通 史 昭和48年(1973) 日薬−県薬−市薬
九州薬事新報 昭和48年(1973) 8月5日号

 全国薬業界の後援を切望する

 森下 泰 九州各界代表と懇談

 来年行われる参議院選挙に、全国区で立候補を予定している森下仁丹株式会社社長・森下泰は七月二十一日十時より二時間にわたり、福岡県薬剤師会館にて、九州山口薬剤師会、九州医薬品卸連合会、薬事協会及びメーカーの各界代表者と懇談した。

 自分としては、日本全国区の薬業界の皆様の支援によって出馬することが有意義であると思うし又念願である。過日、大阪地方区参院補欠選に立候補したが、若し当選したとしても、改めて全国区を挙げての薬業界の地盤のうえにて立ち度いと考えていたし、事実、後援の方々に対してもはっきり意の在る処を明かにしていた。

 以下、左の如き抱負の発表あり、種々意見の交換も行われて有意義に経過した。

 ○現在の日本の歪みは教育とマスコミである。中央でも業界紙記者が業界のことをもっと一般記者に啓蒙教育しようという動きがある。薬業界の事実をもっとコミュニケーションしなければいけないと思っている。

 ○自分は政治と経済がもっとクロスせねばいけないと思う。経済を抜きにして政治はあり得ない、政治と経済を別と考えること自体おかしいと思う。自由経済の担い手である我が業界は当然政治のポジションを持つべきだ。自民党が我が業界をどう評価しているか。ABCのランクがあるが、残念ながら薬業界はCクラスである。一兆円企業で二百万人をかかえている業界が一人の国会議員も持たないのはおかしい。まず一回出せばその次は又出せるし、三年毎に一が二に、三になるが、ゼロでは何時までたってもゼロだから第一回目をとにかく出して頂き度い。

 ○業界の代表を国会に送るのは業界全体の権威の問題である。大阪では薬局薬店共々よくやって呉れた。業界関係の票が十万以上はあると思う。非常に感謝している。

 ○自分が議員となったら、まずも一人業界から議員を出すことに働く。議員を沢山持つことが大切なことで、国会ではこれが大切なこと。これに先に気がついたのが共産党。今から三年先の候補を決めて初めなければだめだ。

 ○大阪での経験で業界の力を感じ取ったし、業界だけでも六〇万確保出来ると思うし、又出来なければならない。

 ○一年生議員は国会では全々巾がきかないのだが、うしろに大きなバッグがあればこそ一人前に発言も出来る。

 メーカーも考え直すべきところが多々ある。薬はもろはの刃だから自ら姿勢を正すべきところは正して主張すべきを主張しなければ通らない。

 森下 泰の 薬剤師後援会発足

 「森下泰の薬剤師後援会」が七月十一日発足した。日本薬剤師連盟が、来年の参議院選挙に全国区で立候補を予定している森下氏を、東商青年部とは別個に薬業界として後援する必要があるとの趣旨で設立したもので、これにより、「森下氏と明日を語る会」は自動的に解散となった。

 薬剤師後援会としては、各都道府県連盟に後援会を設置すると同時に、こんご全日本薬種商協会、日本卸連等の薬業界の後援会が設立されることを望んでおり、これらが一体となって後援会の連絡協議会を発足させたい意向である。

 過ぎし日々(2) 塚本 赳夫

 私の兄玄門(通称げんもん、戸籍上は「はると」と云う。母は必ずはるとさんと呼んでいた)は一高から東大、理科の化学教室を卒業し、池田菊苗先生の弟子でそのまましばらく理究の研究員をしてから浜松高等工業、応用化学科が出来ると云うので迎えられることになり、英独に三年間の留学の後帰って結婚しそのまま浜松に住んでいたが、満州工大の学長として昭和十四年奉天に移り、終戦後帰って昭和二四年には福岡学芸大学を作るための初代学長として福岡に住み込んで二八年までいた。

 赴任して来て西公園の展望台の所のお茶屋に行って話をしていたら「新大工町の塚本どんは知っとりますたい」だの「又喜どんのむすこさんな?」と云うたおじいさんがいたぞ!と云うていた。一年おくれて二五年に私が九大に来た時は最初、兄の官舎に旅装を解いて九大に通い初めたが、これこそ祖先の引き合わせだろうと云いながら父や祖父の話をしながらビールで乾杯を行った。

 祖父の道甫はかなりの学者で漢学も大家であったが医術の方では長崎に行ってポンペについて外科を勉強して来たと書いてあるから蘭学をやって居ったと思えるし、漢薬の鑑定をたえず頼まれて居たと云うから生薬学と呼ばれる前の本草学者でもあったらしい。長崎に行ったのは勿論殿様の命令であるが、この時長与専斉と共に精得館に入り業成って帰国して黒田藩に仕えていた。

 この頃入沢達吉先生の御親父、入沢恭平氏が三十才で長崎がえりの外科の名医塚本道甫の家に泊って厄介になったと云う記載があり、後に長与専斉は内務省衛生局長になった時道甫に内務省に入って共に仕事をしようとすすめたのだが本人は動かなかったし、しまいには土地の者も反対したとあるから黒田家も福岡住民も不賛成だったのであろう。

 この時内務省に入ったのが後藤新平だが内務省衛生局とか云う物よりスケールが大きすぎて大連、台北の市政から東京大震災の復興等大仕事に向っての大政治家になってしまった。

 母の里はもと徳川家の旗本で上野の山下(昔の「がんなべ」其後の大国?)に住んで居った小川と云う家で彰義隊の戦争が済んだ直後、駿河の国遠州に引っ込んで寺小屋をやったりしながら揚子をけずったとか傘を張ったとかの話もあるが、子供に字を教える読書(よみかき)の先生をしてたものと思う。
遠州の横須賀とか云うて藤枝あたりから御前崎の方に大分入った所らしい。

 我われの祖父がなくなった時には、私が母のおなかに入っていて、臨月が近かったので父が兄一人を連れてかけつけたと云う話、後になってからも時々母にうらまれた。しかも私は間に合わなかったので仕方がないが其後も母の育った場所は見そこなったきりである。然しその後私が少し育ってから、祖父が死んだおかげで、祖母が私の家に来て呉れたので私はお婆さんを独りじめにして毎晩おばあさんと寝ていたようだ。母が吸って育ったその乳房(ちぶさ)を私はつかんで寝る癖(くせ)がついてしまって幼稚園に行く少し前まで信州から来た私の家では「信州ばあや」と云うばあやに寝かせてもらう事が続いた。

 このばあやはとても親切だし寝る前に何かお話をして呉れるのがうれしかった。多くは信州の民話かお伽噺だった。一番面白かったのは「サンシウダユー」(森欧外の山椒大夫を読んだ時アッ!これだ!と思った)で「アンジョノヒメ、ズシオウ」は安寿姫、厨子王丸で目の見えなくなったお母さんが鳴子のひもを引きながら呼んで居る景色も呼び声もそのばあやの演出のまま私の頭の中に出来上っている。大学の入学前に佐渡ヶ島を一人であるいて、その遺跡と称するものを見た時はほんとうに感慨無量で又ばあやの話を聞きたくなった。

 福岡市薬剤師会会館設立準備成る

 福岡市所有の土地の払下げが成立し、会館設置が左記により進行中。

 @福岡市薬剤師会は夕刊フクニチ新聞社と共用で、福岡市今泉一丁目の福岡市所有の土地を一ヶ年以内に建築と、五ヶ年は転売禁止の条件で去る五月二十四日正式に払下げの手続きを完了した。
 A約一五五坪の価格二、八八八万円。この二分の一の一、四四四万円が同会の支払額。
 B特別会費二万円、一般会費に上積みの一万円を会員より徴収しているが、なお約三〇〇万円不足のため福岡銀行より借入金をした。
 C同会で、ビル建設資金を分担することは現状の資金計画では不可能なので夕刊フクニチに持分を貸与し、フクニチはその上に一三〇坪九階のビルを建設する。
 D同会がフクニチに貸与する借地権の代償として、相当のフロアを区別所有する。会としては三〜六階のうち何れかの一階を全フロア所有したいと考えている。
 E内部の改装等はすべて同会で建設する。

 福岡市学薬 夏季林間学校 衛生調査実施

 七月二十一日からの夏休みには、福岡市内小学校十五校が福岡県粕屋郡の若杉山の中腹荒田部落の六旅館で林間学校を開いた。

 福岡市学校薬剤師会では、学校生活の延長という考えで、これまで五年間、毎年林間学校開始前にこの旅館内の衛生調査を行い、食中毒等の疾病の予防と健康的な生活が送れる様に各旅館主に指導して来た。

 今年は七月十七日に、県薬四島会長、市教委学校保健課吉武課長らとともに、市学薬役員総出でこれにあたった。浴場、部屋の環境、寝具の清潔状況、水源と水質検査、便所、調理場、食器、救急箱、救急患者の連絡病院等の調査点検に汗だくだくの活動であった。毎年旅館の設備と衛生思想が向上して来たと馬場会長は語っていた。

 挟子

 ▼去る廿一日来年の参議員選に立候補予定の森下泰先生と対談。政治と経済を別と考えること自体が間違っていて、政経分離などあり得ない。政党は我が業界を最底ランクにしか位置付けしてなく、現在一人の国会議員も持たないのはおかしいと云う外ない。薬業各界の山積している問題を解決するには先ず一人の国会議員を選出する必要を痛感する。

 ▼過日、伊東で開かれた日本薬局協励会全国大会での医事評論家石垣純二氏はその講演のなかで「現代政治は金である、総理大臣も金で買われる世の中なのだから金のない団体は相手にされない。票がだめなら、せめて一〇億円は用意して政治家にヒモをつけないとなに一つ良くならない」と云っている。

 ▼ここで考えれられることは業界を挙げて危機感をもって思想統一して、"票がだめなら"ではなく、まず票の力を以って、我々業界の危機を打ち破ることこそ必要事であると思う

九州薬事新報 昭和48年(1973) 8月15日号

 当面の薬務行政 薬務局長見解

 自民党医薬品問題小委員は七月二十五日に党本部において会合を開いたが、席上、松下薬務局長の薬務行政についての説明要旨は次の如くであった。

 ○薬価基準定期収載のルール化、年二回の定期収載は決っているが、現在、諸般の事情で遅れている定期収載に努力したい。

 ○医薬品の再販制度
西独で廃止論が出たが医薬品の特殊性から言ってわが国の制度は維持したい。

 ○ガーゼ対策
仮需要は一段落したが原綿の値上がりいぜん響いている。買占め防止法の対象品とし、流通調査官三人を任命し指導している。

 ○資本自由化対策
一応五十年まで延期されたが、今後国内企業の体質強化を薬務行政の最重点としていきたい。
GMP実施と助成措置
製薬協の自主的規範は発表されたが、厚生省としては全体に合うようなGMPであるべきと考える。これに見合って開発銀行の融資も検討している。

 ○医薬分業
薬剤師から要望のあった実態調査を含めた予算を四十九年度に要求している。四十九年度には何らかの形で推進したい。

 ○医薬品副作用事故救済制度
研究会で詰めてもらっているが、製薬企業全体の問題であるため全企業全体の問題であるため全企業から基金を拠出してもらい度いと思う。これには国も拠出する考えである。

 ○ピルとIUD
ピルは血栓症のような重い副作用があるので安全性の点から許可するつもりはない。世論が高まっているので、学問的な資料を整備し度い。IUDは学会からも安全性が高いという報告を受けており、副作用もないので許可の方向で検討している。

 ○医薬品の再評価
第一回の再評価結果を秋には公表の予定。いづれ機会を見て、事後処置を含め説明する。

 福岡県薬国保組合 順調な運営

 福岡県薬剤師国民健康保険組合は第34回通常組合会を七月二〇日開かれた同県薬剤師会の理事会、支部連絡協議会に引続き開催。昭和四七年度の国保事業報告と一般・特別会計の決算の承認を行なった。
同組合は、四月一日現在被保険者数一、五五〇名で前年に比し二六名の増、この主な理由は、市町村国保の保険税(料)の引き上げによるものと思われる。

 医療給付費の伸び率は一六%で平均的伸びであり、一般会計収支の状況は歳入会計収支の状況は歳入約三、九二〇万円、歳出約三、〇四三万円で約八七七万円の残を示しているが、歳入中には繰越金約九四三万円を含んでいるので四七年単年度では約六六万円の赤字となるが、本年四月から保険料の引き上げを行なったので、本年度は改善されるものと思われる。

 医療給付費一〇〇に対する保険料額の割合は六六で財政の逼迫を示し、助産費の年間給付は一二件で、前年度より五件増、葬祭費給付は一七件で六件増であった。

 当日の組合会議によれば以上のような状況で、医療費の増大等幾多の悪条件が累積しているにもかかわらず、概ね順調な組合運営ができていることが明らかとなった。

 過ぎし日々(3) 塚本 赳夫

 人間の記憶は何才位から始まるものか私は全く知らないが、私の思い出す事のなかで一番古い事と思われるのは真砂町に於ける事件だ。但しその家の間取りも誰れとだれが家に居たかも全く覚えていない。
知っている景色は真っすぐなその家の屋根の頂上に近い大スロープの上から、せまい横丁の向う側の大きな家が燃えている景色である。

 相当に寒い時だと見えて、何だか暖い物でぐるぐる巻きにされて、ろくに動く事も出来ないような状態で置かれていたようだ。目の前は赤いカーテンを張ったように真っかであった。その真っかな火の中から、たもとのある着物を着た大学位の書生さんが片手にランプを持って出て来た、又一人かけ出して来た人もあったように思う。

 あとになってからは誰れか手桶かバケツのようなもので、水の束をリズミカルに火事の中になげつけていた。私のとなりにいる叔父が時どき私の衿をつかんでは上の方に引きずり上げるらしいが、又じきに下り始める、どうする事も出来ない。

 叔父さんは時どき柄杓(ひしゃく)で手桶から水を撒いていたようだ。又そのうちに衿をつかんではずるずるっと引きずり上げる。どうも私は絶えず細かく振動したいたらしい、つまりふるえていたのだと思う。

 この叔父が父のすぐ次の弟で直(なおし)叔父さんと呼んでいた。後でも私を非常に可愛がって呉れた人で、子供の頃は方々に連れて行って呉れたり、軍艦の本を呉れたり進学についても忠告を受けたばかりでなく、家内と結婚してからも東京に出て来る度毎に立派な料理屋さんなどで素敵な御馳走をして下さった。

 海軍に入って造兵の方をやって居たのであとでは佐世保横須賀等が多かったが海軍の終りは呉の工廠で水雷部長をして居った。閣下になってやめてからは製鉄所の事で帯広だか何だか絶えず北海道に行ったり来たりしていた。

 この火事からずーっとあとで叔父と兄にこの火事の話をしたら「お前は多分あの時三つ(数え年だから満三年より前)だからおぼえていない筈だ」と云いながらも「ちょっと目をはなすと、すべり落ちて行くから気が気でなく、あとでは片手でぶらさげるようにして居った」と云うし、兄は兄で「火の中などに人が入って水をかけたのではなくあれは蒸気ポンプと云うて馬が引いて来たか人が引いて来たポンプだが初めのうちはよく水が出なくて、時どきだぼんだぼんと太い水が出るのを、おまえはだれが手桶で水をかけるの?と云うて聞きたがって居た」。いくら人がかけるのではないと云うても承知しないでいつまでも「誰れ?誰れ?だーれ?」と云うていてうるさかった!と云われた。

 叔父と二人でその火事の話をして笑っていたから多分当夜は兄も居ったに違いない。もう少し物心(ものごころ)がつき初めた頃は本郷西片町十番地の中で二−三ヶ所に住んだらしい。一つは、たしか誠至小学校のとなりみたいな家で、家の門の前が道を隔だてて学校の横の塀が直っすぐ続いて視野をさえぎっていた。練瓦塀やコンクリートでなく多分木の塀か生け垣だったと見えて門の前に出ればいつも学校の運動場が見えたようだ。

 遊び時間は勿論、体操の時間も皆でよく眺めていて自分達のやる学校ごっこの材料にした。妹達の中にまわらぬ口で妙な歌を歌っていた者もあったからかなりの影響を受けたものと思う。この家から近い学校の前の通りに木下正中先生のお宅があって、ここにも沢山子供仲間がいたので遊んだおぼえもあるが、私達兄弟は何人か木下先生に取り上げていただいたものと思う。産婦人科の病棟に母を見舞って、真っかなやわらかい生れたばかりの妹達をつっ突いて見た事もある。

九州薬事新報 昭和48年(1973) 8月25日号

 「お祝い」とひとこと

 全国一般協議会会長 森下仁丹株式会社社長 森下 泰

 (一)
御紙ご再刊を心からお祝い申し上げます。再刊のお言葉にありました通り、九州という大きな経済圏、特にお薬の伝統深い土地に専門紙が無いというのは誰が考えても不都合なことでありましよう。
九州薬業界のご発展と、そうして九州薬事新報の活発なご活動を衷心よりお祈り申し上げ、ご期待申し上げてやみません。

 (二)
最近の世相に於て専門紙特に薬業関係紙の負って居られる責務はいよいよ大となりつつあるように思われます。公害の問題がマスコミで大きくとりあげられていますが、その化学的理論的根源に就いては必ずしも明快に行われてはおりません。いいかげんな噂や小範囲の経験から針小棒大な結論がひき出されていることが果して存在しないでしょうか。

 薬のその効能に於て、同じようなことが発生するとしたら、それは業界にとって大変なことであります。
何としても一般マスコミに対してほんとうの事実、その学問的解明を教えてやることが必要でありましょう。その責務は大きく業界紙とその権威にあると申さねばなりません。業界紙の内容充実、学界の指導性、そして一般紙に対する高い権威の確立を今こそ実現して戴き度いと思います。

 (三)
私ごとに関係して恐縮でありますが、去る六月、大阪地方区参議院補選に私は立候補させて戴きました。
大阪の全薬業界、メーカー、卸はもとより、薬局薬店の皆々様の非常なご声援を得て奮闘致しましたが、僅かの差で共産党に敗れ、何んとも申し訳なく思って居ります。

 その体験を通じて、私は潜越な申し條ではございますが、いよいよ、政治への情熱、業界の意思を政治への情熱、業界の意思を政治の表面へ反映することの重大さとその可能性を深く確信致したことでございました。この補選は一議員の急逝に基ずくものであり、私自身は地方区であります故に終始お断わりして居りましたが、日本薬剤師会、他業界の先達から、とにかく議席を早くとった方がいいとのご意向を受けてふみきった次第であります。

 薬局薬店様が全国に四万軒、薬剤師登録八万余、卸のご従業員およそ二〇万、メーカーご従業員約三〇万……と教えただけでも大変な数であります。ましてや、医薬品の国民生活に於ける重要性に思いを致します時、その業界のなかから唯一人の国会議員も出ていないというこんなバカな話はありません。

 ガルブレイズを待つ?もなく、自由主義社会に於ても経済と政治の接近は昨今の世界的現象であります。 わが薬業界が一人の、否すくなくとも四、五名の全国区参議院議院を選出することは当然のことでありましょう。まことにおこがましい申し條とは存じますが、その実現に私自身お役に立ち得ますならば、喜んで一身を捧げ微力をつくさせて戴き度いと念願しております。

 学薬だより 夏休み開放プール 衛生管理指導に福岡市学薬活躍

 八月一日から末日までは例年ならば夏季休暇で学校プールは閉鎖されていたが昭和四十八年度は市教委の英断で期間中、小中学生に開放する事になった。

 プール指導員が若干名づつ配属されるもの、万一の事故に備えて、当局の要望に応じて福岡市学薬(七十二名)では八月中の衛生管理について指導を行う事になった。海水浴、河川浴が近年、水質の汚染で不可能になりつゝあり、この措置は地域住民父兄の喜こびであり、加えて学薬の指導という事で関係者は大いに感謝と期待をもって、活躍を見守っている。

 この件につき馬場会長は「開放プールとは云え、遊泳者が小中学生であれば、学薬が指導するのは勿論である。幸いにも市教委からの要請でもあるので、定期検査を準用して、透明度、残留塩素過マンガン酸カリ消費量、サンコリテップ法によるプール水からの大腸菌群の検出、腰洗槽の塩素濃度、プール日誌の記入状況等、八月中に少くとも二回は出かけて調査し、管理に万全を期される様に福岡市学薬会員の協力を願いたい」と語っている。

 福岡市薬ボーリング大会 学薬四連勝

 慣例の福岡市薬BW大会は八月七日、筥崎宮近くのウキコボールで、勤務、開局学薬の三部会、総員三十四名で競技された。熱と汗と根性の結果、学薬一位、開局二位、勤務三位となった。次回は九月、城山SPで行われる。
個人賞は優勝梅津(開局)五一六、準優勝坪根(学薬)五一二、三位馬場(学薬)五〇七、四位井原(開局)五〇三、H/G馬場二〇八

 各地の会合 福岡県女子薬 新役員決定

 福岡県女子薬剤師会は七月七日、本年度総会で役員改選を行ない会長、副会長の重任を決めたが、その後左記役員が決定した。

▼会長 田中 美代
▼副会長 森山 富江・佐伯 薫・永倉 静江
▼参与 上田 ヨシエ
〃 宮崎 綾子
▼常任理事 城戸 嘉寿子
〃 山岡 さち
〃 末田 スミ子
〃 堀田 ミツ子
〃 磯本 美穂
〃 香月 一枝
〃 山手 嘉子
▼監事 原口 静
〃 柴田 慶子

 福岡県女子薬 福岡支部総会

 八月四日午後一時から本年度総会を開き、猛暑にもかかわらず多数出席、四十七年度事業並びに会計報告を承認、四十八年度事業計画及び予算を原案通り決定したあと役員改選に移り、記のとおり決定した。

▼支部長 江口春子(田島薬局)
▼副支部長 荒巻キワ(荒巻薬局)
▼会計(重住) 梅津陽子(福岡市立第一病院)

 過ぎし日々(4) 塚本 赳夫

 この家に居た頃私は幼稚園に通い始めた。その第一日目は父が連れて行って呉れた。友達は皆整然と?席についてお教室につれ込まれて真んなかあたりの席にすわらされた。廻りじゅうを見廻しても一人も知った顔はなくて非常に心細かった。

 うしろを見ると壁ぎわに父の笑顔があったので安心した。他の子供達はかなりなれているようだから幼稚園の授業はもう何日か前から始められていたのであろう。座席が妙に真んなかにあった事から考えても、誰かがやめたので、やっと、補欠として入れてもらえたのではないかと、今頃になって僻んでいる。

 ごく短時間は何か云れた細工物をやって居ったが、ふとうしろを見ると父がいない。「わーっ」と泣き出しながら、うしろの入口から駆け出して行ったら、小さい先生(教生の先生?)がすぐ追って来て、お玄関でつかまえられて、いくらあばれても離してもらえなくて、ついに父を追いかける事は出来なかった。

 豆細工の豆を分けてもらって、あわてて食べたら、不味(まず)くて困って然も上にしかられたこともあり、少しなれてからは友達とけんかをしたりしてはよくしかられた。この日もいつのまにか誰れかうちから姐やが迎えに来ていて、帰りはその人に連れて帰られた。この幼稚園は夏目漱石の「吾輩は猫である」に出て来る所謂「お茶みそ」、(お茶の水)の幼稚園で本郷通りを三丁目から一丁目を過ぎてすぐ先の右側に正門があった。幼稚園の裏は本校と称する女高師や女高師の附属高女などあった。

 この女子高等師範学校の第一回に私の母がいる事などはあとで知った事だ。そう云えば「幼稚園の裏には本校がくっついている」と云った時に母が色をなして、「いいえ、本校の裏に幼稚園がくっついているのです…」と云われて何が何だかよくわからなかった。

 小さい先生と呼んでいたお姉さんは時々替ったが、本校からお手伝いに来る教生の先生だった。
お教室でも、藤棚のそばの「お砂場」で遊ぶ時もいつもついていて呉れて、砂を払ったり、手を洗ったりして呉れたのをおぼえている。けんかをして泣かされても、ころんでけがをしても毎日毎日遊ぶのが楽しくてしかたがなかった。

 自分の手足で初めてさわって見た海は小田原の海だった。三−四才から小学校に入る前位まで時どき縁があったようだ。多くは夏だが、初夏もあったようだ。兄と一緒の時には早川の河口でも遊んだ。川の向う側の崕の上には熱海の方に登って行く坂道があって、人車(ごんしゃ)と云う、人が押して行く狭軌鉄道の上を小さい客車一台だけが走るのである。坂を登る時は人がうしろから押して行くが、下りにかかるとその人はひょいっと飛び乗ってトロッコのように棒をうしろに引いてブレーキをかけながら面白そうに下って来る。なかなか早いから見ていても、とてもカッコヨク見えた。

 河口には軟かい砂の山があって遊びよかったが、近所の子供がここで溺れると云う大事件があったので、兄の居る時でなくては此処に行ってはいけない事になっていた。小田原の海岸は何んの変哲もない直線の海岸だが、ひときわ目立つ物は石垣を積んだ森さん(森有禮?かも)の御別荘とか、お屋敷とか呼ばれる松に囲まれたお屋敷であった。

 その少し西寄りで、海岸の道から一と側中に入った所に小さな家を借りて居たことがあった。家の裏に出ると小川に流れていて、この川はもっと西に流れてから水車などを廻すような流れになって海に入る。
水車よりも少し西に水産講習所の実習所だか、工場とか云われる建物があって父は時々ここに用事があったらしい。

 最初の小田原行きは父と二人きりで夕方頃新橋駅を出る汽車に乗った。品川駅では窓の下には、海の波が寄せていて、きれいな砂の中に貝殻が見え、小魚(こざかな)の泳ぐのを見たおぼえはあるが、ぐっすりと寝て目を覚まして見るとまるで知らない家で寝ていた。びっくりして部屋中を見廻して見ると天床も床の間(とこのま)も馬鹿に立派で、床側(とこわき)の小さい障子は無暗と細かい棧がはめてある。何で急にこんな龍宮城の御座敷見たいな所に来たのかまるでわからなくて心細い。
隣を見ると父が寝ているからやっと安心した。

 おちついてよく考えて、思い出をたどって見ると昨夜は、ねむくて困るのに父と宿屋の番頭さんを手古ずらせながら、駅から運ばれて来たような、かすかな記憶があるようにも思うが、あまりたしかではない。大森あたりではもう寝込んでいたのではないかと思う。この家がたしか伊勢屋さんとか云う旅館で、その後も時にやっかいになった事がある家だった。