通 史 昭和46年(1971) 日薬−県薬−市薬
九州薬事新報 昭和46年(1971) 1月1日号

 日本薬剤師会 会長就任にあたって 石館守三

 このたび日本薬剤師会の全会員を代表する代議員会の決議と要望を受けて会長の任をうけたまわることとなりました。このことは私の一生におきましても、大きな勇気を必要とする重大な決定であります。私は薬種商の子弟に育ち、薬学を学びました。薬学とそれに通ずる道は、私の本命とするところであり、したがって薬剤師会の世界も、いうまでもなく私の領域であります。しかし、この薬剤師会の世界は、私にとって未知とは申しませんが、未踏の領域であります。

 私の今までの経験すなわち薬物の研究と教育、さらに加えて数年厚生省研究機関におけるいささかの薬事行政の体験から得ますものは、今日の日本の薬学の高度の進歩と優れた水準にもかかわらず、一般国民に適用する実際薬学、薬事が極めて低水準に、今なお低迷していることに対する深い慨嘆であります。これは、ひとり私だけの心情ではないと存じます。今回、当薬剤師会員だけでなく、私の先輩、知友が、こもごも、私の会長就任を促されたことは、この現実に対する深い憂いから発せられた真情によるものと存じ、深く感佩いたしている次第であります。一学究があえて、自らの力と経験を省みないで、この日本薬剤師会会長の大任を引受けましたのは、「薬剤師の技なくして薬学はむなし」と、深く信ずるからにほかなりません。

 日本薬剤師会の当面する課題は、ここに改めて列挙するまでもありません。国民保健上一刻も猶予をゆるさない重要問題が山積しております。医薬分業を取り上げて見ましても、分業のみを分離して解決することは不可能であり、日本の医療制度の基本姿勢の変革を必要とし、同時に薬価、再販、薬局の整備、適配などが関連し、さらに地方製薬業界のあり方と深く関連いたします。

 これら錯綜した一大有機体の老化と病根に対処し、いかにして健康体に再生するかは、極めて難事に属すると言えますが、しかし、これが、われわれに課せられた課題であり、これを解決する重大な責任を、われわれが負っているのであります。もし、これらの戦いに背をむけ、努力を怠ることがあれば、病体は慢性化の運命をたどり、剤界は永く不毛の野となりましょう。かくて、日本の薬学も、薬業も、その歴史に不名誉の烙印を甘受しなければならないこととなります。

 私は、まず第一に体制を整えるために、いやしくも薬剤師の名において業を営む者は、開局者のみに止らず、病院診療所薬剤師、食品、環境等の衛生技術者、薬系公務員、その他勤務薬剤師、企業従事者はすべて日本薬剤師会会員といたしたいと考えます。この場合、会費の負担に軽重を考慮することは言うまでもありません。

 第二に、会員の各領域においての活動については、自主、自由を尊重しますが、社会に対しての発言、行動に日本薬剤師会会員としての、自らの規律が望まれます。この規律は同時に薬剤師道の高揚につながるものであります。

 第三に、医療制度の改善に関しては、医療団体(医師会、歯科医師会など)と、緊密な協力のもとに、国民福祉の向上のために積極的に行動していきたいと考えています。その方途については関連団体と共に探究していくことといたします。第四に、薬剤師は薬事衛生の担当者としての資格を確立するための研鑚を尽さなければならないのであります。このことによって社会の信頼をかち得るものであります。この点についての薬剤師の奮起を、心ある医師各位も、社会保険関係者各位も、厚生行政を担当する各位もひとしくこいねがっているところであります。

 今や、医薬分業は論議の余地のない至上命令となった感があります。実行する環境を作ることが残されております。言うまでもなく、分業は薬剤師の生活を保障するためのみにあるものでなく、薬剤師の社会に対する義務を果すために実現されるものであります。

 薬剤師は医師に対しては、医薬品の保証者であり、医薬品に関する忠言者であり、他方大衆に対しては、保健衛生のよき相談相手、管理者であります。団体としての日本薬剤師会は、これら薬剤師の本部としての機能を十分能率よく果たす機関でなければならないと考えております。日本薬剤師会が、中央、地方を通じて、この機能を果たす態勢を整えることを、来る七一年の課題といたしたい。私はこのために最善の努力をいたしたい所存であります。

 話に聞く 長井長義先生のこと 九州大学 田口胤三

 本年四月七日から九日まで三日間福岡大学において日本薬学会九十一年会が開催される。日本薬学会は明治十四年に設立されているから本年は九十一年目にあたるが、日本における最古の学会の一つである。福岡において完全な年会が行なわれたのは昭和三十一年で約十五年前であるがその間に学会の規模は膨らみ、九十一年会においては演題数一二〇〇、参加人員六〇〇〇名が見込まれている。これだけの学会を運営することはなみなみならぬ困難を伴う大行事であるが、幸に会場の方は福岡大学当局の御好意により、そのキャンパスをお借りすることになった。広く全国を見渡しても、この位の規模の会合を一キャンパスで収容出来るのは福岡大学をおいては、東京大学以外はないであろう。

 昭和四十六年という年はかように福岡在住の薬学会会員にとって忙しくもあり、楽しくもある年となったが、全薬学会会員にとっても忘れることの出来ぬ年になろうとしている。それは日本薬学会の会館である長井記念館が渋谷の金王町に建設されることになったからである。日本薬学会は昭和三十七年に元東大教授長井長義先生の御遺族から渋谷の土地約八七〇坪の寄贈を受けた。これは長井家の御遺族が先生の遺志の具現を計られたものであって、近来稀に聞く美挙と申さねばならないが、日本薬学会はこれを受けて、この御篤志を生かすべく鋭意検討を重ねた結果、この土地に会館を建設することに決め、昭和四十六年中にそれを完成する運びになった。その名も長井記念館と名付け、先生の御遺志と御功績を永久に伝えることになった。

 九大病院の薬剤部長室を訪れる人はScientia Potestas est.というラテン語の額に気付かれるであろうが、これは長井先生の揮毫であり、エフェドリン・ナガイの長井先生として少くとも薬に関係する者の中に知らない人はないであろう。

 長井先生は昭和四年八十五才の長寿を全うされて他界された。われわれが薬学科に入学した時には化学をやる者は短命であると言われたが、近藤平三郎先生も御長命であったし、朝比奈泰彦先生に至っては九十才の今日尚研究に勤しんでおられるから、それは当らない。しかしこういう先生方が例外であって、あらゆる点でスーパーなのかも知れない。

 長井先生は明治四年二十七才で渡独され、ホフマンの助手として活躍され、その間にドイツ婦人と結婚された。四十才の折、東大の理学部教授に迎えられて帰国され、四十九才の時に薬学科の教授に移られた。そして七十七才で東大を退職された。七十七才は少し遅すぎたような気がするが、教授としての自負を尚持ち続けられていたのであろう。

 先生の学界における御業績のうち最も特筆すべきものはエフェドリンの研究であって、麻黄よりそれを発見されたのは実に明治十八年のことである。雑誌への発表はそれよりも少し遅れているがこの御業績は高峰博士のアドレナリンの発見と共に世界的に不朽のものである。先生の御研究は枚挙に遑がないが、実用的のものでは阿波籃の製法の改良などがあり、自から長井製籃と称せられて、久留米絣の染色にもインジゴと比較され長井製による阿波籃の卓越性を証せられたことも記録に残っており、遠く九州の地も例外なくその恩恵に浴したのである。

 その他、薬政、教育面でも御功績が多く、日本薬局方の制定、日本女子大学校(目白の日本女子大学の前身)の設立などに尽力された。特に女子教育には御熱心であって、東大で講義をされないことはあっても、女子大の講義は欠かされなかったと聞いている。フェミニストであったと思われる白髪童顔の先生が一頭引きの馬車に乗っていそいそと女子大に向われる姿が目に浮かぶような気がする。

 東大での講義はなかなかお出ましがなく、そのために学生達が先生の御部屋の前に陣取って、無理やりにおつれするようなこともままあったようである。しかし一たび講義が始まると時間はあってなきが如く、いつ果てるとも知らず、今度は学生の方が腹が減って閉口したとも聞いている。長井長義伝の著者金尾清造氏はこの講義を天衣無縫の講筵であったと評している。

 長井先生は近代日本薬学開拓の父であり、有機化学を根強く薬学に植付けられたのであるが、そのために有機化学界において英才が輩出し、薬学は有機化学偏重という謗さえ生れた。もし先生が理学部から薬学科に移られなかったら日本薬学界の歴史は変っていたであろうという人もいる。何はともあれ、先生が荒地に有機化学を植付けられたことは薬学にとってメリットであり、甞て聞かれた有機化学偏重の声は長井先生に帰するものではないことは勿論である。

 長井先生の生涯は近世日本薬学の歴史であり、薬学に学ぶ者は、直接、間接を問わず、大なり小なり先生の影響を受けているように思う。先生のことを読むにつけ、聞くにつけ、われわれの身のまわりのことが思われて、明治は勿論、大正も遠くなったような気がする。しかしその大半の寄贈をうけたあの広大な土地を手に入れられるについて、長井先生はその代金二五〇〇円余を準備されるのに当時相当御苦労されたらしい。時代の違いとは言い条、また長井先生を現代に移して比較することは出来ないにしても、その薬学界への有形無形の御貢献はその熱意においてすら誰もまねが出来ない。時代は移り、人の考えは変っても長井記念館は後輩育成への熱情の象徴として永久に渋谷金王町に残るであろう。

 迎春譜 田中美代

 逝く年を静かにふりかえって見る。薬業界にとってなんと大きな問題の多かった年だろう。薬局等の距離制限を撤廃せよ。再販制度のあり方を再検討せよ。そしてスモン病対策のためにキノフォルムの使用中止、年末になっては、米国F、D、Aの三六九種類の不良医薬品の、リストの公表等々、懸案の分業問題もそっちのけになったようで、まことに多事な年であった。

 しかしながら日本医師会の武見先生が広島で、来年四月から分業実施のため、全国の医師会の中に、調剤センターを設置するという発言のニュースは、その構想の詳細については不明であるが、我々の期待している構想のものではないにしても、分業実施の第一歩だと考えてみれば、ただ一つ明るいニュースと言えないこともないであろう。それにしても、薬局等の距離制限の撤廃問題は、日薬のかなえの軽重を問はれる重大問題であり、再販制度のとりあげ方如何についても、何れも業界の浮沈にかかわる問題となることは、間違いないのである。

 このような大きな問題が一つとして解決されることもないまヽ年が暮れようとしている。やがて年明けとともに、又しても、実現しそうにもない政治家達の公約をきかされることを思えば、来る年は年頭からさぞかし、そうぞうしい年ではなかろうかと思う。

 全国から集って来た入場者の集団をさばききれず、入場を断るという無責任と不手際、そして不名誉な記録を、世界の万国博史に残した。日本のEXPOをふりかえりながら、その日本人の無責任さ加減から発生する公害を考えてみたい。

 近頃では野犬が、人を咬んでも、ニュースとしての価値は少なくなったようであるが、野良猫の集団が赤ちゃんを襲うようになると、猫の公害と雖も、我慢がならない。目にあまる無責任な群衆の乱舞によって、日本の行楽地は次から次に破壊されて行く。無責任な企業の企業ぐるみの公害も亦、環境を破壊し、人命をむしばんで顧みない。民主主義も戦後二十有余年、板について来たとうぬぼれる人があるに至っては、全くお笑い草であろう。やがて人々は光化学とやらで、「めしい」にならぬとも保証はできないのである。

 そのむかし、三保の松原の風光にみとれて、羽衣をわすれた天女達は、亡び行く日本の風光をながめながら、ヘドロの臭気に鼻をつまみ、「天地臨終の舞」とやらを舞っていることであろう。公害発生企業の誘致の賛否をめぐって、二つに割れた住民達が、相争っている「石仏」の街、企業優先か、人命優先か、「石仏」の街の人々が自ら判断することではあっても、無縁の衆生が相争う姿をながめながら、「石仏」達もどちらに軍配をあげてよいものやら、さだめてくしゃみをしながらお困りのことだろうと同情している私である。それにしても「公害罪法案」と政治献金を取引条件にして改正しようとする日本の、政党の姿を見せつけられると、三島さんならずとも、心から義憤を感せずにおられないのである。

 犯罪白書が示す、年令の低下は何が原因なのか。組合活動のいわよせで、授業から閉め出されて、大きくなった子供達の責任なのか。このような子供達に、公衆道徳や倫理を望む大人達の、ひとりよがりと、独善こそが改められるべきであって、白書が示す原因の幾つかには、どこか狂ったまま動いて行くに日本の世相とともに腐りかけた政党政治に由来するものでなくて、何んであろうかといいたい私である。
三島事件を評して、二、二六事件の前夜といい、軍国主義復活のあらわれという「北京放送」、反省すべきは日本の政治家達の独善と、全体主義への郷愁である。

 イギリスの取引制限慣行裁判所というお役所が、すべての商品については、再販制度を認めないといいながら、医薬品ただ一つについて、再販制度を認めたということは、何を物語っているのか。今私は詳細のことについては不勉強のため思い出せないが、人の健康を左右する医薬品については、自由競走をさせることによって、品質が心配される、といったようなことが主な原因だったことを、記憶している。

 最近になって、「薬局等の適配問題懇談会」が再販制度をとりあげたり、「公取委」の中に設置された「独占禁止懇談会」も亦この問題をとりあげて来た、その裏面には、さきの議会で問題になった、再販によるリベートが一二五%もあるということに起因しているためといわれるに至っては、私には、その事実の程は別としても、物価安定協議会のメンバーに、恰好の攻撃材料を与えたことになったわけで、業界においても亦反省すべきものがあるのではなかろうかと、憂うるものである。

 俗間騒がれる自由競争の品は果たしてどんな医薬品なのか。ビタミンやミネラル、ドリンク剤等の大衆保健薬から、化粧品等の自由競争品をもって、すべての医薬品が律せられることになると、これこそ医薬品の本質を知らぬ素人の方々の、ひとりよがり運動と称したいのであるが、果たしてみなさん方、どのようにお考えになっておられるだろうか、おたづねしたいものである。

 さきにもふれたように、米国F、D、A当局が、不良医薬品として公表した二六九種類のリストの中には、我が国の業界においても、大きな影響を及ぼすものがあることは間違いあるまい。発足した厚相の私的諮問機関といわれる「薬効問題懇談会」にして、十月に発足した東大の高橋講師を発起人とした「薬を監視する国民運動の会」にしてもその動きがどのように業界に反映して来るか。誇大広告が今なお、まかり通っている現状は、何んと言っても反省しなければならないところである。厚生省から委嘱されている民間の医薬品を監視しているモニターの動きとからみ、今回の米国F、D、A当局の出方が、我が国の厚生省をどの程度ゆさぶることか、私達は自らの襟を正しながら、その成り行きを注視しつつ、年あけをまつことにしたいものである。

 臨床検査技師 指定講習会受講希望者 福岡県薬で調査

 衛生検査技師法の改正により、四五年一二月三一日までに衛生検査技師免許を取得したものは、厚生大臣の指定する講習会において受講を終了したことを条件に「臨床検査技師」の特別試験をうけられる既得権が認められることになっており、薬剤師であるこれら既得権者に対する特例試験、および指定講習会開催については厚生省において検討が続けられていたが、このほど基本的事項が判明したため、福岡県薬剤師会ではさきに調査した臨床検査技師免許取得の希望回答者に対し、指定講習会開催準備のため、再度調査を行なうことになった。

 調査は左記諸事項を検討の上、指定講習会参加希望の有無を一月一五日までに回答することになっている
(1)特例試験は46年8月22日実施される。
(2)特例試験を受けようとする者は指定講習会を終了せねばならない。
(3)指定講習会受講の有資格者は45年12月31日までに衛生検査技師免許を取得した者であること。
(4)指定講習会は、都道府県薬剤師会、日本衛生検査技師会、衛生検査技師養成所などが行なうものが厚生大臣から指定される予定である。講習会は、講師、諸経費等の関係で二〇〇名以上参加者がないと実施困難であるため福岡県薬としては今回の回答結果により、単独開催か共催かを決定する。
(5)指定講習会は46年5月から7月の間に行なう。
(6)講習内容は@医学概論及び関係法規4時間A臨床生理学17時間B臨床化学U8時間C医用電子工学概論10時間D情報科学概論4時間E臨床検査総論U5時間Fその他4時間計52時間
(7)講習開催日数52時間消化するためには、土曜日5時間、日曜日8時間講習とすれば、4週間(一ヶ月八回)かかる。
(8)指定講習会受講のための費用
受講料=一人につき約五〇〇〇円
テキスト代=約六〇〇円
その他
(9)臨床検査技師の業務
臨床検査技師は衛生検査技師業務のほかに、生理学的検査と検査に必要な採血行為を医師の指導監督の下に行なうことができる。これは病院、診療所内での行為に限られるなお、前回の調査による受講希望者は開局二七七名勤務二四二名計五一九名である。

画像
 薬剤師はプロフェッションとなりうるか!! 荒巻善之助

 ◆はじめに

 医薬分業は来るべくして来ようとしている。それはもはや社会的要請として、必然的にもたらされるだろう。だがそれが薬局に必ずしも経済的恩恵を与えるものではないということは、多くの評論家の一致して指摘する所である。「然し」と或人は云う、然しそれは薬剤師に生き甲斐を与えるであろう、と。生き甲斐を与えるということは、それがプロフェッションとして確立されることだと私は思う。だが果してそうだろうか。

 アメリカは建国以来の分業国である。だがアメリカの薬剤師は生き甲斐をもって薬を扱っているのだろうか。アメリカの薬剤師は特定の医師と直通電話によって処方をうけているということを聞くが、これは完全な医師への従属を示すものではあるまいか。又調剤報酬がディスカウントされ、甚だしきは客寄せのために利用されているということすら聞く。そこで薬剤師は誇りをもって調剤をしているのだろうか。薬局は次々とチェーン化され、薬剤師は一雇傭者として働いていると聞く。そこで彼等は自分達の職業に生き甲斐を感じているのだろうか。

 彼等はオーバーカリキュレィテッドであると評される。薬剤師はそれだけの教育をうけることはいらないということだ。彼等は受けた教育にふさわしい評価も尊敬もうけていないのであろう。それは軍隊に於ける薬剤師の位階をみれば一目瞭然である。看護婦よりもはるかに下級なのだから。

 このような事実は、分業は決してそれだけでは薬剤師に生き甲斐を与えるものではない、ということを明らかに物語っている。悪いことに、日本はすべての事がらについて、最もアメリカナイズされた国の一つである。それは戦後のゼロからGNP世界第二位に急速成長した日本経済の中に理由を求めることができよう。しかも、日本は流通面ではヨーロッパ諸国よりも、もはや先進国になりつつある。そういう急速転換の中で分業がもたらされようとしているのである。そこではヨーロッパ的な分業は望み得べくもないことであって、アメリカ的な、或はもっとミゼラブルな、日本的分業がもたらされるのではないか、という感が強い。

 そこで分業を薬剤師について次の三点に分けて考えてみたい。
 1、来るべき分業はどういう性格のものであるか
 2、薬剤師のプロフェッションとは何か
 3、我々はどういう努力をすべきなのか。

 ◆来るべき分業

 分業が来るべくして来るということは、それが決して薬剤師のプロフェッションの故にではないということである。薬剤師は薬を扱うのが仕事であるし、世間もそう思い、法律も一応はそうなっている。だから分業になれば当然薬剤師が扱うというだけの事であって薬剤師でなくてはならぬ、という職能的な要請は何もないのだ。少くとも分業にしなければならぬという理由の中にはない。それでは薬剤師の表看板がすたるので研修会などというものを開いてデモストレーションをやる。医者もどうせ分業になったときは薬のうま味はしゃぶりつくすだけしゃぶりつくしているはずだから、プロフェッションについて迄は言及しない。評論家もわざわざ悪口を云うこともないので、生き甲斐を与えるであろう、などということでお茶をにごす。

 自分が薬剤師であってこういうことを云うのは、まことに残念なことであるけれども、そういう生ぬるい感覚で分業を考えることがいかに危険なことであるか薬剤師一人一人がもっと現実を直視してもらいたいと思う。

 日本の医薬分業は医療制度の歪の中にその要因を求めることができる。開業医の道義的腐敗、保健財政の赤字、それ等はもはや国民のすべてが知り、今や早急に解決を迫られた社会問題となっていて、その情況はまさに革命前夜を思わせるものがある。その革命のきめ手になるのが医薬分業なのであって、これは医師が薬を売ることを止めない限り、医療制度の歪は正されないということから医師を医薬品流通の系外に排除することがその主目的なのである。

 従って日本に於ける医薬分業は、医療制度に於ける医薬品流通の合理化、広い意味では医薬品の流通近代化の一環として捉えなくてはなるまい。その意味では分業に、薬剤師の医療に於ける主体的役割り、云いかえればプロフェッションの主体性を求めることは不可能なのであって、あくまで医薬品流通のメッセンジャーとしての役割でしかない。そしてこのことは分業は医薬品を物としてみたときにはじめて理解できるという意味である。

 そういう捉え方をすれば分業は近代化された小売、即ち大型小売でしか受けきれないことは理論的に明白である。分業ムードの初期には調剤センターや備蓄センターの構想が盛んに論議されたものだが、それが最近になってだんだん影をひそめてきたのは、そういう分業の大向うを張っての、近代的なうけ方は、零細薬局の経営感覚では、とても無理だということが、次第に認識されてきたからであろう。

 そこで、一般の薬局が受けるとすれば近代化以前の形で、いわば分業の先取りという形にならざるを得ない。そしてこれは特定の薬剤師の特定の医師に対する働きかけという形で実現される。いみじくも、この分業を小ばんざめ方式と呼んだ人があるが、これは薬剤師が完全に医師の従属下に位置することを余すことなく表わして面白い。

 先般中央の指導的立場にある人がその講演の中で処方箋をとるためには医者と徹底的に遊んで人間関係を作れ、そのためには女遊びの一つぐらい一緒にやるつもりでなくてはだめだ。という極論を吐いたが、日薬の方針自体もそういう転換を余儀なくされたということ。医薬協業などと云えば聞えがよいが、これは敗戦を終戦と呼び、退却を転戦と呼んだ日本的表現形式であって、背に腹は代えられぬ、貧すりや貧すというのが本音であろう。

 然しこの先取り方式にもネックはある。それは医家向専門メーカーによる同種製品のディスカウントである。これが続く間は先取り方式は一般的に普及せず、人件費高騰とのかね合に於て部分的に実施されるがやっとではなかろうか。従ってこのネックが解消するためには継続的、徹底的薬価の引下げが行われなくてはならない。

 こういう部分的な切りくずし戦法で分業の既成事実を作り上げ、或程度それが普及したときは一挙に強制分業に持ち込むという作戦は、たしかに今迄のどの作戦よりも現実性がある。その意味でははるかに考え方の進歩だと云えなくもない。然しそうした分業が一体薬剤師にどのようなメリットを与えることになるのだろうか。かりにそういう形式で分業が行われたとしても薬剤師がプロフェッションとして確立されていない限り、何れは近代的なチェーンの中に吸収され、彼はただの雇傭者に過ぎなくなる運命をもっているのではないのか。彼も彼の後輩もそれで足れりとは思わないだろう。

 ◆プロフェッションについて

 医と薬とは車の両輪にたとえられる。これは薬剤師が医師と対等の立場でその職能を主張するときしばしば用いられる議論である。だがそうであろうか。

 医の本字は醫で、醫は悪しき姿、一般に病人の声なりという解釈がある。酒は酒で古くは酒を以て薬としたということで、病を薬で治す、即ち「イヤス」である。医にはもう一つ別の面があるが、これは巫(みこ)が医療を行ったことによるものである。

 一方薬剤の剤は、本義は刀で切り剪えるということ又、合せるという義があり、薬剤とは薬を調製するという意味になる。こういう字義を引っぱり出してうんぬんしようというのは、医と云い薬剤と云い、ともに技術を示すことばであるけれども、その本質的な差はどこにあるのか、ということを糾明したいと思うからである

 醫は字の示すように薬を用いること義としている。医の「よみ」を「くすし」と云うが、これはその義の通りであることは云う迄もない。そしてこの薬を用いる対象は個々の病気であり人である。薬剤、即ち薬を調製することはそれ自体は高い技術によって支えられている。そしてこの技術の高度化は二様の意義をもつ、一つは製品自体の高度化、即ちよい薬が作られるということ、そしてもう一つは生産様式の高度化、即ち大量に作られるということである。この二様の高度化は実は一つの高度化の表裏であって、品質的な高度化はそれが規格品である限り、大量生産をバックにしなければ成立たない。近代化学工業の目ざましい進歩はその二つともをあます所なく可能にしたのであった。

 社会が一次生産に依存して営れていたときの薬剤師はたしかに世人の尊敬を集めるに足るプロフェッションであった。その輝かしい伝統は今なおヨーロッパの薬局にうかがい知ることができる。然し高度成長をなしとげた製薬技術は皮肉にも薬剤師自身の役割りを後退させることになる。彼等はもはや字義通りの薬剤師ではなくて、専ら薬の供給管理を職とすることになる。ここでは本来的な意味での技術はすでに失われて、医師への従属性のみが強調されたのであった。このことは医師が同じく高度化した技術を専門的に分化させ乍ら、それを人間という個別的な対象に駆使してきたことと本質的に異るのである。

 二十世紀の工業化社会は医、薬学の目ざましい発展をもたらした。医師はその成果を利して絢爛たる地歩を確立した。だが薬剤師にとってそれはまさしく不毛の世紀であった。ただ幸にも我々は今まさに情報化社会の導入部に位地している。そこで医師と薬剤師というプロフェッションの内容は、どういう変化をもたらすであろうか。

 情報化社会に於ては、医療産業ということばが用いられる。工業化社会では医療は個々の医師のいわば職人的な勘と、技術によって支えられてきた。然し情報化社会ではもはやそれは許されなくなるに違いない。少くともそういう志向性をもって技術開発が行われるはずである。これはとりも直さず医療の大型化を意味している。その結果医師個人個人は曽っての患者に対する絶対的な優位性を除々に失って行くことになろう。

 一方薬剤はどうであろうか。医薬品の進歩と共にその安全性を確保することはますますむづかしい問題になってきている。医薬品はますます尖鋭化して鋭利な刃物のような切れ味をみせる。医師は今迄それらを自分の勘と経験で使用してきた。然しそれはもう許されなくなってきている。それ等の医薬品の安全性を守るためには個々の医薬品と、それを用いる対象各個人との細かな情報の糸が必要になる。

 カルテは今迄患者の既往症について書かれてきた。然しこれからは、個々の医薬品に対する感受性について書かれなくてはならない。そうなると医薬品のはたらきは、その作用の種類、方向性、選択性、強さなどを示す客観的な基準や表示が整備されてくるだろう。そして医師のレセプトは、薬のはたらきについて書かれ具体的な薬品名については書かれなくなるのではなかろうか。

 多少話が飛躍し過ぎるように思われるかも知れないが、今後ますます複雑化してくる医薬品の情報を医師自ら管理するということは不可能であるし、国民の福祉からみても得策ではない。薬剤師は何らかの形で、そのクモの巣のような情報を管理せざるを得なくなる。むろんコンピューターも導入されようが、情報の取捨という最も高度な、頭脳労働がその仕事となろう。

 今迄、薬剤師が管理してきた薬の安全性に関する情報は、薬と患者をつなぐ、極量という粗く短い糸と、配互禁忌という薬相互間を結ぶ小数の糸だけであった。然しその糸はもはや無数の糸に変りつつある。薬剤師はそれを管理し、情報提供者としての地歩をうることによって、プロフェッションを確立することになろう

 ◆われわれはどういう努力をすべきか

 「胃腸と肝臓は歯車の両輪のようなものです。やはり強肝から疲れを除くアンプルがよろしいですね」と○○を出す△△先生、○○はこんな面から奨めるとカンタンです。

 前記の一文は或大衆薬メーカーの販促例を示す記事の一節であるが、これと似たような記事は毎日のように我々の目にとび込んでくる。あなたが薬剤師だったら、どういう気持でこれを読まれるだろうか。薬剤師は薬の専門家であることを盛り込んだカリキュラムが作成されたのである。実ると我々は人に云う。ではいったいどの意味での専門家なのか、薬について、我々は大衆にどういう啓蒙をし、どういう貢献をしてきただろうか。

 大方の薬剤師は、彼の薬局が大衆にとって、薬種商の店と何ら変りがないことについて自嘲的である。然し彼は自分の店で、薬種商以上のことをしただろうか。ここで何をしたかと云うことは、薬について彼の取得した知識のすべてをかけて、職業的良心に恥じなかったかと云うことである。

 前記の引用例は、例としては大変まともな例に属する、あなたの店ではもっと強引な販売テクニックがとられているかも判らない、生活のため、仕方がないじゃないかと云うだろう。しかしそれは何れは大衆にも判る、だから彼等は薬剤師を信用しない。専門家ではなく商人とみるのである。

 或はこういう意見がある。同じ薬でも説明のし方で効きもするし、効かぬようにもなる。我々は専門家だから充分効くように説明してやるべきだ。と。薬の使用上の注意はむろんしなければならない。プラゼボー効果もたしかに重要な意味をもつ。然しプラゼボー効果は本来は治療の領域に属するもので、医師が利用すべき手段である。薬剤師が専門的知識を駆使しなくてはならない場所は薬自体に対する科学的な判断である。薬剤師が現状、軽医療の一端を担っている以上、プラセボー効果を全面的に排除するわけには行かないが、説得の技術に溺れて、本来の場をくずしてはなるまい。

 こういうことを真正直にやると、大低の薬屋は立行かない。真正直にやらなくても、或程度良心的にやれば薬だけでは食えなくなるのが当然で、そこで石けんやちり紙を売ることになる。石けんやちり紙をぢゃんぢゃん売ると、アイツは商売人だということで、薬剤師の風上にも置けないように云われるし、薬事監視の時なども、アンタンとこは薬局ですか、雑貨屋ですか、などとイヤ味を云われるが、どういたしまして、薬をまともに売たいばかりに石けん、ちり紙で喰べているわけだ。

 薬剤師がえりを正すということは、己れのプロフェッションにかけて薬を扱うということで、それと雑貨を売ることは別のことなのである。それと似たようなことでは今の薬事法ほど馬鹿らしい法律はあるまい。薬局開設に必要な試験器具などはあれで一体どんな試験ができるのか、あの法律を作った人に、実際にやってみせてもらいたい。

 ああいう古典的な器具を、しかも部分的に揃えて、俺は町の化学者でございなどと云ってみても、実際は何一つできないことぐらい、みんな御承知のはずだ。薬剤師が巷に氾濫する薬を自分の手でチェックしようと本気で思うなら、もっと組織だった験査施設を実際に作るべきであって、薬剤師会の地方ブロック毎に相当高度の設備と人材を確保することが必要だし、中央験査室は国立衛生試験所ぐらいの権威をもたなくてはなるまい。そうすることによって、はじめて薬剤師会自身が薬についての自主的な発言をすることができるのであって、昨今のキノホルム問題のような時でもマスコミの質問に対して、薬の専門家と称する団体が「サア、厚生省がどう云うか、我々はその指示に従います。」などという、ぶざまな回答をしなくても済む。

 むろん今の薬局の試験器具などは無用の長物で、代りに薬剤師会、又はそれと同等の施設を有する団体に所属することを、開局の必須条件とするよう、法を改正すればよい。そうなれば今のように会長になり手がなくて困るような弱い組織ではなくなるはずだ。

 むろんこういうことが、一朝一夕にできるわけではない。然し何年かかろうと何十年かかろうと、日本薬剤師会が、対外的に権威ある発言ができるようにならない限り、プロフェッションの確立ということは難かしい。なぜなら、前述のように、我々は情報提供者としての地歩を確立すべきであるから、伝達すべき情報そのものが、会によって確保されていなければならない。

 例えば小児薬用量などは最も卑近な例で、今以て、ヤングの式で計算する薬剤師がいるというようなことが、不思議がられないのが不思議なのである。小児薬用量が現在のように基準もないまま思い思いに用いられているということは、薬剤師としてまことに恥づかしいことであって、常時、各薬品毎の基準量を検討できるような専門委員会が、日薬内部に必要だと思う。医薬品のチェックも日薬が自主的にやって、不良品は即刻全国に指示して、販売を中止させるだけの、強い統制力が必要であって、こういう強い会の組織に支えられてこそ、はじめて個々の薬剤師が権威ある存在になることができよう。

 会員の研修会が、無意味であるとは云わないけれども、それが会員個々の、技術的研修という意味に止まる限りは、何となく戦争中の竹槍訓練を思わせる。薬剤師が情報提供者であるということは、その情報が、常に薬剤師自身によって集められ、整理され、体系づけられて伝達されることが必要で、そのためには個々の薬剤師が、強力な組織によって統制され、且つ又、それによって支えられていなくてはならない。私は薬剤師の努力はまさにこの方向に向って結集されるべきだと思う。

 分業は来るべくして来る。もしその時迄に、薬剤師が自己のプロフェッションを確立していなかったならばその担い手は流通業者になろう。だから、今の開局者は、分業を実質的にかちとる方法がふたつだけある。一つは薬剤師が自己のプロフェッションを確立すること。もう一つは彼自身が流通業者になること。

 つるし柿 三汀

 十二月八日午後五時三十分から龍鳳で薬業祝賀会が行われた。四島先生の藍綬褒章、五郎丸先生の厚生大臣賞、柴田先生、神谷先生の文部大臣賞をそれぞれ受賞されたお祝いである。亀井福岡県知事も来賓として出席され有り難い祝詞を述べられた。約二百名のつどいでいとも盛大なものであった。

 四島先生、五郎丸先生は福岡県薬剤師会会長として熱心に会のため尽され、柴田、神谷先生は学校薬剤師として環境衛生に何れも自分の店の事は犠牲にして長年努力されたその功績により表彰されたものである。

 祝賀会いよいよ進み松村福岡大学薬学部長の音頭にて乾杯し、酒宴もたけなわとなり余興となった。工藤先生の巧みな司会ぶりで、こげな余興では下手糞から順にするとですばいそれで内田先生の尺八が一番先き、ということで前の福岡市学校薬剤師会会長の内田数彦先生が、藍綬褒章や、厚生大臣賞、文部大臣賞に感激し、六十の手習いで芸は未熟ぢゃがこの目出度い祝宴に興を添えたいといって古い尺八を持って来て一曲吹かっしゃった。自分では他になければ日本一の尺八の名人のごと宣伝しござったばってんあんまり上手ぢゃなかった。どちらかといえば下手に類する方ぢゃろう。

 吉沢検校の作曲チロリの曲といいござったが千鳥の曲のことぢゃろう。ほんとにチロリのごとあった。
あれで本人は音楽ばしよる積りぢゃろう。日本流に云えば音曲というとぢゃろう。編曲演奏は内田といいござったが変曲も良いところ、騒音そのものであった学校薬剤師しよってその位のことが解らんとぢゃろか、まあ上手でないことは解ったがどげなもんかいな。

 後の方で誰かが、内田先生の尺八はお正月のお鏡餅の上に橙と一緒に乗っとる「つるし柿」のごとござすな‐といいよった。そらあ又なしな、尺八つるし柿とどげな関係のあるとな「つるし柿」の事ぢゃのって蒂(へた)なりにかたまっとる。

九州薬事新報 昭和46年(1971) 1月10日号

 日本薬剤師会 会員・拡大委員会開催 薬剤師の結集はかる

 日本薬剤師会は石館日薬会長が就任に際しての所信表明のなかに重要項目として掲げていた日薬会員についての基本的考え方を検討するために会員委員会拡大委員会が、一二月一九日開催された。

 拡大委員会は、会員委員会委員に加えて、一〇名の臨時委員が参加し、会員の拡大、増加、会費の基本的あり方等会員に関する基本的考え方を十分検討し、会員の意識の高揚、日薬の今後の発展をはかることを目的としている。

 当日石館会長から次のとおり諮問が出され、引続き一月中に二、三回開催、できるかぎり、一月中に結論を得、答申を行なうこととなっており、二月の通常代議員会に原案を提出したいとしている。

 諮問書

 薬剤師の免許を有する者全員の結集をはかるため、本会の会員制度、会費制度及び会員増加対策をいかにすべきであるか、ご検討をお願いします。本諮問に対する結論は、なるべく昭和四六年二月一〇日までに答申されるようお願いします。

 記
一、会員の範囲と分類
  開局薬剤師、病院勤務薬剤師、一般勤務薬剤師、公務員薬剤師、製薬企業に従事する薬剤師、その他の薬剤師
二、上記分類に伴う組織と活動のあり方、日薬と地方薬剤師会との関連
三、会費と分担金のあり方

 同盟情報部速報 第63号 昭和45年12月25日 日本医薬分業実施推進同盟情報部

添付薬の薬価基準削除措置厚生省が採用

 中央社会保険医療協議会(円城寺会長)は、一二月一四日の全員懇談会で、「医療料金の物価スライド制」等につき話しあいを行ない、スライド制については結論が出なかったが、過大添付医薬品について協議された結果、医師会側はじめ各側委員の意見が一致し、「今後いちじるしく不当な販売行為をした会社があれば、その会社の医薬品を薬価基準から削除して保険で使えなくする」との方針をきめた。

 この決定に従って、一二月一五日、厚生省保険局長は、同薬務局長あて文書をもって、添付が行なわれている医薬品を薬価基準から削除するに必要な措置をとることに決定した旨を通知した。同日薬務局長から、日薬に対しても、同件を会員に周知徹底するよう通達があった。
中医協において、日薬の沖委員は、かねてから薬価には利潤を伴うべきでないと主張していたものであり流通の適正化、ひいては医薬分業にも影響を持つ問題で、今回の措置は、医療制度全般の改善に一歩前進が見られることになる。薬務局長、保険局長の通達は次のとおり。

 医薬品の販売に伴う添付について (薬務局長より日薬会長へ)
今般、保険局長から薬価基準収載の医薬品の削除について別添のとおり連絡があったので、薬務局においては、添付が行なわれている医薬品を常時調査把握しこれを保険局に連絡することとしました。上記の措置に伴い、医薬品の添付を廃止することはもちろん、医薬品の販売姿勢について、さらにその適正を期されるよう要望します。なお、本件については、貴会各会員の部内において早急に周知徹底するよう、すみやかなご連絡をお願いいたします。

 薬価基準収載の医薬品の削除について (保険局長より薬務局長へ)
昭和四五年一二月一四日に開催された中央社会保険医療協議会において「添付が行なわれている医薬品については、薬価基準から削除すべきである。」という決定があり当局はこの決定に従って必要な措置をとることとしたので、その旨御了知されたい。なお添付に代えてこれに類するような販売方法がとられた場合には、さらに必要な措置をとることとしているので、関係者に対する指導方よろしくお取り計らい願いたい。

 FDA発表に対し 日薬見解表明 再評価に協力惜しまぬと

 米国のFDAの医薬品再評価発表について、日薬はアメリカ薬剤師会に電報照会を行ない、その意見を求める等その解明について努力を払っていたが一二月一七日製薬調査委員会を開き、これについて検討した結果、日薬としてこれに対する見解を一二月二一日、次のとおり発表した。

 日本薬剤師会は平素より国民の健康と福祉を守るため、医薬品に関しては、常に最高の品質の医薬品を生産し、供給する目的のため無効または有害の医薬品の排除と不正表示、誇大広告による医薬品の乱用防止に自ら最善の努力をすると共に、厚生省当局のこのような方針にも協力をつくしてきたが、この方針は今後とも変るものではない。

 先般アメリカFDAが三六九種類の医薬品についてその無効性または不正表示として取り上げたリストを発表したが、その内容については、適確な資料が届かないので詳細に知る由もないが、現在までの情報を検討してみると、三六九種類が今回のリストにあげられた理由としては

 (1)数種の医薬品を配合した配合医薬品(たとえば二種以上の抗生物質、又は抗生物質と化学療法剤の配合)があるが配合したことにより、特別な薬効が期待されないと判断されたもの。
 (2)もっともらしい成分を添加しているが、それほどの効果がないものと判断されたもの。
 (3)発売されているがその医薬品が既に陳旧化し実際に利用されていないもの
 (4)薬用ハミガキにおいてムシ歯が治るように受取られる誇大にわたる広告をしている事例。
要約すると以上のことが指摘されている。

 アメリカ薬剤師会はこのような事態が発生するのは医薬品の表示と使用上の注意が書かれていないので、医師も国民も製薬メーカーの一方的な宣伝にのみ頼って医薬品の選択をしているからである。早急に医薬品の表示及び使用上の注意義務を課すると共に、薬効研究班により指摘された情報を製薬メーカーは忠実に受け入れて医薬品の安全性を常に確保すべきであると、見解を発表している。

 以上のことを総合してみると医薬品の表示及び使用上の注意については、近年日本においても既に実施されておることであって、表示とその内容の違った場合あるいは適応症に誇大な点があった場合など不正表示医薬品として、常時監視行政により医薬品の安全性と正しい服用を指導しているところである。

 今回のFDAが指摘されたような事例については、薬効問題懇談会において、昭和四二年以前の医薬品を対象として再評価のあり方について採り上げ検討中であり、我々もこの方針に協力支援を惜しまない方針である。

 第4回薬効問題 懇談会開催

 一二月一八日、薬効問題懇談会(熊谷洋座長)は第四回会合を開き、前回の薬効の評価にひき続き、焦点を薬効の判定はどうしたらよいかにしぼって検討した。基礎研究にひき続き、臨床実験を十分に慎重にやらなければならない。それには臨床の第一段階で薬効と安全性が十分チェックされる体制が必要で、第三者の手になる厳正な機構を求める意見が強く出された。

 医薬品の効果については動物実験の段階で可能なかぎり、急性、慢性、毒性、催奇性などを調べ人体に移されるが、この際に、臨床の第一段階として、健康なボランティアについて、吸収、代謝、排泄、副作用を厳密に実験することが強く打出された。しかし、このボランティアが確保できるかどうかは、国民の医薬品に対する考え方をみると、きわめてむずかしいという意見があったとのことである。現在、臨床の第一段階は各企業の責任で行なわれていて、決して十分とはいえない。できれば、第三者の機構が望ましいというわけである。次回一月二二日には、臨床試験について検討される予定である。

 薬局等配置問 題懇談会開催

 一二月一六日、薬局等配置問題懇談会(星野毅子郎座長)が開催され、日本チェーンストア協会の青戸常務理事が参考人として出席その立場として次のような意見を述べた。
(1)適配条例の改廃を考慮せよ。これが不可能であれば青写真申請(一年前)を認めよ。
(2)許可基準を緩和せよ。
(3)一店に一人の薬剤師にしてほしい。(調剤数、売上げによる増員の廃止)
(4)大形量販売店の売場移転を、条例の対象外とせよ
(5)開設の防害行為を排除されたい。
(6)申請のなかには薬事審議会にかけなくてよいものもある。
(7)申請の際の必要書類が多すぎる。
なお、次回(一月一一日)には県の薬務課長から実務上の問題について聴取することになった。

 食品薬品安全 センター設立

 一二月一五日厚生省が発表したところによると、財団法人食品薬品安全センターが近く厚生大臣から許可される見込みとのことである。この財団は、消費者のため食品の安全性を科学的にチェックし、食生活の不安を解消することを主たる目的とし、あわせて薬品の安全性についての基礎部門のチェックをする高度の研究機関を設置、運営することを事業内容としている。この事業を、あくまで民間ベースで、しかも公正中立の権威ある研究機関とするため、関係業界の協力に依存することを避け、日本自転車振興会の補助金により設立されるものである。建設規模は、人員一〇〇名程度、建物延面積約一二、八七〇平方メートル(約四、三〇〇坪)で、順調に進めば昭和四七年度早々に開所されるということである。なおこの財団の理事に石館日薬会長が入っている。

 日産自動車、モーターファン誌の薬局誹謗記事で陳謝

 雑誌モーターファン一二月号に掲載された、日産自動車のPR記事中に「純正は医師が処方した効きめのあるクスリ、イミテーションは町で買うクスリ、あなたならどうする?」と漫画入りで、自社製品の宣伝を行なっていることが判明した。

 新潟県薬は、これを取上げ、同県薬ニュースで「全薬業人はあげて日産自動車をボイコットせよ!!」と強く抗議する態度を表明した。

 この件について、一二月二五日、日産自動車KKの常務取締役ならびにこの記事をあつかった広告社博報堂のPR本部次長等の幹部五名が、日薬に石館会長を訪問、深甚な陳謝の意を表明した。同社は、日薬会員全員に陳謝状を発送し、同誌三月号に陳謝文を掲載することを約し、誠意を披歴する態度を示した。

九州薬事新報 昭和46年(1971) 1月20日号

 46年度国家予算に 分業推進費一千万円計上される

 昭和四六年度の国の予算は、年末に各省の復活接衝を終り一二月三〇日閣議決定によって、国会提出の原案ができあがった。分業推進予算は、運動の成果が実り、一、〇〇〇万円という大台に乗ることができた。

 一二月二三日大蔵省の各省あての内示があり分業推進予算は零査定であったが二四日第一次復活接衝、二五日の第二次復活接衝ともに成果なく、苦闘が続けられ、第三次復活接衝は薬務局長によって、二六日すすめられた結果、二七日朝一、〇〇〇万円の復活が認められた。当初要求額三、六〇〇万円からは後退したが、昨年度予算約六〇万円からは大巾な躍進が見られたわけで分業推進の大きな力となろう。
なお、一、〇〇〇万円の内訳は、現在関係当局で細部について検討中である。

 厚生省人事異動 新薬務局長に武藤氏 企業課長に松田氏

 厚生省は八日付で幹部の人事異動を発令した。それによると熊崎事務次官の辞職を認めその後任に梅本純正氏(社会保険庁長官)、新薬務局長に武藤g一郎氏(援護局長)、企業課長には松田正氏(国民健康保険課長)をそれぞれ起用し、加藤威二薬務局長は社会局長に、木暮保成企業課長は医務局総務課長に就任した。

 福岡地区薬業協議会 販売姿勢の適正化で兵庫県にならうよう要望

 福岡地区薬業協議会は、一月例会を一一日一時から、十日会を三時からマルベニにおいて開会昨年来努力してきた広告の自粛について報告、今後も引続き努力するが、さる一二月一〇日付で兵庫県衛生部が医薬品販売姿勢の適正化についての指導方針を明らかにし、単に広告だけに留まらず、医薬品の販売姿勢全体についても言及し、とくに医薬品の特殊性を前面に打出し、消費者大衆から信頼されるよう努力する必要があるとして内容も具体的に表現、指導する方針が打出されているので、これを参考に当県においても、最近の薬業をとりまく諸情勢に鑑み、なお一層適正な指導を強化されるよう当局と話し合いをすすめることを申し合せた。

 兵庫県が薬業関係者に通知した指導方針は次のとおりである。

 ▽医薬品等の販売姿勢の適正化に関する指導方針
医薬品等が、人の生命、健康に直接関係をもち、しかも一般消費者にとっては、その価値判断が困難であるという特殊性から考え、医薬品等の管理、販売方法、陳列、貯蔵および広告等、販売姿勢に慎重さを欠く場合には、医薬品等の品位をそこない、薬業界全体に対する信用の失墜につながるのみならず、一般消費者の医薬品等に対する認識を誤らせ、ひいては、誤用、乱用を助長し、保健衛生上重大な影響を及ぼすおそれが大である。

 以上の観点から、現在の社会情勢、薬業界の今後のあり方および昭和四十年六月十二日付薬第六六四号「行過ぎた広告の自粛について」の通知事項の再認識を含め、この指導方針を定めたものである

 一、医薬品等の管理について
(1)薬局開設者等は、管理者がその義務を遂行しやすいよう配慮し、管理者は、医薬品等の販売姿勢にその意思を十分に反映させること
(2)管理者が名目的になり、管理の実態の伴わない、いわゆる「名義貸し」は、絶対に排除すること
(3)管理者は、医薬品等の品質の確保をはかり、その有効性、安全性に意をもちいるとともに、無許可、不良、不正表示の医薬品等の一掃につとめ、保健衛生上支障のないよう配慮すること

 二、医薬品等の販売方法について
(1)医薬品は、店舗における対面販売を厳守すること
(2)医薬品等を分割販売(零売)する場合は、薬事法規定の表示を行なうとともに、薬局等の責任を明確にするため、その名称および所在地を容器または被包に表示すること
(3)医薬品等の販売にあたっては、その用法、用量、副作用、使用上および取扱い上の注意等を十分説明し、消費者に正しい理解を与えること
(4)睡眠剤、鎮痛剤、精神安定剤等乱用につながるおそれのある医薬品につ*** 慎重にすること
(5)医薬品等について、その品位をそこなわず、かつ、消費者の見やすい方法(葉書大以下のプライスカード等)により、販売価格の店頭表示を積極的に行なうこと
(6)医薬品の品位、信用をそこなうような呼び込みによる販売、またはおとり商品としての販売等の行為はしないこと
(7)医薬品のサンプルについては、過度の提供を避け、乱用誤用を助長するおそれのないように配慮すること
(8)医薬品の不必要な消費を促すような賞品、景品、割引券および抽選券の添付または他の名目の利用などこれらに類似する行為はしないこと

 三、医薬品の陳列について
(1)医薬品の陳列は、衛生的に整理整頓し、かつ、薬局等の品位をそこなわないよう配慮すること
(2)医薬品は、道路、他商品売場等許可外の場所に陳列しないこと
四、医薬品等の広告について
(1)医薬品等について、虚偽、誇大あるいは誤解を招くおそれのある広告(ポスター、チラシ、ビラ、ダイレクトメール、サンドイッチマンその他すべて媒体による行為。以下同じ)は行なわないこと
(2)医薬品について、不必要な人にまで使用を促しあるいは連用を不当に推奨するような表現等の広告は行なわないこと
(3)医薬品についてその品位または信用をそこないまたは乱用、誤用を助長する要因となる次のような広告は行なわないこと
ア、つり下げビラによる広告
イ、二重価格、割引率または割引価格(半額、特価、特売、大廉売、奉仕品、目玉商品等の表現を含む)を記載した広告
ウ、過度の賞品、景品および抽選券または割引券等を授与する旨の広告
エ、賞品、景品として医薬品を授与する旨の広告
オ、医薬品の容器、被包***授与する旨の広告
カ、医薬品と他商品と明確に区別しないで行なう広告

 大正会とTFC 合体化構想 あるグループの見通し

 大正製薬が結成を急いでいる従来からの大正会とTFCの合体化構想は、薬業界の各方面が注目しているが、次の文章は某県の卸と小売薬業者の組織が、会員に対して新年早々配布した文書である。これは直販メーカーの新しい組織づくりに対して、自らの組織の防衛をはかろうとしているものと見られ、見通しとて参考になると思われるので掲載する。

 大正製薬は何をしようとしているか

 いま大正製薬が結成を急いでいる大正会とTFCの合体化構想は、概ね支障なく進捗し、まずよほどのことがない限り大正会員の殆ど全員が大正製薬の誘いに応じそうな形勢である。それも無理からぬことで、大正製薬側が示した条件は、単に取引保証金のなかから一万円ないし三万円ほどの金額を新会社への出資金(株式)にふりかえることを、大正会員が承知さえすればすべて済むというきわめて簡単なことだからである。

 それにもし応じないならば、大正会は新株式会社に発展的解消をとげるのであるから、大正会製品を販売する資格を剥奪されるという結果になる。いままで推売して来た利益商品を失うことは当然大正会員であった者にとって苦痛であろうから、株式参加を拒否するということは容易ではない。しかも大正製薬は新株主に対しては従来の五掛仕切り(大正会製品)から四掛仕切りにするという優待条件までつけて、拒否できないように巧みな誘いかけをしている。これでは断りきれないというのが人情であろう。

 さらに大正製薬は昨年十二月中旬全員にこの発表をしてから、きわめてスピーディに事を進め、一月なかばには新株式会社の定かん審議を終り、あとは全会員にイエスかノーかの態度決定を問うだけというのであるから、慎重に熟考しようとする一部の人たちにとっても、その余裕は与えられず、一気呵成に新会社が実現しそうな勢いである。

 一昨年の秋に発足したTFC作戦は大正製薬の予期に反して評判が悪く、のち一部TEC作戦の併用も行われたが、その間大正製薬一部親衛隊の価格破壊行動がきびしい批判をうけたりして、作戦の進展は決してかんばしいものではなかったと見られている。そこでFCないしECという一本釣り漁法から大網まきあげ漁法に転換したのが、こんどの大正会、TFCドッキング構想であると思われる。大正製薬の狙いは「小売市場の乱戦化」であり、その乱戦によって昭和三十五年頃の不安定状況をつくりだし、大正製品だけを組織の力で価格維持し、大正製薬への実利依存の小売市況を強引につくりだそうというのが真の狙いであることは、すでに明白である。

 大正製薬にとって他社製品が現状のように価格安定し続けることは最も好ましくないことであり、そのために再販が混乱崩壊することをつよく望んでいるのである。こんどのドッキング構想が新会社を卸機能にまで発展させることが目的であることは、趣意書に明記されている通りで、一気に卸部門を設定することにはムリがあるから、まづその前段階として少額出資の株式会社をつくり、組織を固めたうえでその発展をはかろうとしているわけである。

 新会社は小売と大正製薬とが等分の株を保有することになるから、大正製薬は新会社の五〇%の株主としてその主導権をやすやすと握ってしまい、唯一人の同調者あれば過半数を制し、小売の約三分の一を味方につければ重要議案の決定権を得るに必要な三分の二の株式の議決権を行使することもできるから、新会社は全く大正製薬の意のままに動かし得るわけであって、小売側の反対意見は絶対に通らないという仕組みになっている。わずか一万から三万の金を取引保証金からだすだけで共同仕入れの大きな仕事も、それほどの見返りも期待できないと考えるのが冷静な判断であるべきだが、大正製薬側は新会社に参加さえすれば他社製品や化粧品や雑貨も安く手に入り、また乱戦状態でも生き残れるといような過剰な期待や幻想を抱かせる甘いムードをかきたてることにも或る程度成功しているようである。

 新会社は他の各メーカーに対し、出荷取引の協力を申し入れ、その条件として@再販を守るA指導価格を守ってやる…という誘いをかけると思われる。しかしその申し入れに応じないメーカーには全国八千の小売の結束を誇示し、その組織の実力によって再販を破壊し、指導価格を混乱させるというオドシをかけるであろうことは想像にかたくない。メーカーは卸との従来からの関係もあり、大正製薬への協力には限度があり、そう簡単には取引きに応じないだろうし、それを予め承知している大正製薬が価格破壊という威圧によって取引条件にムリ難題をつけてくることは明らかであるから、事態は大へん面倒なことになるだろう。

 大正製薬は他のメーカーが全国八千の小売の要求をのまないという大義名分をふりかざしてその真の目的である再販破壊と価格混乱に精力的な活動を展開しようとするに違いない。そうなれば新会社に参加した大正会員は自らの手によって再販を破壊し、市場を不安にし、結局は大正製薬一社の実利のために奉仕するということにもなり、これは自らの土地を小売自らが荒廃させることになり、その矛盾に人々が気がついたとき、果してどういう収拾の方法があるかというと、或いはもう完全に大正製薬に拘束されてしまってなかなかに方向転換ができないという事態になっておるかも知れず、まことに憂慮すべきことになってしまうかも知れないと思われる。

 このような予測は現実的なものであり、数年来大正製薬がその行為においてハッキリと本質をみせて来たことである。これを空想にすぎないという人があるならば、それは大正製薬を余りにも甘く見すぎているからだとしかいいようがない。新会社は大正会製品販売のノルマをきびしくし、その拡売に忠実でない会員は結局はホされてしまうだろう。そうでなければ大正製薬の意図するところは達せられないからである。

 この際「あまりにもウマイ話」にはマユにツバをつけて、熟考する必要がありはしないか。単に目先のメリットだけで、安易な道を選らぶことが果して得策か、どうか、関係者の慎重な検討を切に望みたいと思う。十年来市場安定をぶちこわそうとして種々画策煽動した者はだれであったか、乳製品の安定を一気にぶちこわしたのはだれであったか、いま薬業界の市場安定に絶対に従うとしないのはだれか、その背後であやつっているメーカーは何者か、そういう明らかな事実をもとにして、大正製薬の意図する処を冷静に判断していただきたいと願う。

 対談―新会社を占うー(抜粋)
B いよいよ例の会社できるかがどうなると思う?
A 発起人は凄い巧者だし旨く運びそうで参加予定は百人くらいにふえるだろう。
B 社長は誰だろう?
A 他に噂もあるがCさん以外にはないだろう。立地条件、設備、交通からいってCさん以外にはないだろう。それにCさんや大株主の都合もあろうから。
B 都合とは?
A 仮定だが、百人が株主になるとして、資本金が二百万円、基本商品の仕入れが平均ノルマ十万円として一千万円、リベートが一〇%として百万円、年間千二百万円、この大金の運営を人にまかせればナンバーワンの地位もゆらぐし、大株主としても信頼のおけるのはCさんだろう。
B リベート一〇%とは?
A ○○○が非マスコミ三・五掛、新会社は四掛、それを四・五掛で仕切り約一一%のリベート。マスコミ品が実質六・七五掛(割増しは別)、七・五掛で仕切ってリベート一〇%、総合して約一〇%のリベートだ。
B しかし非マスコミ品は従来通り五掛仕切りでリベート二〇%という手もある。
A そういうことになれば非マスコミ、マスコミ総合で一三%くらいになる。
B すると百三〇万円、年間千五百六〇万円、それを一応新会社に入れる。諸経費を引いて配当、しかしあまり残るまい。
A だからやはり社長は名実兼備のCさん、Dさんはその守護役で献身する。
B 監査役が問題だ。
A 監査役は絶対に批判派でなく、特に監査業務にくわしい人やきびしい人は困る。まず親衛中の親衛から一人、もう一人はメクラバン居士ということだろう。
B 決算総会でもめないか
A 総会に出る決算書なんて見もしないだろうし、見てもわからん。監査さえ通れば
B 不正も通るのか?
A 不正の意味でなく、資金の使い方、リベートの運用が大株主や社長の意のままになるということで、事務所の家賃、配送費、事務費、会議費、人件費、重役の報酬、旅費日当など執行部の意のままということでこれはもう権力化だ。
B しかし基本商品のノルマがきびしいとつらいだろう。
A 量販店や従来の協力店はコナスだろうが甘いムードで身を預ける人、漫然と入った人は困るだろう。株主といっても単なる出資者とは違う、共同仕入れのうま味だけを吸うという具合にはいかんだろう。
B 一応二百万円の株式会社ができたとして運用資金月百三〇万では共同仕入れはできまい。大衆薬の六〇%は大丈夫というから一店当り三〇万としても毎月三千万円は要る。
A だから仕入がカケ声だけでなければ現金仕入れか、前金仕入れかあるいは近いうちに増資か又は融資か。しかも基本商品の回収は厳格になり、リベートを経費に当てたり、そういう要求がきびしく堂々とできるシステムだ。いままでの任意団体とはちがう。
B 結局はズルズルと金づまりか。
A 簡単には身をひけなくなろうが身を引く時期を誤まればトドのつまりは金づまり、それを待ち構えて大株主は金を貸す。借りてしまえばTFCか家臣になる外方法がないというわけ。
B 一次→二次→三次というコースは実にうまくできている。
A 支配が目的のTFCまたは融資という必然のコースだ。だからボクは始めから取引保証金を返してもらいなさいといっている。
B それもなかなかできまい、二次に行くまでにあるいはすぐに三次に行く人や三次同様になる人があろう。
A 二次はそうカンタンには行かぬだろう。卸機能はやっぱり「モチはモチ屋」だ。二次は虹のようなもので小売の不安や期待に答えるムード的な青写真と思う。
B とすればこの巧妙な新会社は結局「TFC造成計画」ということか。
A そのとおり、シャニムニTFCをふやしたいんだ。