通 史 昭和35年(1960) 日薬−県薬−市薬
九州薬事新報 昭和35年(1960) 3月10日号

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 博多ぶり二∞加 薬の乱売

 「東京池袋の薬の乱売はどうかいな、三共と三協が競争で九割引迄しよるげなばい」

 「そうたい、困った事いなったなあー、皆が話合いして定価ば守ったな、よかろうとこい」

 「これがほんなヤッカイ(厄介−薬買い−薬界)の事いなっとる」スハラ

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 薬界◇◇隨談

 ▲池袋乱売は全国的の問題で波及力は大きい。一方は韓国人一方は日本人だとの歌い文句もあるらしい、兎に角この乱売の根源の一つに生産過剰がある。薬の乱売は報導陣には良い、特種日刊紙も週刊紙も取りあげ二十八日号「サンデー毎日」は「おクスリ東西安売り騒動」二十二日の「週刊文春」特別レポート「くすり九割引で売ります。池袋の日韓安売り大戦争陣中報告」は三共や三協の局地的問題ではすまされない。薬業界決戦死斗の場である。

 ▲理化学系学科の大学への女子進出は近来めざましく九大では文科の次が薬学科である。全国の薬大でも其の率で女子受験生がわんさとおしかけている。斜陽の薬局とはこんなに良い職業に見えるだけ有難い。

 ▲日薬第十三回の通常代議員会は二十四〜五の両日東京の薬業永田町会館で開催。九十一名中八十一名が出席。福岡の長野義夫氏提案の「薬事法改正案の早期国会提出」に関する要望動議満場一致前年事業報告に関して多数の質問や要望に花が咲いた。

 ▲薬事法改正案では全薬剤師の待望と最もかけ離れた感じのする答申書を中心に論議され、薬剤師に類似する名称に薬業士は該当するか、薬局の距離制限や薬剤師に非ざるものの開局等を中心に論議が斗はれた。

 ▲役員改選は雨か嵐かをはらんでいた。だが大勢は薬事法改正通過を見る迄現状の儘に置くの論が大勢を支配した。特に九州、関東、東京、東海方面に其の声が強かった。詮衡委員会の結果も当然現状の儘とする事を協議会の形式の会場に報告、本会議を開いて投票で現役員たる会長に高野副会長に可児、竹中の各氏を選任した。

 ▲高野参議社会労働委員会で薬品乱売混乱は不公正な取引方法に該当しないかと喰いさがる。各地の激甚の地区を公取委で調査せよ。

 ▲町の噂では薬事法改正の答申で薬剤師は一歩後退、種商一歩前進、六月中旬、別府で開かれる全国大会は祝賀会であるとの噂もある。

 ▲ジャーナリズムの波に乗りテレビにラジオに日刊紙や週刊紙で大きく取りあげられた池袋駅西口の薬の日韓合戦は今でも続いている。熱がさめたか一頃の様ではないと云ふ。筆者見学の際は三共が店頭に五人の客、日本側の三協総本店が十余名つめかけていた。三共ではチェーンものと云う痔坐薬のエフレチンを求める客に販売していた。

 ▲二十七日は激戦地池袋の豊島公会堂で「医薬品の危機を守る全国大会」二千人収容が通路にあふれ三千名は入場していたものとふんでいる。来賓厚生大臣や高田薬務局長他関係の大物の名を張り出してはあった。厚生省から竹下企業課長が何んだか判らん挨拶をした。中山福蔵(前参議)氏上原参議の激励の挨拶があり、上原氏が流通機構の問題に触れると会場から大正こそ元凶の野次旺んであった。各地区代表の激励の辞あって力強い宣言決議があって盛んな大会の幕は静かに降りた。(GT生)

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 熊大薬学部長に 加来天民氏決定

 藤田部長の停年退職による後任部長の選挙は二月二十六日行れたが、加来天民教授に決定した。氏は第五回の熊本薬専卒業で大正十年京城医専の助教授を振出しに北京大学教授となり、終戦後二十一年母校教授に迎へられ、その間薬学博士の学位を得、二十四年に熊大薬学部教授となり薬効学を専攻としていた。年齢六十四才で山之内製薬のアルバーは氏の研究になったものである。

九州薬事新報 昭和35年(1960) 3月20日号

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 薬界隨談

 ▲薬の濫売!!薬は正価で買うものでないとの常識の最近だが、最近一流の某日刊紙の経済欄でこの薬の価格について原価に何割をつけた価格が正価でメーカーがおしつけるものではないと論じている。

 ▲薬事法改正答申案でメーカーは法に広告規制が表現される事を極度におそれていた。勿論最近のマスコミでは弱電器、化粧品、証券界が良い旦那である。

 ▲筆者が去月上京の機に方々のSM乱売店を見て廻った。押すな押すなもあるが左程の処もある。最近開局者の中には先生と呼ばれて喜んだ時代も有ったが今の心境は商売人だから店主でも大将でも旦那でも良い実の有る事を取りたいとこぼしていた。

 ▲最近厚生省で多数の不良薬品メーカーの聴問会があった。「週刊新潮」はこの問題を取りあげている。薬品の値が崩れ出すと時には街に不良品が出廻る。監視は国民の為大いにやれ。

 ▲SM店舗の一角を借りて個人販売で一薬剤師が登録し日も経たない数日後に其のSM自体が薬品部開設と特価薬品の広告や折込み戦術を放った。薬務局の医薬品乱売抑制に関する通牒を尻目に医薬品の品位と信用をおとす行為は始めから計画的に業者や薬務行政当局の裏をかくやり方は業者の憤まんをかっても付方がない。

 ▲県立の或る歯大入学志願者に施設拡充費?寄附金の件でゴタゴタしていると日刊紙は報じているが公立は国家の補助がない。自給自足で仕方がない。私立薬大では入学志願者の寄附納入は常識になっている。但し入学せざる時はそっくり返金されるので取られ放しではない。

 ▲注目の薬品流通機構の三者協議会に小売側は不満反対、一方公取委は二十社の話合では独禁法に触れる疑ありとして調査を始めたとか。

 ▲池袋についで太田区乱売激戦地となる困ったものだ。

 ▲東京では夏期需要の特売の仕入手控へ拒絶が目立って来たと報ぜられている。

 ▲今の世の中は薬の説明と使用法を懇切に教える薬局へ、買物はSMか二号業者の安売店へと走る歯車の狂った器械の感がする。全く労して功なしの薬の世界。(GT生)

九州薬事新報 昭和35年(1960) 3月30日号

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 九州大学薬学科 塚本赳夫教授 退官記念事業

 九大医学部薬学科主任教授の塚本赳夫博士は本年五月廿日で停年に達せられ退官されることになった模様で「塚本赳夫教授退官記念事業発起人一同(一二一名内一九名の実行委員)の名によって三月廿日付けで各方面に次の様な趣意書(要旨)が発送された。

 塚本赳夫博士には来る昭和三十五年五月廿日をもちまして、九州大学教授を退官されることになりました誠に惜しんでも余りあるものがあります。塚本赳夫博士は大正十一年東京帝国大学医学部薬学科を御卒業後、同学助手、帝国女子医学薬学専門学校教授、同薬学科長を歴任、昭和九年金沢医大附属医院薬局長兼薬学専門部教授となり、同十一年欧米各国に留学されました。昭和十四年台北帝国大学医学部附属医院薬局長兼同大学教授熱帯医学研究所々員として赴任され、終戦後は中華民国国立台湾大学医学院教授を勤めて居られましたが、昭和二十二年帰国され翌二十三年新潟医科大学附属医院薬局長及び同大学教授に就任されました。

 昭和二十五年九州大学医学部に薬学科新設の議が起りますやその創立委員として尽力され、同年四月新薬学科の発足と共に教授として赴任生薬学植物化学講座を担当同時に薬学科主任教授として困難な社会情勢下にもかかわらずその創設と育成に全力を挙げて来られました創立満十周年を迎えまず九大薬学科の今日あるは偏えに博士の御尽力の賜であります。

 また博士はその極めて該博な学識と円満なる人格、稀に見る活動力とにより薬局長、研究者又教育者として多方面に数々の業績をあげ尚九州大学評議員として同大学の運営に参割、日本薬学会副会頭として学会の為に活躍され斯界に対する永年にわたる貢献は誠に大きいものと考えます。

 塚本赳夫博士は退官後、新設福岡大学薬学部々長として再びその創設に尽力されると承って居りますが、ここに在官中の数々の功績を讃え永年の御苦労を謝し併せて今後一層の御健斗御多幸を祈りたく、我々一同左記の如く記念事業を計画しこれに要する資金を募集することになりました。何卒右の趣旨に御賛同の上御協力賜ります様御願い申上げます。

 記

 一、記念事業
 (1)肖像写真作製
 (2)論文目録及び最終講義要旨作製
 (3)記念品贈呈
 (4)その他
 事業内容の詳細に関しましては実行委員に御一任願います。
 一、金額 一口五百円
 一、送金先
 福岡市堅粕九州大学医学部薬学科内塚本赳夫教授退官記念事業会宛
 一、送金方法 振替を御利用下さるよう願い上げます。
 振替口座福岡四〇九三番
 一、募集期限
 昭和三十五年四月三十日

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 熊大薬学部長 藤田博士送別

 熊本大学薬学部長藤田穆博士並に同教授宗定哲二氏の送別慰労パーティーが三月九日正午より郵政会舘ホールで行われた。来会者はオール薬業家のメンバー八拾余名に達し、発起人を代表して木岡義一氏より「藤田先生は故安香博士の招聘によって熊本の地に来られてから既に三十六年になられ熊本地方の薬学、薬業の発展向上に尽されたことは感謝に絶えない」と挨拶、藤田博士は私が熊本に来たのは三十才位の時であった。安香愛二さんが名古屋に来られて熊本に来てくれとの話があり、丁度その頃学長の山崎正薫氏とも意見が合わぬことがあり郷里も近いので悦んで来たが、1ヶ年位で独乙に行ったので、当分学校に落ち付か無かった云々」と挨拶があり、三十年前の生徒の懐旧裡に花が咲いて麗しい一コマであった。

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 薬界◇◇隨談

 ▲本年卒の高校生や浪人組はわんさと大学の狭き門へ押しかける。浪人の実力つけに多数の予備校が繁栄し其の予備校にも入試が有る世の中であるが、「早稲田ゼミ」の広告には医薬大等合格九四%とある。薬学浪人も相当ある事を物語るものである。

 ▲公式女子野球戦九州を廻る佐賀でも小雨の中で熱戦を続けた。

 ▲カナダ輸入の給食用粉乳で岡山他西日本各地で中毒を起し使用禁止となる。

 ▲日本医師会の役員改選を日刊紙の政治欄で大きく取扱っている。武見現会長の対抗馬として東京逓信病院長の高橋博士出馬す、代議員の支持は互角であると報じている。

 ▲西日本紙「人」欄に四月の日本薬学会で受賞する九大教授百瀬薬博を分析学の最高権威者として紹介している。同氏も「糖類の研究は古いが未だ未だ未知の世界が多いのでやりがいがある」と語る。

 ▲薬剤師が劇や映画や放送劇に出て来る事は案外少ない。たまに出れば薬の間違いをやらかした筋のものが多い。二十一日夜十時のNHK放送記念の「日記による放送劇流刑」は中途から聴いたが主人が薬大出の薬剤師が留守中、虫下しを小供用を大人分量と代人が間違えた責任を感じ山奥ダムの帳場となり人間責任を取りこれを助ける妻君小供をおりまぜたもので良いストーリーだが吾々にはすっきりしない処があった。

 ▲厚生省は政府管掌の健康保険料六、五%を今月より〇、二%引下げる事を告示した。

 ▲国立久留米病院は先夜出火痛ましくも入院中の患者十一名が焼死した。精神症患者だけに同情を禁じ得ない心すべきは火の要心である。

 ▲渡米カブキはワシントンで調印された。この責任者である松尾国三氏夫妻とは筆者は長い交誼を続けている。同君は佐世保、夫人は佐賀県の産名門閥外で歌舞伎俳優となり苦労を続け後興行の世界に転じ遂に雅じよ園社長大阪千日土地の社長となり海外興行でも成功している。筆者は戦前同氏の家に引きとめられて数泊した事がある。妻女は中山芙美子の芸名で女流歌舞伎の第一流であった。

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 博多ぷり 二∞加

 アンプル入内服薬

 「この頃ら、アンプル入りの液は良う売れるごとなったなあー」

 「そうたい、味もジュースのごとおいしいしすぐ効くもんじゃけん誰も彼もスイトル(吸いとる‐好いとる)」 スハラ