通 史 昭和36年(1961) 日薬−県薬−市薬
九州薬事新報 昭和36年(1961) 8月10日号

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 薬界◇◇随談

 ▼医師の保険医総辞退、!自民党公約実施促進の旗をかかげて迫り、政治問題化して政府自民党もこの解決に奔走、労働諸団体もこの回避を力強く要望し国保側の自治体も動き一日がどうなる事かと心配していた。やっと解決の緒につき総辞退決行を中止し政府は保険医療の全面的検討を含むものを飲んで中止になった事は国民として誠に喜ばしい。

 ▼保険薬剤師も総辞退にと道連れの袖を引きあひも有ったが、甲表採用の病院は辞退の意志がなし、若し甲表病院よりの処方箋が出廻ったら何んとする。日薬の通達遅きに失する憾みあり。

 ▼北海道での日本薬学大会盛会に終る。次は秋十月熊本での九州大会、祭り気分でなく真剣な討議を望んでいる。開局者も薬学会の貴重な報告や発表を聴と共に質問に立つ勇気があって欲しいものだ。だが目下の開局者は経済問題に追はれ勝ちだ。

 ▼東京では覚醒剤の代用品として催眠剤にコーヒーを飲んで一時の興奮状態に陥いる連中が多くなり、要指示薬毒劇薬の催眠剤が相当に流れていると当局は薬局の取締りに乗り出す?と日刊紙が報じている。

 ▼保険の調剤技術料は一円の値上げ、五円未満は五円に六円から九円迄は五円に切りさげられる。損をする様な厄介な代物を背おひこんだ悪計算である。

 ▼自毛染や家庭薬が物価の値上げを理由に値上げしだした。末端小売屋では消費者が承知せず夫れだけ負けさす。夫れだけ小売薬局の利巾は亦々少なくなる。(GT生)

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 福岡市薬勤務部会 第十一回 総会 竹下工場ビール園

 福岡薬剤師協会勤務部会第十一回総会が七月廿九日アサヒビール竹下工場内ビール園で開催され、出席者六十余名、午後二時呉服町停留所から貸切バスで竹下アサヒビール工場に向い、約四十分間同工場見学の上ビール園に於て総会開会。

 松村会長の挨拶、次いで来賓県薬協四島副会長のユーモアたっぷりの祝辞があり、幹事によって庶務会計報告がなされ異議なく承認。それより同社の色と薫り鮮かな生ビールによって開宴、ジョッキを重ねるにつれて漸く微くん談笑、一同は和かな一ときを過して五時閉会バスで帰路についた。

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 薬界短信

 ◆季節の手帳主催若杉山植物採集登山会=季節の手帳愛読者大会として八月八日若杉山に植物採集を兼ね登山会を催した。最終の指導者に福岡植物友の会員清水正元(九大農学部栽培教室)駒田暢男(福岡気象台)安部郁郎(福間町上西郷小学校教諭)の三氏を迎えて意義ある一日の清遊が行われた。(詳細次号)

 ◆大黒清太郎氏表彰さる=先に北海道札幌市で日本医薬品卸業連合会満二十周年記念大会が盛大に開催されたが、記念して四十四名が功労者として表彰された。九州では福岡市の大黒清太郎氏、門司市の鶴原誠蔵氏(物故者)の両氏であった。

九州薬事新報 昭和36年(1961) 8月20日号

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 薬剤師生活 五十年の回顧(1) 礒田秀雄

 ◆少年の頃から医薬分業の教育

 ▽…わたくしの亡兄藤喜三が九州薬報の主筆として毎号医薬分業えの侃愕の論陣を張っていたのは私の中学二、三年の頃であった。私は毎号これを精読、医と薬とは分離せられねばならぬことを多感な少年時代から脳裡に叩き込まれてきたわけであった。

 ▽…熊本の九州薬専に入学したのが大正七年、在学中に学校で同窓会の会合があって先輩諸氏が参集しているのを?々目撃したが、見れば前垂れ掛けの薬剤師が幾人も数えられるのを見てこれでは社会の人が薬剤師を医師と同格には見ないだろうし、医薬の分業の実施も覚束ないだろう。医薬分業の実現へは先づ薬剤師の社会的地位の向上、社会からの信頼感の獲得が先づ達成されねばならぬだろうと考えたものであった。

 ◆開局と同時に 薬剤師PRへ

 ▽…大正十年九州薬専を卒業すると家庭の事情もあって直ちに薬局を開設した。貧しく育った私の薬局だから別に資金があったわけでもなしささやかな薬局であった。その年の七月、福岡市開局薬剤師会の設立総会があったので出席したところ開局早々の私が役員に選任された。事の意外に驚いた私であったがこれが実に私の薬剤師会役員生活の始まりであった。当時の薬局数は三十七軒であった。

 ▽…翌大正十一年福岡市にコレラ病が流行し開局薬剤師会は消毒薬の調製を担当することとなり残暑さめやらぬ九月、橋口町の福岡郵便局跡の空家−今の電通ビルのところ−で連日汗みどろになって昇尿水の調製に従事したが、これも薬剤師の対社会へのPRと心得て開局会長内田嘉一郎氏の指図に従って敢行したものであった。

 ◆その頃の県薬剤師会

 ▽…このころの薬剤師会は中央に日本薬剤師会があり地方には道府県支部があった。福岡県では日本薬剤師会福岡県支部と称し、支部長は九大薬局長酒井甲太郎氏が大正九年日本薬学会の大会を福岡県で引受けその開催を控えて過労のため、久留米市の高尾薬店の店頭で斃れたのでその跡を襲って就任したのが江口昨氏で、副支部長は本村己之吉氏、理事はたしか森善三、井上吉兵衛、それに亡兄藤喜三の三名で事務所は本村薬局(現在の九大正門前鶴原薬店)に設置されていた。

 序でに識しておくが日本薬学会大会の福岡県での引受け開催はこの大正九年が始めてで、当時県下の薬剤師会員から五十円の資金をカンパし九大医学部で開催された。酒井氏の葬儀は大会終了直後万行寺で盛大に執行され長井長義、丹羽藤吉郎両博士などが参列されていたのを覚えている。酒井氏は九州薬専の講師でもあったので九州薬専の生徒総代として私は弔辞を朗読したことを記憶している。

 ◆薬業週報九州版を担当

 ▽…その頃の薬業新聞として最も羽振りをきかせていたのは大阪の薬事日報、東京の薬業週報、福岡には明治二十三年六月創刊の九州薬報があった。亡兄藤喜三が九州薬報主筆を辞任したのは大正七、八年頃ではなかったかと思うが、その後薬業週報の九州版を担当したものの薬局が多忙のためその責を果たさずにいたので私にその責を持ちこまれ、昭和十二、三年頃から私が薬業週報の九州版担当を余儀なくせられ、私は毎週通信を送らねばならぬのでいろんな会合にも出席せざるを得ない破目となり薬局を放擲して出歩いて許りいると両親から小言を頂戴していた。

 ▽…血気盛り二十四、五歳頃の記者生活、それは又とんだ波瀾を巻き起すことにもなったのであった。

 ◆江口薬局長の二枚舌問題

 ▽…薬専卒業者の大部分は数年を官公立病院に勤務するのを常とした。一つには調剤や製剤の実習習得と一つには就職口待ちのためである。九州には長崎、熊本の両薬専があるので九大薬局には薬局勤務希望者が殺到し、そのころ月給二十四円の調剤手は欠員がないので一年或は二年無給で働かねばばらなかった。

 そのころ北海道、東北方面は薬専が全くないので東北大学の病院薬局では薬剤師の勤務者がいないので己むを得ず薬剤師でない女学校卒業者を薬局助手として採用し調剤に従事せしめていた。これを見た江口九大薬局長は無給の見習薬剤師をそのままにして女学校卒業者を助手として採用し、その月から月給十五円位を支給していたので無給の薬剤師連中は不平を私のところへ訴えてくる。そこで私は江口薬局長を訪ねて非薬剤師の助手採用を中止し無給薬剤師への給与支給方を懇談したところ快よく承諾してくれた。

 ここまでは極めて平穏であったがその後助手採用は全く改められず、遂にこの方針は変更されないと言明されたので私は薬業週刊紙上で江口薬局長の二枚舌を攻撃する火蓋を切ったのであった。今考えれば少々無茶だったと思うし、先輩への礼も失していたと思うのだがそこは若い血の溢った頃でもあり、そして通信記事入手難のためでもあったのと思う。江口薬局長との論戦は一ケ月以上も続いたと思う。この闘争は遂に後藤九大病院長の耳に入り「非薬剤師の助手採用調剤罷りならぬ」と言う厳命が下り江口薬局長の敗退となり私は溜飲を下げたのであった。

 ◆内田会長と喧嘩して凱歌

 ▽…破邪剣制の新聞を握って血気に燃えていた私は当時の開局薬剤師会長内田嘉一郎氏と一戦を交ゆることになった。事の起りは当時処方箋を盛んに発行していた逓信省簡易保険健康相談所では日頃発行処方箋に対する調剤の低額交渉を内田開局薬剤師会長に行ったところ、内田氏は当時調剤協定薬価一日分十五銭のところを内密に十二銭で行うこととして独占の契約を行った。開局薬剤師会は調剤薬価の協定を目的として結成されたものであるのに会長が秘かにこれを破って廉価調剤をすると言うのだから会員の憤満は当然であった。

 当時健康相談所は蓮池町にあって蓮池町電停から大学前電停まで一区一銭五厘の乗車賃金であったので、その往復分三銭を十五銭の薬価から差引くので一日分十二銭と云うわけであったので、私は週報紙上を藉って内田会長攻撃の火蓋を切ったわけであったが、この事件は当時の某薬品取締官が仲に入って、「内田氏は将来一切公職につかないと云う条件付」で手打ちとなった。私は別にそんな条件や内田氏の引退を目標にしているわけではなかったが、それから以後簡易保険の処方箋はひろく一般にゆき渡ることとなったので私は満足したのであった。

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 薬界◇◇随談

 ▲毎度本欄で紹介した千葉大薬学部教授宮木高明薬博「週刊読売」(八、十三日号)近藤日出造氏の見参記「やあこんにちは」の対談は興味が深い。「新薬あさりつくして草根木皮へ」「しろうと薬で手遅れの危険」「ビタミンA・Dの取り過ぎは有害」「回春は薬とムードで」「薬草なめた先人の勇気に感心」等総ゆる角度の質問が商売家をはなれた薬の問答で肩がこらない読みものである。

 ▲政界をゆさぶった保険医総辞退問題は日医、日歯、自民党三役、瀬尾厚相の三者会談三十一日に急転して総辞退中止となる。天下の為め甚だ喜ばしい事だ、医療懇談会を設け採決強行等はせずあく迄話会いの場とする処に期待がかけられ、医療関係者一〇名(医五歯三薬二名)と支払、公益側一〇名が予定され、医療費値上げ医療保険等多年の諸懸案が検討され其の結果を中社保医協議会に諮られる仕組みとなる。

 ▲旧制度医博の多量発表に世人は注目しているとき、三重大医学部の博士審査を繞って面白くない問題が起って司直が動き出したと報導されている。

 ▲小児マヒ九州で猛威をふるっていたが生ワクチンの御蔭で下火となっている事わ喜ばしい。

 ▲小児マヒの特効薬として持てはやされている「ガランタミン」を含んだ植物が種子島に観賞植物として栽培されている事を地元の人が発見。国立衛生試験所に分析を依頼した処ガランタミン〇・一三%含まれている報告が来たのでこの亜熱帯植物「ショウキラン」を大々的栽培しょうと計画されているとの事だ。

 ▲十三日午後七時NHKA放送医学の時間に久方振りの薬学放送の一つは東北大医学部教授の岡崎寛蔵薬博の「薬剤による医薬品の効力の持続性」。他の一つは東大薬学部教授の浮田忠之進薬博の「ヌクレオタイド」の作用について核酸ATP複合リジン等により代謝結抗剤癌増殖抑制剤等に言及した。

 ▲北海道の薬学大会盛会に終る。北から南からのテレビに熱い会場からぬけ出しての観光や宴会が賑やかだったと「北から南から」へ報じている筆者は惜しい哉視聴していない。

 ▲北海道大会での各薬大同窓会は大小様々で開かれ某薬大は四百五十名で翌日の大会パーティの出席者より遙に多かったのも有ったと云う事を聴いた。

 ▲東京に居る伜は、名古屋や京都の大会にも出席し、今回の北海道の大会に出席したが盛況であったと言っていた。特に朝夜は非常に気で快適指数で喜んでいたが帰りの列車の混雑には全くうんざり閉口したらしい。(GT生)

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 挟子

 ▲先の参院社労委視察団の大阪におけるSMその他の薬業事情についての報告並びに決議内容は随分厳しいものであり、又あまりにもダラシない当局の取締状況が批判されているが、厚生省としても具体的に摘発された以上何とか結末をつけねばなるまい。薬局でないものが堂々と○○薬局と看板を掲げ、又SMの一隅に存在する薬局に調剤設備も試験器具の備付けもないのに手続きだけはふんだ。公然認められている薬局だそうだ。そこらの正直な開局者はこんなのを何んと見るか……

 ▼大阪府の薬務課に今年一〜六月の半年間に薬局廃止局数が六七件あったそうだ。その内▽一般販売業への転向が一五▽薬種商えの転向が一〇▽経営不振完全廃業が七、あったそうだ。これ等の現実は何を物語っているか、能く能く考えねばならぬ問題ではあるまいか。

 ▼来年の参院議員半数改選行事も十ヵ月後に迫った今日、業界でも考えねばならぬ時が来ているが、今度は最低四〇万票が必要だといわれている。処が前回の高野氏の場合から考えても剤界だけの票は二〇〜二五万票位であろう。そうすると候補者自身の得票が一五〜二〇万票が必要になる。余程の人でなければならぬ。薬学薬業各界は勿論のこと、その他の面においても相当な顔でなければならぬ。剤界人では一寸むつかしい感じを与える。そうすれば地方区選出候補か又全国区ならば剤界の理解者を応援する方法以外にはないか。心淋しいことである。

 ▼福岡県より兄貴分である兵庫県薬国保では、先の医師団による医療費値上げの影響を受けて、保険料を平均二五〜二六%引上げることになったそうだ。無理のない事かも知れぬが、福薬国保では値上げなしで進むことになっているのは結構なことである。直接指導者の四島、工藤両氏の手腕に負う処も大きいようである。

 ▼日刊紙の報ずる処によると福岡県の鵜崎知事は前川衛生、戸谷民生両部長に勇退を求めているそうだ。理由は知事に非協力的だということ。鵜崎知事は日本唯一の革新知事だからと批判している人もある。

九州薬事新報 昭和36年(1961) 8月30日号

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 福岡県校剤会 理事会

 福岡県学校薬剤師会では理事会を八月十七日午後二時から薬剤師会館で開会、正副会長外理事九名出席、外に県山下係長列席の上次の報告並議題につき協議した

 (1)日本薬学大会校剤部会出席報告(早川会長)
 年々出席者増加、本年は約三百、特に女子が多い、昨年迄は必置制の意慾もあったが今年は一応安心か、研究発表はなかった。

 (2)九州学校保健大会出席の件
 熊本市において九月十六〜十八日迄開会されるが、本会から五名(早川、友納、矢野、神谷、吉柳)出席を決定、なお各支部からは自由出席。

 (3)第十一回全国学校薬剤師大会出席と提出協議題について並に第十一回全国学校保健大会出席、青森において校剤大会は十月十四日、保健大会は十五〜十七日迄開会、友納副会長出席と決定、協議題は八月廿五日迄に各支部より提出し本部においてこれを整理する。

 (4)九州山口薬学大会校剤部会研究発表について
 次の通り決定
 ▽田川地区における移動衛生化学試験
 田川 側島希允氏
 ▽山水利用プールの管理の一例
 遠賀 石橋国利氏

 (5)理事増員の件
 校剤新設地区代表者会(九月上旬)開催後とする。

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 薬剤師生活 五十年の回顧(2) 礒田秀雄

 ◆紛糾を続けた県薬剤師会

 ▽…大正七〜八年の第一次世界大戦を中心として我邦は好景気時代が続き所謂「成金」の蔟出、九大病院前の薬局の十数軒にも殷賑時代がきた。当時大学病院と云へば西日本には九大だけであったから好景気で病気と云へば遠くは満州、朝鮮、台湾、上海から、近くは全中国全四国全九州から診療を求めて九大に集ったので溢れた患者達ちは病院前の旅館にも溢れ所謂九大特診事件を惹き起したのもこのときである。

 病院前の薬局も患者殺到、調剤は三ヶ月分、六ヶ月分、大楓子油のカプセル詰め三ヶ年分の投与もあると云う有様で俄に人を雇って昼夜兼行でカプセルに詰めると云う、今では想像もつかぬ繁昌振りを示したが昭和九年の経済パニックで一ぺんに形勢?倒、九大特診事件の摘発で九大も俄かに形成急変と云う次第と相成った。九大前に薬局を開いていた本村巳之吉と内田嘉一郎の両氏は事毎に対立し犬猿啻ならぬ間柄であった。この犬猿啻ならぬ両御大が一方は県薬剤師会の副会長一方が市開局会長だから同県の薬剤師会内が円満であろう筈がない。そしてその余波も暫らくは続いていたが今日では両御大はもとよりその両派の取巻連も殆んど故人となっているので今では昔の語り草でしかない。

 ◆代議員選挙で県薬の大揉め

 ▽…その頃‐昭和十二年の晩秋、日薬代議員一名の選挙が郵便投票で行われたことがある。御本人達は別にさして気にも留めていなかったらしいので取巻連によってか柳河の江口又一郎、久留米の水田栄両氏で投票の競合いとなり九大薬局でその開票が行われた。私は薬業週報記者の資格で開票場に入って実際を見たのだがあとで落選した水田派から開票に不正ありとして同派の人々は一斉薬剤師会奪回の手続をとるに至ったがそこに至るまでには怪文書が県内に乱れ飛んで剤界の前述を憂えしめるものがあったし、その後も事毎に紛糾が続いていた。

 ◆剤界の至宝白水象次郎氏

 ▽…福岡県薬事行政を多年に亘って掌握し地方技師から警視庁技師に昇進退官した白水象次郎の存在は福岡県の薬業界を語る以上は書き洩らされぬ事項であろう。一警察官を振り出しに福岡県の薬事行政を掌ること三十余年、透徹した識見、卓越した手腕、おそらく我邦薬剤師界を通じ斯る偉材は将来共輩出されぬのではあるまいか。昭和十三年であったか薬剤師法、薬剤師会令、薬品営業並取扱規則改正の議起るや薬剤師法の完全を期して「薬剤師法完成運動」を提唱、自ら陣頭に起って県下の薬剤師をけっ起させて運動を開始せられた。