■ 巻 頭 言
一年を振り返り 専務理事 冷川襄

新執行部発足からまもなく一年過ぎようとしています。行政、マスコミの医薬分業に対する追い風を受け、面分業への展開が大きな課題でした。これに関して、基準薬局の認定、国立福岡中央病院の院外処方せん発行といった問題が進展しました。また、面分業を進めるためには、処方せんを応需できるよう研修しなければなりません。そこで学術委員会に社保、薬局から理事が参加してテキスト作りを行っています。4月からは、このテキストを用いて実務研修が始められます。

さて、国立福岡中央病院の院外処方せん発行については、古賀前会長の時から協議が進められてきました。地道な努力が今大きく育とうとしています。平成2年9月までは約1パーセント前後の発行でしたが、10月にはいり、院内および院外処方せんの統一、国立病院院長の受け入れ薬局の視察および、院内に薬剤師の派遺、ファクシミリ設置許可と急速に進展し、平成3年2月末には、約8.7パーセントの処方せんが発行されています。

ここに至るには、正岡常務理事を始め担当社保理事の並々ならぬ苦労、国立中央病院薬剤科の応援、医事課の協力があったからです。10パーセントに達するのは間もなくだと思われます。それから更に伸ばせるかどうかは、我々受け入れ側がどれだけきちんと受けられるかにかかっています。

3月9日国立中央病院処方せん受け入れパネルディスカッションが行われました。その中で、派遣薬剤師の江崎先生が指摘された事は非常に大きな意味を持っています。手元に在庫がなくてあとから届けることも、2回続けると患者の方がその薬局には行かなくなること、それから、電話で受け入れ薬馬を捜すのに時間がかかると、患者が怒り出し、中には院内処方せんに切り替える患者が出たり、発行医に告げられ、発行医から薬局に対する信用をなくしてしまいます。

院外処方せん発行はどこまでも患者を中心に考えなければなりません。患著にとって、院外処方せんを持って薬局で薬をもらって良かったということがなければ、その患者はまた院内投薬に戻ってしまいます。我々薬局側として、1ヶ月数枚の処方せんは営業利益がほとんど無いかも知れません。しかし、患者にとって院外処方せんによる投薬を受けて良かったという実績を積み上げることによって、我々薬剤師の職能が認められます。実績が無くては、いくら声を大きくして医薬分業を訴えても、誰からも聞いてもらえません。戦後大々的に医薬分業を求めて先輩薬剤師が運動されたが実りませんでした。今回も我々の職能を主張するだけでは、同じ事の繰り返しです。

21世紀に向けて、新しい医療体制を考える上で、薬剤師がどう貢献できるか問われている時です。地域医療の中で薬局の役割、それは、良質で効率的な医療(特に薬物療法)の提供です。そこで我々薬剤師は「薬物療法のプロ」であることが要求されています。目先の売上げにとらわれずに、処方せん応需は厳格な気持ちで対処して頂くようお願いいたします。

【展 望】
基準薬局の考え方 福岡県薬剤師会 会長 荒巻 善之助

日本薬剤師会が基準薬局制度を発表して、はや一年になろうとしている。この間、県薬会報を通じて、また説明会の開催等で理解を求めてきたが、まだ末端まで周知徹底してないようである。これはやはり説明不足と思われるので、市薬会報を借りて追加説明させて頂く。この基準薬局制度は面分業展開へ向けてのプロセスと考えている。今回県薬会報の巻頭言に「面分業に至るプロセス」を書いたので、台わせてお読み頂き一層の御理解を賜りたい。

〈制度発足の経過〉

基準薬局は当初モデル薬局として発想された。初回の委員会が持たれたのは一昨年の夏頃ではなかったかと思う。担当理事は佐谷常務、委員は6名ぐらいで主に各県薬の会長であり、九州からは私一人であった。

高木会長のあいさつがあり、ヒドロコデインを含む鎮咳剤の乱用が発想の原点であり、あるべき薬局像の確立が制度の基本的な考えである旨説明された。

委員長には三重県薬会長が選出され、日薬原案が示された。これには薬剤師のあるべき形が羅列的に書かれており、自己チェックのための自主基準という内容であったが、最終の認定項目もこれと大きく変わってはいない。

私は今分業の追風が強まってきているとき、処方せん応需体制の確立こそが急務であると考えていたので、発想を転換して、国民の側から薬局像、つまり分業を意識した基準作成を提案したが、全体の空気が無理であった。そこで基準は原案に従うこととし、弾力的な運用を求めることにした。具体的には基準は日薬で制定し、項目追加、及び項目毎のハードルの上げ下げは県薬ないし各地域にまかせる、という方式である。

薬剤師の業務や倫理についての認識に、全国各地で、そうバラツキがあろうはずがない。あるとすれば、それは処方せん応需についての実勢の違い、考え方の違いである。事実の違いは最終段階での全国各地の分推委員の討議の場は侃侃諤諤の大論争となった。その焦点は調剤薬局を是とするか否かである。

〈基準薬局の性格〉

基準薬局が日薬の自主親準として出発したことは前述の通りである。しかし折からの分業追風がこれを煽り上げないはずがない。案の定マスコミはこれを処方せんの受皿として認識した。これは発表でも何でもない。19項目の中にそういう項目があればこれを否定するわけにはいかない。端的にいうならば、自主基準19項目中、目玉になったのはこの項目だけだったのである。マスコミが国民のオピニオンリーダーであり、国民の代弁者である。という見方には問題があろう。然し現実の日本の実情はそうとしか言いようがない。とするならば、この一項目こそが国民の求める薬局像ということになる。

〈絶対条件〉

この時点で規準薬局は自主基準の域を越えて国民に対する薬剤師の公的という責任を伴う性格に変わったわけである。とするならば、19項目の中、処方せんを断らない、という一項目こそが最大のウェイトを持ち、これを基準にして他の18項目のウェイトが決まる、ということになる。つまり処方せん受付が絶対条件であり、研修や情報提供等の必要事項が必要条件であり、一般的な姿勢は付随条件ということになろう。

そしてこれらの諸項目のハードルの上げ下げは県薬ではなく地区の薬剤師会でやってもらうことになる。それは地区によって状況がいろいろ異なる。それによって調整しなければならない。具体的にいえば、地区の支援システムができていればその分ハードルは高くできる。備蓄、研修などである。然しそういうシステムがない所は、それを作ることが先決で、それまでハードルは低くせざるを得ない。

『処方せんを責任をもって受付ける』ということは必ずしも調剤が完結することを意味しているわけではない。物理的に調剤し得ないことも当然想定し得る。 そういう意味では国立病院の指定薬局とは違うし、又差別化ということでもない。

〈一般用医薬品の取扱いについて〉

薬局と薬種商の総数は、全国で約6万5千軒といわれる。この中で保険薬局は3万軒、請求薬局は1万5千軒、300枚以上の薬局は5千8百軒である。薬局と薬種商を店構えで見分けることは我々でもむづかしいから、大多数の国民にはこの区別は分らない。そして優に300枚以上の薬局を調剤ができる薬局をするならば、11分の1の確立で処方せんを持込まなくてはならない。こういう事情は薬局側からは見えないだろう。はっきり物を言えば、一般用薬を入手できる店は調剤ができる薬局の10倍以上ある。ということである。福岡県では保険薬局は約1,500、その3分の1が300枚以上であるから、薬局・薬種商ほぼ同数とみれば6分の1の確率になる。県下の基準薬局500と言ったのは、300枚薬局の数である。

この中には調剤薬局が相当数を占めており、一般用薬の取扱いのない所もある。然し供給という目的ならば6倍の店があるのだから、県民に迷惑をかけるということにはならないだろう。重要なのは供給ではなく情報管理である。そこで県薬としては医薬品集の必置を義務づけ、薬歴管理を義務づけ、必ずしも供給を義務づけることをしていない。これは経営上の問題であって、患者さんが本当にそれを望むなら当然取扱うはずである。従って県薬としてはそこ迄立入る考えはない。むろん期限などはない。日薬原案と最も違うのはこの点である。

〈自主規準なのか〉

規準薬局は自主規準として出発した、これは名の通り本来は外からは見えないものである。自分自身が規範の主体であるから気を抜けばだめになる。だから長続きしない。しかしマスコミがとびついたとき、自主規準でない部分ができた。処方せんを受付けるというのは外から見える部分である。従ってもはや自主規制ではなく、外側から監視されているのだ、急ぐも急がないもない。

薬局、薬剤師は自分の側で理屈をつけるのではなく、国民の側からこっちを見てみる必要がある。薬局と薬種商、保険薬局と調剤薬局、外から見て区別がつくのは調剤薬局ぐらいのものだろう。どうすればわかり易くなるのか。

薬剤師の自主基準は、基本理念などという小難しいものは要るまい。どうすれば県民のため、患者さんのためになるのか、それが原点である。その限りでは、マンツーマンでも面分業でも、どちらでもよいのである。アバウトで申し訳ないが、基準薬局のチェック項目をあまりこまかくほじり起こすと訳が分からなくなる。

患者本意、県民本意という原点に立って考えてもらえば自ずから自明の事と思うのだが。そして福岡市とその周辺という全国に例のない広域面分業の成否も亦ここにかかっている。会員諸氏の積上げの努力をお願いしたい。

<会員の広場> 「お達者インタビュー」後日談 春吉都会 一丁目薬局 国武一人

去る1月9日西日本新聞に掲載された「お達者インタビュー」については市薬理事の木原先生と県薬会長の荒巻先生から、推せんされたものです。これに関して木原理事より何か書いて下さいとの依頼がありましたので一部蛇足を付け加えます。

新聞の見出しに「健康を保つ4ヵ条」と載っていますが、各地で講演するのに便宜上私流に考えた演題です。まだ健康に関することを細かく箇条書にすればきりがありませんので分かり易く簡単に絞りました。

講演は大体1時間から1時間半位あと30分ていど質疑応答のパターンです。これから述べる4ヵ条については「書は言を盡さず言は意を盡さず」の喩えで、その表現もほんの一部しか書けません。

(1) バランスのとれた食事
 これが如何に重要であるかをアピールするため例えばBC400年頃医者の聖人と言われたヒポクラテスは既に、「医者の始まりは料理人である」という名言を残しておられますというような事で本論になりますが、この項が一番時間を要します。

(2) 毎日適当な運動
 老若男女、年齢、職業により違います。歩く事が基本です。病後の回復期、手術後のリハビリなどは赤ちゃんの這えば立て、立てば歩めの親心と同じで人間の健康作りの原点です。

(3) 頭の体操
 これは何も物理的な運動ではないのです。140億の脳神経細胞は毎日減るばかりで再生しません。間引されて残った脳神経綱胞を鍛錬することにより、アルツハイマー型の老人性痴呆症にならないと言えるのです。どうして鍛錬するかの質問に対しては、良い意味のギャンブルをやりなさいと答えます。例えば碁・将棋・麻雀等々その他。

(4) ミのつく言葉
 ウラミ、ツラミ、ネタミ、クヤミ、ナヤミ、を持たないことは、ストレスがないという事で健康につながります。それは私が見本です。

(1)と(4)が健康の元になる条件で、格言にもある様に健全なる肉体に健全なる精神が宿るといわれる所以です。

以上4ヵ条も時と場合によりその話し方もいろいろ変わります。

私事で自慢になりますが、本年5月26日で満83才になりますが365日寝込んだことがありません。夫婦共かかりつけの主治医がおりませんので「俺が死んだら、どの先生に死亡診断書を書いてもらおうか。」と家内にいいますと「そんなこと死んだら考える必要はありませんよ」といった笑話になります。斯様なことで人様の前で健康に関する話をする資格が出来たと思っています。

次に述べることも自己PRと自慢話になり恐縮ですが、今迄の講演の中で体験したことを申し上げます。何かの参考になればと思っています。

私は町薬剤師です。薬学博士でも教授でもないのに下記方面の団体、会社、公民館などから時たま御要望があります。あれば金で買えない誇りと喜びを感じます。このことは薬剤師職能・奉仕の一端であり、一般大衆国民に対する訴求力があることが解ります。というのは講演終了後亦お願いしますとか、私達のグループにも来て下さいとかいわれることがよくあり、医療機関の町薬剤師として冥利につきます。ですからいつも斯様なPRをする事は、薬剤師会の最適の分野であると思っています。

私の講演は決してうまいとは言えませんがプロでなくても話の中に人の持たざる面の特徴があり印象に残るとかで人が世辞を言ってくれます。

立板に水を流すが如く流暢に喋っても、話はうまかったが聞いたあとは何も覚えていなかったということもあります。講演のときには色々の人の集まりですからそれを考慮します。余り堅苦しい学術的な話ばかりしていると居眠り、あくびが出てきます。これを防ぐために本論から外れて、一寸ばかり笑いを誘うユーモアとかHの話などします。私のHの話は上品? ですからちっともいやらしくないと言われます。これは齢のせいと、持って生まれた性分からきたもので大変得をしています。でも講演はむずかしいもので、勉強と努力それからキャリヤが、ものをいう事になります。先述の様に話すことは出来ても書くことは苦手です。未完成に終わらせます。あしからず

最後に 市の衛生局も健康に関する間題を積極的にとり上げていますので、学術的研修会の他に敢えて申し上げます。薬剤師会でも健康問題に関する講演のリハーサル部門でも始められたら如何でしょうか。

<会員の広場> 再びシルクロード考−そのU (奈良と敦煌) 顧問 藤野義彦

文物が交流したシルクロードの終点が奈良(正倉院)と云うことで前号は終りましたが、その正倉院御物の一部を東京国立博物館で参観する機会を得た。織物・銅器・佛画にしてもすばらしいものばかりであった。五年前に旅行した敦煌漠高窟・西安博物館の佛画・木尊が思い出される。いずれも豊満、表情ふくよか、森厳なものではありませんが、みんな美しく、人間的です。

奈良と敦煌を比較するのは当を得て居りませんが、得に敦煌の聖地として、文化の基盤をそこにおろして静かに今日まで千数百年の歴史をもつ、何れもそこに住む人々の愛情とその時々の為政者によって護られて来たと云うことを痛感しました。敦煌は現中国の新キョウ省の西端にあり、敦は「大きい」煌は「盛ん」と云う意味です。この様な立派な名前は、おそらく漢の武帝が砂模の中の最前線基地とするに当り名付けたと云われています。佛教像のメッカ漠高窟は紀元366年、僧・楽伝によって靈地として第一窟が掘られたことによって始まる。「漠高」というのは砂漢より高いと云う意味です。

いづれにしてもこの鳴砂山の麓の断崖に千年に亘って掘られ、一千の石窟があると記されています。現在、石窟の中の遡像は二千点、全壁画を横に並べると45kmと云はれています。壁画の多くが佛教思想を表わしたものあり、経典の内容を絵画で現はしたものが多い。それと同時に社会現象百般が画かれ、風俗史が具体的に展開され、東西交流の貴重な資料となっていると云はれる。

鳴砂山は砂の山です。私が見学した時も、石窟より石窟へと移る歩廊を歩いていると細かい質の砂がしきりと落ちて来て帽子をかぶっていないと歩けない位であった。埋没させないため毎年莫大な費用を要している。シルクロードの東の終点奈良を見ると、朝鮮半島を経由。又は直接中国(遣隋・遣唐使)より佛教を中心とする心の世界と文化の移入がなされて居り、特に空海・最澄によって日本における大成がなされ鎌倉期の新佛教に引き継がれている。

少し脇道にそれるが、鎌倉期(1200年〜1300年)と云う時代を見ますと、日本で始めて武家政権が誕生していて日本人の生活様式や価値感の転換期と云はれている。それと、同時代の世界を見る時、大陸ではジンギスカンがモンゴルを統一しユーラシア大陸全土に及ぶ大帝国を建設する時代となっている。ヨーロッパでは聖都エルサレムの奪回を目指す十字軍遠征の末期であり、マルコポーロが東方旅行を行ったのが1271〜95年のことです。それまでは地球上のそれぞれの地域で独立して展開してきた歴史が、地球規模の交流の幕あけとなった時代であり、宗教革命、ルネッサンスを迎える胎動の時期と云はれる。この時期。先に伝道された佛教は、親鸞・道元の偉大な佛教哲学者によって日本の佛教哲学は完璧になった。釈尊にはじまった佛教哲学が日本に伝来してきて完成されたと云われています。

「鎌倉時代の佛教」をPHP (1990年1月号)を引用して図示すると次の様になっているのです。

<会員の広場> 蘇我馬子は天皇と自称した? 福岡市薬剤師会 副会長 藤原良春

妄想のはじまり

私は今、一つの妄想にとらわれている。それは、天皇という称号を最初に使ったのは、蘇我馬子ではなかったのか、という思いである。この奇妙な「馬子=天皇自称説」にとらわれはじめたのは、昨年の暮、なにげなく一冊の本を読んでからである。

ただし、説という大袈裟なことではないので、一つの話題として書いてみたい。

その本は「柿本人麻呂いろは歌の謎」(著者・篠原央憲・三笠書房定価450円)である。 著者は次のようにいう。「いろは四十七文字」を知らない人はいない。そして、これは四十七文字からなる「いろは歌」である。これほど有名な歌でありながら、作者名は知られていない。というよりなぜか作者名は、故意に秘密にされ、隠され続けてきた。

「いろは歌」の表記は、「いろはにほへと、ちりぬるおわか」と七文字で区切られた七行詩になっている。この最後の文字を横に読んでいくと、「とかなくてしす⇒とが(罪)無くて死す」という暗号が詠みこまれている。このことは古くから知られており、不吉な歌とされていた。では、何のための暗号か?

「万葉集」全二十巻は、753年頃、橘諸兄と大伴家持によって撰集されはじめ、806年以降、平城天皇時代に勅撰化された。とされているが、これに対し著者は、「巻一・巻二」は柿本人麻呂の個入歌集であったとし、人麻呂が藤原不比等によって石見口(島根)に流刑され、刑死させられるまでの間に、怨みと呪いをこめて編み上げたものとしている。その二巻を世に残すための工作として、岩牢の中で必死の思いで作ったのが、「いろは歌」という暗号文であり、「万葉集巻一・巻二」と「いろは歌」は表裏一対のものと結論づけている。

「人麻呂=刑死説」は、先に梅原猛氏が出しているが、この著者はまた別の角度から追求したものである。そして、「いろは歌」はその不気味さ、不吉さゆえに作者名を隠さざるを得ず、のちの世では作者不明として伝わったという。

ところで、この本の中の次の一文が、私の妄想のはじまりである。天武13年(684年)に「八色の姓」の詔勅があって、柿本臣氏は「朝臣」を賜っているのに、万葉集最大の歌人であった人麻呂の名が、「古事記・日本書紀」に記されていない。(朝臣は皇族につながる者に与えられた)のちの正史「続日本紀」和銅元年(708年)4月20日の頃に「従四位下・柿本朝臣佐留(猿)卒す」とあり、歌の世界でも「猿丸大夫」なる入物がおり、この「さる」は人麻呂の異名と解釈される。

昔は、朝廷から追われた者はその本名を消され、かわって下品な名前に改名されることがあった。蘇我馬子−蝦夷−入鹿などもそれに含まれるであろう。大和朝廷を完全に牛耳り、対決した家系であってみれば、朝廷(藤原一族)としては、彼らのまともな名前を残しておきたくないであろう。そして、歴史から彼らの実力と実績を抹殺しようとする。大化改新前後のあいまいさは、そこに原因があったと見られる。

「記・紀」の思想とは何か

ここで私は、十数年前た呼んだ梅原猛氏の「塔」という本を思い出した。この本は確か「古事記・日本書紀」いわゆる「記・紀」の撰者は、通説と異なり藤原不比等説であった。そこで再び読み返してみることにした。

梅原猛氏は次のようにいう。

「記・紀」において、出雲神話と称するものが、分量で三分の一を占めている。そして、オオクニヌシノミコトをはじめとする国つ神たちの故郷が出雲地方とされるのは、新しい神の確立のために妨げとなる古い神々を、出雲地方に流そうとするためであった。また、「記・紀」の中心的神話は出雲神話であるが、その神話の中心は、スサノオノミコトの追放とオオクニヌシノミコトの自殺の話である。いわば、アマテラス支配に反対する神々に、どのような刑罰を与えるかが「記・紀」神話の内容である。

「記・紀」は、アマテラスの神権を絶対化−国家第一の神としようとする意志を持っているが、アマテラスは女神であり、その孫のニギニギノミコトは幼神である。そして、政治の実権は外祖父タカミムスビにあり、また、天孫降臨を実現させたのは、のちに藤原氏の氏族神とされるタケミカズチ、フツヌシの神である。つまり、この神話構造は単なる天皇の権力の絶対化だけで説明されず、いわば、律令天皇制のかくれみのの下で、その政治的権力をふるう藤原氏の権力を合理化しようとするねらいを持つ。つまり、この神話そのものが、何よりも天皇家というより、藤原氏にとって有利に出来上がっている。

従って、この律令制の確立者・藤原不比等が、「記・紀」撰集の中心に居ると考えねばならない。

 注 アマテラス=持統天皇・元明天皇
   ニニギノミコト=文武天皇・聖武天皇
   タカミムスビ=藤原不比等

古事記・712年太安万侶・元明天皇に撰上、神代から推古天皇の疲する628年までを記す。読者は元明女帝一人においた。 日本書記。720年舎人親王撰上、持統天皇が譲位した697年までを記す。 基本思想は古事記と同じ。

梅原氏はこのような観点から「万葉集」を追求し、柿本入麻呂=刑死説、法隆寺=鎮魂寺説(聖徳太子一族殺害に対する)を導き出している。

「記・紀」は蘇我氏を抹殺した

ここで強調しておきたいことは、日本の古代史が「記・紀」の解釈によってなされているということである。

蘇我政権を倒した藤原氏が、「記・紀」の名において意図的に蘇我氏の実績を抹殺、隠蔽、転記したことは十分考えられる。そして、悪者扱いし入鹿の横暴をとがめたりしているが、のちのちまで藤原氏の横暴は入鹿の比ではない。勝利者の論理で書かれた歴史というものは、疑いの目でもって見れば、また別の様相を呈してくる。

「記・紀」と「隋書」の矛盾

前書きが長くなったが、そろそろ今回の主題に移ろう。中国の正史「隋書東夷伝」によると、推古8年(600年)「倭国の使者が隋の都長安を訪れた」と記している。そしてその使者は、「倭王の姓はアメ、名はタリシヒコ」と答えている。これが最初の遣隋使ということになるが、日本書紀には何も記していない。

第2回は607年、小野妹子を派遣したことは記している。このとき、隋の煬帝に奉上した国書が、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」である。これに対し煬帝は怒った。東夷の一国が、わが帝国に対等の口をきくとはなにごとか。と

608年4月、小野妹子は隋使・裴世済を伴って帰国するが、同年9月裴世済を送って再入隋する。そして、留学生・南淵請安・向玄理・僧旻を同行した。このときの国書は、「東天皇、敬みて西皇帝にもうす」と書かれている。後に大化改新の主人公となる中大兄皇子と中臣鎌足の学問の師匠、南淵請安の帰国は640年である。

さて、問題は隋使・裴世済の報告である。彼が会ったのは、女帝ではなく男帝だったとしており、隋書東夷伝は「その王タリシヒコ、使いを遣わして朝貢す」とある。第1回のときと同じ「王・タリシヒコ」とは、はたして何者なのか?「記・紀」では当時、推古女帝(在位592〜628年)となっており男帝ではない。では、聖徳太子なのか?

太子の名は「うまやどの皇子」と呼ばれていた。「タリシヒコ」と呼ばれた形跡はどこにもない。それにもまして、遣隋使の派遣は大事業であったはずである。これが太子の事業であったなら、のちに崇め奉った藤原一族が、第一回の遣隋使派遣を「書紀」に記載しないはずがない。

聖徳太子は遣隋使を派遣できたか

聖徳太子が摂政になったのは593年、19才のときであるが、605年には斑鳩宮に移住している。この移住は、推古天皇の宮とは相当離れていたらしく、太子は逃げ出したような印象を受ける。或いは、身の危険を感じたのかもしれない。

通説では、推古帝や蘇我馬子と対立したためとか、仏教に没頭するためであったとかしているが、それならば太子に実権があったとは考えられない。その実権のない太子が、移住(または引退)して2年後、さらに3年後遣隋使を派遣できたであろうか。

しかし、多くの学説は「タリシヒコ」を、聖徳太子とし、遣隋使の派遣ならびに裴世清の供応も太子が行ったとしている。

現在の新説について

古田武彦氏などは、隋に対して対等外交を行ったのは、大和朝廷ではなく「九州王朝」(邪馬台国系)だったとし、そして「九州王朝」のことをのちに大和朝廷のこととして、「書紀」に挿入したので、「隋書」と「書紀」にくいちがいが出たとしている。

蘇我馬子は天皇と自称した

私の妄想は次第に「タリシヒコ」は蘇我馬子に違いないという思いが強くなった。

そこで馬子であるが、「書紀」によると、572年敏達天皇が即位したとき大臣になっている。敏達天皇没後585年甥の用明天皇(太子の父)を即位させるが、2年で病没する。皇位継承をめぐって対立する諸皇子と、国つ神派(反崇仏派)の物部守屋、中臣勝海を殺した馬子は、甥の崇峻天皇(太子の叔父)を588年に即位させるが、592年11月に殺してしまい、同年12月、今度は姪の推古天皇(太子の叔母)を即位させる。このとき推古天皇39才、馬子が1〜2才年上と思われるが、以前から男と女の関係にあったといわれる。

ここに馬子に対立する者は一入も居なくなった。そして、この殺りく戦には聖徳太子も馬子側に立って参加しているのである。今度は、太子にしてもいつ殺される側にまわるか知れないのである。とすれば、注意深く行動しなければならなかっただろう。スターリン型の独裁政治家の下にあって、しかもまだ若い太子が、思い通りの政治ができたとは考えられない。ここに、太子の事績とされた数々のことに疑問を持つのである。

ここまで書いてきた中に「天皇」という称号を使っているが、正式には「大王」としなければならない。「きみ(王・君)」姓氏族の長が「大王」で、「おみ(臣)」姓氏族の長が「大臣」、「むらじ(連)」姓氏族の長が「大連」である。大化改新で設置された、「左大臣・右大臣」は職制で、これとは異なる。

天皇という称号がいっから使われたかははっきりしないが、推古朝であったといわれている。私は、608年の遣隋使派遣のとき、はじめてつかったのではないかと思う。

蘇我氏は百済系の渡来人とされ、新興勢力である。それが今や、天下の頂点に立っている。「きみ」氏族に対する卑下心などなかっただろう。そして馬子は対外に目を向けた。

中国は当時「隋」という新しい国である。すべての権力を握り、事実上国王の立場に立った馬子は、意気軒昂で誇らしげであったはずである。その思いが隋の「皇帝」に対し607年には「天子」と自称し、隋の煬帝の機嫌を損じる「天皇」と自称した。これこそ馬子の自負心の表われである。そして、内外ともに自分の位置を「大王」の上に置き、それを顕示したかったに違いない。

馬子・蝦夷・入鹿の本名が消された

蘇我本家は入鹿の代になって蘇我氏より古い氏族・中臣氏の復しゅうを受ける。ここに登場するのが中臣氏中興の祖、鎌足である。なお、中臣氏は「連」姓である。鎌足の復しゅうは、聖徳太子一族の殺害から始まった。

643年入鹿をそそのかし、太子の子・山背大兄王一族23名を殺害した。太子一族は、蘇我氏に最も近い一族でもある。2年後の645年、20才の若い中大兄皇子(天智天皇)と組んで、蘇我氏の傍流・倉山田石川麻呂を利用し、入鹿を殺した。このとき入鹿の父・蝦夷は自殺し、蘇我本家が滅んだ。

鎌足の復しゅう、蘇我氏の滅亡、これが大化改新のはじまりであり、鎌足31才のときであった。さらに鎌足は、馬子の血を引く舒明天皇の子・古人皇子を殺し、一段落した4年後の649年、入鹿殺しの功労で右大臣にしていた石川麻呂を抹殺し、目的を達成させた。鎌足は、669年56才で死んだが、そのとき天智天皇より藤原の姓を賜り、藤原氏が誕生する。そして、鎌足の子・不比等によって、天皇絶対制の律令国家が出来上がった。

最後に「蝦夷」という名について考えてみたい。これは「えぞ」とも読み、古代にあっては東北地方の蔑称の意味を持つ。「隋書東夷伝」の「夷」も東方の未開入という意味で同じものである。

「魏志倭人伝」が伝えるように、当時東北地方にあったと考えられる「狗奴国」は、邪馬台国に支配されていない。そののちの国も同様に大和朝廷に支配されていない。

そこで、朝廷は再三、再四蝦夷征伐を行ったと「書紀」は記している。最も有名なのが658年から3ヶ年にわたって行われた「阿部比羅夫」の遠征である。つまり、大和朝廷に従わなかった東北の国に対して、「えみし・えぞ」という蔑称で呼んだ。

その「えみし・えぞ」という文字を、国家の最高権力者の名として使ったのである。やはりこれは、本名を消されたに違いない。

天皇=馬子自称説というものが、過去にあったのかどうか、考慮にも値しないこととされているのか、浅学にして私は知らない。

年表

  57年 奴国王朝貢(後漢書)
  107 倭の面土国朝貢(後漢書)
  倭国の大乱7〜80年魏志倭人伝
  181 邪馬台国建国元年(原田大六氏説)
  239 卑弥呼魏に朝貢
  248 卑弥呼歿し、壱与が女王となる
  350 この頃朝鮮で百済・新羅起こる
  369 この頃任那日本府成立
  372 百済王が倭王に太刀献上
  391 倭軍が百済・新羅と交戦して勝つ(広開土王碑による)
  404 倭軍高句麗に敗北(広開土王碑)
  478 倭王武(雄略天皇)宋に上表文を送る
  507 大伴金村、越前の王を擁立(継体天皇)
  512 大伴金村、任那4県を百済に割譲
  513 百済より五経博士がくる
  527 筑紫君盤井の乱
  528 物部麁鹿火、磐井の乱鎮定
  531 欽明天皇即位(書紀では535年)
  532 任那の金官国が新羅に降る
この頃、蘇我稲目大臣となる
  538 百済聖明王仏像・経論献上(書紀552)
  540 大伴金村失脚
  552 稲目、物部尾興と仏教受容で対立
  562 新羅、任那日本府を滅ぼす(書紀)
  572 敏達天皇即位・蘇我馬子が大臣
物部守屋大連となる(書紀)
  585 物部守屋、中臣勝海、仏像仏殿を焼く
用明天皇即位(馬子の甥、太子の父)
  587 用明天皇病没、馬子が甥の穴穂部皇子(守屋派)を殺し、守屋を討減
  588 馬子・崇峻天皇(穴穂部皇子の同母弟、太子の叔父)擁立
  592 馬子、11月崇峻天皇を殺す、12月姪の推古天皇(敏達天皇の皇后)擁立
  593 聖徳太子摂政となる(19才)
  600 倭王、阿毎多利思比弧(アメ・タリシヒコ)遣隋使派遣(隋書東夷伝)
  601 斑鳩宮を造営する
  603 冠位十二階制定小墾田宮を造営する
  604 聖徳太子、憲法十七条を発布
  605 聖徳太子、斑娚宮に移住する
  607 遣隋使小野妹子を派遣、法隆寺建立
  608 小野妹子、隋使裴世清とともに帰国
同年向玄理、僧旻、南淵請安らを同行し入隋、609年妹子帰国
  614 第4回遣隋使・犬上御田鍬を派遣
  620 太子と馬子が天皇記・国記を作る
  622 聖徳太子歿(49才)
  626 蘇我馬子歿、子の蝦夷大臣となる
  628 推古天皇歿・蝦夷境部麻理勢を殺す
  629 蝦夷、甥の舒明天皇(田村皇子)擁立
  630 第1回遣唐使派遣
  637 蝦夷(えぞ)が反乱討伐軍敗退
  641 舒明天皇歿
  642 皇后即位(皇極天皇)蘇我入鹿執政
  643 入鹿・軽皇子(考徳)ら山背大兄王一族討滅
  645 中大兄王、中臣鎌足ら入鹿を殺す

<会員の広場> 市薬ボーリング大会を振り返って 勤務部会  四宮國臣

第9回市薬ボーリング大会は、咋年と同じ城山ボールにて1月27日に行われましたが、勤務部会の初優勝というラッキィな結果で終る事が出来ました。

優勝談は監督で勤務部会のチームリーダーでもある篠崎先生(市民)が書かれるものと思っていた所、篠崎先生より「君が書くように」と言われ、しゃべるのと書くのが苦手の私がですかあーと二の足三の足をふみましたが、覚悟を決め、試合を振り返り、思いつくまま、書いて見る事にします。

今回の勤務の優勝は例年になく練習を皆でやれたお蔭といえなくもありません。それというのも昨年のソフトボール大会の打ち上げを直ぐにせず、1月12日にボーリングの練習をした後に打ち上げをしようと計画し、実行して下さった篠崎先生他、市民病院の先生方のアイディアが当ったものと思います。

さて、試合当日になり、城山ボールへ少し早目に行ってみますとただ一人練習している人がいます。言わずと知れた東支部の中年パワーのリーダー松井先生です。スコアはと見ると、これがなんと200アップ!!スゴイ、これでは今年も又東支部の優勝はまちがいなしと思いました。

試合が始まり、我々のレーンはと見ると、奇しくも豊福先生(浜の町)、市花先生(子供)と正に中年!これがパワーにつながればと念じつつ1ゲーム目豊福先生大ハッスル、市花先生と私はかやの外、隣のレーンはと見ると篠崎、中尾(市民)、平川(九大)の先生方まずまずの出だし、中尾先生は最初よりターキー(スゴイ!)、しかし機械の調子悪く、他のレーンへ移動。それからは機械の調子だけでなく3人の先生方の調子もいまいちとなりました。

一方我々のレーンは2ゲーム目になってやっと私もハッスル、それではと3ゲーム目、市花先生も大ハッスル。試合を終えて見ると、ずば抜けた成績者はいなかったものの、ほとんどの先生方が平均していて、我がチームの平均点が148点という結果で初の優勝ができ、皆大喜びでした。

又私自身、特別に良いスコアではなかったのですが、今回は他の先生方の不調に救われて個人優勝も出来て二重の喜びでした。

全体を振り返って今年と昨年を比較すると、個人戦は昨年優勝は東先生(城南)の539点で今年は489点と断然昨年が良い点が出ています。しかし、団体戦を見ると昨年優勝の東支部の平均点が142点で今年勤務部会が148点と今年が良くて、これから見るとだんだんと先生方のレベルが上がっている証拠と来年が今から楽しみです。

最後になりましたが、今回、会場探しから表彰パーティー準備と、エトセトラとお世話下さいました先生方に厚く御礼申し上げ、次回も益々愉快なボーリング大会となりますよう祈念致します。

初優勝で大喜びの勤務部会チーム

〔フレッシュさん紹介〕 私のいちばんリラックスできる時間 大橋部会 スエタ薬局 池田裕美

私がスエタ薬局に勤務して早や4年が過ぎてしまいました。始めて薬剤師という仕事について、希望と不安を胸に抱いた日がつい昨日のように思えます。少しでも早く出勤して何か学ぼうという心がけは今でも失っていないつもりです。ただ学生時代とはちがって一日一日があっという間に終わり、月日の過ぎ去る早さを身をもって感じています。

スエタ薬局は末田先生をはじめ8名のスタッフで仕事をしております。みんなそれぞれ個性的で毎日楽しく仕事ができています。末田先生には、薬剤師として、また、一人の女性としていろんなことを教えていただきました。とても女らしい中にピリッとした厳しさを持ち母として、また、薬剤師として、いつも心くばりを持って仕事をする先生はとてもステキです。その下で仕事をできる自分をとても幸せだと思います。

まだまだ薬のことについては勉強しないといけないことばかりです。薬剤師という仕事は薬のことを勉強するだけではなく、“投薬する”ということで接客もとても大切なことだと思います。私は姉と2人で暮らしているのですが、私の姉は私が仕事をしているような調剤薬局ではなく、OTC薬を中心にした大企業の大賀薬局に勤務しています。帰宅してから姉と薬のことについて意見を交換し台うことがたびたびあります。お互いにすこし違った見解から話ができるので、それぞれのためになると思います。

そんな私たちは毎日帰宅すると、人間の夕食もさながらすることがあります。それは犬と猫の夕食です。犬と猫を1匹ずつ飼っています。犬はシェトランドシープドッグ名前は、“ケリー”といいます。これは姉の担当です。猫がチンチラシルバー、これが私の担当です。血統証名Oak.Forest.Darling Megumi通称“メグ”です。私の一日の生活は猫に始まって猫におわります。うちには物心ついたころから犬がいました。そのおかげで、自分でいうのもなんですが、人よりすこしやさしい心を持って生きてこられたような気がします。一動物にだけかも…?私は、人を見る目は、まだまだ未熟ですが、猫を見る目はだれにも負けません。というのもうちの猫は普通のペットではなくショータイプの猫なのです。もちろん雑種の動物も大好きですけど、たまたま手に入れた猫がショータイプの猫だったのです。

ショータイプのペットといってもわからない方が多いと思いますが、猫には猫の世界があるのです。私は大学時代に薬剤師の勉強をしながら猫の勉強をひたすらした時間がありました。

福岡には“NOA”というキャットクラブがあります。私が入会しているのは“NCC”といって京都が本部のキャットクラブです。値段も普通のペットの5倍くらいはするのですがメグちゃんは“CFA”チャンピオンというアメリカのチャンピオンシップを持っています。このタイトルをとるのに福岡では“NOA”と“NCC”のキャットショーしか催されていないために、私は何度か東京、大阪のキャットショーへ走りました。

猫を飼い始めてもう6年ほどになりますが、あのころはブラシと櫛を手に持って抜け毛と追いかけあい、掃除に明けて掃除に暮れる毎日で、猫の世話に猫の手も借りたいのですが、手を貸す猫もおらず大変な日々を送りました。でも今となっては、とても楽しい思い出となって私のアルバムに綴られています。

猫のことについて書くとまだまだきりがありませんが、今なおメグちゃんは元気に、私のよき話し合い手となって毎日楽しく暮らしています。私にとっては切っても切り離すことのできない家族の一員です。趣味といっては何ですが、ほっとひと息ついた時、メグと遊ぶのが私の一日でいちばんリラックスできる時間です。

うちの薬局では週に一回ミーティングを行っています。末田先生自らあるテーマを考えられて毎週レポートをくださいます。薬剤師だけでなく医療事務の方もいっしょに勉強しています。毎回とても勉強になります。末田先生の熱心さには、頭が下がる次第です。そんな末田先生も趣味は多方面に持っておられます。最近は野草の会によく出席されて山に登り草花の写真などを撮ってこられます。とても楽しそうに私たちに写真を見せて話をして下さいます。

みなさまも何かこれだけは……という趣味を持たれてはいかがでしょう。きっと、今以上に毎日の生活にはりが出てくることと思します。人は一日のうちに1分でも1秒でもいいから好きなことをする時間があるからこそ楽しく生きて行けるのですから……。

(S61.第一薬科大卒)

〔部会紹介〕 帯状の馬出部会 東支部馬出部会 部会長 柴田伊津郎

馬出都会は会員数8名の小部会で、馬出地区が奥行きのない帯状の地域であるため薬局も東の筥崎宮から西の大学病院東門までの、いわゆる大学通りに添って7軒の薬局が直線状に点在している。ただ浜松薬局だけが国道3号線近くにある。ここは以前、競輪場前行きの市内電車が通っていた所で、浜松町電停があった。競輪場は今は貝塚公園となっている。部会は東から“流通センター薬局馬出店”“泉調剤薬局”と二軒の調剤薬局があり、それぞれマンツーマン分業の薬局である。東から三軒目が“柴田薬局”で昭和22年開業のヂヂ・ババ薬局である。当時町内にあった八百屋さんも、肉屋さんも魚屋さんも既になく、わが薬局も低空飛行中で失速して、いつ不時着するもわからぬ状態である。

更に西へ行くと“馬出薬局”がある。ここは近くの八木病院の処方せんを受ける調剤薬局である。この西に“大賀薬局大学前店”がある、ここが市内に多くの支店を持つ大賀薬局のそもそもの発祥の地で、私が開業当時は先代も元気で店頭に立っておられた。

つづいて“イソダ薬局”“篠崎薬局”がある。イソダ薬局の先代は社団法人福岡県薬剤師会としての初代会長で永らく県薬剤師会の大御所的存在であった。現在の正之先生は市薬剤師会の監事で、薬局は漢方を主体に経営されている。篠崎薬局の初代は92才の高齢で熱心な佛教徒である。佛像の彫刻や佛画などに堪能である。当主の正十郎先生は私の山歩きの相棒で熊本・佐賀・大分などの山へ遠出する時は誘ってもらう。市薬剤師会の学術委員長の正幸先生は奥様の弟さんである。

三号線近くの“浜松薬局”は昭和34.年の開業で、開設者の今井女史には前部会長以来会計をお願いしているが、いやな顔もせず面倒な会計を引き受けていただいている。

以上記述に精粗があって申しわけないがお許し願いたい。特に調剤薬局については開設者にまだ一度もお目にかかっていない方もあって情報不足である。私が部会長を引き継いで間もなく木原先生から部会報告を求められたが、情報不足を理由にお断りしていた。それが今度再度の電語をいただき、そうそうお断りすることもできずお引受けした。馬出部会は以前は現在の千代吉塚部会の浜部までいっしょで、部会の旅行などもやっていたが今は私が連絡事項のために各薬局を廻るだけである。情報不足は以前と何ら変わらない。

■■トピックス■■ 市薬学術委員会

アスピリン軟膏

近頃アスピリンの外用剤が話題になっており、その溶液や軟膏が院内製剤されている。アスピリンは古くからあるNSAIDで、また局所麻酔作用もある。クロロホルムに溶かしたアスピリンを帯状疱疹後神経痛に塗布して有効であったという報告がされてから、いろいろ試みられるようになった。クロロホルムは皮膚刺激性、揮発性があって、どうもよくないので著者らは独自に軟膏製剤を調製して帯状疱疹後神経痛や種々の関節痛に応用を試みている。帯状疱疹後神経痛には1回5g(アスピリンとして100mg)を塗布すると3〜5分後に鎮痛が始まり10分で有効となり、2〜3時間続く。発症後の経過が短いほど効果が良い。RAなどの関節痛にもインドメタシン軟膏よりもよい効果が得られる。本軟膏は使用法が簡単で副作用もほとんど無く、一層の研究、開発が望まる。

  処方   アスピリン微粉末  20g
       ツイン80      25ml
       プラスチベース  ad500g
  製剤方法 アスピリンの結晶にアルコールを加え乳鉢で微粉末とし、
       ツイン80、プラスチベースを蕾壊機で混和する。

(平石偵子ほか、東京逓信病院ほか、治療学24(8)、93〜94.平成2年8月)

ビタミンCを過剰摂取した場合

VCの大量投与で癌が治るとか、カゼが治ると騒がれたことがあるが、大量の継続投与は危険らしい。著者らは正常ラット、及び副腎摘出ラットにVCを1日1回1g/kgで6日まで体重、肝臓、腎臓、膵臓、胸線、下垂体、副腎などの重量、副腎皮質ホルモン量を測定した。その結果、正常ラットの場合、副腎と下垂体の重量が減少する傾向を示し、ホルモン量も減少した。一方、副腎摘出(皮膜のみ残して)ラットでは逆に副腎の重量が50%も増え、ホルモンも同様に増加した。これにより「VCの効果は副腎の再生に対して効果的であって、副腎の一部欠損とか、著しい機能低下のときに効果がある」とわかったという。健康人が必要以上にVCを摂取することはホルモンバランスを乱してマイナスである。

新薬と臨床39(9)pl11〜116

骨粗鬆症の新しい薬物(イプリフラボン)の作用について

骨粗髯症は骨量の減少のため、体重を支えることが困難になった状態である。古い骨は絶えず破骨細胞によって吸収されるとともに骨芽細胞によって新しい骨がつくられている。骨芽細胞⇒骨⇒⇒破骨細胞胞(骨吸収が骨形成より大)の状態が骨粗鬆症である。従って骨粗鬆症の治療薬は@骨吸収を抑制するもの、A骨形成を刺激するものに大別する事ができる。

イプリフラボンは骨吸収の抑制とともに骨形成を促進して骨量を増加させ、又エストロゲンのカルチトニン分泌亢進効果を増強する。経口的に投与出来る薬剤であり、腰痛も速やかに軽減する。

PTM Vol.5,8(5)DDC.,1990

 
図1骨組鬚症の治療薬
 

 
図2イプリフラボンの作用
 

ピアスにご用心

中国では耳針治療は、つぼが正確ならば随分いろいろな病気に効果があることがわかっており、患者に実施しその効果も多いことがわかっている。耳の症状としては、メニエル氏症候群の人の多くは、面頬部から内耳点にかけてしこりがある場合が多く、血圧の高い入や動脈硬化のある入は高血圧点から血圧点にかけて筋状(しわ)の凹みが多くみられる。又高齢者でもこの部分にしわのない人は血圧はあまり高くない例が多く見られる。

耳たぶには、眼に効くつぼや、首から上の諸病に効く大切なつぼが多いので、そのつぼを避けてピアスの穴を開ける方が賢明である。

ピアスの穴をあける位置で一番多いのは眼、又は面頬部にあたるところであるが、ピアスの穴をあけて顔而麻癖をおこしたり、両眼失明、又、長い時間ピアスをつけていると、よくめまいがする例がある。男女を間わず「美」を追求する時代であり、ピアスの穴をあけるときは十分気をつけて

胆道感染症におけるニューキノロン剤の有用性

初診時に胆嚢炎や胆管炎が中等度であると判断されたならば、現在では、手軽にかつ安心して投与し得る経口抗菌薬を投与しながら、超音波検査で肝・胆道の感染巣の部位と程度を把握し、経過をみながら治療方針を決定して行くことが可能になった。ニューキノロン剤はグラム陽性菌及びグラム陰性菌にわたる広い抗菌スペクトラムを有しているし、又MRSAを含む耐性ブドウ菌から緑膿菌まで、セフェム剤ではカバーしきれない胆汁中の細菌にも優れた抗菌力を期待できる。更に血中半減期が比較的長く、組織内および胆汁中移行も良く、他の系統の抗菌剤との間に交差耐性を認めないという特徴がある。最近のニューキノロン剤の胆汁中濃度および胆嚢組織内濃度を示す。

 
図 ニューキノロン剤の胆嚢組織内濃度
 

 
図 ニューキノロン剤の胆嚢胆汁中濃度
 

研修会報告

[学術委員会]

日 時
 2月26日 (火)午後7時
場 所
市薬会館講堂
演 題
「消化性潰傷治療の新しい展開」
−特にオメプラゾールについて−
講 師
九州大学医学部附属病院 三澤正先生
出席者
117名

【広報】

国立福岡中央病院院外処方せん応需集計

[支部だより] 博多区薬剤師会 博多区薬剤師会 会長 高杉正典

[理事・部会長会]

日 時
12月17日(月) 午後7時
場 所
願和園

 統一地方選挙の推薦について
 県議・井上雅実、新宮まつひこ、市議・南原勇一郎、友杉淳治、北岡幸太郎以上の推薦依頼と共に、福田市議より推薦の依頼があった。市議3名でも多すぎる所、さらに推薦議員を追加することについてどのように対処するのか、次回までに結論を持ち越し、その後忘年会に移る。

[理事・部会長会]

日 時
1月18日(金)午後7時半
場 所
市薬会館

 推薦議員に関して、県議、市議ともに前回同様2名及び3名とすることに決定。福田議員の推薦は、現状からみて無理と思われる。次回の選挙の時点では世代交代があると思われるので、その時は最優先にすることに決まる。
 推薦議員の後援会申し込み書は一議員あたり最低100枚は集めることにする。

[理事会]

日 時
2月5日(火)午後7時
場 所
市薬会館

○会費納入遅延会員との懇談……会費納入が遅れている為、会員に事情を聞き、検討した結果、分割にて早期に納入してもらうことになった

[理事・部会長会]

日 時
2月20日(水)午後7時半
場 所
市薬会館

○後援会入会申込書の収集状況報告
○テレホン作戦の対策……1週間に2回程度の出動を会員にお願いしたい。最低でも100名以上の出動が必要である。
玉屋薬品部と地元部会とのトラブルが発生したが、両者協議の結果、支部会員として規約を遵守することになった旨報告があった。

早良区薬剤会総会

[平成2年度第6回運営委員会]

日 時
平成3年3月5日
場 所
「吉田」
出席者
糸岐 冨永 松尾 江頭 野田 豊原 本村 本川 有馬 清水 南島

議題
1.早良区薬剤師会運営について
 組織強化を計るため、早良区薬剤師会は社保委員会、薬局委員会、組織委員会の設立計画を提案。社保委員長に清水先生、薬局委員長に本村先生、両名の先生に就伍をお願いし、委員の入選については両先生に一任した。組織委員会は現運営委員で構成することを決定した。
 部会分割問題について各部会に支部方針を説明し、部会内でよく検討してもらう様要請をした。

2.早良区薬剤師会総会について
 平成3年5月11日(土)に開催することを決定

3.県薬代議員、市薬代議員選出について

4.早良区備蓄薬品調査について
 早良区薬剤師会社保委員長清水先生より備蓄薬品アンケート調査を実施するとの提案があり、各薬局の要望でもあるので早急に実施することになった。今回は指定薬局と調剤薬局を中心に実施するとのことである。

南支部 支部長 大庭秀臣

[部会長会議]

日 時
平成3年2月6日 午後7時
場 所
高宮アミカス
出席者
大庭(支部長) 岩佐(副支部長) 川端(会計) 石田(高宮) 熊沢(長住) 高嶋(大橋)

議題
イ)県薬会費値上げ案説明
ロ)支部総会の件
  県、市薬の事業計画を聞いた後、支部長が招集する。
ハ)市代議員の改選については、事前に部会で選んでおく。
ニ)研修会
  大きくは市薬にお願いし、支部としては、少なく、内々で出来るものを考えて見たい。
  カンファランス方式のものでも良いのではないか?
ホ)地方選挙候補者推薦について
  県知事は県市薬の推薦者に準ずる
  県議は、高山久生、こものたけし、市議は、国分節夫、金子義定、進藤国彦、と決定
ヘ)薬剤師会の国民年金が出来る。
  会報を読む事
以上

部会連絡協議会

日 時
2月8日(金)午後7時
場 所
市薬会館講堂
出席者
三津家会長、藤原、松枝各副会長、冷川専務理事、細井、深江、合澤、篠崎各常務理事、高杉、藤田、小野、鶴原、成澤、城戸、市花、類越各理事、豊福監事
支部長・部会長

東支部

松井昌也、吉村きく子、入江理裕
博多支部

冨永雄造、山口利英、岸田秀明、平野光佐子、森川公雄、府内幸子、中嶋達雄、坪根百彦、山本幸男、碓井正浩
中央支部

光安龍彦、平島久美夫、大石圓、西森基泰
早良支部

糸岐良次、南島敏彦、松尾英煕、有馬純
城南支部

栗田邦彦、松島照幸、高木美智子、小林智
西支部

吉田斌、佐藤衛二、坂巻ミヤ子
南支部

大庭秀臣、中島英之


1.会長あいさつ
 本年度2回目の部会連絡協議会でございます。本年度も残り少なくなりました。これまでの市薬の事業の報告と次年度の御希望をお聞かせ願いたく存じます。なお4月27日に代議会を予定しております。統一地方選挙が4月7日に予定されております。県会および市会議員につきましては支部の推薦を尊重したいと考えております。

2.本年度の事業報告
 (1)予算報告細井常務理事
 (2)委員会報告各委員長より報告
  ・組織委員会
  ・薬局委員会
  ・社保委員会 小野理事
  ・学術委員会
  ・急患委員会
  ・試験センター
  ・広報部 鶴原理事
 (3)基準薬局について
  県薬の申し入れに対する解答について藤原副会長より説明
 (4)その他
  支部研修担当者は市薬で5名選任する

3.平成3年度の事業計画について
 (1)組織強化 支部、部会を特に強化する
 (2)面分業推進 受け入れ態勢の強化
 (3)研修業務充実 薬局調剤実務研修会の実施

4.質疑
 特に福岡国立中央病院の処方せん応需に関して集中

理事会報告

[第216回理事・監事会]

日 時
平成3年1月22日(火)午後7時
場 所
市薬会館会議室
出席者
三津家会長、藤原、松枝、長谷川各副会長、冷川専務理事、細井、深江、合澤、篠崎各常務理事、木原、高杉、藤田、小野、鶴原、成澤、城戸、市花、類越各理事、豊福監事

議 事
1.会長あいさつ
 平成3年になっての第1回目の理事会でございます。いろんな事業も大体終わりましたが、残り事業よろしくお願いします。国立病院の院外処方せん発行も進んでまいりました。いろんな問題が出て参っておりますが、来年度にかけて一つづつ解決していきたいと考えております。基準薬局の問題につきましては、支部の意見や各理事の意見を聞いて、市薬の方針を決めました。それから2月8日に部会連絡協議会を開きます。4月7日には統一地方選挙が行われます。各支部の推薦を専重して応援したいと思います。中央支部の久保田市議、早麻県議につきましては、市薬全体として応援いたす方針であります。

2.会務報告 冷川専務理事より報告
 (1)12月20日三役会15:00
  理事会18:30滝の茶屋
 (2)12月25日第2回基準薬局説明会19:00
 (3)12月28日仕事納め
  [平成3年]
 (4)1月4日薬業団体連合会新春名刺交換会
  12:00日航ホテル
 (5)1月4日太田誠一春の集い13:00国際センター
 (6)1月14日基準薬局認定委員会19:00
 (7)1月17日三役会18:00

3.委員会報告各委員長より報告
 (1)基準薬局認定委員会藤原副会長
 (2)組織委員会
 (3)薬局委員会
 (4)急患委員会
 (5)学術委員会
 (6)試験センター
 (7)広報部
 (8)社保委員会小野理事

4.関連団体報告各担当理事より報告
 学薬、勤務部会、女子薬、商組

5.協議事項
 (1)会計中間報告 細井常務理事
 (2)新年度の計画について
 (3)新年度予算について 保険薬局入会金値上
 (4)地方選挙の対応について 組織活動費を支部に配分
 (5)その他

[第217回理事・監事会]

日 時
平成3年2月22日(金)午後7時
場 所
市薬会館会議室
出席者
三津家会長、藤原、松枝、長谷川各副会長、冷川専務理事、綱井、正岡、深江、合澤各常務理事、木原、高杉、藤田、小野、鶴原、成澤、城戸、市花、獺越理事、豊福監事

議 事
1.会長あいさつ
本日はお寒い中を集まって頂きありがとうございます。4月27日に代議員会を行います。各委員会は来年度の事業の確認をお願いします。

2.会務報告 冷川耳務理事より報告
 (1)1月22日 理事会19:00
 (2)1月27日 懇親ボーリング大会10:00
  城山ボーリング
 (3)2月8日 部会連絡協議会

3.委員会報告 各委員長より報告
 (1)組織委員会
 (2)薬局委員会
 (3)社保委員会
 (4)急患委員会
 (5)学術委員会
 (6)試験センター
 (7)広報部

4.関連団体報告 各担当理事報告
 学薬、勤務部会、女子薬、商組

5.平成2年度予算消化状況 細井常務理事より1月末までの状況説明

6.県薬会長表彰について
 4名推薦

7.協議事項
 (1)国立中央病院受け入れの今後について
  ・備蓄については各支部で対応してはどうか。
  ・特に火曜日に処方せん発行が集中している。
 (2)平成3年度事業および予算について
  ・会史編集についてはスタッフを決める。
  ・定款検討委を設ける。
 (3)統一地方選挙について
  ・県知事選には諏富候補を推薦する。
  ・支部の状況は3月8日の支部長会で確認する。
 (4)その他
  ・お年寄りの薬相談事業について各支部で実施する。

委員会報告

【急患委員会】

日 時
2月7日(木)午後6時
場 所
市薬会館
出席者
成澤・市花各理事、深見、小松、馬場、竹尾・北島各委員

1.3、4、5月出動表作成について
2.新会館移転に伴う設備等の要望について
3.新年度の図書購入について

【薬局委員会】

日 時
2月14日(木)午後7時
場 所
市薬会館
出席者
冷川専務理華、深江常務理事、小野理事、藤野、後藤、本村、中野、吉田、平野各委員

平成3年度事業計画について
1.健康展
2.薬草観察会
3.漢方研究会

【薬局調剤研修会議】

日 時
2月15日(金)午後7時
場 所
市薬会館
出席者
長谷川副会長、篠崎、深江常務理事、成澤、市花、藤田各理事、久池井、中島、江口各委員

1.研修用テキスト作成について
2.今後のテキスト作成スケジュールについて

【組織委員会】

日 時
1月17日 (木)午後7時
場 所
市薬会館
出席者
合澤常務理事、高杉、鶴原各理事、吉村、森川、森田、笹野、糸岐、占部、深見各委員

1.来年度事業計画について
 a)支部組織の強化
 b)会員親睦事業
 c)定款についての研究
2.ボーリング大会の運営について

【広報部会】

日 時
1月7日(日)午後7時
場 所
市薬会館

1.一月号の編集について

【広報】 新春親睦ボーリング大会

日 時
平成3年1月27日(日)
場 所
城山スポーツガーデン
参加者
79名(中学生以上)

毎年恒例となっている新春親睦ボーリング大会が、今年もにぎやかに開催された。

森川先生(森川誠心堂薬局)の司会で、三津家会長のあいさつ、そして始球式とつづきゲームが始まった。

3ゲームのトータルで個人戦及び団体戦(各支部平均点)がくりひろげられた。 今回は得点集計にラッブトップ型コンピューターを用い、前回までゲームの終了後30分程かかったのが、瞬時にして終わり、ゲーム終了後のパーティーの席上ですぐに成績発表をすることができた。

[報告・鶴原]

ゲーム成績
団体戦
優勝・勤務、準優勝・城南支部3位・東支部、4位・西支部、5位・博多支部、6位・南支部、7位・中央支部、8位・早良支部

優勝した勤務部会 篠崎キャプテン


個人戦
優勝・四宮(勤務)、準優勝・長富(博多支部)、3位・松井(東支部)・平川(勤務)、5位・長谷川(勤務)

準優勝した城南支部 栗田支部長

広報通信 新聞記事の波紋

1月28日、市医師会広報担当の山本理事から1月25日付・読売新聞夕刊の記事についてのFAXが送られてきた。

日本専門薬局同志会・副会長柏木晃氏作成の、『病気を治す秘伝』というタイトルのチラシが、手に入るようであればぜひ拝見したい。もちろん市医師会からのクレームは、このコラムを書いた読売新聞の記者に対してのものであり、チラシの発行元にまでは持っていくつもりはない。およそこのような内容であった。

山本理事から「日本専門薬局同志会九州連合会ってなんですか?」と聞かれたが、「たしか九山学会の時に、先輩がくれた名刺の肩書きに書いてあったような気がする」というくらいの知識しかなく、城南支部のS先輩に電話をして知恵を借りた。キョーレオピンという薬品を扱っている組織だということ。「それだったら、早良支部のA先生が入っていたんじゃないかしら」と、さっそく連絡をとった。

A先生から「会長は久留米の明治薬局さんであり、柏木さんは薬剤師会員ではないので、自分の方から連絡を取りましょう」との申し出を受けたのは正午ごろ。柏木さんからは午後3時頃に電話があった。「医師会の先生から、柏木さんが出しているチラシを拝見したいと言われているので、差しつかえなかったら一枚送ってくださいませんか」とお願いをして郵送してもらうことになった。

最近の郵政省なかなかスピーディ。おかげで翌日の午前中には、医師会山本理事へFAXで届けることができた。

後日、読売新聞・藤野記者の出版記念会で医師会の先生方とご一緒した。その会場で「この人が、例のチラシについてヤリトリをした薬剤師会の広報担当理事さんです」と松田医師会長に紹介された。

「大変ご迷惑をおかけしました。薬種商さんというのは、県知車免許であり、調剤行為はできないのです」と松田会長にお話をすると「医師会も医療まがいの行為などがあって大変ですが、おたくの組織も色々と大変ですね」と、逆にねぎらって下さった。

しかし山本理事は、「市医の理事会で薬剤師でない人が、どうして『専門薬局』という名称を付けた組織の副会長なのかと議論された」と言われた。

ひと口に薬品を取り扱うといっても、基準薬局・保険薬局・一般販売業・薬種商とサマザマであり、一般の人にはその見分けは難しいと思われる。

国立病院だ!面分業だ!と叫んでいる現在、『薬局』という名称の持つ意味は、重大であり、明確にすべきであろう。今回の件は薬剤師会にとって、また会員にとっても認識を新たにしなければならないことだ。少なくとも外部から指摘されるようなことがあってはならない。

(文責・木原)

おめでとうございます
福岡県薬剤師会 会長表彰

松枝茂雄 先生(63才)
福岡市薬剤師会副会長

栗田邦彦 先生(61才)
城南支部支部長
元福岡市薬剤師会副会長

式町正信 先生(51才)
元福岡市薬剤師会常務理事


(読売新聞1/25夕刊)

会員の移動 (平成3年1月〜2月)

開催日 
4月29日(祝)みどりの日
集合時間
午前10時
集合場所
舞鶴公園「西の広場」
コース

@舞鶴公園・平和台球場右回りコース
A舞鶴公園・大濠公園左回り
歩く距離
7km

上記のように「医師と歩こう!チャリティーウォーク」が日本心臓財団の主催で開催されます。

このイベントは、薬剤師会も共催団体になっています。 実行委員会より薬剤師会に参加要請がきていますので、できるだけたくさんの参加をお願いします。

会務日誌 (平成3年1月、2月)

  1月 4日 薬業団体連合会新春名刺交換会
      12:00日航ホテル(三津家、藤原、冷川)
    5日 社保委員会13:00(正岡)
    6日 保険薬局セミナー14:00県薬
    7日 緑進会議新春の集い13:00国際センター(三津家、城戸) 
      広報部会19:00(冷川)
    8日 太田誠一新春の集い14:00国際センター(三津家他)
   14日 基準薬局認定委員会19:00(藤原、冷川)
   16日 商組福岡ブロック研修13:30(合澤)
   17日 しげとみ後援会事務所開き14:00(三津家)
      三役会18:00 組織委員会19:00(合澤)
   18日 早麻清蔵励ます会11:00国際ホール(三津家)
      国保協議会12:00タカクラホテル(三津家)
   21日 国体実行委員会総会17:00ホテル日航福岡(三津家)
      久保田秀己励ます会13:00国際ホール(三津家、藤原他)
   22日 理事会
 25〜26日 西日本地区給水検査協議会
      香川県薬学会館(城戸)
   27日 懇親ボーリング大会10:00城山スポーツガーデン
  2月 1日 ドクターNow出版記念会18:00ソラリアホテル(三津家他)
    7日 福岡ブロック商組研修会13:30(合澤)
    8日 部会連絡協議会19:00
   14日 薬局委員会19:00(深江)
   15日 薬局調剤研修委員会19:00(長谷川)
      市周辺部国立中央病院応需説明会14:00県薬(冷川、正岡)
   18日 社保委員会19:00福新楼(冷川、正岡)
   20日 勤務部会例会18:00
   22日 理事会19:00
   23日 白民党政経文化パーティ10:30ホテルニューオータニ(三津家他)
   26日 学術研修会19:00

[思いっきり後記]

○今年始めて20℃を越えました。いよいよキワメツケの春の登場です。

○「県薬と市薬は風通しが悪いと言われているようだから、市薬会報に書かせてくださいませんか」と県薬会長から電話があったのは一ヵ月ほど前。原稿締切日に遅れること二日、FAXで送られてきた。
 県薬会長がお書きになったものを読みながら、「ウチの市薬会報って何と楽しいのだろう」と思ったのだから、不謹慎このうえない。
 いくら上部団体の長とはいえ、県下最大の支部を自負する、(社)福岡市薬剤師会の副会長が書かれた『巻頭言』について、名指しでクレームをつけてこられるのですからね。
 ところで、荒巻先生と藤原先生は熊大の先輩・後輩の間柄。親のいうことを聞かない息子に手をやく父親のお小言なのでは……?
 とはいっても、編集会議の時にこれを読んで、「まずいんじゃないですか」と気を使った冷川専務理事が、荒巻会長の了解を取って書き直しましたので、残念ながらこの『まえがき』部分は載っていません。
 しかし、このような思いで書かれていることが分かって、今号の『展望』をお読みくださると、なお一層真意が読み取れるのでは……と思い、敢えて編集後記としました。

○3月号の編集委員会の日、体調を壊してダウン。今月号の原稿依頼は大幅に遅れた。泣きだしたいような気持での慌ただしく厚かましいお願いに、心よく応じてくださった先生方に感謝申し上げます。

○ドナーが現われて、脳死問題で慌ただしかった日の夜遅い時間、読売新聞社会部でまだ仕事中だという藤野記者から電話。
 「薬のことを勉強したいので、九大の公開講座に一緒に出てくださいませんか」と誘われた。実は、そのご案内を今号のお知らせに入れるつもりでしたが、もうすでに募集予定を上回っているそうで、残念ながらボツ。
 それにしても記者さんには脱帽。私も敗けていられないわ!

○先日、「市薬開放」だの「編集好奇」だのとワザとワープロの変換ミスのせいにして、市薬会報編集後記・被害者同盟代表者からクレーム。
 「よその組織を巻き込んでの編集後記なんて見たことありませんよ。会長さん、厳しいチェックをお願いしますね。」と。これは急患センター出動者懇親会においでくださった、市医師会担当理事の発言です。ここで先生のお名前を出した日には、またまたクレームが来るのは目に見えています。

○たしか今、「こんな編集者は辞めさせろー」という被害者同盟のシュプレヒコールが聞こえませんでした? まあ、そうおっしゃらずに、今しばらくご辛抱ください。ご期待にそうべく、ただいま毒筆でない編集者を求めて努力中ですから。

○常日頃、自分ではかなり心優しく、可愛い、おとなしい性格だと思っているが、編集後記については皆さんから、毒舌だー! と大ヒンシュクを買っているようだ。
 西日本の竹井部長に言わせると、毒舌ではなく毒筆だそうな。ただし編集後記に限ってはである。その他は全てお上品ですとお世辞を言ってくださったが、西日本新聞の健康欄に「フン、ほっといてちょうだい!」とか「海部首相のバカ!」などと書くようでは、この毒筆は、私が本来持ちあわせていたものらしい。またこのクセが、チッとやソッとでは治りそうにないから困ったものだ。

○しかし編集後記ぐらいは、書きたいように書かせてもらわないことには、会報編集のような大変な仕事はやってられないな。こんなことを書くと、また、「注意されればすぐ開き直る」と言われてしまいそう。
 しかし、一部ではストレス解消の健康法なのでは、との陰口も……。

(木原)



平成3年3月31日発行(隔月年6回発行)
福岡市中央区今泉1丁目1番1号
社団法人 福岡市薬剤師会
T E L 092-714-4416
発行人  三津家 正 友
編集入  木 原 三千代