通 史 昭和21年〜昭和23年まで 日薬−県薬−市薬
昭和21年(1946)総選挙(4月10日)
 婦人に選挙権が与えられた最初の選挙。薬業関係者4名当選。専業者として有田二郎がある。

 薬学審議会の設置
 GHQの指令によって、薬学教育の刷新改善問題を協議する機関。報告内容に「薬学専門学校の4年制、免状交付は1ヶ年の実務修練を課し、試験合格者のみとする」とある。
 昭和22年厚生省は実務修練を在学期間中にすることに修正、昭和23年3月薬専卒業者から国家試験を実施することにした。

 日本国憲法制定(11月3日)

 メチール禍、全国に広がる

 県衛生部薬務課新設

 終戦後日薬総会(2月8日日本医師会館)に古賀常吉出席
 薬剤師会令の改正により2月20日までに、官選役員を退け、総会により選挙すべきことが定められた。

昭和22年(1947)公定処方改正(6月28日) 119処方

 慶松勝左衛門日薬会長、参議院選挙に当選(4月24日)
 全国に出馬、得票数16万余票 40位で6年議員となったが、在職2ヶ月で公職追放令に該当した。

  学校薬剤師数 文部省調査
  全国学校薬剤師数  48名
  全国設置学校    163校
  福岡県      なし
  九州では熊本県   13名

昭和23年(1948)

日本薬剤師協会設立総会 (5月25日)
 仮会長 緒方 章
 公法人 日本薬剤師会解散

 薬事法公布(7月29日)
 薬剤師の身分法を欠き、医師の特例調剤権を本則へ移した点、特に「薬剤師とは主として医薬品の調製、鑑定、保存、調剤又は交付に関する実務を行う者・・・・」とし、従来の「医師、歯科医師、獣医師の処方せんにより調剤・・・」とは異なっている。また、要指示制度もこれに盛り込まれた。全国薬剤師は、調剤権の取扱に関し絶対反対を唱え、薬学士も参加した全国大会、放送討論会、署名運動などその闘争は熾烈をきわめた。

 医療法施行規則、省令で交付
 「薬剤師、調剤数80又はその端数を増すごとに1人」とある。調剤数が80件か80剤数か、長く議論の種となる。

 厚生省に薬務局設置(7月15日)

 第1回 日本薬剤師協会代議委員会(10月19日)
 会長 刈米達夫
 日薬協は今までの日本薬剤師会と日本薬学会が合体したものである。なお、旧日薬は知道府県薬剤師会を会員としていたが、新日薬協は薬剤師個人を会員とすることにした。

 福岡県薬剤師協会設立委員会開催(8月21日)
 委員長 古賀常吉
 仮会長 磯田秀雄 会費 1,000円
 新薬事法の公布に伴い、日薬は将来はともかく一応「新団体の名称を薬剤師協会とする」こととした。

 九州薬事新報創刊号発刊(9月10日)

 ☆☆ 九州薬事新報(10月1日号)「九州薬人消息」より
 ○峰松今朝一君
 福岡市東中洲玉屋前に薬局を開設していた同君は、戦災に遭ったが、今は新天町商店街に開業。東中洲の店も新築復活して支店として、地販として相変わらず盛業。本人も元気。

 ○小島豊君
 福岡市中島町に開局の児島次郎君の御曹子で、父君次郎君は戦災に遭い去年逝去、現在は豊君が家業を継ぎ箱崎に開局。以前の中島町に新築の計画を進めている。

 ○岡本松太郎君
 福岡市渡辺通りに開局の同君は、戦災を免れたが、七十余の老齢に自適の生活を送り、薬局は養嗣子の弘君が主宰している。福岡県薬剤師会事務所は同君宅の一部を拝借している。

 ○斉田和夫君
 戦災を免れた同君は相変わらず福岡市箱崎で盛業中、福岡市薬剤師会理事としても活躍している。

 ○鶴原正蔵氏
 福岡市大学病院前に十字堂薬局として、門司鶴原誠蔵商店の支店を運営している。温厚な人柄と堅実な手腕は協同組合理事として組合業蹟の上にも現れている。蓋し福岡県の薬業界を背負って立つべき人物である。

 福岡市薬剤師協会設立総会開催
 11月25日 福岡市春吉七番町新聞社?上に於て開催。
 先ず磯田薬剤師会第一支部長の挨拶があり、次いで薬剤師協会設立に至った経過の報告があった。次に議事に入り支部規約を決定、なお、今後福岡市薬剤師協会なる名称を使用する事等可決し、次いで役員選挙に移った。選挙の結果、次の通り
 会長  白木太四郎
 副会長 須原勇助
 理事  柴田伊津郎、小松真佐雄、工藤益雄、宇野益雄、小金丸三郎、峰松賢吉、久野洋一、今橋増雄、他1名。
 代議員(県薬か?)は新理事の推薦に一任。以上終わって、旧薬剤師会支部総会を開き、解散決定。(九州薬事新報S.23.12.10日号)

 ☆☆ 「九州薬人消息」(12.20日号)
 ○荒巻実氏
 市内千代町に開局され、戦災にも遭わず、兄君政次郎と共に家業熱中し、家運益々隆昌。この程株式会社に組織を改め、いよいよ薬業界に大活躍さるる由。