通 史 昭和45年(1970) 日薬−県薬−市薬
九州薬事新報 昭和45年(1970) 9月10日号

 分業の底流を探る 藤野義彦 福岡市薬副会長・県商組専務理事

 現在の薬業界は、適配、再販、分業、大衆薬、TFCの組織化など非常に大きな問題をかかえているが開局薬剤師の最も注目する重要な医薬分業問題を現時点に立脚して考察してみたい。

 医薬分業は社会的な要請として好むと好まざるとにかかわらず実現すると思われる。分業のレールは早くから敷かれているが診療側(医師、歯科医師)の経済的な大きな理由で軌道にのりかねている現状であり、その分業は社会構造の中での医療の歪、分配のアンバランス等社会的な諸要因として捕える見方が納得が早いと思う。開局保険薬局に、現代医療における制度のなかで主体的ポストを求めることはできない。分業は医薬品を「物」として見る時、医療における医薬品流通のメッセンジャーとしての意味しかないような気がする。

 前言した社会的要請とはかって薬剤師が考えたような医薬品の安全性に関する技術的な要因からではなく医療における流通近代化の一環として捕えられており、ヨーロッパにおける分業とは名は同じでも実質は全く別ものである。(然しヨーロッパにおいても漸次そういうパターンに移行しつつあるのではないか)このような考え方からすれば分業は大型小売でなければ受けきれない。

 もし我々小型小売で受けようとするならば流通近代化以前の形でなければ成立たない。その小型小売で受けとめようとしているのがとりもなおさず小判鮫方式(一医院のみの処方せんを受ける薬局)である。然しこれにもネックがある。それは医家向専門メーカーであり、即ち薬価基準が徹底的に引下げられない限り解消しない。もし解決された時には現在の小売向医薬品との価格差をどうするかという問題が残る。分業を「物」の面からのみ捕える時、我々開局薬剤師が考えてきた正統な分業は実現しない。この現実のもとで処方せん増、請求金額増を望み、強行すれば従来より考えられていた処方受入れの理念には程遠い事実が現出することになろう。

 現在の数少ない二、三の特殊な分業を業界として、一部では「イビツ」と見、一部ではその努力を讃じる(会員はこの問題に安閑としているが故に無関心な人が多い)この是非はともかく、薬剤師会としては、その見解を統一し、会員に熟知せしめ、方向の確立をはかることが急務ではなかろうか。

 従来の既成観念の正当な分業ができないのであれば、従来からの既成理念を広く建て直して事実を熟視し、これでないと分業はできないということを広く会員に知らしめるとともに、己をも啓もうしなければならないと考える。今こそ既成観念に捕われない個々の意識のもとに努力をすべきであると思うが如何であろうか。

 分業をするにおいて被保険者側(国民)は一応考えず、診療側内における医師歯科医師と保険薬局のそれぞれのメリットとデメリットはさておき薬価の大差ある現状で、いかにメリットになるよう努力するかがポイントであろう。

 私見としての結論を述べるならば、いずれにしても医療の異常さは社会的与論により正され、薬価基準は大巾に下げられると同時に医療における特例税法が改革され、その不当利益もなくなり、初めて分業が固りその後に受入れ側の薬剤師自身の問題として真剣に考えなければならぬ時期が来る。

 形の上の構造近代化は成功しないと云われるが分業問題にあてはめてもうなずける、分業路線は固っている、然分業後の予測は計り知れないものであり、且つまた、こうなるであろうということがはっきりしないのが現状である。

 分業を自分の手で勝ちとろうすれば(我も我もとあらゆる手段をとって自己を優先させ、勝ちとろうとするため業界はフライパン上の豆煎り状をまねくことにより会の不安定を招き、その他……)どうしても無理ができるが、これもよし。また制度自体がひとりでに腐敗し落ちるまで待ち、社会的要請として薬剤師を必要とする時期まで待つもよい。大切なことは会員をいたずらに迷わせないよう現実をよく認識させ、医療トラブルを起さないように三師協調の基盤のもとに流動的に指導するひつように迫られていると考える。

 九州山口医薬分業実施推進同盟

 ◇薬剤師の存在理由は何か。
 ◇国民の薬剤師に望むものは何か。
 ◇われわれ薬剤師は、いかにして国民の要望にこたえるか。
 ◇真剣に考え、行動に移ろう。

 NHKテレビ、大衆薬問題取上げる

 八月二二日朝、NHKテレビ「今日は奥さん」の時間で、大衆薬問題を取り上げた。高橋胱正氏、浜野衆院決算委員長、下村厚生省薬務局参事官、森下一般薬協議会長が出席、主婦数人を混じえて、アナウンサーが対談形式で、大衆薬について対話を進めた。

 出ざしが高橋胱正氏を中心とした大衆薬非難に傾き、折角の下村参事官、森下協議会長の発言が重視されず一方的な感じが深かったのは遺憾であった。

 このなかで、下村参事官は医薬分業に言及、次のように述べた。
「(薬の問題を解決するためいろいろ対策を考えている)……その一つとして薬は適切な使い方をしなければならない。薬を正しく使うためには、いろいろ方法はあるが、医薬分業にして薬の使われ方の適正化をはかることを考えている。これからの行政で、真剣に取組みたい。」

九州薬事新報 昭和45年(1970) 9月20日号

 福岡県 薬事審議会 

 土地収用による除外例二件と福岡・久留米ダイエーも許可

 福岡県薬事審議会は本年度第5回審議会を九月八日開催、八月二四日の同審議会で継続審議保留された左記一般販売業三件その他につき審議の結果、いずれもそれぞれ地元と協調することを指導して許可することを承認した。

 ▽三幸薬品(門司区柳町一丁目)申請、管理者白石素子(小倉区明和町)=今回で審議四回目、小倉区街路拡張工事のため二条七号適用で移転、約三分の二の土地が残存するが当該地は第三者的観点からも営業に不適であろうとの判断にもとづき移転先地元業者と協調をすることを指導することとして承認

 ▽大牟田井筒屋薬品部(大牟田明治町一丁目)申請者株式会社田薬品(久留米市通東町)=久留米市都市計画により条例二条七号の適用で大牟田井筒屋デパートの地下に移転するもので前審議会では調査のため保留となり、同審議会委員の調査の結果、移転は止むをえないとの判断にもとづき許可後も地元業者と協調することを指導したうえ許可することを承認

 ▽マルナカ薬店(福岡市天神四丁目)申請者中内功=申請者は潟_イエーの代表者で、ダイエー建設地の近くにプレハブで申請したもので既設店舗より距離一六二メートル、ダイエー開店後の権利確保と考えられるが、本建築ができるまで休業せず営業する。本件については過去に種々問題があったため、許可後も地元組合等と協調するよう指導して許可することを承認

 ▽レッドウッズ薬店(久留米市東町)申請者潟激bドウッズ=申請者は潟_イエーショッピングセンター薬品部で、二月一三日マルナカ薬店(中内功)としてプレハブで許可されたものを廃止。本建築四階に新たに申請したもので、距離は一五四メートルである。この件については県で距離を確認のうえ許可することを承認した。

 九州山口医薬分業実施推進同盟

 ◇世は安全性時代にいる薬害防止に分業推進を訴えよう
◇分業推進は国民大衆のためのものであることを銘記し行動しよう

 福岡県薬剤師会 保険薬局会 三役決定

 福岡県薬剤師会ではさきに保険薬局会を発足、委員も決定したので八月二八日午後一時半から県薬会館で初の委員会を開催。会長、副会長の選任並びに会務運営、分業推進策などについて協議した結果、左記三役並びに常任理事を選出、会費は会員一名年額百円を各支部で徴集するほか県分業実施推進同盟の助成金によって運営することとなった。

 ▽会長中村里実▽副会長藤田胖▽会計三根孫一▽常任理事藤木哲、岡田福一、倉田憲治、平田勉
なお、分業推進の具体策については、各支部毎に推進するが、医師との対話の資料として=医師が投薬にかえて処方せんを発行すれば=その税法上の損失(資料その1)と、その実施上の損失(資料その2)を作成、資料その3は現在作成中であることは報告された。

 キノホルム製剤 販売当分中止 県衛生部通知

 福岡県衛生部長は九月一一日、厚生省薬務局長通知の主旨により、スモンの発生に対してキノホルムがなんらかの要因となっている可能性を否定できないので、事態がさらに明確になるまで当分の間、キノホルムとキノホルムを含有する医薬品の取扱いについて十分注意するよう会員に要請している。

九州薬事新報 昭和45年(1970) 9月30日号

 武田日薬会長急逝 分業の前途多難、会員の総結束必要

 社団法人日本薬剤師会会長武田孝三郎氏(日本薬剤師政治連盟会長、日本医薬分業実施推進同盟会長)は七月末ごろから違和を感じられていたが、八月一六日発病、一七日検査と静養を目的として関東中央病院に入院、静養を続けていたが九月一〇日頃から病状が悪化し、重態となり、強固な意志力で闘病を続けられていたが、九月二四日、遂に、がん性疾患から心臓疾患を併発して、午後九時永眠された。

 氏は薬剤師職能向上のため、生涯を捧げて尽痒、昭和二三年米国薬事使節団を招致し、分業法成立の基礎をつくった。昭和四〇年日薬会長となるや、医薬分業早期達成に身命を賭して尽力。ここにその業の半ばにして永眠されたことは、まことに残念と言うほかはない。

 武田日薬会長 最後のことば

 武田会長は病床においても終始会務に気をくばられ、すべてに詳細な指示を与え会員に対しても次のようなことばを遺された。

 九月一四日「先輩各位に仕事途中で倒れたことは残念でございます、心境は前回退院の時に申し上げたのと同じです。厚くお礼申し上げます。」とお伝えしてほしい。九月二〇日元気になったら、原稿書きたかったがもう書けないので要旨だけ書きとってほしい。

 日薬と私の歩んできた立場

 「私が日薬とすごしてきたのは、四〇年から五〇年にもなるかと思う。最初は、薬剤師になるとともに、丹羽先生の意気に感じ、分業運動に傾倒した。そして日薬の調査委員などを引受けた。大正一二年ヨーロッパの薬事制度を調査し、帰ってきてから数年間調査からはなれたが、その間に医薬制度の本を書いて発表した。売薬制度については百数十頁にわたるものを書いた。

 戦争中は中断した。終戦後、東京都薬と日薬の創立の中心となり、都薬会長と日薬副会長となって活躍した。その時分、アメリカ薬剤師使節団をよび、分業法の成立の基礎をつくったことは周知のことである。昭和四〇年九月には日薬会長となった。自分の仕事は先輩の努力と熱意との跡を追って行ったにすぎない

 考えれば五〇年になんなんとして分業につくしてきた。その完成を見ないことはまことに残念である。 何といっても、薬剤師の職能の確立は、会員各位の協力が必要である。今後とも力をあわせて職能確立のためにつくしてほしい。会員の努力によっては、身分確立の達成は間近かであろう。ただしそれは結束をみてからだ。」いっておきたいのはこんなことだった。みなさんにくれぐれもよろしく。

 四島福岡県薬会長談話

 武田日薬会長の訃報に接した四島県薬会長は、次のような感想を顔をくもらせ語った。

 「武田会長はご承知のような経歴の方ですが、五年前日薬の会長になられるまで日薬副会長、東京都薬会長など歴任された。もともと明治薬専在学中一九歳で薬剤師国家試験に合格、語学の勉強、新聞記者として海外勤務などされ非常に視野も広く交際も国際的であった。

 高野氏の会長時代には、あらゆる面でバックアップされたが、高野氏の落選に伴う会長辞任と同時に、日薬会長は武田氏以外にないと同氏の推せんにより会長に就任、医薬分業については若い頃から取り組み、実際に五〇年間やってこられた。終戦後はアメリカの使節団を招致、ご承知のような勧告を出させ、医薬分業法が成立したわけで、常に陰の力であったが、会長就任以来、自分が生きている間に分業を達成したいという信念というか執念に燃え、真剣に取組んでこられた。

 たまたま健康保険の赤字から分業問題が再燃したが、この機を逸すれば分業は永久にできないと一生懸命であった。歴代の会長のうち私の知る範囲では武田会長ほど会長職に徹した方はなかったと思う。
毎日、自から率先し、厚生省にも信頼され、武見日医会長とも対等に接し、特に諸外国の薬剤師会と対等に交わられたことは一番の強みで、会長の器として第一人者であったと思う。ただ身体が弱くひ弱な外見が弱みであったと思うが、しんは強く、誠実そのもので先の読みが強く、一歩一歩ち密な計画のもとに努力してこられた。

 最後の仕事としては、日本の医薬分業は日本国内の場では簡単に実現しないと考えておられたので国際的な問題として推進したいと国際薬剤師連合と連繋をとり、同連合の中に特別委員会を二年間の期限で設け、医薬分業を国際的な与論により側面的にも推進しようという考えであったわけです。このようなことは誰にもできることではないと思う。

 私の見受けたところ、会長は今期の残任期間と次期との三年間で分業の目鼻をつけ、その後引退されるお気持であったようですが分業にとって一番大切な、これから階段に足をかけようとする段階で亡なられたことはご本人はもとより私共会員としても誠に残念でならない。

 このうえは新しい会長を選び武田会長のご遺志(吾々薬剤師の願望でもあるわけですから)を完全に遂行する努力を執行部とともに会員全員が会長の代行をする気がまえで一日も早く分業の実績をあげることが、献身的努力に終始された故人に酬ゆる唯一の途ではないかと考えている。」