通 史 昭和50年(1975) 日薬−県薬−市薬
九州薬事新報 昭和50年(1975) 8月5日号

 福薬連理事会 会内用活発化 政治力の強化も

 福岡県薬業団体連合会(長野義夫会長)は七月一六日(水)午後一時半より、福岡県薬剤師会会議室で第三回理事会を開催した。

 当日は連合会構成の一一団体の理事ならびに県薬務課より岩橋課長、上島氏と国松顧問が出席し、神谷専務理事の司会により開会、まず長野会長は「薬業に携わっている我々の身に入ってくることは非常に複雑多岐で、前途どうもっていくか憂うべき問題が非常に多い。ごく最近では乳業の公取委関係判決、東京・関西で大規模な小売店の進出−などがあり、反面良い傾向としては医薬分業進度が少しづつ増加してきている。喜ばしい事と、心配の事柄がありますが、我々同じ目的に進んでいる者として、よりよい未来を築いていきたい。色々と意見を出し、十分に討議願いたい」と挨拶、次いで長野会長が座長となり報告・検討が行なわれたが、その内容の大略は左記のとおり。

 ▽薬務課 ◎岩橋課長
@全国薬務課長会議について
適配失効問題をテーマとした全国薬務主管課長会議は六月一八日厚生省講堂で開催され、今後の対策として○イ薬局等の管理態勢の適正化○ロ販売態勢の適正化○ハ薬局の乱立防止、などが柱となった。県としてはこの三つの柱を中心に行政指導を推進する、なおこれに処方箋応需を踏えての施策を加えて進みたい。

 Aサリドマイド保証について
このたびは、これまで保証されていないものについて行われたが、本県では一八名中、一五名が新しく認定された。

 ◎上島氏
@第五次再評価が行われた関係文書は数日中に送付。
Aベンチジンについての説明ならびに通達。

 ▽薬剤師会
@九州中央病院誤薬事件に関連して日薬の薬剤師賠償保険への加入要請を推進中。
A九州山口薬学大会は、一〇月一六・一七日の両日長崎市で開催。
B医薬分業推進状況は順調に経過中。六月度の処方箋取扱い薬局数は四三四でこれまでの最高、金額は約七千万円で前年同月比三倍と著増。

 ▽商組
商組とメーカー、卸による三者懇の状況報告。なお七月二四日に九州山口各県の三者懇を当県薬会館で開催予定。
▽製薬工業協会
同協会の現況報告が行われ、試験機関である薬業試験所についての説明あり。なお、GMPについては構造設備の改設に当面し、県薬務課の指導の下に、前向きに推進中。

 ▽福乳会
先日新聞にのったヤミ再販のことは一〇年前の事柄であって、現在販売上の問題はなく、また大勢にも影響はない。母乳運動も落ち着きを見て解決した。

 ▽試薬協会
ベンチジンの件について薬務課報告の補足説明が行われた。同剤の手持ちがあれば当協会へ持参されたしとのこと。

 ▽医薬品卸売業協会
吉村副会長より、日本医薬品卸としての中央情勢に関し@正副会長とメーカー(流通委員会)の合同会議A厚生省への要望B日薬との分業検討会C全国商組・メーカー・日本卸連による中央流通懇‐などの報告あり、特に昨一五日開かれ、最も新しいCの報告のうちで、第二市場の縮少化と再販契約の完全履行について三者の意見の一致をみたことは注目をひいた。

 ▽歯科用品組合
県内、外の業者の実状と現在県外よりの攻撃進出が激しいことが報告された。

 ▽その他
@業界として政治力の強化が必要な点が提言され、森下泰参議院議員の選挙体制について後援会の運営と会員増加、衆議院選挙も早まる状況下にあることなどより、種々意見の交換が行われた。
A次回の理事会は九月一六日(火)午後一時半より福岡県薬会館会議室で開催と決定。

 昭和49年度 福薬国保事業概況について 工藤益夫

 福岡県薬剤師国民健康保険組合は、昭和三十三年四月、国保事業を開始してから、十七年を経過し、昭和四九年度国保事業と歳入歳出決算を無事報告しうることとなり、ご同慶にたえないところである。その間、国保制度の改正、社会福祉医療の拡充に伴う国保への波及、社会情勢の変化等多くの国保事業運営上の難問題を生じたのであるが、関係官庁の積極的ご指導とご援助、また組合員、被保険者を始め関係各位のご協力により今日まで事業を推進することができ感謝いたす次第である。

 昭和四十九年度は、昭和四十八年の石油ショック以来の狂乱的物価上昇と、昭和四十九年二月の診療報酬点数表の改正(一七・五%アップ)等により、医療費の伸びを前年対比四〇%と想定し、保険料の改正その他必要な措置をとり予算を編成対処したのであるが、昭和四十九年十月、年内再度にわたる診療報酬点数表の改正(一六%アップ)と重症患者の発生により、昭和四十九年の年末は財政破綻の危機到来を思わせた。そのためあらゆる財源をもって補正予算を計上し対処したのであるが、幸にも昭和五十年にいり重症患者の転帰等により、医療費は若干ながら不降したため財政破綻をきたすことなく決算できたことは幸であった。重要項目について説明すると

 (1)被保険者数…昭和五十年四月一日現在組合員四三七人、その他一、〇六四人計一、五〇一人、前年同期に比し組合員一九人その他八一人計一〇〇人の減となっている。

 (2)世帯構成人員…一世帯当りの被保険者数は三・四三人で前年同期に比し〇・〇八人減。組合が事業を開始した昭和三十三年の四・五八人を最高に年々減少しつつある。

 (3)財政状況…昭和四十九年度の決算書によれば、歳入六、四二三万円、歳出五、三四四万円、歳入歳出差引残高一、〇七九万円となるが、歳入中に昭和四十八年度からの繰越金七六七万円と国庫支出金の過交付分(返還を要するもの)約四八万円を含んでいるので、単年度二六四万円の黒字となる単年度の決算黒字は三年ぶりである。歳入の比率は、保険料五六・二%、国庫支出金二八・九%、繰越金一一・九%、その他三・〇%。歳出の比率は、総務費九・二%、保険給付費一〇〇に対する保険料額の割合は七八で前年度(六四)に比し若干改善されている。

 (4)医療給付…受診率は前年対比わずか七・〇%の伸びにすぎないが、一人当り費用額は四〇、四〇四円で四六・六%の増、一件当り費用額は一〇、九四七円で三七・二%増と大幅の伸びを示している

 (5)老人医療…対象者は一一七人で全被保険者の七・六%である。老人の受診率五二八%、一件当り費用額一五、三八〇円、一人当費用額八六、六一八円で、全被保険者分を一〇〇とした場合、老人は受診率一四三、一件当費用額一四〇、一人当費用額二一四の高率を示している。

 (6)高額療養費…昭和五十年一月診療分から適用しているが一月〜三月分の対象件数は三〇件、支給額五一万円である。

 (7)その他の給付、助産費の年間給付は、二三件で前年対比八件の増、葬祭費の年間給付は八件で前年対比六件の減で死亡者は組合員四人その他四人である。以上、昭和四十九年度国保事業について概要を報告したのであるが昭和五十年度は、診療報酬点数表の改正、被保険者の老令化、社会福祉医療の拡充に伴なう国保への波及、高額療養費支給による保険者負担分の増加等が予測され、国保財政はいよいよ増大するものと思われる。昭和五十年度予算編成にあたっては、一応前年対比三〇%増として保険料その他の改正を行ない対処しつつあるが、今後とも被保険者各位の積極的ご協力を願ってやまない。
(福薬国保常務理事)

九州薬事新報 昭和50年(1975) 8月15日号

 九州山口商組 ポスト適配、流通で積極的な討議を展開

 九州山口ブロックの医薬品小売商業組合(白木太四郎ブロック長)は各県理事長会を七月二四日(木)午前一〇時半から、福岡県薬剤師会館で左記の一二名が出席して開催した。

 ▽佐賀県=木元金次郎、島正之▽長崎県=堀正夫▽熊本県=堀川健年▽鹿児島県=山村実治▽宮崎県=矢田部政雄▽大分県=益田学▽山口県=宗岡義雄、由利吾一▽福岡県=白木太四郎、藤野義彦、山手陽一。

 当日の協議会は藤野氏の司会で開会。中央から特に参会した荒川全商連理事長の情況報告と所信(要旨後掲)が述べられてのち、議事に入り@流通秩序の正常化A各県商業組合の現況B再販制度の防衛護持C行政の正常化DOTC薬の防衛洗い直し、大衆薬の護持E大衆薬シェアの確保F薬局乱立による必然的ディスカウントに対する処し方G情報提供‐について真剣な討議が行われた。

 そのなかで、特に各県商業組合の現況報告は具体的な諸種の問題の指摘が活発に行なわれ、@鹿児島県に対する北部九州よりの商品流入の対処A大分県で実施中の広告委員会制度の成功例にかんがみ、他各県でも同制度を実施推進することB福岡県商組の県当局に対するポスト適配後の要望書提出は、各県のモデルケースとして実施すること‐などを確認した。なお、本日午後開催される三者懇談会に対する議題は協議の結果、左記三件を提案することを決定した。
(1)ポスト適配問題
(2)流通秩序に関する件
(3)OTC薬に関する件

 過ぎし日々(43) 塚本赳夫

 僕達兄弟の歴史は静岡で始まったようなもので、その前は弟妹達があまり幼(おさな)かったし、中の妹が小川の伯父の所に預けられたり、兄が骨髄炎の後でやっと中学に通えるようになったばかりだった為に母の同級生だった内海乙女さんの家に置いて戴いて学校に通っていたため、東京に残された。

 したがって静岡部隊の部対象は僕の所にお鉢が廻って来て、中の妹節子が静岡に来て五人になると相当な勢力となり家の者達はどの子も目が離せないので大変な気のつかい方だったろうと思える。僕も部隊長として絶えずまとめる工夫をしていたが、毎日がままごとの家のおとうさんばかりでも閉口するし、友達などが来るとその瞬間からもうままごとの事はけろりと忘れてしまうばかりでなく、僕自身がやはり目の離せない一人だから色いろと大変だったらしい。従兄従姉や若い叔母さんも入れ替り立替り手伝いに来て呉れてもいたようだが前から家に来ていた婆やだのねえやだのもいたから全員の食う物だけでも大した量だった事だろうと思う。

 静岡での三つ目の家が西草深町で浅間様や井上病院に近い家だったが、これが母が初めて持った自分の家だと云うて喜んだと前に書いた家で、英和女学校のテニスコートの裏で一番長く住んだばかりでなく僕達も勝手なことが出来て非常に楽しかった。そのうちに我々も大きくなるし、雇人の数も少くなって来たとはいえ子供心にもかなり家計の膨張が感ぜられた筈だが、その頃は全く気にもしなかった。

 今から考えて気がつく事は静岡に引越す前の本郷東片町に居た頃と云うのは兄玄門の骨髄炎、僕の大火傷などさわぎのあった時期だったが、このさわぎの治った後間もなく僕の知らなかった「奥付」(おくづけ)と称する紙が、時々家に届いて来て、これが来ると家じゅうの大人が皆集って母の印を押したり、紙を数えたり夜中まで大騒ぎをやる事が?々であった。今では検印のためには、郵便切手のような検印紙を送って来て印を押して送り返すにも普通郵便で事足りるし、数を数えると云うても一目瞭然で百枚ずつ勘定する事が出来るようになってるがその当時は一頁大の紙を送って来るのでかなり大変だった。

 このさわぎは静岡まで追っ掛けて来ていたに相違ないが、僕などあまり召集をかけられたおぼえはない。 然しその少しのち水落の家に居た頃それまで全くおつき合いのなかった「田鎖一」(たぐさりはじめ)さんと云う端然とした、物静かな叔父さんがちょいちょい家に来られるようになった。私が全く驚いたのは、この方は母が普通の早さでおしゃべりをしていると、全く同じスピードで藁半紙と呼ばれていた、所謂ザラがみに、みみずがおどってるようなすじを書いているが、翌日になるとかなりの量の原稿を届けて来られる。

 母に聞いて見ると、これが速記術と云うもので、この田鎖さん達が改良、完成したもので話をする早さで書いておいて、全部あとで字に書けるのだそうだ。尋常四年かそこいらの僕はよほどおどろいたと見えて名前を教えてもらって又おどろいてこの魔法使いか神様かと思う方が「たぐさり・はじめ」と云う方だと一度でおぼえてしまった。このかたはかなり連続して母のおしゃべりを書きに来ておられたように思う。今考えつく事はこれが母の書いた「家事教科書」の改訂版が出来る時の事だと思えるし、西草深の家を手に入れたり、多人数で腹一ぱいたべても破綻を来たさずに済んだのも、この本のおかげではあるまいかと思う。

 この頃の或るお正月前に父が朝鮮から帰って来た、子供達は大いに喜んでその頃僕達の間で最も流行していた「虎ごっこ」をやろうと云う事になって、父を虎に仕立てて皆でこれを征伐する狩人になったまではよかったが夕食後で勇気凛凛として立ち向った筈であったが、父の方も何処かでいくらか何かをきこしめして居られたらしく、なかなかつかまらないだけでなく、狩人の方が恐くて、泣き出す者が続出して、つかまえて檻(おり)に入れる所までお話は進まなかった。そればかりではなく、皆は「おとうさんの虎はこわすぎるからもういやだ!」と云うので以後虎ごっこは一度も行われなくなってしまった。

 父のお土産は鶴の肉の味噌漬だったがお正月の雑煮にして見たらあまりおいしくなかったようにおぼえている。父は間もなく朝鮮に帰って、次の夏休を利用しての兄と二人旅で僕の歴史上最初の外国訪問(当時は韓国全体は隣りの国だった)となった。そのために後に母が人からとやかく云われたと云う事を聞かされたが、実際にこの時京城に着くまでの汽車が大洪水に会って京城のすぐ手前まで行っていたのに大邱だかまで引返して一と晩駅長さんの家に泊めていただき又汽車に乗って父の待つ南大門駅(これが京城の正当な駅であった)へ行った。一−二週間後に母もやって来て帰りは何の心配もなく三人で楽しく旅行して来た。(おわり)

 本欄「過ぎし日々」に永らく御執筆下さいました塚本赳夫氏は、その幼少年時の人間形成期をつぶさにお書き下さいまして、本紙読者の皆々様に深い感銘を与え愛読されましたが今回をもって終了となりました。次回よりは飯塚病院前薬局長的場長紀氏に御登場願うことといたします。

 医薬分業プロジェクト チームの作業経過

 福岡市薬剤師会(斉田和夫会長)は、本年二月『分業プロジェクトチーム』を結成、以来分業推進のための検討が四回にわたって行われ、このほどその結論がまとめられた。なお、市薬は、同チームを結成するに当って従来からの画一的人選でなく、例えば仕事も別々のうえ、同じ開局にしてもそれぞれ店のパターンが異なるなど−を考慮した柔軟な人選を行なっている。

 三月開かれた第一回目は距離制度が現存していたため、分業推進のまず第一の隘路としてこれをいかに解決するかにつき論議が集中し、第二回は、分業にふみ切ったが失敗した例について、その原因究明と打開策について討議、三〜四回は距離問題が違憲判決により解消したため、促進について検討され、基本的にはマンツーマンを拡大していくことであり、それには各地区に私設窓口が必要である

 なお、本月一二日には市医師会のプロジェクトチームに参加し、話合いを行うことになっている。
チームメンバーは次のとおり
▽藤野義彦(福岡市薬副会長、開局)
▽白木太一郎(薬局白十字専務)
▽藤田胖(調剤専門薬局並びに薬局経営)
▽荒巻善之助(福岡市薬専務理事、開局)
▽清水貞知(前国立中央病院薬剤部長)
▽成沢哲夫(福岡市休日急患センター専任薬剤師)
福岡市分業プロジェクトチームの作業経過
二回目以降の討議はKJ法によってまとめられているが、四回目の一応の意識統一のできた段階におけるA型図解、B型文章化の例を掲載する。

 ◆KJ法 B型文章化の例
医師から見た薬局像は甚だ低い。又仕事の内容の理解不足による反対もある。処方せん料五〇〇円アップ以前に分業した医師は、この点について理解がある。大多数の医師も分業のメリットについて理解はできるが一部負担患者のクレームやゾロゾロメーカーのメリット等、処方せん料五〇〇円ではまだふみ切れぬ点が多いし、やりかけて失敗した例もある。

 然し医師会としても関心は高まってきているわけでディテールマンの分業記事から医報に資しようとする動き、又内科医会からの講演依頼など、その現れであるし、近くに薬局があればやりたいという医師の希望、いづれ分業せねばならぬがそのとき薬局がやってくれるだろうかという不安など、薬局に求めようという気持は徐々に強まってきている。現時点でも薬の原価が四割以下ならば採算上は得であるし、マンツーマンならばゾロゾロ商品でもメーカーにバックを工作させることで、手が打てないこともない。

 そういう採算以外のことでも医師側のメリットはたくさんあるのだから、一部負担患者のクレーム等があっても、医師の方に自信さえあれば、患者は信頼する医師には従わざるを得ない。そういう意味で分業するしないは医師の決意次第ということになろう。然し、日医の方針は、最終的には個人の意志によって行うということであるから、医師会として動くことはない。そういう意味では現に分業をしている医師のメリットを口コミで伝える以外に方法はない。そこでそういうマンツーマン分業の当事者に私設窓口になってもらうのが、いちばん効果的であろう。現に糸島の新生薬局は、藤田薬局のあっせん第一号である。このように私設窓口が増えることは分業を進める上で重要なポイントになる。

 このシステムが確立されれば、分業志向医師の発掘がより容易になるはずだしそれによって、技術提供以前に人間的なつながりをつけておくことが大切だ。そうすれば相手の医師の人間的、経営的な体質がよく判り、又こちらも総論と各論のかかわりで(分業の本質的な意味と、現実の問題)よく話し合い、医師にその建前を理解させ、又、本音をお互い充分に納得することができる。

 私設窓口の他に、各地区に意欲のある会員によって受入薬局の研究、懇談会を作っては、という意見もあるが、具体的な橋渡しのチャンスがないとなかなか進むまいという見方が強い。市薬剤師会の分業プロジェクトチームは、医師会のプロジェクトチームとドッキングすることが一応の目標であるが、現時点では、まだ先方が動いて来ない。分業になれば最少必要量の薬品が使われることになるし、その原点は、患者のためにするということである。このたてまえ論は、何人も反撥の余地はないのだからこのことをマスコミを通じて強力に継続的にPRするように働きかけるべきである。

 分業の見通しとしては、院内投薬のメリットは今後も減少していくと考えられるし、医師の半数は、いずれ分業しなければと思っていることも事実である。それは最近の傾向として、開業医の薬品買いびかえ等の現象にも表われている。大手メーカーは、すでに分業志向のポリシーを固めているという情報もあるし、診療報酬アップ如何が、そのふみ切り時点とする見方もある。こうして処方せんが増えると、現在では少数例として表面化していない一部負担患者の負担増が当然問題化すると思わなくてはなるまい。

 このような健保運用上の不公平は、大病院の薬局を法制化しようとする日病薬の要求が通れば、部分的には決解するかもしれないがこれでは処方せん発行の足をひっぱることになるし、又、そういう要求を通すことには困難があろう。やはり処方せんは開業医から、ということが本筋でなくてはならない。このように処分せんが出廻ると、処方せんで渡したものを、次には患者が指名で買いにくるというようなことも起ってくる。これは医療チームの一端にある者として、その取扱いを充分に考えておく必要がある。

 ただここで注意すべきことは、処方せん料五〇〇円の意味である。これについては、医師会よりも注意があったように、日医の方針としては、診療報酬アップのおとり的手段であることは武見発言によって明らかである。さすれば、これはいずれは他の診療報酬の中に埋もれて光を失うことを考えなくてはならない。これと、分業化へのスピードとのバランスを、どのようにとっていくか、ということが問題であろう。
「KJ法については川喜多次郎著、発想法(中公新書二五〇円)を参照」

九州薬事新報 昭和50年(1975) 8月25日号

 福岡県薬理事会 調剤報酬手数料 県内統一の方向へ

 福岡県薬剤師会(長野義夫会長)は第二四〇回理事会を八月五日(火)午後一時半より、県薬会館会議室で開催した。

 当日は神谷専務理事の司会で開会し、まづ長野会長は「先般福岡県医・歯・薬の三師会会長会を開いたが非常になごやかに経過した。分業問題については医師会としては理解していることを確認した。末端では多少の異論もあろうが、我々としては受入れ体制の整備を進めることは勿論、医師との対話を推進すべきと思う」と述べ、議事に入ったがその内容の主なものは次のとおり。

 (1)調剤報酬手数料の賦課について
賦課の各県別現状は▽佐賀=千枚迄一枚一五円、超過一枚五円▽長崎=未定▽大分=一%▽熊本=一%▽宮崎一%(一〇〇万迄)超過〇・五%▽鹿児島=宮崎と同じ▽沖縄一%
福岡県の現状は▽福岡=一%▽久留米=一枚一〇円▽八女=五%▽若松=二%▽飯塚=二%。▽八幡=一枚二〇円▽戸畑=二%▽京都=二%▽直方=二%▽田川=二%。
医師会は現在四%を保険請求から徴収している。

このような現状より、福岡県では調剤報酬手数料の賦課の統一をする必要があるため、早目に適当な線を打ち出し決定する必要にせまられている。これに対し討議の結果、県社保委員会等に諮問して本年中に十分な検討を行ない来年より実施の方向で推進することを確認した。

 (2)保険請求業務指導員の設置について。
社保委員会で各支部に二名以上の保険請求業務指導員の設置を希望された件については、各支部毎に一名以上をおき指導することと決定。

 (3)DT地方委員の研修について
「医薬品安全性情報委員会地方委員協議会」が八月八日(金)午前九時五〇分〜午後五時、東京渋谷の薬学会館で左記次第により開催されるについて、県薬よりの出席者を選考。柴田理事出席と決まる。

 ▽協議会プログラム
座長=赤塚謙一、久保文苗、桜井喜一。挨拶=石館会長。組織づくりと地域委員の役割=堀岡正義。収集整理・伝達利用のための基礎知識=高杉益充。最近の医薬品の話題(再評価、GMP、GPSPとの関連)=遠藤武男。

 (4)森下泰の薬剤師後援会の設立について
白木副会長より森下泰後援会に関する報告が行われてのち、県としての設立について意見交換がなされたが、九月に開かれる支部長会で具体的に検討・決定することとなる。

 (5)薬と健康の週間について
薬事功労者に対する県知事賞の推薦候補については取り敢えず県薬執行部で推薦案を作製することを確認した。

 (6)福岡県三師会について
福岡県で県薬が世話当番となって七月二八日開催。初めての三師会合であったが和気あいあいのうちに経過し、医薬分業についての理解も確認、その他次のような話合いとなった。出席者は三師会とも正副会長と事務長である。
@医師会より、県会議員選挙で「医療問題議員研究会」(政治連盟)を、三師会統一のものとして設立しては如何との提言あり。
A健康保険事務について
県薬作製のコード番号一覧表を見せた処、非常に便利であるので是非三師会の名前で出してはとの申し出があり、小冊子のものを希望された。
B三師会の運営は定款などを作ってという固苦しいものでなく、年三回開催。次回は医師会が当番となり一一月初旬開催と決定。

 医薬品業界の現況と展望(上) 竹内克己

 本稿は福岡県病院協会発行の「ほすぴたる」に投稿されたものであるが、我々薬業界の実状がよく纏められているので、筆者のお許しを得て本紙に掲載いたします。

 まえがき

 先般編輯子から薬業界のことについて何か書けというご連絡をいただいたが、業界の現況が余りにも流動的なので仲々まとめにくく遂に延引して申し訳なく思っている。私が病院の薬剤部長の職から離れて、医家向けの医薬品販売業を始めて一〇年、そして又、九州における代表的医薬品卸問屋の協同機構である株式会社オップの代表取締役をお引受けしているという立場に立って、現在の薬業界のありのままの姿を申しのべる機会を与えていただいたことに感謝し、チョッピリお願い事も含めて書かせていただきたいと思う。

 現在薬業界にはこのようにむつかしい問題がこれ程沢山あるのだということをご理解いただき色々の面で協力いただきたいと思う。

 医薬品業界今日の問題
現在医薬品の流通過程の中で、みんなが困りはてているのは価格の乱れであるどのように試算してみてもこのような価格が出る筈もないのにと思うようなものまで散見するこの頃であるなぜこのような事が横行するのか、石油ショック後遺症だと言ってしまえばそれ迄の事であるけれども、これから述べる複雑な要素がからみ合って起っている業界苦悩のあらわれであり、又新しく生れ変るための苦闘の姿でもある。

 石油ショック当時、原料薬品がなくなるというのでメーカー筋は全社をあげて買い集めに走り廻った。フタをあけてみれば何の事はないあり余る程あったのである。買い集めた原料は消化しなければならないということで四九年は前年対比一二四・五%の生産増を記録した。作ったからには売らねばお金が廻らない、だから安売り競争とはなったというのが一応の表面的理由であろう。だがほんとうの理由はもっともっと深い処にある。

 現在メーカー筋の手持が三〇〇〇億円と推定され、卸問屋の在庫がその倍額六〇〇〇億円合計九〇〇〇億円の医薬品が消化されずにあくびをしていると言われている。医薬品の年間総生産額が一兆七〇〇〇億円と仮定しても在庫が余りにも多過ぎる。このままでゆけば五〇年の伸びは三〜五%の伸びに止まる可能性さえあると先行き不安に頭を悩ましている有様である。

 医薬品メーカーで倒産したという例は殆んどないが今度はそういうわけにもゆくまいという考え方がみんなを不安にさせている。そのことが狂乱価格と密接な関係がある。ユーザーである先生方にお願いしたいことは、今後お取引先の信頼度を充分ご調査の上お取引きを願いたいということである。トラブルが起きないように正しい流通業者としての私達の念願である。

 厚生省は再三に亘って添付廃止に関する指導をくり返して来たが成果があったとも思えない。それは業者自身の心の問題であって、お役所の指導によって行われるような問題ではないからである。日本製薬工業協会も昭和四〇年に「医薬品業における薬品類の提供及び表示の制限に関する公正競争規約案」というものを作成し総会の承認を得たのだが、公正取引委員会には提出せずに終った。最近これがむし返しつつある。余りのことに手を焼いた業界の苦悩のあらわれである。が又一方では、商取引は心の問題であって規約などという紙に書いた条文だけで正常化出来るようなことではないという考え方も根強く残っている。

 市場価格の低下は必然的に薬価基準価格の引下げに関連することでもあり、長い眼でみてユーザーの諸先生方にとって必ずしもメリットとはならない問題であるだけに適正価格の確認が必要となると思われる。現在の業界の経済事情の悪化が深刻化すれば深刻化する程正常化はいよいよ困難を極めることとなろう。
けれどもこの事は大手企業にとっては必ずしもそれ程の深刻さはないようで、やはりゾロゾロ製品会社間の星のつぶし合いであり、弱者間のはかない闘争の色濃いものがある。このような安売り競争だけだとしたら、これは大した問題ではない、なぜなら弱いやつが先につぶれて次第に正常化への道がひらけてゆく筈だからである。だが、もっともっと大きな問題が山積している。以下これらの問題について少しふれてみたいと思う。
(エイシン薬品且ミ長、元福岡赤十字病院薬剤部長)