通 史 昭和35年(1960) 日薬−県薬−市薬
九州薬事新報 昭和35年(1960) 1月1日号

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 昭和35年新年号
 悲喜交々の旧年を送り希望を新春に託して 参議院議員 日本薬剤師協会長 高野一夫

 一年三百六十五日がたってしまえば、また元旦になることは、きまりきったことではあるが、何となく、その一年を古いいことと忘れ去って、新規撒直しの朝がきたような気がする。天体の運行、地球の自転公転は、人に生きる道を与えてくれる。

 昨年は、私共にとっては真にあわただしい年であった。地方選挙と参院改選が行われ、私は改選直前まで多忙な国会生活を送って、それで過去六ヶ年の任期が満了となり、そのまま選挙戦に突入した。全国の同志諸君の極めて活溌な活動によって再当選の栄をかち得たことは、衷心感謝にたえない。

 私は、自民党本部の政務調査会副会長、行政調査会副会長、参院自民党の政策審議会副会長に選任されて、専ら政策検討の役を引受け、また社会労働委員会の理事となって厚生、労働関係を続けることになったが、そして、今後これらの役職はいろいろと変って行くだろうけれども、如何なる立場に立とうとも、ゆがめられたる制度と経済下に押えつけられている薬業界を、出来るだけ速やかに、適正に改善されたる状態に立ち戻らせ、健全なる進歩発達の道をたどることが出来るように、地方各議会の同志諸君と力を合せて、六ヶ年間の政治活動に微力を尽くしたいと決意した。

 しかるに、鹿児島から凱歌を奏した気持で東京駅に降りたった時は、思いがけない選挙違反容疑事件が起っており、それが全国的に拡がって、熱心に活動された諸君に、非常な災難を及ぼす結果となったことは、州四年の出来事としても最も遺憾にたえない事柄であった。これらの事件は、その大半がなお本年にひきつがれ、解決が長びく傾向にあって、会員諸君に心配を続けさせる正月となったことを、会員諸君に心配を続けさせる正月となったことを、申訳ないことと思う。

 また一昨年夏、青森県下にて発病以来、病床にあった野沢清人代議士が療養の甲斐もなく長逝せられ、日薬、東薬及び関東化学の合同葬儀を営まなければならなかったことは、最も悲しむべき出来事であった。同君多年の苦心に報いるためにも、本年は一段と活動を盛んにしなければならないと考える。

 ただ薬事法改正については、ここ数年来の私の要望であったところの、厚生大臣より薬事審議会に対する諮問がなされるという一エポックがもたらされ、審議会の中に設けられた薬事制度調査特別部会の審議も、委員諸君の公正適切なる論議によって、著しく進捗をみるに至ったことは、真に喜ばしいことである。この種の法律の改正は、徒らに空騒ぎをするのでなく、先ず改正点についての調整妥結をはかり、堅実なる歩みをたどって実現せしめる道を講ずるやり方でなければならぬ。

 日薬と全剤連は一体となって、旧臘中旬、薬事法改正推進本部を東京に置き、各府県にも同様の組織と活動方針をもった推進本部を置くことにしたが、休会あけの国会には必ず政府提出の形をもって、国会審議に移されることを期待してやまない。昭和卅五年の元旦を迎えるにあたって、全会員並びに全薬学薬業界関係者の自愛と活躍を祈ってやまない次第である。

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 新春所感 藤田 穆 熊大教授、薬学部長、薬博

 新春には世の中が瑞気に充ちて居るから話題も勢い希望溢れるものが良かろう。ここに述べるのはすぐ僕の住宅の近くに開いて居る薬局のことである。この薬局は同級生二人が協同経営しているもので場所も良いが僕が感心して止まないのはこの二人が喧嘩しないで仲よくやって居ることである。この開局薬局が抜群な繁昌ぶりを示す原因を考えるに先づ第一に何時店をのぞいて見ても必ず一人だけは白衣を着て店に居る。傭った年の若い薬剤師でなく老練な薬剤師がいつも居る。そしてその老練に物言わせて全く痒い所に手が届くように顧客に対して薬の指導をする。この一事だけで顧客はすぐ近くの薬局の前を素通りしてこの薬局に寄って来る。朝夕近くを通って全くうならせられる。この薬局が何も大して大きい薬局と言う程でもないのに近くの医師も盛に処方箋を出してその薬局で薬を調合して貰いなさいと言い含めて患者をこの薬局に寄越す。濫売の必要も感ぜぬらしい。

 この薬局を見て考えることは大衆はやはり親切な指導を求めるものであることが判る。すぐその筋向うに超大薬局が出来たけれどとんと客は寄りつかない。気の毒な程だ。今日都会地での開局薬局がせり合い濫売の連続で来る三十六年の国民皆健保を控えての暗い表情に引き換えてこの薬局の隆盛を見るとき僕はつくづく薬局のあり方、特に都会地でのあり方が一刻も早く合理化されねばならぬことを痛感する。

 その方向は現実のこの実例が示すように数人の年配の薬剤師が一つの店に居て昼夜の別なく必ず顧客の病状に対する適切な薬の指導をすることが絶対必要条件と思う。この態勢を整えずして如何に医薬分業の処方箋調剤のと唱えても大衆も医者も冷やかに見過ごすのは無理はないのだ。

 僕は元来薬局店頭を巨利を占める場所にして貰いたくない。医者と共に薬剤師も亦仁術の人として人助けの意味が他の職業より濃いい。その為めにこそ国家から種々の保護を受ける対象となる所以である。しかし人に情けをかけるだけではこの世で食って行ける筈はない。どこかでしこたま儲けねば立ち行かない。どこで儲けるか。それは店の裏で儲ける。店の裏の椽先きで製剤製薬をして儲ける。この裏椽での製剤が即わち薬九層倍の本体であって店の表での薬局の薬はこれは利益率二、三割が止りのものだ。言わば手数料に過ぎない。薬九層倍とは九十割のことだから殆んど丸儲けに等しい。

 読者諸君はこう言ったらそんな甘いことが出来るものかと一笑に附するだろう。第一暇がありはせん。第二に売れはしないと。此処にその出来ない理由の第一の「暇がない」は数名の合同薬局とすることで解決する。第二の「売れない」は着眼の不味さが原因なので此所に二三の例を挙げるなら二三十年前佐賀県相知に「相知の肺炎一服薬」というのがあった。当時まだ今日の如き抗生物質が無かった時代にレミジンか何か当時独之辺で唯一と言われる肺炎の薬を誰から教わったのか習って来て裏椽で一服一服包紙に包んで売った。

 当時一服五円であった。三四十年前の五円は今の時価で二千円近い恐らくこれは薬九層倍位になって居たかも知れぬ。これが五十里百里を遠しとせずして患者の親達が階に来たものだった。つまり世の要求の焦点に乗れば売れるのである。

 又の例は昔の軍隊今の自衛隊の君達は殆んど皆足の水虫に悩んで居る。世に多くの水虫薬もあるが皮までは薬が通るが皮膚の下の肉の中にはびこっている水虫には薬が届かない。何日か塗って止めてまたぞろ痒くなるのでてっきりきかないと思ってあの薬この薬とあさる。だから水虫などに対しては常に別の新しい薬が用意されねばならぬ。つまり一応の水虫薬を製造用意して置いて有名水虫薬を塗って利かなかったと言って来る患者に勧める可能性がいくらもある訳である。

 又の例では生花の水を揚げる薬を調合して売って居る人がある。竹や萩や紅葉など仲々水が揚らずすぐ萎れる。この調合薬に何秒か何分か切口を浸して後普通のように花瓶に差すと生々して何日でも保つ。一度これを知った帰人達は必ず水揚薬に惚れ込んで次々と自分も使い他の人にも宣伝して呉れる。成るだけ多数の人が困っている焦点に答える薬を提供すればよいのである。薬学の前途は全く末広がりの洋々らるものだ。読者諸君よ新年の年頭に是非この洋々たる内容を掴まれよ。夫は独り諸君の幸福のみではないであろう。

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 薬事雑感 刈米達夫 国立衛生試験所長、薬博

 厚生省発表によれば昭和三十三年末のわが国薬剤師総数五六五一八名、内、女子は三五、七%であって、女子薬剤師の進出は目ざましい状況にある。これは諸外国共に同じであって、私が昭和二十六年、米国を視察した時に、薬学生の男女比は四対六であった。四年前、欧州の薬学を歴訪した時にも、パリ大学、ローマ大学などで、やはり四対六であった。

 わが国の薬学者はこれを以って薬学発展の為に好ましからざる現象と考える人があるが、私は反対の意見を持つ。その理由は、薬学という狭い見地に立たず国民の科学教育の普及という為に女子薬剤師の増加は誠に喜ぶべき現象であって、わが国には政治にも家庭生活にも科学性の欠乏が国の発展を非常に妨げている。

 この非科学的国民性の改善には母親たる者の科学性の向上が最も必要なことであって国民が幼児時代から母親の科学的指導の下に育つならば国民の科学性の向上に極めて大きい寄与をなすであろう。まして母親が薬剤師であることは家庭衛生にも非常に役立つことであって正に一石二鳥である。

 薬学教育者が女子薬学生の増加を憂うる理由は薬科大学が女子に占められ、将来薬学の第一線に活動する男子薬剤師を容れる余地の減少にあるが、私の見地からすれば、教員陣容、設備共に優秀な国立、公立大学等は将来、研究に従事し又は指導的位置に立つべき薬剤師の育成に充て、施設充分を期し難い薬科大学に於ては、進んで女子を容れて研究的教育よりも職業教育及び一般科学教育に力を入れるならば国立、公立薬科大学とは、又、違った特長を有するに至るであろう。

 若し、女子薬剤師の増加を以て男子薬剤師の職場を侵される憂ありとする人あれば、それは短見であって、現在男子若くは女子薬剤師がパートタイム的に薬剤師免状を行使している面を今後厳に取締ることは薬事衛生の向上の上にも必要なことである。

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 月下氷人 松村 生 九大教授、薬局長

 もう相当数の仲人をされましたろうとよくたずねられる。もう何組もしたと待意に話す人もあるが、私は何組か正確に数えた事はないが二十数組である事には間違いない。仲人と云っても、そもそもの発端から挙式迄双方の意見をきいて手落ちなくやるのが本当の仲人であろうが、近頃頼まれるのは下準備も、式の日取り、披露の打合せ等、何もかも出来て了っていて式の時丈けの仲人口が大部分である。従って仲人としてはこの方が間違いがなく、気が軽く、やり易い。

 しかし最初の口ききから挙式迄運び、それが滞りなくすんで双方から喜ばれると苦労するだけに非常に嬉しい。私の仲人をした第一号は朝鮮の任地大邱でのものである。夫(A)は私の教え児で資産家の長男であるが、不幸にも妻が病死し、年老いた両親と二児をかかえて困っていた。夏のある日後妻を世話して欲しいとAの訪問を受けた。気立てのよいことが第一で、子供を可愛がってくれたら看護婦さんでもよろしいとの事であった。

 病院に勤務していた時で、病院には附属の看護婦養成所があり、生徒が二名宛一ヶ月交代で薬局へも実地練習をかねて廻って来る。Aが看護婦さんでもと云ったとき直ぐ一人の看護婦(B)が頭に浮んだ。この人は生徒のとき、薬局へ配属になり一ヶ月手伝ってくれたが本当に勤勉で、礼儀正しくよく気のつく人で局員間でも評判であった。看護婦になり耳鼻科勤務になっていたが、ここでも勤勉で患者さんにも評判がよく、看護婦長も、Bさんならどこへ出しても恥ずかしくない立派な看護婦ですし、又人間的によく出来ていますといい同僚間の評判もよい。

 家は農家で余り裕福ではない。長女であり弟妹のある事も判った。容姿は普通である。唯若い身空(二十三才)で急に二児の母となる事とは可哀相とも思ったが、先ず候補者ときめて、Aにそれとなく勤務中のBをみせた処、結構ですと云ふ。それでBを呼んでAの家庭事情を話し、Aが君をみて嫁に欲しいと云っている。若いので躊躇したが、決して君にとり不幸ではないと考へるからと云ふと一度本人に会って話をしてみたいと云ふ。

 それでAを呼び、病院だと人目につくので私の家で会談させた。翌日二人を別々によんで其の気持をきくとAは益々気がすすみ是非とも貰って欲しいと云い私は異存がないが両親の意見に従いたいと云ふ。早速両親にBさんを嫁に出されるかどうか、是非お嫁に欲しいと云ふ人が居るので御たずねすると云ふ手紙を出したら、田舎から父親が出て来てBに会い話を聞いて夜家へ訪ねて来た。願ってもない縁談で私は異存がないが家内がなんと云ふか、一度帰ってから御返事する。又仕度は何もしてやれないが本当にそれでもよいのかと念を押して帰った。

 折返し、家内は初婚なのに後妻、しかも二人も乳幼児があって可哀相と反対だったが娘から嫁ぎたいとの手紙が来たので娘が幸福になれるのならと賛成した旨の手紙が来た。話がトントン拍子にすすみ翌年二月挙式する事になった。結納のやりとり、挙式、披露宴と吾が事のように随分多忙であった。結婚式はAの家がカトリックなので教会で多数の信者の祝福裡に厳粛に行はれ、披露宴も市内一流の洋食店で極めて豪華に行はれた。

 この場合私は始めての経験なので失敗でもあっては申訳ないと考へ式と披露宴には別に仲人をたてて貰った。この時、謡の必要を痛感し、間もなく同僚三人と習い始めた。下手でも今日何んとか役に立っている。この夫婦は終戦後内地に引揚げ、さんざん苦労したらしいが、三人の子供に夫々大学教育を修めさせ現在幸福に暮している。

 大邸ではあと三組まとめた。福岡に移り住んで殊に最近仲人を頼まれる機会が多く多い年には四組もあった。今迄仲人をつとめたのが二十数組になるが一組も離婚になったのはない。これは当然の事であるが自分では幸いだと思っている。

 人の仲人計りしていたが昨年四月長女を嫁がせてみて、始めて嫁方の親の気持がよく判った。それで其後は仲人をしても従前とは嫁方の両親の気持がよく判るようになり其の気持を生かすように配慮する事にしている。長男も適齢期で一、二年内には嫁を迎へねばならんが、そうなると婿方の親の気持が判るものと思ふ。そうなるとやる方貰ふ方、双方の気持がよく判りそれからが本統の仲人になれるんじゃないかと云ふ気がする。

 現在一組仲人を頼まれているが、これは当地の風習の〆酒もすんでいて、春になったら結納、結婚式となる。これ亦式場での仲人で、当人同志は交際をつづけて居る、立派な人達なので少しも心配がない。これ迄になるには下準備して頂いた方が二人も居られるので仲人と云っても第一回のような苦労も心配もない。

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 年頭の所感 尾形 生 福岡県薬務課長

 明けましてお芽出度う御座いますと、新年ともなれば必ず誰もが云うが本年こそほんとに薬業界にとって芽出度い年になりたいものです。昨年の業界は実に乱売防止に終始した感がある。然し流通機構の問題即ち経済問題は吾々薬事法に基く行政をあづかっている者としては現在の薬事法の範囲ではどうしても解決が出来かねる。そこでメーカー、卸、小売、県との四者懇談会を毎月開催した。要するにお互い話合いにより解決するより他に方法がなかったからである。

 幸にその為か、どうやら他府県に見るような極端な混乱はなく最少限度に止まっているのではないかと心ひそかによろこんでいる。それにつけても私が常に考えているのは現在の薬局の在り方についてである。或る有識者も「薬局に一言」という題で、薬局は薬を右から左に売るところで二号や三号との区別をしていない。調剤は頭にない。外国ではちょっとむずかしい薬は処方せんがないと売らないので窮屈だ。しかし日本では簡単に買えるので便利だ。とこういう見方をしている。

 また或る人は薬剤師は高い教育を受けているのだから街の科学者として活動してほしいともいっている。以上のことは制度上の薬局や薬剤師と現実とがちがっているいい例になると思う。そこでかりに薬局が薬を売るところであるとしても、素人が売るような売り方をしていては困る。若しも客が客自身の判断によって或る薬をくれといった場合の如きは、これを売らんというくらいの態度がほしいと思う。

 もし薬局がただ薬を右から左に売るところであってもよいのなら制度上の薬局は無用のものである。即ち薬剤師は法律の上で存在するのみで、実際には本来の薬剤師は存在しないということになる。世界の一人前の国では医薬分業になっており、そういう前提で医薬制度がつくられているのである。医薬品は処方箋を必要とする薬と大衆が自分で勝手に使える薬、それとこの中間にある薬の三つがあり即ち大衆薬以外は全て処方箋がないと薬が買えないことになっており、大体全体の六割がそういうものになっているそうである。

 そうなれば薬局や薬剤師の存立性が出てくるわけで、薬局は処方せんのない場合には薬を売らないといえば一般もそんなものかというふうに次第に思うようになる。こんなことをいうとお前は何を考えているのかとおしかりを受けるかも知れない。然しこれが薬局の本来の姿でなければならない。薬剤師自身戦後の物資不足の時代に物さえあれば売るには困らぬ。又物資統制により割当は貰える。価格は一定している。特にむつかしい技術を要することは殆どない。素人でも見易く商売が出来た誠に安易な商売をした時代があった。

 そして其後医薬分業という転換期に当り一時大いに張切って処方せん調剤を期待したのであるが、然し之は期待はずれとなり、遂に薬剤師唯一の特権である調剤も次第に忘れ、とうとう今日では殆んどが物品販売となってしまった。従って一般人も薬局とはどんな処かと認識も次第に薄れ薬局と販売業との区別もはっきり説明の出来る人は少ない。単に外観上からも、最近開局した薬局で一見して何々薬局と、はっきりわかるような看板を掲げた薬局が何ヶ所あるだろうか。殆んどがパンビタン、ポポンS、ミネピタール等の広告入の看板ばかりが目につき、即ちそんな看板のかかった処が薬屋さんだとの認識しかない。

 こんなことで私は薬大出身の薬剤師で薬局を開設しましたといえるだろうか実になさけなくなる。薬剤師は薬局に於て技術を売ることに努め、薬のことなら薬局に相談に行けばなんでも教えてくれると、一般人から信頼を得るようPRしてこそ薬局の価値が認められ素人の誰でもまねの出来ない特殊性が認められるのである。

 現に東京の或る薬局の薬剤師はいっている。「処方調剤はまずやろうとする意欲がなければ話にならない。少なくとも医者よりは薬のすべてに精通していなければならない」と云い、又調剤薬には価格の面の競争がない。そこで魅力だと云っている。

 その薬局は薬局の自家製剤についてはすべてその薬局の責任で、それがよければ何にもまさる宣伝力となり、悪ければソッポを向かれてしまう、だからあらかじめ試作して各製剤の性質や薬効に精通しなければならないというのである。これだけの準備態勢がなくては信用がかちとれない。又社会保険の調剤に於てもまず店内外のPRだったと云っている。即ち店を訪れた客には努めて世話をすること、どんな質問にも答えられる勉強をすることが一番で、そして次には医者えのPRだ、処方箋をくださいというだけでは何の反応もないのが当然、その裏づけとしてクランケを紹介したり、医療の途中で逃げる人を説得したりする、そして最も大切なことは医者よりも多くの薬に関する知識であるそして多くの薬品を備蓄し、薬品を覚え、繁用の傾向なども常に用意しておかねばならないと云っている。

 又あの乱売のはげしい大阪の或る薬剤師は(昭和四年開局)当時の小売業界は現在と同様濫売が華やかな時代で従って開局薬剤師は自家製剤に依存する以外「生きる道はなかった」そうである。し濫売は激しくとも調剤に活路を見出せば少くとも薬局経営は維持出来たのである。それ以来どんなことがあっても自家製剤で生きる肚を決め、その結果現在あの乱売の渦中にあって総売上高の約五割が自家製剤による収入になっているそうである。

 その店にくる来客の状況は十人くればそのいずれもが新薬を購入せず納得した上で自家製剤をもらって行く、又この薬局の周囲には現在数軒の薬局があり、相談客の大半がそれらの薬局を通り越してくる人達ばかりだそうである。この現象は同じ薬を同じ価格で売っていてはみられないことであり、その薬剤師はこう云っている。「品物を渡し金を受取る商売であれば、その品物が安ければ客はつくだろう。しかしそれは「あの店は」モノが安いというつまり店そのものにつく客である。これならば誰にでもできるがこうした客はさらに安い店があればそちらにかわる浮動客でもある。薬局がこんな商売しかできないのでは余りにもナサケナイではないか。薬局は薬剤師の技術が客を呼ぶようでなければならないし、またそうあるべきで即ち客を店につけるのではなく薬剤師の体そのものにつけなければならない」と云っている。こんな薬剤師こそ開局薬剤師の本質をあますところなく語りつくした言葉であろう。この自信に満ちた言葉は割引販売にウキ身をやつす多くの薬剤師は大いに玩味すべきである。

 この二例にある如く経済的のことは薬事法規の直接に関係するところではなく、また自由主義経済の下においては結局企業を行う者の自主的解決にまたねばならいものと思う。この点については昨年来毎月実施して来た四者の薬事懇談会がその解決に大いに役立っていると思う。又昨年十二月一日附にて認可になった医薬品小売商業組合も運用よろしきを得れば大いに役に立つものと思う。然し本組合が設立されたからといって一切の乱売問題が片付く訳ではないので各人各人の自覚と団結の力が解決するものである。

 又ここ数年の懸案である薬事法の改正も愈々大詰めに近ずいたようであり、又県では皆さんの要望である薬事協議会も制定すべく目下準備中である。本年こそ薬業界本来の姿に立帰る年ではないかと大いに期待のもてるよい年の予感がする。

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 年頭に想う 国松藤夫 武田薬品福岡支店長

 昭和三十五年の新春をむかえ、謹んで新年のお慶びを申上げます。顧りみますと昨年の我が国産業界は、前年の所謂ナベ底景気から漸く抜け出し数量景気の波に乗ってむしろ異常といはれる程のすさましい発展的成長を記憶したのでありますが、これは昨年初めの公定歩合引下げが景気上昇の促進剤となって、私共の身辺でもテレビ、洗濯機をはじめとする耐久消費財が普及し、更に自動車の需要が急速に伸びてここに消費ブームをつくり、各企業は目ざましい技術革新と相俟って資金需要が増し、生産は急ピッチではね上ったのであります。勿論、暮にはこうした好況で景気が過熱するのを防ぐため、今度は公定歩合の引上げで先行き警戒論もありましたがまずまず好況のうちに新年をむかえたと申せませう。

 それでは今年の景気はどうか、業界各位の念頭に去来する思いはみな同じであろうかと存じます。政府の経済見通しによりますと、金融界の警戒論をよそに鉱工業、農林、水産共に昨年度より一〇%以上の生産上昇を見込でおり、設備投資は技術革新投資を中心になおも根強く続き、国際収支の黒字と堅調な消費性向、更に雇用情勢も石炭関係を除いて順調に推移するだろうと割合楽観的な予想をしているようであります。

 しかし乍ら、わが薬業界の現況についてみますと依然として激しい販売競争が続けられており、その結果、流通機構の混乱、価格体系の乱れ、スーパーマーケット、主婦の店等といろんな問題をかかえたまま越年したような次第で、御承知のように関係官庁、メーカー、卸売業者、小売業者がそれぞれの立場から一丸となって真剣に解決への努力を続けているのであります、問題の解決に当りましては、私は何時も申上げているのでありますがお互いに相手の立場も尊重し、大局を誤らないよう誠意をもって話合はねばならないのでありまして、めいめいが自己の利益のみを考へ、自分ばかりがヨイコになろうとする勝手な言動は厳に慎まなければならないのであります。

 ところで、私共メーカーとしましても従来からこれ等一連の問題が惹起する度に、各メーカー相寄りまして対策を協議しているのでありますが、お互いの立場というものを認め、そして理解ある態度をとるということが時としてなかなか困難な場合もあります。メーカーの間だけでも時にはそういう風ですから、これがメーカー、卸業者、小売業者と三者三様にめいめいの立場に立つとなれば、事は更に複雑化し、解決の糸口すらつかみ難いものとなりませう。

 私共はよく問題によってはメーカーの代表として引ぱり出されるのでありますが、多くのメーカーの代表ということになりますと、自分の会社の利益ばかりのために行動することが許されないものでありますから実際になかなか運びにくいやりにくい点が多くそのため随分窮屈な思いも経験させられるのであります。

 また業界のため常に巨視的な立場から物事を考へ、メーカーのためにも公正な判断をしなければならない立場にありますので結果的には、所謂中庸の道を歩くことtになるのですが、ところがそれがまた手ぬるいといったような批判をされることもあります。こうしたジレンマに遭遇する度に私は何時も、支店の中に安置してあります「聖観世音菩薩」のあのなごやかなお顔とやさしいまなざしを想い浮べるのであります。

 ところで、他から何らの拘束も受けず、自由な意志で自由な正して競争が出来るということは実にうらやましいことですしまた楽しいことに違いありません。しかも自由な競争というものは、この資本主義社会体制の中にあっては当然のことでありまして、これを咀碍する自己本位な過った競争意識をもった人々が相手の立場を理解し、根本的に考えを改めない限り、またこの過当競争をつゞける限り業界はいつまでも泥海の中でもがき苦しみ、いがみ合う結果、問題の解決と業界の発展はとうてい望み得ないのであります。

 お互の良識と誠意により、相手の立場をよく認識して言うべきことは堂々と主張し、ゆずるべきところは謙虚にゆずり正しい競争に向っての話合の場を活用し業界の繁栄に向ってすゝみたいものと心から希望して止みません。どうか本年は先年から持ち越された諸問題解決の年として、また黄金の六十年として業界の称栄を切に祈念して御挨拶と致します。

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 こま◇ねずみの思いで 塚本赳夫 九大教授 薬博

 其頃私の家は東京に住んで居た、たしか中学の二年生のお正月だったとおぼえて居る。早稲田鶴巻町に住む親類を尋ねて行って、「こまねずみ」と云う小さなねずみを一つがいもらって来た。これが雄は白地に黒いブチがあり、雌は小さい赤褐色の斑点がある可愛いい赤い目をした子だった。両方共生後約一ヶ月位だと云う話だった。

 後にこのカップルを私の家では御先祖と呼んで何千匹と云うねずみを世話するはめになったのだが、其時は、中学生の私としてそんな運命に立つ到るとは夢にも考えて居なかった。只母に「必ず赳夫が自分で、すべての世話をする事、女中にも他の兄弟にも全く何等の負担をかけぬ事」と云う条件で飼ってもよいと云う許可を受けた。

 私はもう天にも昇るばかりの嬉しさで夢中だった。親類の家では、前面に硝子を張った木で出来た小箱の中でカラカラカラカラと音をさせて木と竹で出来た水車のような車の中に入って一生懸命にその車を廻して居た。ひどくせっかちで、馬鹿にまめな動物だと思って眺めて来た。今思えば、時々実験に使われて居るマウスと殆んど同じ大きさで只赤や黒のブチがある事が違うだけのやうに思う。

 私は「こまねずみ」と云うてもらって来たが、動物図鑑から得た知識によると「こまねずみ」と云うのはもう少し小形で平らな板の上に置くと、自分で一点を中心として、こまのようにクルクル廻る性質のあるねずみで私のもらって来た動物は「南京ねずみ」と云うべきものだと今では思って居る。

 それはともかくとして、先ずこの子達の住居を作らねばならんので、其頃の蜜柑箱(今よりは小さくて上面がかなり正方形に近い矩形で一番長い辺が三〇糎ばかりしかないものだった)をもらい受けてこの箱を横向きに立てて前面に硝子を上から差し込むようにし、下には浅い引出しをつけて当分の始末をし易いようにしたり、彼等の遊び道具であり又運動用具である所の例の中に入って廻わすための車を作ったり、又寝室にする小箱に綿や藻を入れたものを入れてやったりして飼いはじめた。餌は近所にあった水車でコメを搗いているような所謂水車小舎にたのんで「掃き寄せ米」を分けてもらい、水をやるとこぼされる心配があるから菜っ葉をやる事にして台所から大根の葉をもらったりこれのない時は近所の八百屋に行ってキャベツの外側だの、小松菜の少し黄色になったものなどをもらって来てやった。

 二ヶ月ばかりすると雌はおなかが大きくなり、間もなく「チーチー」と云う小さな可愛いい声が聞えるようになった。親共を巣から追い出して静かに綿の屋根をのけて見ると身長一センチばかりの桃色のかたまりが七ツころがって居たので嬉ぶやら驚くやら大さわぎをした。三週間もするともうチョロチョロと小さい奴が顔を出すようになり、間もなく親と一所に菜っ葉のふちに並んで菜っ葉をかぢったり、砕け米を持って箱のすみっこに行ってまるでハーモニカをふくような手つきで、米を齧るのがとても可愛いい。

 この頃からからだのブチも見えるようになり、其色もはっきりして来ると、両親と同様に黒ブチと赤ブチが居るが他に又うす黒い褐色のブチの子が居る事に気づいた。これではっきり三種類の子供が育ちつつある事がわかった。所がこの中に雄でかなり活発ないたづらっ子で背中に小さな黒い点が一つあるきりで、殆んど全身白色であり、他の兄弟よりいくらか大ぶりで立派なのが居た。

 私の兄がこれを見つけて曰く「おい・・・これはきっと白いネズミと色のある鼠との「相の子」で皆ブチがあるに相違ないから、何代も何代も白い所の多い奴同志をかけ合せて行くときっと白い子が出来るぞ・・・」と云うて聞かせ、メンデルによると「赤えんどう」と「青えんどう」をかけ合せると、赤一、青一に対して中間種が二の割合に出来ると云う事を話して呉れた。私としてはこれから、この子供達をどうしていけばよいかと思案して居た所で、どうせ又箱をいくつか作らねばなるまいと思って居た所だから、それならば一その事、この「御先祖」達からの直系の子孫を残す事と一方では白い南京鼠を作る事と両方をやって見ようと云う決心をした。

 さてそれからが大変な事が始まった。先ず同腹の兄弟から選んで「子孫第一代」の夫婦を作り、一番斑点の少い奴等をめ合せて白鼠製造の第一歩を踏み出すとしても箱を二ツ作らねばならん。その選にもれた奴等の居る所は当分は親と同居するにしても、もう親の方は次の子供を腹に入れて居るらしい。乳離れする頃はもう大体に於て、すぐ次の仕込にかかって居る頃なのである。

 こうなるとこのあぶれた連中(その頃はこんな言葉はなかった)を入れる所も作らねばならん。之れを我々は「雑種箱」と呼んで後にはこの箱が一番発展を遂げて「南京ねずみ」の大社会を形成して我々としては社会学の勉強のために、この箱の前に座り込む時間が一番長くなって行った。漸々と箱がふえて行って私の住んで居た六畳間の一方である一間半の壁は大体鼠の箱が積み重ねられてしまった。こうなるとかなり必至で掃除してやっても部屋中が鼠くさい。雨の日が続くと家の者も「くさい!」と云い出す。友達が鼠を呉れと云うとすまして制服のポケットに鼠を入れて持って行くのでポケットの中、否!洋服全体が臭くなる。学校でも時々塚本は鼠臭いと云われて困ったが私とつき合いをした連中はさぞ困っただろうと思う。従って夕飯をすませるとすぐ部屋に入って鼠に餌をやり糞の掃除をする。これが済むと方々の箱の様子をながめて居る。面白いから仲々勉強には取りかかれない。襖の外から母に声をかけられてあわてて、勉強を始めた事が幾度あったか、とても数える事も出来ない。

 特にこの雑種箱の面白さわ又格別で箱は石油箱、つまり石油缶二ツ入る箱を利用してある。色々の思いつきで種々雑多な、運動用具が所せまきまでに並んで居る。昔からの車では鼠の背中を見てるか、のどの下からおなかを眺めるばかりなので横向きに見える工夫をした車もある。稍厚い、十糎角位の板の角を切りおとして八角形にして、其各辺に七、八糎の平らな割り竹の棒のはじを、二本づつの釘を用いて直角に打ちつけ、板の中央にきりで穴をあけて、雑種箱のつき当りの壁に裏側から打った大きな釘にさし込んで見た。これは廻る度に少しづつぐらついて両方に差えのある水車形の車ほどスムースには廻らないが、奴等はすぐ廻しはじめた。走ってる形の横顔?が見えるばかりではなく足の形がよく見えてとても面白かった。まるで競馬で正面を馳けて通る馬を見てる程よい気持で大成功であった。沢山の棚が吊ってある間には割り箸を利用して横に沢山釘の階段がある「はしご」が幾つもあるし、其棚と云うか椽側見たいな物の角の方には穴があいて居るので下から飛びついて登ったり。渡してある太い針金を綱渡りしたりして絶えずあばれ廻って居る。

 或る時はこれを眺めて居て考えた事だが、平らなこまのような物を作ったら将して奴等は廻わす事が出来るだろうかと云う疑問が起った。兄に相談したら一言のもとに「そんな物が廻せるもんか」と云われた。二三日の間、電車で学校に通う間中考えて見たが、どうも水平に作っては廻らぬ筈だ。極く僅かに傾いて居たら乗る場所によっては廻る筈だと思いついた。さあもうこうなると早く作り度くて仕様がない。日曜の来るのが待ち遠しくて仕方がないので夜なべ仕事でコンパスで円を画いた板を畧丸く削って中央に錐で穴をあけ、その穴にきっちりと合う太い針金を固定して平たいこまを作った。板の位置は出来るだけ低くして地上約一糎半ばかり上は棚の端を利用して下は木片にちょっとへそをつけてこれに差し込んで固定した。

 作ってる途中で兄が「やってるなッ」と云うて見に来て幾日位たったら、そんな物を廻わすか知らと云うので「僕はすぐ廻わすと思うよ」と云うたら兄は相当に反対して数時間では無理だ、次の日になったら廻すかも知れんと云うような事だった。

 この箱は遊園地兼食事場としての広い所と、片方に寝室兼居間としての沢山の家庭を含んだアパート形の巣とに分れて居て、上下二ツの窓のような穴をふさぐと全く遮断する事が出来るようになって居る。作業中は「おねずばらい」がしてあるが窓をあけてやればすぐ出て来られるような仕かけになって居る。

 私が作業を終って窓をあけてやると、待って居たように親鼠が四五匹の子鼠を伴って出て来た。出て見ると妙な物が出来てる。親は鼻をピクピクやりながら慎重に近づいて来たが、別に危険はと見ると、すぐこまの椽に手をかけて見る。少し動く、一寸手を引っ込めるがすぐ又かけて見る。どうも大した事はないと見たか、ぴょんと上り込んだ。丁度一番低い所ではなかったので身体の重みで低い方へすーっと静かに廻わった。一と足、二た足と歩く、尚廻る!稍々足を早めたと思うともう相当な速力で廻り始めた。この間五分たらずしか経過して居ない。僕は兄とはっきり何時間で廻すか、何分かと云うように「かけ」をして置かなかった事を今は誠に残念に思って居るが其頃は野球や角力に賭けると言う事さえ知らなかった。

 それはともかく、この「こま」が一番色々な事件があって面白かった。少しなれて来ると、他の奴がせっせと廻して居ても飛び乗る事が出来るし、親が乗って廻す時すでに乗って居た子鼠は自然に歩き出し、漸々早くなって来てから飛び降りると、ころころころがったりするばかりか、沢山乗って廻してる時一匹が立ち止るとその後に居る奴は歩けない。大混乱を起すが、原則として止れば遠心力が作用するので外側にすべり落ちる。これはその筈で走って居ると云う事は「こま」に対して走ってるが空間に対しては静止してる事になる。

 これに反して足止めれば「こま」の速度で廻ってる事になるから、子鼠などはうっかり止って遠心力の作用を受けてほうり出されて目をパチクリしている。この大社会は方々の箱で育って必要のない奴を皆入れて行くので始めは喧嘩をする奴もあり、新来者のあった時はしばらく大騒ぎだが、この騒ぎはぢきに収まる。と云うのが必ず大親方が居て、これの云う事をきかないと半殺しの目に合わされるので必ず云う事を聞かざるを得ないように出来てる。

 只セカンドボスが育って来て、いよいよ大親方に戦を仕かけて来る頃は社会はかなり混乱を起す。そしてほうておけば血みつどろのけんかをして勝負をつける。仕方なく二人を別居させた事もあるが、そんなに沢山の社会を作る事も許されないので?々成行きにまかせるが、あまりのさわぎで、それこそ勉強などはとても出来ない。負けた方は誠にみじめで多くは毛の色つやも悪くなり病室に移さねばならんようになる。この大喧嘩の時小さい奴等は皆ちぢみ上って居て、全員神経衰弱になって?々人口の減少を来たす事さえある。

 それはともかく、何年かの間に十代目以上の代を重ねたが白い鼠も生れなかったばかりでなく、毛の色の統系もちっとも法則通りに行かなかったが、これが本当の事を現わして居るので実はこの二親の純粋さは全くわからないので白花、赤花の純粋種をかけ合わせたようになる筈はなかったのである。入学試験、仙台の第二高等学校入学でこの鼠は数回にわたって赤十字病院に動物を入れてる動物屋の手に渡ってしまった。

 特別に名前をつけて呼んで居たいくつかの鼠の顔は今でもおぼえて居る。同種の鼠と云うても斑点は別としても皆或る程度顔つきが違うものだと云う事と、非常に好奇心に富む動物で好奇心と云うのは学問する奴等には一番大切な物だと云う事を教えていただいた事になった。其他に社会と云う物の一端をのぞかせてもらった事になったので私の方が鼠より大分にとくをした事になる。

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 新春のなやみ 女性薬剤師 塚元久雄 九大教授 薬博

 年が改まると必ず今年こそはと一応張切気持になる。こうした気分転換する意味からも元旦を祝ふことには意義がある。毎度のことながら振りかへってみると計画の幾分かしか実行してゐない。可成りひかえ目な計画でもその通りにはならないのは敢て私一人ではなかろうと思ふ。

 薬剤師協会にしてももっと大きく国家としても計画通り出来ないのが、この人生ではないかと、独り弁解めいたことを考へてゐる。では最初からその計画が誤ってゐたのかと云ふと、振り返って過去の実態を考へて見ると、あながちそうとは云ひ切れない。自分の不手際などによることや、一寸とした見通しに誤算めいた事があったからで、目的達成の出来なかった事が多い。

 しかしこの不手際はよい訓となるので再び繰返さないように努めてゐる。計画通り行へなかった一つの例は女子学生の就職の件がある。世間では薬剤師が毎年増加して困ると云ふ人がゐる。確かに少く共女性の薬学卒業生は就職難で困ってることは事実である。然し男性薬剤師はほとんどが各方面に就職してゐる。従ってこれは一般に高等技術を要する職業としての女性には一般の要求がない。即ち未だ女性に対する一般の社会が信じてないことと、もう一つ女性の多くがそれだけの実績を挙げてない必然性から来るのだと思はれる。私は毎年この女性薬剤師の問題について努力したいと思ってはゐるが前に述べたように目的をはたさない自分に責を感じてゐる。又今年もこの問題と取組まねばなるまい。

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 吾輩はネズミである 田口胤三 九大教授、薬博

 ある英国人に日本では歳を動物であらわすしきたりがあると話したら大変愉快がってお前は何どしであると尋ねるからおれは子年であると答えたら私の顔をみつめて腹をかゝえて笑った。ネズミに似ているので笑ったのか似ていないので笑ったのかその辺はわからない。

 この話をして家内の意見をただしたら、猿には似ているがネズミには椽遠いとこいつも呵々大笑した。しかし性質は似ていますよとなぐさめ顔でつけたしてくれたのは私がネズミ似の方を好むとでも思ったのであろうか、しかし性質の方はどちらに似ていても有難くない「まねる」「かじる」は研究の道に於ては下の下であるからである。

 ある男が「貴女の眼は馬の眼の様に美しい」とほめたら絶交になったという話がある。馬の眼はそんなにいやな目であろうか。私などはネズミに似ていると言われれば本当に嬉しいのだが、猫がにげるのをみるとやはり似ていないらしい。しかし性質の方も「かじる」は嫌だが、本来勤勉な動物だからネズミ的性格と言われても真向から忌み嫌うには及ばない様に思える。「地球の未来はネズミの世界である」とゆう説があるが、この性質と繁殖力の旺盛なところから予言したのであろう。十二支を数えるにしてもまづ子から始って亥に終る。一つ一つ考えてみても他に芳しい動物はいないから子年である事は誇るに足るものと思える。松前鉄之助のセリフではないが「唯のネズミじゃあるまい」などは最上級の賛辞ととってもよいのであろう。

 先日東京のバーで「ネコいらず」本舗の社長さん会った。案にたがって猫のひげでなく立派なコールマンひげを備えたピストル的神士であった。なかなかの快男子であるが、彼には猫は商売敵であるから、猫ずらをしていないのはあたり前である。猫がふえても、ネズミが減っても飯の食ひあげになるから、彼の御商売はひそかに猫を殺し、ネズミに餌をやり、一方で「猫いらず」を売るとゆう仕組になっているのであろう。

 勿論ネズミが死ななきゃ売れないが、死ぬ以上にふやす事を考えるのが商売のコツであろう。そうすれば銀座のバーへ通う資金にはことかかない。してみればネズミは商売の神様の様なもので彼も私にネズミ的なものを見たのか宿まで送ってくれ、至極愛想よく「ではよろしく」と言って別れた。別に研究の上で関係がある訳ではないから、ネズミ年の余慶と見、含蓄ある「よろしく」と聞いた。

 十二支なんて実に馬鹿げている。が馬鹿げている事がからむから世の中は面白くなる。五黄の虎を本気になって忌むのもどうかと思うが、一笑にふすのも味気ない。A君が虎であったりB君が蛇であったりするのは誠に愉快であり、庶民の愉みはこんなことからわいてくる。ことしは子の年であるが、あらゆる面で吾が世の春である事を期待したい。

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 小売薬業界の危機は救えるか? 佐々木 剛 福岡県薬務課長補佐

 年頭にあたり新春の御祝詞に替えて、昨年暮に設立された福岡県医薬品小売商業組合の発足を祝福しつつ、この組合のありかたと、小売薬業者の自覚について、所懐の一端をのべて業界諸氏への挨拶といたしたい。この組合は、昭和三十二年十一月「中小企業団体の組織に関する法律」、いわゆる「中小企業団体法」を母体として生まれたもので、医薬品販売の分野では全国で宮崎県、大阪府、和歌山県、兵庫県に次ぎ、第五番目に生まれ、名前をつけてもらったばかりの嬰児にひとしく、これから独り歩きするまでには、並み大抵の苦労ではないことが予想される。

 もともと、この組合は、平穏無事な時世には生まれないもので、乱世に於ける、いわゆる風雲児としての性格をもって生まれたものだけに、平時の所産である。地区薬業協同組合と趣きを異にするもので、厚生大臣、通産大臣等が福岡県全域にわたり小売薬業界全般が過当競争のため取引の円滑な運行が阻害せられ、その相当部分の経営が著しく不安定となり、またはなるおそれ、つまり不況事態に陥っていることを確認したことによって、はじめて設立が認可される運びとなったものであることを銘記しなければならない。

 近年大阪の平野町に端を発する現金問屋の出現により薬業界を覆った未曾有の不況事態は、全国的風潮として波及し、九州では本県を素通りして、長崎、宮崎、熊本等の各県がスーパーマーケット渦に巻き込まれ、近隣の弱小小売薬業者は塗炭の苦しみをなめており、本県でも都市部における事業所、生協、購買会等の進出により売り上げ低減に喘いでいでる折から、十二月上旬福岡市内最大のスーパーマーケットの医薬品販売登録申請が県に提出されるに至り、地区薬業協同組合幹部諸公の奔走により防戦これ努められており、近く双方話し合いの場が持たれるようで、年頭早々から市薬業界は、あわただしい雲行きである。

 このときに当って、本県小売商業組合が年余にわたる難産の末、ようやく呱々の声をあげたことは、今すぐお役に立たないまでも、速急にこれを盛り立てて事業活動に入ろうとする組合幹部はもとより、我々薬事担当者に明るい希望と、強力な法権力のよりどころが与えられたことを欣ぶものである。

 一昨年末頃から激化した大都市における医薬品の乱売は、すさましい様相を示しむかしから高尚な商いの一つとして自他ともに目されてきた「薬屋」も今日この頃では小売市場の肉屋、雑貨屋さんなみに下落した観があり、殊に乱売店の店頭は、タタキ売り屋をおもわせるものがある。

 勿論、乱売は薬品に限らず衣料品、食品、電気器具等多々あるが、小売薬業がこのように急激に斜陽化した要因は、オートメーションによる製薬業者の過剰生産に対する卸問屋と小売の小部門との不均衡から来るもので、資本主義経済機構の過程における必然の結果といわれる反面、又メーカーの立場からすれば、充実した研究施設や巨大な生産設備の所産として、優れた医薬品をつぎつぎ発見し開発して安価に社会へ提供することが使命であろうし、一般大衆にとっても健康を保ち長寿を全うするうえに、よりよいものをより安く入手できることが何よりの恩恵となる理であり、所詮、流通過程における卸、小売業者の衰退は、必然的にメーカーにはねかえるところとなり、メーカーだけの独走は許されないところから、ここに生産-流通-消費の間に綜合調整の困難性があり、否応なしに強食弱肉の憂目を見、優勝劣敗の窮地に追い込まれているのが当今の弱小小売業者の実体ではなかろうか。

 このように混迷している県下薬業界の現状では、京阪神のような激しい乱売がどういう形で侵入するか、あるいは食い止めることができるか、今後の予断は許されないが、この期におよんでなお県内における大部分の弱小小売業者が、他県の混乱を対岸の火災視しているように見受けられるのはどうしたことだろうか。

 福岡市内の小売薬業者四三六軒のうちで、乱売がおこれば立ちどころに甚大な被害を蒙むる弱小薬業者の実情は果してどうであろうか。乱売をおそれ、スーパーマーケットの進出による小売薬業界の危機を叫び、食い止め策に狂奔しているのは薬業協同組合の幹部の仕事のように考え、急転する時勢の流れに眼をそむけ、一朝の夢をむさぼっている向が多いのではなかろうかと疑うことが薬業界の所々の会合や会議の質問等に現われ、しばしば面くらうことがある。

 さきに述べた本県の小売り商業組合が、創立当初から難渋したのは、この法律そのものが極めて難解な法文からなり、わかりにくい法律の一つに数えられているところから、どこの県でも大分苦労させたれたことが要因といわれており、組合員自体が今日まで納得のゆくまで説明をしてもらえたなかった嫌いもあろうが、いまだにこの組合員である薬業者のうち、この組合設立の本来の目的と、今後どのような事業活動の規制をしなければならないものかを知らない人が案外多く、かつこれから勉強しようと努力している人が案外少ないのではなかろうか。若し、そうであるとすれば、おそらく小売薬業界の危機は乗り来れまい。

 危機を克服し得る者は、少数の指導者でもなければ、一部薬業界の幹部でもない。自主的に団結した小売業者と、これにつながる卸業者との力の結集以外の何者でもない。二、三のアウトサイダーのかき廻しにおびえるのも小売薬業者自体の体勢の弱さからくるもので、県下小売薬業界に低迷する暗雲は、小売薬業者自身が全智全能を傾けて、これを払いのける覚悟とその努力が結実してこそ、団結の力による経営の安泰が約束されよう。

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 薬局経済の安定策について 礒田秀雄
 日本薬剤師会理事、九州薬剤師会会長、福岡県薬剤師国保組合理事長

 ▽…医薬品の国民消化量は月間七十億円と云ふのに生産は百二十億と伝えられるがこの過剰生産五十億に上る医薬品の横溢が卸業者の事業所廉売となりスーパーマーケットの出現となって小売薬局薬店のお得意に喰い込み正常流通機構による消化七十億を侵して今や小売薬業界は顧客の喪失、売上げの激減となって苦悩に陥っているが剰てて加えて国民健康保険の普及実施も加わって小売薬業界は破産倒産、夜逃げ相踵ぐ有様で悲惨の極に達してきたが本年、明年は更らに一段の深刻さを加えてくるであろう。

 ▽…そこで何とか生き得る方途もないものかと商業組合の結成、小売振興法の実施、薬事法の改正等々とその活路を見出すべく焦慮しているがそれも見込は極めて薄いようだ。

 ▽…日薬で計画を進めている「薬業経済安定協力機構」も平たく云えば薬局専売医薬品の設定と云ふ窮余の一策であり、当然到達すべき案には相違ないが立論としては洵に立派であるものの実施の段階となり具体化に進む段取りとなるといろいろの障害が予想されて又逆戻りして国民医薬品集の活用、薬局製剤の活用が叫ばれてくるのではないかと見透している。

 ▽…薬局専売医薬品が無名商品の押し付けとなるならマスコミの今日一段の苦労を薬局に背負わせることとなる。例をビタミン剤にとるとパンビタミンがビタミン剤の花形であるが薬局専売品もパンビタンで一般市場品よりも内容が多く価格が廉いなら売れる見込みは十分にあるがメーカーが一般市場品と薬局専売品との間に価格容量に格段の差額がある二重価格制が打ち出せるかどうかが頗る疑問である。そこで薬局専売品の方は「オールビタミン」と云う様な名称となるならメーカーは武田薬品であってもこれは無名品である。無名品の取扱を押しつけられる位いなら寧ろチェーン商品の勉売に努力する方が遥かに容易である。

 ▽…本機構の立案者滝川君はそのむかし大阪優良品販売会を輿し薬局専売品の発売に努力して来たが商品はよいとしても何ンと云っても無名品ばかりであるためにさしたる進展を見なかった。今次の薬局経済安定協力機構も結局は大阪優良品販売会創設の構想に出発している。理論としては立派に成り立つが、現実問題としては容易に成り立ち得ないところに難しさがある。

 ▽…「よくて廉かったら売れるはず」である、が医薬品に限っては左様にばかり参らない。目下は日薬に於て本案の理論について検討が進められている。理論の段階では協力こそすれ反対すべき何んらの理由もない。唯需要大衆へ販売する医薬品のことであるからその商品名、内奥、価格、取引条件等が決定し具体的問題に入らないと取扱えるかどうかが決定し難いのである。だが云えることはこれで薬局経済が安定し没落してゆかんとする小売薬業界の立ち直りができるかと云えば私は希望を持ち得ないと申したい。

 ▽…有力メーカーが一方で薬局専売品を製造し一方には一般市場用のマスコミ濫売品の製造をしてゆくなら一段の混乱が予想されるではないか。それに薬局専売品のみが全薬業界で取扱われると仮定してもそれは月額七十億円である。過剰生産五十億円分は矢っ張り、小売薬業者以外の手で取扱われることになるから問題は依然として残るわけである。

 ▽…小売薬店薬局の今日の窮状は国民保険の普及、事業所廉売やスーパーマーケットの乱売によってお得意を奪取されたことに基因する。お客さんを失って如何に薬局店頭に専売医薬品を山積したとて何になろう。

 ▽…根源は需要を上まわる過剰生産にある。この問題を解決しない限り如何に弥縫策を講じてみても所詮徒労に帰するであろう。開局者諸君も真剣に本問題と取り組んで戴きたい。と思っている。

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 新しい年を迎えて
 日本学校薬剤師会副会長 福岡県学校薬剤師会長 早川政雄

 新春を迎え皆様と共に心から御祝申上げます。静かに暮れ行きし一年を回顧し更に新しい年に思いを致します時慌しき業界の諸情勢の裡にあって我が校剤界も亦必置制を目前に控え誠に多難なるを痛感致すのであります。

 御承知の通り昭和三十三年四月十日、学校保健法の制定に依て、本則として「大学以外の学校には薬剤師をおくものとする」とうたはれましたが、「昭和三十六年三月三十一日まではおかない事が出来る」と云う附則がある為に其の後の校剤設置拡充は誠に困難を極めて居るのであります。

 幸い昨年十月広島市で開催された第九回全国学校保険大会に於いて、是非三十六年四月一日には完全必置制を実施せよとの提案が万場一致可決され本大会の名に於いて文部当局に再度年を押す事になったのでありますが、其れ程之が実現に対しましては、全国の校剤が頭を痛めて居る次第であります、尚右大会の前日に、日本学校薬剤師大会が開催されて、二十四に上る協議題が審議された訳ですが、其の中で必置制に関する提案が四件ある中に、本県提案の受入態勢の強化対策の件が最も重大な議案であった事は日本校剤の幹部諸兄も等しく之を認めた事と思はれます。なぜなれば法の制定と実施は往々にして一致しない場合があります。かつてこの医薬分業に於いて吾々は既に体験した所で、之全く受入態勢の不備と云ふ事々に大きく原因したのであります。

 斯る見解のもとに県校剤としては既に三十四年度までに郡市町村の三分の二をねらって計画を立てたのでありますが、地方選挙と参院選挙に慮外の期間全力を傾注した為、遂い延び延びになって目的の達成が遅くれて居る様な次第であります。もとより学校薬剤師設置につきましては予算が何度も公的問題点となって居りますので此の点を打破する為に三十五年度の予算提出前に県学校保健会の名において知事・教育庁え、又県学校三師(校医、校歯科医、校剤)代表者連盟に依て、各郡市町村長並に教育委員会に、又県薬協会長県校剤会長、未設置地区支部長の連名に依て地区地区の関係方面えそれぞれ陳情書を発送し、或は直接訪問して要望して居ります。更に一月の下旬には未設置地区を数ブロックに分け、研修会を開催して新しくなる会員の為に予備知識を与う可く計画致して居ります。

 一方前年度の諸大会に於ける校剤の研究並に意見の発表は、全国的に見て非常に活発であったと思はれます。或大都市の学校保健会顧問が月刊保健科学四月学会号に述べられて居る一節に「学校保健法にクローズアップされた学校薬剤師の進展振りは今まで影の薄すかった丈に目をそばだたしめるものが少くない。新鋭の薬剤師部会は常に研究会を持って広く斯道先進者の説を聴容し講演会、講習会を催して団体的訓練を行う陣容を固く整備して、実地に校園々外の環境の調査検討を行う。彩光・・・給食、プールの消毒並に細菌検査等縦横無尽の活躍振りは人の和であり熱であり勢揃いの首途の勇であって時に呆然たるものがあるが讃辞を惜しまない」と・・・尖の一言に依ても如何に校剤が学校保健会に認められ、薬剤師の専門的技術面を高く評価されるに至ったかがお分りになると思います。

 更に医薬分業制定後の処方箋発行に目を移し極端な骨抜き分案を憂うる時校剤が橋渡しとなって所謂歯薬協定処方の作成に成功して居る例は全口各地に頗る多い様であります。斯様に考えて参りますと学校薬剤師は実に地味な役割をつとめながらも着々として実蹟を挙げて居ります。

 其の現はれとして昨年十月三十日福岡市御供所小学校で開催された第十一回福岡県学校保健大会に、最も若くして表彰されたのが八幡市の神谷武信先生であります。之全く同氏が校剤としての自覚をしっかりと握りしめて学校薬剤師の育成並に学校保健の向上に貢献された結果であります。

 学校保健法実施後の環境衛生問題は各大会毎に益々活発化して参りまして校剤一般の活動を要望されて居りますが、更に当面の問題として吾々に関連して保健室の整備手当の増額歯科校医学校薬剤師の公務災害の保障等が強く叫ばれて居ります。併し何と申しましても今年は完全必置受入態勢の確立が最大の問題でありますので、各自最善最高の努力を続け、特に未設置地区の会員諸兄は、是非共此の一ヶ年に校剤としての知識を修得し、一応安定した形で三十六年四月一日を迎え得る態勢を整えていただくよう御願いする次第であります。

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 年頭雑感 福岡県技師 田中美代

 年のはじめともなると一応私も、こと改まったつもりで、今年こそはあれもしたいこれもしたいと、出来さうにないことであっても、いかにも出来さうな気がして、何かとおしゃべりしてみたくなる。ところで新年というものは、年をとって来ると、嬉しいとか悲しいとかいう気持ちではなく、ただなんとなく懐古的になってくるものらしい。

 過去を懐古するということは進歩的ではないにしても、古年のできごとの、一つ一つを経験として積み重ねて行くことによって、始めて人間としての円熟味が加わって来るものであるということはいえよう。その一つ一つの出来ごとは、年を重ねるにつれて、楽しいものとなって来るのである。然しながら人間年を重ねて来ると、兎角愚痴っぽくなって、若い人に敬遠され勝となる。私もだんだん年をとって来たし、敬遠されないようにつとめてはいるものの、そうでもないらしいのでせめて炬燵の中で迎える松の内だけは、と角のんびりとして暮らしたいと思っている。

 医薬品の濫売を防止する目的でもって、昨年の三月二十七日だったと思うが、薬事審議会の中に、薬事制度調査特別部会が設置された。この委員会は委員二十名をもって組織され、前記の問題の外に、薬局の適正配置と、薬剤師の身分等にあわせ、薬事法の改正というこのについても検討がなされた筈である。然しながら本問題は、日本薬剤師協会員と全日本薬業士会員との不幸な対立のため?とかで結論がでそうにもなく年を越したようである。そこで薬事法の免許制度と、薬局のあり方を薬事制度の本質から考えてみると、薬局というものの実状はまことに権威のない形式的な制度であって、一日も早く再検討されなければならないことはすでに御承知のとおりではあるが、然しながら同法第二十一条第二項の規定を頭をかかえて考えてみると、説明のつかない不合理さを感じるとともに、複雑な感情にとらわれるのは、私一人ではあるまいと思う。

 私は今日まで実のところ支持したいと思う政党がない。というよりどの政党のあり方についても賛成できないのである。思い出として残る古年の嫌なニュースのかずかず、若さと純粋さだけが青年のすべてではない筈なのに、革命に通じる良識を越えた、全学連の暴挙、たとえ一部のものの扇動ではあったとしても、学生の本分にもどる行動はまことに悲しむべきことである。

 これに対遮的なのがベトナム賠償、ロッキードの購入と、国民の疑惑の中に包みこんだまま、押しきろうとす自由党の思い上った暴挙であった。社会保障を一枚看板の社会党の分裂も悲しいニュース。僅かなロッキードによって、日本が守れようなんてことを考えている人は、恐らく一人もないだろうし、ロッキードの一台を削減することによって、一人のパイロットの生命の安全が保障され、何万人という人々が、夜空の下でふるえなくともすむ幾百戸かの家が建てられる筈である。今年はもっと明るいニュースがきかれないものかしら。

 福岡県女子薬剤師会が誕生して六年目の春を迎えた遠大な理想と抱負を掲げて発足したものの、財政的には全く無力で他力本願すべてがあなた任せで、よくもまあ今日までやって来たものと心苦しい限りである。幸にも今日まで福岡県薬剤師協会を始め、各種団体の好意的な援助を頂いたおかげで、対外的にまことに声価をあげ得たわけである。これもあるいは女であるがためのしあわせ?かもわからない。が何時までもこのような虫のよいことが望まれるわけのものではない。

 ということは知りつつも亦今年は多士済々の会員に負んぶしてもらって、何か事業をやってみたいなと慾ばっている私。このようなことができるかどうかはわからないけれど、松の中のその春の匂いのさめぬこたつの中でお許しを頂きみな様の好意に甘えさせて頂けるよう年の始めに当って御あいさつを申しあげたいのでございます。あけましておめでたうございます。みな様よいお年をおむかえになりましたことと存じます。今年もどうぞ御援助下さいますようお願いいたします。

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 今年はねずみ 福岡県女子薬会長 山田ミノル

 「猫の目のやうに変る」と変る事の激しい事を喩えに言ふが、昨年は猪が偉駄天走りに走って、次は鼠にバトンを渡した為か本当に一年が早かった。然し二昼夜もかからずに月の裏側まで行く月ロケットの事を思えばまだ鈍いかも知れない兎に角今年も猫に追れる鼠の年だから油断は出来ない。然し又鼠といふのは人間に取って何とイマイマしい存在だろうか。人が寝沈まった頃天上で運動会を始める。可愛らしい格好をして人に見つかっても平気なもので長い尻尾を振りながらゆうゆうと逃げて行く、一寸油断をすれば食物はおろか金物以外は何でもかじって終ふ、だが彼等にして見れば猫さへ居なかったらもっとあばれてやるのにと思ってるに違いない。御用心が第一である。

 ところが現在の開局薬剤師は鼠の恐れる猫以上にSMを恐れる時代になった。引捕へて食われて終らないまでも食を奪はれて生きる道がつきるのでやっぱり恐しい。我々開局薬剤師も鼠の如く器用に抜けて素賢く立ち廻り、高い所から見下してやるやうに鼠に習わなければならぬかしら。

 さて昨年十一月私共福岡県女子薬剤師会は福岡市の電気ホールで衛生教室を開いた。入場者壱千六百名、これは薬剤師のグループで大衆を一堂に集め得た事の新記録ではないかと思ふ。これは皆様に知って頂きたい事の一つである。そして一開局薬剤師である古屋英樹先生のお話を聞かしたのだから素晴しいでせう。然も御婦人ばかり、然し此お集り下さった方々は山野愛子先生とい美容師の大家の香を慕っての御入場らしい。

 そして入場者の頭に残ったものは、主催者女子薬剤師会は忘れて山野さんの顔ばかりかもわからないと思えばいささか悲観せざるを得ないが、上るためには踏台がいる如く致し方ない事、やがて女子薬剤師会の名を慕って集って来る時代を夢見ておきませよ。兎に角之を催すためには副会長である福岡県庁薬務課勤務である田中美代先生が、それこそ寝食を忘れて東奔西走して下さったお蔭だった。私共大いに感謝してやまない。田中先生ならでは出来ない事だ。

 又人を集め得る一流講師を頼む発端をなしたのは、常日頃美容に関心深く居られる副会長の杉山様と常任理事の市丸様の思ひつきだった。事の成功不成功は最初の思ひ立ちにある事を思えば此お二人にも大いに感謝せねばならない。又貧弱な女子薬剤師会の財政であんな大きなスケジールを組む事が出来たのは中外製薬KKの協讃があったればこそで、之も忘れてはならない事の一つである。

 そもそも女子薬剤師会が女子薬衛生教室なるものを行ふやうになったのは、何とかして薬剤師が女子薬会が社会的に認識して貰いたい、専門学校や大学を出ながら店先にこき使れたり、病院では医者や看護婦にへだてられたり、開局すればクスリ屋の小父さん、小母さんとか全く哀れな存在である。此地位を獲得した原因は専ら過去の薬剤師の在方にある故なのですが、後に続くものに対して甚だ申わけないと存じた会員の総意に依って始められ、すこしでもこれによって薬剤師なるものの社会的認識を更へさせて行きたいといふ念願からであります。

 一昨年はベテランの医師にお願いして致しましたが薬剤師を認めさすためにする仕事が、医師を中心にして行ったのでは駄目だといふ事に気が附いたのです。それで今度は絶対に薬剤師の講師であらねばといふことになったのです。昨年は九大の塚元久雄先生に御願ひして有害色素についてお話して頂きましたが今年は古屋先生、全くの町の開局者の方にお話して頂いたわけです。最も先生はラヂオドクターではありますけれど、お話は平易にして面白く皆様の役に立つものだったと思って居ります。五六年前福岡の全国学会で女子部会を始めて催し、女子薬剤師が四百名も出席した事は大きな記録でしたが今度は大衆を集め得た事について皆様に知って頂きたく一筆致しました。

 次に最う一つ。学会なるものの認識を町の薬剤師は「アレは御祭みたいなものだ」と一笑にして終ふ方の多い事を一寸残念に思ひまして一言述べさして頂きます。此頃テレビで御祭が紹介されますが、我を忘れて歌ひ、踊り、心から楽しむ、之が日本の隅々まで何処にもある事であり、又世界中の何処でもやってる事だとすると、お祭は人間生活になくてはならぬ行事らしい。でも何も他県まで或は大阪、東京までも御金と暇を費してお祭に参加しなくとも町の御祭で結構だと仰言られるかも知れない。

 では薬剤師のお祭である薬学大会の各部会から総会の全部に渡って出席された方が何人あるでせうか、恐らくは一人も居被らないと言ってよいのではないでせうか、全部をつかみ得ず、いや一部すら、或は一度も出席せず、単なるお祭ときめつけて終ふのは余りにも苛酷ではないでせうか。私も此四、五年ブロックと全国とをかけ廻って学会に出席して見ました。其中で一ばん良く出席したのは東京学会の三日間であったけれど、同じ時間に幾つもの分科会なので半分すらも参加する事が出来なかったやうな次第である。

 聞手に廻る薬剤師は自分の好むところに出席し、面白くなかったら又次にといふところでせうが、シンポジウム等での発表者は、永い間かかって苦労をなし其結果を発表されるのですから容易な事ではないと存じます。与へられた僅か十分か十五分の間に如何して有効に然も上手に発表仕やうかと其真剣なる態度には頭の下る思ひ。同じ薬剤師でもあのように勉強される方達が居被るといふ事を感服すると共に認識する事が出来る。

 其他私等の先頭に立つ先生方の御顔を拝したり、又我々の願ひを一つにまとめて決議として当局にあたる手段を作る場所でもある。こんな真剣さの充満したお祭が外にありませうか。棒給の少なきを歎き、SM、の悩みに打ちひしがれる現状の破壊策を見出すためにも、先ず元旦に計画を立てられて、今年は一つ九州ブロックの或は東京の全国学会に必ず行けるやう時間と経済を造るべく心がけらるる事を御進め申上げてやまぬ次第です。

 医者に看護婦に、SM、にねらわれてる我々薬剤師は、今年は一つの鼠の如く身軽にかしこく立ち廻ってうまく切り抜けて行く事を、そして不利な事には集るとこのに集ってスクラムくんで押返す習慣をうけるべく年頭に計画仕やうではありませんかとは申しますものの、私と致しましても役を持ち致方なく出席したまでの事。今後は計り知りません。ましてや女子は誰でも種々差し支えも多く自分の意の如くならぬが常ですが、然し日頃念願すれば三度に一度位は出席出来る機会も与へられやうと存じます。思ふままに筆を走らし永々しきをお詫び致します。今年もまた平和で皆様と共に幸せであります様お祈り致します。

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 私の所蔵 古賀哲弥

 薬剤師七十年来の悲願医薬の分業も漸く法制化されて、その運動に一先ず終止符をうった。然るに現実はどうか。まるで闇米の横行と同じで法のあって無きが如く違反が堂々と行はれている。この現実をどう見たらよいだろう。永い間の慣習は一時に打破出来ないのだとも云はれる。医師の経済的理由、引いては医師の政治力の強さだとも云はれる薬剤師の自覚が不足しているからだとも云はれる。

 私達は何のために調剤室を新装したか、何のために数多くの調剤薬品を完備したか分らなくなってしまった。然し何はともあれ、父祖伝来闘争の歴史を綴り爰に始めて獲得したこの成果?を宝の持腐れとせず何とか生かして行きたいものである。米薬事使節団の言葉を借りるまでもなく、今まで我々薬剤師は全く物品販売業に堕してしまっていた。大学や専門学校の卒業証書が泣くのも無理はない。我々が学校で習得した専門の技術を生かすべく、医療担当者としての高き理想をかかげ、一日も早くこの目的に到達するようにお互手を取り合って努力しなければならない。薬局の試験室、調剤室を遊ばせる事なく大いに活用し、ここに医療機関ありと大衆に知らしめる必要がある。最近保険処方箋の獲得枚数が緩慢ながらも徐々に増加して来つつあるのは誠に慶びにたえない。亦乱売対策の一助にもと自家製剤に力を注ぐ薬局が増えて来た事も大へん良い傾向である。

 薬剤師なり薬局なりを大衆に知らしめるに最も手っとり早い方法は私達薬剤師が学校薬剤師として学校内に進出する事である。勿論商売気を離れ、学校保健と云ふ崇高な目的を持った純な気持でなければいけない。私共が学校薬剤師として始めて辞令を貰い非常勤の学校職員として担任校に着任した時には、クスリやさんが来た。学校専属でクスリを売るのではないかとの誤解をした教員もいた。然しそれも私共が照度の調査、学校用水の水質試験、給食食器の汚染度試験、保健室薬品の整備指導、教室の空気検査、塵埃調査、理科用毒劇物の保管指導等々巾の広い職務を一途な気持で実施している中に、学校薬剤師の活動分野、薬剤師の真価と云ふものの認識が逐次深くなって来た。

 私の地方ではここ数年来校医の敬遠する寄生虫検査をも全地域の小中学校で実施し成果をあげた。そして現今では学校保健に関する限り医師以上の比重をもって重要視される様になった。その認識はPTAを通じ一般大衆にまで及ばんとしている。私は学校薬剤師が誕生してこの方、薬剤師や薬局の株が大分あがった様な気がする。

 もう一つ思い掛けない効果のあったのは、医師と薬剤師は処方箋発行についてその立場が違い融和が仲々むつかしいが、之も学校内に於ては校医学校歯科医学校薬剤師と云ふ名前で同じ目的に向い三者一丸となって仕事をするのでその立場が全く同じであると云ふ事である。こうして単一校に於ては三者の緊密性を増すと共に全般的には三つの学校師会の融和ができ、更には一般三師会のつながりにまで発展して来た。こうなってくると処方箋対策の一拠点も得られるし、国保対策その他にも医療担当者として共同歩調が取られる利点がある。

 この利点を得るためにも学校薬剤師未設置の地区に於ては、法制化の日を待つまでもなく速やかにその設置にこぎつけるべきである。それも名前だけの設置ではいけない。薬剤師としての技術を奉仕する実際活動がなければならない。私は学校薬剤師は薬剤師協会の一つの広報宣伝部であると思っている。薬剤師協会自体の広報活動部門で使用する金銭予算があればその大半を学校薬剤師会に投渡し、薬剤師なる名のPR宣伝の下請けをさせてもよいのではないかとまで思っている。

 世はまさに乱売合戦の時代である。私達は生きる為食べる為には生存競争に打勝って商売をしていかねばならない。だからと云って私達は何時までも一介の商売人として現状に甘んじていてよいだろうか。それでは薬剤師は永久に浮ばれない。目標はまだまだ遥かの彼方にある。だからと云って努力をしなければ、何時までも同じ所に留まったままで一歩の前進もない。目標に達する道は遠くとも一歩一歩と前進して一日も早く自他共に認める医療担当者になりたいものである。

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 九州薬業界の進むべき路 小倉市 形井 洋

 一 戦後の薬業界の歩み
 終戦の混乱はどん底まで行きついて薬業界は壊滅したが、日一日と立ち上りを見せ、戦時中の配給統制はその後も続き国内の医療は細々ながら続いたが、沸底した医薬品は需要をまかない切れず供給の道は固くとざされてなけなしの薬は飛ぶ様にさばかれ、必須の高貴薬は膨大な闇値によって市中に売られて行った。

 今迄医者向は地方に於ては大半は小売店より納入されてその立値も小売値又は若干下廻る値段によって取引され、取引のルートも生産者−小売店−消費者と一環した流れによって大きな混乱は無かった。しかし漸やく配給統制の随性によって医家向のルートは小売店を通さず大っぴらに卸より直接納入され小売店は之に立ち打ち出来ず薬業界の商習慣は混乱の直後に変換の方へ一歩を歩み出した。

 二、需要供給のバランスと輸入薬品
 混乱の期の最中に薬品の大革命と云ふべきペニシリンが発見され更にストマイが出来薬業界は大いなる発展を遂げた。薬品の欠乏を補充するため輸入薬は闇ルートにより市中に氾濫し、脅威的薬効は革命児としてふさわしい成果を上げ保健衛生のため貢献したが、これを契機として戦後漸やく立ち直った製薬メーカーは競って之が生産に乗り出し、遂にはオートメ化の端緒を作って行った。これに呼応して敗戦のため疲労困憊した国民体位を救ふべくビタミンB類が生産され、逐次メーカーのシーソーゲーム的競争により大量生産に向って行ったのである。この生産競争により今までの需要供給のバランスは供給の体整の向上により大きく変って来た。

 三、小売薬業界の動向
 終戦直後の薬品の品薄に対し小売店はその日の仕入に追はれ、薬品の確保に目の色を変えて薬品の流通について次第に確固たる定見を失ない、品が有りさえすれば何処でも飛びつく有様で卸も商品の確保に対し寧日ない状態となって来た。戦後の海外勢力も大巾に縮少され、薬業者は狭い国土に押しつめられ化学産業への道は閉ざされて国内は薬業者の氾濫を来たした。

 資格を持った者は結局薬局薬店を開業し小売業界は不必要以上に膨れ上がり小売店同志の暗争は漸やく激しさを帯びて来た。今迄薬九層式の安易な夢を追って来た薬業界も急激な世の中の変動に対し徐々に変化を来たして行った事は当然と云はねばならず。業者の激増は売上げの低下を来たし之がため未だ完全に立直らない製薬メーカーに対しいち早く立ち上り全国的に小売店と直結したチェン組織は、メーカー小売店の直結によるマージンの大きさの魅力と相まって、メーカー卸小売と続く正常ルートを押しのけて小売店の利益率慾求心に抗し切れず、普通メーカーの生産増強態勢が整ふ迄に根強く利益追求の慾望は小売店側に滲透して行った。

 四、卸業界の枢勢
 薬品欠乏の時期は之が確保のため東奔西走し、メーカーと小売業と板ばさみにあって苦しんだ卸業界も漸やく生産がのびる事にしたがって小売店への販路拡張も海外市場を失った現在卸同志の争いも頭打ちの現状となり、之が対策として積極的に事業所官衛庁購売会への納入となり之は更に深刻となり競争は激化の一途をたどる許りとなって来たのである。

 五、メーカーの生産攻勢と予防医薬品
 漸やく敗戦の混乱を脱した生産メーカーは、メーカー同志の競争に輪をかけ大量生産への一途をたどりビタミンB剤より発した予防医薬品は綜合ビタミン保健ビタミンとなり、現在のマスコミ医薬品となって来たのである。先きの小売店の利益追求の慾求対しメーカーは生産の向上による生産コストの低下、オートメ化による更にコスト低下によりチェン対効と他社との競争のため大巾なる売上戦の開始となって来た次第である。戦後現れたテレビはこの攻勢へ輪をかけて遂にマスコミ商品なる一連の医薬品を作り上げたのである。

 六、国民の衛生思想の向上と社会保障制度
 疲労の極より漸やく脱却した国民の体位も食生活の改善と衛生思想の向上とにより戦前をしのぐ体位の向上を来し、更に政府の社会保障制度の拡充は「ゆり籠より墓場まで」をモットーに着々と成果を産んで医療制度も大巾な改革をとげて来た。社会保障制度の充実は医療品の必要性を治療的医薬品より予防的医療品へと変更せしめ、これにより小売薬業界は深刻な打撃を受けるに至った。更にテレビ、ラジオ等のマスコミ商品はマスプロを更に助長し世は上げてマスコミ、マスプロの世の中に突入する事となった。

 七、商業界の移り変り
 終戦を境にして商業界の有様も欧米的となり自由競争の時代となり、弱い者は次々に脱落して行く運命にあった。欧米特に米国の最新しい商策は一早く国内に取入れられ消化して行った。驚く可きスピードで之が全国のモードとして紹介されて行った。我々現代人は見る事の出来なかった維新もかくやと思い合される程アレヨアレヨと世の中は移り変って行った。しかし大事な事は日本はアメリカではないと云ふ事である。

 そこには商業界の九十七、八%は中小企業殊にその内八十%以上は零細企業であり、アメリカと大して変らない人口がアメリカの何十分の一の国土にひしめき合っている現状である。この現状を見逃す訳には行かないのである。商業界は日進月歩移り変って行く。この事実は卒直に認めねばならぬ。我々のみが特権階級の何者でもない。世の中の流れについては敏感に又卒直に受け入れねばならない。世の中は終戦を境にして大いに変った。この事実は動かし難いものでありこの事実を抜きにして我が薬業界の将来は考えられない。

 中政連の鮎川総裁は消費者の気持をこの様に云った。肉屋と下駄屋と菓子屋が並んでいるとすると菓子屋は一軒隣りの肉屋が少しでも安く売られる事を望むし、又肉屋は柾目の下駄が一円でも安い事を希ふ。之が消費者の慾求である。この事実は今日程強い時代はないと話されて来た。之が時代の様相であり慾求である。そんな世の中であると観念を定めねばならない。消費者は王様だ。

 八、薬業界の不況とは何か
 以上の如き事実はまだ外にも多々あるであろうがこの事実は全て現在の薬業界の不況に継っている。それでは業界の不況とは何か。売れない事である。小売店が多すぎる。流通が正常でなくなった国民が薬特に治療薬品を使はなくなった。生協購買会スーパーマーケットが出現して安売を始めて客が安い方につられた。マスコミや衛生思想の向上は消費者は自分で薬を選びやすい方を希望した。これ等を助長する如くメーカー卸が動いて行った。これ等は世の中の流れである。運命である。零細な小売業者はこの世の中の大流に押し流されて行く許りである。これが現在の世の中の時流であると傍観をしていいものであろうか。

 小売店の感じ方考え方は井底の蛙式である。今迄が良き時代であり過ぎた。世の中の移り変りがひしひしとして押し寄せ流通機構はゆがめられ薬業の正常な商業道徳は破棄され、自由競争は激化され、零細業者である小売業者は押しちぢめられ義務のみ多く押しつけられ主張すべき権利は何ものもない。正直者は馬鹿を見る世の中となった。この一半の責任は小売業者自身が深く反省して見なければならないがしかしこの世の中の不条理はあくまで正さねばならない。

 九、薬業界の使命
 我が薬業界には与えられた使命がある。勿論食料品店にも有ると云ふだろうが然らば何が故に小売業界には資格者でなければ開業を許さないのであらうか。この使命を吾人が自覚して行かなければならない。この自覚保健衛生の一端を荷なう自覚が我々が一般商人と異なる由以であると思ふ。これがため戦後の薬事法は改正されねばならない。薬業界は正常であると云ふことに世の中が正常であり有益な事である。

 十、団体法と措置法
 元来鮎川総裁は余世を中小企業の育成に望みをかけた。余りに国内の中小企業特に零細企業は益されぬ日蔭の存在であり過がた。それも猶今日の商業界は殆んど零細なる小売商である現状である。中小企業は救はれなければならない。強く生きるために団結をしなければならない。団結は国政に反影すると力説された。このみじめな小売業者の不況を何とかしようとするのがこの団体法である。

 この団体法を生かすか殺すかは一つにかかって小売業者が有効に使うか使わないかによって定っている。ところが小売業は今非常に懐疑的である。はたしてこの法は我々を助けて呉れる法律であろうか。又は本当に有効な救世主であるであろうかと甚だ疑い深い。無理もない事だと思ふ。小売り商業者は余りに今迄いじめられて来た。又色々な法律により弱い者いじめされて来た。だまされて来た。又甘い事を云ってもだまされんぞ。と云う気持は殆んど大部分の小売商が持っている。いつわらざる気持であると思う。故にそんなものに対し血道を上げるより自分を助けるものは自分丈しかないのだから夢を見る様な事より現実に自分が食って行けるようにした方が得だと考える様になる。もっともな事だと思う。これだから小売商は政治的にのびないのだと思うし小売業のあわれを思いしらされるのである。

 十一、結言
 東京大阪はなるべくして乱売になった。これが一般社会に与える影響は大いなるものがあると思う。先ず第一に
 1、業界に対する不信、医薬品に対する不信であろう。薬はかく利潤が有るものだといふ考え甲と乙の小売店を通じての業界に対する不信観は測り知れぬものがある。

 2、医薬品の商品代とプライドの喪失であろう。小売商は現在の段階に於ける医薬品は我々のプライドを行使出来る唯一の路であり之を通じて一般大衆に保健衛生の誇りを誇示し得る唯一の方法であるのでこれすらとざされて了った。

 等が大きな事柄であるが要するに東京大阪の愚を何で繰り返す必要が有ろうか。我々は前輪の返ったのを見て後輪のいましめとすべきであって、今更東京大阪の誤りをくり返す事は更々ない。むしろこの前例をいましめとしてよりよき方策を立てて邁進すべきである。しからば方策とは何か。団体法による商工組合の設立であり、之が運営と実施により業界内の安定を測り団体法以外のものに対しては小売商安定特別措置法により生協購売会の員外利用を規正する以外に何ものもないと断言する。

 何故ならばこの法律は小売商の不況を救済せんがために出来た法律であるからである。立法の精神はここにある以上之を利用し良法とするも悪法ザル法とするも一つに懸ってこの法律を有効に運営するかしないかにかかっている。運営の円滑が良ければこの法律は小売商の救世主となるであろうし、悪ければ先きの再販協約維持法の如く底のほげたザル法と化して了うであろう。しからば運営とは何か。団結である法を運営しようとする熱意である。小売商がこの法によって助からうと機せずして集る処に法は効力を発揮し不況は克服され我々の生きる権利は主張されて来るのである。(開局薬剤師)

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 今年の課題 国立福岡病院薬剤科長 山本秀一

 昭和三十五年の新春を迎えるに当り皆様のお健康とお繁栄をお祝い申上げる次第である。さて正月と共に九州薬剤師大会薬剤部関係の提出議案について今年はどうあるべきかと静かに考えて見るにその度毎の提案事項がどういう結果を生じたかと考えると、誠に残念ながら都合よく実現したか或は幾分でも新興しているかとのなりゆきがはっきりしないと私は思ふ。

 勿論物事は差程簡単にかたづくものでないことはよく承知はしているが、その辺の成行を今少しはっきりさせたいものである。いつもながら大会毎に提出議案が各部門毎に慎重に審議され大会運営委員会に持ち込まれ更に審議の上決定され、花々しく大会に提出されて割れるような拍手喝采と共に決定されて大会が無事終了したが、最後我関せずといふわけではないがいつとなしに過ぎ去り翌年の大会を迎えるとまた新しい提出議案が決定されて、毎年同じようなことを繰返し繰返しておるだけで大会の席上では昨年の議案に対し日薬からの出席代表者が口答をもって全体的に一括報告される項目のうちに包含されて余程熱心に耳をそばたてて聞いておらないことには聞き洩らすおそれもあるぐらいで、提出した側から見るとなんとなく頼みがいがないといふ感じを受ける人がないとは限らない。

 大会の都度提出した議案の成果を見とどけることなく翌年はまた新しい議案を作り出すような状況であることに対しいささか割りきれない感じを持つ人が出来ても困るのでなんとか扱をかえて提出議案に対してはその一つ一つにつき日薬がいかなる処置をとっているかについて、中間報告としてそれぞれの事項に対し○○に交渉しているとか目下検討中であるとか○○の事情があって目下棚上にしてあるとかを要約して会員に知らせておいて、次の大会の口答報告のほかに他の記事は後廻しにしてでも一年間の経過を差支えない事柄に限り雑誌上に要旨だけでも掲載してこそ機関雑誌としてその存在価値も高まるものと言へる。

 要は提出議案に対しその成行を広く会員に知らせてほしい。そうすることによって提出議案が生きてくることにもなりまた引いては日薬の有難さも大きく光る結果になるのではないでしょうか。最も全国各地から提出される議案は相当の数になるので一つ一つ扱いかねるといふのではなくそうすることが日薬本部の業務の一部だと考えたい。何れにしても従来の扱い方をなんとか改めて新しい分野に一歩斬新させたいものである。

 拙文で要を得ないので恐縮ですが、要はいづれにしても九州地区より提出した議案についてその一つ一つに対しそのなりゆきをはっきりと知らしめてほしいので何等か具体的対策を本年の課題としたい。参考迄に九州薬剤師大会議案の一部を列記すると、昭和二十九年第二十四回議案(一)医療法第十八条の但し書の規定は瞭かに薬事法第二十二条の規定と背反するから日薬を通じて但し書を削除するの件、理由、病院又は医師が常時三人以上が勤務する程の診療所に於て薬剤師を設置せず医師自ら調剤することのあり得ないにもかかわらず都道府県知事はこれを許可している。

 一、入院患者に対し完全看護を実施している病院では内服薬を看護室に常時保管して服用の都度看護婦が直接患者に服用を実施しているが彼我混同により事故発生の遠因ともなるおそれがあるから他の方法に改めるよう日薬へ善処を要望する理由、不幸な事故が発生したとき責任がはっきりしない。

 一、病院勤務薬剤師の定員を剤数計算による確保方要望の件、理由省略
 昭和三十年第二十五回
 一、病院勤務薬剤師の定員確保要望の件
 一、病院診療所の薬局管理は薬剤師をしれ担当せしめる様主務大臣に陳情の件
 一、病院組織の箇所に薬剤師を置かざることを得の府県特令の即時撤廃方を日薬を通じ関係当局に要望の件

 昭和三十三年第二十八回
 一、社会保険診療報酬点数甲表中調剤料等の事項について改善方を日薬を通じ関係当局へ要望するの件
 一、薬剤師の勤務する病院薬局を確立するため法改正を日薬を通じ厚生省へ要望するの件
 一、病院麻薬調剤者の免許制設定方を日薬を通じて厚生省に要望するの件
 一、病院薬局窓口勤務者の危険手当支給制度設定について日薬を通じ人事院に要望するの件
 一、人事院勧告医療職二表中薬剤師給与改善について日薬を通じ人事院に要望するの件
 一、病院診療所等における薬品倉庫の設備上の基準を制定するよう日薬調剤委員会に要望するの件
 その他の年における提出議案は都合により記載を省略するが今年の課題として従来提出した議案の解決推進について何分の指導をお願いして筆を置く。(厚生省九州地区国立病院療養所薬剤師協会会長)

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 剤界待望の 福岡県薬事協議会規程 旧臘廿五日から実施さる

 福岡県剤界待望の「福岡県薬事協議会規程」が交付され昭和卅四年十二月廿五日から実施になった。その目的は剤界にとって既に常識的のものであるが、本協議会の事業は次の四項となっている。

 一、医薬品の品質確保向上に関すること。
 二、医薬品の適正な使用と厳正な取扱いの確保に関すること。
 三、医薬品関係団体の調整に関すること。
 四、その他薬事制度の円滑な推進と薬事の振興に関すること。

 協議会の委員は県衛生部長から委嘱することになるが
 @関係行政機関から三人A学識経験者から二人B関係薬業団体から七人、計十二名となっている。即ち@は衛生部長、商工水産部長、薬務課長、Aは塚元九大教授、松村九大薬局長(Aは未定)Bは県薬協会長、県薬業士会長、県小売商組理事長、県配置薬連会長、筑紫廿日会代表、県卸連会長、県製薬連会長、となる模様である。この協議会が業界にとってどんな役割を果すか業界の注視の的となるであろう。

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 福岡県薬剤師協会定款 第一条をより積極的に運用しよう 田川薬剤師 側島希允

 県薬剤師協会定款第一条中には、薬学薬業の進歩発達を図ると言ふ主旨がある。この進歩発達が、私には現況は、ずば抜けた限定少数者にまかせきりの部面が多いのではなからうかとの気がする。もっと多くの会員方の協力による進歩発達を望むや切である。

 限定少数者のズバ抜けたスーパーメンによる成果と殆ど全員に近い多数の方々の協力による成果とは自らそこに比較出来ない大きな開きが生ずるであろうと思う。投稿の依頼を受けて、期限もぎりぎりに来たので身辺の一、二の問題に絞って考えてみようと思う。

 ◆学校薬剤師

 福岡県で学校薬剤師活動の最も不振な地方は筑豊地方である。校剤理事会で、いつも筑豊の不振が問題になっている。筑豊は飯塚、直方、田川、山田の四市と、遠賀、嘉穂、鞍手、田川、築上の六郡である。

 直方市のA先生は、御住地のU町が未だ直方市に編入されない以前から校剤活動について極めて積極的で、全国にその名を拡められて表彰をお受けになられ、数十年以前から御活躍なさって居られたのである。先日も、直方市の国保運協委として県外に御視察にお出のA先生と車中お会いしたが、誠に広範囲にご活躍中である。A先生お一人に筑豊地方の校剤の成果をご期待するのは、する方が無茶である。

 当地田川では、田川郡川崎町には昭和三十年から七校に設置され、田川市では三十四年一月から僅かに二校だけに設置されたに過ぎない。田川薬剤師会では、設置数年前から比較的大規模な運動を展開し、実現迄数年を要した不振の原因は、田川市否筑豊各地で言えることだが、筑豊の成行に忠実に従順すると言ふに在る。先進地に当局者を視察迄仕向ける迄は非常な苦心であった。県校剤会長早川先生と作戦を練り、往復の通信は大変なものであった。

 どうにか久留米市や大牟田市迄視察にこぎつけたのであるが、その間、市議会の総務委員会には禁ぜられた傍聴を犯し、退場を命ぜられても聞き入れず、書記に退場を執行される一幕もあった程だ。又、市教委事務局の人事異動で事務引継の話合の中に、待って呉れと言ふのを無理に陳情したり、課長が執務中は多忙だと言えば、退庁後、私の家迄夜間(彼は汽車で一時間の処から通勤中)十数回にわたって立寄らせ、頭が痛いと言えば、鎮痛剤を服用させては交渉し、ありとあらゆる手段を尽したのであった。

 然し残念ながら、彼等の脳の中には、「飯塚市は?山田市は?直方市は?」とだけしか考える余地はなかったようである。筑豊地方は筑豊地方だけで教委会の協議会も度々開催され、相互に筑豊地方のみで足並を合はせようしていた。少くとも田川市で運動している時には、テンデンバラバラではなくて、飯塚市、直方市でも運動をして居られたら、運動をしていると言ふことだけについての認識を与え得て、若しこれがあって居れば、現況は今とは遙かに変った成果を期待出来たであろうと思ふことがある。

 成程直方市にはA先生が居られ、飯塚市ではPTAの主要ポストに薬剤師が立ち、PTAの学校保健関係で活動されてる方も居られ山田市では、学校問題を含む公の会合に薬剤師の代表が立って居られるが、結局は、限定少数者の行動に過ぎないのではなからうか。

 最近、遠賀郡内で、校剤の新設を聞くが、捗に出られた方々の御苦労が推察出来る様だ。私は今回市教委会より年俸の他に金一封をいただいたが、低い年俸でも校剤増設により多数校剤師の合計額の受取高の方が、一個人の受領額より大きいことは言はずもがな。

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 私の想ひ出「熊本と博多」 熊本 木岡義一

 ◆剤界五十一年
 私が現在の地に根を降してから三十六年になる。丁度人生の半分暮した。考へて見ると早いものである。その間九州薬学専問学校の昇格委員として陳情や資金の集めに奔走したことや。市の開局薬剤師会長として天皇行幸の際、行在所に行て奉伺の記帳をなしたこと、県の薬剤師会長の時全会員の協力の下に九州薬剤師大会を熊本の地に花々しく開いたこと、熊本市会議員の選挙には準備不足の為め惜敗したこと、商工会議所議員には二度出されたこと、日本薬剤師協会代議会には三期を勤めた、昭和二十五年には地元の商店街から押されて商友会長となり、二十八年に熊本駅通にネオン街路灯を建設して熊本市長より表彰を受けたことなど、明治四十二年に薬剤師の免状第三六三八号を貰った年から実に五十一年の剤界生活であって、先月長崎市に於て九州薬剤師会名誉会員としての推薦を受けた時は枢密院入をした様な感慨無量の想がさせられた。

 亦剤界の親友松本赤男、中西藤吉、佐藤範、光多仁一郎、渡辺宗太郎、布田尚、友枝伴蔵の諸君が相次つで故人となった今日、松王丸の一台詞ではないが、何とて木岡一人が連れなかるらんの感がせぬでもない。

 ◆遠藤と平島
私が学校の川岡守三先生の世話で福岡の徳島薬局に勤務することになったのは私の二十才の頃であった。当時博多の町は電車の第一期線工事が始って町はゴタゴタしていた、その頃の博多の薬品問屋と云へば波多江と徳島の二店位で大学病院の入札などは面目にかけて原価すれすれも線で競っていた。私は店に居る時は主に調剤をやり、又大学病院の外交をやって居た。

 店主の徳島峰太郎氏は事業家でスペイン産のブドウ酒を樽で輸入し瓶詰にして発売してゐた。亦大学病院を引退せられた熊谷博士と握手して因幡町の熊谷病院では診察と手当だけ薬は天神町の徳島薬局で投薬と云ふ完全な医薬分業を行ってゐた。その頃の郡部の医院廻りと云ふのが至極のんびりしたもので、四十才位の男が売上のリベート約束で村から村へと注文を受けた薬を行李に入れて背に覆ひ自転車も少ない頃であったので足にまかせて廻り計算はお盆と正月の二回と云ふので集金時には私がその男と同道すると云ふ具合であった。

 その頃の福岡市には波多江喜兵衛、徳島峰太郎、遠藤勝熊、平島稔、本村己之吉、井上喜代松、武内与七郎、県庁に白水象次郎、病院に酒井甲太郎諸氏があって業界のことを論じあっていた。中でも遠藤勝熊君は熊本県人であって元気が良く関ウ鬚をしこいで談論風発一座を圧していたが、西戸崎に医師と共同で当時結核療養所を経営していた。

 ある年熊本の学校から同窓生に森本栄太郎先生の勤続三十周年の祝賀をするからと寄附金が言って来た。すると同窓生の集った席上で遠藤君が金ばかり贈ったってつまらん、先生の寿像ば博多人形で製作して持って行かうと言出した。そうして二個を注文し一個は先生の自宅に一個は学校に安置して貰い度いと云ふ希望で私も遠藤君の御供をして初めて二等車で熊本の祝賀会に行ったことがある。

 平島稔君は雄弁家と云ふより熱弁家であり当時の名物男であった、自宅は須崎で製薬所を経営し主にガレヌス製剤をやってゐた。堂々たるタイプで注文取り廻るや「今単舎が出来とるがいらんかネ」と言った具合で、一風変った処があったがナカナカの世話好きで、会の幹部となり真先に意見を出して指導してゐた。或る時私に向って良い処に奇麗な娘さんが居るが君養子に行かんかいと言われ、私は一人息子ですからと答へると、がっかりした様子でア、そうかと言われたエピソードもあった。

 ◆修弁会
その頃青年薬剤師の間で之からの薬剤師は大いに弁論を練習して至る処でも堂々と意見の発表をせねばいかぬと云った具合で、磯田登喜三、井上吉兵衛、井上友八郎、大川原嘉太郎(後宮川)、峰松今朝一、に私及病院から二三人来て毎月一度夜井上君の二階で盛んに分業論其他をやったものだ。

 ◆日本薬学会
私の在福中に日本薬学総会が福岡市で開催された。漸次薬剤師が認識されかかって来た時代で数名の薬学博士が一度に来たと云ふので、新聞も堂々と書き立てた。会場は中州の公会堂で出席者の主なる人は田原良純博士、池口慶三博士、安香博士を初めとして桜井勘六、園部交雅、森本栄太郎、田中精太の外数氏に、地元では高尾正造(久留米)、徳島峰太郎、波多江嘉兵衛、白水象次郎、宮崎解治(後藤寺)、平島、遠藤、酒井甲太郎、権藤(福島)、戸田秀(二日市)、陣内竜一(大牟田)、星野万吉(小倉)、河野、江口(柳川)等約七十名位で盛大に行れた。当時の写真を見ると半数位が和服姿であり、大部分が幽界の人となってゐることも追憶の種である。

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 人生修業 国保子

 「もしもし薬剤師国保組合ですか」
 「はい、さようでございます」
 「実はね、ぼく国保にはいりたいと思うんだが、申込書を送って貰えませんか」
 「それはどうも、ありがとうございます。先生はどちら様でございましょうか」
 「ぼくは甲町の乙だがね」
 「さようでございますか。一寸お待ち下さい。」
 しばらくして
 「一寸お伺い致しますが、私共の方で調べました処、県薬の名簿に甲町の乙先生のお名前がないのですが協会の会員でございましょうか。当組合では協会員でないお方の国保加入は認められていないのですが」
 「それは分っている。今から協会に加入すれば良いでしょう。申込書を早速送って慾しい」
 「よく判りました。それでつかぬ事をお伺い致すようでございますが、お宅様の御家族皆様お元気でございましょうか」
 「それがね実はぼく医師から入院を命ぜられたので早速頼むわけですよ。よろしく頼みますよ」
 「はあ!!さようでございますか」

 国保子はしばし空いた口ふさがらず。乙氏を説得するのに汗だくの態。右の様な問答は毎度のこと。
 「今迄公営の方が保険料が安いので組合には加入していませんでしたが、今度入院してみて組合の方が有利のように思ふから、公営の方を止めるので組合に入れて貰えないだろうか」
 又「うちのおばあちゃんが寄る年波で最近病気勝ちです。何とか組合員にして下さい」等々。国保組合の十割給付は余程のミリキがあるらしい。

 なかには、「先般来○○病院入院中は大変お世話様になりました。お蔭様にて○月○日退院致すことが出来ました。只今ではもうすっかりよくなり、前にも増して元気になり家業に精出しています。一筆お礼迄」と御懇篤な便りいただいたり、或いは退院の途次態々事務所迄お立寄り下さってあいさつされる人もある。全く恐縮の至り、この人もあの人も皆同じ日の下に生れ、同じ天職をナリワイとする人々であることを思うとき国保子にとってはこよなき人生修業であると感謝している。

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 次亞物語 九州化工KK 境 新

 次亜塩素酸ソーダ液は戦後流行の有力な消毒薬で九州で見られる薬品では
 オーヤラックス東京
 ラバラック  福岡
 ナカラック  福岡
 ハイブリーチ 門司
 次亜塩素酸ソーダ 久留米
 全国では相当の種類が出ているだろう。
 又、洗白剤と云う名で
 ア ロ マ
 などは新聞広告などで広く知られている。
 所がこの薬は大量に使用されているけれども、薬局ルートに乗らぬので、薬剤師には案外知られていない。

 用法として
 水道や飲料水の 滅菌
 水洗便所放流水 消毒
 澱粉製造の 腐敗防止
 酪農、乳業、等の滅菌
 水泳プールの  消毒
 クリーニング屋の漂白
 イオン交換樹脂の復活

 等に大量使用されるので、十%・二三瓩入りで販売されている。五〇〇瓦入りもあるが、これは五%であり事業場や市町村役場等で纏めて買入れて井戸の消毒などに各戸に分配している。こういうルートのため、製造業者から直接消費者の手に渡るのが多く薬局を通る量は非常に少い。これは薬剤師にも責任がある。この薬の性質や効能、用法をよく知り、その販売ルートの中に割り込むように努力しなければならない。この薬品はその広い用途と大衆向きであることとで、今後は自然に薬局ルートに乗ってくる傾向にある。従って薬剤師の常識として知っておきたい事を述べて見たい。

 一、次亜には三種の色がある。標準色は黄緑色お酒の色と同じなのが正しい。
 淡褐色……これは原料の苛性ソーダと製法の関係から微量の鉄分がコロイド状に分散しているもの。良品とは云えない。
 次に紅紫色……これは硝子が良質でない褐色瓶に保存していて、変色したもの。この変色には一寸驚く。原因は瓶の成分のマンガンが溶け込み過マンガン酸イオンの色が出たもの。併しその量は数十万分の一と云う微量である。

 二、貯蔵中の変質
 前述の紅紫色に変色するほか、硝子瓶の内側が膜状にはげて落ちて沈澱が出来る。これは薬品に犯されて硅酸が溶けこみ、析出しているもの。こんなのは製造後、日を経ているので濃度も下っている。次亜の分解で酸素ガスが出来て瓶の空間に溜る。濃度が一%低下すると液量の半量位のガスが出ると云う。そのため空間が少いとガス圧のため容器を破損する事がある。大瓶の方はゴム栓に穴をあけ、ガスが外に抜け出るようにしてある。五百瓦の瓶の方は栓を吹き飛ばしたり、大きな音をたてて破裂したりする事があるので努めて冷暗所に貯蔵すること(過酸化水素水や強アンモニヤ水と同じ状況)開栓の際にガスを吹き出しその時薬液も飛び出す事があるので気をつけること。開栓の時は人の居ない方向に口を向けてあける。そうしないと薬液が着物にかかり、点々と漂白して被害を受ける事がある。又眼に飛び込ませて苦しむ事もある。うっかり口にでも入れたら相当に苦しむ。然し毒性はない。

 三、アルカリ度
 薬品の安定を保つために○・一規定位のアルカリを含んでいる。アルカリ分の多いのは品質としては良くない。又製造業者の不注意でアルカリ度が少いために薬が分解して、開栓した時には殆んど水に近い稀液になっていたと云う例も実際に度々見ている。

 四、濃度の減退
 次亜は保存中に濃度が減退する事は常識である。初濃度が高い程減退率は著しい。又温度や光線の影響も大きい。一年間の減退率は公式で
 (%−3)×5が低下する。
 十%が六、五%になる。
 七%が五、六%
 五%が四、五%
 (北九州の気温で一年後)
 薬品の表示五%のものは、製造業者が七%位で発売して約一年間は五%以上を保つようにしている。
 十%の方は大量入りで、短期消費が目的だから、入手後早く消費させること。夏は特に濃度が下り一月で
 (%−4)×2+1
 十三%が 十、五%
 十 %  八、七%
 七 %  六、五%
 五 %  四、九%
 これは夏の七月や八月の一ヶ月間に下った濃度である従って十%以上のものを四半期(夏七、八、九)を入札等で大量一括買入するのは考えもので、一月分か半月分宛に分割納入がよい。

 五、臭い
 一種特別の臭いがする。手について困る事もある。こんな時には酸のうすい液で洗うと簡単に取れる。又洗濯物などは乾している間にとれる。実際使用の時は百倍や千倍に薄めるので殆んど臭いは消えている。

 六、次亜とさらし粉の差異ナトリウム塩とカルシウム塩のちがいにすぎない。価格はさらし粉が安いが使用上にも色々不便があり又使用目的によってはさらし粉を使用出来ない場合もある。空気中の炭酸ガスにより白色沈澱を生ずる事がさらし粉の最大の欠点である。

 今後は次亜が大衆に普及する事は必然で、一般各家庭常備薬となる事と思うその用法や効能を詳しく知っていて、よく説明出来るようになっていないと薬剤師として恥しい事になる。

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 福岡市薬剤師会 雇傭薬剤師斡旋

 業界平和のため薬剤師の必要な業者、雇われたい薬剤師については努めてお世話します。福岡市御供所町薬剤師協会事務所に申込まれたい。

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 迎春賦 阿部王樹

 予が屠蘇散の製造頒布を開始して早くも廿八年になる。昭和八年からだ。尤もそれ以前にも家伝として古い版木の手刷で歳末進物用として少々は作っていた。また伝来の生薬屋であるためお医者さんからの御注文で混合調整した屠蘇を四半斤、半斤、一斤の袋で需要に応じていたが、古来屠蘇は医家から患家へ歳末医療費結算の際に薬包紙に包んだものをサービスで渡したものだ。

 貰った家で三角袋を縫って使用したものである。予が屠蘇を売り出すようになった動機は、その頃京都の鳩居堂では年末には迎春用として香筆墨の三品を優雅な包装にして売出していて何となく豊けさが感じられていたので、自分も正月用の屠蘇を毎年新らしいデザインでやって見たらと発案したのである。

 当時故月斗師に相談した処大賛成と言ふわけで大阪同人社発売と言ふわけで大阪同人社発売と言ふ事にした。月斗翁は延命屠蘇散と言ふ題字を書いて下さった。内部の包紙も小数だった為画仙紙にして、「屠蘇の香にいよいよ人の若さかな 月斗」の句を印刷したものである。

 明治から大正へかけて屠蘇として売出していたのは大阪の森長寿堂のもの位であった。最近では大阪の春洋堂、福岡の薬工社のものが大量生産で出まわっている。前に述べた京都の鳩居堂の香筆墨三品のお正月用品は今でも売出しているかどうかを知らないが、現今ではそうした豊かさとか風雅とか言うものが吹っとんで了ったようだ。屠蘇も其線で年々忘れられて行く傾向が感じられる。若い人の嗜好が変って行くので止むを得ないが薬事関係者では古い縁起と伝統を残すために一年一度のサービス品として取扱ふようにしてほしいものだ。

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 子の歳の正月

 「居んなるとな、やあー、明けましておめでとう。こらあーどうかー、ひる過ぎい、なっとるとこい未だ寝とんなるとな」
 「それがくさ、今年しや子の歳じゃけん、寝正月しよるとたい」
 「そらあー良かばってん去年の業界は大事じゃったんなあ」
 「そうたい、選挙年じゃったもんじゃけん、選挙運動から、それに引つづいて福岡市じゃスーパーマーケットが十何ヶ所も出来けるし、訪問販売が多なって、薬局の売上げは減る一方で、組合の協定も守もられんで一割も二割も引く店も出て来たが、今年は愈々追いつめられて苦しうなるが一体どうすりゃ良かとな」
 「そげん悲観しなんな、来年は良うなるばい、今は苦しかばって、もう半年の辛棒じゃろうな」「そらあーなしかいな」
 「考えてんない、お互が待望しとった小売商業組合も十二月に認可になったし、薬事法の改正も日薬の会長会議での話じゃ、二三月頃国会に上提されるげなけん、それが通ったなら、今度こそ良うなるばい」
 「ほお、そげんなりよるとな、どげな風に改正されるじゃろうかい」
 「それがくさ、聞く処いよると、薬局も許可制になって、中央と地方に薬事審議会も作らるるげなけん、大分変って来るばい」
 「早よう、そげんならんかねー」
 「そうたい、そげんなろうてちや、薬剤師が一致団結して、政治力ば発揮して、地方出身の代議士い、喰いさがって運動せにゃ出けんとばい、今が一番大事な時期になっとるたい」
 「そうたい、子の年じゃけんちうて、寝正月しようたっちゃ、いかんとたい、ねずみのごと代議士にかじりついてでも、薬事法ば改正せにゃならん」スハラ

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 硫酸亜鉛に賭けられた人生 合屋杉峰

 母の里は、若杉山の麓須恵である。須原春陽堂の家号で、先祖代々、須恵目薬を主体にして、売薬製造販売を営んでいた。資格者は祖父の松太郎で、勿論薬剤師ではなく、世襲によるものであった。ところが大正五年だったか、売薬法が改正され、毒、劇薬を処方されている売薬は世襲(売薬免許の譲受け若しくは相続)が出来なくなると云うことになった。然し劇薬を含まない、普通薬ばかりの売薬では、消極的であり、売薬業の発展は望めない。そこで薬剤師の資格を得ることが必要となって来た。生憎須原家には、薬剤師となる適令者が居なかったので、孫の私に白羽の矢が立った。

 その当時薬剤師になるには、熊本の薬学校を出て検定を受けるか、中学卒業後薬学専門学校を卒業をして、資格を得るのか、二つの道があった。熊本の薬学校と云っても既に末期であったし、中学を経て、薬専に入るのが無難であり、私に中学に行かぬかと云うことになったのである。忘れもしない大正四年の二月頃だったと思う。父や兄から中学の入学試験を受ける様に奨められた。本来ならば願ってもない歓喜すべきことなのに、私はどうしても行く気にはならなかった。今でも当時のことを、八十五才の父に笑はれるが、どうしても行かないと泣いて頑張った。それと云うのも私にもわけがあったのである。

 未だ十二、三才ではあったが、高等小学校を卒業したら、博多に修業に出て実業家になり度いと云う夢を抱いていた。それにも一つの理由は、小学校五年の歴史の時間に先生が、中学の入学試験を受ける者は、こんなところをよく暗記して置かねばならない。と話されたこである。

 中学の入学試験を受けるには、地理や歴史・理科を暗記しなければならない。私には苦手の科目であり、而も試験は目前に迫っているのに、到底出来そうにない。尚又その頃私は学校から家に帰ると直ちに、二宮金次郎さんの様に、米を搗いたり、子守をしたり、草鞋を作ったり又、縄をなったりして、何彼と家の手伝いをしていたが、中学に行くことなどは夢にも思ったことが無かったので、勉強の「べ」の字もしたことがなかった。

 然し最後に父が云った。「親の奨めることを聞かないで、将来後悔しても知らないぞ」と。この言葉が少年の私の頭にピンと来た。何だか不安な気持になって来た。そして側で兄も進学をすすめて呉れた。私は一晩中考へて、遂に入学試験を受けることに決心した。それからと云うものは、家の手伝は何一つせず勉学に励んだ。図画用紙で手作りの笠をかけた。豆ランプの下で毎夜更ける迄頑張った。然し結果は残念ながら戦い吾に利あらずであった。

 その頃は中学と云っても福岡近在には修猷館しか無かったのである。私と一緒に、生れて初めて宿屋に泊って、受験したT君も枕を並べて落ちた。父とT君と三人で発表を見に行ったが落第と判り、帰りは西新町より篠栗迄歩かされた。合格していれば、電車や汽車に乗せられたであらうに。

 三里の道を歩かせられたのも一つのみせしめであったと思ふ。勿論父も一緒に歩いた。その頃西新町はまだ早良郡で福岡市ではなかった。今川橋の近くにはトタン屋根の掘立小屋の様な飲食店が四、五軒あった。そこで弁当に煮凝をかけて食ったことを思い出す。

 場所慣れしない田舎者のこととて、二日目は全部出来たが、初日に算術で失敗したのが運命のきまるところであった。場所踏程度にはなったが、母校に帰るのが恥しかった。だが然しそれ依頼臥薪嘗膽翌春には見事合格した。試験科目に地歴、理科が無くて、国語と算術だったので助かった。綴方は毛筆で書いた様に記憶している。学科の合格発表が正門前に貼り出されるのを、今や遅しと待っていた時の気持。

 愈々発表されて見ると、同じ小学校から五人受験したのであったが、私一人が合格していたので、他の人達に気の毒でならなかった。口頭試問の際、君は将来何になるのかと問はれたので、「薬剤師になります」とはっきり答へた。

 修猷館も五ヶ年皆勤で卒業し、長崎医学専門学校薬科と九州薬学専門学校の二校に入学願書は出していたが、長崎の方が試験も合格発表も早かったので長崎医専薬科に入学した。長崎医専薬科を受験する時、彦太郎叔父や父は、薬科と医科は一年の差だから医科に志願せぬかと奨められたが、医師は夜中に起されることが多いことを知っていたので「医」と書かずに「薬」と書いて願書を出してしまった。ここにも亦一つの岐路があった訳である。

 長崎医専薬科在学中、痩我慢で無理をしたため病を得一時吾が命は風前のともしび、残り十三時間の余命しか無い病態となったこともあったが、家の者、親戚の人たちの手厚い看護のお蔭で再び登校出来る様になった。こうして大正十五年春卒業、五月五日附で薬剤師免許証を授与された。扨て祖父の売薬免許を受けついで見ると、劇薬としてはただ硫酸亜鉛が、目薬点眼水、精綺水に各〇、三%入っているのみであった。つまり〇、三%にしろ、この点眼水の主薬である硫酸亜鉛が「劇薬」であったばかりに私は薬剤師になった様なものだと、近頃の或る日考へたことであった。

 勿論その後駆虫剤、解熱鎮痛剤など劇薬を含む売薬方剤の免許を受け製造したのであったが、昭和七年現県薬専務理事の須原勇助君が熊本薬専を出て薬剤師になったので製剤のバトンを渡した次第である。その間大恩になった重次郎叔父も壮者を凌ぐ元気であったのに、この秋頃より少し中風気味であるが、明けて七十七才、芽出度く喜寿のお祝いを迎へられんことをお祈りつつペンを擱く。 (開局薬剤師)

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 去年今年録 山花 生

 迎春。ここに又一つ年を重ねた。九業紙に立てこもって健腕をふるって居る安河内鬼子翁も新たに年を迎えて数えの七十六となられたそうで、しかも悠々よくこの困難な仕事をやってのけられるのであるが誠に驚嘆するの外はない。それも宜なり、朝屋外で裸体操一時間と引続き冷水摩擦だけは毎日欠かさず実行されるそうで、この元気あってこそ九業紙も一層健実に発展して行くであろう。誠にたのもしく目出度い事である。

 次に俳人俳画家として雷名をはせている阿部王樹翁。時々起る足の神経痛の外は中々の元気で例の彩管をたづさえて方々に旅を楽しんで居られる模様で誠に結構な事とよろこんで居る次第である。伝統を保つ王樹の屠蘇も益々評判よろしく独特の包装に偉彩を放って居る。

 第三番目に堀芳泉翁。専ら薬局の事は令息に任せて自らは悠々自適。養老の酒も相当いけて居るらしい。書画骨董の鑑定などは翁が得意の独壇場。よい御趣味である。以上三翁に続くかく申す山花生。実はこんなに長生出来るとは思はなかったのであるが今年己に満で六十八才。昨年度も九大薬局益進クラブ総会にも欠席、やれ心臓が悪い、それ血圧が高い、おまけに目まで悪くなると云う有様で悪いとこだらけだったが、今年こそは次第に健康をもりかへして前途又有望だと信ぜられるようなわけで好きな王樹屠蘇も御雑煮も充分に祝いたい。

 吾らの九業紙に光彩を放つ王樹翁の画と句とが果して何時まで続くのであろうかと云う事は注目の的になって居たのであるがかくして多くの年月はすぎた。今では王樹の画のある新聞と云う事になって居る。そこに鬼子翁に対する王樹翁の深い深い友情を感得する事が出来てほんとに心温まる思いがする。何と云ってもこの王樹翁の画と句とは天下の絶品である。得難い宝である。

 外に九業俳檀を形成して居る人々がふえて来た。清水鹿山、合屋杉峰、三淵北斗、田中三秋の諸氏に山花が加はる。誠ににぎやかである。時にはこの全員が鉢合せして壮観を呈する。杉峰氏の令夫人は句夫婦として有名で句も亦甚だ優秀である。句夫婦お揃いで目出度く御投稿が願いたい。年頭に当りわが九業俳壇の益々発展せん事を祈っておきたい。

 ◆朗報二つ
 先ずその第一
 九大教授並に薬局長松村久吉先生の学位論文が今回東大教授会をパスした事は近来にない朗報である。先生としては学位など眼中になかったかも知れないが、己に大学教授でもあり一日も早く学位をとって頂きたく吾々は念願して居たところである。もれきくところによれば殊に薬学の学位は中々むつかしく、これをとる事は容易でないのであるが今般先生が無事この難関を突破せられ見事栄冠をかちとられし事は誠にめでたき限りであった。かつて酒井甲太郎先生が調剤学を以て博士に推薦せらるると云ふ噂が高かったが遂にその事が実現出来なかっただけに今度の事は一層めでたかった。

 続いてその二。
 嘉穂郡三井山野の炭鉱病院に勤務して居る薬剤師吉積省三氏が先に提出して居た研究論文がこれ又見事にパスして近く医学博士の学位を得らるる事になった。同氏の場合、幸い近くに三井生の研究所があったとはいえ、病院勤務の傍ら主として夜間に研究を重ね遂にここに至った事は誠にここに至った事は誠に感嘆に価する事で常人の企て及ばざるところである。しかもその研究所も近く炭鉱不況のため閉鎖のやむなきに至って居るとの事で、その直前に論文が完成した事は何と云う運のよい事であったろうか!祝っても祝っても祝い足らぬ思いがする。吾々の近くから以上の二つの朗報が出た事は誠にうれしくおめでたい。ここに心からおよろこび申上ぐる次第である。

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 植物閑話 榮御老

 鼠の嫁入り

 昔、遠く比良の霊峰も幽かに見ゆる出雲の片田舎に、一人の青年があって、何事も正直一律で、曲ったことは囲爐裏に下っている自在かぎ嫌いである。真直が大一番好きなので、それで何時もビンボウという棒を一心に護って楽しんでいるのであった。里人は之れを忠良八と呼んでいました。

 忠良八が二十三の歳を迎える年の暮に隣村の勘徳さんが来て曰く、忠良八さんよお前も年が明くれば二十三才になる。どうだ俺の姪のオチュンチャンを嫁に遣はそうと思うがどうか、忠良八答えて曰く、それは平常の思いに叶って誠に有難いが、私はお見掛け通りの貧棒より他に何一つない。貰っても住む場所もなければ着る衣物も持たず、固より食はす食糧の貯えは何もない。嫁を貰っても仕方がないじゃないかと断った。

 ところが勘徳さんは、ナーニそんな心配は御無用でござる。俺の一族は子宝筋でチュンチャンの姪や甥丈けで、三万三千三百三十三人居るから、之れらが集れば七日七夜の間に、家倉は申すに及ばず、衣物も食糧も不足のないようにするから貰へと勧めたので、忠良八もそれまで世話して呉れるなら貰いましょうという気になったので自分の日常の行い方を、勘徳さんに打明け話をした。

 素吾れは出雲鼠の末孫で、夜昼通しに働いているが殊に夜中の仕方が楽しい、一切植物に依って生きているので、食べ物は米麦や木の実草の種を食べて、決して魚も鳥も豚肉も食べない。着物も麻や楮や苧麻等の皮を着て決して熊の皮衣を着たり、犬の皮靴もはかねば、勿論虎の皮の褌もしない。住む家も煉瓦造りや鉄筋コンクリートは嫌やで堪らぬ。そして食べ物は物の儘食べて、衣物は原物も編んで着ている。殊に住家は白壁は好まない。特にペンキ塗の類は絶対反対である。

 是れを聞いた勘徳さんは、それこそお前の見処じゃ、俺達の希う処じゃと大手を叩いて喜んで、立処に円満なる婚約が成立したのであった。約束が出来た上は善は急げだ。明日から七日過ぎれば元旦である。元旦は八日目じゃ。八は初で嫁子の初入で縁起が良いと、日取も決ったので勘徳さんは一族郎党を集めて、右の次第を披露すると、一同大喝采で之れを祝福して喜んだ。

 その翌朝より家倉造り、衣類の調達、食糧集めと分担を定めて、三万三千三百三十三疋の一族がストの如うにねじ鉢巻に襷掛けで一斉射撃をやったので、七日七夕の大三十日の晩には万端相調ったのであった。明くれば元旦で、思い立っての八日目即ち初の日である。初日を迎えての初入りでこんな芽出度いことはないと、準備万端整って、元旦の初日を拝みながらの結婚の祝儀となったのであった。

 先ず忠良八は麻裃に威儀を正して迎えると、オチュンチャンは折帽子を目深に被って麗々しく着て長い尾を曳いて静々と入って来ると、続いて箪笥、長持、鋏箱等七竿七荷の贈物を捧げた一族桂衣を着席して、為に目出度く三三九度の杯も収められ、又一族郎党は声を揃え手を叩いて、芽出度?芽出度くの若松様よ家も栄えて、年に三度の子を殖えるチュッチュッチュー、モー一つ祝いましょチュッチュッチュチュッチュー

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 いかれぽんち(一) =Z・A生= 正月楽し

 子供もできて、そろそろ分別もついてこようという年配のくせに、正月が楽しみで指折り数えて待っている。などというのは、あんまり自慢になる話じゃない。とんまな奴だ、と物笑いの種にもないりかねまい。それは充分承知してはいるが、なんといっても正月は楽しい。イカレポンチたる所以である。

 ところで長女の小学校の校長さんは満六十二才のいいおぢいさんだが、先日たまたま一杯飲む機会があって、馬鹿話をしているうちに、「わたしや正月が来るのが楽しみでね、年をとると全く子供と同じようなもんですよ」。というわけである。

 この校長さんの意見によると、六十を過ぎるとアア今年も又一年もうかった。というわけで嬉しくて仕様がないというのだが、この理屈はちょっとどうかと思うね。人間なかなかそこ迄達観できるもんじゃありませんよ、一休さんでさえ、正月は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし、と詠んでいるし、年をとって喜ぶのは子供ぐらいのもんだろう。思うにこの先生根っからの正月好きで、無理して理屈を考え出したのに違いない。

 私はあっさりと申し上げるがね、正月が楽しみで仕様がないのは、先ず第一に日がな一日ごろごろして働かなくてよいこと、その上朝っぱらから酒が飲めて酔っぱらって、太平楽を並べて、誰も文句の云い手がないなんて、考えただけでも嬉しくなってしまう。おまけに忘年会に新年宴会と、盛り沢山の附録附ときちゃ全くこたえられないね、「ちぇっ、つまらねえことで喜んでやがる、そんなら毎日ごろごろして酒をくらっていやいいじゃねえか」と仰っしゃる御仁があるかもしれないが、そうはいかないよ、他人も働いてはいないと思えばこそ、のんびりともできるし、酒もうまいんだ、こっちが遊んでいる間に向らはその分儲けていたのじゃ話にならないよ。

 一体薬屋に限らず日本人はつまらん所で働き過ぎるね。もちっと合理的に自分の生活を大切にする方法を考えてもよさそうなもんだ。ちゃんと定休日を決めて交代で休めばお互ひに損はないものを、一日でも休めば他所に取られそうな気がして、無理してがんばっているなんて頭の悪い話さ。そのくせおやじはちょいちょい店をすっぽかして、あちこちお出かけ遊ばしたりするのは全くどうかと思うね。

 そういう尻の穴の小さい輩を対手に、なんだかんだと規約を作ってみても、どうせ無駄なはなしでさ、何のこたあない、てめえが屁をひって誰だ誰だと騒いでいるのと同じことじゃないか、お役目とは云いながらよっぽどおめでたくなけりや他人の屁の詮議などできはしないよ。

 そこで私にゃ一つ珍案があるね。先ず毎週一回必ず休業することを取決める。もし堂々と店を開ける人があれば、まあ公然と安売り伺門販売をやっていることは間違いない。半分ばかり店を閉めてこそこそ商売をしているなら、すかし屁程度の安売りだな。どうですこれなら一目瞭然で疑心暗鬼の余地は先ずあるまいと思うね。いかれぽんちの案にしちゃ割とイカスだろ。

九州薬事新報 昭和35年(1960) 1月10日号

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 薬界◇◇随談

 ▼新しき年六〇年時代に入った。今年は子の年でありこのチュウ公、ポスターにカレンダーに大いに利用され忠義振りを発揮している。

 ▼鼠は世界到る処にせい息する小動物で年間輸入食糧四百七十万トンをくい荒し農産物や家具や食物や樹木を荒し伝染病や其他の疾患を人間に与え殊に体重の十分の一位を一日にポリポリやると云うおそろしい動物だが、一面医学や動物学の実験用としても欠く事の出来ない代物でも有る。殺鼠剤では黄燐、クマリン、フタール酢酸系の三つの系統は主に使われている。

 ▼薬科大学三十一校となる既に旧蘢からそれぞれ私大広告が掲載されている。薬業界はSM旋風に自由主義経済の現況下の薬事法では手も足も出ない。何んとかして貰わねばならんが薬業人の年頭の辞である。夢よもう一度は来ない気がする。

 ▼薬事法改正の気運が動き出した感があるが、さて提案本拠の厚生省が最後の土俵でウッチャリを喰せる気がしてならん。

 ▼案の中で変んな気がするのが素人でも正規の条件を備へれば開局(許可)される現行の儘のものが残り、薬剤師の開局も許可制となる事は退歩の様な気がする。適正配置は行政指導で出来る気もする。殊にふにおちないのは薬品販売業者が十−十五年間で一種の相続に等しい権利を持つ事は全く変んな気がしてならない。

 ▼筆者は旧蘢来の郵便物遅延で年賀状も一月一日に書いて投函する事にした。一年一回旧知の連中の交誼は礼儀でも有る。年賀状の文句も大分変って来た。西暦を書いたものも多い。印刷よりも印判のものが良い気がする。余り広告文の有るメーカー筋のものは嫌気がしてならん。

 ▼今年の薬業界は昨年に続いて外にSM問題、内にデスク廻りと訪問販売の問題を解決せねば座売の薬局は成り立たない。SM側でも薬品を廉価で売るのが何が悪いか組合員でも組合協定を守っているのは一人も居ない。協定価を正価のものをいつでも二−三割引の受取書を必要があらばお目にかけようとうそぶくSMもある。全く油断が出来ない内と外。

 ▼佐賀SM大洋ストア薬品部設置で昨秋申請、地元薬組の阻止運動でごうを煮あし日刊紙の折込ビラで「消費者の皆さまへ医薬品販売に就てのお願い」をバラまく「一ヵ月程度で登録の出来る筈だが市郡や県の薬業組合の猛烈な反対で県当局え政治的圧力や陳情、既に雇入の薬剤師を買収或は脅迫の手段で妨害工作を続けている!!」自分勝手の事をかいてあった。吾々はこんなビラは歯牙にかけない。戦火は大詰に来たが年を越した戦はこれからだの気がする(GT生)

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 福岡の年賀会 薬学堂冠者の集い

 暖かではあるが小雨模様の元旦、漸く雲晴れて心爽かな昭和卅五年の元日、福岡業界では恒例の九州薬事新報社主催の「年賀会」が正午から福岡住吉神社境内の薬祖神である「少彦名神社」に於て開催され、延々と引きもきれぬ参詣者の内に吾業界人の晴れやかな顔も見え「お目出度う」の挨拶の声もしきり、定刻正午には百余名の業界者が社前に参集し、軈て宮司の祝詞の声は静かに流れ、代表者の玉串捧供に引続き参列者の一同は拍手礼拝、神前の行事を終えて程近き年賀会場向島の婦人会館に向った。

 会場の準備既になり一同着席、直に主催者による開会の挨拶に次いで薬祖神前に供えた神酒「王樹屠蘇冷酒」によって乾杯、それより宴に移り温酒献酬、年頭互礼の祝杯は互相間に流れ流れて漸く微燻身に泌る時、壇上の主催者より同社同人である俳壇の巨星、特に日本俳画界に名を知られた剤界出身の阿部王樹翁寄贈の色紙、丹冊並に同社特撰の紅色鮮かな張子の不倒媼など抽せん配与、当せん者は満場拍手の裡に自己紹介に喜びの声を張りあげ、一同の机上各人の前には「内剛外柔」を表現せる小型「オキアガリゴブシ」が漏れなく贈与され、それより又一しきり杯の流れはいよいよ早く宴酣わとなって瑞気堂に満ち、軈て須原勇助氏の音頭によって一同は起ち上り「祝いめでたの若松様よ・・・・・・」と三たび繰返し合唱して目出度く博多式に一本を入れ、次いで塚本九大教授の音頭により万歳三唱、茲に目出度く卅五年の年賀会の幕を閉じた。

 当日の参加者は百七名に及び、メーカー本支店、卸問屋、薬局、九大薬学科並に薬局、県市庁、国県市立病院薬局など、福岡に於ける薬字同冠者の主脳を殆んど網羅した観があり洵に華々しき業界新春の第一歩であった。

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 のぼ◇りと下り T・K

 みの島経由博多駅行のバスに乗った、竹下駅の裏を那珂川に沿うて下ると松下電器前停留場がある。白くお化粧をした立派な建築の前に、どこにでもある様に丸い停留場の標示が立っているが、なんとその丸い下に別の会社の電気器具の広告がしてある、皮肉と云をうか。勇々しいと云うべきか。

 狭いみの島の通りを何回か離合停車して住吉宮前に近い所で又止まったとき右を見ると歯科医院、ちいさな貼紙をしてある。△△校区合唱団募集・・・とある。元気な若人達の合唱と歯とどうやら通じるものがある様に思われた。

 十何分目毎に駅前から出る九大行電車に運よく発車まぎわに乗って、靴をぬいだのが実験室、お天気の良いのと、日曜で蒸気が来ぬので室の中が清々している。

 吸湿による変化を調べているので小形カップに入れた。あれこれを秤って見ると大底のものは著しく目方が減っている。十日位前から多少の増減があったが次第に吸湿量のカーブが昇っていったのに急降下をしたのは、何にか少しずつ蓄えたのを一度に持って行かれた様であるが、何も不思議なことはない温度が少なけれだ物の乾くのは当り前である、然しあまり乾かないものもある。

 そこで配合したもの例えばA一グラム・B二グラムの混合物の吸湿量を、別にA一グラム・B二グラムの吸湿量を混ぜずにそれぞれ調べた量を合して比べると配合によって変化せぬと予想したものは大体その両数が同じかった。配合により変化の起る場合には混合物個々の吸湿量の外に変生物の吸湿が混じるので原料各別の吸湿量を合算したのと、配合物の吸湿量とは違って来る、まだこの外に変化はなくっても臨界湿度(吸湿して液化する)が混合により低くなり各別の液化温度よりも少ない低度で液化する場合もあるが兎に角甲乙-丙個々の吸湿量(A)と、それ等を混ぜたものの吸湿量(B)が同じけれど例え湿っても離合変化をせないと云ってよい。

 のんびり秤って帰りの汽車、一五、一六Y駅発はいつも延着するからと思いつつも心は急ぐ。発車時刻二三分前に着いて、ホームえ立って暫くすると二十五分をくれると云い、引つずき、三十分をくれて運転していますから暫く御待ち下さい、と告げる。改札前に云えばバスで帰るのに、こんなにテレッと立って居るなら次の一六、〇六発に乗れば大ぶん計算が出来たのにー。

 漸く来たディーゼルカーにつめ込まれた人のすき間から外を見る広告が、頭−饅−鳥−、やらビレテの順に目に入る、広告上の大発見でもした様に思って-、さて翌日気をつけて見るとちっとも変なことはない。いーろはと順に汽車に現はれる。前の日は下り線から上り線の広告を見ていたのであった(九大薬局)

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 福岡市の国保問題漸く相互譲歩により解決す
 昭和卅五年一月一日から実施

 福岡市の国保実施に関し医療担当者団体である三師会と市当局との間に昨夏来意見の一致を見ず、日と共に交衝は益々深刻となったが、終に十一月卅日には交衝決裂の結果、国保医療機関並に保険薬局の辞退届を県当局に提出するに至った。

 その後北岡市議厚生委員長が調停案を携えて調停に立ったが失敗に終り、実施期日の新年も真近に迫り十二月廿四日には副田市会議長が仲裁に入り、これ又決裂、この間に於ける医師出身の古森議員と歯科医師出身の井上議員の両氏のその事態収拾に対する熱意は固く努力の結果交衝再会の道を開き廿九、卅日と引続き交衝を重ね、遂に三師会も「市当局の誠意ある運営を約し」不満足ながら左記条件により卅一日午前〇時半承諾妥結を見るに至った。

 一、協調融資は三千万とし利息は三師会で支払うこと。
 二、助成金は二千万円とし三ヵ年に亘り支払うこと。
 三、最終責任については法の定むる通り療養担当者にあるも、東京都覚書通りとし、療養担当者に迷惑のかからない様保険者たる市当局は最後まで未収金取り立てについて協力すること。
 四、固定資産税は三割減額すること。

 以上の経緯を辿って茲に妥結、三師会では国保療担当機関辞退届を県保険課から一括取り下げ、市薬協も再び保険薬局として再出発することになり、翌卅五年一月元旦即ち国保実施の日を迎えたのであった。

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 福岡県薬商組在福理事会開会

 福岡県医薬品小売商業御組合では新年初の在福理事会を一月六日午後三時から県薬剤師会館で開催、白木理事長外六名出席。

 白木氏開会の挨拶次いで商組が十二月一日認可となりその後形井氏と同伴状況し、公取委外関係当局に調整規定案を内示してその意向をただして原案検討、これ迄の経過報告をなし、明七日には県当局に認可申請をなす旨発言があった。次に瀬尾理事から申請書内容について説明し、それよりこん後調整規程を中心に商組を如何に具体的に運営するかについて協議検討して散会した。

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 九州山口各県 薬協会長会議で 一月二十二日 山口湯田温泉

 九州山口各県薬剤師協会長会議が一月廿二日(金)午後一時から山口市湯田温泉緑屋旅館で開催され左記議件につき協議することになっている。

 (1)本年度九州山口薬学大会の開催(日時、日程、議案演題等の取纏時期各県負担金等)について
 (2)薬事法改正案の内容、国会提出時期並運動方法について
 (3)その他各県薬協提出議件なお会議終了後同館に於て懇親会を催して宿泊、翌廿三日は借切バスで八時半同館出発、約一時間にして「秋芳洞」並に秋吉台を観光しそれより長門市湯本温泉へ出発、約一時間半で湯本観光ホテルで昼食、午後四時解散の予定である。

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 福岡県校剤師会役員会 校剤未設置地区研修会 地区、日時、会場決定

 福岡県学校薬剤師会では新年初の役員会を一月十一日午後二時から県薬剤師会館で開会、出席者早川会長外七名、県教育庁からは山下係長が臨席した。

 校剤師の必置制は愈々あと一年余の昭和卅六年四月一日から実施っされるので、その完全設置に備え、先に県校剤師会役員を中心に各地方自治庁当局に対し至急校剤師設置方を陳情したが、これ等市町村の予算編成前に一年の予定を明かにする必要もあり、薬剤師に対しては学校薬剤師就任に就て万全の体制を整える必要があるので、校剤未設置地区薬剤師を対照に研修会を開催し左記により講習実施をなすことに決めた。

 ▽講習内容
 講師は県校剤師会役員並に各地方の既設置学校薬剤師を当て、午前十時から午後四時迄に於て講演、実習、質疑応答などをなし、その参考書には次の三種を当てることに決った。
 1、学校環境衛生基準解説及検査指針(日本学校薬剤師会発行)
 2、学校保健法令集(日本薬剤師協会発行)
 3、最近の重な業績集(福岡県学校薬剤師会発行)

 ▽会場並に日時
 一月廿二日(金)
 柳川、大川、八女支部(会員数五十三名)▼会場=柳川市高畑公園内省耕園(社務所)
 一月廿三日(土)
 飯塚、山田、直方、田川支部(会員数百十四名)
 ▼会場=飯塚市東新地、飯塚商工会議所、一月廿五日(月)
 浮羽、甘木、三井支部(会員数二十七名)▼会場=浮羽郡田主丸町浦町田主丸中央公民館
 一月廿六日(火)
宗像郡粕屋糸島、筑紫支部(会員数五十六名)  ▼会場=福岡県薬剤師会館
 一月廿七日(水)
 京都、築上支部(会員数二十二名)▼会場=行橋市宮市、酪農会館

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 いかれぽんち(二) Z・A生 あいさつぎらい

 正月は一日中ごろごろして、酒が呑めて、酔っぱらって太平楽を並べて、全く結構づくめなことは前述の通りだが、たった一つ、思っただけでうんざりして気が重くなってしまうことがある。それはほかでもない。あの長ったらしい新年の挨拶という奴だ。こいつは分析すると三段構えになっている。「明けましておめでとう」で一つ、「旧年中はいろいろお世話になりまして」で一つ、「本年もどうぞよろしく」で一つという具合で、その一段毎に最敬礼を組合はせるしくみになっているが、但しこれは基本形だ。

 念の入った連中になるといろいろとヴァリエイションがつくから、三回で済む最敬礼が五回も六回にもなる。こういうヴァリエイションつきの挨拶をする連中は実にすがすがしき顔つきだな。東洋の君子国ここに在りというわけで、このときばかりは、日本ほど住みよい国は世界中探しても見つかるまい、という錯覚を起させる。

 もっとも、行儀のいいのに文句をつける筋合いはないので、日頃他人を突っ転ばしたり、押し除けたりしている代りに、せめて正月ぐらいは罪滅ぼしをしようという、殊勝な心掛けの現はれとみるべきなんだろうが、相手にされる方はたまらないね。用件を切り出す前に一々手間どるんだからやり切れない。

 もともと挨拶というのは意味のないもんだ。挨拶の上手下手というのは、意味のないことをいかに意味ありげに話すか、という技術にかかっているので、本当に親しい間柄ならそんな必要はないのだ。早い話が自分の女房に「おめでとうございます」もないもんだろう。私なんか自慢じゃないが、親父とは友達づき合いの合柄だから、そんなめんどくさいことはしないね。挨拶が必要な親子なんて、考えてみると可愛いそうなもんだ。

 だからといって、挨拶の必要がないというわけじゃない。この世の中から、無意味なものや、馬鹿げたものを除けてしまったら、互に角つき合せて、えらいことになる。そういうことがあるからこそ、けんかもせずにやって行けるのだが、それにしても程度があるわな。人が迷惑したり、腹を立てたりしない程度にやってもらいたい、ということだ。

 本年ンもいろいろと説明会やら、何とか会やらあることだろうがここでもうんざりするのは慇懃無礼の挨拶だ。お互いに閑をもてあましているような身分じゃあない。望むらくは要にして簡、挨拶は短かきをもってよしとす。上に立つ人はよく心得ておいてもらいたい。

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 薬界◇ ◇随談 GT生

 ▲今冬は暖冬異変で感冒薬の動きも活溌でない。マスコミ品は値崩れ、たまたま調剤してくれと来れば一日分、たまには一服呉れと十円玉一、二ケを汗の出る様に握りしめて来るのが関の山。

 ▲旧蘢文部省の新設増設許可で大学が相当に出来る。中でも薬学関係三、これについで薬審の特別委員は薬大関係の増設に不満を述べている。薬大卒業者の需求の関係其他の特別の研究を要する期に文部省が早手廻しに許可を打ち出したと。

 ▲ソークワクチンいよいよ国産化然も量産喜ばしい事

 ▲薬事法改正案で前号でも触れたが盲点だらけやザル法に終っては全くたまらない。仮に薬局の適正配置がおり込まれたとしても薬品販売即ち二号業者の配置が野放しになるとしたら全くたまらない。

 ▲薬事法改正に関しては既に高田局長は「距離制限」はムリ、乱売統制は経済法規でと逃げ全くつかみ処がない。

 ▲佐賀大洋SM薬販問題一応解決、十三日から営業を開始、市元や件の薬協組の努力三ヶ月の引き伸ばしに成功したが開業の花幕はきって落された。地元薬界幹部の奔走努力に感謝する。これからの問題は組合員の脚並揃へと蔭法師とデマと客の馳引に騙されて大乱売に陥らぬ様心がけねばならない。県の立合で組合とSMと四カ条の協定書を手交した措置は一番の狙いは価格の広告宣伝をやらない事は一応の成功、販売価格の協定が残された問題がSMも奉仕で商売をやるのでもない。薬の原価の中にも今でも三-四掛けのものが有るのは良識ある薬業者が販売す可きものでもない気がする。地元日刊紙は両者の妥結を喜んで一斉に報導している。

 ▲業者の或る重要な会合で出席の一組合員はマスコミ保健剤、ビタミン剤は八百屋の大根やにんじんと仝じ大衆物である。これ等は薬局で価を守るものではないとの発言を中心に論議された。考え様ではそんな気もするが一面薬事法の基準許可を受け販売も規制されたので薬品には間違いない。

 ▲薬務局で取り纏めた薬事法改正の第一次草案とも云う可きものが朧気がながら変って来た。指定薬品を明確化し物と人の分離で薬事法と薬剤師法の独立制定になる見込みの公算が大きくなって来た。

 ▲旧臘大蔵省が一応けった医療金融公庫は厚生省、医師会、小売側の要求で三十億円で復活上の見込み。

 ◆参院議員高野日薬会長来福=同氏は新年帰鹿の途中一月十二日福岡市に下車、県薬協事務所を訪問、協会幹部と薬事法改正などに就て会談し帝国ホテルに一泊、翌十三日熊本に向って出発した。

 ◆福岡県薬協臨時代議員会=一月十八日午後一時半から薬剤師会館で開催、薬事法改正の促進、特別会費徴収、県薬剤師連盟に対する対策費補助又は貸与等について協議決定した。(詳細次号)

 ◆福岡県医薬品小売商業組合地区長会議=一月十八日午前県薬剤師会館で開会、次の議題につき協議した。
 @商業組合(調整規程)の中間報告
 A商業組合今後の運営について
 B各地の薬業情勢報告
 C各地区の共同仕入状況

 ◆福岡県女子薬第三回全体理事会=一月廿三日午後一時から福岡市雁林町福商会館で開会、その後の経過報告と今後の運営について協議。

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 福岡県薬剤師協会 第十四回臨時代議員会
 特別会費並連盟へ対策費補助決定

 福岡県薬剤師協会では薬事法改正問題に関する中央対策本部活動費としての特別会費徴収並に県薬剤師連盟に対する対策補助費等の諸種現実問題解決のため定款に基き臨時代議員会を一月十八日午后二時から県薬剤師会館で招集開催し、左記案件について審議決定した。工藤氏司会し四島副会長開会の辞、五郎丸会長挨拶、次いで志岐議長は代議員六五名中三五名出席、会は成立した旨宣言し議事録署名人として高倉等、中島政雄の両氏を指名し直ちに議事に移った。

 ▽報告事項
 一、昭和卅四年度会務並に事業概況報告
 (1)会務並に事業概況報告
 須原専務理事からプリントについて説明報告があり異議なく承認
 (2)会計中間報告
 鶴原理事から歳出入表について説明、特別選挙対策費としての仮払金について詳細報告があったが、会長から特に日薬に対してこの分の要求について説明があった。一同諒承、承認に決定
 (3)伊勢湾台風水害見舞金収支決算報告
 鶴原理事説明報告、異議なく承認
 二、日薬会長会議出席報告
 五郎丸会長から旧臘十一日東京で開会の全国会長会議出席報告があり一同承認

 ▽議案
 (1)薬事法改正促進に関する件
 (2)特別会費徴収に関する件
 (1)(2)一括して四島副会長から説明、旧臘十六日の薬事制度調査特別部会決定事項に基き改正は先ず厚生省の改正法律案の作成、自民党政調会の審議、同党総務会の審議、党議の決定、閣議の承認、国会提出(参院衆院)国会審議、両院通過は五月会期末となる見透しでありその間各層に対し政治活動をなす絶対必要があるので日薬中央対策本部では特別運動費を要するは明かなことであり、この点能く認識の上本議案を審議して頂きたいと述べ、一同異議なくこれを決定した。
 (3)福岡県薬剤師連盟に対する対策費補助又は貸与に関する件
 鶴原、長野両理事から説明、連盟の特別対策費についてはその当時評議員会を開催すべきであったが、種々の関係で四囲の情勢から連盟は仮払立替をしている。これは事情止むを得なかったためである旨詳細諄々と説明があった。この説明に異議なきやを議長一同に諮り満場異議なく四十五万円を補助することを決定した。

 これにて審議を終了し古賀副会長の閉会の辞により代議員会の幕を閉じ引続き連盟評議員会を開会、四島連盟会長起って、薬協よりの補助金に対し感謝の意を表し選挙違反容疑について説明し、これ等事件に対する後始末は果せられた義務であるとの自覚に立って現在これに臨んでいる旨を述べ一同の諒承を求めた。評議員会を終え同席に於て懇親の小宴を催し時局懇談にいった。午后五時閉会

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 九州山口各県薬協代表者会 山口湯田温泉で

 本年度九州薬学大会開催の打合せを目的に九州山口各県薬剤師協会代表者会を山口県薬協の世話によって一月廿二日午后一時から山口市湯田緑屋旅館で開催した。出席者は次の通り

 福岡県=磯田、五郎丸、四島、須原、吉田▽佐賀県=江口▽長崎県=草津▽熊本県=戸田▽大分県=瓜生▽宮崎県=宗▽鹿児島県=欠▽山口県=樋口、小畑、渋谷

 樋口地元会長の開会の辞、磯田九州会長の挨拶があり昨年の主催県長崎県の草津会長は大会に於ける各県の協力に対し感謝の辞を述べ次に本年大会地元の五郎丸会長起って各県の協力を要望した。それより直に議事に入った。

 一、今年より当番県のみに委かせず資金、運営の面に於ても各県の協同主催とすることを決定した。
 場所=福岡市▽日時日程=十月廿日(木)廿一日(金)廿二日(土)の三日間廿日を代表者会とする
 (2)議案、演題取纏時期は八月中とする
 (3)資金について協議した結果二百万円位になる予定大会運営委員会は各県の会長会で決め当番県は他に幹事として出席し当番県の会長で委嘱する

 二、薬事法改正に関しては特別会費を至急拠出し、一方各県出身の代議士に働きかけて推進する

 三、高野会長の任期は近く満了となるが議会活動には会長でない方が都合がよいので再任を固辞するに至るやも知れぬ、これは二月の代議員会で決定される。

 磯田氏は九州ブロック代表の意味で既に十年以上日薬理事に就任しているので交替したとの意志表示があったが、日薬会長決定後に理事に就いては詮議すべきである。その他事務的事項につき協議し五時終了。それより懇談会に移った。当夜は同所に一泊、翌日は一同秋芳洞を遊覧、湯本観光ホテルで中食をとり二時散会した。

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 相当重要案件が懇談された 福岡県薬業懇談会一月例会

 福岡県薬業懇談会一月例会は廿二日午后二時から県薬剤師会館で開会、出席者メーカー側=武田薬品、山之内製薬、卸売側=鶴原、佐治、大黒(代、若狭)、九鉱、小売業側=白木、深田、古賀、工藤、県庁側=尾形課長、尾崎技術補佐、佐々木補佐(代、長原)

 尾形課長の挨拶に次いで

 一、尾崎課長補佐の「県薬事協議会発足について」の説明、これに課長の補足説明があった。あくまで薬事制度運営施策要綱に基いて、薬事法に関連した内規的な意味で、法に規定されない面に活用して行きたいと思う医薬品の品質の確保向上、適正な使用と厳正な取扱い、関係団体の調整、薬事制度の円滑な推進などを目標にこれを利用したい。

 本協議会が余り大きな権限を持てば却って弊害を生ずる惧れがある。その性格は諮問機関と称すべきものでもなく、言わばその運営が県薬務行政の諮問的役割を果す様なものであると思う。委員十二名も既に決定したが原則として代理を認めない。審議会特別部会で決定した法による地方審議会ができることになった場合は勿論これに切替えることになる。現在の県薬業懇談会(四者懇談会)は末端の些細の問題も採上げて懇談の対照とするが協議会の方はより大きな方針を以て運営することになる。委員は両会に重複しても(現在四名が重任)何等支障なく或は却って相互反映により好結果を来すもととさえ思われる。近く第一回を開会発足したいと思っている。

 二、工藤委員の問に対し尾形課長は薬務局により去る十七日東京に招集開催された薬務課長ブロック会議(十二府県より参集)出席内容について語った。旧臘十六日最後の審議会特別部会で決めた十六項目を議題として各県の実情が聴取され又その内容について詳細当局の説明があり、なおこの問題に対する今後とるべき方法対策についても一応の指針が示された。

 三、薬務課の斡旋的措置により主婦の店中央店と業者との談会も大体順調に進んだ旨白木氏から報告がなされた。

 四、古賀氏は本懇談会の大きな課題として小売業者以外の各階層の小売り或は特納品などは小売業者又は小売組合を通じて販売して貰いたいと云うことを提案したいと述べたが、小売以外の側から、これはむつかしい問題であり研究の余地が充分にあり今後の研究課題としたいとの意見があり当日は見送ることとなった。

 五、この程九大医学部内に私設の薬局が開設されたことについての質問に対し薬務課長は「街の一般薬局と同じであるが、処方箋が全部(九大薬局調剤以外の)が行くとは思えないので街の薬局にも出て来ると思う」と答え、工藤氏はこの新設薬局について次の様に付け加えた。九大薬局に研究していた金山某なる薬剤師が管理者であり現在では精神科と職員とだけの処方箋が行く模様で、九大病院が甲表適用のための切りぬけの一策かと思われる。なお薬剤師協会協同組合にも入会することになっている。一般開局薬剤師にはこの事実が甚だ不明朗な感じを与えているとの意見も出て今後の批判が注目されている。以上にて懇談会を終了し午后五時閉会した。

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 福岡県薬商組 地区長会議

 福岡県医薬品小売商業組合では地区長会議を一月十八日午前十一時から県薬剤師会館で開催、古賀、白木正副理事長外十五名出席、理事長挨拶に次いで瀬尾、形井両氏から調整規程についての中間報告があり、なお本組合今後の運営について協議、特に訪問販売に問題が集中された。外に三共講演会(二月一二三)と共催で調整規程の説明会を催すことを決定した。

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 薬界短信

 ◇福岡市薬協勤務部会一月例会(一〇二回)=廿二日午後二時から九大薬局図書館で開会、出席者約卅名、中外製薬福岡支店伊知地学術課長の「サルファ剤の動向について」と題し約一時間半の講演があり、外に山本国立病院薬局長の法改正に関する話しがあって終了

 ◇佐賀県薬品前年貿易額=佐賀県商工会館の調査では三十四年中の県産医薬品の貿易は前年に比し千三百万円増の一億八百万円と発表した。

 ◇サロンパス女子野球部猛練習中=昨年十一十二月にかけて四国十七市で連日男性軍と健斗した同社野球チームは来る三月の九州各地で催される日本女子野球協会の公式戦にそなえて現在本社で猛練習中のよし。

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 福岡市薬協部会長会 福岡薬協組部会長会

 SM対策費再度の拠出異議なく決る。福岡市薬剤師協会部会長会並に福岡地区薬業協同組合及びSM対策員の合同会議が一月廿三日午後一時半から県薬剤師会館で開催された。

 ◆薬協部会長会

 定刻開会次の事項につき協議した。
 (1)薬と健康展について
 荒巻、馬場委員から実施要項について詳細説明があった。
(2)福岡県薬協第十四回臨時代議員会出席報告  鶴田理事から報告
 (3)福岡市国保実施経過報告、権藤会長から国保実施に関しての市当局との関係、三師界内部的総合関係などにつき説明且つ意見が述べられ一同の了承を得、なお保健薬局の標識製造配布について、又各部会毎の三師会との懇談会を早急に開催すること(現在では僅かに六ヵ所だけが開催済)、卅五年度の助成金が入手すれば選定薬品を至急購入整備し処方箋獲得に積極的に乗り出すことなどについて説明協議した。
 (4)最近の保険調剤について工藤理事から詳細説明、十二月分請求は驚異的に増加し九大だけでも六〇万円を越え、その参考として九大処方箋集とも見るべき「最近の保険調剤」と云う小冊子を編集したことについて、処方箋が出る様になった半面、薬局に於て面白からざる問題が惹起され、これ等について充分注意すべきことなどが述べられた。以上にて協議を終え薬協組部会長会に移った。

 ◆薬協組部会長 SM対策委

 藤田副理事長の開会の挨拶に次ぎ瀬尾専務理事から調整規程について述べられ一月末には認可になる見透しである旨附言、次いで工藤理事から組合費納入について部会長の高度協力を要望、次に白木理事長から「SM対策経過について」説明があった。現在では福岡市外に十数ヵ所スーパー及びスーパー類似の店が存在するが薬協組並に対策委などの阻止運動の結果一ヵ所も医薬品部の設置を見ないのは組合員のために同慶の至りであるが、然しなお今後決して油断を許さないものが包含されている。

 先程中央店が愈々薬品部開設の事態を明らかにしたが、対策委としては直に適当な措置によってその阻止に成功した。旧臘廿五日県薬事協議会が発足、今後薬事法の改正となりSM対策委に終止符をうつ時期が到来する迄は圧力的阻止運動に終始せねばならぬので、毎月対策費として幾何かを拠出して貰いたいと切望しているわけである。対策委案は一組合員月千円となっていると述べ、二、三質疑応答があったが一同異議なく本年一月〜十二月迄対策委案通り各部会長として積極的協力を惜しまないことを決定した。以上で合同会議を終了し閉会となった。

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 又々佐賀市にSM薬販申請

 佐賀大洋ストアに対し地元佐賀市郡薬業組合が三ヵ月に渉って阻止と引伸しで反対斗争し漸く十日解決に入ったが、一方大洋の成行を注視していた佐賀市商店街白山町に旧臘開店した大島百貨店が、地元薬組と大洋SMと曲りなりにも解決したので間髪を入れず薬剤師江崎長蔵氏を管理人として医薬品の販売登録申請を佐賀保健所に提出した。地元業者はこの成行を驚異を以て注目している。

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 薬界◇ ◇随談 GT生

 ▼国際情勢緩和に鑑みてソ連は軍備の三分の一を縮少其の分の経費を医療の拡充政策にふり向け小児マヒや癌予防研究や医薬品製造に進むと発表した。

 ▼全剤連薬事法改正情報第一報を流す旧臘十六日深夜薬事制度調査特別委員会の答申内容が二十六日薬事協議会に其の内容の説明があって順々に運ばれる日程表がこの程関係者に発送された。其の最終は五月国会々期末通過の見込だが、政治と云うものは生きものである。日薬や薬業士の団体が厚生省の圧力団体の様に思い又は考えてはならん。政治家や政治屋は物の数にも入れておるまい。だが放置しては絶対いけない。今こそ薬剤師の総力を結集して薬事法改正と薬剤師の身分法の確立に邁進せねばならぬ。

 ▼佐賀市のSM曲りなりにも一応解決だが一難去って亦一難、次は市の中心街のSM大島屋百貨店が薬品販売登録の申請書を佐賀保健所に提出、管理薬剤師は江崎長蔵君(東京、六十才位)とある。江崎君なら筆者の後輩で若い頃から良く識っている仝君は大牟田で開局している筈の苦学力行の人である。同姓同名か判断に苦しんでいる。

 ▼世にSMと地元薬組との野放しも有れば組合加入もあり、大阪、名古屋、京都、四国、近くは隣県からのルートで仕入も有るが、相当に流通機構が窮屈となり、地元の業者と取引を要望しているSMも有るらしい。

 ▼SMと地元の薬組の協調にも色々の方式がある。注目に価するのは福島県の平市の或るSMは県の肝入れで、地元薬組に加入する事組合協定価で販売する事、売場を二階にする事、環境を整備する事、加えて管理薬剤師に前の県薬会長がなった。

 ▼開局して斜陽するよりもSM管理薬剤師の給与は月四〜五万円の方が良いと、これは九州でなく四国や近畿方面の話。自県で就職者がないので遠隔就職者ばかりとのこれも噂話。

 ▼通産省では二十日の省議で来る通常国会に商工法業種別中小企業振興特別措置法割賦販売法案を提出する事を決定した。

 ▼日米友好条約百年の後に敗戦による不平等の日米条約を新安保条約として平等の条約を十九日ホワイトハウスで調印。