福岡市薬剤師会会報
は じ め に

 福岡市薬剤師会の会員に対する情報伝達は、文書の発送と、昭和23年に発行された九州薬事新報に頼っていた。しかし、時代の流れは急速で、医薬分業はもとより、医療法の改正、薬事法の改正、水道法の改正等、周辺環境の変化は目まぐるしく、情報伝達手段の確立が急がれるようになった。

 そのような状況下、昭和53年4月、新会長として登場された藤野義彦会長の決断で、市薬会報の発行が決定され、第1号は同年7月1日付けで発行された。この年は奇しくも「一週間分業」が実施され、それに振り回された年でもあるが、会報のお陰で、詳細な情報を会員に伝えることができた。

 第1号から第8号までは予算の問題もあって新聞形式のタブロイド版であったが、保存しやすいように、第9号から本の形式に変更された。歴代編集人の苦労は並大抵のもではなかったが、その内容とともに現行のスタイルを確立したのは、木原三千代氏である。

 第50号より、それまでのタイトル「市薬会報」を「市薬ジャーナル」に変更したのも同氏で、その目的は会員以外にも広く読んでもらおうという意味で、対外からの原稿も増やし、「会報」という硬いイメ−ジをやわらげるためであった。

 木原氏の編集後記はユニークな文体のせいもあって、マスコミでも注目されるようになり、読売新聞が取り上げたこともある。さらに、西日本新聞からは生活欄に「くすりの話」の連載依頼があり、平成2年10月から平成3年12月まで掲載された。そして、平成4年5月28日、「読んで安心 くすりの話」という本になり、西日本新聞社より刊行された。

 古賀隆会長のとき、会長自身が不安感を持って迎えられた木原氏であったが、古賀会長は編集方針や記事内容に一言も口出しされることがなく、自由な編集をすることが出来たことが、「市薬ジャーナル」の大きな発展に繋がった。なお、会長は一切口出ししないという伝統はいまも引き継がれている。また古賀会長は、行政の会合等、出かけられるときは必ず会報を5〜6冊持参され、読んでくださいと言って配布されていた姿が印象深い。

 歴代編集人を見ると、女性が多いのも特徴であるし任期も長い。緻密さと粘り強さは女性の方が勝っているのだろう。北島啓子氏の「張り切り娘」ぶりはつとに有名であった。連日夜中の1時〜2時までの編集作業には、藤原会長も見かねて「ほどほどで切り上げるように」と注意せざるを得なかった。

 現在の編集人女賀信子氏が、木原氏の任期を上回ることは間違いない。その頑張りには頭が下がるほどだが、今後どのようは新機軸を打出すのか、それを期待したい。

 ここで県薬会報について一言付け加えておきたい。現行スタイルの県薬会報は、昭和63年、九州薬事新報が廃刊されたことによって、同年6月にスタートしている。編集に当っては、市薬会報が大きな影響を与えた。ただ、基本方針として異なっていたことは、原稿の掲載につて会長の許可が必要だったことである。

 市薬会報の編集人は次のとおりであるが、一時期情報の伝達だけを目的とした「市薬広報」が発行されている。これは経費節減のためでもあった。( )内は発行年月日 と当時の肩書。

会報1号(昭和53年7月1日)〜 13号(昭和56年11月1日) 三津家正友(理事・常務理事)
  14号(昭和57年12月15日)〜19号(昭和61年3月15日) 堀江秀男(専務理事)
  20号(昭和61年3月15日)              藤原良春(専務理事)
  21号(昭和62年1月31日)〜 23号(昭和62年7月25日) 城戸嘉寿子(理事)
  24号(昭和63年7月31日)〜 58号(平成6年3月31日)  木原三千代(理事・常務理事)
  59号(平成6年7月31) 〜 66号(平成8年4月1日)  樋口昌嗣(専務理事)
  67号(平成8年5月31日)〜 90号(平成12年3月15日) 北島啓子(常務理事)
  91号(平成12年5月20日)〜             女賀信子(常務理事)
広報1号(昭和57年7月20日)〜 26号(昭和63年3月15日) 堀江秀男〜城戸嘉寿子

 市薬会報は平成19年5月現在で、133号、通算すれば8.000ページを超える。これだけでもファイル化することは大変な作業である。歴史編纂は終わりなく続くことを考えれば、また、現在の会報原稿がフロッピー等、電子ファイルで集められているので、広報委員会は、写真を含めてこれをパソコンに取り込んでおくことが必要だ。

会報 昭和54年3月号

◆ 広報委員会より ◆

理事  三津家正友

 「会報」のご愛読ありがとう存じます。春色漸く調い、花の便りもそろそろ聞かれる頃となりました。会員諸兄姉には、常に薬剤師職能を旨として医療福祉の向上、また医療の健全な発展のために日夜ご奮闘のこととお慶び申し上げます。

 さて本年度(五十三年)より市薬剤師会では、「広報活動の強化」が謳われ、その一環として、「福岡市薬剤師会会報」発行者(藤野義彦)が発行されることになりました。 初年度は年四回で、(7,9,12,3月)、全会員の方へ郵送される外、福岡県衛生部、薬務課、市内各保健所、医師会、歯科医師会、亦会員外の有志薬剤師諸兄、女子薬剤師会員 の方等に送りして、約千名近い方々に読んでいただいております。

 会報の内容につきましては
一、市薬剤師会の方針を正確に会員諸兄にお伝えする。
一、薬剤師に関する政治的医療事情の報告
一、薬事行政を主とした医療行政の動き、また指導等について(主として県衛生部薬務課に御指導、御寄稿頂いています)。
一、薬学的な小論文、随筆等を掲載して、会員相互の親睦を図る。
一、友好団体である医師会、歯科医師会等の方々より寄稿を頂いて交流の場とする。
一、区支部制が布かれていますので各区の状況や部会長、個々の会員の方の発展的ご意見や、会に対する希望等について伺う。
一、その他、会員の動向やお知らせ、等を。主な記事をとするように企画されています。

 「会報」は常に会員の皆様と共に進んでいきたいと考えます。広報委員としても有意義な記事を各方面にわたり取材して、早々に報告できるように努力します。会員の皆様方もどしどしご寄稿なり、ご希望なり御指導下されて会報の充実に御指南下さるようにお願いいたします。

 最後に、ご多忙中にもかかわらづ原稿依頼について心よくお引き受け下された諸氏に厚くお礼申し上げ、会報の発展を図りながら御厚情に応えたいと考えます。以上「会報」について説明せよとの指示がありましたので代筆いたします。


◆ 「会報についての基本方針」 ◆

専務理事  藤原良春

 この度、大久保先生より会報についての貴重な御意見をいただきました。広報部としては、今後も会員の方々の御意見を参考にしながら、よりよい会報となるよう努力して参ります。そこで、会報はどのような考え方で編集しているのか、又今後充実発展させる目標も含めて述べておきますので御理解並びに御協力をお願い致します。

1.情報の伝達として
 会報は会と会員を直接結ぶパイプです。先ず、会をどのように運営しているのかを詳細 に伝えて理解していただく事が、運営に於ても、又組織を活性化させる上でも大変重要な ことです。従って情報としては、執行部の考え方、運営、事業活動はもとより、各種会合 の内容、学術而,行政,関係団体,業界等広い意味での情報を伝えたいと考えています。

2.会員のサロンとして
 現在市薬会員は800名を越え、世代間の相違もあって会に対する意見、要望もさまざま です。会としても、会員同士の間でもいろいろな考え方があることを、知っておく必要が あります。その目的で設けているのが会員の広場です。執行部に対しても、批判,意見, 要望がありましたら遠慮なく書いて下さい。又、詩,短歌,俳句,川柳等趣味,娯楽而も 取り上げて親睦の場にしたいと考えています。

3.対外的PRの手段として
 政治力も重要ですが、今や会の存在を対外的にPRすることは不可欠の時代となってい ます。時折り口で説明するより、定期的に会報を読んでいただく方が理解を得やすいこと は、論を待たないでしょう。そういう意味で会報は、「会の顔」とも言えます。
 対外的には前号より、市医師会,市歯科医師会、市衛生局、各区保健所、県薬務課,県薬,日薬に配付することに致しました。今後は市長,県知事,推せんしている市会,県会,国会議員、反び新聞社まで配付対象を広げたいと考えていますが、それには内容の充実、更に内容のレベルアップが必要であり、それに伴うページ数の増加、そして体裁も整える必要があり、現在は予算不足がネックとなっています。

4.記録として
 会報第1号が発行されたのは、昭和53年(会長 藤野義彦)です。その後昭和57年  (会長 富永泰資)に市薬広報が追加発行されました。通算すると今号で52回発行されたことになります。昭和61年、いずれ市薬年史を発行する事になるであろうと考え、資料の調査に当りましたが、昭和46年の社団法人発足以前のものは殆んど残っておりません。歴代会長の名前さえ、昭和28年以前は不確かな状態です。まして事業内容は調べようがありません。
 この事を考えるとき、会報の記録の大切さが痛感させられます。会報に出ている「会務日誌」にしても、書いている私でさえ感激はありません。おそらく読まれている方は少ないでしょう。しかし、後になって会史を振り返るとき、その目次或いは索引となるものなので欠かすことができません。

5.結びとして
 以上会報が持つ意味、又編集方針を述べましたが、最も大切な事は、読んでいただける ものでなければならないという事です。そして会報は、会員のために存在するという事を 念頭に於て編集に当りたいと考えています。

 会員の皆様、目薬誌,県薬会報,市薬会報とありますが、最も興味を示されるのはどれ でしょうか?願わくば、市薬会報を最もよく読んでいるといわれるようにしたいものです。

 最後に、会報の編集には現在4名の女性が携わっています。特に担当理事である木原先 生は、大変ユニークな発想の持ち主で、そこに期待するところ大であります。と同時に、 立派な会報に発展するよう、会員の皆様方に御協力をお願いする次第です。


会報 平成18年7月号

◆ 会報編集の思い出 ◆

元会長  三津家正友

 私が薬剤師会の組織運営に初めて参加したのは、昭和35年で46年前のことである。当時は理事といっても名ばかりで、たいした仕事もしていなかった。

 今回原稿依頼があり振り返ってみると、やはり懐かしく、楽しい仕事であったのは会報の編集である。以下は平成4年3月号の会報に投稿したものであるが、加筆訂正して再投稿することにした。

 昭和53年藤野義彦先生が会長になられたとき、突然広報担当の常務理事を命ぜられた。私としてはとまどいもあり、仕事は何をするのですかとお尋ねすると、会報を作れとおっしゃる。そしてお断りする暇もないほどの強引さで「頼みますよ」。この一回で押し付けられてしまった。

 何しろ学生時代を通じて未経験の分野であり、市薬には前例もないので何から手を付けていいかもわからない。先ず会報の形式をどうするか、本の形式にするのか、新聞の形式にするのか大いに迷った。本の形式にすれば編集は楽なのであるが、経費節限ということで新聞形式にせざるを得ず、このときから悪戦苦闘が始まった。

 私一人の作業では無埋なので、親友の博多区細井徹一先生に応援を求めることにした。書いていただいた原稿、会員に伝達すべき情報等の資料を持って細井先生宅を訪れ、二人とも辞書を片手に、縦書き13文字の原稿用紙に書き直す作業に着手。そしてレイアウトをどうするか、見出しは何段にするか、その活字の大きさは?と、すべて手探りの状態で進めなければならなかった。

 最も苦労したのは、文字数を何度数えても枠内にきちっと納まらず、その都度原稿を書き直さなければならないことで、細井先生宅での作業も夜の12時、1時になることが数日続いた。

 やっとの思いで昭和53年7月1日、新聞タイプ2ページの創刊号(現在の会報の10ページ分に相当)を発行したことが今懐しく思い出される。

 その後、第2号から第8号(昭和53〜54年)は新聞タイプ4ページで発行したが、保存しやすいようにということで、昭和55年の第9号から本タイプ約20ページの会報に変更し、昭和56年の第13号で編集の責任を終えた。

 今思い起こすと、昭和53年は藤野会長により会の運営、事業等数々の改革がなされた年であった。主なものでは、@組織、社保、薬局、急患の常置委員会を設置しての事業運営(広報部、常置委員会としての学術委員会は54年に追加)、A支部制度の発足、B会館建設問題、そして情報を密にするため、C会報の発行があった。

 私が携わった4年間の会報を読み返してみると、市薬、学薬、各支部、またその他の組織の役員として、いきいきと活躍された先生方の顔が浮かんでくる。一方では若くして亡くなられた先生もあり一抹の淋しさも覚える。

 会報編集の大変さは、身をもって経験した一人として十分認識している。それだけに、現在のように充実してきた会報には今昔の感を覚えるとともに、編集者に対しては、心から感謝しつつ「ご苦労さま」と申し上げたい。

 しかし、会報というものは時代の変化に対応して、更に充実させ発展を続けなければならないという宿命を持っている。そのためには編集に携わる人の努力はもちろんであるが会員諸兄の協力がなければ、今後の発展はありえない。

 また会報には、記録を後世に残すという大切な役目を帯びている。今後の更なる発展を念じて止まない。


「古賀 隆」先生との出会い  三顧の礼 平成3年10月投稿記事より

◆ 『で も・し か』理事 ◆

福岡市薬剤師会 理事 木原三千代

 思えば三年前。木原さん『しか』か、木原さん『でも』か、多分に『でも』の方だと思える広報担当理事の就任でした。

 最初の理事会で古賀会長に言われたことは、「頑張ってください」でもなければ、「よろしくお願いしますよ」でもありません。ただ「ミスがないようにしてください」の一言だけ。とたんに理事会の席から逃げて帰りたくなったのが、つい昨日のことのようです。

 市薬会館で理事会がある会議室は円卓になっています。理事の席はおよそ決められていて、私の席は古賀全長の真っ正面。“よかトピア”開催のときなどは、下見と称して何度か理事者に出席要請がありました。行きたくないので、なるべく古賀会長と目が会わないように下を向いているのですが、まずいことに私の席は真っ正面、いやが応でも目につくのです。「広報は来るんでしょうね」の一言でいつも決まっていました、「はい、行きます」と。

 また、会長・副会長・専務理事しか出席できない三師会。「広報は何でも知っていた方がいい」と言って連れていってくださった古賀会長。私を出席させるにあたっては、事前に医師会、歯科医師会の了解を取ってくださった上でのこと。広報を担当して二年目。この頃になってようやく、『でも』から『しか』理事に格上げされた手応えあり。

 古賀先生が市薬会長を辞任され、県薬副会長になられてからも、イヤなことやつらいことがあると、いつもいつも古賀先生。昨年6月、福大病院入院中もこ病気療養中も顧みず愚痴や悩みをブチブチと、荒巻先生にこう言われた、藤原先生にああ言われたと何通書き送ったことか。先生の奥様から「木原先生から、またラブレターがきていますよ」と言われていたと後になって伺いました。

 『でも』でスタートした広報担当理事。年2回の発行だった市薬会報を隔月発行に変えたり、表紙には写真を使いたいなととわがままの言い放題。挙げ句の果てには予算の大幅アップを要求。それらをすべて、何も言わずに黙って認めてくださったのが古賀会長です。市薬会報から、西日本新聞やフクニチ新聞のような一般紙にまで飛び出していった市薬広報。“薬の話”が連載されるようになったいきさつも、市薬会報の編集後記から。思いのままに書きつづった、ある人からは“編集好奇”と評されたほどの後書き。それでも「あんなこと書いて・・・」と一度も注意されたことはありません。今にして思えば、一般紙への導火線となった編集後記。それも、=発行人・古賀隆=あったればこそです。

 その古賀会長のもとでの理事職。なんとか『しか』理事になりたい、なんとかこ恩返しをしたい、そんな早いだけで過した日々です。そんな『でも』理事をしっかり支え、育ててくださった古賀会長、本当にありがとうこざいました。少しでもご恩返しができていれば嬉しいのですけど。

 最後になりましたが今回の厚生大臣賞受賞、本当におめでとうございます。