通 史 昭和43年(1968) 日薬−県薬−市薬
九州薬事新報 昭和43年(1968) 1月1日号

 偶感 西海枝 東雄

 昭和四十二年の暮も終りを告げようとする。さて一年中何をしたのかと暫らく考えてみたが、これというものは頭に浮んで来ない。結局唯バタバタ過してしまった感じでいっぱいです。こんな心境になって居るのは恐らく私一人だけではなかろう。社会の大部分の人間がこんなものかもしれない。

 私の職業は薬学教育と研究というのが本職になっているのだが、どうも世の中というものはそれだけではやって行けぬらしい。公私共に馬牛の如くこき使われているのが実情だ。併し不平を云ったところでどうにもならない。男一匹腹をきめたらやるより外にないと総べてはあきらめている。

 薬学と云うところに働いて居る限り、思いきって薬の事だけをやっていれば一番筋が通るのかも知れないが、実際自然科学には特に獨り歩き出来る学問は何に一つもない。時には百貨店のようなものでもあり、また一品商売のような場合もある。私は別だが、偉い先生ともなれば物理も化学も生物も、よく識って居られるのが普通であるが、これらの人は富士のすそののように実に広い基礎の学問があるものと思う。向いの大学教育には層の厚い科学の基礎は勿論だが形而上学的の面も相当深く広いものがあったように思う。

 最近の関連科学の進歩は兎に角スピーディーでボヤボヤして居れない。薬学もその例に洩れない。終局的にはそれは直接間接薬と関係があると思われる。あらゆる自然科からなる科学と技術の集団である。広く眺めると薬の臭のするようなことをやって居る学者は薬学の分野ばかりではない。医科、農科、工科また理科の分野にも決して少なくない。そう考えると科学に国境があってないのが特徴でもあるかもしれない。

 ところで、薬学の分野にも体系とその内容の大変革が迫られて来たし、また薬学人そのものの勇気をもってどしどし新分野に切り込んで行かねばならないようになって来た。そうするとこれからの薬学人にはもっともっと一見、直接関係のないような基礎の科学が必要である。現在の新制大学教育にはその点決して充分とは思われない。早く何とかしなければならないと思っているのが現況です。そんなことを考えているうちに間もなく除夜鐘の音も響いて来るだろう。昭和四十三年を迎えることになるが、また同じ年にならぬようあらゆる面で少しでも改善され、進歩した年を迎えたいものだ。
(九州大学薬学部長、薬博)

 保健医療の健全化 藤田 穆

 健康保健は世界各国が各々自国の社会政策の核心として、多大の犠牲を覚悟で進めて居て、スエーデンの如きは中でも最も進歩した世界中でも屈指な国となって居る。これの進捗状態が近代文化国の目安となって居る。

 我国も医学の進歩では西欧諸国に大した後れは取って居ないが、残念ながら保健医療では大きな赤字を背負って、国家財政的に不安な有様を呈して居る。こうなった原因には遠因、近因多くの事情があろうが、ここに一つ二つを数え上げれば、先ず最遠因は明治初年迄日本は漢方医療の国だったのが、明治初年一挙に蘭法即ち今の西洋医法に改めたため、漢方時代は安価な代りに体内の諸診断を伴わない、また薬も昔ながらの草根木皮の煎薬で、永い時日を待つような医療法に慣れて居た国民が、俄に今日のような西洋医薬や高価な治療機械等による西洋流の医療に早変りしたので、国民は米、英、独、仏などより1/3、1/5と低い民度の癖に、医療だけ諸先進国並みの金のかかる高級の治療に委ねる事になり、ここに一般国民平均の治療費が民度に比例して非常な高価なものとなり、国の財政までも揺がす程になった。

 今日の進んだ医療や薬品が、何も西洋などに比べて割高でも何でもないのだが、一般国民殊に下々のものにはそれが生活上西洋の何倍に当るのである。私が独逸で病気にかかった時、宿の主人が親切に医者を呼んで呉れたが、それは彼地では最も普通の手当てらしいが、日本でよりは三、四倍高かった。

 療法の変遷に次いで、健康保健制度そのものを挙げねばならぬ。それは我国の普通選挙制度の取り入れが、一般国民の心組みや政治意識がまだ熟しない内に制度だけ急いで取決めた為、今日の腐敗選挙の累積に手古摺るように、健保制度も一般国民の療養に対する見識と知識とが固まらず、放置して置いてもよい病気まで国が金を払うから、医者にかからぬ分が損と言うような無知な人間が多過ぎて、医療側も迷惑するし病人自身も治療の目的を達せずに終る。元々治病は専門の医療者にかかるのが本則ではあるが、従来日本ではあまりに医療者に頼らせすぎて、民衆の医療の常識がてんで養われずに来た。

 その反動で医者にさえ頼って居れば何でも治ると過信するか、または医者にかかっても治らぬと気付くと医療そのものをけなすどちらも治病の常識に欠けて居る罪である。先進国ではその辺の処が国民全体の常識がしっかりして居るから、頼るべきは頼り、掛るべきは掛り、我国見たように国の財政まで危くするようなぶざまなことにはならない。

 しかしここに国保の制度中で不都合な制度上の欠点がある。それは医療者側の不正請求をするものが絶えないことである。多くの医療者は真剣に患者に回復を願って、真夜中に患家から叩き起されても、親切に往診して御自分の健康まで損う程の人さえあり全く感謝なしには居られないが、全く中には診療費の請求が今の処患者に無関係な役人の監査一本に委ねられて居る為この一方的診療費の請求は、役人が如何に目を皿にして監査しても、到底いちいち不正を訂すことはできないだろう。

 大体国費で賄うことは診療者と被診療者との双方から調書や信憑書が出ねばうそだ。他の補助費でも建設費でも、こと国費からまたは地方公共体から出る費用なら厳重な信憑書による監査があるものなのだ。それが欠けているなら悪い医療者でなくとも誘惑心を起すのは人間の弱点だろう。

 これは国費支払いの常道の通り、健保支払請求書を提出する際、被診療者からの信憑書を徴する制度に改めねば健保の不健全は百年河情を待つようなもので、到底健全化は望むべくもないと思う。兎に角国庫を累わす会計には、必ず厳重な会計監査がつきもので、しかし本人の調書は元より、買込んだ商人の受取り、納めた請負人の調書まできちんと揃えねば首にかかわる。夫は国民からの血税で賄うからは、その使途を国民の前に明瞭にすべきは当然な話だ。これな何も医療者を疑う意味ではなく制度そのものの罪だから一日も早く全国民に知悉させて、文化国の体面を全うすべきだろう。

 最後に希望したいのは地方では医者の不足が甚だしく殊に保健所では非常に困って居る所が多い。日本は何も大都市だけではない。地方や辺地も文化生活を営むべき充分の権利があることは憲法が保証する処である。これは政府が憲法の手前、経費をやりくりしても医者養成機関を早く増設して国民の要請に答えねばならぬ。地方代議士の怠慢もあるようだ。

 日記 福岡大学 松村 生 

 中学生の時、先生から日記をつけるよう話された記憶がある。毎日つけるのが面倒だったら毎日でなくてもよい。とにかく書く習慣をつける事、いやだったら天気だけでもよい。一年つづけてみるように言はれ、早速当用日記を買ってもらって書き始めたが、一ヶ月もつづかなかったと思う。其後も書店に日記類の出初める頃になると来年こそはつづけてみようと思って購入するが矢張駄目で何時のまにかやめている。時には何ヶ月か経ってまた書き始めてみるがどうしても永つづきしなかった。

 この頃は小学一年生から夏休み日記帳や絵日記などが宿題として出されるので習慣もつき易いから日記をつづけて居る人も多いかと思う。私が日記をつけ始めたのは終戦の翌年昭和21年からで、お歳暮に帝国臓器五年連用の卓上日記をもらった事がその動機ともいえる。倚麗な大裁のいい、ごく小型で一頁に五年分の同一日の日記が書けるようになっている。これなら至極簡単だし、一つつけて見ようと言う気になり書き始めて一年が二年となり五年間つづけた訳である。

 それからは週間で日記をつけないと物忘れしたようになり、現在迄21年以上つづいている。日記帳はその後薬店から貰うメンソレータムのものや、レダリーの赤表紙のもの、佐賀から送ってくれる黒表紙のものなど種々であるが、何れも薄手の、書く欄のそう広くないものである。記入する事は簡単なもので、天気、来訪者、来信、発信、会議要点等実際の事を中心として書く。即ち手帖のような気持で書いておく、時には感想を書く事もある。又種々と会議や会合の日時の通知をうけると日記の当該日に予め記入しておくので、日記をつける時、自然目につき忘れる事はない。

 日記は朝先ず天候を記入し、退庁時その日の職場での出来事を、次いで翌朝前日の退庁後の主な事を書くようにしている。従って私の場合は、日記帳は常に職場におき、職場中心の日記である。それで昭和21年から42年迄の元旦の記事を中心として書いてみる。

 昭和21年の元旦は九大の拝賀式に参列した。これは大学本部で催され、互に冷酒をくみかわし賀詞を述べ合うもので、肴は昆布、スルメ、かまぼこである。長老の名誉教授の発声で九大の万歳を三唱して散会するもので参列者に制限はないが、集るものは所謂高等官で普通50名で、多い年でも70―80名位だったが、これは二年後廃止された。

 昭和22年元旦も拝賀式に参列し、帰途三社詣りをしている。

 昭和23、24年は忌中で自宅へ引きこもっていた。ただ23年の元旦は午后東中洲で"愉快な連中"という映画を見たとあるがどんな映画だったか一向に記憶がない。

 昭和25年から現在の九州薬事新報社の新年互礼会が始まりこれに参列した50余名参加と書いてある。 九大薬局では晦日と元旦は必ず休む事とし30日には仕事が終ると一同で大掃除をし、二日には匙初めをしていた。初めは元旦に集り賀詞を述べ簡単なお祝いをする事にしていたが、二日にはどうせ匙初めに来るのだからと二日の仕事が終ったあと局員の互礼会を行う事になった。初めは局員室、あとには図書室で開いたが大変楽しいものであった。局員室で開いた或る年には小松真佐雄君の処から大変な御馳走が持ちこまれ、一同大喜びをした事もある。

 昭和26年は不思議と元旦の記事がない。

 昭和27年の元旦は曇りで正午からの九州薬事新報社の互礼会に参加、参加者90余名。

 28年の元旦は晴れで太宰府天満宮に参拝後互礼会へ出ている。

 29年は警固、水鏡天満宮筥崎の各神社参詣後商業会議所主催の互礼会へ一寸顔を出し、住吉神社の薬祖神の神事に参加、終って婦人会館の互礼会へ行く。一一七名参加、阿部王樹氏も参加と書いてある。

 30年の元旦は曇後晴れで先ず筥崎宮へ詣り、11時商業会議所の互礼会へ出席、櫛田、住吉各神社の参詣をすませて薬祖神の神事に参列、婦人会館の互礼会へ列席一〇五名参加盛会。

 31年は晴れ午後曇り、太宰府天満宮、筥崎宮へ次いで九大薬局へ立寄り賀状を整理し、櫛田、住吉神社へ参拝し、薬祖神の神事、婦人会館の互礼会へ出席、98名。

 32年は快晴、太宰府天満宮、筥崎宮へ参詣後九大薬局へ立寄り賀状整理、櫛田、住吉両神社へ参詣後互礼会に参列する事、例年通り。この薬剤新報社の互礼会では例年阿部王樹氏の色紙、短冊を景品とするくじ引きが行われるが、この年始めて色紙が当った。俳句、灸点と黒子といづれ春寒し 王樹。

 33年はくもり、10時に家を出て九大薬局へ行き賀状整理後互礼会へ参列、85名

 34年くもり、9時に家を出て筥崎宮へ詣でた後九大薬局へ立寄り賀状整理、櫛田、住吉両神社参詣後互礼会へ、参列者90数名。

 35年雨、9時に家を出て筥崎、九大薬局、櫛田、住吉へ例年通り、互礼会へ出席。一〇〇名。

 36年曇、小雪、朝あられ降る。10時に家を出て櫛田住吉両神社参拝後互礼会へ一〇〇数名参加。

 37年元旦雨。賀状を整理し11時に家を出て住吉神社へ直行、雨中薬祖神前の神事に参加婦人会館の互礼会へ、一〇〇名。

 38年の元旦は全然記載なし。薬事新報社の新年互礼会は本年は会場をクラブ九州に移して四日に行われた。

 39年曇後雨。登校し(福岡大学)大学の互礼会へ出席す。終って太宰府天満宮に参詣する。本年から薬事新報社の薬事同冠者の互礼会は呉服町第一ビル七階の三鷹で四日に行われる事となった。参加者極めて多数。

 40年元旦晴れ、11時の福大互礼会へ出席、参例者極めて多し、事務局長と車で帰る。賀状極めて沢山来る。本年の薬事新報社の互礼会は四日三鷹で行われ二〇〇名以上の出席で盛大に行われた。

 41年元旦快晴、朝太宰府天満宮へ参詣す、佐賀氏の古川素行君一家車で来訪す、本年より福大の新年互礼会も五日となり、会場も龍鳳と変り参加者二五〇名以上、従って三ヶ日は極めて平穏、九州薬事新報社の新年互礼会は昨年通り四日に三鷹で行われ二〇〇名以上出席盛大なり。

 42年元旦雨。終日在宅、賀状整理する。九州薬事新報社の新年互礼会は四日11時より三鷹で行われ、二六〇名参加し盛んなり、挨拶させられる。福大の新年互礼会は五日新天町平和棲で矢張り二六〇名出席、盛会。

 以上のようなものである。記事にこの他年賀客や訪問先きの事など相当書いてある年もある。この頃は習慣で、必ず書く。然し全く書いてない日も一年中には何日かある。唯旅行のときは手帖に書きとめて、あとで日記帳に書く事にしているが、書き写すのが面倒で、ブランクの場合が多い。私には日記をつける事が、種々な意味でプラスになっている。(福大薬学部長、薬博)

 新春を迎えるに当り 開局薬剤師は本来の使命に還れ  波多江 嘉一郎

 明けまして御目出度う御座います。昭和四十二年を送り、四十三年の春を迎えるに当り、開局薬剤師の一員として常日頃考えている事、想うている事に就いて若干私見を述べて、拙いペンを走らせて見たいと思っています。

 1、医薬協業に就いて

 武田日薬会長が就任され、医薬協業の線を打出された事は最も当を得たものと思っています。元来医薬は協業して存在すべきもので分離される可きものではない。医業に於て内科、小児科、外科、婦人科等と分科され夫々専門家されているが、ここに要する医薬品も夫々専門化さる可きであって、吾々開局薬剤師も内科薬局、小児科薬局、外科薬局、婦人科薬局等と専門化される時期が来る事が想像される。

 従って、斯様に開局薬剤師も文科専門薬局が出来れば距離制限の問題も逐次解決されると思はれるが、今迄の如く約八十年の長期間に医薬分業なる言葉で飼養されて見ると、医者は手に入れた薬を離す事は到底考えられず、薬剤師が分業分業と叫べば医業関係者は却って斗争心を起して死守しようと努力し、平行線を辿って行くのである。それ故医師とは医療関係者として三師会で連絡協調して、互いに知識の研讃大衆の利益を図る様にすれば現在の様に有識者が海外視察により諸外国の医療制度を調査し来り、医療関係者以外よりの与論が盛んとなり必然的に完全分業の日が早く来る事と思う。

 因って武田日薬会長の主張の如く官公立大病院は既に医薬分業で経営が行はれているので、此の方は一時預りとして、吾々開業薬剤師は二診療所一歯科診療所と親しく交際し、一日平均約二十枚月平均約六百枚の処方箋確保の為自己薬局近隣の医院や歯科診療所の医師歯科医師と医薬協業の線で相提携し、彼の診療を讃え自己の調剤技術を明示し、共存共栄する事こそ一般大衆に街の化学者として薬剤師の信頼を克ち得る最上の方策と私考する者であります。

 2、抜本改正に就いて

 昭和四十二年夏の医療問題に関して健康保険赤字対策として開かれた臨時国会で抜本改正案を提出すると云う条件つきで期限付き一部改正が承認された事は周知の事実です。それより以後は医師を除く政府当局、一般代表者は医薬分業を支持し着々とその線に沿うて諸案が検討されている。

 この様な千載一遇の好機に於て、世のマスコミの宣伝に迷わされて薬品が商品化され、スーパーや大型店に於て乱売者によって囮商品化され、多年専門教育を受けている薬剤師が亦一企業家を夢見て、乱売に乱売を重ね、薬局経営が危機に頻する迄に押し流されている現況を顧る時、心ある薬剤師は一考なかる可からずと思うものである。

 3、医薬品製造等に於ける基本方針(S四二、九、二二厚生大臣通牒)に就いて

 此の通牒の趣旨は医薬分業実施の為の基本方針とも思われるものである。医療用医薬品と一般大衆用医薬品とに区別され、これ等の製造に対し極端に制限を加え且つ又医療用薬品に対しマスコミ広告の禁止等がある。それ故に吾々開局薬剤師は常に医家向図書並びに業界雑誌やニュース、新聞等を閲覧し広く知識を求めて勉強する余暇を捻出し、且つ又製薬会社プロパーと面接する時間や機会を多く持って新知識の吸収に努力せねばならぬと思考される。それと同時に製薬会社のプロパーも、医院に宣伝する以前に少なくとも其他の保険薬局を訪問し、新製品の医薬学的の説明をなさなければ折角の医院への宣伝訪問も徒労に帰してしまう結果となることが想像される。

 物(医薬品)と技術との分離を行政上に実施される事が略々確定的であるので、吾々開局薬剤師も調剤技術の修得に努力せねば医師よりは勿論、一般大衆からも見放される結果となろう。

 この様な情勢に鑑み福岡市薬剤師会も市内を四ブロックに分けて病薬勤務部会と相談し、医療機関にDI病院の選定をなし、処方に関する医薬品の不明不審な点を解消出来る様に地区分担病院を図表にして会員に配布した。

 4、処方箋獲得方策に就いて

 昭和四十二年度の日薬方針通りに官公立病院の処方箋獲得に就いては一応棚上げの形とし、二診療所一歯科診療所を目ざし、県指示に応じて市薬も其の方針で進んでいるが、昨年十一月下旬の福岡市三師会役員懇談会に於て市歯科医師会は処方箋発行に全面的に賛成の意を表され、第二回の全国歯科医師会との協定処方に関し、従来のものに大巾に処方追加の話合いが出来た。併しながら保険薬局の一部に不信感ありとの事であったので、業界の複雑な事情について相談し、保険薬局の標識を速かに店頭に明示する様の希望もあり、直ちに会員へポスターを配布した次第である。

 福岡市医師会の方は医薬協業の線を希望され、一部の会員の間では処方箋発行が有利だと叫ばれつつある状況である。昭和四二年九月号の福岡市医師会発行の内科医報に那珂町桑原医師の分業賛成論とも見るべきものが載っている状況である。

 医師は処方箋発行に依って処方料(八点)処方箋料(五・四点)計一三・四点の保険点数があり、自己調剤の診療所に対し処方箋発行によって現在よりも経済的に有利な点と、余暇を診療技術に専念される有利さを強調し、自分の薬局近隣の開業医に足を再三運んでこの事を啓蒙され、医院の方々と親しく協調されれば、日薬の方針の如く処方箋獲得は容易になることは二、三年を待たずして、近き将来には彼岸に達する事と確信する。市薬の役員としても、医薬分業のレールは先輩諸士の骨折によって既に敷かれたも同然と思われるので開局薬剤師は自己の技術を発揮してこれに機関車を走らせて戴き度いと希望します。

 5、保険薬局の在り方に就いて

 保険薬局の処方箋獲得方法は前の様に実施することは勿論であり、当然な事であるが、薬剤師道によって親切叮嚀に調剤し、不明な点は処方医に照会する様にして、保険薬局としての信用を落さない様に心掛け尚不審な薬品などについてはDI病院を活用して貰い度い。今迄、備蓄薬品は相当多数揃えねばならぬと躊躇したが、二診療所一歯科診療所の線で医薬協業すれば、備蓄薬品も二、三百点位で完全調剤が出来るものと思われる。(長野県上田市の実例が証明する)

 6、保険調剤の是非に就いて

 保険調剤は儲からず手数ばかりかかると一笑にふしていられる開局薬剤師も相当多数居られると思うが、今の社会情勢から判断すれば、近き将来には必ず完全分業に徐々に移行して行くものと思われる。

 薬価基準が改訂に次ぐ改訂で実施され、医療制度が物(医薬品)と技術の分離の為、物による利潤が極端に縮小されて行くものと考えられる。それで将来を見透し且つ熟考の上逐次完全な保険薬局らしく完備される様に邁進される事が必要と思われる。それと云うのも健康保険医療制度が出来た当初に於ては医師界においても、保険医が一般医師から笑われていたが、今日では保険医に非ざれば殆んど医業が出来ない状態をみればよく判断される事と思う。

 殊に百貨店、大型店、スーパーなどが資本自由化のため外国資本に押されない様に進出が目ざましく、昭和四十五年頃には零細小売店の危機が叫ばれている現在に於ては、パパ・ママストア―である開局薬剤師にとっては唯一の生きる道だと想像されるので、これは一考を要する点だと思われる。

 7、公定処方四十七処方の活用に就いて

 四十二年度薬学講習会のテキストの「医療制度と薬局経営」に記載されている医療制度と薬局の立場の項によれば、最初は公定処方一八七品目が逐次減少し現在四七品目に減った事は、吾々開局薬剤師が、これの利用を忘却し、徒らにマスコミ商品の販売に狂奔した為であり、余りに自家製剤としての利用度が少なければ全然廃止される運命に立ち至るやも知れない事が想像される。

 昨秋十一月行政監察局より県内の北九州、筑豊、福岡の二、三ヶ所について調査され、現在の薬局では公定処方四十七品目は必要がないのではないかと質問があり、これに対し福岡市の馬場正守、工藤県薬専務理事両氏の説明、即ち此れは現在薬局として唯一つの使命達成の方法だと強調されて係官も納得したと聞いている。此の公定処方が廃止されれば薬局の対症投薬の業務が全く?奪されることになるので開局薬剤師としては一考を要する問題である。それで元熊本大学の藤田教授が常に主唱されていた調製薬剤の調剤の一つとして公定処方の利用を充分に活発にやって貰い度いと思う。

 8、日本薬局方第二部の活用に就いて

 此の頃は前項と同じ理由であるが、製剤類や漢方処方類の増加等により大いに店頭に於ける薬理的販売に利用する事は開局薬剤師の薬学利用と共に利潤確保の一助ともなるものであろう。

 9、相談薬局の在り方に就いて

 二、三年前の風邪薬アンプル事件以後、医薬品及び薬業界の不信がうったえられ且つ又スーパーや乱売店の続出により薬局薬店の価格正常化が破られ、これに拍車をかけてテレビ、マスコミの宣伝広告に禍いされている今日、薬局の信用度を回復させるには相談薬局としての道を選び、吾々は薬について大衆のよき相談相手として、日進月歩の医・薬学の知識を得る為に生涯勉強すべきである。

 而して自己の得意とする薬を専門に選び、漢方、皮膚病、育児、成人病、慢性病、美容等の多方面より二、三を選定し、専門薬局として独自の道を進むもよく、又病弱者の相談相手として大衆を指導し、体質改善に対する食養生による食生活の在り方等に至るまで相談を受ける様になれば大衆の支持を受け、医学の行き詰りを打開して信用度を増加させて行く事が出来るだろう。

 10、薬剤師道の堅持に就いて

 昭和三十三年三月日本薬剤師会薬局委員会に於て、戦後の混乱を救う道として採択された薬局薬剤師倫理規定(薬剤師の基本理念五ヵ条、大衆との関係七ヵ条医師との関係八ヵ条)が日薬要覧(一九六七年版)23頁に収載されているので、熟読翫味されて此の倫理規定に基づき薬剤師道の堅持に努め日常の薬局業務に当られる事を祈念します。

 以上各項に亘って私見を述べたが、医療制度の行政的改正、来る抜本改正の意義を十二分に検討し、医師道と同様薬剤師道も「仁」の道であることをわきまえ、薬剤師本来の使命に徹底される事を念願して新春の所感を述べ、諸先生の御健康と御幸福を祈りつつペンをおきます。(福岡市薬会長)

画像  分業推進の参考に 医薬分業はマイナスか 医薬協業について想うこと

 日本薬剤師会の武田会長が医薬分業を打出してから、はや二年目も終りに近づいた。まず昭和四十一年度は調査準備期間で、その結果、分業実施対策案が出され、本年度が実施の一年目であるわけだが、本年七月の臨時国会による特例法、十月一日薬価基準改正、十一月十七日発表された厚生省の保険医療制度抜本改正試案など、一連の動きは、分業実施の好機到来とせられているが、その受入側である薬剤師の意欲が一番遅れているのではないかと一般に云われている。

 その理由はいろいろあろうが、地区的に非常な差があり、福岡県薬内では、福岡支部(特に西部)は非常に意欲的で三師懇談会も度々行われ、歯科医師会とは既に新協定処方を活用し、繁用処方例集を作成して各地区で懇談会を開催、すでに実施されており、医師会とも又度々懇談を重ねている。

 左記の「医薬分業はマイナスか」の一文は福岡市内科医会報に会員である一医師が掲載したものであり、これを薬剤師の立場から書いたのが「医薬協業について想うこと」の一文である。

 この文は福岡県薬社保担当理事中村里実氏が数年前から既に実践していることを福岡市薬でまとめ「福岡市医報」に市薬から掲載を依頼、最近発行の同誌に掲載されたものであるので、今後の分業推進の参考になればと考え茲に転載することにした。


画像  医薬分業はマイナスか R内科医院の場合

 はじめに

 医薬分業法が成立してかなりになるが、いっこう軌道にのらぬのは医師のほとんどがそっぽをむいているからであり、患者もまた強くは希望しないからであろう。医師が利用しない理由はいろいろあるが、経営上のマイナスという考えもその一つであろう。すくなくとも法が成立する時はそう考えられていた。

 もう一つの理由は分業の相手方である調剤薬局の分布が充分でなく患者にも医師にも不便だということである。この小論では、もっぱら経済面を検討してみたいとおもう。医師会があげて反対した当時と、医療経済はかなり変動していると思うからである。

 多くの医療機関の資料をもって考察せねばならぬ重大な課題であるが、とりあえずR内科医院の場合について考えてみた。なお分業と直接の関係はないが、ついでに調べた資料なども記すことにした。

 R医院の規模
 R内科としたが併せて小児科と看板に書いておる。ところで小児と大人と患者はどちらが多いか、四十二年五月のカルテを調べた。
 十五才未満 二五七件(三九・九l)
 十五才以上 三八七件(六〇・一l)

 6・4の割で大人が多いことを知った。毎日の診察台の上には赤のカルテ(又は茶のカルテ)が並ぶことが多いので漠然と小児が圧倒的に多いと思われたが、実際はそうでなかった。小児病の特質として出面日数が多くなるための錯覚だったらしい。

 有床だが、調査時、入院患者はない。医師1、看護婦3、事務員1、炊事婦1、R医院長婦人も医院事務にたずさわることが多いから含めて7人が従業員である。

 各月の収入
 いわゆる自由診療は全体の収入からみると、とるにたらぬ金額なのでこれを省く。もっぱら社保、国保など点数制治療費について述べる。四十二年各月の金額は次のとおりであった。なおR医院は乙表を採用している。
 四月 一、二一〇、八七三円
 五月 一、二六〇、九三九円

 1 初診療などについて
 初診、再診、深夜手当を拾ってみると、
 四月 一五一、六二四円(一二・五l)
 五月 一五五、〇一〇円(一二・二l)
 ()内は、全収入(実際は支払基金等に請求した点数に十円を乗じた額。以下も同じ)に対する割合であり、医師ごとに内科医の最大の技術料である診察行為の占める比率が多いか少いかは、各人の考えや診療内容などで異り、にわかに決められないが、内科では、もっと高い率であってもよさそうだ。

 2 往診料について
 四月 一三、五二五円(一・一l)
 五月 二六、七八五円(二・一l)
 R医院では往診はあまりせぬようにしているし近頃はまた自家用車利用の患家もふえて、往診はすこぶる少い。四月で四十五回(日に一・五軒平均)、五月で八十四回(日に二・八回平均)になる。往診キロは2キロ以内がほとんどである。
 四、五月合せて
 2kmまで 一〇八回
 2km以上  二一回
 夜間または深夜の往診は合計十三回にすぎず、これは全往診数の一〇lである。

 医薬分業をするとしたら

 さて分業にするとして、その得失を論ずるためには投薬状況と、それに要した薬品費(薬店に支払う金)を調査せねばならない。後者はすぐに判ることだが、(もっとも概算ではあるが)前者を知るためには毎日の投薬行為をもれなくチェックし、集計する作業が必要で、そのためのゴム印をつくり何剤何日分投薬と直ちに記入できる一人別伝票をつくり、あとでそれをまとめた。

 1 投薬について
 各月の窓口投薬は表?のようになった。数字は内服薬は延日数、頓服や外用薬は剤数である。

画像


 右はしの窓口回数というのは、たとえば何日分かの薬を窓口で渡した回数の総計であるが、医薬分業ではこれが処方箋発行枚数に該当する。

 社会保険では医薬分業による処方箋手当は次の方法で計算、支払われる。
 (処方料×処方日数)+処方箋科
 処方料は内服、外用の別なく、いずれも2点である。内服薬は2剤以上になると、それぞれから〇・八点を引くことになっておる。
 処方箋料は1枚につき五・四点である。(以上乙表による。)

 計算の結果
 四月 二〇九、八四〇円
 五月 二〇六、七五〇円
 となった。

 2 使用した薬品代
 今は分業でないので、薬店には、すくなからぬ薬品代を支払っている。内科系医院では、もはや、それは総収入の三〇から四〇lに近い数字のようだ。

 R医院では
 四月 四六五、九五一円(三八・四l)
 五月 四〇七、三九四円(三二・八l)
 注射薬など分業の対象にならないものは、このうちに含めていない。()内は総収入対比である。

 3 各月の投薬収入
 四、五月分の請求明細書から、投薬によって得られる金額を集計した。
 四月 七五五、九五七円(六二・四l)
 五月 七三三、六〇〇円(五八・一l)
 ()内は総収入対比である。R内科では収入のほぼ6割は投薬によるものであることがわかる。
 以上にのべた各診療行為ごとの比率(総収入に対する)を、まとめてみると、表(2)にようになった。表のうち、"その他"の主なものは注射と検査である。

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 4 分業による収入の変動
 分業に移ることによって起る収入の変動を計算する資料が、これで揃ったわけである。 分業前(すなわち現在)の投薬収入から、使用した薬品代を引いた残り(Aとする)と、分業後の処方箋発行によって得られる収入(Bとする)とを比較すればよいわけである。

 Aは
 四月 二九〇、二〇六円
 五月 三二六、二〇六円
 である。Bについてはすでにその数字をのべた。(四月は二〇九、八四〇円五月は二〇六、七五〇円)  よってA‐Bは
 四月  八〇、一六六円
 五月 一一九、一五六円
 となった。窓口投薬を処方箋発行にすべて代えてしまうと各月に総収入でこれだけのマイナスが出てくるわけである。
 「やっばー、医薬分業は損ばい。やめとこう。」
 待て、まて、みなの衆、話は先まで聞いてつかあさい。江南部のお医者さんは気が短かかけ、困りますとバイ。」

 5 分業前後の所得税
 R医院、昨年度の実績から考えて、四、五月は一年分の月平均収入に近いそうだ。そこでその平均値から年間収入を計算すると次のようになった。(千円未満きり捨て)
 分業前 一四、八二〇、〇〇〇円
 分業後  八、三九三、〇〇〇円
 御存知のように、保険治療収入には二八lの税の特例がある。これに従ってR医院の所得税を計算した。(四十一年度の税法による、家族は配偶者と扶養家族が五名)

 分業前 九六八、二九〇円
 分業後 三四〇、〇九二円
 分業することによって税金は六十二万円あまり少くなった。月割にすると五万円である。さきに分業によって四月は八万円、五月は十二万円ほど減収になり、気の早い方は、分業は、ばからしかと尻をうかしかけたのではあるが、減税によってそのマイナスは、それぞれ四月は(八万‐五万円)で三万円、五月は(十二万円‐五万円)で七万円差にちぢまったわけである。二ヶ月の平均をとって五万円となるが、これは分業前総収入の四lにしかあたらない。今よりも二八lが純益とみなす。

 と、財布に残るお金は四lの二八lすなわち一・一lだけ減ることになる。県市民税は所得税にスライドするから、それを考えるとこの一・一lはもっと減るのである。

 6 分業によるその他の影響
 分業によって生ずる一・一lの減収をもっと小さくする方法はないであろうか。調剤しないから人手が少くてすむ。浮いた人数は検査や他の治療面に活躍してもらうことができる。患者がすぐ治ったり、不幸にして死亡したために使わずに捨てる薬もかなりの額になるが、そのロスも分業によって解消する。

 以上は一応、金に換えられるプラス。
 金にかえられぬ非常な利点は、薬品の購入、管理の煩雑さから医師を解放することである。一瓶が何円だから何点といった、おろかしい作業ともお別れである。「くすり九層倍」なんか、ゴミ場に捨てた死語となる。医師はいぜんにもまして、ほこらしき技術をもって医療に奉仕する職業人となる。

 広くなった薬室は何に使おうか。薬品倉庫もいらなくなるな。一面、不利な点もなくはない。処方せんによって治療さらに診断までが公開されることの医師または診療上のマイナス。患者にとっては医師と薬局と二ヶ所を訪ねねばならぬことの不便。(実はこの抵抗を考えると、よいとは判っていてもR院長は分業実施に二の足をふむ)または患者の負担もすこし、増すかもしれない。

 むすび

 R内科医院の四、五月分資料をもとに医薬分業による収入の変動を検討した。収入はへるが、それはごく僅かであり、税金や人件費の節減、未使用薬の解消などでカバーできそうである。薬品購入管理のわずらわしさから医師が解放されることは大きな魅力であろう。

 患者にとっての不便を少くするのには医院のすぐ近くに調剤薬局があるとよい。この点の解決がつけば、分業に反する強い理由はあまりなさそうである。R医院を調べた限りにおいては。(四十二年六月稿)


画像  福岡市薬剤師会 医薬協業について想うこと 開局薬剤師の立場から

 戦後医学・薬学の急速な進歩発展は目を瞠るものがある。特に優秀な医薬品の開発登場は医療における医薬品のウェイトを増し、医療の向上のために、今日程医学(医師)と薬学(薬剤師)との提携協調が要請される時代は、なかった様に思考される。平素思うことの一端を述べてご批判を得たい。

 医薬分業法なる用語が今日迄慣用されて来たが、今にして思えば真意を表現するに適確な用語ではなかったと考えられ、この用語の故に無用な誤解を生じ、医薬間の協調を阻害したことも又事実である。近時漸く心ある医師薬剤師の間にその真意を表現する「医薬協業」なる用語と思想が普及浸透しつつある現況は医薬相互にとっても国民医療の見地から喜ばしい現象でもある。

 医薬協業とは何か?
 N薬剤師が平素秘かに規定していることを述べれば、
 1 医師薬剤師の提携協力により、予防治療における国民医療の向上を図るを基調とする。
 2 医師薬剤師の専門的立場と倫理は相互に尊重されねばならない。
 3 医師薬剤師の生活保障と研修の機会は充分に保持されねばならない。

 日本医師会多年の要望であった崇高な医学技術に対する評価が今般の医療費緊急是正で有形の技術に対し稍々評価された感あるが、近き将来の医の無形の技術に対する適正な評価も必須であることは疑いない。

 一方薬価基準の実勢価格への調整その他医師の非技術による収入が相対的に減ずるのも必然の成行きであろう。医師の方々が非技術の収入から脱却し、専門技術料(有形、無形)の保障される日の招来も近くと思われる。

 かくて医薬協業の第一段階である処方箋発行への諸条件は、整備されつつありその気運は急速に醸成されるであろう。医薬協業の実践者である宮方貞宝医師の発表された「医薬協業とプロフェッション」日本医事新報(S四十二・二・一八)を拝見したので、七月二十八日宮方医院を訪問し、忌憚なき意見の交換により、完全なる見解の一致をみて深い感銘を覚えた。

 特に医師の立場から保険処方箋発行の有利点についてのご見解は平素のN薬剤師の所論と全く同様であったことは新らしい発見であった。尚宮方医師の処方箋発行の動機と経過については紙面の関係上省略するが、同医院は、現在一日に七〇〜八〇枚、月に約二、〇〇〇枚の保険処方箋を発行してゐる。(四十二・六月)

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 以上両表により処方箋発行と院内投薬の場合の経済的指数対比は、一二月一日改正によれば
 1表は、処方料(8点)+処方箋料(5・四点)=一三・四点となり、投薬用購入薬品代は不要となる。
 2表は、薬価基準と購入薬品価格との僅差や投薬収入を加えた全請求点数の総収入に対する累進課税等が一応考えられる。

 処方箋発行による利点を宮方医師とN薬剤師との見解の一致点を列挙すると、
 一 結果的に見て保険点数上も有利である。
 二 調剤、投薬の手数がいらない。往診時などにはもちろん特に便利である。
 三 人件費が節約され、人手不足や人事管理の気苦労が軽減される。
 四 保険請求事務が薬を用いないだけ楽になり、投薬料請求の配慮が不要となる。
 五 課税面では薬剤料請求不用による請求点数の減少により課税対象金額と税金が軽減される。
 六 投薬用薬剤購入資金や設備が不要であり、薬品管理の気苦労もない。製薬会社の学術員と話すときも、純粋に学術的問答に終止できて、精神的、時間的負担も軽減される。
 七 従って医師の研鑽が診療面に反映され自由な効果的処方投薬ができて患者も喜ぶ。
 八 開業医の性質上患者は一定範囲なので、調剤担当薬局もそれほど多数とはならない。薬剤師と連絡を取り合ひ、彼らも研鑽を重ね、それがはね返って、私自身啓発されることが多い。
 九 薬剤師からも患者が廻って来るので、疾病の早期治療にも貢献し得るし、治療もし易いケースが多くなる。

 以上の諸点から薬剤師として、その受入れ態勢について、種々考慮しなければならない。先ず保険薬剤師としてより高い倫理の昂揚に心掛け、平素より「ドラッグインフォーメイション組織を通じて、学術部門の研鑽に努力すべきである。保険薬局の形態、構造についても真摯な態度を以て、医師及び患者から信頼さるべく整備されなければならない。

 次に薬剤についても近隣医師との懇談を頂き、その指示に応じて誠意をもって準備したいと思ふ。尚薬剤師会に対しては患者にとっての不便を少くするために医院の近くに特に健康保険薬局の設置の場合には特別の配慮を願い度い。医薬協業に関する皆様のご批判を乞う。


 親友再会 堀岡正義

 おはら祭でにぎわう鹿児島は十数万の人出で、身動きができぬほどの雑踏である。戸外の喧噪をよそに、ここ自治会館の日薬講習会の会場では多数の薬剤師の会員が、熱心にメモを走らせている。

 山村県薬、森永市薬両会長、それに清水鹿大薬剤部長らが相談してはじめた「亀の甲に親しむ会」が鹿児島の薬剤師の方々に勉強ムードを醸成した成果というが、それにしても地方の指導者の努力が早くも現実の姿となって現われた好例として御同慶に耐えない。

 小生の話が終るや否や、会場の入口に待ちかまえていた旧友田代は、小生を拉致するように、強引に車に引っぱっていった。「市中を御案内でもしましょう。」といっていた森永会長も呆気にとられた様子である。それもそのはず、彼田代光雄君との対面は久しく待ちのぞまれていたからである。

 話は二十六年前に遡る。昭和十六年四月、青春の血を二条の白線帽に秘めて、水戸高校の門をたたいた健児たち。それも同じ理乙のクラス委員として、荒くれ男どもに対することになったのが、彼との奇遇の始まりである。

 戦時中とはいいながら、未だ大東亜戦争には突入していなかったせいもあり、理想に燃える若き雄児らは北は樺太、釧路から南は沖縄、奄美大島、鹿児島に至るまで全国津々浦々から馳せ参じたものである。そのなかで一段と光るのが鹿児島出身の田代光雄。浪二の猛者らしく、ひげ面にマント、朴歯姿は一段と四囲を圧し、竹刀を持って道場に立つと一段と凄味を増す。それでいて、友と人生を語れば、談論風発、いつもコンパの中心であり、その言葉には深い人格を感じさせる。そんな彼と一緒にクラス委員をしたのは、大へん幸せであった。三年間の青春はあっという間に過ぎ去り、ある者は東大、ある者は東北大へ、そして田代を含めて四人は九大医学部へと、再び全国各地へと散っていった。

 戦後はじめて田代に逢ったのは、昭和三十一年の博多の薬学大会の時である。その時彼は第一外科の医局長をしていた。「お前、九大へ来んか。」そんな冗談をいっていたがそれが何年か後に本当になるとは。そして九大へ来たのを一番喜んでくれたのも彼田代であった。

 その後ときどき顔をあわせる機会があったが、ゆっくり話し合うことができるのは今回が始めてである。彼の家に落着いて、その後のお互の辿って来た道など語り合ううちに、段々と昔の記憶がよみがえってきた。

 彼は今、大口市の寺師医院を主宰し、岳父のあとを守っている。彼の人柄そのままに「医は仁術」を旨としており、門前市をなすばかりの盛業ながら、午后は診療を休み専ら勉学と研究に終始している。いまどき珍しい医者である。岳父は医業の傍ら、考古学に親しみ、その名は全国に聞えていたという。田代はバラと絵画に深い造詣を有しており、書斎はバラの香りと名画に飾られている忙中趣味を生かし、心豊かな生活を享受している。

 神風ドクターとは無縁な彼は、決して無理な治療をしない。くすりもまわりの医者の半分しか使わないという。彼の家には岳父から受けついだ山があちこちに点在している。それは父の代に来院した人が治療費代りにおいていったのだという。またある人は米を、ある人は野菜を。そのような農民の生活の実状を知っている彼にとって、医療という名の下で、過剰診療を行なうことは、彼の心が許さないのである。

 彼が大口に定着して数年の間に、二人の医師が大口から去ったという。「仁医」としての彼についていけなかったからであろう。田代は、今農民から貰った山にセッセと苗木を植えている。それが大きくなるとき、大口という一地方郡市に種を播いた、彼の「本当の医療のあり方」に対する考え方は、住民からの「医療に対する尊敬」となって返ってくるであろう。親友田代の健斗を祈って止まない。(九州大学病院薬剤部長、薬博)

画像  長野県上田地区見聞記 福岡市薬副会長 藤田 胖

 昭和二十二年一月、暖かい九州を出発して三日目に長野県小諸に着いた。故郷だった平壤の寒さが身に泌みてはるかな異郷に来たものだと感じた。然し浅間山や、八ヶ岳に囲まれた信州の生活も五年ともなれば、近い軽井沢、上田城から始まり、管平、上高地や南北アルプスとよく歩き廻ったと思ふ。昭和二十七年一月、福岡に何となく暮すようになってもう十数年。定着したのかも知れない。

 十一月十二日その信州へ偶然にも旅行の機会に恵まれ名古屋から中央線に乗換え木曾福島の山膚に深まってしまった木曾路の秋を見つ、北上を続けると松本の西に北アルプスがいただきに真白に雪をかぶっている。姥捨の峠の駅から林檎畑のはるかに千曲川を見て久方ぶりの信州を満喫した。

 所用も終えたので平素から日薬会誌や業界誌に紹介されている上田地区に医薬分業の見聞に訪れた。上田地区は千曲川の中流附近の盆地で中心の上田市は人口七万余り、上田城は市の高台にあり、商工会議所には真田十勇士の人形など飾ってあった。周辺の小県郡の農村を含めて十万位の人口の地区である。訪問した小林富治郎氏は長野県薬社会保険理事の若手ホープとして活躍され、信州人特有の理論と計数を示されて、種々苦心談を聞かして頂いて感謝に耐えなかった。

 十年前は日薬の分業方針に従い、各薬局で銀行融資まで受けて備蓄薬等の準備と受入れ態勢をしたが僅かな処方箋しか出なかったが、たまたま昭和三十三年九月国立上田療養所(現在東信病院)が薬局長の努力で院外処方箋を発行したので、各薬局は学術と薬剤について有力なトレーニングを受けたと云っている。

 然も幸いに上田市の個人総合病院開設者で長野県医師会長であった医師が自ら院外処方箋を発行したことが医師の処方の処方箋発行に対する不安感を一掃した。薬局側は若手薬剤師層が積極的に受入れのために中心となって研修を進め、医師の不信感を全くなくし現在は深い信頼を受けているとのことである。

 保険薬局二十九軒の内二十四軒が調剤を行っているが処方箋月平均二八九枚。
 (福岡市二四枚)
 請求金額月平均二十一万円。
 (福岡市三千円)
 一日取扱い十枚から二十枚位で中には三十枚以上取扱っている薬局もある。請求金額も三十万円前後で八十万円位の薬局もある。処方箋発行は内科、小児科等、医科関係九四%で歯科六%である。

 特に医師との協定はないとのことで、小林氏も保険用薬品は一〇〇種位在庫し、金額で約五、六十万円、請求金額一ヵ月五十万円位とのことである。上田市の統計でも多く用いられる薬品は約一七〇品目位とのことである。

 処方箋用紙は薬剤師会で印刷し、両医師会事務所へ送付し、薬局は各自で配布を行わないことになっている。保険薬局の印象は近代的に洗練され薬局らしい雰囲気があり、調剤室も整頓され清潔である。現在三〜四軒の薬局が鉄骨組立で改装中であったのは心強かった。

 特に医師、薬剤師の人間関係は殆んどが地元の人々なので小学、中学の同窓であることが対話にも親近感を増し、又薬局側も患者を積極的に処方箋発行医院へ紹介する等平素の努力も怠っていない。小林氏は上田地区は種々のラッキーが続いたのであったがと云って居られたが、然し、それらの各条件を積極的に受止め、種々の業務を会員がそれぞれ分担し努力したことが今日あったことに敬意を表したい。

 十二月からの健保改正では乙表の処方料と処方箋料の増額で処方箋の発行がより多く期待されると云われたが皆様の御精進を祈ってお別れした。上田市を夕方立って野沢町に向った。

 信州五年の生活を過した懐しい町である。小諸から乗換えて小海線で山地へ入るが、浅間山と八ヶ岳にはさまれた人口二万足らずの町であったが、今は佐久市の一部になっていた。この町に親しくしていた花岡薬局がある。その夜何となく久闊を叙すべく訪問すると、処方箋を沢山整理しているので聞けば、一日分とのこと、三十から四十枚あるのにまず驚いた。

 一ヵ月の請求金額が百万円を下らないとのことである。内科、小児科の開業医が近所にあり、患者が多くなり、医院が狭くなり、人手が不足したので、院長より相談があり、一部の患者に処方箋を持たせたいが調剤を引受けて欲しいとのことで、それより調剤を始めたところ、医院の方が順次積極的となり、現在は毎日百人前後の患者の中から三十枚から四十枚の処方箋を持参させている。内容は高価薬の処方されたものが非常に多いので、保険請求も割高金額である。子息が昨春東京薬大を卒業して帰宅したのを、勤めにも出さず、専門にやらせていると笑っていられたが、うらやましいと思った。

 然しその医院は院内投薬も行ってはいるが、簡単で割安なもの丈けとし、検査とレントゲンを非常に多く使っての診断に重点を置いているとのことである。保険請求金額に高価薬使用した割高な薬剤料を加算しなくともよいから、課税対象金額が低くなり、結局税金も安くなるので、この方がよいと院長が云っているそうで、ねらいはそこにあったのであろうと思われるふしがあると、苦笑しながらの話で、大変参考になる意見を聞かされた。

 花岡薬局の場合は医院からの要請であったのが、現在の様になったのだが、一医院と一薬局の場合でもうまく協業すればこの様に進展するものであると知らされた。福岡の保険薬局の諸先生もご近所の医師との対話をとおして親密を増し、保険薬局の考え方や、乙表の処方箋発行の有利点などをよく説明して認識を改めて頂くべく努力されては如何かと思います。

 日薬の指導方針にも二医院をと一歯科医院の処方箋受入れと、その準備を急ぐ様にと示されていることですので、この研鑽にも力を傾注すべきときだと思われます。十二月一日の改正により乙表の処方箋発行は、処方料(八点)+処方箋料(五・四点)計十三・四点となり、従来より非常に有利になりました。又薬価基準は下り、又高価薬の使用の多い程課税額が高くなる等、種々に問題点があります。福岡市内にも処方箋を発行すべく研究しているある地区の医師の方々から処方箋用紙や発行についての資料を求められたので、説明しました。

 それから数日して福岡市内の保険薬局のリストが欲しいとの申出がありましたので、昭和四十一年一月現在の保険薬局名簿を差上げました。福岡市三師会の席でも、医薬分業について一薬剤師の立場としての見解があれば福岡市内科医会報に掲載してもよいとの話もありましたので、大牟田の中村会長の見解をまとめて提出しました。

 このように福岡市に於ても医師の方々のご研究が進んでいる現況です。保険薬局の方々も一日も早く真摯な気持になられて医薬協業に取組まれ尚一層の研鑽を重ねられるように衷心より希望します。


 ◇石を集めて 馬場正守

 私は机の上の五万分の一の地図を眺めている。地名にも記憶があるし、あの尾根あの谷と思い出が次から次に浮かび出て来る。子供の夏休みの宿題づくりの手伝いに、何をしようかと考へて始めたが今では病みつきになってしまった鉱物採集である。採集し整理した標本は今では四〇〇個になった。福岡よりの日帰りコースの所はもうあらかた終了した様だ。近頃は大分、長崎、鹿児島、山口県へ足をのばして採集している。

 学校薬剤師として、沢山の学校を見て廻るが、検査の余暇に理科室や廊下に石の標本が並べてあるのを見ると自然に嬉しくなる。先輩のS先生は、気分がいらいらする時に、植物図鑑を見ると気が休まると言われるが、それと同じだ。各石、銘石、盆石が流行っているが、どうもこれには私は縁がない。山口県の於福には青白硅石のいいのがあって鉱山の人に依れば五千円位するという話である。

 それよりも簡単な化学記号で示される硫砒鉄鉱や、黄銅鉱の方が嬉しい。秋吉台の如く、石灰石の台地のまわりには銅の鉱脈が多い。平尾台の南にある吉原は現在日本磁力選鉱が稼行しているが磁鉄鉱、黄鉄鉱、黄銅鉱、赤鉄鉱が良く、二坑の方解石の結晶の間に散在する黄鉄鉱は見事である。

 福岡の近くでは東郷橋の近くの河東は、昔、掘った坑道がそのまゝ残っている。ここの方鉛鉱、黄銅鉱は美しい。志免の吉原にはモリブデン鉱山があった。輝水鉛鉱と硅孔雀石が採れる。津屋崎の海岸には五色玉とメノウがある。メノウは粒が小さいが、貝掘りの要領で探すと、橙色のアサリ貝位の大きさのものが発見される。ここの礫岩層には赤色の輝沸石が多量に採れる。

 田川郡の小峠の硅石採堀場で、親指大の黒電気石や大きな黒雲母がとれる。少し足をのばして英彦山中学校の近くの駒啼谷では九州では珍らしい輝安鉱(アンチモニー)の針状の結晶を含んだ石英脈が走っている。田川市の北の三ノ岳の水晶鉱山には、ざくろ石と方解石と、黄銅鉱、磁硫鉄鉱がとれる。その名も採銅所と云われ、山に登るにつれて、硫化鉱の臭が流れてくる。山の斜面を利用してケーブルで石灰石を搬出しているが、今年の六月に再度行って見た時は休んでいた。

 長垂山は燐灰ウラン、銅ウラン、紅電気石、リシア(リチウム)雲母等を含んだペグマタイトがあるが、今では、途中までしか道がなく、篠やぶを分けて登らないと、採れる所へゆけない。同様なのが糸島郡二丈町の大山である。浮岳とトンボ山の間にあって、少し廻り道をして採集にかかるがここのバラ石英は、ほれぼれする位に美しい。以前、装飾用に採堀しようとしたが多少、ひびわれが多いので駄目だったとの事。ピンク色の氷砂糖の様な感じで、黒電気石、黒雲母と一緒にとれる。

 佐賀県の古湯温泉から北へ七キロの所に杉山がある。ここの硅石採堀場は御婦人が社長さんらしい。ベリル(硅柱石)とざくろ石が良い。ここのざくろ石は杉は小さいが、結晶が美しいので、指輪の石にして見たら、家内が喜こんでいた。野北の海岸には緑れん石がある。もと金山のあともある。残の島は、海岸づたいに歩るくと砂鉄や雲母電気石等が採れる。

 八女郡の星野(仁田原)は鉱山が休んでから日数が経っているので、やぶになっていてあまり見るものがないが、少し下って本星野は小人数で採堀している所がある。大分県中津江村の鯛生は現在でも盛んに稼行している。ここには福岡県八女郡の方から車でゆくと日向神を過ぎて、山あいの部落柴庵を通り、古い坑道の中を四キロ走って大分県側へ出ると製錬所へ出る。マイカー族で、近頃にないスリルを味わいたい方は、この坑道内のバスをおすすめしたい。勿論中型自動車が入れる位の大きさだが、中は真暗で、坑内の湧水、シズクが垂れ、所々にダイナマイトの置き場があり、高電流変圧器もあり、迷い道もありタテ抗もある。

 一度でこれを通過出来れば幸運な方である。冷や汗が出ることうけあいます。帰りは尚更迷い易い。坑内での離合は困難だから坑口で耳をすませて対向者のないのを確めてお入り下さい。水晶や方解石、輝銀鉱がある。久留米の近くでは高良内神社のずっと裏の耳納山の中腹に高良内銅山がある。休山中であるがここには黄鉄鉱の小さな結晶が見つかる。

 足を延ばして宮崎県では高千穂の北にある天の岩戸神社より三キロの傾山の中腹の土呂久には錫石、孔雀石がとれる。一泊遊行を楽しみながら、天孫降臨の神話を思い出しながら登れば楽しい。日の影線の槇峰は現在廃山中で、入るのは困難。鉱山内の機械や古鉄を持ち出し売って金にするからだそうだ。

 耶馬渓の守窯より毛谷村の方へ入った所に大峰鉱山がある。ここには名石があり、水晶の大きいのを得た。鹿児島では大口、布計等の大きな金山があるが、未だ訪れる機会がない。鹿児島市の南の錫石はとても美しい黄鉄鉱がある。これは水で洗ったままで、置きものに好適。キラキラピカピカで美しい黄金色を楽しめる。錫石もとれる。枕崎の北の鹿篭金山の石は灰黒色の砂岩の中に、白い小さな水晶が脈状に走って、まるで砂糖のリンカケの如くで美しい。

 私の所のカウンターの上に置いていたら、六千円出すから売ってくれと云われて苦笑している。書き忘れていたが、犬鳴峠(福岡‐直方)の芳賀より八木山の方へ入ると昔の銅山の跡がある。ここの黄銅鉱、黄鉄鉱は粒が小さい。ここの鉱脈と同じであると思うが、猪野の大神宮の奥に黒田藩時代の銅の製錬所のあとの中河内鉱山がある。鶏料理を食べて、ここに登るのも一興である。ここの河の石は片麻岩が多く、置きものに良いが、立て札で採石を禁じている。

 さて先生方の近くにこんな所があったら御一報下さい。機会を見つけて必ず出てゆきます。植物採集も誠に結構だと思いますが、ずっしりとした手応えは石に限る様です。それから鉱山にゆかれる時は薬剤師の肩書きより衛生検査技師か薬学士の方が鉱山の受付に良く感ぜられる。(誠にイカンに存じます)そして薬子箱でもお持ちになった方が山の人々も喜こんでくれます。さあ、この新らしい年を迎えて何処へ行こうか?(開局薬剤師)

 薬界短信

 ◆福岡県薬調剤技術委員会=12月21日二時から九大病院薬剤部で左記により開会
 @日本薬学大会の件
A九州山口薬学大会の件
B特別講演会開催の件

 ◆第36回九州山口薬学大会開催準備打合会=12月23日一時半から県薬会館に於て開会、次記議題につき協議
 @準備委員会の編成に就て
 A準備事項の打合せに就て

 歳の始めに 福岡市学校薬剤師会 会長 内田数彦

 謹んで新年のお慶び申しのべ、皆様のご健康とご幸福を祝し、併せて、学校を通じて習い覚えた薬学をフルに駆使して環境調査を為し、地域社会に奉仕せんとする我が学校薬剤師会の発展のため、本年も亦どうぞよろしくご指導ご鞭達下さいますようお願い申します、本年は大いに頑張り努力する積りでおります。

 明治百年
 本年は明治維新から丁度百年になる。明治百年祭の行事が各地で盛んに催されるそうだが誠に結構なことである。三百年間の武家政治であった徳川幕府が倒れ、明治天皇のご即位、東洋の一角、小島の国日本が興り、近代国家として歩き出し、日清、日露の大戦によって世界烈強の仲間入りして一等国にのし上った。神国なりと信じ、一等国なりとうぬぼれて勉強しなかったのが、大東亜戦争となり、世界相手の大戦となって一敗地にまみれた。そして二十三年、明治百年は来たが、元のもくあみ、建国の昔に帰った。国土は建国の昔に帰えったが生活は建国の昔どころか既に二十世紀である。これで新規しつ宝、生れ替った国として新しく出なおすのが本年である。これが明治百年でもある。

 還暦
 私は明治四十一年生れであるから本年は丁度六十年目の戍申、所謂還暦ということになる。明治は百年、私は六十年、国は百年経ち新しく生れるが、こちら人間の肉体の方は六十年たてば古ぼけて来る。頭は白くなり、歯はぬけ、あれも出来なくなって行く。併し気持ちだけは新しく張り切り口だけは達者になる。

 本年は戍申の年である。五光の猿と云うのがある。
 端雲に乗りて千里を走る
 魔を征服し、吉を招集する猿
 世界に平和の光をもたらし、家庭の和楽商売繁昌と八面六臂神通力をもつ五光の猿 和して同ぜず豊かにして奢らず、楽しんでは分度を守り、行じては勇あり
 怒りては災いを拭う
 人の世に深く入りては家庭の隅々に滲透し
 商売の発展と招福のために駆け巡る、となかなかよい猿である。

 薬剤師会に還暦を迎えた三猿がいる。見ざる聞かざる云はざると世に言うが、私はその外の「何もせざる」の猿である。市の会長波多江嘉一郎、吉田事務長、学薬会長の私の三猿である。波多江会長とは中学修献館で同級生であったが、彼は秀才、こちらは鈍、彼は長崎に勉学し、こちらは熊本に遊ぶ、吉田事務長はいつの頃からか気が付いたら事務長としてデンとおさまっていた。三猿各々違うが、長と名のつく役職にあり、酒好きであることは同じく酒については三猿とも同ように事故があるが、そのことは正月であるからここにはさける。還暦祝いに赤いチャンチャンコでも贈りましょうかとの話、燃えるような赤いのもよいが、私は桃色でよいというと、アナタHねと来た。

 初夢
 本年は戍申の年で我が干支であり、六十年に一回の巡り合せで、所謂還暦である。明治は百年、こちらは六十年、張り切って新年を迎えた良い猿であり、社会に奉仕したいと思う。それには西遊記に出て来る斉天大聖孫悟空と名乗る石猿が良いと思う。太宗皇帝の勅命を受け、西城にお経を取に行く玄装三蔵法師について行き、如意棒をふるい一飛び一万八千里を走る触斗雲に乗り、大小八十幾回と魔障を平げたえらい猿孫悟空になり、剤界のため大いに働き奉仕し度いものである。

 戦斗用の如意棒は耳の中に収め触斗雲に乗り、一飛び一万八千里もとんでいると、雲の下で何やらモサモサしている。変な奴が何か云っているようであるから近づいてよく見ると、頭の薄くなった猿公が痩せ細った驢馬に乗り砂漠の中をヨタヨタしながら、オーイ、私の行く先は何処ですかと叫んでいる。それが私であった。そしてそれが私の初夢でまだ夢みている。

 不惑 荒巻善之助

 十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人、などというが、十でただの人が四十にもなるといささか淋しい心境である。それでも去年は厄年だというので飲み仲間が厄払をしてやるという。

 止してくれよ、僕はあのハタキの親方みたいな奴でパッパッとほこりをかけられると、無性に吹き出したくなって困る性分だ。何もそんなことをするためにわざわざ神様の前迄出かける必要もあるまい、というと、だからお前の云うことはいつまでたっても口ばしが黄色いのだ。要するにあれは一種のセレモニイなんだから、文句を云わずに人のやる通りにやっておけ、毎日お世話になるからといって、まさか便所で結婚式をやる奴もあるまい、お前の云うことはその程度の屁理屈なんだとあっさり一本やられてしまった。

 云われてみれば確かにその通りなんで、おまけに又一杯のめるチャンスがあるということになるとまんざらでもない、有難く厄払いをしてもらった。

 年が四十になったということは四十年間いろいろの人間とつき合ってきたということだ。その中には一日限りのつき合いもあれば、これからも又何十年とつき合っていく相手もあるだろう。少年時代、河合栄次郎さんの教養書を愛読した頃があって、大いに感激したものだが、「学生に与う」という本の中で、友達というものはお互に高め合っていくことに意義があるのだ、ということが彼一流の理想主義的な情熱で書かれていたことを覚えている。

 それはたしかに立派なことであるし、若く、穢れを知らなかった頃の私の脳裏に焼きついたこの言葉は、そのまま又私の子供に与える言葉として充分である。然し人間という奴は仲々そう理想通りにはいかない。切磋琢磨し会うような友達はいわば仇同志みたいなもので、アンちくしょう今に見ていろというような気持だから、相手が失敗でもするとソレ見たことかと手をたたいて喜びたいのが人情だ。そこへいくと飲み仲間は気楽なもんだ。あまり勉強になることや、世の中のためになるようなことはやらない。せいぜい気になるのは年々お互の酒量が落ちてくるのが淋しいぐらいのことだ。

 誰だったかは忘れたが、わりと偉い学者の随筆で、次のようなことを読んだことがある。まじめに勉強ばかりしている人には本当の友達はできない。友達を作るということはお互に投資をし合うことだ。だからお互に無駄な、馬鹿馬鹿しいことをし合わなくちゃ信じ会うことはできない。そういう意味では酒を飲むことぐらい理想的な無駄はない。飲むために高い金を払い、ちびちびとやるために長い時間をかけ、おまけに体でもこわせば三拍子揃った無駄だ。そういう無駄なことをつみ重ねて出来た友達は本物だ。

 私も屁理屈をこねることにはいささか自信があるがこれを読んだときにはなるほどこういう理屈もあるものかと呆れ返った。然し同時に又大いに我意を得るところがあった。これは実感である。たしかにこの言葉は一面の真理を含んでいる。そして又そういう友達だからこそ厄払いなどという馬鹿馬鹿しいことを思い立ってくれるわけだ。

 思うに、四十年かかってあまり出世をしていない所をみると切磋琢磨するような友達には出会わなかったということらしい。然し四十年経った今、そういう友達がたしかに私の囲りに居てくれているということは何と豊かな人生であることか。富を得、地位を築き、たとへ黄金の人生を送ったとしても、心に信ずる友がなければまことに索漠とした人生だろう。

 四十才という年は人間の体力が下り坂になる年である。薬のコマーシャルでは老化は三十才からなどというが現実に身をもって感じるようになるのは四十からだろう。そのことは又、自分の能力の限界を身をもって知る事だとも云えよう。孔子は四十にして惑わずと云ったが、我々凡人は四十にして自分の生涯の大勢を悟るというふうに解釈してもよいのではなかろうか。

 もはや人生の勝敗の大勢は決した。少年の頃夢見た青雲の志はその十分の一も成就なし得なかったというのが本心である。然し自分なりにいろいろの体験を積んでみると何もなし得なかったということも又、それなりに意味のあることだと思う。自分の歩いてきた道を充実させ、自分の得た友を失わないようにしたい。それが満四十才の元旦に思うことである。(開局薬剤師)

画像  薬業一九六八(1) 隈 治人

 新しい年が不景気になることは、おおかたの予測するところであるらしいが、どれがどの程度になるかの予測はきわめてむづかしいといわれる。昭和四十年が戦後最大の不況の年であって、薬業界も調子をあわせるようにアンプル事件に見舞われてしまった。これで最大の被害を蒙ったのは大正及びSS製薬だったことは周知のとおり、その他関係中小メーカーが深刻な打撃をうけた。

 この昭和四十年でさえも経済の実質成長率は四・七%だったが、昭和四十三年の予想成長率は六・三%から八・八%の間といわれ、おおよそ七%を見込まれているようである。しかし英国のポンド再切り下げはこの予測の材料にふくまれていないらしいから、これがあると景気はさらに悪くなろうという。

 いま日本の経済を大きく支えているのはベトナム戦争の特需であることはいうまでもなく、これが終ることは人道上、世界の平和上大いに望ましいことではあっても、経済的には大へんなショックが来るだろう。しかし現実にベトナム戦争が一九六八年に終結することはまずあるまい。

 このように新年度の経済展望をして見て結局感ずることは、日本経済の好、不況とはいっても、小売薬業界にはそれほどの影響はないだろうということである。むろん金融政策のひきしめが中小企業メーカーに深刻な影響を与え、一般国民のフトコロ具合が医薬消費の消長に関係し、そのために小売の成長自体がはばまれることは覚悟しなくてはなるまい。しかし一般の小売は人件費、諸経費にそれほどの重荷を負ってはおらず、営業内容の改善や在庫回転率の好転などによって不況克服の操作は比較的容易であると思う。ここ数年続いた「乱売後の大平ムード」で小売はいささか小成の安眠をむさぼる傾向にあったから、ここらで眠りから覚めてまじめにそれぞれの営業内容を再検討すべき時期を迎えてもよいだろう。

 小売薬業界の戦後最大の不況は、昭和三十四年頃から三十七年くらいにかけの、大量販売店の進出とその圧倒的な攻勢の時期だったと思う。その頃の製薬及び卸業界は一般小売の疲弊や絶望感にもかかわらず、一般産業界のテンポをはるかに抜く高度成長と好況とを誇っていた。特にメーカーの伸びぶりはまことにめざましかった。メーカーがいくら「われわれは小売のために在る」と嘘を百べんいって真実の声らしく装い、それに欺された小売も数多くあったにしても、医薬乱売戦争の結末は小売の敗残消滅疲弊と、メーカーの隆盛成長優越とのまことに対照的な明暗の二相を描き出したのだった。それでも世間は同じ薬業界としてしか見ず、薬業界は大繁栄を続けているとしか見てくれなかった。

 昭和三十八年頃からようやく安定期の緒について安定要綱が発足し、これが実効を挙げつついわゆる「再販花咲り」の時代に移行してゆき、小売はやっと購買力分散の平坦な市況への転移によって或る程度は救われることができるようになった。その矢先起ったのが「再販規制論」と称するいわゆる世論であるが、これは幸に昭和四十二年度中は陽の目を見ないですんだ。しかし新しい年には、必ずや何らかの形で再販規制が立法化するだろう。これが小売りにとって決してプラス要因にならないことだけは間違いない。

 いま消費者団体と称する勢力はジャーナリズムと結託して再販ぶちこわしに相当の精力をついやしている。そして小売薬業を乱売戦争に持ちこむことによって利益を挙げたスーパーマーケットや大型店は「夢よもう一度」という思いで、「消費者のため」の再販ぶちこわしに協力を惜しまない。再販が法的規制をうける前に業界自らの手で実質的ぶちこわしをやろうという企画も東京あたりでは再三試みられ、それに協力した小売薬業も全国的にすくなくはない。これが業界全体のアラシにならないことは仕合わせではあるが、法的再販規制は必須と見なければなるまいし、ことしは選挙の年だから「再販ぶちこわしは物価を抑制する」というトンでもない見せかけだけの嘘の論法で、野党特に社会党や公明党が大いにハッパをかけてくることも目に見えている。

 新聞もまだ再販については本当のことを書こうとはしていない。再販が「流通経済上の悪」であるという既成概念を再検討して再販規制が果して物価をさげ得るかをまじめに判断しようと考える政党はない。私見ではあるが、米以外の小売価格をいくらいじっても、それは物価政策には結びつくものではない。小売価格を操作することによって物価をさげようと思うなら、それは消費者米価以外にはないのであるが、「米価」については勇気のある発言は、社会党も公明党もなし得ないでいる。つまり票につながるか、つながらないかの問題で、小売薬業者は票田としての価値がないから無視されるのである。

 再販規制でわれわれがたとえ困ろうと、また再販規制で物価がさがらず単に小売業の窮乏や乱脈を招来したとしても(その可能性大)社会党にとっても公明党にとっても、その他の政党にとっても実損はないから、要するに票価値のない百六十万の小売業者は貧乏しちまっても構わぬという論理に近いのである。新聞にしても再販業者の小売の財布をつかみ出して、そのなかから金をもぎとってお客に分配するというバカバカしい物価論議をくりかえして平然としているのである。

 要するにわれわれ小売業界というものは、周囲のすべてがわれわれの加害者となり得るような頼りない存在であり、仲間である筈の卸やメーカーが大もうけをしていたときでさえ、乱売で身をきるような商売をしなければならなかったという、まことにムゴイ体験までして来ているのである。それでもなおかつ手管のうまいメーカーに心酔してさらにダマされつづける純情者もすくなくないし、小売だけの固まりから逃げようとする「会費拠出忌避者」も多いし、全くの話いい材料はわが業界にはないといってもよい。(続く)


 ヨーロッパ食べ歩き、遊びあるき 森山富江

 その二 今は昔、ペルシャの国

 正午から四時頃まで昼ねの時間ときき三時過ぎホテルをでたのだが車の窓からはいる風は、まさに熱風!海抜一〇〇〇米の砂土の上にたてられたこの高原の町は、エルブルズ山系の雪どけ水を運ぶカナートと呼ぶ水路が町の歩道に沿って造られサラサラと澄んだ水が流れている。

 バラの国と呼称されるゴレスタン王宮や十八世紀に建てられたと云うセパサラーモスクなどペルシャ風な、壮麗さと美しさに隣合ってバザール(市場)の物語りめいた迷路の数々。テヘランは不思議な町だ。四時!商店の開店と共に、暑さにうなだれた町も徐々によみがえり、ロータリーや公園の噴水も生きかえったように水を吹きはじめる、人々は涼をもとめて木蔭の水辺に集る。

 噴水のふちに腰をおろす者、手を組んだカップル、楽しげに憩う人々の群れで町はだんだん息づいてくる。同じような口髭をたくわえたペルシャ特有の顔つきをしたデカイ男達!たくましく陽に灼けた厚い胸からはムンムンするような体臭を感じるが実際には余り臭くはない。赤や黄の原色の染められた屋台の砂糖水はちょっと衛生的ではなさそう。

 チャドルと云う黒または黒っぽい色の布をすっぽり被った回教の婦人達!ヴェールからのぞく素顔は意外にあたりまえのひと…神秘な美しさを連想していた眼には薄汚れたチャドルはかなしかった。街角にある水飲み場の蛇口に口をつけ水をのむ子供達の破れたズボンが其の生活を語りかける。夕暮れの雑踏の中でパン屋は厚く広いマナイタのようなパンを焼いている。メリケン粉らしきものをこねて丁度餅のように焼きあげてあり喰べるとシコシコ香ばしくうまい。大きな板のように切ったパンを片手に胡瓜のお化けみたいな果物をかかえて、道ばたに腰をおろし喰べている男達、道路人夫ででもあろうか。

 果物屋の店先には日本の冬瓜そっくりの大きなメロンが山と積まれている。切るとカキ色の実に甘い汁がしたたり頗る美味しい、ドーナツの砂糖漬けのような菓子を皿に入れた子供が買ってくれとついてくる。ノーサンキューを連発するとやっとあきらめた様子でニヤッと笑う。群集にまじって歩くとジャポン、ジャポンと囁いてしげしげと顔をみる。一人で歩くには聊か勇気が要るようだ。

 町の標識や看板は全てペルシャ文字のこの町を見る時横文字の溢れた日本の町を如何に解釈すべきかとまどってしまう。暮れかけた町は右を見ても左を見ても車、車、車ベンツあり、ワーゲンあり、スバル・サンバーの小さい車体を一台見つけた時は驚いた。石油は我がものを持ち乍ら、車は外国製ばかりとは…ガイドの話しによればイランの中産階級の理想像は、カーペットのある家に住み、マイカーを持つことだとか、何か何処かで聞いたような話しだ。

 交通法規も何もデタラメにひしめいている車がお互に我勝ちにセンターラインをこえ追い越しすりぬける。すっかり暮れてしまった町は赤や青のイルミネーションに装をこらし、ようやく夜の賑わいをみせはじめる、車がホテルに近づくにつれこの街が遠くなってゆく。其処に見る光の聚落は、最早汚いバザールや、貧しい子供達の姿をかくした、美しくきらめくペルシャの町でしかない。丘の上から見る夜景は香港のそれに劣らず素晴らしく幻想と夢にみちているようだ。(続く)

 日本薬政連副会長増員

 旧?十五日東京で開会の日本薬政連正副会長会議で新たに左記副会長八氏を増員決定した。

 井出市蔵(大阪)天野順三(北海道)鈴木利平(宮城)沖勘六(愛知)藤本威徳(兵庫)稗忠雄(香川)大村良造(鳥取)四島久(福岡)

 副会長の増員は全国各ブロックの政治活動を考慮に入れて行われたもので、席上各副会長は、責任を以て各地区の強化をはかりたいと語っていた。

 =豆知識27 馬場正守

 ▼原子戦争に備えて
 中国も水爆実験に成功し世界の核兵器保有国は米ソ英仏中と五ヶ国になった。これに核運搬兵器としてのミサイルも同時に開発されているだろうから愈々世界の危機は更に近づきつつある感がある。さてこれに対して原子戦争薬剤の研究もすすみつつある様で米ソの現状を記して見よう。

 ▼アメリカ側
 アスピリンの様な錠剤を核爆発の十五分前に服んでおけば大丈夫という"ユートビアン錠"がある。これは一個十五セントでOK。この錠剤の内容はアミノエチルイソチウロニウム(AET)で予め家兎、白ネズミ、猿、犬に与えておくと四〇〇レントゲンの放射線を浴びせても死亡する率が低いが、投与しない群ではほとんど即死する。ただし人体での経験では悪心嘔吐それに血圧降下が起るといわれ、またその作用時間がわずか一時間しかもたないとの事である。

 ▼ソビエト側
 ソビエト医学放射線学会があげているのは、ニコチン酸、ウロトロピン、カフェイン、ウレタンの類である。その理由としてはニコチン酸は照射時に現われるヒスタミン類似物質と結びつき、また照射の結果起るニコチン酸欠乏に有効というわけ、五〇名の患者を対象に毎日〇・〇二グラムのニコチン酸を与えて放射線症の強い嘔気、嘔吐を除く事に成功している。またウロトロピンは四〇%溶液を注射するか一グラムを経口投与すると一般症状は好転する。一方またカフェインも照射後に与えて好成績を得ている。

 九州薬事新報社主催 第18回薬事年賀会

 恒例の本社主催、第18回薬字同冠者による『薬事年賀会』は、例年通り筑紫二十日会、県卸業協会、県医薬品小売商業組合、県薬剤師会、県薬事協会などの協賛により正月四日午後一時から市内第一銀行ビル、三鷹ホールにおいて二百七十二名の参加者を得て盛大に行った。

 当日は正月元旦から引続き好天に恵まれ、定刻よりやや遅れて開会、工藤県薬専務理事が司会して先ず、安河内九州薬事新報社主幹のあいさつに次ぎ、各界代表のあいさつは、尾崎県薬務課長、西海枝九大薬学部長、国松武田薬品福岡支店長、堀岡九大病院薬剤部長、大黒卸協会長が次々に、本年こそは重大な決意のもとに一致団結して薬業界の将来のために奮起すべき年であるとそれぞれ所信を述べ、四島県薬会長の音頭で一同乾杯、開宴し、宴なかばにして、日本俳画界の巨星であり、めでたく八十一才の新春を迎えた本社の社友阿部王樹翁より寄贈の自画自賛の色紙並に本年初めて多数用意された郷土史家として有名な梅林新市氏筆の色紙を申年生れの出席者全員に贈呈、和気あいあい裡に互礼のことばを交しながら、軈て須原、波多江、斉田三氏の音頭により一同はほがらかに「祝いめでた」を合唱、次いで万才三唱して昭和四十三年のめでたい、盛大な年賀会を二時半終了した。

九州薬事新報 昭和43年(1968) 1月20日号

画像  薬業一九六八(2) 隈 治人

 このような小売薬業界の現状で、日本経済の不況がどうの、こうのという巨視的問題より、薬業界自体の内部問題の方が新しい年の好、不況により大きな影響をもつことは明らかだと考える。だから私は英国のポンド再切下げが起ることよりも、再販のくずれることの方が小売薬業経済をよりつよくゆさぶるであろうと見る。一般からして見ればイギリスのポンド再切下げは大きな世界経済の問題で、くすりの再販はまことに微小で些細な問題にすぎぬかも知れぬが、われわれにとってはその価値は全く逆転するという見方をとる方がより現実的だと思う。

 再販規制のことはこのようにポンド価値の問題よりもより切実、あるいはベトナム戦争の終結よりもわれわれにとってはより直接的で影響がつよいといってさえよいが、この問題についての関心度の淡さ依然たるもので、業界はまさに大平ムードむきにできているという証明にもなるだろう。それは一朝一夕にしてどうにもなるものではないが、その再販規制という痛切な経済上の問題よりもさらにスケールの大きな問題がのしかかって来た。

 いうまでもなく医療用医薬品という名称の登場がそれである。もともと薬局などからクスリらしいクスリをもぎとろうとする動きは、アンプル事件を契機として医学界や国会あたりから目立って来たのであるが、この動きが世論を少しずつ培養して来たことも事実で、ジャーナリズムも朝日を筆頭としてこの動きに尻押しをしつつある。薬業界特に小売はこういう動きに無関心ではなくても、防衛行動を起そうという兆候や気力が微弱で目に見えない程度にジリジリと押されつつ経過する気配が濃厚である。

 むしろ薬業士会と称する薬種商の全国団体の方が、身近にしのびよる危機意識を強調して、とにかく真剣に何とかしようという動きを見せている。薬剤師の方が特に地方においてはそれよりもより無気力であるとの判定は妥当であると思う。力が弱くて根性のないものが敗残することは古今東西の自然の理であろうから、現状のままではわれわれが見すぼらしく敗退してしまうこともやむを得ないことかも知れない。しかしことここに至っては「匹夫といえども勇をふるう」という理によってもっと「結束の力」を一割でも二割でもつよめるということでなくてはなるまい。その一割か二割の勢力増強にだけは期待をかけたいと思うのが、この新しい年ではなかろうかと思う。

 医師会を見るのに、耳び咽喉科の如きは、処置科の引きさげで「保険医総辞退」までやるという。(実際には再診療の新設で収入はあがっている)これは一応回避されたけれども、耳び咽喉科の団体が事態収拾に当って厚相から或る程度の実利の約束を取り付けたであろうことは想像にかたくない。

 この耳び科の決起について、武見医師会長はにがい顔をしたと伝えられるが、日医自体の強大な動きは、総評、農協と共に日本政治におけるベスト3の圧力団体として、もはや動かすべからざる勢力をもつ。ムカシ陸軍イマ総評というが、その総評に負けない力を持つのが日医である。反武見派もいるが、とにかく結束し理論と財力とでグイグイ押してゆく。

 昭和四十一年度の医薬総生産五千七十億円のうち、薬局二千億、医家三千億として、健保の総医療費は一兆二千五百億円。その四割がクスリ代で五千億円。医師の医薬品原価は約三、三三三億円、健保薬物費は約五、〇〇〇億円その差益は一、六六七億円であるが、薬局の薬品原価は約二、一五〇億円、消費者価格は約二、八五〇億円でその差益は約七〇〇億円であるので、医師のくすりの差益は薬局の差益の優に二倍以上であると推定される。

 薬を売る稼業の薬業界の二倍以上のクスリの差益を健保で挙げているのが医師会だということになる。この算術にまちがいがあれば訂正していただきたい。医師がくすりの最大の販売者という状況は日本以外では見られない医療経済の後進性を示すことに誰も異存なかろう。薬剤師という国の免許をもつ資格者を大多数とする薬業界が、このような状況を拱手傍観してタメ息をついている図は、自他共に恥しいが、何としても「医薬分業」を薬剤師の手中に収めるという百年の悲願を達成する好機も同時に訪れて来た。まさに「千載一遇」のときというべきであろう。

 分業については内部的な悲観論も多いが、この際そのような弱気な傾向はひっこめていただき、先輩の苦闘の歴史に思いをはせて、とにかく全力を挙げてこのことと取組む必要がある。薬剤師会が任意加入の弱点を露呈していて、非加入者の評論家的な日和見主義のために、目にみえぬ物心両面の被害をうけている図も歯がゆい。薬剤師会の仕事の利益を享受できるのは薬剤師会員でなくてすべての薬剤師なのであるから、労せずして功を収める行き方も結構ではあるが、この千載一遇のチャンスにはすべての人が多少の不平不満をしのんでも、すくなくとも金だけは出すべきだ。ほんとうは金と智慧と力との三つを皆が出すべきだが、せめてカネだけは出すべきだと思う。

 戦後の民主々義は、政治経済における圧力団体の横暴による歪曲化をうんだ。そのことについてようやく一般の批判ももり上りつつあるようだが、」何としても圧力団体の力はつよい。こういう際には「物をいわない」者がいちばんみじめになる。金をもたない団体では何もできない。団体の力で闘うことがいちばん効果的であるということは、総評の賃金斗争や日医の健保斗争が事実を以て証明している。

 わが業界ではこの闘争態勢づくりはまことに複雑な諸因子によって障害され易いが、特にここで痛感するのは日本という「島国」の薬業というそのまた「島国」の、シンニュウのはいった自乗の「島国根性」が社会性を稀薄化し、小さなエゴイズムに歪み、視野を狭くしているということだ。だからデマやウソにすぐかき乱され、乗せられ、ずるいようで欺されやすく、大きくは強調はしないが、小さくはすぐセクショナリズムをつくりやすいということになる。

 いろいろ書けばキリはない。しかしともかくも新しい年は明け、おめでたい処か、たくさんの悪材料が当分の間はつづくことだろう。そういうなかで「医薬分業」への可能性のある闘いも本年こそ、真剣に着実に始められなければならない。タバになってかからねば必ず皆が皆負けるだろう。そういう自覚が果してどの程度実をむすぶか、注目される一年であろう。(終)


 =豆知識28 馬場正守

 ▼感情と胃を
 先に気から起る病気について述べたので今回はそのうちから特に感情に支配されやすい胃について書いてみよう。

 ▼胃の機能障碍
 胃の機能障碍には次のものがある。
 食欲に関するもの…貧食症、神経性食思欠如症、異嗜症。
 胃の運動機能に関するもの…胃弛緩症、胃緊張亢進症、胃痙攣、幽門痙攣、神経性嘔吐症、周期性嘔吐症、反すう症、急性胃拡張症。
 胃の分泌機能に関するもの…無酸症、減酸症、胃液欠乏症等、以上のものは独立して発生するものでなく多くは二つ三つが合併して来ることが多い。このうち一般に純粋に心因性(気から)に発生した機能障碍と思われるものは神経性食思欠如症、貧食症、周期性嘔吐、神経性嘔吐、反すう症等が考えられる。

 ▼神経性嘔吐
 おどろき、心身の疲労、食物に対する嫌悪などで嘔吐を起し易い。一般に二〇‐四〇才台の女に多く、神経系統の不安定な徴候がある場合が多く、この場合の嘔吐は普通の嘔吐の様に不快感を伴わない。ヒステリーの人に見られるヒステリー性嘔吐、妊娠の恐怖によって起る悪心嘔吐もこれに属する。又同様なものに周期性嘔吐がある。

 ▼神経性食思欠如症
 若い未婚の女性で先入観的に、または何にかのきっかけで食物に対し嫌悪するようになり、偏食で少ししか食べず、むりに食べると嘔吐して骨と皮ばかりにやせてゆく。やがては月経も止まり基礎代謝も低下し糖代謝障碍で体は衰弱してゆく。本症はノイローゼと云うよりも精神病に近い状態と考えられ精神病質者であることが多い。

 ▼逆流症及び反すう症
 嘔吐は悪心吐気を伴い腹の随意筋の収縮によるが、これに反して逆流は悪心吐気を伴わず、胃食道の平滑筋の収縮と逆蠕動により起り嘔吐中枢と云う脳の中枢に関係なく起るものと云われている。逆流の場合は特に乳幼児によく見られるもので呑みすぎ、食べすぎたりした時に口にもどすように努力を伴わずして食べたものが口に戻って来る。私も福岡県内のある山村でこれを聞いた。それは山村であるが故に、親達が山仕事、畑仕事で多忙でかえり見られない幼児が、親の注意を自己に向けるため?に食べた物を逆流し、それに依って親の愛情を得ようとしている。これが一件だけでなくその部落に数件見られた。

 ▼空気嚥下症
 一般に神経症的患者はまま高度に空気を嚥下する悪癖を有し、嚥下した空気はやがて腸内ガスとなり所謂ヒステリー性腹部膨満症の状態に到達することがある。これによって腸粘膜の血液循環障碍等をおこし胃内ガスや、腸の睥攣曲部のガス貯留によって上腹部痛、左胸痛、心悸亢進や左腹部、左側胸部、左肩、左上腹の疼通、乃至不快感を訴える胃心症候群や左結腸曲症候群等の疾病を起すことがある。

 ▼貧食症
 これは神経性食慾不振の逆で精神的感動等によって胃機能の亢進を起すもので甲状腺機能亢進症と異って新陳代謝の亢進は伴わない。

 ▼胃酸過多症
 胃液の最高酸度の高いものを胃酸過多症と称し、症状は胸やけ、おくびを主とする。原発性の胃酸過多は稀で多くは続発性で胃、十二指腸潰瘍、胃炎等に多くみられるものである。この胸やけの症状は低酸、無酸の場合にもこの症状を呈し、胃液酸度は必ずしも平行せず酸度とはあまり関係がない。

 ▼胃痙攣
 迷走神経興奮による平滑筋の痙攣もその一つの症状であり、胃、十二指腸潰瘍、胃炎、胆石、蛔虫、膵炎に随伴する場合が多い。

 ▼胃下垂症
 以上の様な胃の症状があるが、やたらに胃痛を胃の神経症として考えるのは危険であり、他に、ストレスとの関係、ホルモンとの関係、自律神経との関係もあるので慎重に処理したいものである。

 ヨーロッパ食べ歩き、遊びあるき 森山富江

 その三 アクロポリスの丘

 乾いた砂漠の都テヘランから約五時間、途中イスラエルのテルアヴィブに寄港、やがて青く光るエーゲ海の彼方にアテネをみる。南に海をいだき、北にアクロポリスの丘をのぞむこの町、あかるく楽しげな街並に、ゆたかな人々の表情、胸がいたくなるようなバザールの町をのがれて、ここギリシャの空と海は私達にやすらぎを与えてくれる。アテネ・ヒルトンの昼食はチキンカレー。ポロポロの外米のうえにどっかりと鶏のモモがのっかっている。あーもう頂けません。食塩をつけて喰べたキューリの何と美味! 四時から観光。ガイドさんはギリシャのひと。赤い水玉のワンピースにゴムのサンダルばき、黒いサングラスを胸元にさして……制服制帽の日本のガイドをおもい、聊か拍子ぬけしてしまった。

 民族色豊かな王宮前の衛兵は不思議なシャッポを被り、大きなチャップリンのような靴でパクン・パクン・パッターンと音をたてて、バネ仕掛けの人形のように歩く。本人は至極真面目な顔付きをしているので一層おかしい。

 観光都市らしく謂ゆる名所旧跡には、お土産をうる店とスナック車が必ずある。大きなバスを改造したような食べもの屋で、ジュースを頼むと生のオレンヂをヂューッと絞ってくれる。オレンヂの実を二つ買ったら二百五十円位とられた。冷く冷くひやした其の実は一皮むくと甘い香りがパッと散り異国の味がしみとおる。エクレア、シュークリーム、果物のいっぱいのったケーキなど、みんなつめたくしてある。

 アクロポリスをのぞむペンテリマンサンの丘で遠いギリシャの物語りをきく。ペルシャ、ローマ、トルコの侵略をうけながら尚強く生きのびた民族の歴史を誇りやかにかたる彼女の瞳はキラキラ輝いていた。夕暮れの風の中をアクロポリスにのぼる。之がアクロポリス!…何度も何度も自分に云いきかせながら、すべりそうな石肌の高い丘を何処までものぼる。

 遙かに仰ぐパルテノン!此処に古代が生きている。巨大な石の柱の頂きには、神話の昔がそのまま刻まれ夕映えをうけてそそりたつ女神の姿はかつての日のギリシャの栄光をしのぶか。高まりを風がよぎり、四千年の昔を想うには余りにも時が少い。

 何か大きな声で叫びたいような強い感動が身うちをはしる。今一度!イヤ、二度も三度も私はここに立ちたい。くれなずむ丘をあとに、感慨をのこしてバスはゆく。ホテルの夕食はスーブラキヤと云う魚の串やき、四角く切った厚い身を大きな串をもってたべる此の国独特の料理らしい。苦味の少いビールも久々に食慾をます。赤い照明が仄暗いバー、テーブルのキャンドルがかすかにゆらぎ、旅の第二夜は静かに更けてゆく。(続く)

 ドリンク剤条件つきで非課税決定

 自民党の税制調査会は旧臘二十三日物品税に関する事項の検討で『ドリンク剤に対する四月一日よりの課税は原則として変更しないが特定の条件に該当するものは非課税とする』ことを決定した。特定の条件とは医薬品である旨を明かに表示し、広告と販売姿勢を自粛し清涼飲料とまぎらわしくないようにする、薬局薬店以外では販売しないなどである。

 福岡地区安定協 一月例会

 福岡地区安定協議会一月例会は十一日二日市丸丈旅館で二時から、メーカー六社、卸七社、小売九氏並に地元から開局の戸田秀実氏が出席して開会した。

 当日の例会は、従来からあった二日市薬局と大賀薬局とが合併した「二日市大賀薬局」としての十二月二十日の新発足に伴う一部地元業界の乱れを検討するため二日市で開会されたのである。

 当日は小売側の当番で、先ず須原氏の開会あいさつ後、昨年末問題となったチラシ配布(大賀薬局外三店)についての経過報告、次いで、各地区の情況報告では、粕屋郡は特別の問題はないが、価格は非常に低い、宗像はただ博商がオール三割引、福岡はアラマキ薬局のチラシ配布が報告され、筑紫郡は大賀進出のため、周辺のつるや、きくや、船越薬品の乱戦状態などが詳細に報告され、地元の戸田秀実氏は「薬業界への批判のきびしい現状を自覚し、根本的に薬局薬店の在り方に目を向け、医療担当者として目覚めて頂きたいものと切に願っている」と、この問題について意見と苦衷を述べ、この事につき種々検討した結果、この種の問題には決めてはないが、話合うことから一歩一歩是正に向うより外ないとして、別室に関係者を招いて篤と話合い、今後引続き安定への努力を続けることとなった。

九州薬事新報 昭和43年(1968) 1月30日号

 一億円に近い予算 日薬全体理事会

 日本薬剤師会は全体理事会を一月十一日東京永田町薬業健保会館で開催、第一回学術大会についてなどの報告後、引続き75年記念行事、41年度決算案、43年度予算案並に事業計画案その他を協議した。

 当日の重要議題は41年度決算案、43年度予算案及び事業計画案であるが、41年度決算は歳入総額八八〇一万二五一五円、歳出総額八二六九万一三一一円で五〇〇万円余の累積赤字を解消した上、五三二万一二〇三円の黒字となっている。

 3年度予算は九九五七万九二〇〇円で約一億円近い予算計上である。事業計画は医療保険の抜本改正、製造承認基本方針等の諸情勢に対応して、医薬分業推進を中核とし、その他の関連問題で充たされている。即ち@医薬分業の推進A薬剤師職能と薬業経済B会の組織と活動の強化、の三本立であり、分業の推進では日薬内に調査室を持つ職能推進本部を設置して抜本対策に先行して整備を図ることになっている。内容はキメ細かい二十一の具体的項目があげられている。

 当日の報告中第一回学術大会と75年記念行事は大きな話題の一つであったが、式典には皇太子殿下の御臨席を予定しており、当日の授賞式は、日薬創立75年記念功労賞を設け、日薬発展に特に寄与した者に贈ることを決め、更に日薬創立75年記念賞は五十年以上日薬会員であった者に贈られるが、該当者は約二〇〇名、うち鳥取県の進藤百蔵氏(今年百才)は唯一人創立以来の会員、特別賞を贈ることとなった。

 法人化検討のため 日病薬会長会 一月十四日東京で

 日本病院診療所薬剤師会(会長=高木東大病院薬剤部長)では去る十四日東京永田町ヒルトンホテルで全国会長、理事の合同会議を開き、兼て懸案の同会の法人化について慎重検討した結果、対外的発言力を強化するとの観点から執行部案として四月の代議員会の提案することを決定した。会費は現行の倍額は必要との見込みである。

 福岡県薬正副会長会

 福岡県薬剤師会では、一月十七日二時から県薬会館で正副会長会を開き、二月一日理事会並に支部連絡協議会を開会するに当り、当面する左記諸問題について協議した。

 @九州山口薬学会準備について
 A九州山口薬剤師会、九州薬学会について
 B日薬75年表彰について
 C県薬社保講習会について
 D保健所法施行30年記念式典における公衆衛生功労者表彰について
 E麻薬相談員の改選について
 F社保医療協委員改選について
 G代議員会について

 充実した福岡県学薬会理事会

 福岡県学校薬剤師会は理事会を一月十八日一時半から県薬会館で開会、友納会長古賀副会長他理事十三名が出席した。

 開会まず友納会長は、開会あいさつに次いで本年度の活動並に各関連会議@42年4月日本薬学大会於京都A同年6月全国学校薬剤師講習会於名古屋B同年8月九州学校保健大会於宮崎C同年9月第三回学校環境衛生研修会於広島D同年10月九州山口大会於長崎E同10月県学校保健大会F同11月第17回日本学校保健大会於松山G同日本学校薬剤師大会について報告を行い、柴田理事からは全国学薬講習会出席報告があった。それより左記協議に入った。

 1、伝達講習会について
 四月開会する総会と併せ行うこととするが、詳細については常任理事会で決定する。

 2、43年度九州山口薬学大会学校薬剤師部会について
 久留米市石橋文化会館で開会されるが、その研究発表について従来通りにするかどうか検討した結果、時間を有効に使うために登壇発表の数を絞り、他は紙上発表を採用することなどを決めた。

 3、昭和四十四年度全国学校薬剤師講習会について
 中央より福岡県に於て開催の要望があったが、引受けるかどうか検討した結果、四十四年は福岡県学薬創設15周年でもあるので、記念行事も併せ行うこととし、引受けることを決定した。経費の面その他、四十三年度から準備に入ることなどを総会に諮ることとなった。

 その他では@第36回九州山口薬学大会についての協力方の要望が久留米の橋本理事から、A神谷理事からは今回流行の流感に対する対策について、B渋田理事からは後進地区のために県内統一事業などを行い、学校当局への指令を度々出して貰いたいと希望があり、C馬場理事からは、現在作成している「県学薬のあゆみ」の仮印刷物が配布され、訂正個所及び各地区の行事などの挿入方の依頼があった。

 次に県教育庁山下技師から高校定期監査(学薬について)の報告、次に文部省施設課が実施した公害調査成績を発表、当該担当学校薬剤師の協力が要望された。なお今回の流感は県下一円で三万五千〜四万(一月十七日現在)の学童が罹病、その内90%は予防接種をしていたことが報告された。

 それより、昨年十一月松山市で開会された日本学校薬剤師大会で日本学薬会賞を受賞した柴田伊津郎氏並に同会より感謝状を授与された早川政雄、四島久両氏を招待して和やかな祝賀の宴が催された。

 中島政雄氏研究発表 福岡市勤務部会一月例会

 福岡市薬勤務部会一月例会(第一五九回)を一月二十日(土)午後二時から市内丸紅会館で新年会を(エーザイ福岡支店後援で)兼ねて開会、約七十名が出席した。

 開会先ず堀岡会長は「本年の薬業界は、製薬、病薬、開局を問わず重要問題のある年と思う」と述べ、それより、@昨年九月厚生省発表の「医薬品の製造承認等に関する基本方針について」A医療保険制度抜本策試案B日病薬法人化の問題について説明があった。

 @については、その骨子としては医療用医薬品と一般用医薬品の区分・販売名の区別、製造承認の審査方針の明確化、副作用報告の義務化(新薬承認後二年間)、新開発医薬品の保護、薬価基準への早期収載などであるが、吾々の領域にこの影響が出るのは本年後半と考えられるも業界にとってはかつてない大問題である。

 Aについては、今後色々と修正はされようが、公式試案に始めてうたわれた医薬分業の推進についての日病薬の統一理念は「@分業は国民のためにとの考えでありAそれぞれの専門的知識により医療の向上を図りBあくまで技術分業でありC現在既に技術分業を行っているもの(約50%)はこれを他に廻すことなくDその他の50%を開局薬剤師の手におさめることについては全面的に協力する」ということである。

 Bについては、武田日薬会長は病薬に対して理解があるが、今回この問題が再燃したのは医療保険制度の抜本改正対策に対応する一つのあらわれとして出て来たもので、いかに互に協力し合っても吾々の利益を守るためには吾々自らがなさねばならないわけで、日薬も既に了承済であり、執行部で能く検討の上、代議員会に諮ることになっている。なお、今秋県薬担当で、九州山口薬学大会が久留米市で開かれるについて特に会員の協力を求めた。

 次いで「日薬代議員会報告」を福井正樹氏から、「甲表・乙表保険薬局の投薬収入比と調剤料について」と題し、中島政雄氏から病院薬剤師の調剤技術料新設を要求するために同氏自らまとめられた参考資料をスライドを含めて熱心な説明があり、次にエーザイ医薬本部阿野兼昭氏の「ユベラニコチネートについて」と題する講演があり、それより同所において年賀の宴が開かれ、福引などに打興じて六時散会した。

 =豆知識29 馬場正守

 ▼合成樹脂(プラスチック)の話
電線の被覆、食器、容器、ボタン、機械部品(自動車部品、電話器部品、建築材料等)文房具、玩具、麻雀パイ、時計の枠等々、わたし達の周囲は、プラスチックが一杯である。今回は、合成樹脂、次回は合成繊維をとり上げたいと思います。プラスチックは原則的には有機化合物であり大きい分子量のものか、または大きい分子量になり得るものから出来ており、最終状態としては高分子量で固形となっている。しかし製造中のどこかの段階では、流れることによって成形される。夫々の用途に応じて、耐熱性、耐寒性、耐圧性、耐久性、耐酸性、耐アルカリ性、気密性、比重、引伸性、衝撃性等が優れているものが利用されている。今日では次に記す十四種のものが出ている。原料と単量体(単体、モノマー)と重合して出来る重合体(ポリマー)を示しておく。尚食品衛生法、衛生試験法で、製造の不手際、形成の不良等でホルムアルデヒド、フェノールが検出されるものは、原料の関係よりしてお判り願えると存じます。

 1、フェノール樹脂
 電気絶縁性に良く、酸には強いがアルカリに弱い。塗料、接着剤等に使用、電機部品化学工業用材、建築材料の用途もある。

 2、尿素樹脂
 比較的耐水性に劣り、空気中の湿度でキ裂を生じやすい。木材接着剤、電機部品、日用品として使用。

 3、メラミン樹脂
 メラミン樹脂は尿素樹脂と似て、無色、不燃性であるが耐水性、耐薬品性に優れ特に耐熱性が良い。

 4、アルキッド樹脂
 無水フタル酸+グリセリン+パラフィン→アルキッド
 樹脂接着剤として使用又顔料と共に塗料とする。

 5、塩化ビニール樹脂
 電線の被覆、給油管、酸類の輸送管、化学容器の耐酸内張り、フィルム、シートに使用、家庭用の袋物にも良く使われる。

 6、酢酸ビニール樹脂
 接着剤、塗料として使用、次のポリビニールアルコールの原料となる。

 7、ポリビニールアルコール樹脂
 接着剤、送油管、ベルト等に使用。

 8、ポリビニールアセタール樹脂
 ポリビニールアルコール+R・CHOアルデヒド→ポリビニールアセタール樹脂
 軟化点が高い、電線の被覆織物の助剤、可塑剤、塗料、三重ガラスの中間膜とする。

 9、ポリエチレン樹脂
 比重0.92で合成樹脂中で最も軽く、耐水、耐酸、耐アルカリ性大である。ワックスの代用、高周波電気絶縁体、容器、パッキン、シート、包装用紙とする。

 10、ポリスチレン樹脂
 ベンゼン+エチレン→メチルトルエン→ステレン→ポリスチレン樹脂
 高周波絶縁体、合成ゴムの原料となる。透明容器として家具、日用品、玩具となる。

 11、クリル酸エステル樹脂
 織物の仕上げ剤、接着剤、塗料、電線の被覆、三重ガラスの中間層とする。

 12、メタクリル酸エステル樹脂
 装飾的日用品、航空機の窓ガラス、有機ガラスとして有名。

 13、ケイソ樹脂
 塗料、グリース、潤滑油、絶縁油、拡散ポンプ、パッキング等に使用する。

 14、ポリプロピレン樹脂
 衝撃に強く、耐熱性もあるので哺乳ビン、学童用水筒の本体に使用される。

 ヨーロッパ食べ歩き、遊びあるき 森山富江

 その四 ウイーンの町の物語り

 午後のウイーン空港はやわらかにかげる日射しのなかでソフトな空気に包まれている。アテネから飛んでくると一足とびに秋を迎えたみたい。ホテルに旅装をとき町へ出る。

 観光馬車が鈴の音をふりまきながらパカパカ走る町はすべてがこじんまりと落着き、静かな屋並の裏通りにも古き良きヨーロッパがある。車の往来のはげしい交差点は地下道になり、エスカレーターで降りまたエスカレーターで向側へ出る。この地下のロータリーは中央に大きな円型のスナックをもち、周囲はズラリと商店、綺麗な娘さんのいる化粧品店でヘヤトニックを買う。最初カユミをとるもので頭につけると云うと、シャンプーを出して来たのには弱った。

 然しドイツ語の話されるこの町は何となく親しみ易い。スナックのカウンターでケーキをたべる。あっさりした甘味のクリームが舌にとけ、果物がたっぷりのっている。隣りでホットドッグをパクついている青年、熱くておいしそう…しまったあれにすればよかった……町に灯がともりだすとソロソロ店はおしまい。裏口からドレスアップした売子達が楽しげに肩を並べて出てくる。オーバーあり、ストールあり、…日本の常識では判断しにくい営業方式だが表戸に鍵がかかっているだけで店内は美しい照明もそのままに、夫々の個性的な姿を誇るかのように晴れやかに飾られている。

 冷い夜気の中を三々五々、ウインド、ショッピングをたのしむ人達が流れる。夕食に間に合うようにバスにはいり、私もドレスアップするかなとトランクをゴソゴソ一張羅をひっぱり出す。光ったアクセサリーがひとつ欲しいなー…

 適度に温められたディナルーム、黒いタキシードの楽士が太ったおなかをゆすりながらヴァイオリンをひく、荒城の月のメロディのなかでツーリストの日本人達は暫しふるさとを想う。

 翌朝、オーストリア王朝の女傑マリア・テレサの夏の宮殿シエンブルン宮をみる女権華やかなりしかつての日をまのあたりみるおもい。燦くシャンデリアと金の装飾、豪華な調度の数々、天井一面の壁画はそのまま彼等の物語りか、彼女の十一人の子供達の姿の中に幼き日のマリーアントワネットのあどけない面影もあり興味深い。ベルベデーレの庭園にまたまた驚きの目をみはりながら、午後からは青くゆたかなドナウをのぼり、ウイーンの森へ!

 のぼるにつれ聖ステフェン大寺院の尖塔が遠く輝く。この年新しくとれたブドウ酒をのませる地酒屋のようなものが何軒もあり目じるしのように青い松の枝を軒先に吊してある。健康な雰囲気をもつバーで唄いかつ呑む処らしい。賞味させてもらった一杯のブドー酒は意外に強い!

 モーツアルトやベートーベンがそぞろ散策したと云う小径は今もなお静寂の中に白く何処までもつづいていた。丘の上の展望台にあるレストランでアイスクリームをたべる。生の果物を細かくきざんだものが沢山はいっていておいしい。日本のように果物で上を飾るのでなく、実際においしいように中にたっぷり入れてある。

 夕やみが近づく頃ホテルに帰る。向いのマーケットで紫色のアンズと西洋ナシを一個買う。アンズは百円程で七つもある。西洋梨は香りが強くまるでおしろいをつけた果物をたべるようでとても頂けたものでないが、アンズは手できれいに皮がむけて其の実は薄い黄色をおび甘く軟かい。

 今宵のディナーは鶏肉の揚物、それはよしとしてウイーンの人はお菓子好きなのか昼も夜も食事のあとには必ず大きく切ったケーキを出す。これが何とか夫人の考案したお菓子とかで、カステーラの台のあいだに幾層もクリームがぬってあり上からチョコレートがかかっている。たっぷり二人分はありそうなデザートをまえに食傷気味の胃は目をシロクロ、お茶漬けとタクアンが無性に恋しい。今夜は目刺しの夢でもみたいものだ。(続く)

 福岡県薬剤師会 歯科医師会懇談

 福岡県薬剤師会では、日薬の日歯医との懇談にもとづき、県段階での懇談会を一月十七日五時から福岡市内一条旅館において開き、県歯科医師会からは正副会長含め幹部五名出席、県薬からは、四島、長野、岡野の正副会長並に工藤専務理事、中村社保担当理事、安部薬局委担当理事の六名が出席して、和やかな懇談の結果、県段階の歯、薬協調の線が打出された。今後は各支部、部会など地区的な両者懇談を実施する段階となった。

 全商組連主催 小売薬業経済講習会 2月14日福岡で

 全国医薬品小売商業組合連合会では予て計画中の小売薬業経済講演会を二、三月中に開催することとなり、東京、北海道、東北、中部(名古屋)、近畿(大阪)四国(松山)、九州の各地区で開く予定であるが、九州地区は二月十四日福岡で開くこととなった。講師は田島義博氏である。

 福岡県安定協 一月例会

 福岡県安定協議会は十二月を休会し一月例会を二十五日一時半から県薬会館で開会、小売側六氏、卸側二社、メーカー側は製企会五社、他に乳業四社と特に荒川(ノーシン)の出席があった。

 当日は卸側議長となり、先ず各地区情況報告に始り、福岡地区を除く他の三地区は特別な変化なしと、報告された。福岡地区は昨年末にはチラシが相当出たが現在はおさまっている。二日市問題は組合の努力にも拘らずその後硬直化している旨報告があった。

 次に家庭薬は一般に安値、特にノーシンなど甚だしくも五掛けで売られている地区もあるので、厳重メーカーに申入れを行い、又乳業メーカーへは、産婦人科医院への特殊サービスから、これが薬局薬店の値くずれの原因になるおそれも充分考えられるので、特に乳業メーカーよりその実情を聴取した。

 次に最近二、三の地区で歯科医師のグループによる抗生物質の一括購入が現われているが、この件については分業の進展を阻害する行為として既にメーカー側はその旨了承の上その阻止に協力している問題であるが、卸の末端でまだ徹底していない面がある。この問題は薬価とも関連があり、薬価の切下げにつながり、いづれはメーカーの首を絞めることになりかねない問題であるので来る二十九日に開かれるメーカー、卸の代表者の集りで更に協議是正するよう努力したいと卸側から発言があった。尚二月は二十六日同所で開会することを決め当日の例会を終了した。

 支部別保険調剤調査票 昭和42年12月分 福岡県薬剤師会

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