物学者設楽芝陽からの依頼でシーボルトとともにいわゆる「本草」の鑑定をおこない、化石を含む鉱物については彼が解答を与えている。このときの記録は「シーボルトの草木鑑定書、附ヒルヘル薬石解答」(ヒルヘルはビュルガーのこと)として知られている。

 さらにドイツ・ボッフムのルール大学に移管されたシーボルトに関する文書の中にある未刊の「日本地質鉱物誌」の草稿はビュルガーによって記載されたものである。このように、シーボルトの自然誌研究プロジェクトのなかで、ビュルガーの地質学・鉱物学への貢献が高い。

 鉱物、特に有用鉱物としての銅の精練に関する調査・研究については、シーボルトとともに、江戸参府の帰途、大阪鰻谷の住友の精銅所を訪れたあと、ビュルガーは個人名で、バタヴィア学芸協会雑誌に日本での銅の製造についての論文を送っている。ビユルガーによる鉱物のメモ、日向(左)や島原(右)の地名が見られる。

「棹銅のコレクションと住友へ寄ったときの記録 九州各地の温泉水の化学分析」

 九州各地、とりわけ長崎周辺の温泉水の科学分析は、シーボルトの『日本』のなかでも散見されるが、このオリジナルの手稿はビュルガーによるものである。ビュルガーによる温泉水の分析は、試薬を順次加える方法で温泉水に含まれる各々の化学物質を特定してゆくものであり、近代的な化学分析法が見て取れるものである。

 薬学に動機づけられて、基礎科学、特に化学が日本に導入されてきたということは、ビュルガーの事例をみてもわかる。シーボルトが鳴滝塾での医学教育のなかで化学的観点を導入したこと、そして高野長英などが化学に特に深い興味を示したことは知られている。しかしシーボルトが行った化学的活動は、ビュルガーの手によるものが多い。長崎では高野長英、江戸参府のおりの宇田川榕菴との交流などが知られている。

 薬学から発展して、ビュルガーの貢献はさらに2つの領域で特に認められる。一つは鉱物学・地質学の領域、もう一つは化学に関する領域である。科学史的にみるならば、前者はいわゆる万有学的な博物学が、植物学・動物学そして鉱物学と専門として行く方向をあらわし、後者はその対象とするもの自身をより精密に、すなわち化学的に分析して行く方向性をあらわしているといえる。

 分類学的な発展もここでは見られることに注意すべきである。シーボルトとビュルガーによる日本産岩石鉱物のコレクションについて、ビュルガーは分類・整理を行っており、これらを研究した痕跡が見られるが、それらのノート・ラベルの類から、ビュルガーの採用した鉱物の命名法は、リンネ式の二名法の発展したものであることが指摘できる。この時代にはまだ分子レベル・原子レベルという発想、および定量的な物質の構成要素の発想はなく、「元素(エレメント:element)」レベルでの定性的な分析による、質的(Qualitative)な、実験的分類である。

 彼らの科学の世界的な拡大に果たした役割、さらに日本での科学の展開に彼が果たした役割はシーボルト同様に大きい。したがって、単にビユルガーを「シーボルトの薬剤師」もしくは「助手」としてだけとらえるのはフェアではないだろう。彼のことを「日本で薬学の可能性を展開したシーボルトの研究協力者」とでも呼べば少しは公正かもしれない。

 近年の科学史では、研究の総体をプロジェクトとして見て行くこと、その上で全体として評価して行くことが提唱されている。その意味でシーボルトは、オリジナルな自然科学研究者というよりも有能なプロジェクト・マネージャーとしてより高く評価されるかもしれない。そしてビュルガーは、シーボルト・プロジェクトの最も重要なスタッフとして見直されるのだろう。

「商人としての後半生」

 このように活躍したビュルガーであったが、シーボルトとの関係は、必ずしもよかったとは限らなかったことがさまざまに指摘されている。事の経緯は若干複雑ではあるが、シーボルトがビュルガーの業績を一人占めしたようなかたちとなったことによるのであろう。

 蘭領東インドに帰還してから、いくつかの科学的プロジェクトに関わっていることが知られており、ビュルガーによるパダン高地の探検レポートは、バタビア学芸協会雑誌に掲載されている。しかし、ビュルガーが参加した探検プロジェクトのP.W. コルトハルス探検隊長の報告によると、蘭領東インドの科学者とはうまくいかなかったようである。

 ビユルガーは科学者としてのキャリアを断念し商人として成功する。東南アジア貿易での海上保険の先駈けをなす会社を運営するまでになる。この時、日本で作った資本を元にして、この事業を起こしたものと考えられる。家族を蘭領東インドに呼び寄せる。蘭領東インドでは、名家をなすにいたる。現在でも、その家系は継続している。

 エピソードは散在している。『鼓銅図録』を広東へもたらし、イギリス人と日本の銅の生産・精練について議論したとある。また、イギリスのミッショナリーの報告に、このことが、ビュルガーの名前入りで論じられている。また、1840年-43年に、ヨーロッパに一旦帰還してたビュルガーが詩人のハインリッヒ・ハイネと出会っており、ハイネを喜ばすような会話を交わしたということ、それをハイネの筆により1854に書かれたシーボルトの名前も言及されている。

 薬剤師ビュルガーがシーボルトの日本研究の中で動物学や植物学ではなく、鉱物学を担当し、化学的分析法でおこなったことは、その後の日本の薬学の方向を考える上で非常に興味深い。後述するように化学者ハラタマが長崎養生所や舎密局で教鞭をとり、明治に入り東京医学校に製薬学科が最初に作られ、戦前戦後を通じ日本の薬学教育が化学を主に置かれてきたが、その原点と見ることができる。一方で、医薬分業がもたらされながら、現在に至るも十分に根づいていないことは残念なことである。