会報第39号 平成3年1月31日
 ■ 巻 頭 言

 ◆ファジィな国民とインフォームド・コンセント

(社)福岡市薬剤師会 会長 三津家 正友

 従来日本という国は、外国からファジィな国家と見られていたが、その曖昧さは今度の湾岸危機ではからずも露呈した。この点に関し日本の政治の曖昧さ、分りにくさは政治家だけに責任があるわけではない。そのような政治家を選んでいる国民にこそ責任がある。

 自衛隊の海外派遣是非を議論する前に、自衛隊は立派な軍隊であり、その存在については、憲法第九条を素直に読んでみると、憲法違反としか理解できない。おそらく、このことは国民の右、左に関係なく、総てが同様に考えているのではないだろうか。

 又、日本国憲法には元首の規程がない。国民の誰れも総理大臣を元首とは考えていないであろう。内心でというべきか、暗黙の了解でというべきか、多くの国民は天皇こそ元首にふさわしいと思っているはずであり、現に国と国との儀礼の際は、天皇が元首の役目を果たしている。

 憲法は国の存立の基本である。本来曖味なものであってはならない。それを戦後45年間もうやむやの状態で放置して来た国民は、正にファジィな国民といわざるを得ない。

 今や国際的な政治環境の転換期にあって、政治家も国民もその姿勢を変えなければならない。今までのような待ちの姿勢、ファジィな姿勢では何の前進も有り得ないのである。

 さて、我々薬剤師をとりまく医療環境も大きな転換期を迎えようとしている。木原理事の報告にもあるように、医師側からもイソフォームド・コソセントの重要性が強調される時代となった。「医は仁術」という名の下に長年、患者にとっては「医者まかせの医療」であったものが、患者の「納得と選択」の医療へ、医は「仁術」から「科学」への転換が求められている。

 一般に物を買う場合、その物の内容を知らず、確めもしないで買う消費者はいない。医師から薬を貰うときだけが例外である。これは消費者として異常なことであり、ファジィそのものである。そこで患者に対して消費者としての自覚を促すためには、薬剤師の啓発活動や広報活動がより重要になってくる。

 インフォームド・コソセントを完全に実施するためには、医師と同時に薬剤師も大きな役目を果たさなければならず、これを担保するのが医薬分業である。そして21世紀の新しい医療は、これを原点として改革されたものでなければならない。

 余談ではあるが、インフォームド・コンセントという言葉は余りに長かったらしい。せめて「イン・セント」とか「イン・コン」位の短い言葉であったら、ファジィと同様流行語になり得るかもしれず、また、流行語にする位の覚悟で宣伝活動もできるのだが……。

 そこで、インフォームド・コンセントを実施するとき必須となるのは、弛むことのない勉強である。従って今後の会の事業は、一に研修二に研修ということになってくる。

 私は、研修事業を今後の最重点項目と位置づけ、実施して行く所在であるが、この研修の実を上げることこそ基準薬局の質の向上に集約されると考えている。会員諸兄のご理解をお願いし、新年のご挨拶と致したい。



 <全員の広場> 「未 年 に よ せ て」

井尻支部 おむら薬品 小 村 正 治

 おめでとう。昨年はお疲れさん。世の中好景気の割には今一つだった。うん。年始、年末と2店舗ふえたしね。しかし、まあ今年も元気でがんばっていこう。

 今年は未年、考えてみれば還暦になるね。いや考えなくても60年生きれば誰でもなるんだが、年の始めだから一寸考えてみるか。

 1931年(昭和6年)に生まれて12年はともかく、1943年(昭和18年)からの一・二年は忙しかったなあ。戦争はするわ、負けるわ。食物はないわの青春時代。1955年(昭和30年)24才の薬剤師免許証を手にして1年目か。若さと、やる気満々といった頃だね。親父は死んだけど、お前がデスクの対角線上に居たのが運のツキ、一緒になって、店を持って、息子をミルクの空箱に入れてよく遅くまでがんばったなあ。

 1967年(昭和42年)36才。おふくろは死んだが、弟2人妹3人それぞれ独立させ、家も小さながら建て変えたのはこの時期だ。

 1979年(昭和封年)48才。今日もお勤めですかとかなんとか人に云われながら、永く勤めた市薬の役員も、キツイことより楽しかった思い出を残して辞めさせてもらった。 本当にお前にも苦労かけたね。そして1991年(平成3年)60才、今年だ。ふり返ってみるといろいろあったもんだ。

 親の年より早く死ぬのは親不孝というのが、親父は52だったから8年親孝行とかいうわけだが、おふくろは62だったからまだ2年は頑張らなきゃね。えっ。お前のバアチャソは今年90。兄サンは80。姉サンは70だって。それじゃぁ、あと30年はノストラダムスの予言など知ったことかで頑張らなくっちゃいかんな。あと30年もあるのかと思うか、30年しかないのかと思うかで人間変わるらしいよ。

 赤いチャンチャンコを何故着せるか知ってるかって?それは人間60年もやってくれば、いろいろとアクもつく。こいつを大いなる母の胎内に戻ってアク落としをして、心機一転生まれかわって若がえろということだ。昔の人は平均寿命が短かったので人生の節目としてうまく考えてくれたんだと思うよ。今は寿命もぐんと延びて来たんで熟年だ。えっ、熟し柿みたいに赤いって、一寸飲みすぎたかな。

 節目と云えば、花嫁さんが、白い着物やドレスを着るのも同じ考えだろう。女性は今日から貴方色に染まります。男性はどう染めていくか責任の重大さをよく考えろよということだよ。この頃は、色つきが増えたみたいだけどね。うん。まあ、お前の染め上がり具合はまあまあじゃないかな。生地にもよるしね。いや。ごめんごめん。生地はいいよ。世界一ですよ。来年は一緒になって35年だってサンゴ婚式か、どこか一緒に旅行に行こう。つれて行きますよ。うんまじめに考えているんだからね。まあ、難しいことはともかく。赤ちゃんになったんだから。お母さんの胎内が一番いいにきまっとる。おい。ねるぞ。



 <全員の広場> 「再びシルクロード考」

(社)福岡市薬剤節会 顧問 藤 野 義 彦

 昭和61年に九州薬事新報に、シルクロードの旅として掲載したものの中より加筆して紙面をうずめた。

 地球は球いのに中東とか近東とか極東などといわれても私共、日本人にはピソと来ないのではないかと思いますが如何。それは世界の七つの海を征服したと云はれる英国から世界を見ている語源が今日、定着したのです。イギリスから東方を見た場合、隣は欧州であり、ヨーロッパにつぐ近い東にあるのを近東、その又東のカントリー域を中東と呼び、その東はインドであり中国であり極東と呼んだのです。

 イラクは、中東地域の地図を開いてみてもわかる様に、ユーフラテス・チグリスの両河をもつ、肥沃なメソポタミヤ文明発祥の地を中心として栄えて来たペルシャです。その古代文化は世界屈指のものです。

 世界を震撼させている中東の湾岸をめぐる報道が一日も載らない日はない。イラクによるクエート侵攻・占領がそのキッカケですが、その底流には長い歴史と、民族・宗教・政治経済すべてのものが入りまじっているので、その解決の兆候が遅々としているのです。考えます時、その根底にある一大要素は、イスラム教とキリスト教の問題であり、イスラム内の派の争いが根底にあるのは否定出来ない。

 日本は六億屯の原材料を輸入し、それを九千万屯もの製品として世界へ輸出しているそのサイクル中で生きているのです。その原材料の40%がエネルギーとしての石油であり、その石油の60%以上を中東の湾岸国から輸入しているので、日本はこの危機の中で一喜一憂しているのが現状です。

 前二千数百年もの昔、西のローマと東の漢(前2〜3世紀)西のペルシャと東の唐(西暦4〜9世紀)。秦の始皇帝兵馬俑枕をもつ古都西安。西安はシルクロードの東の基点ならば、西の長大の基点であった要衝の、バクダッド、この二つの世界をつないで細い道が通じていた。この細い道によって、さまざまな文物が、人の心が行き交じった。この道はドイツの地質学者ホーへンによって絹の道と名付けられたという。又考古学者のシュライバーは絹の道を次のように措写している。

 「シュライザートが神秘のおとぎ話を物語ったあの千一夜から何百年も前、東のふしぎな国は、まことに繊細な帯によって、ヨーロッパとつながっていた。お互いに相手のことはほとんど知らず、身ぶりで話し合った。

 さまざまの民族が、軽くてキラキラ光る織物を詰めた梱を、隊商から隊商へとリレーした。ヨーロッパの婦人がとても欲しがったので、夫は同じ重さの金を支払ってそれを買はねばならなかった。それは着心地がよく歩くにも快よかった。そして水の様にサラリとからだを流れ落ちた。とうてい行きつけない遠い国の魅力がそのまわりにただよったのであった。砂漠を通り、山々を越え、死都の廃虚を抜け、世界最高の峠の氷雪を越えてゆく、このはるかな地域を貫くのが、世界で最も長い道、絹の道であった。

 絹は中国文明が生んだ独自なそして長も魅力的遺産といわれる。絹は西へと運ばれて行く、その道は、シルクロードという名がかきたてる、ロマンの優美さからは、全くかけはなれ苛酷なものであった。絹と共に桑の木・養蚕の技術も西へ行った。西よりは西瓜・安石国榴(ザクロ・安石国はペルシャ)・葡萄など胡という字のつく胡瓜・胡薙葡(ニンジン)・胡桃・胡麻・胡(ソラマメ)胡蒜(ニソニク)等と、胡箜(ハープ)などの楽器、絹馬交易といわれるように天馬(アラビア馬)等であった。

 絹の道は物を運んだだけでなく、人間が、心が運ばれたのです。ローマより景教(キリスト)ペルシャより回教(イスラム)そしてインドより仏教が、漢・唐の時代までにすべて伝来している。

 この絹の道は大唐の時代(5〜9世紀)に最も盛んであったのです。日本でもこの頃がいちばん文化文物の花を咲かせている。遣唐使(阿部仲麻呂)、命をかけて留学して始祖となる最澄の天台宗・空海の眞言宗・鑑真来朝と唐招提寺、西安より東の延長線の起点・終点といわれるのが奈良(正倉院)というわけです。
       ……次号につづく‥‥‥



 <全員の広場> 「新 春 雑 記 帳」

福岡県女子薬剤師会 会 長 城 戸 嘉寿子

 昨今、政界では内閣改造をめぐり、誰が大臣の椅子に座るのか、かまびすしい動きをしている様です。

 当選5・6回以上が大臣の椅子に座る最低必要条件のようですが、これに派ばつ力学を乗じて、大臣の椅子の攻防に猛烈な綱の引きあいが演じられているようです。恐らくはこの会報が世に出るころには、にんまりと笑う人と無念のほぞをかむ人と、明暗をはっきり分けていることでしょう。

 さて、私事ですが平成2年10月18日に薬事功労による県知事表彰の栄に浴しました。 これは薬剤師会の役員を何年やったかという事が選考基準の一つになるようです。私は薬剤師会の役員歴はそう永くはないのですが、福岡県女子薬剤師会の役員を20年以上に亘ってやっております。しかし女子薬の役員歴がどんなに長くとも、女子薬自体では被表彰者の推せん団体になり得ません。

 福岡市薬剤師会の方で女子薬の役員歴も評価して頂き平成2年度の知事表彰の被表彰者として推せんして下さいました。私としてはほんとうに思いがけなく、又、身にあまる光栄と感謝の念で一杯です。

 木原女史からすかさず、何か一言というわけで原稿依頼が来ましたので、今日は女子薬の思い出などについてちょっとふれてみたいと思います。

 福岡県女子薬剤師会は昭和29年6月に旧県庁の近くにあった商工会議所で産声をあげ、初代会長として門司の小橋サダ先生を選出しています。

 私が役員として最初にたずさわった仕事が昭和40年に当地で開催された日薬学術大会の運営に関することでした。講演要旨の編集委員として、県薬から柴田伊津郎先生と馬場正守先生が、そして女子薬から杉本好子先生と私が参加しました。当時、奥の堂のすごく奇妙な場所にあった古い県薬会館に何回か通って、編集校正の仕事をした事がなつかしく思い出されます。杉本先生と馬場先生はすでに鬼籍の人となられ、時の流れを感じます。

 学会当日は日立ファミリーホールを会場に、女子薬部会がもたれ、「急増する女子薬剤師の当面する諸問題」のテーマのもとシソポジウムが開催されました。会場を埋めつくした出席者の間で非常に活発な討論が展開されたものです。

 この頃から女子薬剤師はどんどんふえ始め、現在では薬剤師総数の6割を越すようになっています。薬剤師職能も当時に比べれば、格段に充実、発展して来ました。薬剤師職能のすべてが女性に適しているとは思いませんが、かなりの部分で女性の方が適役ではないかと思っています。女性の方が男性に比べて、しなやかで、かつ、したたかだと思うからです。

 薬剤師会が今のように研修事業に力を入れていなかった時期、女子薬は一生懸命に研修に励んで来ました。そして女子薬といえば研修というイメージが出て来ました。

 しかし時代は移り変わり、日本薬剤師研修財団が出来て、全国統一的な研修カリキュラムも組まれるようになって来ると、女子薬の研修事業はだんだんと色あせて来ました。

 医薬分業が進展してくるに伴って、薬剤師の確保がだんだんむづかしくなって来ているという話をよく聞きます。今後女子薬剤師会は在宅薬剤師の掘りおこしに力を注ぎ、再就職を希望する女子薬剤師のために、少しでも環境の整備をして行かなければならないと思っています。



 <会員の広場> 「冬 の 九 重」

名島部会 タカラ薬剤薬局 満 園 忠 治

 他のスポーツに関してはシーズンオフの類いのものも数多くありますが、こと山岳、山歩きに限って申しますとその様なオフは全くなく、私達を年中楽しませてくれるのが山歩きであり、逆に冬山登りの真髄との事で厳冬期を選んで山を楽しむ人もおります。

 春は原野の若草が萠え、木々も淡く芽吹き、夏の高原はさわやかで積乱雲のダイナミックなページェント、秋は燃える様な紅葉、冬は荒涼とした中にも響きわたる静けさの中に山の峰々を冬陽が妖しく照らし、四季を通じてそれぞれの感慨にひたる事が出来ます。この様に同じ高原、山でも季節をかえて登れば、思わぬ場所で自然の変化、神秘を楽しめます。そんな素晴らしい自然は遠出しなくとも私達の近くで充分満喫出来ます。

 今回は九州の山人達の恋人九重について書いてみます。九重の山々はどの季節が良いのかと聞かれてもどの季節にもそれぞれの顔があり、四季にわたって山歩きを堪能させてくれるのが九重であります。本州の中部山岳地帯、東北、北海道の山々は冬の厳冬期は特定の登山家しか入りませんが、九重は冬山の初歩を楽しませてくれます。日本の山で四季手軽に山歩きが出来、登山者に親しまれている山もめずらしい存在であります。老若男女、さほど危険な岩場、鎖場もなく歩路綱の整備により、四季おりおり身軽に楽しむ事が出来ます。

 九州の中央高地の九重火山群の中にある数々の山峰を総して九重山と呼びます。本州の北アルプス等、森林限界を越した急峻な岩峰岩稜は少なく、おおむねなだらかで広大な高原のなかに数々の峰が存在する感じであります。坊ヶツルを中心とした高原からの四方の山々の景観は九重連山独特のロマンをかもし出しております。かつては北原白秋、川端康成、与謝野寛らもこれらの地を訪れ、沢山の歌をよんでおります。何れもロマンティシズムに溢れ、情趣たっぷりに九重を描いております。

 長者原より歩き初め、天ヶ池を越えその広大な坊ヶツルの草原に立つ時、先の著名な歌人ではなくとも凡人の我々でもその詩情感にひたり、何かを悪い感じつつ、一つや二つの歌がよめそうな雰囲気がそこには漂っているのです。そう感じるのは私だけではないでしょう。喘ぎつつ登り、そして歩く人のみが心豊かに自然鑑賞が出来るのです。

 モータリゼーションの現代、車輌は余りにも快適に走り過ぎ、また私達も多忙な余り歩くことの極力少なくなった今こそ、人類の二本足の原点に戻り、歩いて自然の魅力を自分のものとし、歩くことの喜びを悟るべきです。

 年間10数回、四季を問うことなく時間を見つけては九重にも通っています。単独行もあるが、山の仲間、家族で行く事もしばしばである。嫌がっていた山歩きであるが、子供たちも最近積極的に登るようになり、子供なりに山歩きの楽しみ、苦しさを知り、自然との触れあいの中で子供なりに様々な発見をしている。早朝出発すれば日帰りも可能だし、温泉で汗を流す泊まりがけの山歩きはたまらない魅力である。殊に冬の九重は人が少なくあの静寂さはこたえられない魔物である。

 そもそも私がこうも山の魅力にとりつかれたのは冬の九重に出向いてからである。あの厳しい寒さは耐え難いものがありますが、白銀の世界に大船山直下の見事な樹氷、早い雲の切れ間に冬の陽が峰々を妖しく照らす様は、まさに山でしか見れない幻想の世界である。

 今年もその冬の自然の繊りなすドラマとの再会に出向きました。昨年末31日午後より正月2日までは九重の法華院温泉で過ごしました。細々と自営していて多忙の身。正月ぐらいゆっくりしたらとの周囲の声は馬耳東風。忙しい身故に時間をつくっては山に行くのです。「どうしてそんなにしてまで山登りするの?」は「どうしてそんなにしてまで働くの?」と同様に私には愚問である。

 長者原のレストハウス前の駐車場は4〜5cmの積雪。先に登った人のものと思われる車が数台。春・夏・秋の車とバイクそして人のあの騒々しさは今は全くない。森閑とした静けさの中歩き初める。雪道に靴のきしむ音が体に快く伝わる。森の中の白い林床。寒々としているが時たま雲の切れ間から木もれ陽が雪の絵模様をつくり出す。この時期の山道はゴミも雪にかくれ、何ひとつ目ざわりなるものがなく、自然そのものであり大好きです。

 大晦日の早目の夕食。山小屋の食事は高地という場所柄もあり御馳走はないが、気配りの年越ソバも添えてある。食後は誰ともなく暖を囲み見知らぬ人同志、酒をくみ交わしつつ山談義。大阪から単独で来たといううら若き女性、高松よりの学生2人そして地元の人3人。私を含め皆、好き者か変わり者の集りであり、山小屋の夜の楽しい一時を過ごす。

 朝4時30分起床・フトンのぬくもりから抜けきれずまだ寝ている人。出発の準備をしている人、朝の山小屋は無言の中にも騒々しい。外に出ると寝起きの顔に冷たい氷のような風が頬をなでる。室内の温度から察すると−5℃はあるだろう。この辺りでも過去の最低気温は−25℃の記録があると言う。暗闇のかなたにかすかに灯りが見え隠れする。もう既に早立ちしている人であろう。スパッツ、アイゼンを装着し、ヘッドランプで足元を照らしつつ歩き初める。

 坊ヶツルのキャンプ場にテントが数張り。雪上のテント生活も楽しかろうと横目で見ながら大船山登山口へ。日の出は7時20分。ゆっくり歩いて充分間にあいそうだ。先人達が雪を踏み道を作っているので歩くのも楽である。

 星の灯りが徐々に薄れ、明るくなり初めた頃、どこからともなく雲が流れ初める。一瞬のうちに暗闇の世界。段原の稜線までたどり着いた時は最悪。肌を刺す痛さの雪まじりの強風。何時もは展望のひらけるここで一息いれてから大船山目指すのであるが、この強風と寒さでは一服するどころではなく仕方なく歩き初める。

 段原より大船山にかけては少々の木立ちがあり強風は避けられるが、腰の高さほどの深い雪に足をとられつつ歩く。雲は一向に切れそうにはない。何時もの事ながら山の気象の急変には驚かされる。頂上には数人の山人が寒さに耐えて日の出を待っている。「もうちょっと待とうか」「あきらめて下りようか」。そんな会話を聞きつつ待つ事10数分。寒さに耐えられず下山する事に決める。

 年明けにふさわしい日の出の山容をカメラに収める事が出来ずに残念であったが、去り行く年に山に登り心身を浄化させ、そして来る年にまた大きな希望をいだく山歩き。山は自然は私の心の支えである。(平成2年正月)



 <会員の広場> 「一 枚 の 処 方 箋」

七隈部会 ササノ薬局 笹 野 祐 二

 「トゥルル………」平成2年12月〇日10時10分、薬局のファクシミリが鳴る。受話器を取る。「はい、ササノ薬局です」受話器の向うから「こちらは国立福岡中央病院です。今からファックスを送りますので、スタートボタソを押して下さい」との連絡。ファクシミリのスタートボタソを押すと、国立福岡中央病院の見慣れない処方箋(写し)が出てきた。

 早速、処方内容を見る。規格・単位のない医薬品を、国立福岡中央病院用備蓄薬品リストから探し、確認する。幸い、私の薬局で備蓄していない医薬品は1品目だけだった。それから、備蓄してある薬局を確認し、電話でその医薬品を受け取る段取りをした。

 薬局へ風邪の患者さんが薬を受取りに来たので調剤をしていると、国立中央病院の患者さんがやって来た。10時30分、中央区城内から城南区梅林まで20分余りで来れるのかなと不思議に思いながら、気持ちは少し焦っていた。

 この場でお渡しできない理由を説明し、昼頃に患者さんの家へ薬を配達する事を約束して、一旦、帰って頂いた。

 昼休みに薬を揃えて患者さんの家へ行き、服薬指導をして、調剤を無事に終えた。ただ、今回は私の薬局に置いてない医薬品は1品目だけで、患者さんも配達を承諾して頂いたが、そうでない場合、例えば、処方の品目が10品日以上で、自分の薬局に1品目も置いてない場合や、患者さんが後から配達する事を拒否した場合、薬を揃える為にかなりの時間を必要とするし、患者さんにも迷惑をかける。

 以前、国立福岡中央病院における院外処方箋応需の指定薬局申請の話があった時も、私の薬局に置いてある医薬品の数倍、或は数十倍の医薬品を取り扱う国立病院からの処方箋を受け付けるのだから、かなり考えた。

 結局、決断したのは、意欲的に取り組むという姿勢だけであった。

 私の薬局では、国立福岡中央病院からの処方箋は、今のところこの1枚のみでありますが、この1枚の処方箋が、今迄、国立病院の院外処方箋発行へ向けて御苦労されてこられました諸先生方の賜かと思うと感謝すると同時に、今後はより良い受け入れ体制の整備が進められて行くとは思いますが、1枚の処方箋が来る度に走り回り、本来、処方箋はどこの薬局でも適用すべきなのであるのにもかかわらず、実際には、今の医療制度では不可能であるこの現実を、いつまで続けていかなければならないものなのかと複雑な心現にさせられた1枚でもありました。



 <会員の広場> 「新  春  随  想」

住吉部会 はなたれ薬局 冷 川  襄

 イラクのクェート侵攻による湾岸危機が解決されずに暮れた1990年から、1991年を迎えた。20世紀も残り9年、世紀末を感じさせられる新年である。90年は東欧社会主義国の崩壊、東西ドイツの合一という大きな変革の年でもあった。日本もこういった影響を受けずにはすまなさそうだ。

 話しは変わってここ数年、ラグビーは正月の人気スポーツとして定着している。高校選手権、大学選手権、日本選手権をテレビで観戦した。大学選手権の準決勝戦、明治大学対京都産業大学戦は、フォワードの明治と呼ばれる定説を打ち破り、京産大が前半はフォワード戦で押し勝ち、スクラムトライをも挙げるという展開であった。しかし後半明治は、バックスの展開力で逆転し、京産大は大魚を逸した。

 高校選手権は、福岡代表の東福岡高校が2回戦で惜しくも島本高校に破れた。佐賀商業は、前年優勝の天理高校にフォワード戦で押し勝っていたが、惜しいところで勝てなかった。ホントにオシカッタ。高校選手権の決勝戦は熊谷工業高校と天理高校とで争われ、熊谷工業が制した。

 大学選手権の決勝は明治大学と早稲田大学が対決した。対抗戦グループの最終戦、残り時間五分足らずで早大が同点に追いつき引き分けた、因縁がらみの興味ある対決だった。接戦とはなったが結局明治が優勝した。

 高校、大学と両方の決勝戦をテレビで見ていて感じられたのは、敗れた方のチームはどちらも、スクラムやラックから出たボールを、バックスに回さず強引にライン突破を目指すプレーが目立った。特に天理高校はノーサイド直前、15人のつなぐラグビーが展開され、ゴールラインまであとほんの一歩という所まで攻め込んだ。この攻撃パターンが前半から用いられていたら、勝負はどう転んだか分からなかっただろう。

 日本選手権では、実業団選手権で苦労して優勝した神戸製鋼と明治大学があたった。この試合は神戸製鋼が実力の違いを存分に発揮して優勝を決めた。ラグビーの精神はone for all,allfor oneである。

 個々人が優れた技術を持ち、自分の持ち場を崩さず、お互いに信じてプレーする。これはラグビーだけに限ったことではなく、団体活動では基本だと思う。ラグビーはスタープレーヤー不要の競技だと言われてきた。

 新日鉄釜石の松尾選手の活躍で、ラグビー界にもスター選手が現れたが、当時のメンバーを分析すれば、強力なフォワードを持ち、目立たぬながらも、松尾選手に生きたボールを渡すスクラムハーフ、何処からでもゴールキックを決めた金野選手と、非常にバランスのとれたチームであった。そういうチームであればこそ、松尾選手も目立つ活躍が出来たのである。

 さて我々の薬剤師会の会活動もこのOne for all,All for oneの精神で進んで行きたい。



 <フレッシュさん紹介> 「思えば遠くに」

千代吉塚部会 若草調剤薬局 磯 田 秀 幸

 開局して2ヶ月が経とうとしている。

 リアシートでのんびりと、過ぎ行く景色を眺めていた人間が、いまフロントシートでハンドルを握る。

 急激、且つ大いなる変化。緊張と不安、そして張りのある毎日。

 そんなある日、市薬よりの原稿依頼・締め切りの日が迫り、薬局の壁に掛かる、ことしも残り少ないカレンダーを見つめる。

 あと1週間あまりで新しい年。41歳も目の前。早いものである。

 思えば遠くに来たものだ−武田鉄矢のあの歌が頭をよぎる。哀愁を帯びたあのメロディーが聞こえたような気がした。

 北九大4年。夢があった。新聞記者になること。生涯一記者で果てること。前者の希望は適い、後者は夢に終わった。

 ある先輩は、国会の取材の合い間を縫って大阪まで駆けつけ(当時、僕は大阪支社勤務だった)「本気か?」と問い「もう一度、一緒にやろう」と肩をたたいてくれた。

 上司の一人は本社から電話をよこし「希望の部署があれば相談にのるぞ」とまで言ってくれた。

 その2年前、病に倒れ、半年間の療養生活を送っていた。会社に復帰したものの、以前ほど無理が利かぬ体になったことは自分自身、痛いほど知っていた。新聞記者への未練はない、とその時は思っていた。

 気がつけば、あれから10年の歳月が流れていた。

 安保闘争を、いや東京オリンピックさへ知らない世代の若者達と机を並べ、薬学を学んだ。勤務薬剤師として、病院、調剤薬局と医療の現場を垣間見てきた。

 悲しいかな、その間ずっと、新聞記者への未練を引きずって歩いていたような気がする。悔恨の情が心のどこかに引っ掛かっていたような気がする。現在の仕事に、本気で打ち込めぬ、そんな自分が嫌だった。

 今秋。降って湧いたような開局話。9月末よりの開局準備。県の関係窓口を訪ね、銀行との融資交渉。慌ただしく時は過ぎ、そして開局−。

 新しい夢ができた時、10年間引きずってきた思いに、やっとピリオドが打てたような気がした。

 思えば遠くに来たものだ―しみじみと今、そう思う。

 そして10年後、どんな思いでこの歌を口ずさむのか、不安であり、また楽しみでもある。
(S61年 第一薬科大卒)

「変わった経歴の持ち主だと小耳にはさんだもので、フレッシュさんに登場願った。 少々年をくったフレッシュさんだと思ったら、新聞記者からの転身だったとは‥…・。

 あわれな素人エディターに愛の手を!」




 <フレッシュさん紹介> 「調剤薬局に勤務して」

博多東部会 和光調剤薬局 神 崎 圭 子

 大学を卒業し、国家試験を無事に終え、未熟ながらもスタートした私の薬剤師としての生活も8ヵ月を過ぎようとしています。

 就職するにあたって考えたことは、多くの人々に関わっていける職場はないだろうかということでした。

 そして、現在、お世話になっている和光調剤薬局を紹介していただきました。

 今、勤務している薬局は、博多駅の近くにあり、主に皮膚科の処方箋を受けています。また、ドリソク剤やOTC薬も置いているため、色々な方々が、薬局にお見えになります。

 仕事を抜けてこられた会社員やOLの方々は、早く帰りたいのか、そわそわした様子なので、できるだけ早くお薬を渡してあげられるように努めています。

 一方、以前から近くに住んでいるお年寄りなどは、世間話をしていくことを楽しみにされている様なので、なるべくゆっくり渡すように心がけています。しかし、世間知らずの私には、なかなかうまく対応することができず、困ってしまうこともあり、せめて笑顔は忘れずに患者さんへ接していけたらと思っています。

 薬局内の管理薬剤師としての仕事の面では、薬剤以外に、薬歴薄の管理、薬の在庫管理、問屋さんへの注文など、思っていたよりも、ずっと大変なのには驚きました。そして、薬局内において、全てが自分の責任のもとで行わなければならないため、卒業したばかりなのにというあまえもあってか、なかなかうまくやっていくことができず、四苦八苦しています。

 こんな未熟な私ではありますが、多くの先輩薬剤師の先生方の教えをいただけたらと思い、この秋から急患センターの勤務にも参加させていただくようになりました。会員の先生方には、御迷惑をおかけすることばかりだとは思いますが、一生懸命にがんばっていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。
(H2年 第一薬科大卒)



 <部会紹介> 「部会長を受けて」

早良支部 原部会長 有馬 純

 私が部会長を受けたのは前部会長の努力により原部会が素晴らしい団結力を誇り、全ての問題を解決してしまったかに見えたからでした。後の部会長は楽なものと甘い考えで二度目の部会長に就任した直後でした。いわゆる品位の無いチラシ、ダイレクトメールは撒かないという、部会の申し合わせを破る事件が勃発致しました。一時はモグラ叩きの状態になりました。この問題は原部会が長年取り組んできて、大半の心ある部会員は内心苦々しく思ってきた事でした。

 しかし薬剤師が自分の職業に誇りをもち又持てるように少しでも努力する事が私達の責任でもあります。原部会としては薬剤師会の指導に従わないのなら退会して自分勝手に独自路線でやる事を推めました。薬剤師会に留まるなら、次回から注意無しで部会を退会させる事を条件に落着しました。

 このような問題を起す薬局は部会にあまり出席しないか、非協力的なため、部会でどのような話合いがあったか知らない人が多いようです。県の医薬品広告基準に違反しないチラシといえども、私はお客に対する詐欺行為だと思っています。誰でも割引商品の横に定価又は価格のない医薬品を掲載すれば、それも割引いているものと思うのが常識です。これは故意に錯覚を狙っているとしか思えません。

 規則というものがどのような趣意で定められたのか考えず、その抜け穴ばかり捜すことに汲々とするのはやめてほしい。日本人は自分で立派な法律をつくり骨を抜いて役立たずにするのが得意な民族のようです。憲法問題もしかり、医薬分業も小骨1本で役立たず、基準薬局の基準も最初の趣旨を忘れ寄ってたかって小骨どころか骨を全部抜いてしまって何の意味も無いものにしてしまった。我々末端の会員はただ右往左往し、最後はただ茫然と見守るばかりでした。結果、調剤専門薬局の事を「基準薬局」という事になってしまいました。

 こんな事のため支部、部会はどれだけの金と時間を使ったか、各連絡会議を開いて報告、翌日は解釈が変わるという事を何回繰返したか、真面目にこの問題に取り組んだ人達は呆れて言葉が無かったはずです。

 原部会ではこれから規則はそれが何を目的として定められたものかを考え素直に解釈していきたいと思います。いくら頭の良い人達が掟破りを教えてくれても従わないつもりです。薬局か雑局か判らない状態は何とかしないと医薬分業問題を医師会側と話合っても、乗り気でない医師は必ずこの点を指摘してきます。薬剤師側も苦々しく思っている事だから全く反論できない筈です。自分の姿勢を正さなくて要求だけしても笑われるに決まっている。

 OTC薬局は医薬品で利益を得て雑貨を安売りして他業種の人からの反発を買い、OTCと調剤薬局を複数店経営している人は、調剤で得た利益をOTC薬局へ注込んで医薬品、雑貨の安売りをやる。このような事をやる薬局はほんの一部の人達ですが、やる事が派手ですからお客への印象が強く、薬局全体の品位を低下させている原因の一つでもあります。

 安売りビラをべたべた貼って、騒々しく商売しているようなところへ自分の深刻な健康相談に行く気になるでしょうか、各区の健康フェアに参加してみて下さい。多くの人が相談机の前に座ります。薬局で相談した事があるか聞くと、けげんな顔をする人が大半です。薬局は健康についてアドバイスしてくれるところだとは思ってもいない様子です。

 原部会ではオーナーが薬剤師でない薬局には薬剤師会の行事には管理薬剤師に出席するようにお願いしております。そして色々な会合で皆が顔を合わせ、意志の疎通をはかり、少しずつ信頼関係が出来てくれば誰かが裏切るんじゃないかという心配もなくなるんじゃないかと思っています。色々な人に話を聞いてみると「誰かがやるから自分もやる」「お客に隣りのお店は安かったと言われたくない」等々。安売りチラシ、ダイレクトメールで利益を得ている話はあまり聞きませんでした。

 これから、この問題はOTC薬局だけにとどまりません。マンツーマンの調剤をやっている限り必ず調剤薬局にも波及すると思われます。大手資本が黙っている筈が無いから、面分業を達成しない限り薬の消費量は減らないし、将来国又は世間の批判を浴びる事になるのは必定だろうと思います。

 一つの方法として当初は、病院が集中していてマンツーマン分業しているところが複数分業のような協力体制をとり地域分業へと進むのが良いと思います。本来自分のところの処方箋というものは無い訳で薬局に提出されて、初めてこの薬局の処方箋ということになるのが規則ですから、医師が特定のところの処方箋と思っているものが隣の薬局に流れたといって怒らず薬品を融通してやるくらいの度量がほしい。国立病院関係だけでなく、隣の薬局同志程仲良くし、大きな目的のための輪を広げて面分業を推進していったらどうでしょうか。これから益に一つのビルに各科の医院が入り、近くに調剤薬局が乱立していくことが予想されます。

 輪を広げるための核ができて絶好の機会だとは思いませんか。隣の薬局に処方箋が流れて、内心気分が悪いでしょうが、痩我慢してカッコつけて努力して下さい。私はカッコつける人が大好きです。欲望をまる出しにする人は大嫌い。原部会は仲良しクラブをモットーにします。



 <お知らせ>

 組織委員会の手で作り変えられた新しい市薬会員名簿ができ上がりましたのでお届けします。

 今回の名簿では、各部会毎にB会員さんが勤務先か住所地で組繊化され、管理薬剤師の氏名が開設者と併記されています。

 内容に間違いがあり重したら、組織委員長の合澤先生迄ご連絡下さい。

※ この名簿の校正を組織委員長の合澤先生は、奥様と二人で読み合わせをしてくださったそうで、どんなに大変だったろうと本当に頭が下がる思いです。

 ちなみにウチでは、会報の校正を私が一生懸命やっていても、横で知らん顔でビールを飲んでいるような主人でございまして……。(三)



 <トピックス>

市薬学術委員会

加齢に伴う失明(黄班変性症)の対策

 ガリレオ・ガリレイは目を十分に保護せずに太陽の運行を観察して失明した。ドイツでは日食を観察した約3,500人が視覚障害をきたした。これらの目の損傷は、水晶体の後ろにある網膜が強力な光線に晒されて変性するためだ。同様の網膜変性はかなり多くの高齢者にもみられる。これは生後ずっと通常の光線に晒されたためである。網膜の中心にある黄斑は鮮明でくっきりした画像を結ぶ場所で最も光線の損傷を受け易い。黄斑細胞が変性すると重度の視力障害や失明を起こす。さて一方、目には損傷を防くや二つの機構がある。

 @水晶体は網膜の前にあって紫外線を吸収し網膜を保護する。A黄斑の中にある黄色色素が保護する。黄斑変性症(AMD)の原因はまだ推測の部分が多いが、網膜がある一定の波長の光線を吸収する際にフリーラジカルが産生されるが、このフリーラジカルは不安定で反応性が高く、眼球組織の分子と反応して網膜細胞を損傷、破壊する事がある。眼球にはカロチノイドの他に眼を保護する物質としてピタミンC、ピタミンE、がある。カロチノイド、ピタミンC、ピタミンEは他の組繊に比べて網膜中に多く存在しているが、それだけの量では眼の保護に十分とはいえない。

 オゾン層の破壊、アウトドアの活動、日光浴などで眼に対する危険が高まっている。皆さん、抗酸化作用のある栄養素をいっぱいとり光線の害より眼を守ろう。
        薬事新報 15.1614.1990.

外来の呼吸器感染症に於ける経口セフェム剤の適用と限界
      経口セフェムの世代抗菌力の特性

オールドセフェム ニューセフェム
第一世代薬 第二世代薬 第三世代薬
CEX.CCL.CXD等 CXM−AX.CTM−HE等 CFTM−PLCFlX.CPDX−PR 等
黄色ブドウ球菌 ×〜○
肺 炎 球 菌
インフルエンザ菌 ×〜△
ブ ラ ン ハ メ ラ ×
ク レ ブ シ ェ ラ ×
緑  濃  菌 × × ×
大  腸  菌 △〜○
(呼吸器領域)

 表に示す様に、第一世代薬は上気道の感染症(咽喉頭炎、扁桃炎)が主な適応症であり、インフルエンザ菌にはペニシリン系の方が良い。又第三世代薬は、G(−)菌に対して強く、ブ菌には弱いのでインフルエンザ菌が主役の1つとなる気道・肺の感染が適応となる。

 緑濃菌が関与する場合は、ニューキノロン系に委ねるべきである。第二世代薬、ことにCTMーHE(パンスポリソーT)は、G(+)、G(−)菌に対する抗菌力が比較的バランスよくなっている。従って急性の上気道、下気道の感染症、中等症までの肺炎、慢性気管支炎の急性憎悪が適応症となろう。

 ニューオーラルセフェムは抗菌力の増強・拡大はあるものの、その分だけ成分含量は少なく、用量は低く設定されている。その為、第一世代薬を対照とした比較試験で明確な有意差はない。しかし、ニューオーラルセフェムは選択毒性が高く、安全性に優れている点からも増量して用いるべきであろう。当初、3日間位は十分量を確実に服用させることが予後を好転させるポイソトである。
      PTU.Vol.15.2(2)OCT.1990

非ステロイド性抗炎症外用剤の正しい使い方

 ヒトに単回使用後の体内動態は皮膚組繊薬物濃度が一番高く、深部になるにつれて低く血液中濃度は更に低い。このことは、全身的副作用が他の剤形よりも低率になることが伺われる。

図表

 経口剤、ゲル、貼付剤を比較した組繊内濃度は上図のごとく、皮下脂肪、筋肉、滑膜においてほぼ同等である。従って限局された筋肉・腱の炎症、中小関節疾患でも同様な効果、有用性が得られるとおもわれる。臨床試験では各剤とも経口剤とほぼ同等の有効率を示している。副作用では各剤とも全身作用は認められず、局所においては1.8〜5.6%と低率である。

〔薬剤特性を生かした使い方〕

@比較的病変が表在性で限局された病巣が望ましい。
A肝、腎機能の低下がみられる患者や高齢者の治療には全身作用がないので、安心して使える。
B貼付剤は湿布剤ではなく薬の入っている貼り薬であることを十分伝え、貼る場所、使用量についてチェックする。
C小児においては使用が容易で苦痛の伴わないので外傷後の腫脹・疼痛、筋肉痛に抵抗感がなく使用できる。
D妊婦、授乳婦でどうしても非ステロイド抗炎症剤が必要な筋肉痛、外傷後の腫脹・疼痛、上腕骨上顆炎、腱・腱斡炎、腱周囲炎などの場合は全身的副作用を考慮すると抵抗なく使用できる。
E胃腸管に対する直接刺激による不快感もなく、食事にも無関係で使用できる。
F局所副作用発現の場合、ただちに中止にすれば重篤な症状にならず消失する。
G使用部位の運動量に応じ使い分ける(大きく動く部位、露出部位、複雑な形態部位には軟膏剤。保持的効果を期待する場合や衣服に隠れる部位、自分の手が届かない部位には貼付剤等)。
H非ステロイド抗炎症剤を2種類以上必要な時は経皮呼吸剤の併用が安全である。しかし括抗作用があるものもあるので使用薬剤の種類は考慮が必要。
I呼吸に際し、皮膚の状態、使用部位、外的因子に左右され呼吸量が一定しない、呼吸量が少ない等問題がある。経皮呼吸局所型非ステロイド抗炎症外用剤は湿布薬ではなく非ステロイド抗炎症剤のー剤形であるとの認識を新たにし、使用する場合は最適な剤形を考慮する必要がある。



 <文 芸> 

〔短 歌〕

                 秋  桜

稲刈りし 後の田んぼの 広々と
       刈穂の上を ポクポクと踏み行く

もみじ葉の 敷きつめられし 土手の上
       小春日和に 咲きしこすみれ

水澄みし 小川の岸辺 はこべさく
       脊振の野辺は まだ冬の中

            「梶原峠にて」

〔短 歌〕

                 六  平

霧かかる 久住の峰は 姿なく
       風にあおられ たどる山道

長曽我部 四国統一 目指せども
       関ケ原にて 露と消え去り

高知城 維新の夜明 夢かけて
       坂本龍馬 命果つとも

遠来の 島津大軍 迎え撃つ
       立花山に 篭る宗茂

富士仰ぐ 駿河を離れ 江戸へ発つ
       耐えて家康 天下を握る

年暮れて 賀状欠礼 届きしに
       在りし日偲び 冥福祈る

〔俳 句〕

                 花  筏

晴れし空 その花優し 薬師草

渋滞の 九酔峡に 紅葉照る

七五三 帰る親子の 影長く

会議終え 帰る夜道に 時雨くる

花梨の実 貫いてその香を 喜ばん

朝寒も 日曜市に 活気満つ

小春日に 登る山道 心晴れ

バスを待つ 肩に散りくる 銀杏の葉

一年の 苦楽流さん 忘年会

〔川 柳〕

                 冗  平

連休は 車進まぬ 行楽地

九州は やはり優勝 千代ノ富士

室戸沖 今年台風 当り年

晴れの宴 詰まる言葉に もらい泣き

宴席も 広報魂 本を売り

暖冬に 売れゆき伸びぬ 風邪薬

面分業 成功の鍵 組織力



 <広   報> 「国立福岡中央病院との協議会」

社会保険委員会 理 事 小野 信昭

12月12日 出席者 冷川・正岡・小野・藤田

   院外処方箋発行枚数  発行年
10月    255枚     2.9%
11月    432枚     5.5%

平成3年度には
  診療部長クラス及び看護科をもいれた開局薬局の見学を実施。
  医師による開局薬剤師の講習会の実施。
  薬剤科による開局薬剤師研修を継続して実施。
(但し薬剤科による院内研修は4月以降から再開)
国立福岡中央病院医薬品集の配布。
保険請求上の諸問題は実例をもって対処していく



 <支部だより> 「東 区 健 康 展」

東支部支部長 松 井 昌 也

日 時 平成2年10月12日(金)9:00〜16:00
場 所 東保健所

出勤者 松井、柴田、篠崎
入場者 211名
相談者 10名
内 容 薬草展、パネル展示、薬の相談と健康茶の試飲

 初めての健康展への参加で、準備にとまどい、おまけに薬草の展示を依頼され、今夏の猛暑のため、薬草の種類が少ないと思っておりましたが、清田先生(宗像支部)のおかげで、揃える事ができました。(18種類)

 健康茶は4種類(ウーロン、自然茶、どくだみ、よもぎ)で、よもぎ茶が好評でした。

 相談は漢方薬についてが多かったようです。

 当日は残念なことに雨天のため、入場者数が少なかったと思います。お土産に、ティシュとか、健康茶があれば良かったのではないか‥‥‥と、本年度の反省にしたいと思います。



 <支部だより> 「早良区健康フェスティバル」

早良支部支部長 糸 岐 良 次

日 時 平成2年10月5日 9:00〜16:00
場 所 早良保健所2階会議室

テーマ @薬と薬草の展示及び健康相談
    A漢方薬の処方のしくみ
    B薬草茶の試飲

出動者 本村、豊原、松尾、清水、南島、糸岐、青柳、西岡、冨永、有馬、本村(敏子)

入場者 145名



 <支部だより> 「南  支  部」

南支部長 大 庭 秀 臣

【部会長会議】

日 時11月10日(土)午後7時
場 所 アミカス
出席者 大庭、岩佐、石田、熊澤、林田、川畑、高嶋

1)支部費、部会費の件
 支部費、年間、1軒につき、3,000円を6,000円とする。部会費は部会にて決める。新規入会金10万円とする。
2)基準薬局の現況報告
 月末〆切、来月認定。
3)国立中央病院処方箋応需の件
 調剤拒否の無いよう徹底する。
4)南区医師会アンケートの件
 未だ結論は出ていない。設問ができて、理事会で検討中。
5)南支部規定(案)検討
6)代議員選出の準備依頼

【南区市民健康フェア実行委員会】

日 時11月22日(木) 午後6時
場 所 南保健所

議 題 第6回南区市民健康フェアの結果について
〔唐津留洪子保健所長談〕
 成功でした。皆様の御協力に感謝します。
 来年は、シンポジウムと相談コーナーを充実したい。



 「荒巻善之助先生厚生大臣表彰祝賀会」

日 時 平成2年12月6日 午後6時
場 所 タカクラホテル

 祝賀式次代

        司会 冷川市薬専務理事
開会の挨拶   藤原市薬副会長
発気人代表挨拶 三津家市薬会長
来賓祝辞    元村福岡県保健環境部次長
        久保田市会議員
友人代表祝辞  藤野市薬顧問
        古賀県薬副会長
記念品贈呈   高木日薬会長
        (代理)
花束贈呈    大坪県薬情報センター室長
        城戸市薬試験センター室長
乾杯      神谷薬剤師国保理事長
祝電披露    冷川市薬専務理事
祝い目出度   山手、松枝、峰松各先生
万才三唱    岩橋県薬副会長
開会の辞    木村県薬専務理事

 会場スナップ

◎古賀県薬副会長の友人代表挨拶で「荒巻先生は自動車の運転免許をお持ちではありません。自転車は二輪でひっくり返るのでお乗りではありません。それで仕方なく歩かれるしかないのですが、それを健康法とされています。しかし実際は車や自転草に乗れないので歩いておられます。」と健康法のウラをバラされた。これに対し荒巻県薬会長、「私の名誉のために申し上げますが、私は自転車には乗れます。ただ今の古賀先生のお話は全くの誤解であります」ということでした。

◎もう一人の友人代表藤野顧問、「今回の荒巻先生の受賞は陰で支えられた奥様の御苦労の賜物であります。」謝辞の中で荒巻県薬会長、「私がこれまでこれたのは、ホントウに女房の……」と言葉が詰まってしまわれ、会場一瞬鎮黙、そして励ましの拍手、思わずもらい泣きでした。

◎会場の片隅、通りかかる先生方をつかまえては、読売新聞藤野記者の「ドクターNOW」を売り込む木原理事。料理もほとんど食べず見上げた広報魂。これを手伝うは吉田西支部長。木原理事いわく「私が困った時、吉田先生は必ず助けてくれる方です」ということでした。

◎司会を受持った冷川専務理事。代議員会でのあの勢いはどこえやら。すっかり上ってしまい声が上ずりっぱなし。「今まで、結婚式の司会でちゃ、3回もして上ったこたなかったちゃばってん、今回は上ってしもうてすったりやったやんね」



 <新春インタビュー> 「久保田市議に聞く」

日 時 1月4日 午後3時
場 所  ホテル・ニューオータニ博多

 「今日は、三つの年賀パーティをかけ持ちです」とおっしゃる先生の空き時間を頂いてのインタビューです。

:先生が薬剤師会に入会された経緯について伺いたいのですが。

久保田:私が入会いたしましたのは、昭和36年、まだ市会議員になる前でございました。私は薬剤師ではございませんが、伯父が薬剤師であり、片山化学を創めたのを機に入会しました。その頃の県薬会長は四島先生で、会館は御供所に在ったと記憶しています。

:市議になられてからの薬剤師会との関わりについて、お話しください。

久保田:まず最初は市薬というより、学校薬剤師会・友納会長との関わりでした。無料で奉仕して頂いていた学校薬剤師の先生方に、わずかでしたが報酬を差し上げられるようになりました。

 市薬とは藤野会長のとき、市薬会館建設用地のご相談を受けてからです。市が持っておりました「公益質屋」跡地の払い下げにあたり、フクニチ新聞との折半で話をすすのておりましたが、途中で薬剤師会単独で買い取られることになりまりした。

 その節、先生方はかなりの御負担をなさって大変だったと思いますが、今は、あれほどの資産を手にされたのですから良かったと思っています。

:ところで市議は、市政の中でどんな委員をしていらっしゃるのですか。

久保田:衛生局・民生局・環境局の第二委員会と都市交通の四つです。特に第二委員会は先生方に大変お世話になるところです。

:急患センターや学校薬剤師の出動手当てが、北九州市と福岡市では、かなり差がありますが。

久保田:私は、先生方におっしゃって頂かなければ分からないのです。市にご要望がありましたら、資料を揃えて提出してください。資料がないと何ともいえませんので。

:薬剤師会ができる一般社会への活動として、学校薬剤師があります。未検査施設の飲料水検査、シンナーの教育問題など取り上げたいのですが。

久保田:ああいう事件がありましたので、私立幼稚園飲料水検査については、ぜひ前向きに検討したいと考えています。

 シンナーについては、おたくの会報の何月号でしたか、載っていましたので取っております。年に一回でも、中学に出向いて講演されると良いですね。ぜひどんどん提言してください。

:本日はお忙しい中、拙いインタビューにお付き合い頂きまして本当にありがとうございました。

 先生には「福岡試験センター」の認可についても大変なご尽力を頂きました。また、新会館の建設のおりには、一方ならぬご助力を頂き、前にも増して素晴らしい会館ができ上がりました。これらのことは、先生のお力添え無くしては成し得なかったことです。

 今後も先生にはお願いしなければならないことがたくさんあります。薬剤師会としても今回の市議選には、どうしても当選して頂かなくてはなりません。

 ただ単に、中央支部だけの推薦候補者ではありません。福岡市薬剤師会あげての候補者です。みなさん、頑張りましょう!
        (インタビュアー:木原)



 「会 議 報 告」

【第6回 理事会 支部長会】

日 時 平成2年11月22日(木)午後7時
場 所 市薬会館会議室
出席者 三津家会長、藤原・松枝各副会長、冷川専務理事、細井・合澤・篠崎各常務理事、木原・高杉・藤田・小野・鶴原・青谷・成澤・城戸・市花・獺越各理事、豊福監事、松井(東)・栗田(城南)・糸岐(早良)・吉田(西)・大庭(南)各支部長

議 事

1.会長あいさつ
 支部長会と理事会と合同で行います。支部長の先生方には御世話かけます。11月11日の市長選につきましては、御協力依頼が遅れ、申し訳ございませんでした。御蔭をもちまして、市薬で推薦していました桑原啓一候補が再選されました。11月19日市長が当選のお礼に見えられました。来年4月の地方選におきましては、支部サイドで推薦者を決定して下さい。本日は基準薬局、市内科医会および国立中央病院の現状報告と、今後の対応について協議をお願いいたします。

2.会議報告  冷川専務理事報告
(1)10月27日 桑原選挙事務所開き10:30 (三津家、冷川、細井)
(2)10月28日 親睦ソフトボール大会 タケダ薬品流通センター・グランド
(3)10月30日 内科医会分業協議会19:00 王府 (三津家、冷川)
(4)11月2日 基準薬局認定委員会19:00 (藤原、冷川)
(5)11月6日 商組30周年記念祝賀会  セントラルホテル17:00(三津家)
(6)11月8日 県薬ブロック別研修会 19:00
(7)11月10〜11日 日薬学術大会 高地 (三津家、冷川、城戸)
(8)11月11日 福岡市長選挙
(9)11月16日 国立病院受入薬局講習会19:00

3.委員会報告 各委員長より報告
(1)組繊委員会
(2)薬局委員会
(3)急患委員会
(4)学術委員会
(5)試験センター
(6)広報部 (7)社保委員会 小野理事

4.関連団体報告
 学薬、勤務部会、女子薬、商組、各担当理事より報告

5.支部現況報告
 東、博多、城南、早良、西、南、各支部長より報告

6.協議事項
(1)会計中間報告 細井常務理事
(2)各支部健康フェアの反省と来年の布石
(3)ソフトボール大会の反省と来年にむけて
(4)国立中央病院の対応について
(5)内科医会との対応について
(6)その他、今月の基準薬局申請は26日までとする。来月以降は20日締切りとする。

【第7回理事会】

日 時 平成2年12月20日(木)18:30
場 所 滝の茶畳
出席者 三津家会長、藤原・松枝各副会長、冷川専務理事、細井・正岡・深江・合澤・篠崎各常務理事、木原・高杉・藤田・小野・鶴原・青谷・成澤・城戸・市花・獺越各理事、豊福監事

議 事

1.会長あいさつ
 いよいよ今年も残り少なくなりました。今晩は、この後忘年会を行いますので、楽しく過ごして下さい。

2.協議事項
(1)今年度の積残し事業について
 薬局、組織、社保、学術、急患各委員長より報告。広報、試験センター各担当理事より報告。
(2)次年度予算について
 細井常務理事より概略説明
(3)次年度事業について
 各委員長および担当理事は1月16日迄計画書を提出する。
(4)その他



 「委 員 会 報 告」

【社保委員会】

日 時11月5日(月)正午
場 所 市薬会館
出席者 正岡常務理事、小野・藤田・鶴原各理事、清水委員
1.国立福岡中央病院との協議会における事項について検討
2.国立福岡中央病院処方箋受け入れ薬局以外のサポート策の検討
3.内科医会との分業促進策の検討
4.学術講習会の社保関係資料の準備

日 時12月4日(火) 午後1時
場 所 市薬会館
出席者 正岡常務理事、小野・藤田・鶴原各理事
1.患者向けの国立福岡中央病院処方箋受け入れ薬局リスト入りパソフレット作成

【急患委員会】

日 時11月7日(水)午後6時
場 所 市薬会館
出席者 成澤・市花各理事、小松・深見・馬場・竹尾・北島各委員
1.急患センター出動者増員によるローテーション組換え
2・九州山口薬学大会急患センター連絡協議会報告
3.年末年始出動表作成
4.新規出勤者説明会

日 時12月10日(月)午後6時半
場 所 市薬会館
出席者 成澤・市花各理事、深見・馬場・小松・竹尾・北島各委員
1.新規出勤者説明会について
2.出勤者ローテーション原表改訂について
3.委員会新年会について
4.出動著懇親会について

【学術委員会】

日 時11月19日(月) 午後7時
場 所 市薬会館 出席者 長谷川副会長、篠崎・深江各常務理事、成澤・市花・藤田各理事、久池井・中島各委員
1.次回学術研修会の打合せ
2.1月の行事について
3.3月の行事について
4.「福岡県薬剤師研修ガイドライン」の内容検討
5.レーザーポインターの機種選定

【広報部会】

日 時12月3日(月)午後7時
場 所 市薬会館
出席者 冷川専務理事、木原・鶴原各理事
1.11月号の反省
2.新年号の編集について
3.市薬だよりNo.2の発行について
4.広報委員会の扱いについて
5.対マスコミ対策について



 「研 修 会 報 告」

社保委員会
【国立中央病院外方処方箋受入薬局必須議会】
日 時11月16日(金) 午後7時
場 所 市薬会館 講堂
演 題 病院薬剤業務と院外処方箋
   1.今なぜ分業が必要か
   2.病院内薬局で今何が行われているか
講 師 国立福岡中央病院薬剤科長
     兼 重 佳 和 先生
出席者数 150名

薬局委員会
【漢方学術講演会】
日 時11月21日(水) 午後7時
場 所 市薬会館 講堂
演題と講師
 講演T 漢方薬はなぜ効くか
       −柴苓湯を中心に−
     国立京都病院 主任研究員           田 代 眞 一 先生
 講演U 老人性痴呆と漢方医療
     福岡大学薬学部
       教授 藤 原 道 弘 先生
出席者数 105名
潟cムラ共催

学術委員会
【学術研修会】
日 時11月27日(火) 午後7時
場 所 市薬会館 講堂
演 題 高血圧治療における薬物療法
講 師 九大病院
    内科医局長 上 野 達 雄 先生
出席者数 100名



 「広 報 通 信」

11月・12月 次の記事が新聞に掲載された。

西日本新聞 朝刊

11月1日 飲料水汚染(管理の重要性再認識)
11月8日 クスリの服用(避けたいミルクに混入)
11月15日 医療薬からOTCへ(安全性認められ薬局にも)
11月22日 クスリの服用時間(効果上げるため守って)
11月29日 薬の保管の仕方(子供の手が届かぬ所に)
12月66日 二日酔いのクスリ(空腹時の用が効果的)
12月13日 お酒と薬(許されぬ「これぐらい」)
12月20日 救急薬(暴飲暴食ぎみの正月家庭常備忘れずに)

フク二チ新聞 とっておきのクスリ箱

11月9日 痔主は結構多いみたい
11月16日 妊娠検査薬って何だろう?
11月23日 ごぞんじですか? 入浴の効果
11月30日 急を救う 救急箱です
12月14日 年末年始の胃は大変
12月21日 糖尿病はファジィが嫌い
12月28日 ピタミソB群で受験生ファイト!



 「N紙のT記者との出会い」

 10月に医薬品の臨床試験実施基準(GCP)が決定され、厚生省から各病院に通達されたことについて、12月6日(木)、西日本新聞に「新薬臨床試験におけるインフォームド・コソセント」という記事が掲載されていた。

 読まれた方はお気づきかもしれないが、内容はタイトルとは少し違った展開になっている。かなり薬剤師サイドにたった書き方であり、医薬分業を後押しするものとの思いで読ませてもらった。

 同じく福島医師へのインタビュー記事が、12月18日朝日新聞の朝刊にあった。この二紙を読み比べてみるとよくわかる。文中では、西日本と同じく医薬分業が必要となってはいるが、朝日の中見出しのあつかいは、―患者は消費者の自覚を・大学病院偏重は「幻想」・「医」は仁術から化学へ―となっていて、医薬分業が必要の文字はない。

 さる11月28日(金)フクニチ新聞の「開業医の四季」のなかに―医薬分業でもうけてる?重くなる患者負担をうれう―との記事が掲載されていた。これを読まれた薬務課の今地先生から、光安県薬理事を通して「このままほっておいても良いのですか?」との指摘を受けた。

 フクニチのこの記事は、共同通信から送られているものであり、編集者に相談したが、ハッキリとした返事は得られなかった。

 その後、N紙のT記者に会う棟会があり「じつは、薬務課の今地さんからフクニチの記事について、ほっておいていいのですか?と言われているんですよ」と相談した。その時は「あー、そうですか」といわれただけであった。

 そして6日の「欠かせぬ医薬分業―関係法律、条文改正も必要―」の記事。医師のコメントよりも、薬剤師のコメント部分の方がはるかに多い。とりたててお礼をいったりすると嫌がるT記者だから、私はこの記事についてはひとことも触れないでいる。いえば「私は、決して貴方がおっしゃったから、書いたわけではありませんよ。必要だと思ったから書いたまでです」と否定されるのが日に見えている。

 しかし「薬剤師会のPRは取り上げられませんけど、新聞記者にアピールはしていいんですよ。それが広報さんの大切な仕事です」と教えてくれたのはT記者だ。

 福岡市薬剤師会・広報担当としてT記者と出あって半年。いま広報活動のあり方の重要性を認識させられている。
             (文責・木原)



 <西日本新聞記事>「患者へ説明、同意を」

 インフォームド・コンセント 大阪でのシンポから
  医師ら医療の改革訴え 欠かせぬ医薬分業 関係法律、条文改正も必要

 長年の間、慣習化されてきた”医者におまかせの医療”が、いま大きな転換期を迎えている。十月には「薬の臨床試験の実施基準(GCP)が厚生省から各病院に通達された。患者の同意を得ないまま効果、副作用を探る治験薬の比較試験などに歯止めをかけるのが狙いだ。先日、大阪市で開かれた「インフォームド・コンセント(患音への説明と同意)」についてのシンポジウムで、医療の改革を準えた医師らの意見を紹介しよう。

 「患者の人権を守る開かれた医寮」を実現するためには、医師は必ず患者に病状を説明し、処置の内容について患者の納得を得た上で治療を始める、インフォームド・コンセントの実施が必要だ。愛知県がんセンター内科・福島雅典医長は「インフォームド・コンセント、医薬分業、GCPの実施はわが国の医療の改革の原点だ」と主張した。

■日米の違い

 福島医師はシンポジウムでこんな体験を報告した。
 「乳がんを病む米国人の女性から最近、相談電話がかかってきた。東京の大病院で治療を受け、二種類の抗がん剤とホルモン剤を飲んでいる。先日ニューヨークに一時帰国し、かかりつけの医師に相談したところ、抗がん剤のうち一種類は飲む必要がないと言われた。どう考えるか‥‥」
 東京の医師が薬の詳しい説明をしてくれないので、不安にかつれての相談だった。福島医師は「米国の医師と同意見だ。あなたはいらない薬を飲まされている」とアドバイスした。
 人権意識が強い米国人の女健でも、薬や治療方針についての疑問を直接、主治医にぶつけられない、国際的には異様な雰囲気がわが国の病院には漂っているようだ。
 「医薬分業はインフォームド・コンセントの完全実施には欠かせない。当面分業を促進するために処方せんの開示を義務づけることが必要だ。またインフォームド・コンセントの考え方に沿って医療関係の法律、条文を改正し、GCPを実施することが、医の倫理と科学、患者の自己決定権のために必要だ」と同医師は報告した。

■ドイツでは

 インフォームド・コンセントが普及すれば、患者が医師にうその病名を告げられ、不利益を被っても裁判に勝てない、医師の裁量権偏重は改められ、がんを含む真実の病名の告知は、主治医の十分な配慮のもとで、患者のため前向きに実施される。
 旧西ドイツに十一年在住した薬剤師の越智勝子さんは、わが国では「医者にもらった薬がわかる本」がベストセラーになっているのに鷲かされたという。ドイツでは医薬分業が完全に実施され、患者は医師から処方せんを受け取る際、治療薬の名前、用法、用量、治療方法などを納得のいくまで説明を受けられる。
 薬局は入院患者用の院内薬局と外来患者用の開局薬局の二種に分かれ、外来患者はどのような病院に受診しても全国統一様式の処方せんをもらい、どこの薬局でも処方せんを提示して薬を受け取れる。副作用などが明らかになっている薬は、薬剤師から情報を却らされて服薬指導を受け、医師以上に詳細な説明をされる。

■人権守ろう

 越智さんは「ドイツでは医師、看護婦、薬剤師、家族が一体となって患者の治療に協力する。だから薬のすべてについて家族も知っていることが必要だ。また医薬品のマージンは法律で決まっているので、病院は薬のマージンに頼って余分な薬を飲ませることもない。情報を開示し、一緒に病気の治療に参加することがわが国でもぜひ必要だ」と説いた。
 「医薬品の臨床試験の基を作成委員会」に参加した沢田徹国立循環器病センター脳血管部長は「患者の人権を無視した病院での治療は今後、GCPによって患者に説明し、文書で同意をとらなければならないので難しくなる。これまで患者に説明せず、安易にメーカーから治験を引き受けて、研究費などの獲得の手段としていた医師には痛手となりそうだ」と指摘した。
 同医師の報告によると、偽薬を用いた非人道的な新薬の比較テストは、今後は医師が患者に”いい薬を使ってやるからね…‥”などと偽って危険性を説明せずに実施することはできなくなり、患者の利益と安全が図られる。(西日本新聞12・6)



 <訃  報>「竹 尾 啓 二 先生」

          亨年 62才
昭和24年 熊本薬学専門学校卒
     元福岡県薬剤師会 常務厘事
     元福岡県小売商業組合 副理事長
     前福岡市薬剤師会 副会長

 福岡市薬剤師会の前副会長を務めておられました竹尾啓二先生が12月24日、亡くなられになりました。
 謹んで御冥福をお祈り致します。

弔    辞

 今は亡き前福岡市薬剤節会副会長竹尾啓二君のご霊前に福岡市薬剤師会を代表して、謹んでお別れの辞を申し上げます。

 かねてより病床にあられた竹尾君の訃報に接しましたのは、12月24日の朝でありました。ご家族の懸命なご看病と我々会員あげてのご回復への祈りも空しく、62歳の若さで不帰の客となられました。人の世の定めとはいえ、誠に痛恨の極みであります。今ここにかけがえのない同志を失い、永遠のお別れをしなければならないことを思いますと、会員一同深い悲しみに包まれて言葉もありません。

 思いを馳せれば、竹尾君は幼少の頃宮崎県延岡の地にあり、長じては青雲の志を抱いて熊本の地に遊学し、薬学及び薬剤師としての道を学ばれたのであります。そして昭和24年春、人生の第一歩を福岡の地に踏み出されま した。その後、昭和29年姪浜にタケオ薬局を開局され、地域住民の健康管理とその増進に当たるべく邁進して来られました。

 竹尾君はこの40年の間、ひたすら薬剤師としての職能発揮に努められ、また薬剤師会の発展にも尽力されました。昭和34年、福岡市薬剤師会の理事に就任されて以来、役職を歴任され、昭和63年には福岡市薬剤師会の副会長としてその職責を果たされました。その間には福岡県薬剤師会の理事として、県薬剤師会の発展にも尽されております。

 一方、昭和31年から学校薬剤師として、また学校薬剤師の理事として、児童生徒の保健衛生活動に従事されました。ここに感謝申し上げます。

 このように永きに亘るご活躍は、竹尾君の情誼に厚く誠実な人柄によるものであります。その多大なご功績により、平成元年4月公衆衛生活動による文部大臣賞、また同年10月には薬事功労による厚生大臣賞を受賞されております。竹尾君は正に戦後の混乱期から今日まで、多方面に亘りご活躍され、薬剤師会の発展と機を一つにして歩んでこられました。

 今このように有能な人材を失うことは、薬剤師会にとりましても大きな損失であり、誠に残念でなりません。残された我々会員一同は、竹尾君が示されたご道志に沿うとともに情熱ある行動を範として、一丸となって努力して参る覚悟でございます。

 竹尾君、どうかご家族の方々のお幸せを天国よりお見護り下さい。
 我々会員に対しましてもご加護あらんことをお祈り申し上げまして、お別れの辞といたします。
 竹尾啓二君、安らかにお眠り下さい。

       平成2年12月27日
        (社)福同市薬剤師会  会長 三津家 正 友

弔    辞

 謹んで竹尾先生のご霊前に弔辞を捧げます。
永いご闘病のあとの本日のご葬儀、奥様はじめご家族のお悲しみ如何ばかりかと胸さける思いで言葉も出ない有様です。

 竹尾さん、あなたは見知らぬ姪浜に開業して三十数年、一途に店の発展を祈念し地域との密着に努力されました。また業界においてもその「名」に生き常に周到な準備の下、即実行の人でした。

 先輩後輩として、また竹馬の友のごときお付き合いをさせて頂いたこの間、何度あなたのお助けを受けたことでしょう。そのお礼を云う間もなく本日を迎えることは、何とも申し訳ない思いでいっぱいです。

 走馬灯のごとく浮かぶあなたとの思い出は余りにも多くここに語りつきませんが、ただ一つ、蘇陵会復活に於けるあなたの素早い行動には感謝のほかありません。諸先輩がつぎつぎにご他界になり、蘇陵会総会も疎遠となるを耳にするや、直ちに友人に呼び掛け在福名簿を作成。昭和59年学長先生をお迎えしての盛大な総会、その熱心さには驚きのほかありません。熊本に次ぐ多数の同窓を持つ福岡の復活は、学校としては真に心強く深く感謝されていますことを、あなたに対するお礼とともにご報告申し上げます。

 竹尾さん、あなたが常に心掛けてこつれた「地域の発展なくして自店の発展なし」の地域との密着により育った竹尾薬局は老舗の風格さえ漂っております。長男真一くんも立派に成人され、店頭にて活躍中です。

 また今は、あなたを失ったショックで悲しみの極みにおられる奥様も、あなたと歩いた「無」からの出発を思い出され、必ず早い時期に真一くんを助けられる姿を店頭に見ることができると存じます。

 竹尾さん、苦しかった闘病を忘れ安らかにお眠りください。
  合 掌

    平成2年12月27日
        蘇陵会福岡支部長  冨 永 泰 資

弔    辞

 竹尾さん、残念です。さぞかしあなたは無念だったと思います。私があなたに幽明別離の辞を述べる最も悲しい役目を負うことになりました。誠に無惜という外はありません。

 あなたの人となりは、あなたが尊敬した先輩の方々から紹介をされながら、あなたに対する心からの賛辞が送られました。この様な弔辞を頂いたことは、これまでのあなたが歩いて来た人生、そこにあなたが積んだ徳、その外の何ものでもありません。

 今あなたの前で虚しい繰り言を述べておりますが、その言葉も我が心にあなたを置いて一方通行で話す虚しさが悲しいです。

 あなたとは30有余年のお付き合いです。私が一番あなたとのことを知っているつもりです。あなたと私は、その性格が正反対ですが、これまで薬剤師として、薬業人として仲よく来れたのも、あなたが持前の辛抱強さと謙虚さによって私に合わせてくれたからです。このことに感謝をし、お礼を申します。

 あなたがこの夏再入院して以来5ヶ月の間、ひとときも気の休まることがありませんでした。渾身の看護をなさった奥様や家族のためにも、もう一度元気になって退院されることばかり祈っておりました。それにしてもあなたは忍耐強く、ぐちも言わず、人間としての尊厳を見せつけてくれました。

 あなたはスポーツ好きで、特に青年期水泳では「中学新」を作りましたね。これはあの古橋広之進さんと同等の記録でしたね。そして日大に進学し水泳を続けたかったとき、あなたは父上よりの許可が得られず、熊本薬専に学ばれたことも聞いております。

 スポーツは万能で、野球、ゴルフ、ボーリソグ等、その上とことんまで熱を入れていました。この様に身体を鍛えたあなたが、この様に早く逝くとは思いもしませんでした。

 昨年の秋、薬事功労によって厚生大臣賞を受賞され、古賀隆先生その外の方々の肝入りで祝賀会を致しました。奥様、お孫さんまでつれて来られたあの時の、あなたの顔が忘れられません。

 また、あなたには珍しく奥様同伴でのグループ、少しぜいたくな軽井沢、上高地旅行をしたことなども忘れるごとが出来ません。

 あれやこれや、よき友として過ごした楽しかったこと、惜けなかったこと、悔しかったことなどが走馬灯のように思い出されます。

 天地の悠久に比べたら寸陰の経過かも知れませんが、あなたの60有余年、国の消長、産業・経済の大変革した時代に生きたあなたの薬剤師として常に前向きの姿勢、そして経験に基く見識と人並はずれた責任感には、ただ感じ入るばかりです。私に残された人生の手本と致します。

 重い病床にあって、必ず「私の務めは終わった」として永眠につかれたと思います。

 最後に、終始変わらぬ温いご交誼に対し厚くお礼を申し上げ、あなたの在天の「みたま」が安らかに、平和に、とこしえに鎮まられんことを祈ります。

  平成2年12月27日
     (社)福岡市薬剤師会  顧問 藤 野 義 彦



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表




 <新刊紹介> 「新・佐賀の薬草」

 監修 九大薬学部教授 西岡五夫
 発行 社団法人 佐賀県薬剤師会
 編集 佐賀県保健環境部薬務課
    佐賀県薬業指導所

 この本は佐賀県内で見られる野生、栽培の365種がカラー写真で収載されている。配列は50音順になっていて、植物学的知識の少ない人でも大変見やすい。後部の方は有毒植物がまとめられている。また、検索同定に便利なように、巻末に「葉による簡易系統鑑別法」が載せられている。

 福岡市は脊振山地で佐賀県とは背中合せになっていて、福岡市と共通に見られる種類もかなりあるので、非常に実用的な本である。

 また私達と同じ薬剤師の手でこういう本が出版されたことは、大変嬉しく、刺激にもなる。一般書店には販売されていないので、希望の先生は市薬(専務理事)まで御連絡下さい。

 発刊にあたって

 私たちが日頃見なれた植物の中には、薬用として十分利用できるものが、沢山あります。美しい風物として、気軽に見過している自然界には、多くの薬用植物が自生しています。その中には、薬用価値が十分あるにもかかわらず、ただの雑草、雑木として顧みられすに、ただ何となく朽ち果てさせているのは、本当に惜しいと思います。

 特に最近目立つことは、経済の急速な発展によってもたらされた生活様式の急変によって、かつてのような自然を友とした生活意識が年々薄れ自然の恵み、そのすばらしさ、大切さを忘れつつあることではないでしょうか。

 もともと薬には、天然資源である多くの薬用植物が使われてあり、その点から漢方ブームも根づよいものがありますが、何時に薬草に関心を寄せる人も増えつつあるのは喜ばしいことと思います。

 この身近にある薬草の利用は、薬用植物についての基礎的な知識があれば、老人や子供でも、いつでも、とこでもたやすくできますから、もつと薬草についての知識を豊富にして、大いに利用し自前の健康管理に役立てていただきたいと思います。

 この薬草に親しむための手引として、昭和49年に「佐賀の薬草」が刊行されてありますが、絶版となったため、この度、昭和35年に佐賀県、薬業六団体共催で始まった「自然と薬草の集い」が第30回を迎えるのを記念して、佐賀県薬務関係の諸先生の御指導、御協力を得て、本書の発刊を企画いたしました。この編集にあたり佐賀県薬剤師会では、毎年実施されております「薬と健康の週間」(10月17日〜10月23日)の薬草展に寄せられる県民の皆様方の勧要望にもこたえ、さらに多くの方々に関心をもっていただくためのさまざまな工夫を試みだところであります。薬草も薬である以上、安易に取扱ったり、乱用することは避けねばなりません。

 本書を御活用のもとに、正しい知識の吸収と、使用にあたって用法、分量には十分気をつけていただき、さらに薬草に対する関心と種目を深められ、日々の健康つくりの一助にしていただければ幸いに存じます。

 まだ、本書の刊行にあたり、御協力いただいた関係者各位並びに編集に携わった方々に心から感謝申し上げ刊行の御あいさつといたします。

   平成2年10月
         佐賀県薬剤師会  会長 福 島 正 義



 <談 話 室>

専務理事 冷 川 襄

 現在、市薬は国立福岡中央病院の処方せんを面で受ける体制を、強化中である。今号笹野先生が、一枚の国立病院からの処方せん応需について書かれている。原部会紹介で有馬先生が、面分業確立の方策に触れておられる。一昨年の厚生省の後追しによる分業体制が少しずつ進んできている。我々薬剤師にとっては100年の悲願がやっと彼方に見えてきたような気がする。しかし、この追い風も、「医薬分業は患者第一」ということを忘れないようにしないと、たちまち吹き止んでしまう。まだまだ国民のコンセンサスは得られていない。

 クリニカルマガジソ1月号に「新春特別インタビュー 元厚生大臣小沢辰男氏 医療のペレストロイカを語る」という記事が掲載されている。これはクリニカルマガジン社の安藤俊一氏と小沢元厚生大臣の対談記事である。全文を紹介することはできないが、我々薬剤師にとって見のがせない発言があるので、その部分を原文のまま紹介する。

安藤 あと、もう一つ心配なのは、薬価基準の問題です。

小沢 私はね、完全医薬分業以外にはないと思っています。医者は薬を手離し、処方せんを書き、後は薬剤師が責任を持つ。そして、末端の薬局からメーカーまでは一般のマージンで行く。中医協の会長だった円城寺さんは、医薬分業になると、処方せん料で取られ、調剤手数料で取られ二重取りになるから、調剤手数料は廃止しましょうと言う。その代わりマージン率全部いきなさいと。私もこれ以外にはないと思いますよ。今のままでは医者はまけろ、まけろと言う。だからまた下がり、同じことの繰り返しです。これでは日本の薬の程度が下がるし、大切な研究費も出ないでしょう。こうなると日本の製薬企業は成長しないし、良い新薬も出ない。初めは実費でやろうと考えたのです。買った値段を全部払うように。しかし、個別銘柄制度だから、どうにもうまくいかない。

     − 中 略 −

安藤 その悪循環は、診療報酬が安すぎるからだが。どこでストップさせるかですよ。 小沢 だからそれは医薬分業以外に手はないんです。または、医療機関が薬を買った値段そのままを、患者さんに払ってもらうかです。

     − 以下略 −

 医薬分業に言及した部分は、もう少しあるが、スペースの関係で全部は転載できない。しかし、医薬分業がどのような方向に向うか一つの目安にはなるだろう。今回あえて自分の論評は避けるが、このような方向が我々の目指す分業の方向であろうか。今後一層、患者のための分業、植木薬剤官が主張していた、良質で効率的な医療実現のための医薬分業を、国民から理解されなければならない。



 <会 務 日 誌>

  (平成2年11・12)

11月2日 基準薬局認定委員会19:00
  3日 身障者スポーツ大会開会式 9:00 博多の森競技場
  5日 社保委員会13:00
  6日 商組30周年記念祝賀会17:00 セントラルホテル(三津家)
  7日 緊急委員会18:00
  8日 県薬ブロック別研修会19:00 県薬会館
  11日 福岡市市長選挙
  12日 天皇即位の礼
  14日 県薬研修者会議14:00 県薬会館
  16日 国立福岡中央病院受入薬局講習会 19:00(三津家)
  19日 学術委員会19:00
  21日 漢方学術講演会(ツムラ共催) 19:00(松枝、冷川)
  22日 理事、監事、支部長会19:00
  27日 学術研修会19:00(長谷川)
  29日 勤務部会例会18:00 パピヨン24ガスホール
12月3日 広報部会19:00(冷川)
  4日 社保委員会13:00
     福岡市医師会忘年会18:30 日航ホテル(三津家、松枝、冷川)
  6日 学校保健大会13:00
     市役所(三津家)
     荒巻県薬会長厚生大臣表彰受賞記念祝賀会18:00タカクラホテル
  10日 健康づくり惜報システム検討委員会13:30 市役所(三津家)
     緊急委員会18:30
  11日 組織委員会19:00 千本(三津家、冷川)
  12日 国立福岡中央病院協議会16:00(冷川)
     社保委員会18:30 かがわ(松枝、冷川)
  13日 久留米薬剤師会史出版記念祝賀会19:00(三津家)
  19日 県薬支部連絡協議会14:00
  20日 三役会15:00
     理事会18:30 滝の茶屋
  21日 福岡市健康週間実行委員会11:00 市役所(三津家)
  25日 第2回基準薬局説明会19:00 (藤原、冷川)
  26日 天皇陛下即位奉祝県民の集い13:00 国際センター(三津家、城戸)
  28日 仕事納め



 <編 集 後 記>

○未年は、羊の持つ柔かいフワフワとしたイメージとは裏腹に、激変の年だといわれているが、新年はマサに世界的動乱を秘めての幕開けのようだ。

○福岡市医師会の村山専務理事と山本理事、そして前会報編集委員長の栗田先生から年賀状を頂いた。お三方とも「市医報」の編集後記で何度も名前を見た先生方であり、私は市薬の広報を通じてお目にかかった。

 頂いた年賀状は、それぞれに手作りの素敵に温かいものばかり。なかでも村山専務理事の「寝正月」のイラストは、本当に村山先生にそっくり。今度お目にかかるチャンスがあったら、どなたの作なのかぜひ伺いたいと思っている。

○市薬会報をお届けしたあとのリアクション。 「人の悪口を平然と書いて、あとでどんな顔をして会長にあうのですか」は、市医師会の山本理事。「かなり読ませて頂くところがありましたが、あんなこと書いて大丈夫ですか」は西日本の竹井部長。読売の藤野記者からは「ある薬局の先生から、『あんたんとこが書いちゃーばい』と教えられた記者が、コピ―して編集局中に配りました」という報告。
 皆さんに心配をかけるので、今年から悪口を書くのは止めよ−っと!

○しかし県薬の荒巻会長は、一見ク―ルで冷ややかにお見うけしますが、内に秘めた情熱をお持ちなんですね。私は先生の涙を二回も見てしまった。一回目は旧市薬会館の落成式のご挨拶、そして今回の厚生大臣表彰で。

○読売新聞福岡総局から「どくたあNOW」出版記念会の案内が届いた。
 発起人のお名前が30ほど並んでいるが、県医会長、県歯会長についでナソト!三番目に見慣れた荒巻県薬会長の名前を発見。

 これで読売新聞さんにも、福岡県には三師会があることを分かってもらえた。
 前言は取り消し。今年も編集後記には、セッセと悪口を書くことに……。(木原)