社団法人化後の歴代会長

斉田会長

初代会長「斉田和夫 先生」

 明治42年9月29日生まれ
 昭和7年3月 熊本薬学専門学校卒業
 昭和10年7月 サイタ薬局開設
 昭和26年6月 福岡市薬剤師協会常務理事就任
 昭和27年4月 福岡市薬剤師協会副会長就任 2年
 昭和31年5月 福岡市薬剤師協会副会長就任 3年
 昭和41年4月 福岡市薬剤師協会副会長就任 3年
 昭和45年4月 福岡市薬剤師協会会長就任 2年
 昭和46年6月 福岡県知事賞受賞(薬事功労)
 昭和47年4月 社団法人福岡市薬剤師会会長就任 4年
 昭和47年4月 福岡地区薬業協同組合理事、相談役
 昭和50年6月 福岡県知事賞受賞(計量事業)
 昭和50年10月 九州山口薬剤師会長賞受賞
 昭和52年10月 厚生大臣賞(薬事功労)
 昭和54年4月まで 43年間開局
 昭和52年10月 通産大臣賞受賞
 昭和53年4月 福岡県薬剤師会副会長 就任 2年
 福岡県医薬品小売商業組合理事、副理事長 歴任

藤野会長

2代会長「藤野義彦 先生」

 大正15年9月15日ー平成25年5月23日 享年88歳
 昭和23年3月 長崎医科大学薬学専門部卒業

 「官公庁関係歴」

 昭和23年8月 福岡県衛生部薬務課麻薬係勤務
 昭和25年4月 厚生省九州麻薬取締官事務所勤務

 「審議会関係歴」

 昭和33年4月 福岡市博多保健所運営協議会委員
 昭和50年4月 福岡県麻薬禍対策推進の会委員
 昭和51年4月 福岡県国民健康保険診療報酬審査
            委員会委員
 昭和53年4月 福岡県健康教育推進懇談会委員
 昭和53年4月 福岡市国民健康保険運営協議会委員
 昭和53年7月 福岡市献血協議会委員

 「民間関係歴」

 昭和26年6月 福岡市東区箱崎において薬局開設
 昭和31年4月 社団法人福岡県薬剤師会理事 2年
 昭和33年4月 福岡市薬剤師協会理事 2年
 昭和34年4月 福岡県医薬品小売商業組合専務理事
 昭和36年10月 全国医薬品小売商業組合連合会理事
 昭和35年4月 福岡市市薬剤師協会副会長
 昭和39年4月 社団法人福岡県薬剤師会常務理事
 昭和39年5月 社団日本薬局協励会福岡県支部長
 昭和42年4月 市立名島・多々良小学校学校薬剤師
 昭和45年5月 社団日本薬局協励会九州支部長
 昭和46年4月 社団法人福岡県薬剤師会常務理事
 昭和46年4月 福岡地区薬業協同組合理事
 昭和46年7月 社団法人福岡市薬剤師会副会長
 昭和47年4月 社会福祉法人福岡育児院監事
 昭和49年4月 社団法人日本薬剤師会代議員
 昭和49年5月 社団日本薬局協励会本部理事
 昭和49年5月 株式会社日邦薬品工業取締役
 昭和53年4月 社団法人福岡県薬剤師会副会長
 昭和53年4月 社団法人福岡市薬剤師会会長
 昭和57年4月 福岡県医薬品小売商業組合相談役
 昭和57年4月 第一薬科大学講師
 昭和58年4月 社団法人福岡市薬剤師会顧問
 昭和62年4月 福岡県薬品小売商業組合早大会議長
 平成4年4月 福岡県薬剤師会100年史編纂副委員長
 平成4年7月 福岡薬剤師県国民健康保険組合理事長
 平成7年5月 福岡県健康保険団体連合会理事

 「表彰関係」

 昭和54年6月 福岡県知事表彰(計量事業功労)
 昭和56年2月 福岡県知事表彰(公衆衛生事業功労)
 昭和56年10月 福岡県知事表彰(薬事功労)
 昭和56年10月 九州山口薬剤師会会長表彰)
 昭和59年10月 厚生大臣表彰(薬事功労)
 平成元年4月 藍綬褒章受章(薬事・保健衛生)
 平成8年11月 勲五等双光旭日賞受賞
冨永会長

3代会長「冨永泰資 先生」


古賀会長

4代会長「古賀 隆 先生」

 昭和3年5月29日満州生まれ、奉天二中卒業
 昭和25年3月 熊本薬学専門学校卒業
 昭和32年 九大病院薬局で研修勤務の後開局
 昭和34年5月 福岡市薬剤師協会理事就任
 昭和39年7月 福岡市長感謝状(学校薬剤師会功労)
 昭和53年4月 福岡市薬剤師会専務理事就任
 昭和52年2月 福岡県公衆衛生協会長表彰
 昭和61年3月 福岡県薬剤師会長表彰(薬剤師功労)
 昭和61年4月 福岡市薬剤師会会長就任
 昭和61年4月 福岡県薬剤師会副会長就任
 昭和62年10月 福岡県知事表彰(薬事功労)
 昭和63年4月 日本薬剤師会代議員就任
 昭和63年11月 福岡県学校保健会長表彰
 平成元年10月 福岡市教育委員会表彰
 平成元年10月 九州山口薬剤師会長表彰(薬事)
 平成2年4月 福岡市薬剤師会顧問就任
 平成2年6月 福岡県知事表彰(計量事業功労)
 平成2年11月 福岡県教育委員会表彰(学校保健)
 平成3年10月 厚生大臣表彰(薬事衛生功労)
 平成4年4月 福岡県薬剤師会100年史編纂委員
 平成16年    閉局
三津家会長 木村会長
藤原会長 正岡会長
会澤会長 小野会長

◆ 端  正  の  人 ◆

福岡県薬剤師会 会長 荒巻善之助

 古賀さんとの最初の出合いは、時の県薬会長の気まぐれから、二人揃って市薬役員に就任したとき、昭和34年のことです。

 第一印象は、何とまあ端正な人なんだろう、ということでした。それは今でも変わりませんがその後のおつき合い、容貌だけではなく、心も、行動も端正な人だと思うようになりました。それでいて、決して固苦しいわけではなく、酒も好き、女もけっこう好きで、なお且つくずれない。女性からみると、理想の男性とはこんな人ではないかと思う。にくたらしいはとの男です。さもあらぬか、熊薬時代の同級生、福島佐賀県薬会長の思い出ばなしによると、運動会のときには、女子校生が寄ってきて行列を作ったとか、話半分に聞いてもありそうなことです。

 昭和53年藤野市薬会長のとき専務になりました。それ迄の市薬専務は私でしたが、彼の専務ぶりは、会議の準備、資料提出、司会記録、どの一つをとり上げても、到底私などの及ばない出来ばえでした。PTA会長など、いろんな人達の取りまとめをした経験もあり、抜群の実力のある人だと知りました。

 昭和61年福岡市薬会長に就任しました。以後2期4年市薬会長の席にありましたが、この4年間ほど難問が山積した時期は市薬の歴史の中にありません。試験センターの大臣指定、道路拡幅に伴う会館改築、国立病院の移転に伴う土地取得。一つ一つが大きな予算を必要としますし、責任を伴います。

 古賀さんは「石橋を叩いてなお渡らず」と云われたほど慎重な人です。その人がひとたび決断をすると、これだけの大事業を一挙に仕遂げてしまったのです。それだけに人知れぬ苦労もあったろうと思いますが、今振り返ってみると、その事跡は市薬の歴史の中に大きなエポックを画しており、名会長としての栄誉は永久に記念されるでしょう。

 今、県薬副会長としていろいろご盡力をいただいています。すじみちの通った意見をきっちりと出してもらえる、ということは私にとって大変幸せなことです。そういう折にも私はその姿勢の端正さ、ということを改めて感じます。一時健康を害されましたが、今はもうよろしいようです。今後とも引き続き会務についてご指導をお願いしたいと思っています。


◆ あ と が き に 代 え て◆

福岡市薬剤師会 副会長 藤原良春

 楽しきかな酒、いざ友よ語らん!
 諸葛孔明も大層なことをしてくれたものである。とはいえ、今宵の宴こそ、心静かに聞かねはなるまい。
「私はね−、三顧の礼でもって迎えたんだよ。畳の目を一つ、二つ、三つと数えながらね。それでも、なかなかウンと言ってくれなくてね 」と。

 これは13年前、藤野先生が古賀先生に専務理事を頼まれたときの様子であるが、酔われると必ず聞かされる話しであり、今では、くちぐせみたいなものになっている。

 藤野先生をして「三顧の礼」をとらせた人物−古賀先生は、これにより人世の転機を迎えられることになる。ときに、古賀先生49才の春のことであった。

 昭和53年5月、藤野新会長のもと第一回の理事会で、古賀専務理事はさっそうとして登場された。決め細かな資料や報告書を提出しての理路整然とした説明、てきぱきとした会議の進行、そして、そこにかもし出される一種の緊張感が、私の目には実に清新に写ったものだ。

 私は内心〈ほう−このような人物もいらっしゃったのか〉という強い驚きの思いが残っていて、今でも、そのときのことがあざやかな印象として浮かんでくる。そして、私が古賀先生に出会ったのは、このときが最初であった。

 専務理事として古賀先生は二代目である。ちなみに、初代専務理事は荒巻先生で、斉田会長のもと昭和45年から4斯8年の長期にわたって務められている。その荒巻先生に私は、昭和49年理事にむりやり引っ張り込まれた。

 当時の理事会は、今と比べるとおおらかなもので、理事といっても特に重い責任があったわけではなく、のんびりとした良き時代であった。

 時代の流れもあるが、これが一変するのは52才の若さで登場された藤野会長の機構改革である。それは、薬剤師職能に対する烈々たる熱意の発路によるものであった。

 現在のような理事会運営は、このときに始まっている。53年には新たに常務理事制と理事職務分掌の明確化、これによる委員会活動の充実、会報の発行、さらに支部制度の発足があった。今に続くソフトボール大会の開始は54年のことである。

 そして最大のものが、55年に完成する会館建設である。これには実に多くの困難を伴い、まさに一大事業であったといえるだろう。

 これらの動きの中にあって古賀先生は、陰できちんと目を配り、役員の融和を図ることも上手で、それでいて出過ぎるようにも見えず、いかにも役員を長年経験されていたかのように悠然としておられた。しかし、これには理由がある。

 大変興味深いことだが、専務理事になられるまで、古賀先生と藤野先生との問には役員としての接点がない。

 古賀先生は、青年時代の昭和34年から36年まで理事を務めておられるが、その後17年間も姿が見えない。ではその間何をしておられたのであろうか。特に商売がお好きな方とは見えず、それに励んでおられたとも思えないのだが。 実は三人のお子様の成長期にあって、長年PTA会長として活躍されていたのである。当時は、日教組の政治闘争がはなやかりし頃で、連日けんかに明け暮れておられたとか。

 この経験が専務理事になって役立ったのだと思われる。後年、会長になられてからの演説のうまさも、おそらく、このときに培われたものであろう。何はともあれ、専務時代の古賀先生は、超ワンマン会長のもとにあって、気配りの人であった。それにしても、このような人物を専務理事に据えられた藤野先生の慧眼に、敬意を表しなければならない。

 昭和61年、誰もがこの人しかいないという思いの中にあって、古賀先生は会長に推挙された。そして、古賀会長の出現を待っていたかのように、次々と大きな問題が押し寄せてきた。一人の会長在職中、それも2期4年という短い期間に4回も臨時代議員会を開催したことは、過去に例がない。

 62年8月には、「医薬品試験に関する厚生大臣指定試験センターについて」。63年3月は、「西鉄大牟田線高架事業に伴う用地譲渡について」。平成元年1月、「会館建設について」。平成元年7月、「会営薬局用地並びに建物取得について」の4回である。  また、62年7月に指定を受けた簡易専用水道の検査機関の問題、これにも多大な努力を払われている。その外にも国立病院の処方せん応需問題、よかトピアへの出展、石井選挙での奮戦と息つくひまもなかったほとだ。

 会長時代の古賀先生を評するならば、まさに決断の人であった。そして、奇しき定めというべきか、二度も会館建設に携われて会の歴史にその名を残されたことは、お幸せな人ともいえるだろう。

 私は会館を訪れ、会長室のソファーに坐ると、ふと思い出す。平成元年12月17日、2回目の落成祝賀会が終わった夜、古賀先生はこのソファーの上で酔いつぶれてしまわれた。今まで一度も見せられなかった姿である。そこには、心血をそそぎ込み、大事業を為し遂げて心から安とされた男の姿があった。

 それより前、建物が建ち上がり始めると、連日わが子のように眺められていた。その姿も忘れられない。そのとき、会長とはこれだけの思いをしなければならないのか、誰れのために、何のために・・・と、つくづく思ったものだ。

 確かに、会長職は激職で責任も重い。重大な物事を決断するときは、孤独感もあったであろう。やがて、燃焼しつくされたかのように、病で倒れられることになる。これも、古賀先生のあまりの真攣な取り組みが、遠因となったのではないだろうか。決してゆえなしとしない。

 大変お気の毒なことではあったが、幸いにも回復され、今では元気に県薬副会長を務めておられる。現在3期目であるが、お酒も飲めるようになられたことでもあるしまだまだ頑張っていただきたいと切に願っている。

 振り返ってみると、私は古賀先生の専務としては、至らないことばかりであった。私は専務時代の古賀先生をつぶさに見ている。名専務であったという外に言葉を知らない。それでいて私には、まねするすべもなかった。その遠く及ばざるところを、密かにかばっていただいたことも数多い。これもひとえに、古賀先生の人物としての大きさであった。 ここで新ためて感謝の念とお礼を申し上げる次第である。

 きて、今回、古賀先生が厚生大臣表彰をお受けになられたことに対し、心からおよろこびを申し上げたいと思っている。

 そこで、受賞祝賀会に際し、記念品として「文集」を作り、贈呈することを企画したところ、多くの方から心よく原稿をお寄せいただいた。発起人の一人として感謝致したい。なお、文集の題名は冒頭に記した経緯から採らせていただいた。

 古賀先生のご健康と、今後益々のご活躍を祈念して。
                            平成3年10月