通 史 昭和51年(1976) 日薬−県薬−市薬
九州薬事新報 昭和51年(1976) 1月5日号

 年頭所感 日本薬剤師会 会長 石館守三

 今世紀後四半期の関頭に当って明るい希望を語りたいところであるが、今の日本の状況は、政界であれ、経済界であれ、わが薬業界であれ、あまりに暗い影が多すぎる。それは日本人の実力や経済の低成長に対する心配からではない。私の憂いは日本社会に健全な社会目標とそのよって立つ社会道義が忘れられ失われつつある危機感からである。「それは食の乏しきによるに非ず心の貧しきに因る」との一句に尽きるであろう。

 言論の自由と行動の自由では、世界にも例のない国柄でありながら、正論と社会道義が日本ほど通用しにくい文化国家はこれまた稀であろうと歎ぜざるを得ない。然し、私は失望はしない。自ら播いた種は自ら刈らねばならない。人は実験(トライアル)と錯誤(エラー)を繰り返して前進する。そしてより良きものを創造し得るところに希望がある。

 わが医療界、そしてその重要な一翼を担う薬剤師界も薬業界一般も、過去の誤りの果実を勇気をもって是正し、新しき光明に前進しなければならない。畑にある毒麦を抜き取って、健全な麦を育てなければならない。

 医療界、薬業界に対する私の願望を具体的にあげてみれば次の如きものである。医療保険制度においては、医療を供給する者と受給する者との人間関係の尊重の上に、技術の正当な評価を樹立し苟しくも医術の算術的行為を排し、良心的医療を可能にする方向に改善せしめねばならない。そのためには医と薬の責任の分担、国民のための分業を推進することである。

 その二つには薬業界の過当競争と医薬品の品位を傷つけ、至高なその使命に反する行為を絶滅する方途を講ずることに努力したい。もしそれらの対策を怠るならば、またまた自ら播いた悪種子の果実を刈るだけでなく苦悩に満ちた時代が長く続くことになろう。今年はより良き種を播く新しい年としたいと願う。

 新春雑感 福岡県薬剤師会 会長 長野義夫

 毎年出席する薬学大会の模様が少しずつ変ってきた。往年のそれは政治的課題にその主力がおかれて、会員の結束と情熱を結集させた熱気あふれる大会であって、そこから新しい政治活動が展開されたものであったが、今日の大会は分科会に於ける静粛にして熱心な聴講と質問応答の中に自ら身に何かを得ようと目をかがやかせ心をはずませている。

 この一人一人の薬剤師が未来の薬剤師の運命を背負ってその使命を完うする一人一人であると思うと胸のあたたまる思いがする。なんだかあの過去の大会の熱気がはや薄霞の中に沈んでしまって、無意義なものであった様に思われることがあるがはたしてそうであろうか。

 経済成長は止まって不況の嵐が各界に吹きすさんでいる。倒産、首切り、新卒の就職難、不気味な未来を暗示しているように思う。考えてみると私が学校を卒業した昭和の初頭にこの様な大不況があった。失業者は街頭に満ちて不安な時代で丁度その頃ルンペンの歌というのが半ばヤケッパチの気分で流行したものだ。然し物価は安かったのでどうにか食いつないでいたこの社会不安を沈静せしめたのは、作意的であったかどうかは知らぬが不幸な第一次大戦であった。

 あれから日本はさまざまな経験をして五十年たった。第何次かの産業革命と云っていて、その間の経済発展は今日に至って色々な矛盾と歪とを少しずつあらわしてきて、文化と文明が与える人類への恩恵と利便の外に未来の不安と焦躁とを与えている。これを終らせるものはなんであろうか。

 勿論昭和の初めの経済と社会構造と今日のそれとは大変な違いがありより複雑怪奇でもある。薬剤師と薬業界がこの様な混迷の中にあって生きる道を見出し禍の中から未来の繁栄を得るには、むしろ生きのびるにはどう対処すべきであろうか。

 法改正をまたなくても医師は高き理想と理解と社会の与論と風潮と医業経済の中から少しずつ分業を指向しつつあると思う。薬剤師はこれ等の医師との相互理解と信頼の上に立ってこれに応えなければならない。

 往年の分業運動が夢見ていた分業の形態は時代の進展で大きく変りつつある事は事実であるが、要は疾病の予防と治療という生命の尊厳に直接つながる医療の一端を担う薬剤師の使命の遂行こそは人類への尊い奉仕に通ずるものであり、これなくしては地域社会からの尊敬も到底受け得られない筈である。今のままの保険制度に於ける専門技術に対する低評価や、日本の医療制度と薬事制度が前時代的な形態を今後も依然としてつづけていくならば、医師と薬剤師とが専門職能によって人類に奉仕する意欲と使命感がいつの間にか稀薄化する恐れなしとしない誠に不幸なことである。

 人間のつくった制度は時代と共に適合性が変化するのは当然であるが、これを改めてゆくのが政治でありこれに依って利害を受ける者達の強固な団結による以外にその道はない。ここ数十年来の華々しい製薬界の発展は、人類に貢献するところ大であったが、現在はその爛熟期に入った観があって色々な面での様々な被害を与えている。

 医薬品という人間の生命と健康保持に最も貴重なものを製造する製薬界に自省と高い次元に立っての保護と厳しい指導とがなければ高度資本主義経済のもとに自由にそして美しく咲き乱れた花壇の中の一輪の毒花の様に思いもしないところで人類を傷つけてゆくだろう。

 経済の異状な発展成長と科学の進歩は止むところを知らないが、今日こそ過去のいずれの時期にも例を見ない大きな試練の前に立たされていると思う。薬剤師としてそして薬業者としての使命は何か。今一度謙虚に反省してみる時であると思う。
(九州山口薬剤師会会長福岡県薬業団体連合会会長)

 碩学と門弟の立場 九州大学薬学部 田口胤三

 朝比奈泰彦先生は去る六月に九十四才の御誕生を祝われて日も浅いのにその偉大な生涯の幕を閉じられました。確に御長寿ではありましたが、ここまで永生きされると慾が出て何とか百才まではと思っておりましたが残念でした。しかし先生の御永眠は生きる活力を使い尽して生命の火の消えるのに従われた感じが致します。

 それは唯御長寿であったからではありません九十四才のその日まで科学者としてその全精力を研究につぎ込まれてきたからであります。世に功なり名遂げた後長寿を全うされた学者は沢山あります。しかし九十才を越すまで現役の一研究者として自から研究に手を染めてきた人はわが国は勿論外国においてもその名を余り聞きません。先生こそは真の学者であり私が最も尊敬する所以であります

 私は大学の最終年に先生の教室において御指導を受けました。その後大学を出てすぐ軍隊に入営し引続いて八年も応召していましたので、卒業後教室において先生の御指導を受ける機会はありませんでした。従って先生の門弟と申すのもおこがましい位で、先生のことを語る資格もない訳ですがどうした訳か公私共に可愛がっていただいたので先生との間には幾つかのエピソードがあります。先生のことはいろいろの人がいろいろのところに書いていますので、ここでは私に関係あるものを少し御紹介し、碩学に対するその偉さの受け止め方について私の考え方をお話しましょう。

 先生の大学のお部屋は採光が悪く、その上、本と標本がつまっているので昼なお暗く、先生はその中で電灯の光を頼りに仕事をしておられました。夏などは入口のドアがあいているので先生の姿がみえますが、お茶を飲んだり一服したりして居られるのを見たことがありません。学生であるわれわれはこれを見て大学の教授は到底われわれの到達できる世界の人間ではないという強い印象を受けました。しかしこれでは先生はわれわれの努力目標にはならないので、傑出した人間ではあるが、われわれと同じ世界に住む人間まで先生をひきさげる必要がありました。そこで人間としての先生の研究をはじめることにしました。

 まづわれわれは先生に近ずくことにつとめ先生の人間臭さをかぎ出すことに努力しましたところ、先生が水泳が好きでその達人であったこと、狩猟にも一時熱中されたことがあることがわかってきました。
時は移って今から十数年前になりますか、当時京大にいた鈴木友二君と一緒に先生を研究所にお訪ねしたことがあります。先生はインドから鑑定を依頼された地衣をわれわれに見せて大変御満悦でしたが、われわれには猫に小判でさっぱり興味がわきませんので、ほかの話題に持込むように努めたところ、どうしたはづみかその時シーズン中であった職業野球の話になりました。

 承っているとどうも先生は巨人が好きで長島ファンであることがわかってきました。その放送の日には一時間前からテレビの前で頑張られるらしく、そうしないとお孫さん達からチャンネルをキープ出来ないためだそうでした。また時にはある会社から切符の差入れがあって後楽園へも行かれることがあるらしく「会社も大事なお客さんがあるから僕のところへは余りよいカードは来ないがね」とただただおすそわけがあるのを大変嬉んでおられるようでした。

 この第一回文化勲章受章者の気取らないお話をうかがい、その時の先生のお姿などを想像して心から笑ったのでしたが、先生の純粋さと穢れのない御性格に一層偉大さを感じ尊敬の度を増した次第でした。と同時に先生を一層身近のものに感じ、学生時代からの先生の人間研究が実を結んだことに安堵も致しました。

 私は学生に偉い学者の話をするときにその偉さのみを強調したりはしません。なるべくその通俗な反面さも話すようにしています。ある場合にはこれがあら探しにみえるかもしれませんが、私の考えはそうではありません。学生に努力しても到達できない違にみえるかもしれませんが、私の考えはそうではありません。学生に努力しても到達できない遠い世界の人間であると感じさせないためであります。これは私の学生時代にえた経験からであります。

 去る十月に私は三週間ほどヨーロッパに行ってきました。外国人も日本人も講演をするときその終りに色添えの積りか大学やその土地のスライドをみせる人が多いですが、私はその代りにここに掲げた先生のお写真のスライドを持ってゆき講演の終りに先生の晩年のことを話してきました。その理由は先生がドイツ化学会の名誉会員であって最近逝去されたことにもありますが、こんな御高齢に至るまで現役の一研究者として生涯を終られた学者は古今東西を通じて稀であるからであります。先生ほど化学者として植物学者として著名である上に尊敬を受けられた方は少ないと思いますが、晩年の先生のことにはドイツの大学の連中も一層感銘をうけたと申しておりました。「日暮れて道なお遠し」とは近年私が頂戴したお便りの中のお言葉ですがこの人にしてこの言葉ありの感慨に胸をうたれます。

 年頭雑感 長崎大学病院 薬剤部長 清水龍夫

 明けましておめでとうございます。昨年は九州山口薬学大会に当り、一年を通じて御心配をかけたり、御雑作をかけたり、御無理を申したりで本当に御厄介になりました。御不満を押えて快く御援助下さった各界の方々に、一部を担当した立場から深く御詫びと御礼を申し上げます。そのせいばかりではありませんが、やっと年を越したという感じで、年頭所感と改まる余裕はありませんが、昨年一年を振り返り、一回二回の忘年会で忘れ去っては困る事などを思い起して今年の糧にしなければならないと思っています。

 実は一昨年、処方箋発行の糸口が端無くもほころびましたときに、最初の滑り出しが肝腎で薬剤師の倫理に立脚した体制に方向を進めてゆくのでなければ、経済を表面に剥き出しにしてしまっては将来その修正は容易なことではない、と誰もと同じように考えました。長崎でもそういう事を含めて早速にも啓蒙、宣伝、慫慂といった気運醸成から応需体制の研究実施を始めねばならなかったのですが、目前に薬学大会を控えていましたので、少くとも私は意識してその面を二の次にし、積極的な立場を取らずに、大会準備のほうへ意識を引っ張ろうとした事は事実です。勿論それは私だけの態度で、諸先生方の献身的な努力は一方で開始されており、中には自分で調べ勉強し、やっと軌道に乗せたのだから、同業の他人にお教えする必要はないとお考えなのか、処方箋処理の秘伝を伝授しようとなさらない方もあったやに聞きますが、大方の先生方の調べ合い、教え合い、励まし合っての涙ぐましい御努力には、それが家業を措いてのことだけに頭が下がりました。

 それでも傍目八目、長崎県の分業は決して進んでいるとは申せません。自分が怠っていていうのも悪いのですが、折悪しく会長の病気も重なってブランクがあったことは否めません。その間に他府県で進められて来た対策、企画、その成果なども次第に現われてきて大きな参考となり、考えさせられました。

 一医院と一薬局が完全に直結して、排他的なシステムでの処方箋交流が多いと聞きます。いくらこれが盛大に行われても、これだけでは寧ろ患者の不便と薬価の高騰だけが目立ち、薬の利潤が上乗せされて医師と薬剤師が山わけしているだけになりはしないでしょうか。マンツーマン方式というのがあり、長崎もこの方式で進めてゆこうということになっていますが、マンツーマンというのはこういう意味だったのでしょうか。私はまた、分業理念を医師会と薬剤師会が公式に話し合って、一定の方式で指令を出して軌道を造るのではなく、一医師、一薬剤師が話し合ってルートを作り、その網を次第に拡げてゆく全面的な方策だとばかり思っていました。

 病院薬局の場合もそうですが、処方箋は飽くまで患者が最も望むところに調剤を求めるべきものであるということを、最初の段階で徹底しなければなりません。患者が信頼する医師を選ぶのと同じように、患者が薬剤師を選ぶシステムが分業です。そうすれば患者は何を根拠に薬剤師を選ぶでしょうか。便利、親切、価格、いろいろファクターはあるでしょうが、矢張り医師を選ぶのと同じ信頼が最大の拠り所となって来るでしょう。そこに薬剤師に対する信頼が生まれます。薬剤師の職能が認識される機会でもあると思います。調剤が鋏を使って調剤を計量するだけでない事が認識されて、調剤料という技術料が理解されねばなりません。それが分業の意義だと私は思っています。マンツーマンが点から点への単線に終ってしまわない様に、着々と進みつつある分業を通じて、薬剤師の仕事の重要性が認識される事を念じています。

九州薬事新報 昭和51年(1976) 1月15日号

 北九州市の 休日急患医療体制について 古賀哲弥

 休日急患医療体制が北九州市で発足してから既に一ケ年になる。市衛生局長が「当市の休日急患体制は全国一の規模だ」と自慢するだけあって、市は之を目玉商品として莫大な費用をつぎこんでいるようである。北九州市薬剤師会は医師会と対等な形で、この体制に参加し、市と直接の委託契約を結んでいる。
ではその大要を記述し各位の御参考に供したい。

 ▽企画及び推進の機関
市衛生局長を会長とする北九州市救急医療協議会が組織されている。そしてこれは三師会、救急病院、官公立病院、警察、市民などの代表、及び衛生局、消防局、病院局、市立各病院長をもって構成されている。(市薬よりは正副会長がその委員として参加)

 ▽診療体系
第一次医療としては、休日急患診療(センター)と休日急患サブ診療所(サブセンター)が之に当り、内科と小児科に限って設置され歯科、外科、特科は在宅協力医ということで之に加わっている。猶近く小外科も設置されることになっている。
第二次医療としては告示病院、官公立病院、企業の病院(歯科は歯科大学)が之に当ることになっている
以下第一次医療についてのみ述べる。

 ▽第一次医療の診療所
@センター
市内中央部に鉄筋コンクリート二階建て延六五七平方米の診療所が新築された
Aサブセンター
門司小倉八幡戸畑若松の各区に夫々一ケ所宛計五ケ所のサブ診療所が設置された。当分の間は各区の保健所施設を休祭日のみ利用するが、近く夫々が新建築されることになっている。
▽勤務者毎の人数

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 ▽勤務薬剤師の報酬(税込み一人額)
昼勤………一万七千円
準夜勤……二万一千円
深夜勤……二万五千円
但し年末年始はこの額に五千円の増額をされる。

 ▽発足後の調剤概数
数字はセンターの一日平均の剤数で( )内は同じくサブ五ケ所の平均剤数を示す。
一月……二四一(六〇)
二月……一一八(四五)
三月……一三四(四三)
四月……一〇七(三二)
五月……二〇六(五六)
六月……一八二(五六)
七月……三五三(六七)
八月……一八一(五一)
九月……二一一(五四)
センターにおいては一日の調剤の約五〇%が午後六時より午後十一時の間に集中し特にサブの終了する午後五時以後からセンターの患者が漸次増加をしてくる

 ▽備蓄薬品
当初市医師会と合議し、センターで百五十品目、サブで各所五十品目ほどの備蓄薬品で発足したが、その後勤務医の要望によって次第に増加し、現在はセンターで約二百品目、サブで約七十品目位になっている。猶この他に注射薬があり之も薬剤師の管理下にある。

 ▽医療事故処理と災害補償
これらについては予め市薬と北九州市とで取交した契約書の中に明文化してあって市の責任で適切な処置をして貰うようになっているが、更に市薬独自に日薬の薬剤師賠償責任保険に加入して勤務薬剤師の万一の調剤事故に備えている。

 ▽市薬としての態勢
市薬の中に休日急患委員会を設置し、委員長副委員長の下各区一名づつの委員をもって組織している。又市薬としてこの事業のための専従薬剤師一名を雇傭して、センター及びサブの医薬品管理、DT、勤務薬剤師の指導監督などの実務にあたらせている。これらに関する経費としては、市と交渉して年間を通じての応分の金額の交付を市薬にうけている。

 ▽この体制参加の利点
@薬剤師会が公的な医療システムに組入れられ、それにより薬剤師職能のPRに大へん役立ったこと。
A休祭日ごとに薬剤師と医師が個々に同席することにより、対等な立場で膝つきあわせて相互の対話がもたれていること。
B休祭日ごとに市内で延十名の薬剤師(主に開局者)が勤務に就いているが、処方せんによる調剤実務のまたとない錬磨の場となっていること。
C以上のことが大なり小なり分業を進める上に大変ん役立っていること。

 ▽最後に
市薬があらゆる障害を克服してこの体制に参加できたこと、又薬剤師として画期的な待遇を獲得できたことについては、この体制発足時の市薬における長野会長と梶原専務理事の政治的手腕と猛烈な努力による成果であることを申添える。

 職能を生かすべく 済生会福岡総合病院 中尾次広子

 かけ声ばかりに終始していた医薬分業が、保険診療報酬改訂を契機として大きく動き出した気配を身辺に感ずる昨今である。福岡県においては、もうかなり以前から開局薬剤師の方の研修の場が設けられてきたので、受け入れ態勢は充分整っているのではないだろうか。それでも、しばらくは転換期のご苦労も多々あることとお察しする。一方、病院薬剤師をとりまく状勢もきびしいものがある。とりわけ、昨年おこった調剤過誤による事故は不幸なできごとであった。いま、われわれはその尊い犠牲を戒めとして強くかみしめている。

 錠剤を主とする処方に忙殺され、ハサミ調剤という不名誉な呼び名を背に感じながら、自らの職能を充分発揮し得る道を求めて、研究に、DT活動に、さらには病棟活動へとその意欲をかりたててきたが、調剤過誤という基本的なミスを犯すと、その努力もすべて水の泡となってしまう。過誤対策に真剣にとり組まなければならないと考える。

 反面、一つの不安がよぎる。つまり、押し寄せてくる処方せんの山を限られた時間内に、ミスなくこなしていくためには、雑念をはらいのけ、大げさないい方をすれば、無心の境地で処方せんにたち向わなければならない。その方が過誤防止の観点からすれば、より効果的だとする見方もできるということである。

 日ごろの研さんによってつちかわれた知識をもって処方せんの内容に深くたち入って考える調剤はむしろ、じゃまな要素になりはしないかということである。そういった矛盾を感じながらも、やはりわれわれはその両者を全うしなければならない。そのためには、ゆとりのある人員、環境、設備の充実といった組織的な働きかけをたゆまなくつづけなければならない。

 ひたすらに処方せん調剤を続けて十数年、そのあい間をぬってささやかながら医学、薬学の知識の吸収にもつとめてきたつもりであるがふとわれにかえってみるとき、一とおりの知識さえ身についていないことに気がつく。能力の限界もさることながら日常の業務は機械的な作業が多すぎる。

 かって一八世紀の数学者シャンクスはπの計算を続け、七〇七けたまでの解を求めるのにほとんど一生かかり、しかも五二八けた目でまちがいがあったという。現在ではその計算をコンピュータは百分の一秒でやってのけ、しかも正確にである。何年か先の世代からみれば、現在のわれわれは調剤に従事する全国の薬剤師を総動員してシャンクスと同じことをくりかえしているのではないだろうか。

 調剤過誤の問題がさけばれるとき、処方せんをまちがいなく、迅速にこなしていくことのみが有能だとする傾向に走ることがあれば非常に悲しいことである。もちろん、人命をあずかる職業であり、ミスは許されないのであるが、単調でしかも正確さが要求される仕事は機械にまかせ、もっと人間らしい、ないしは薬剤師らしい仕事に生きがいをおぼえる時代づくりを急がねばならないのではないだろうか。

 医療面でのコンピュータ化は他部門にくらべ、おくれをとっているが、同様に薬局部門でも管理面以外はほとんど手がつけられていないようである。その推進に興味をみせる人材に欠けるのだろうか。コンピュータ化には多くの経費と時間がかかるので、民間の施設では設置が不可能な場合が多い。予算にめぐまれる大学病院あたりでもっと積極的にとり組んでくださるようのぞみたい。

 コンピュータの値段も年とともに手ごろなものとなれば、一般の病院でも夢ではなくなる。そのためには、いまから素地を作っておかなければならない。より多くの方がその方面への興味をもたれるようのぞみたい。メーカーまかせではすぐれたシステムは生れないし、厚生省などのお役所の出かた待ちもいつになるかわからない。

 さて、高度成長の波に乗って、つくりにつくられてきた薬について、その有効性と安全性の問題が大きくクローズアップされ、いま、反省の気運が高まっているのであるが、われわれはこの問題も避けてとおるわけにはいかない。ともすれば、メーカーの商業ペースに乗せられ、あるいは不勉強のために見落としがちな薬のネガティブ情報にもつねに敏感であらねばならない。やるべきことが多すぎてあくせくしなければならない因果な商売であるが、それを怠たって、薬剤師の先生と胸をはることはできないような気がする。

 さて、薬剤師の男女の構成比率は三対七になったと聞く。女性の免許証がタンスの奥にしまいこまれるのはある程度やむを得ないのだが、優秀な女性の能力が埋れたまま発揮されないのは非常に残念なことである。結婚や育児のために若干の空白があったとしても再び職場にもどっていい仕事をする能力をもつ女性は多くいると信じている。たとえば、子供と一緒に集合の問題を考えるのもよし、つねに柔軟性のある頭脳づくりに気をくばり、さらに医薬の動向にも関心を示しながら、職場復帰に備えてほしい。
戦後、女性は強くなったという。母は一層、底力をもつと思う。数の上だけでなく、質の上でも先駆的な仕事をする女性が増えてくることを切に願うものである。

 卒後研修 福岡市立第一病院 薬局長 吉本喜四郎

 最近の医療社会の進歩は急速な技術革新によって行なわれ、従来の薬学的な知識や技術と経験だけでは対応出来なくなって来て、私共旧い薬剤師にとって、新しい技術の修得と情報の整理が必要となって来ている。まして、従来の薬学教育は、化学系の科目の修得に費やされて、医療に関連する科目は、きわめて少なく、いうなれば「薬を製造する学問」が中心で、「薬を患者に適応する学問」は殆んどなかったのである。従って、私共は在学中に受けなかった、生物学的基礎科目や、医学的科目に関連する新しい薬学を、現在直ちに研修しなければならないのである。

 前日病薬会長の上野高正先生が、かつて或る雑誌に書かれたもののなかに、薬剤師が行なう調剤のメリットとして、@処方内容に対するコンサルテーション−単に処方箋が書かれた時点だけでなく、事前の医師とのディスカッション、それはDT的なものから、約束処方の作成等を含めて。A自分が作った調剤薬の品質保証が出来ること‐薬学的専門知識を発揮して純良医薬品の選別が可能である。B患者の服薬指導が正確に行なえること−当然であるが、これが最もむつかしい問題を含んでいる。少しでも診療内容に影響を与えることのない様に注意しなければならないし、副作用の相談にしても、病状の悪化なのか、薬剤の影響即ち副作用の発現であるか否かの判断が必要なこともあるので、この質問に関しては慎重でなければならない。といっておられるが、これはドラッグコンサルテーションにしても同様で、薬剤の選択に際しても、医師と薬剤師の立場の相異を考えて、より有益なディスカッションを行なうようにしなければならない。

 というのは薬というものは、人或いは動物の保健又は疾病の予防・診断・治療を目的として物質を用いた時に始めて薬といえるのであり、例えばアセチルサリチル酸は、単なる化学物質にすぎないが、これを患者の治療に用いる時に薬となるのである。この薬の選択の際に、物質の側からアプローチしていくのが薬剤師であり、人の側からアプローチするのが医師の立場といえる。人の側、即ち生理、病理等の知識を用いて、薬物療法を最終的に決定するのは医師の業務であって、薬剤師の踏み込むことの出来ない所であるが、使用する薬剤の決定には、薬剤師の業務である物理・化学・薬理等の知識による助言は、現在の治療医学の上からも、必要と求められている。しかし相談に応ずる薬剤師が、病態生理の理解なくしては適確な助言は出来ないのである。壁の向う側に何があるのか、わからなくては、それに向って突進することは出来ない。その向う側に何があるのか?つまり病気のことを知らないで正しい助言は出来る筈はない。

 ではその知識を得る為の研修をどうすればよいかということであるが、当面は各大学の医学部の教授・講師等の方々に、病態生理と薬物療法についての講義を受けるのが良い方法と思うが、それだけでは内容が理解し難く、非常にとっつきにくいのではないかとも思う。出来れば薬系の講師で、これを咀しゃくして、平易に教えるようにした方が、更に良い方法と考える。

 MEDICAL PHRMACY VoL.9 No.1 に掲載されていたことであるが、東京薬科大学とその同窓会である東薬会とが協力して、卒後教育研修会を企画し、第一回が昭和四十九年九月に、六日間にわたって実施された。その内容は、基礎薬理学、薬物代謝と薬効・毒性、薬剤の評価に関する生物薬剤学的諸問題、新しいホルモン薬を中心として−というもので、在学中に受け得なかった臨床薬学教育の基礎、或いは入門的な講義と、新薬の基礎理論及び今日の薬学領域におけるトピックスを包含し、更にウサギの血圧・呼吸・心電図測定。マウスを用いた運動量の測定、ラット組織標本の鏡検等の公開実験や見学実習、視聴覚教育に全身オートグラフィー、ガスクロマトグラフィー、薄層クロマトグラフィーの映画を上映すること等で、受講者の講義を理解し易くする為の補助として用いたとのことである。

 男女約半数づつ、四十代が最も多く、最年長者は男子八十三才、女子六十一才で、職種別には、開局薬剤師二十七%、病院薬剤師二十%、製薬会社勤務者十六%、管理薬剤師八%、主婦が十三%となって、この人達の今後希望する講義は薬理学、臨床薬理学、衛生化学(公害問題・食品添加物)、生化学、臨床生化学、生理・解剖学、新薬情報、漢方の順に多かったとのことである。この様に、一つのグループ単位での卒後研修が、各地で盛んに行なわれているのは大変喜ばしいことと思うと同時に、良い企画は、これを参考にしたいものである。

 福岡市に於いても、現在市薬剤師会勤務部会が、その学術委員会の企画によって、毎月例会として、病態生理と薬物療法について、各大学の医師を講師として「疾患別シリーズ」の講義を受けているが、毎回七十及至百名の参加者があって好評である。開局部会も休日急患センターの医薬品集の解説という形で、病態生理と医薬品の結びつきを、病院勤務の薬剤師が平易にお話をするという試みを行なっているが、この方は好評といかないのは、講師の一人として深く反省している。本当の薬の専門家への道は遠いが、とにかく、医薬学の進歩に遅れないよう、努力を続けたいと思うのである。(50年12月1日記)

 博多ぷり二∞加 正月にわか

 「フテーガッテー、どうじゃろうかい。去年な、小売薬業界が、たよりにしとった適配条例が、憲法違反(違憲‐いけん)で止められて、今迄開業されんじゃった人達が、一せいに、開業しなったが、今度どうなるな、心配ばい」

 「そうたいあんまり競争の激しうなると、共倒れするばい」

 「お正月で、じっと考えよると今年は辰年じゃけん、うんと努力して(役に立つ年−薬の辰年)にしたいなあー」 スハラ

 師走哀感 福岡県女子薬剤師会 会長 田中美代

 科学は人間を置き去りにして、英智をほこり、倫理に閉め出された、文明の盲者達は、汚職と公害を先取りしてほくそえむ。み仏の慈悲に見放された母親が、自らの子供の生命を断って、天に叛くとき。政治は議会で空転し、選挙に憑かれた人達は、師走の街に庶民を放り出して、かえりみようともしない。
低成長下九十余万といわれる失業者にとって、この師走の風は、身に沁みることであろう。

 業権維持のよりどころであった「薬局等の距離制限条例」が、本年四月三十日の最高裁判決によって、その栄光(?)の歴史を閉じたことについて私にも、言いたいことはあるが、今更詮ないことである。
それにしても、薬剤師の権威を認めようとしない、要指示薬品が次から次に大手をふってまかり通り医療用医薬品という名の別格製品が我がもの顔に一物二価とか称して薬価を混乱させて薬局をおびやかす、そしてサービスと添付を要求する人達のため多くのセールスマン達は、その生命をすりへらす。これが資本主義社会の世相というものであるならば、もはやよりどころをなくした人達は、何をたよりにしたらよいのか。

 行政は、とっておきの監視員諸子を動員し、不良医薬品を排除することによって、及ばずながらの力添えをしようとなさっておられるが、はたしてこれが償いとなるかどうか?中小企業団体法や、独占禁止法・再販制度を錦のみ旗と仰言っても、続出する第二薬局や、アウトサイダーに対しては防壁とはなり得ないのである。医薬分業三年目をむかえる来年に、私達は儚かないそして淡い希望をかけて、努力をつづけなければならないのである。

 気に食わなければ「蒸発」という奥の手をつかって「父と子」をおき去りにして家をとび出す同性が多くなった。かつて強くなったものは何んとやらと皮肉られた日があった。靴下とくらべることのよしあしをわきまえぬ私ではないが厚生省に言わせると、おき去りにされた善良な「父と子」の家庭が全国で凡そ二十万家庭あるときかされると、夫婦げんかは犬も食わないことになってはいるものの、いかなる事情があるにせよ善良な「父と子」の不慣れな生活が思いやられる。「父と子」の買い手にもこの不景気な折だけでなくとも「母子保健法」といったような救いの手があってもよいと思うのは、私ひとりではあるまい。いかがなものであろうか。

 かつて大量生産、大量販売というキャッチフレーズで、ビタミンが脚光をあびた時代があった。大量投与による効果が、消費者の選択権をうばい、企業の思いのままに買わされ飲まされたのである。時代は移って数次にわたる再評価が昔の神通力をうばって効果がないときは飲まない方がよいということになった。薬ずきな日本人に、薬の本質を知らせるための、週間行事が毎年行われている。今日の週間行事というものは、大方がマンネリ化した行事となり、どれだけのP・R効果があるだろうか、笛吹けど庶民は踊らずというのが、凡そ現実のすがたなのかも知れない。

 任意分業とはいえ、医薬分業となって二年目が暮れようとしている。師走のあわただしい街の中にはためく色とりどりのビラも薬局の店頭から消え新聞の折込みの中にも見られなくなって、ようやく薬局の権威をとり戻すことができるようになったことはまことに喜ばしいことである。

 一方値引き合戦があとをたたない折柄、最近医療用医薬品について厚生省が「国立病院は医療用医薬品については薬価基準の二五%で購入しなさい。(50・10・21朝日)という通達を出したとか出さないとかいわれているが、ほんとうだとすれば自ら決めた薬価を、自らが破るということになってくるわけで、薬価混乱の責任は国にあるということになる。しかしながら添付とサービスを要求される、医療用医薬品にも、過剰サービスでストックが多くなり、売上率もだんだん頭打ちになって来たようで、自業自得というには、あまりにもみじめな業界のすがたではないだろうか。

 こうして木枯しの吹さはじめた業界に更に「G・M・P」という高度の基準が要求され物質特許法というきびしい戒律が追い打ちをかけて来ることは既にご承知のとおりである。一方天文学的数字の薬禍補償を支払わなければならない「くすり」に、「G・M・P」や物質特許法というものがさけられない規制があってみればこの苦難をのりこえるための努力、薬は患者のためにあって、これをつくり、これを売るもののためのものではない−ということを肝に銘じて反省し、試練にたえることが、業界を救う途ではないだろうか。

 最近男女の区別のわからない若者たちが多くなって来たが、食品業界には、医薬品とも食品とも区別のできないような「のみもの」が多くなって来ている。一方は自らの個性を生かそうとする若者達の純粋な欲望からであるが、片方はまぎらわしい包装と表示でもって消費を期待しようとする、不純な商法といわなければならない。かつて企業の思うままに商品を買わされて来たが、今日の消費者は、だんだん賢くなって来ており、誇大広告や情報につられることなく、これを分析しながら、自らの必要とするもの以外のものは、求めないという主体性が確立されて来ているのである。

 行動する消費者運動が、まがり角に来つつあるといわれるのも事実であり、こうしたことをうけて、一部の消費者が、薬禍からのがれようとする風潮のあらわれとして、自然食品や、健康食品を要求しようとするのであるかもしれないが?だからといって消費者を欺瞞する商法は、許されるものではないし、従って自然食品や、健康食品を取扱う場合には、特別コーナーを設けるのが、薬局の論理というものではないだろうか。

 医薬分業に備えて、日本女子薬剤師会は、有資格者の職場復帰を目的とした、全国的な掘り起し運動を企画し、実行されているのであるが、福岡県女子薬剤師会もこれをうけて、本年の重点事業として、研修会を開催した。県薬剤師会をあげての暖かい御後援と業界の、御協賛によって、予期以上の成果をあげさせて頂き、女子薬剤師会一同、更に昭和五十一年の精進を誓っておりますことを申添え、執筆させて頂きます。一九七五・一一誌

 日薬全体理事会 代議員会2月20・21日に開催 

 新年度事業計画・予算を審議

 日本薬剤師会(石舘守三会長)は一二月一一日(木)全体理事会を開催し@通常代議員会の招集A五一年度事業計画と収支予算B会費値上げC薬学教育などについて協議し、その骨子を左記のようにまとめた。

 ▽第39回通常代議員会
二月二〇日、二一日の両日、東京渋谷の薬学会館ホールで開催。議題は@五一年度事業計画と収支予算A会費値上げの件B役員改選など。

 ▽事業計画案
@福祉社会の基盤造りの推進A分業推進B医薬管理業務の体系的確立とその推進C薬局経営実態調査の実施協力D医薬品流通適正化の推進E医薬品情報組織の整備F未組織薬剤師の組織強化Gその他関連・継続事項の八項目の柱を決めたがこれは今年度計画を踏襲したものである。このうち、細部の目新しい施策の主なものは次のとおり。
○イ各地方薬剤師会に末端組織として班を編成し、班の責任において計画的に協調分業をはかる。
○ロ流通適正化では製造、流通、販売の担当者会議を開く。
○ハ未組織薬剤師の組織化としてメーカー、卸勤務者を対象とする。
○ニ年度内に製薬部会を発足させ、来年度事業活動を行う。
○ホ薬事関係法規を全面的に検討する特別委員会を設けて、当局に意見書を提出する。
○ヘ薬剤師の学識、技術の向上の一環として調剤実習を組織的に実施する。
○ト生涯教育として卒後教育を行う。三ケ年計画で、日本短波を通じて三月から実施する。

 ▽収支予算
総枠四億二千万円とし、会費はA会員千円、B会員五百円の値上げを行う。

 九州山口薬学会役員会 新理事二名を追加決定

 昨秋長崎で開催された第42回九州山口薬学大会の九州山口薬学会総会において既報のとおり、会頭に林清五郎氏が再任され、新役員については後日選考委嘱し本紙々上に発表することとなったが、このほど左記のように決定した。これによると、前役員全員再任されたが、新たに九州大学薬学部衛生裁判化学教室の辰巳氏と北九州市環境衛生研究所の荒牧氏が理事に加わり、現下の薬学諸情勢に対応する姿勢をとられたことが注目される。

 役員名簿
会頭 林清五郎(熊本大学名誉教授)
副会頭 堀岡正義(九州大学病院)
 〃  清水龍夫(長崎大学病院)
理事 井口定男(九州大学薬学部)
 〃 黒田健(福岡大学病院)
 〃 於保誠(県立病院好生館)
 〃 柴崎寿一郎(長崎大学薬学部)
 〃 吉村淳(大分県立病院)
 〃 佐竹健三(熊本大学病院)
 〃 本田幸雄(県立宮崎病院)
 〃 石橋丸応(鹿児島大学病院)
 〃 神代昭(山口大学病院)
 〃 高田勝美(琉球大学病院)
 〃(庶務) 磯田正春(九州大学病院)
 〃(会計) 中島修(福岡大学薬学部)
 〃(編集) 青山敏信(九州大学病院)
 〃(編集) 辰巳淳(九州大学薬学部)
 〃(編集) 荒牧繁一郎(北九州市環境衛生研究所)
監事 河野喜美彦(第一薬科大学)

 「東京商組」設立さる 事業開始は一月下旬 全国的大同団結へ前進

 東薬連を中心として四八年から準備が進められていた東京都医薬品小売商業組合創立総会は一二月一八日午後一時半から、東京大手町のサンケイホールで開かれ、その設立が正式に決定した。また初の理事会で初代理事長に筒井行夫氏(東薬連会長)が選出されたが、事業開始は一月二〇日頃に東京都の認可を得て行われる。

 この結果、東京商組設立を待っていた神奈川、千葉の両商組と共に全商連への同時加入を果すことになり全国小売業者の大同団結へ一歩前進した。また東京商組設立で唯一の空白県となった茨城薬業界も急拠設立の方向に動いている。

 東京商組は直ちに全商連に加入しないとしているものの、現在の全商連に対する批判、不満等を解消するため、東日本小売薬業協議会で意見を纏めたのち、荒川・筒井会談によってスッキリした加入を実現させたい意向である。東京商組理事長は入会後に全商連副理事長に就任するものと予定されている。

 日薬連 新会長に 石黒武雄氏

 日本製薬団体連合会は一二月一九日午後四時から、東京・丸の内のパレスホテルで緊急理事会を開き、鈴木万平氏の逝去により空席となった会長に第一製薬鰍フ石黒武雄社長を選出した。任期は鈴木前会長の残任期間の五一年五月まで。

 理事会後の会見で、石黒新会長は「製薬各団体の統合機関として各業態、地域の協力を得てこの困難な時局を乗り切っていきたい」と抱負を語った。

九州薬事新報 昭和51年(1976) 1月25日号

 処方箋調剤を 実施してみて 八幡地区現況報告と共に 上杉正也

 医療費改訂を期に、医薬分業が現実のものとなって早くも一年を経過した。この間、分業に関してあらゆる角度からの検討が加えられ、議論がなされたが、現状ではすでに分業が行われ保険医療の一翼を担って実践中の薬局が増加しつつあり、医薬分業は着実に地に根をおろし始めた。そこからもたらされる各種の情報が又分業の推進に大きく貢献しつつある。

 八幡における推移を見ても、歯科処方主導型だった保険調剤が、医科処方箋の増加と共に逆転し一年前と比較すると処方箋枚数において六・四倍、請求金額において十二倍に達した(一五〇〇万円)。歯科処方箋について見ると発行医数の大きな増加はないが、発行枚数が着実に増えて一・八倍になり処方箋発行が定着しつつあることが判る。

 医科処方箋を本格的に出している医院は、内科小児科六・耳鼻科二・眼科一・皮膚科一の計十軒で、八幡の開業医数二六〇名からすると未だ極く僅かにすぎないが、処方箋枚数は九千枚を越している。過日来医師会との接触も重ねつつあるが現状では開業医の自主性に任せるという空気が支配的であり、昨年七月二十四日付本誌に報告の様に、今後とも相互信頼を基盤としたマンツーマン方式による分業をより力強く推進することが必要であり、会員皆さんの努力なくしては分業推進は困難と思われる。

 この際特に留意すべきことは、薬剤師の職能をわきまえて、医師へ不信感を与えない様慎重に行動すべきである。実例としてあげれば足の腫瘍痛みを訴えた客に四週間も抗生物質を与え好転せず、外科に見せたときは脱疽ですでに切断する外なかったと、外科医より報告があった。この様な不幸な例も、早期に専門医を紹介してあげる親切心があれば患者には感謝され、医師からは信頼される薬局であったものをと悔まれてならない。一薬局の行きすぎた行為が全薬局の行動として受取られるだけに、分業指向の現況よりして、販売姿勢の再検討、慎重さが望まれる。

 さて、私も去る八月以来マンツーマンによる小児科処方箋の調剤を開始、実務に携る様になった。月間処方箋枚数約五〇〇枚、一日平均二〇枚、最高四五枚、を受付けており平均請求額一枚当り六〇〇円である。

 これまでの状況を報告してご参考に供してみると、受入準備で最も留意したことは、患者が乳幼児で母親がつれて来る関係上待合スペースを多くとるため、店内を整理して約一坪の空間をつくり、ソファーを三脚並べて坐れる様にした。理想から云えば乳幼児の待合室感染予防の上から店内二ケ所に、かなり離して待合スペースを取りたかったが、これは今後の課題である。現況でも月・土曜日・祝日明けの日の様に患者数が多い時には立って待つ状況である。

 調剤室は7平方メートルで新しく導入した器具は引出式錠剤保管庫(ホーザンキャビネット)・投薬びん保管用サニタリーキャビネット・投薬びん滅菌用に電気釜位で、あとは水剤台を一部改善しただけですべて既存のもので間に合せた。投薬びんは六〇mlのものを七五本常時滅菌のうえ用意している。分包器は二、三日分の散剤が殆どで、そのうえ乳幼児が多く特に導入はしなかった。

 調剤用薬品は手持のものも含めて約一〇〇種類、新規の薬品はすべて新しく購入した。手元在庫を少くして回転を上げることに努め新鮮な薬品を提供することにし、併せて初期投資を低く押えた。保険調剤請求後入金まで二ヶ月を要するので、軌道に乗るまでの資金繰りも重要である。

 処方箋調剤実務については職能発揮の場であるので特に苦慮することはなかったが、誤薬調剤ミスの点については慎重の上にも慎重を期して万全をはかっている。処方箋持参の患者には分業の利点を徹底してPRし理解を得るにつとめた事は勿論である。

 保険調剤のうえで今一つ重要なのが請求業務で、これに精通していなければ分業が苦痛になるが、幸いにもこれまで歯科処方箋を月々一〇〇枚平均受入れていたためある程度慣れており、内科処方が加わってもそれ程困難はなく、滞りなく処理している。その方法は当日受付分はその日の中に明細書書きをしているので月末には一日で請求書を完成しており、慣れてくるとそれ程時間を要するものではない。

 未だ4ヶ月程の経験であるが、当事者双方ともに分業の良さを享受している状態で、月に一〜二回必ず医院を訪問し、業務全般について打合せを行い、密接な連絡のもとに順調に推移している。分業による薬剤師職能の確立と、医療担当者としての生きがいの創出は、大いに喜ばしい事であるが、更に経済的にも薬局経営上大きく貢献することは間違いのないところで、乳幼児処方箋についていえば五五%位の粗利益が見込まれる。

 ただ私の様にワンマン薬局では月曜から土曜午前中は完全に拘束され、研修会・会議等日中の会合には出席が出来なくなるが、これは将来皆さんがその様になっていくので、医師会の様に多種の会合はすべて土、日夜間に設定する様に代えて行かざるを得ないだろう。

 八幡の状況と私の僅かな経験をご披露したわけであるが、医師の中には分業を真剣に研究しておられる先生も増えつつある様に感じられる。積極的なアプローチを繰返すことにより、より多くの薬局が、調剤薬局として前進される様祈って止まない次第である。(八幡薬剤師会副会長)

 天上天下唯我独尊 福岡県学校薬剤師会 内田数彦

 これは去る十一月三日、菊花薫る文化の日、この佳き日に、福岡市教育委員会より、教育表彰者として表彰されたので、おれが一番偉かっちぇというて、こうかつて書いたと思はっしゃたら大間違いですバイ。この表彰は市学薬会長・馬場正守先生の綴り方の良かったけん出来たもので、先生に感謝しています。天上天下唯我独尊ということは、私がいうた事でも考えた事でも無いことは、皆様の方が百も承知のことです。

 これはお釈迦様がお生れになって、七日目に東を向いて七歩あるき、右手を高く天を指して、大きな声で、天上天下唯我独尊とさけばれたということになっています。又は、四方八方に歩き、右手を高くあげ、左手を下にして、叫ばれたともいいます。

 馬とか鹿は生れ落ちて、数時間経っと、スックと立って、ヨタヨタ、ピョンピョン歩き廻りますが、人間様は、そうは参りません。然し、世界に冠たる、印度大哲学の創設者であるお釈迦様のことで私共凡夫とはいささか違いましょう。いつも暑い印度でお釈迦様の事だから生れたらすぐあちこち歩き廻られたのでしょうが、これは、そこらをああちこちはい廻りオギャーと泣かれたのを印度ではどう泣かれたかは解りませんが、後の人が、お釈迦様のことだから、うまいこと考えて、天上天下唯我独尊になったのではないでしょうか。

 独尊ということは、誰よりもえらいということで、これを私は、誰よりも偉いと解釈していたので、私は間違っておりました。お釈迦様のことだから、天上天下におれが一番偉いといはれても良いと思っていた。天上天下に我が一番尊いものである、自分が一番大切なものである、大事にしなければならない。
自分自身を大事に取り扱はねばならぬということらしい。

 天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず、四民平等であると庶民に学問を奨めた福澤諭吉大先生がいはれた、独立自尊と同じようなことではないでしょうか。これに異義がありましたら、どしどしご投書を。

 日本卸連、卸勤務薬剤師の実態調査

 日本医薬品卸業連合会(渡辺徹太郎会長)は卸勤務薬剤師の組織化を急ぐ方針である。日本卸連は、組織化の手はじめとして、卸勤務薬剤師の実数を把握することが必要であるとし各都道府県医薬品卸協組に対し@勤務薬剤師の氏名A年齢B会社内での待遇C地区薬剤師会への加入の有無などを調査するよう指示している。

 都薬審の薬局等視察、販売姿勢悪し

 東京都薬事審議会流通部会は一二月五日、薬局・薬店における医薬品販売実態を調査するため池袋、新宿の薬局等一〇軒を視察した。この視察は販売姿勢の良好な店、余り好ましくない店と、薬事監視員が判断した店をピックアップして行ったものであるが、視察した委員の一部は、「医薬品を販売する店としての認識を欠いでいる店が多い。やはり姿勢が問題だ」との感想をもらしており、医薬品広告についての結論も、厳しいものとなることが予想される。

 東京薬大、「医療薬学専攻科」新設

 東京薬科大学(長瀬雄三学長)は新年度から「医療薬学専攻科」を新設する。対象は学部卒業生とすでに社会へ出ている者で定員二〇名。教科内容は病態生理、臨床薬理、薬剤学、医薬品の管理・情報‐などが中心となる。一年のうち、一〇週間は実習で研修病院も約束済みという。病院では薬局だけでなく、医師とも交流して実地研修することになっている。

 過ぎし日々(4) 中冨丘邦

 大正時代、義務教育は尋常小学校六年までで、この上に二年過程の高等小学校というのがあって、郡部では一般に尋常小学校に併置されていたが、その頃は高等小学校に進学する者は少なく、まして尋常小学校六年から中学校や商業学校、工業学校などの所謂中等学校に進学する者は極めて少なく、一町村から数名程度であった。

 当時、鳥栖地方には中学校はなく、この辺から中学に進むには、佐賀の佐賀中学校、久留米の中学明善校か甘木の朝倉中学校しかなかった。その頃、わが母校田代尋常小学校では中学進学志望者は、放課後、予科という補習の組で勉強させられたが、なぜか私はその予科に入れてもらえず、子供心に淋しい思いをしたあの頃の事は今だに忘れられない。受持の先生から、私の家庭が子供の進学を望んでいないと見られたのか、それとも中学にやるだけの学資がないと見られたのか今もって私には分らない。

 その頃、久留米に中学受験の予備校があった。その予備校には、鳥栖、三養基の方からも行っている者がいたので、私も中学に進みたい一心で父に相談したところ、父は、そういう事は校長先生(小学校の)に尋ねて来いと言うので、当時は久保といわれる校長であったが、私はひとりで校長宅に行き、予備校に行ったが良いかどうかを尋ねたところ、「行かないより行った方が良い」と至極曖昧なご託宣であった。

 私は元々が行く気であったので、父の許しも得、その予備校に行くことにした。大正九年、三養基郡中原村に、当時佐賀県東部唯一の中学校として県立三養基中学校が設けられ、私はこの三養基中学校を受験することになったのであるが、入学試験の当日、試験場の中原小学校に、今は故人である当社の元監査役、当時気鋭の薬剤師であった緒方勇氏に連れられて行った事など、今は懐しい少年時代の思い出である。

 予備校通いの甲斐あって、めでたく合格、両親の喜び様も又ひとしおであった。入学当時の三養基中学校の校舎は、一棟の半分が出来たばかりで、何も彼もこれからといった状態であった。校長は前間といわれたが一風変った人で、ゴム張りの編上靴にゲートル巻きという出立で登校、教室にもその靴のままという大変な先生であった。年少教育、早期教育をモットーとし、我々の様に予備校まで行って来た者は好まれなかった。

 教室には未だ机もなく教科書すらもないあり様で、地理の授業には高等小学校の教科書の一部を用い、英語など全くなく、理科は四月、五月、背振山麓の野原に出かけ、実地に草花の勉強というやり方であった。国語の寺田先生は、毎日、半截の洋紙一枚を生徒に配り、作文の宿題を課しておられた。ところが、家業は久光兄弟合名会社と一応は会社であったが、家族総掛りの文字通りの家内工業、学校から帰ると直ぐ家業の手伝いをしなければならないので、満足に作文など書けよう筈もなく、宿題が出れば、万事休すであった。

 然し、只一回だけ、校庭の東にあった森の中の山桃の樹の下に行って、ちらほらと、日がさし込んでいる森の中の風景を文にまとめ、寺田先生に提出したところ大そう褒められ、その時の嬉しさは、古稀を迎えた今でも忘れ難いものである。そんな事があってから間もなく、私は三養基中学校を退校させられることになった。

 理由は、作文を出さなかった事もその一つであったらしいが、決定的なのは、放課後、久留米から通学している梅野君という学友が、校舎の横にひとり佇んでいるのを見つけ、同じ汽車通学の仲間でもあり汽車の時間に遅れるからと、事情も知らずに引張って帰ったのがいけなかった。梅野君が校舎の横に立っていたのは、実は、何かやらかして立たされていたのである戒めのため立たせている生徒を連れ去ったのであるから、学校当局が怒るのも無理からぬ話ではある。

 無論、お節介な私の非は認めざるを得ないが、あの時梅野君が「自分は立たされているのだ」と、ひとこと言ってくれていたらと、今だに残念に思っている。退校の屈辱に私は穴にでも入りたい思いであった。父は訳を聞いて、別に何とも言わなかったが、それだけに済まない気持でいっぱいであった。

 漸く落着きを取戻した頃「久留米の明善校で新規蒔直し」の話が持上がった。明善校では、私の退校事件の経緯を知っていて同情しているとの話であったが、三養基中学に一学期だけは通ったものの、入学試験の足しにはならず、再び久留米の予備校に通い、翌年春明善校の入学試験に合格、晴れて明善校生として再出発の感激は筆舌に尽し切れないものであった。

 長崎市薬業会理事会 小売薬業競争のルールを策定確立

 長崎市薬業会(代表委員=隈治人、松尾貞義、清水龍夫)は一二月一六日午後二時から温仙堂ビルで理事会を開催。当日は特に滑石地区会員の参加も求めて、当面の問題について協議した。その主な内容は

 ▽市場情勢
@一一月下旬から滑石及び北地区で育児用乳製品の値引きやチラシ折込み宣伝が行なわれ、それらに対応する地区一般の値引きなどで混乱状態を来たしたが、本会代表委員会と卸・メーカーの収拾行動の結果、この状況は一二月一六日までに沈静したが、今後全会員の冷静な対応が必要である。
A再販品については現在特記すべき異徴はない。

 ▽公正な競争について
業界の活気を維持し、不況下の沈滞を防ぐため、消費者への適正なサービスを促進することは経営および薬事の姿勢として当然望まれることである。しかし競争は公正であることが望ましく、一定のルールを常に意識しておくことが重要である。このことについて代表委員会では基本的なルールを作ることが必要であると考え、これを策定、提案し(別掲)、全理事の了承を得た。

 ▽情報
目下鹿児島市では新しい団地内で医薬品と関連商品の烈しい価格競争が起り、それが全市内に波及して収拾困難な状態になりつつある。この問題は九州地区三者懇(小売、卸、メーカー)に提起されたが、前途は楽観を許されぬという。本会にとっても他山の石とすべき事態である。

 小売薬業競争のルール
 (1)医薬品の再販契約については相互確認の公的な相務規定であるところから、各小売薬業は信義を守り、契約最低価格を確実に履行すること。

 (2)育児用乳製品についてはその非利潤性、在庫による金利負担などから考え、これをオトリ商品化し、又は単発的なサービスの具に供することは、業界全体にとって経斉的負担を徒らに加重し、また必要な他のサービスを放棄せしめることになるおそれあり、一般消費者にとってかえって不利益になる。よって育児用乳製品については価格以外のサービスによって消費者に奉仕すべきであること。

 (3)薬局薬店の品位を保ち、医薬品の軽視や乱用を防ぐため、医薬品の店内価格吊りびらはこれを全廃すべきである。医薬品以外についても、当然品位と体裁を重んじ、なるべく吊りびらをしないこと。
 (4)折込みちらしについては事前に必ず行政当局の点検と注意を受け、県の医薬品広告規制要綱に適合するよう、自ら自粛すること。

 福岡県薬理事会 代議員会開催は3月26日 51年度予算案前年比8%増

 福岡県薬剤師会(長野義夫会長)は第二四四回理事会を一月一三日(火)午後一時より、県薬剤師会会議室で開催した。当日は、神谷専務理事の司会で開会し、長野会長の年頭初の理事会開催に当っての挨拶があり、次いで議事に入り、報告・協議が行われたが、そのおもな内容は左記のようである。

 ▽報告事項
一二月以降の報告と情報について神谷専務理事より報告あり、その概畧は次のとおり。
(1)厚生省よりの保険薬局個人・集団指導講習会
一二月五、六の両日、県薬剤師会館で実施。厚生省保険局・渡辺技官によれば福岡県は処方箋応需の体制が整っているとの好評を得た。 (2)九州山口各県薬代表者合同会議
一二月一〇日開催。来るべき衆院選に、日薬推薦候補三名のうち二名が九州より出るのでその後援会の積極的な盛り上げにつき意見の一致をみた。
(3)薬業忘年会
福岡県薬業団体連合会主催で一二月一五日開催。
(4)医療協議会
一二月二六日に開催され席上、千鳥橋病院(民医連)の第二薬局の件につき医師会の指摘を受けた。調剤薬局の許可基準には適合するので、一月一日付で県より許可されたが、病院敷地内であるなどのこともあるので、今後の問題として基本的に検討すべきと思う。なお、同薬局は薬剤師会に対する協力は全面的に諒承している。
(5)薬業年賀会
九州薬事新報主催で一月五日開催。副知事、県医師会副会長等の出席を得た。
(6)一二月の保険請求
一億三千万円を超えた。小児科関係の処方箋が増発している。特に行橋、八幡西区、福岡市にハッキリ現われている。
(7)医療費改定情報
日医会長の選挙につき、病院協会の同意を得るため信ずべき筋からの情報によれば医療費改正≠ェ近い模様。
(8)敬弔
・三宅須美さま(三宅清彦理事の母堂)
・平木孫治氏(大牟田市)
・原田平五郎氏(福岡市)

 ▽協議事項
(1)代議員会開催について
三月二六日(金)開催。この代議員会日程決定にともない、本年度最後の理事会・支部長会は三月九日(火)に開催する。
(2)五一年度予算(案)について
昭和五一年度予算額(案)四千一八万一千円。前年度三千七百四五万五千円対比八%アップ。
日薬のA会員千円・B会員五百円アップと、県薬はA会員千円(B会員アップなし)アップとして算出。
(3)薬務課連絡事項
@諸新生手数料等の全面的改正値上げ。
A県薬務関係の書式を四月より簡畧統合の線で変更。
(4)調剤研修について
@厚生省、分業指導者協議会への出席者
三月六日広島で開催されるが、出席者は県薬務課、県病薬、県薬の各一名の日薬基準の外に、県病薬二名県薬三名が出席し、県内における研修会の強化を図ることとする。
A調剤業務研修会
前@項の協議会後に行うので、五月連休明けに実施する。なお研修会時に使用する資料「調剤と調剤実務」は県薬にて取揃える(一冊九〇〇円)。
B県薬事審議会委員について
県薬剤師会代表委員の任期が二月で期限となるにつき、長野会長が就任することを理事会で認めたが長野会長は健康上の理由で固辞したので、白木副会長が県薬代表として就任することと決定した。なお審議会の開催を積極的に働きかけることを確認した。

 臨床検査十年 早良病院 小嶋暢子

 ふとしたきっかけがもとで私がこの道に入ってから早くも十年の月日が経つ。「初心忘るべからず」というが、この分野程初心を忘れずにすむ所はあるまい。やる気さえあれば、新しい仕事はいくらでも見つかる。決して退屈しない。殊に、医師と共に研究の一端を担当するようになれば、意欲は増加する一方である。

 まだ私が馳け出しの頃、即ち薬局勤務の頃、一般病院の検査室といえば、血液、尿、便、胃液酸度の測定をする程度であった。今日のような光度計、自記濃度計、更に進んでオートアナライザー等を備えた検査室など想像だにしなかったものだ。

 さて私が、本気になって臨床検査に興味をもつようになったのは、確か昭和三十八年の事であった。結婚後病院勤務をやめ、学令前の子供二人を抱え、管理薬剤師として働いて居た頃、某試薬問屋主催で、「血清トランスアミナーゼに関する講演会」が開かれた。当時衛生検査技師免許を受動的に取得していたので(薬剤師免許所有者には申請だけで免許が与えられた)問屋から招待されたわけである。

 当時九州大学中検部長であったN教授から、初めてGOT、GPTに関する講演を伺った時のあの感激。
「これだ!。やるならこれだ」と心で叫んだ。生化学、分析学の応用なのである。而し興味を持ったからといって直ちに検査室に勤めるわけには行かず、その後二年余りは管理薬剤師として平凡な日々を過した。

 昭和四十一年の初め、高血圧症の母に附きそって近所の病院に行き、内科医と雑談して居た所、「うちの検査室に技師が居なくてねひとつ、あなたやってみませんか」。との話がもち上った。もちろん異存はなくOKして、一週間後には検査室に収っていた。而しいくら憧れていたとはいえ、実際となるとまごつきの連続であった。向こう(病院側)はライセンス所有者が来たからと、検体を送り込む。

 受ける側は新米技師の私と、新米助手二人、それに時々手伝ってくれる看護婦の四人。これでベッド数約四百の血液一般、尿、細菌、生化学、脳波、心電図をさばくのだから大変なことである。幸い、近くの総合病院のI技師が時々応援に来てくださるのを頼りに、私の新しい道が開けて来た。

 全く新しい実技として、血液採取から始めた。人様の耳朶を傷つける−これは普通なら危害行為である
かみそりの刃を鋭く折って耳朶をポンと突く。狭く深く。理論的にわかったつもりでも、いざとなると手は震え、顔面は紅潮、額にびっしょり汗をかいて、時には自分の指を切ったこともあった。先輩の看護婦から「大根か梨を稽古台にしたら」。と指導されたこともあった。

 次に心電図、胸骨を数えるため、数多くの人の胸に手を触れるのも、新しい経験であった。而し、一ケ月もたつと、これらの仕事を体で覚えてしまった。それにも増してもっとも大事なのは、臨床検査全体の把握である。勉強、勉強と思っても、ジジ、ババ、ダンナ、コドモ二人のひもつきの身の上である。まともに本を読む時間がない。考えあぐねた末、家族全員が寝静まった十二時頃から起き出して、夜中の二時から三時まで読み続けた。頁を繰る音に気を使い乍ら二ケ月程で「臨床検査法提要」約八百頁を読み終ったが、今になって思い起す度に、我乍らよく頑張ったものだと感心する。

 その後、薬剤師、検査助手と増員し、仕事も順調に軌道にのり二年程経った頃K女史の紹介で現在の病院に転職する次第となった。以前の病院に比べると、ベッド数百の小さなものであったが、検査に対する医師の関心が深いことが、私の大きな励みとなった。

 そこでまず手掛けた事は血糖検査法の改良である。従来の静脈から行っていた五回の採血を、すべて耳朶採血に切りかえ、患者の苦痛を軽くした。と同時に、それまで使用されていた既製試薬−いわゆるキットを可能な限り自家調製してコストダウンをはかり、一方で徐々に、電解質、酵素、ホルモン、血液ガスというように検査項目をふやし続けた。その間検査員も、五人、六人、七人と増え、一昨年末病院が新築され、検査室のスペースも以前の二倍と広くなったのを機会に、今春薬剤師を一挙に三名採用して、十名から成る世帯となった。内訳は、薬剤師五名、検査技師二名、助手三名である。仕事は私の力の及ぶ限り手をひろげたいと思っている。

 以上が思い出すままに綴った私の十年である。月並みな言葉であるが、ここ迄来るには、私なりに苦労も努力も重ねたし、その間に幾度投げ出そうと思ったか知れない。今私の希望は、折角作りあげた職場だから、薬剤師の後輩にゆずりたいという事である。病院薬局が、薬剤師を主体とする職場であるように、臨床検査室もまた薬剤師の職場に出来ないものだろうか。若い薬剤師の方々に、じっくりと臨床検査を見直してくださることを願う次第である。

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 森下泰議員談 薬剤師も医療担当者 講習会に参加

 森下泰参議院議員は七日記者会見したが、その談話内容は次のようである。

 ▽五一年度予算の獲得では大蔵省の厳しい査定の中で分業関係で調剤技術及び実務研修費(三百十四万四千円)、調剤薬局DT資料整備補助金(百二十三万一千円)が認められ、公衆衛生局関係では循環器疾患研究費一千万円がついた。日薬が要求していた調剤報酬の源泉徴収の改正は周囲の情勢から実現不可能なので、五二年度は現行の基礎控除五万円を十万円に引き上げるよう、調剤薬局の優遇を働きかけていきたい。

 ▽厚生省保険局関係ではこれまで医師、歯科医師が参加していた医療担当者指導者講習会費が百十八万円増額され、これに薬剤師の参加が認められた。国保助成金は一兆二千八百七十五億円で、臨時調整補助金が百三十二億円となった。文部省関係では僻地医療器具整備費九百三十二万円が新に認められ、学校薬剤師が使用する検査器具の購入費として利用できるようになった。

 中医協を早期開催 厚相、円城寺会長と一致

 田中厚生大臣は七日午後一時から東京都内中央保険医療協議会の円城寺会長に会い、空転を続けている中医協の再開について早急に再開して欲しい−と要請した。

 これに対し円城寺会長も厚相の要請を了承「できるだけ早く開催にこぎつける」ことで双方が一致した。
しかし中医協の再開に際しては、支払い側は、まず診療側が再度委員会を総引き揚げさせないことを明確にする、いわゆる中医協正常化問題を再開の前提条件にしているため、円城寺会長は両者の意見調整工作に乗り出す方針である。具体的な開催の期日について、田中厚相は会談後の記者会見で「再開の条件整備には若干の時期を要しよう」と述べ、早くても今月下旬になることを示唆している。

 県薬だより

 分業情報

 ▽福岡県
@保険薬局数は、一月一日付九薬局の指定により九六〇薬局となった。
A十二月分の保険調剤請求集計の結果、一億三千万円となった。これは前年同月比三倍強である(前年同月三千六百万円)。
B一月になり小児科関係処方箋が増発されている。特に行橋、八幡西区、福岡市にハッキリ現われている。
C前B項につき注意すべきことは‐
・小児用量の研究
・小児内用液剤の容器の消毒と保管
・請求に当っての精製水の加算
▽信ずべき筋からの情報によれば「医療費改正」が近い。(その根拠は日医会長の選挙・病院協会の同意を。

 酒税法改正で養命酒値上げ
養命酒製造鰍ヘ一〇日から酒税法改正(酒税増税)に伴い、養命酒の価格を次のように改定した。
・千ml入り…小売希望価格千二百五十円(従来千二百四十円)
・七百ml入り…小売希望価格八百八十円(従来八百七十円)

 日学薬

 東南アジアの旅(1) 馬場正守

 「私の息子は五十才」
十一月十六日午前六時、東京都浜松町のモノレールに並ぶ。未だ遠くのビルは深い朝もやにかすんで見える。始発であるが、荷物を持った人、肩から下げた人が煙草をせかせかと、そこで忙がしそうに足踏みしている。昨日は午後三時の全日空で、福岡から東京へ飛ぶ小雨の中を大門旅館に入り十日間ばかり離れる畳の感触を、十分に味わっておく。

 夕食は天ぷらと魚の塩焼きと、野菜の味噌あえで、日本料理の味を噛みしめておく。二本目の煙草に火をつけた時に、日学薬会長の永山先生が、中年の紳士と一緒に見える。「お早ようございます。見送りですか」と挨拶する。「僕の代わりに息子をやります」との返事で、半分白髪の紳士は「どうかよろしく、永山省三です」、いやに息子と云う言葉が気になる。永山会長が七十才なら、なる程五十才でも息子になる筈だと感心しながら「どうかよろしく」と、ずっと年若い私は返事をする。

 生まれて始めての海外旅行だから、どんなになるか判らない。一番大きな車つきのカバンを持って来て、ゴロゴロと押してゆく。東急観光の佐藤さんの姿を見つけてグループの分と一纏めにする。夫々に名前札をぶら下げる。VIPルームに入ると一行が揃っている。団長は元山先生、その横に落ち着き払って奥さんの姿も見える。オレンジジュースを戴いて、ほっと腰かける。十一月の中旬に夏服のスーツである。未だ朝の冷気が部屋の中に残っている。出発時の元気の良い所を一緒に写真を撮る。

 部屋の外は廊下にまで人と荷物で溢れている。何度用を足しに行っても、一人で満員である。一階国内線の所まで忙がしく出かけて見るが、満員である。立ちんぼして別に並ぶ。今の時間は出発便でごった返す時に違いない。用を足したら腹が減る。種村先生、鷺先生と一緒に朝の軽食を摂る。種村先生は厚い本を開いて勉強中である。「なんですか」と尋ねるとインドネシア語との事。薬剤中尉で長い間インドネシアに滞在されていたらしく、仲々馴れた発音であるが、兎に角私にはチンプンカンプンである。午前八時半、税関、出国手続、検疫を終わる。

 さあ、待っていた免税品のショッピングが始まる。お酒の好きな人は、ジョニ黒一八〇〇円に飛びついている。大変な人だかりで呼吸も出来ない位だ。私はロングホープをワンカートン(二〇本入り一〇ケ)を十五分がかりで買う。日本円は三万円まで、米ドルは地上費を差引くので一〇〇〇ドルまで持参可能である。貴重な日本円四七〇円をここで消費するすると半分以上は税金だと感心する。夏服の寒さもここではうっすらと汗が出る位の人いきれである。タイ航空六〇一便まで、バスで案内。途中台北に寄るとの事、座席は私が体が太いのと、ゆっくりしたいので、中央の道路側を希望する。15Dである。これがあとで苦労する座席とは全然わからなかった。

 筆者紹介 福岡市学校薬剤師会長 福岡市東区箱崎で開局

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 ▽投書欄こだま
老人医療費に思う=飯塚市、無職、73歳。…医療無料化に踏み切った当時、一挙に無料にせず、或る程度条件をつけておけば、反対どころか感謝されて何の抵抗もなかったと思う。そうしておけば、今のような待合室の老人クラブの集会所化もなかったのではないか。(西日本新聞1月8日)

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