会報第33号 平成2年1月31日
 ■ 巻 頭 言

 ◆平成2年を迎えるに当って

(社)福岡市薬剤師会会長 古 賀  隆

 年号も平成に変わり、早くも2年目の元旦を迎えることになりました。会員の皆様も家族お揃いで、それぞれに思い新たな新年を迎えられたことと思います。国民等しく、悲しみに包まれた幕明けの年でありましたが、同時に日本の歴史にとっても変革の新しい波が生じてまいりました。この年参議院選挙が行われましたが、自民党批判の嵐が巻きおこり、同党が大敗したことは御承知の通りでありますが、その中で、石井道子議員の再選が果されたことは薬剤師会にとって、まさに大書すべきことで、今後の薬剤師職能の発露に一大光明を得たと言ってよいと思います。

 又福岡市制100周年を迎えて開催された、アジア太平洋博覧会に、始めて「健康いきいきドーム」のパビリオンを三師会,玉屋共賛で出展し、80万人の入場者を記録したことは画期的なことでありましたし、博覧会全体としても823万人の入場者を記録して大成功裡に終了しましたことは、まことに御同慮に存 ずるところであります。御協力いただいた薬剤師会関係各位にも厚く御札を申しあげる次第です。

 福岡市薬剤師会にとっても、史記に残るいくつかの出来事がありました。そのひとつは、新しい薬剤師会館の完成であります。 4月に着工して、11月完成という8ケ月間の工期でありましたが、福岡市と具体的な折衝に入ってから完成まで約3ケ年の年月を要しております。それ程、薬剤師会にとっても大事業であったわけであります。すでに新会館を見聞された会員も多数おられると思いますが、外観的にも、内容的にも、限られた予算の中で、ほぼ満足出来る会館が出来上ったと考えております。企画,設計に努力を陽った委員の方に、この際あらためて謝意を表する次第です。

 新しい会館の完成を見まして、今更のように思いますことは、この交通至便の地に土地を取得され、そこに旧会館を建設された諸先輩の御苦労,努力、及び先見の明かあったればこそ、今日があるということであります。そのことに対しましても、感謝中し上げたいと思います。

 そして、この新会館は、内外ともに福岡市薬剤師会のシンボルとなるものであります。内容的には、研修事業,情報活動,試験センター事業に充分耐え得るものと考えています。

 ここに、諸先輩並びに会員諸兄と喜びを分ち合いながら、今後、なお一層内容の充実を期し、会員各自が自分の城として、有効、且つ積極的に活用されますようお願い申し上げる次第です。

 次に数年先の国立病院移転に備えて、最も近接する場所に会営薬局予定地を購入したことであります。何しろ大金を出して先物買いをするわけですから、賛否両論あることは当然のことでありますが、時を失しては永遠に此の土地を確保することは不可能でありますことから、最終的には代議員合の賛成を得ましたので、購入することに決断をいたしました。国立病院の移転については、基本構想は、ほぼ決っているようですが、具体的には皆目不明で、まだまだ先のことですが、どっちに転んでも、この土地が将来薬剤師会の大きな資産になることは間違いないと確信しております。

 このように、新しい薬剤師会館も建ちました。会営薬局予定地も購入しました。試験センターは厚生大臣指定を受けました。いねばハードな面はほぼ整ったと言えます。

 そこで本年からの大きな課題は、前年、厚生省が打出した、国立病院院外処方策発行の強力推進の方針,内科医会との間に分業問題に関する懇談会を発足させたこと。これら、処方策応需問題を如何に進展させるかにあります。 国立中央病院との折衝は、何回も行なっておりますが、実行に移す手段の最良の方法を両者で検討している段階です。

 一方、内科医会との懇談を端緒にして、医師会では、分業問題に関する木目細かなアンケート調査を実施しております。回収率が70%ということで、この問題についての医師の関心の高さを示しております。その集計が市医師会報10月号に掲載されておりますが、賛成,反対,不安など、さまざまな意見,考えがよくまとめられており、是非薬剤師会員にも知ってもらいたいと思いますが、市医報の記事は無断転載禁止となっておりますので、医師会の了解が得られれば市薬会報でお伝えしたいと考えております。

 OTC問題についても、勿論重要課題であります。日薬その他指導層から各誌で言われておることを繰り返し言うようですが、OTCも医薬品であることは間違いありません。OTCの安定化を図るには、その販売姿勢が大きなファクターとなってまいります。医師からの投薬との重複投薬はないか、服薬指導が充分になされているか、薬歴管理をしてあげているか等、OTCにもこれだけの心遺いの販売をされるならば、信頼される、安心される薬局として顧客からも喜ばれ、その薬局の信用を高め、いたづらに価格競争に走る愚をさけることが出来ると考えます。これからは処方策調剤も、OTC販売も、常に連動した考え方で店頭で対処して行く必要があろうかと思います。

 本年からの事業は、昨年までのハードな面から、ソフトな面の事業が主体となってまいります。従って今までに述べてきたことを実際に受入れ実行するためには、今後、薬剤師自らの研修が必須になってまいります。経営者の薬剤師、そこに勤務する薬剤師とを問わず、今年は是非各種研修会の受講をお願いいたします。そして現在、処方策応需をすると否とにかかわらず、将来いつからでも応需可能な受入態勢を作っていただくことをお願いしたいと思います。

 話しは少し変わりますが、今度、福岡市において、新しく「健康づくりセンター」(仮称)構想を企画し、この程「健康づくり情報システム検討委員会」が発足いたしました。

 その第一回目の委員会が昨年12月に開催されました、その基本理念として、健康の概念を「自分で自分を精神的にも肉体的にも使いうる状態」つまり、高齢化社会を迎えて、新しい健康観を「病気と共生する健康」と言うようにとらえ、あらゆる健康医療情報システムを構築して、市民の健康づくりに寄与しようとするものです。

 この委員会は、緒方道彦九大名誉教授を委員長として、大学教授、三師会、栄養士会、看護協会、福岡市、等から、10名の委員で構成されております。薬剤師会からも、会長の私が委員として委嘱されましたことは、これからの医療,健康づくり問題に、薬剤師会の参加協力を要請されているという事で、会員各位におかれても、社会的使命感を充分に認識していただきたいと考えます。

 何かと多忙で、あわただしく過ぎ去った平成元年でありましたが、今年も引き続いて多くの問題が山積しております。会員請兄の一層の団結と協力を切願してやまないところであります。

 会の発展と共に会員請先生の益々の御繁栄を切望して年頭の御挨拶といたします。



 <特別寄稿> 「タイ国のクスリ生協」

中央保健所 所長 西岡 和男

 タイ国は、今、行政国家として救貧から、公的扶助・社会保険政策の時代に入ろうとしている。これから迎えようとする高齢化社会への準備もおこたりない。主な保健問題も急性伝染病から慢性感染症・成人病に移りつつある。年10%を越える経済成長に伴う環境汚染への関心も高い。

 しかしながら、生活全般にわたる近代化の中で、保健医療サービスは必ずしも充分とはいえない。地域の人々の自主的参加,地域の実情に応じた適切な技術の応用,人的・物的資源の活用,既存の医療制度との調和などを基本原則として、基本的な保健医療サービスを草の根レベルまで普及させることをプライマリー・ヘルス・ケア(PHC)といっている。

 日本政府はこの7年間、タイ政府に協力して、このプライマリー・ヘルス・ケアの向上に努力してきた。私はこの7年間のうち最後の14ケ月をプロジェクトリーダーとして技術協力に参画した。プライマリー・ヘルス・ケアは、その各論として、健康教育の普及,栄養改善,安全な水の確保、など12の具体的活動を待っている。その中でことに重要なものが、"必須医薬品の配備"であり、私が興味を待ったのが、クスリ生協の活動だった。

 村のクスリ生協

 近くに充分な医療施設もなく交通不便なタイの農村においては、日常的に薬を身近に確保することは、極めて重要なことであり、村人のニードも高い。しかし、ほとんどの村では薬の入手が困難であり、たまたまやってくる行商人が売りつける薬はインチキなものであったり、ステロイド剤を混ぜて「よく効く」と法外な値段で売ったりもする。そこで、安全で安い日常的に必要な薬を各村々に確保するためのクスリ生協の活動が、1982年から、政府の支援で始まった。

 これは「村の保健ボランティア」が中心となってクスリ生協の組織をつくり、一株50〜200円と、余り負担にならない程度に出資金を村人から募る。その資金で医薬品を買っておく。全戸数の70%の加入率が達成されると、政府から7,000円相当の医薬品が無料提供される、という活動である。

 「村の保健ボランティア」は「村の薬局」を管理し、村人に薬を売ったり簡単なケガの処置を行う薬は「村のボランティア」の家に置かれていることもあるし、村の集会所に保管されていることもある。正価で売られ、3割の利益は運営費や基金に回される。

 村のクスリ生協に備えてある薬はほとんどが製薬公社が製造するものに限られ、消化剤,下剤,止下痢剤,解熱鎮痛剤,サルファ剤,抗マラリア剤,ビタミン剤,抗ヒスタミン剤,点眼薬,点耳薬,皮膚疾患治療薬など、医療機関で扱われるものとほぼ同様である。

 また伝統医療が見直される中で薬草の栽培、利用も試みられている。私達のプロジェクトオフィスが置かれていた、国立マヒドン大学にも、立派な薬草園がつくられていた。地方のプライマリー・ヘルス・ケア訓練センターをはじめ、農村の診療所でも、こまめに薬草の栽培が行なわれて住民への普及がはかられていた。アロエ,レモングラスなど日本でもなじみのある薬草も愛用されている。

 このクスリ生協の活動は現在、タイの3分の1以上の村に広まっているといわれている。プライマリー・ヘルス・ケアの理念は1977年、WHO(世界保健機関)総会において提唱された。

 翌年、その実行のために"西歴2000年までに全ての人々に健康を""health for A11 by the year 2000"(H F A/2,000)のキャッチフレーズが採用されアルマアタ宣言として、世界にひろがっていった。タイをはじめアジアの国々は、プライマリー・ヘルス・ケアの旗じるしのもとで、国民の保健医療レベルを向上させようとしている。

 "蚊やはえをなくす運動"をはじめとする日本国民の自主的保健向上活動はまさにプライマリー・ヘルス・ケア活動の秀れた実践のお手本である。さらには、日本の現在の高い保健医療技術、民間の活動、薬剤師会・医師会・歯科医師会などの専門家の組織、行政のしくみなどはまさに、プライマリー・ヘルス・ケアを推進しているアジアの国々が学ぼうとしていることである。

 私はアジアに開かれた国際都市福岡の一市民としてこの国際保健医療技術協力に少しでもお役に立てたことを、今、誇りに感じている。
(タイ国の保健医療資料集:1989より一部引用)



 <特別寄稿> 「グローバル化雑感」

1989年は昭和64年から平成元年へ

武田薬品工業兜汢ェ支店 支店長 横 田 丈 通

 激動の中で成長繁栄をもって終った昭和から豊かさの中に更に豊かさを求める平成へ、何かが変った変りつつある、という変革の年として多くの人々の記憶に残るでしょう。

 その変革の一つに「日本中心の世界」から「世界の中の日本へ」があると思います。最近よく「グローバル化」という言葉に出合います。「世界化」とも云われ「国際化」とは異る意味で使われています。簡単に云えば世界的な視野で経営を考え国境を無視して経済活動を営む、自国だけて経営をしないで生産部門や金融部門を海外の最適地へ移していく、といったことでしょう。

 日本は急速に経済成長をとげ多くの分野でグローバル化か進んでいます。ただ医薬品の分野では日本そのものがグローバル化の大波に洗われている感じであります。もともと日本の貿易の中で医薬品は他と異り、ずっと大巾入超で1985年輸入が輸出の2.5倍1988年同じく3.2倍となっています。 1985年アメリカとのMOSS協議の対象に医薬品も取上げられ日米間の貿易障害要因が討議されましたが、その後新薬の製造承認が大変早くなったことや、1989年の日米構造問題協議で両国の経済構造、慣行についての討議などでますます世界企業の日本進出は容易になっています。

 情報、通信輸送手段等の進歩に伴う世界の狭小化は各国の国境を超えた企業活動を可能にし、又一つの新薬の開発が10〜15年,100〜150億円という長い時間と巨額の費用を必要とする一方で、製品のライフサイクルの短縮化で一段とグローバル化を迫られています。現在日本で既に多くの外国企業が独立していますが、更に1990年バイエルの独立、その後サンド,シェーリング,ベーリンガー,SKFなど、相ついで日本企業との提携関係の変更が予定されております。これからは先生方が取扱われるメーカー数や製品も増えてグローバル化を実感されることでしょう。 1988年日本での外国企業の売上高は1兆円を超え日本の医薬品売上高の20%を超えています。今後は国内メーカーと外資メーカーとは異なる意味での共存となり各社の存続への努力は一層必要になるでしょう。

 当然ながら日本の企業も積極的にグローバル化を進めており、米国や西欧を中心に従来からのアジア地域を含めて資本投下を行っています。1988年現在海外進出法人数66社(製造26,輸入47)との報告かおりますが、まだまだ金額は小さく、日本の各社の輸出額は総売上高の多くて10%台、殆んどの会社が10%以下です。欧米の自国以外への販売額ウェイトは米国企業21〜51%、西欧企業35〜98%と極めて大きく、日本の遅れが目立ちます。

 1989年武田薬品も米国ノースカロライナ州にビタミンC 5,000 tの製造能力をもつ工場を建設し、先に同地に作ったBI工場と共に米・欧における供給拠点を確保しました。この工場は敷地が180万坪もあり、ゴルフ場なら6つ以上できる広大さです。その他欧州各国、東南アジアに拠点作りを進めています。

 ところで私の身近かでもグローバル化に伴う小事件が起りはじめました。昨年の人事異動で私の部下へ「君、ニューヨークヘ行ってもらう内示がありました」と遂に云ったのです。本人は冗談と思って「それはすごい、世界の桧舞台で頑張ります」と云って「ところで本当はどこですか」と聞き直したものです。そして本当と判ると「私は英語は全く駄目なんです。家内とも話し合ってみます」その翌日「実は家内が前から英会話を練習していて "やった"と云って喜びました。安心して行きます」との返事、若い人は違います。又パリの駐在員の自宅へ電話したらフランス語で "ペラペラ"と本人の声で云われ、あわてて「俺だ俺だ日本語で云え」と頼んだが変らず、結局留守番電話と判りガックリしたとか。これからいろいろ起るでしょう。

 さてグローバル化が進み、今後は流通や情報活動にどういう変化が起るのか深い関心のあるところです。世界的な考え方、世界に通用する仕事のあり方が、健康を求めるすべての人々の為にという基本認識と一致して、より良い方向へ改革されるように1990年代に期待すると共に自らも努力して参りたいと念願しています。

 最後に先生方のますますのご健勝をお祈りすると共に今後とも宣しくご指導を賜わりますようお願い申しあげます。



 <会館落成特集> 「新会館落成について」

(社)福岡市薬剤師会 顧問 藤野 義彦

 西鉄大牟田線の高架化とそれに伴う福岡市都市計画によって、今回やむを得ざる土地割譲のため、旧会館(鉄筋3階建280.9坪)を建替えることになり、前にも勝る使い易い新会館の落成を見たことは、誠に目出度く感銘の至りです。心よりお喜び申し上げます。

 今後会員のよりどころとして、薬剤師会の益々の発展を祈念してやみません。この落成に当っては、会員の協力はもちろんですが、古賀隆会長はじめ役員の方々の並々ならぬ御努力に改めて感謝申し上げます。

 ここに備忘録として、会館の土地取得から旧会館建設までの経緯を、私の手帳をひもときながらその歴史を綴って、会員の皆様方に新たな認識を持って頂きたいと存じます。

 戦後間もなくから、昭和45〜46年迄の当時の県・市薬剤師会は、現在博多区御供所町にある崇福寺所有の土地を賃借し、戦後、故磯田秀雄先生(磯田正之先生の岳父)、故加藤藤次郎先生(加藤美粧堂社長・元市会議員)故四島 久先生(当時県薬会長)等の肝入りで、医薬品組合の事務所として建てられ、のち福岡県薬剤師会が引継ぎ県薬会館とし、同時に福岡市薬剤師会も同居していました。

 この御供所会館は環境が非常に悪く、土地は聖福寺のもので、戦後の不法建築のものばかりであり、周囲もすべてバラック建ての家に囲まれたその奥にありました。そのバラック建の路地を通ってしか会館に行くことができず、自動車を入れることもできませんでした。

 当時少かった自動車で来る会員は、呉服町にあった大丸デパートの駐車場に一事駐車したものでした。その路地には、物干竿に洗濯物が一杯という有様で、会員としては全く恥かしい環境であり、医師会、歯科医師会の役員が来られるとき等「汗顔の至りとはこの様なことか」と痛感したものです。戦後間もなくはこれで良かったのですが、高度成長するに従い恥かしさは尚一層のことでした。

 昭和46年は、日本薬剤師会が主催する第4回学術大会(4月9日〜11日)が福岡商工会議所をメイン会場として開催されることになり、県薬は忙殺されていました。この年、その大会の直前3月17日昼、隣家より火を発して会館は類焼し、会館としての機能を失いました。

 その時事務員(松井事務長来る、肥高氏もこの年就職)より知らせを受け駆け付けた時は、半焼、水浸しで皆途方に暮れていたことを思い出します。又その時、小生が何をしたかは思い出しませんが、後日故四島 久会長より、当時工藤益夫先生、鶴原正蔵先生と共にすばやく、商工会議所に仮事務所を設置し(3月19日)移転したことを褒められた記憶があります。そして4月15日、いわとビル4階(博多駅南1丁目3番10号)に再移転しましたが、正に多事多難な年であったといわなければなりません。

 昭和47年7月1日、四島、鶴原、工藤先生方の努力によって、旧福岡県婦人会館(現在の県薬会館)に拠点を移し、5年後の52年7月22日、県薬会長であった故白木大四郎先生の時県当局より払い下げをうけ、今日に至っております。

 当時の福岡市薬剤師会は、何をするにも県薬の影響を受ける状態で、言い過ぎかも知れませんが県薬の言いなりであり、一つとして柱となるものを持たず肩身の狭い思いをしたものです。

 この様な状況下、昭和45年、故斉田和夫先生が渋られるのを無理して市薬会長になって頂きましたが、今振り返ってみますと、この時が市薬維新であったと言っても過言ではないと考えています。昭和46年7月10日、社団法人福岡市薬剤師会としての認可を受けましたが、その初代会長は、斉田和夫先生であります。

 斉田会長の下、薬剤師職能の開発向上、医療参画への理論武装、一般大衆薬の安定化事業と併せて市薬独自の会館建設に取り組んだのです。その中でも、とどまる所を知らぬ、拠点を持ち得ぬジプシーの様な現況に対する情けなさ、はがゆさがばねとなって昭和46年4月、田辺製薬の4階ホールで会館建設を目的とする第1回総会を招集し、併せて社団法人化への決議となりました。

 この間、斉田先生を主軸とする会館建設特別委員会の設置を見ています。続いて46年8月、福岡市に対し土地譲受のための第1回陳情書を提出、又一方、市薬独自で私有地を千代町、警固、百道と物色もしましたが、先立つものの調達が苦しく、目標を市有他の払い下げ一本に絞り猛運動を展開致しました。

 その過程では土地の譲受先の候補として、平尾病院、中央区の授産所、今泉の公益質屋跡、その他が上りました。そして、代議員会開催等多くの会合を重ね、波状陳情と熱意を展開した結果、48年5月24日、当時の夕刊フクニチ社と共同で現在地(156.18坪)の譲受に成功したのです。

 夕刊フクニチと共有になったのは、当時の情勢としては仕方なかったと思いますし、その時の市長進藤一馬先生をはじめ、行政当局並びに市議会関係者の御理解には感謝で一杯でした。

 払い下げ価格の設定には、市管財課の意向と不動産鑑定士(市薬よりお願いして鑑定してもらった)の意向もありましたが、結局、福岡市薬剤師会の国保行政・公衆衛生推進・学校薬剤師事業の公共性と、夕刊フクニチ社の市行政に対する社会的特性を参酌して頂いた結果、2,806万円で払い下げられることになったのです。市薬の負担はその半分で、この時の登記料は40数万円であったと記憶しております。

 この土地は、1年以内の建築並びに5ケ年以内の売買禁止という付帯条件付きでありましたので、市薬としての基本方針を次の様に決定しておりました。

@ 土地分割所有として財産保全をする(土地が変則地形であるので、道路面81坪とその反対側74坪として、何れを取るかは夕刊フクニチ社と話し合う)

A 共同建築は基本的にしない。

 その後、夕刊フクニチ社より申し入れがあり、資金は夕刊フクニチ社で調達し鉄筋9階建の分割所有の提案がなされ、市薬は1〜3階の3フロアを所有する青写真も出来たのですが、この当時経済事情(S48年のオイルショック)が悪くなった上、建築法の改正等もあり流産となりました。

 この分割所有という方法は、今ではマンション等で普遍的になっておりますが、当時としては新しく、荒巻先生(現県薬会長)ともども一生懸命研究し、弁護士ともよく相談しながら財産保全に全力を尽したことが記憶に新しいものです。

 次に行った事は、市薬としては基本的な分割所有を要請するとともに、独自の土地を求めて、博多駅南1丁目に恰好の120坪の土地を本気で取得する作業も致しましたし、建設が長引くため、建設延期理由の陳情書を行政に度々提出したことを思い出します。

 以上の様な経過をたどりながら、私共市薬の早期建設と夕刊フクニチ社の建投資金との折合いがつかず、行政の理解と双方合意の上昭和54年6月29日、夕刊フクニチ社の持分市薬が譲り受けることとなったのです。その時の価格3,663万円、登記料70数万円で、ここにおいてようやく土地問題の決着を見ることになりました。

 しかし、この資金調達には銀行側との折衝に大変苦労したことが想起されます。事業のあまりの大きさと大変さにさしもの斉田先生も、「藤野君、荒巻君、あまり無理をしない方がよいのではないか」と、初めて弱音をはかれたことが思い出されます。

 昭和54年6月土地の全面所有と同時に、会館建設に取りかかり、市薬の当時の力不足もあって、県薬との前段の申し合せ事項(確認書とはしなかった)のこともあり、共同建設並びに共同運用を提案しましたが、県薬は既に故白木会長の下、昭和52年7月住吉婦人会館の払い下げを受けていましたので、この話はまとまらず、結局、市薬独自の会館建設となったのです。

 この時の資金については、土地を全面所有していたため、銀行の借入も順調に行きました。ちなみに、昭和49年当時の会費は33,000円で、市薬が使えるのはその中の8,000円であったことを思うとき今昔の感があります。

 その後、昭和55年8月12日、旧会館落成迄のいきさつは皆様御承知の通りです。 会館建設には、福岡市から多額の助成補助金を受けました。当時の進藤一馬先生、久保田先生、故岸川衛生部長、並びに筑紫20日会(現ユニック会長 辻先生)より多額の寄付を頂きましたことに大変感激しておりました。

 又、会員において、特別会費の徴収や保険調剤特別会費の拠出等、総力を結集したことが今回落成を見ました新会館に引き継がれたのです。その名に生きる強引さも多少ありましたが、今感無量をかみしめています。

(注 斉田和夫先生 昭和45〜52年 会長  藤野義彦先生 昭和53〜56年 会長)



 <会館落成特集> 「新会館設立によせて」

(社)福岡県薬剤師会 会長 荒巻 善之肋

 平成元年は市政百周年ということで、よかトビアが開催されましたが、実は福岡薬剤師会結成からも同じく百周年になります。はっきりした記録は残っていませんが、明治22年12月ということのようです。

 丁度その百周年目の同じ12月に福岡市薬の新会館の落成を迎えたということは、遇然とはいえ大変意味深いことと思います。しかもこの年から新しい分業の年が始まろうとしているのですから。

 私が薬剤師会に入会した昭和30年代は、総会といえば櫛田神社の社務所に机を並べてやるのがお決りで、現在のような立派な会館を持つことができようなどとは、夢にも思っていませんでした。

 日本の国力が伸び、会の対外的評価も高まった結果で、大変喜ばしいことですが、実際の建設に努力をされた古賀会長はじめ、役員の方々に深甚の感謝を申し上げる次第です。何といっても会館は会員の結束を具現したシンボルですから、これを拠点に新しい発展を望みたいものです。

 さてそこで編集者からの御依頼でもあり、せっかくの機会ですから、旧会館についての上地取得から建設に至る経過をもう一度振り返ってみたいと思います。

 旧市薬会館の建設が具体化したのは昭和46年で、当時の会長、故斉田和夫先生、副会長の現顧問、藤野義彦先生によって起案されました。設立趣意書は、今も手許にありますが、専務であった私が、翌47年1月付で起草したものです。

 直接の動機は46年3月17日に発生した県薬会館の類焼です。しかも第4回日薬学術大会が福岡市で4月に開催されることになっており、その直前のこととて、県薬は重要書類を持出すのがやっとで、大部分の資料、資材は焼失してしまいました。

 市薬はそれ迄県薬に間借り、というより机一つで細々と事務をしていたのが実状ですが、処方せんと共に事務量も増えてきており、又、北九州市薬が社団法人の認可をうけたこともあって急速に気運が盛上ったのです。

 市からの土地払下けについては、久保田議員に大変お骨折りをいただきましたが、フクニチ新聞からも同地払下げの申請があっており、遂に共有を条件として払下げをうけることになり、48年5月に登記しています。

 その後フクニチ新聞との交渉窓口は専務の私ということで十数度に及ぶ折衝をくり返したのですが、遂に目途が立たず、そのうちにフクニチ新聞から売却の話がもち出されました。そして54年3月残り1/2の権利を買取りましたが、今にして思えば、これはまことに幸運であったということであります。

 その後、故馬場正守先生から、試験センター設立の話が持ち上り、藤野会長が県薬に魁けて会館建設にふみ切ったのです。

 取壊しになった旧会館は同年12月着工、翌翌55年8月竣工ということになっています。このとき副会長であった私が、涙で声をつまらせた、というのは語り草になっているようですが、それ程これは嬉しいことだったのです。その会館も今はなくなりましたが、それにも増してすばらしい会館がここに設立されました。これはまさに会員の団結の象徴であると思います。

 この会館は私達の後輩、子供、孫の時代まで残るでしょう。それが今後の我々の今の想いを具現し、見届けてくれることを祈って止みません。

 最後に終始市薬会館建設に御尽力をいただいた、会員,市議久保田秀己先生に重ねて御礼を申し上げます。



 <会館落成特集> 「市薬新会館によせて」

(社)福岡市薬剤師会 顧問 冨永 泰資

 現代医療制度が確立されて100年、昭和より平成に改められた今年奇しくも市薬会館が改新築されたことご同慶に堪えません。しかし21世紀の高令化社会医療に向けての新医制度の制定を考えるとき新会館の持つ意義の重さを痛感する。

 原子爆弾に端を発したここ50年間の科化学の発展は今や人間を造り変える域にも達しようとしている。これに伴い医薬品の発明開発も又目を見張るものがあり、戦前の薬学教育を受けた者にとっては夢としか思えない感さえある。

 戦前の薬剤師の手にした医薬品は無機物が主体であり、調剤行為における諸注意は毒劇薬とその極量・配合禁忌と不適薬外見上の変化に重点をおいたものが殆んどであった。しかし戦後徐々に高まった分業指向によって行われた十数年前の調剤実地再教育研修に参加し薬剤の発展に驚き、病院勤務によって持っていた自信が店頭販売に専念していた私から崩れ去る思いであった。

 先ず無機薬剤は最早や主薬ではなく合成薬に変っていたこと、更にその一品一品は錠剤,カプセル剤に変形し殆んどがハサミ調剤であること等々技術の必要性に疑問を持った次第なり。

 しかるに数日間の研修中資料と講義に於いて調剤業務の変化を確認した次第なり。即ち毒劇薬、極量は当然のことながら体外での変化のみに注意してい禁忌不適が体内に移ったことである。

 即ち錠剤、カプセル剤が体内に入り酸、酵素、菌或いは体温等、総合作用及び薬剤相互の作用による体内変質変化がもたらす内臓器神経血液に与える影響、即ち薬害の発現を知りたる時良薬は正に両刃の剣なりを痛感した次第なり。

 更に欧米に於いては医療制度確立以来医薬分業を確立実行して来た理由を再確認し、日本に於ける実施の一日も早からんことを祈りたる次第なり。しかしかかる研修が行われたる時より徐々にではあっても社会はその薬害に気付き厚生省も腰を上げ、就中分業を希う薬剤師自身が職能を自覚し又医師は医道の反省に立ちて、医薬は患者を中心とした道なるべしの自覚と反省の下今日医薬分業の気運が高まったことは誠に喜びにたえない。

 新会館には医薬品、環境の試験検査器機も揃い施設として認可された由、之こそ旧会館当時よりの建設の大目的であったれば尚更に喜ばしい。

 何故ならば会員の確保が確実であり、患者中心の医療体制即ち全面分業(欧米型)を完全実施に向けての一試案として推進されている国立病院々外処方箋応需のための専問知識の研修、並に優良薬剤供給のための検査施設の活用という薬剤本来業務の職能団体の城として薬剤師会員が活動することを祈り、その名に生きるための自覚する一人である。



 <会館落成特集> 「福岡市薬剤師会試験センター創立の歴史」

福岡市学校薬剤師会 会長 獺越 寿

 このたび福岡市薬剤師会館が装も新しく再建された事は慶びにたえません。三階の試験室も広くゆったりときれいに出来上りました。今後益々市薬試験センターが充実発展してゆくものと確信しています。(設備の設計については古賀会長の依頼により、将来の拡張時のことも考えて機能よく配置したつもりです)旧館については故馬場正守先生(前市学薬会長)が苦労してその任に当られましたが、当時の模様を詳しく知る人がいませんので、福岡市薬試験センター誕生の歴史をあれこれ資料をしらべた調査結果を報告します。

・日薬、県薬の動き

S47年   日薬は各県に試験センター設置促進を計画、実施
S51年   県薬は県薬試験センター設置について検討
S52年   県薬は全国各県薬試験センターの現地調査、文書による照会を基礎として審議
S53年   日薬主催試験機関未設置県代表者懇談会を開催(47府県中21県未設置)
S54年   日薬主催試験機関連絡協議会開催
S55年   日薬は未設置県に55年中に必置要望
 県薬は福岡市薬に試験センターを設置して代行を依頼することで所要の予算を計上
S56年   県薬、市薬の試験センター担当者懇談会
S57年   北九州市薬試験センター厚生省指定機関認可
 県薬より市薬へ予算計上
      S55年(100万) S56年(70万)
      S55年以降は北九州市薬と折半(35万)
S62年より(50万)
平成元年より(100万)

・市薬、学薬の動き

S54年10月 福岡市教育委員会より市立学校飲料水検査に関して施設設備と検査実施者の運用につき相談(学校保健法施行規則、環境衛生検査第22条の2)
   12月 福岡市薬剤師会館地鎮祭
S55年1月 主任計量者資格取得
   8月 会館完成(2Fに試験室)市教委は初年度分、実験台、大型冷蔵庫、排水処理器等を貸与
   9月 市薬,市学薬は紫外線分先々度計及び記録計を購入
S56年6月 市教委は2年次分ドラフトチャンバー、直示天秤、薬品戸棚等を貸与
   7月 市薬,市学薬はガスクロマト、原子吸光分析器、その他を購入
   9月〜11月 水質検査実習(学薬15名)
   11月 検査業務許可申請
   12月 福岡県飲料水水質検査登録許可(第12条の2)(有効3年)
S57年2月 第1回福岡市立204校分の水質を検査(実務学薬)(検査料1校1万円)
   5月 3年次、市教委より側壁実験台等を貸与 貸与器具は1年次 1,000万円 2年次 400万円 3年次 100万円  計1,500万円 原価償却10年
   11月 第2回福岡市立学校飲料水水質検査(207校) 以降毎年1回市立学校飲料水々質検査、有料検査実施

・日薬よりの医薬品全国統一試験実施  (S55年〜S62年学薬実務)

S55年   複方ヨードクリセリンの定量(比色法) 希ヨードチンキの定量(滴定法)
S56年   糖衣錠,カプセル剤の崩壊試験
S57年   インドメタシンカプセル,プレドニゾロンの重量偏差,崩壊度,定量試験  コーテング錠(ビタミンE錠外5品目),裸錠5品目の重量偏差,崩壊試験
S58年   プレドニゾロン(5mg)錠の重量偏差,崩壊試験,定量 マレイン酸クロルフェニラミン散定量(GC)
S59年   アセトアミノフェンの定量(比色法,GC)
S60年   メチルドパ,アスピリン製剤の含有量定量(UV,GC)
S61年   (11局方)トルブタミド錠の溶出試験(吸光度)定量(滴定) レセルピン錠の定量(吸光度)
S62年   (11局方)塩化リゾチーム錠定量(吸光度) 乾燥減量(%) マレイン酸メチルエルゴメトリン錠の定量(吸光度),含量均一性試験(吸光度) イゾプロフェン錠の定量(滴定)
S63年以降市薬試験室担当者実務

・現在試験センターの有する資格

1.建築物における衛生的環境の確保に関する法律第12条の2第1項(S56)
2.水遵法第34条の2第2項(S61)
3.医薬品試験検査機関(S63)

 今後は輸入食品外の食品衛生試験検査機関指定等の問題も残りますが、市薬試験センターが地域に密着した県レベルの試験センターに発展してゆくものと期待しています。



 <会館落成特集> 「福岡市薬剤師会の起源について」

(社)福岡市薬剤師会 専務理事 藤原 良春

 新会館落成祝賀に際し、古賀市薬会長及び荒巻県薬会長の言葉として、平成元年は市薬が始まって100年目に当たると述べられています。私は平成元年5月号の会報で、市薬は60年前に始まったのではないか、と記しましたが、今後この件について混乱を生じさせないよう、ここで説明させて頂き、統一見解を出しておきたいと思います。

 先ず、前記両会長の見解と私の見解との相違は、史実をマクロ的に捉えるか、ミクロ的に捉えるかの違いにあります。日薬並びに県薬の成立課程を見ますと、上部組織が先に出来て下部組織は後で出来ています。市薬においても部会の結成は後のことと同じです。

 さて、明治20年、東京薬剤師会が設立されていますが、その会員であった志村釼七郎氏(県立福岡病院薬局長)や大島健吉氏等によって、明治22年(1989)12月「福岡薬剤師会」が薬剤師数62名でもって設立されています。但し会の名称に県や市等は冠されておりません。又この時の会長名は不明ですが、明治24年の総会では、大島健吉氏が会長に選ばれています。

 ここに明治22年12月制定の会則(全文25条)の一部を記しておきます。

第一条 本会ハ薬剤師ノ一致団結ヲ鞏個ニシ以テ業務ノ振興ヲ謀ルヲ目的トス
第二条 本会ハ福岡薬剤師会ト称シ福岡市因幡町五十八番地ノ二二設置ス
第三条 本会ノ会員ハ薬剤師ノ資格ヲ有スルモノニ限ル
第六条 会員ハ会費トシテ一ケ年金三拾銭、私立福岡薬学校補助費トシテ一ケ年金壱円ヲ四月十月ノ両度二分チ本会事務所二納ム可シ

 福岡薬剤師会の設立に先立ち、明治20年、県立福岡医学校附属薬学校が廃止されることになり、当時福岡病院薬局長であった佐藤直氏、県衛生課に所属していた大島健吉氏、元附属薬学校教諭であった久能功氏等が薬学の必要性を説いて県下の有志を募り、私立福岡薬学会を結成しました。

 これを母体に奔走し同年12月、私立福岡薬学校が福岡市因幡町に創立されています。初代校長佐藤直氏(明治22年9月迄)、二代目校長大島健吉氏、更に佐藤直氏の後任薬局長が前記志村釼七郎氏となっています。

 前記会則にこの学校に対する補助費及び事務所の文言がありますので、「福岡薬剤師会」の設立は、この時薬剤師を結集した運動が伏線になったものであり、又会の事務所は学校内に置かれたのであろうと想像されます。

 明治22年という年は、3月に「薬律」が制定され、その実施(明治23年4月)延期運動がおこり、全国薬剤師の統合が叫ばれた年でもあります。そして明治23年に、日本薬剤師連合会が結成されることになり、本県から、設立委員として大島健吉氏,斡旋委員に志村釼七郎氏が選ばれています。

 その後、薬律改正運動は益々盛んになり、明治26年、連合体組織を発展的に解消して、日本薬剤師会が設立されました。その後、福岡薬剤師会がどのようになったか不明ですが、日薬の福岡県支部設立は、明治34年のことです。

 時代は下りますが、大正14年、薬剤師会令が公布され、これによって大正15年、新たに福岡県薬剤師会が発足し、日薬も公法人日本薬剤師会と変わります。

 福岡県薬剤師会の会則制定は、昭和3年になってからで、この中に支部を設けるとあり、福岡市は第一支部となっていまして、戦後の昭和23年、新薬事法の成立で解散されるまで続くことになります。

 私は、福岡市が一つの組織として活動を始めたのは、この支部組織が出来た昭和3年であると考えていましたが、今回両会長より、福岡市の会員が中心となって設立した明治22年の「福岡薬剤師会」を起源にすべきであるとの意見が出され、歴史的に見ても日薬の設立に参画する等大きな貢献があったわけですから、今後はこれを統一見解に致したいと思います。又このことは、県薬の起源も同じであるということになります。

(注)明治12年県立甲種医学校設立
   明治13年〜20年附属病院、附属薬学校
   併設、明治21年医学校廃校
   附属病院は県立福岡病院となる。
   明治36年京都帝国大学福岡医科大学設置、県立福岡病院は同大学の附属病院となる。



 <会館落成特集> 「市薬会館新築工事 竣工式」

報告 広報担当理事 木原 三千代

日 時 平成元年11月20日(月)午前11時
場 所 市薬会館1F駐車場
出席者 古賀会長、竹尾,高倉,長谷川各副会長、藤原専務、三津家,戸田,松枝,正岡,篠崎各常務理事、木原,冷川,城戸,小野,藤田,成澤,市花各理事、日高,礒田各監事 学薬獺越会長、坪根,野口各副会長

来 賓 久保田市議
    荒巻県薬会長
    藤野顧問

 三月の地鎮祭に負けず劣らずの素晴らしい青空の下(とはいっても市薬会館1F駐車場でしたが)竣工式が挙行されました。

 地鎮祭は八千代建設で進行されましたが、竣工式は市薬藤原専務理事の司会で、神事次第にのっとり進められました。「清め拭いの儀」は神主に施主が同行して、市薬会館4F研修室で行われるというので、ビデオ担当の三津家先生と私は、あわてて連いて行きました。

 「あれっ、3階じゃなかったかしら」と市薬会館が1Fの駐車場からだと4階建てになっている事に、この時初めて気が付きました。

 左下の写真では、古賀会長のうしろのスクリーンのカーテンが開いたままですが、この後すぐに古賀先生は、サーモンピンクのきれいなカーテンをキチンと引いて降りていかれました。「工事の進行状況を毎日見に行っております」とおっしゃっていた古賀先生の市薬会館に寄せる想いが、よく現われている行動でした。

 竣工式祝宴では、古賀会長より施主としてのお礼のご挨拶があり、八千代建設,石橋建築事務所,現場主任の田中弘文、三氏に対して感謝状が贈呈されました。次いで久保田市議と荒巻県薬会長から、お祝いの言葉をいただき藤野顧問による乾杯で開宴されました。

 午後から直ぐに引越しが初まり、理事者は全員お手伝いです。9年前の旧会館建築の時、会長,副会長,専務理事であった藤野、荒巻、古賀、三先生方には、殊のほか感慨もひとしおのご様子でした。



 <会館落成特集> 「会館落成祝賀式典」

報告 広報担当理事 木原 三千代

日 時 平成元年12月16日(土) 正午
場 所 市薬会館4F講堂 出席者 約100名

式典次第

司会      正岡常務理事
開式のことば  竹尾副会長
会長式辞    古賀会長
来賓祝辞    桑原市長(代理末藤助役)
        久保田市会議員
        荒巻県薬会長
        松田医師会長
来賓紹介    加藤歯科医師会長、早麻県議、加藤衛生局長、野間薬務課長、青柳日薬常務、
        太田誠一議員(渕上秘書)
祝電披露    城戸理事
閉式のことば  長谷川副会長

祝賀会

鏡開き     早麻県議、加藤衛生局長、野間薬務課長、木瀬九宏会長、青柳日薬常務、
        古賀市薬会長

>鏡開き

乾 杯     加藤歯科医師会長
閉会のことば  高倉副会長

会長式辞

会長挨拶  本日、福岡市薬剤師会館の落成にあたり、祝賀式典を開催致しました所、公務まことに御多用の中を末藤福岡市助役並びに御来賓各位を初め、かくも多数の皆様の御臨席を賜わり心から厚くお礼申し上げます。

 福岡市薬剤師会の創立につきましては、正確な記録はございませんが、色々な史実を調べた所によりますと、福岡県薬剤師会創立の母体として明治22年に結成誕生したと考えられております。そうしますと本年が創立百周年にあたるわけでございまして、本年市制百周年を迎えられた福岡市とまさに期を同じくしております。

 このような記念すべき年に、しかも本年は元号も新たな平成一年、更に本会館の地番も今泉一丁目一番一号であり、さしづめ一づくめという縁起のいい数字が並ぶ状況の中、新しく建設されました本薬剤師会館の将来にあらためて希望と発展を心に期して、私共会員一同心から喜こびを隠し得ないところでございます。

 本会館の新建設に至ります経緯につきましては、お手元の小誌に述べておりますので省略させて頂きますが、本会館建設にあたりまして終始、御好意、御高配を賜わりました福岡市当局並びに市議会に対し、本席をお借りいたしましてあらためて厚く御礼申し上げます。

 御承知の通り医療と保健に関する問題は、近年高齢化社会を迎え国家的課題として、国県市をあげて新たな取組みがなされておりますが、医師会,歯科医師会と共に薬剤師会も医療団体の一員として参画の方向にありますことは、私達薬剤師自身にとりましても職能と責務を一層自覚し、社会の要請に答えなければならないと考えております。

 新会館建設にあたりましても、そのような視点から研修施設の充実と厚生省指定機関であります試験センターの機能拡充には、特に配慮したつもりであります。更に現在、厚生省が推進しております国立病院の院外処方箋応需並びに一般病医院よりの処方箋応需につきましても、今後システム情報社会に即応できるOA機器導入等、施設を充分に活用して、社会の要請に対応し得る薬剤師の指導育成に全力を盡してまいる所存であります。

 本会館建設工事並びに工事監理にあたられましたハ千代建設株式会社及び石橋建築事務所両社には、終始誠心誠意建設作業、監理に御去力くださり八ケ月の工事期間中、事故もなくこのように立派な会館を完成させていただき哀心より謝意を表する次第であります。終りにあたりまして、本日御臨席陽わりました各界、各位に対しまして、あらためて厚く御礼申し上げますと共に皆様の益々の御繁栄と御発展を祈念申し上げまして式辞といたします。

     平成元年12月16日
     社団法人 福岡市薬剤師会
         会長 古 賀  隆

 当日の服装はフォーマルでということになっておりましたので、古賀会長はモーニング姿、他の理事者は黒の略礼服で10時に集合。お客様をお迎えする準備の最終チェックをしました。

 中でも古賀先生は会長式辞、正岡先生は大切な司会のお役目を控え、少々緊張気味です。でも私は、電話と写真だけでしか知らない特別寄稿をお願いした先生方にお目にかかれるので楽しみでした。

 鏡開きをなさる先生方は、お酒がかからないようにと用意されていた真っ赤なハッピを着て、司会者の「えいえいお−っ」の掛け声に合わせて鏡を割ります。翌日の石井先生もそうでしたけど、加藤衛生局長もその瞬間、目を閉じてしまわれた、やはり女の先生ですね。そして藤野顧問の乾杯で祝宴が始まりました。

 「正岡先生におこられた」という小野先生と藤田先生。先日古賀会長から「理事者は接待に努め、飲食はお客様が帰られるまでしてはいけない」と言われていたのです。正岡先生はと見ると、一生懸命お酒を枡に注いでお客様に差し上げていました。

 こういうパーティーは、お開きになる前に半数位の人は帰ってしまわれるものですが、今日の祝賀会は中座される先生もほとんど無く、高倉副会長による閉会迄、会場はお客様でいっぱいでした。



図



 <新 春 対 談> 「−石井先生をお迎えして−」

日 時 平成元年12月17日(日) 午前11時
場 所 市薬会館会長室
出席者 石井道子参議院議員
    古賀隆市薬会長

会長 本日はお忙しいなか市薬会館落成祝賀会に御臨席賜わりましてありがとうございます。

石井 本当におめでとうございます。

会長 本日の祝賀会は会館落成と先生の労働政務次官ご就任祝いを併催ということにさせていただいております。

石井 ありがとうございます。本当にお世話になりました。

会長 まず労働政務次官のお仕事内容からお聞かせください。

石井 自民党に対する逆風の中、全国の薬剤師の先生方に燃えに燃えていただき、薬剤師会単独で戦った選挙に久し振りの当選を果たし、肩の荷を降ろしホッとしています。私は社労ばたけでやってきましたので、今回の労働政務次官の仕事はわりとなじみがあり、すんなりとできるようです。

 政務次官という仕事は一回だけで二回とはできないのですが、私は環境と労働と二度目のポストです。仕事としては勤労者の雇用と福祉の向上が大きな柱です。労働時間の短縮、高齢者の雇用、働く女性の妊娠、出産、育児、パート等の問題、外国人労働者のこと等が主な仕事です。

会長 先生にはこのような労働政務次官の仕事をなさるかたわら、薬剤師に関することもやっていただきたいということで、医薬分業問題について、社会の追い風に乗って進める上での厚生省の考え方と薬事法的観点についてお伺いしたい。

石井 今回の医薬分業は厚生省はもちろんですが、大蔵省が大変認めてくれて行政主導型で進められています。病院の形態にしても、国立や大学病院のように厚生省、文部省、労働省等で、かなり医薬分業に対する考えが違っておりますので、私は幹部の方々に理解していただくようお話し申し上げております。今回横浜で作ろうとしている労災病院は、ぜひ医薬分業にしたいと思っております。

会長 医療法の見直しが来年行われようとしていますが、その点について。

石井 今回の改正は、医療機関に関する問題が大きいのですが、その中で薬剤師にとっては、人員配置及び100点業務の問題が大きいのではないでしょうか。

会長 100点業務の条件は厳しすぎるのではありませんか。

石井 注射薬の一本渡し及び、DI室には薬剤師を二人貼りつけるとの条件は、100点ではまかなえないので、仕事をキチンと評価してもう少し上げてもらうようにしたいと思います。

会長 大学教育の6年制への改正について、一向に進む気配がありませんが、この問題は、ぜひとも何とかして欲しいですね。三師会に出ても肩身のせまい思いをしますし、行政に於いても将来、薬務課長が獣医さんという事にもなりかねませんのでね。

石井 私立大学の反対が大きいですね。この問題は文部省で検討するのですが、文部省には薬剤師がいないのです。薬剤師の進路が多用なため、もう二年間はどうゆう教育をしたらよいのか、なかなかまとまりません。厚生省の薬剤師養成委員会で、薬剤師研修をまず始めて、それから6年制のカリキュラムを煮つめて行こうとのことです。

会長 先生には、まだまだ医薬品流通の適正化、大衆薬の振興等お間きしたい事がたくさんありますが、今回は時間がございませんので、又の機会にでもよろしくお願いします。本日は本当にありがとうございました。

 明るくてとっても素敵になった市薬会長室に石井先生をお迎えし、古賀会長との対談という形でお話を伺いました。私はテープレコーダーを持って同席させて頂きましたが、その時、薬事日報の松田記者も一緒でした。時間が来て対談が終りホッとしていたら「先生、電車の音がかなりテープに入っているから聞き取りにくいかもしれませんよ。そして労働政務次官の仕事内容は簡単にまとめた方がいいですよ」とアドバイスしてくださいました。

 その時、私は全然気が付かなかったのですが、テープ起こしをしてみると、確かに電車の音が耳障りで、さすがにプロだなあと感心させられました。石井先生には、もっといろいろな問題についてお間きしたかったのですが、祝賀会を控え30分しか時間を取ることができなくて、本当に残念に思いました。(記 木原)



 「会館落成および石井先生労働政務次官就任祝賀会」

日 時 平成元年12月17日(日) 正午
場 所 市薬会館4F 講堂  出席者 約100名
1.開式のことば  藤原専務理事
2.主催者挨拶

市薬会館落成祝賀会

 会長挨拶     古賀市薬会長

 昨日はこの会場にたくさんの対外的お客様をお迎えし、祝賀式典を挙行いたしました。そして本日はお忙しい中、石井先生にも御臨席を賜わり、全会員の先生方をと思いますが会場の都合上、一部代表の先生方においで頂き祝賀会を開催いたしました。

 昨日もNHK福岡放送局の副局長がお見えになりましたが、医療界での薬剤師のかかわりを非常によくご存じで「何かご要望があれば、いつでも言って下さい」とおっしゃって下さいまして、薬剤師会も昔とは随分違って来たなとの思いを強くしました。

 西鉄高架のお話が来て三年余り、精一杯努力をし、限られた予算内で改築なった新会館です。「旧会館より随分立派になりましたね」と昨日お起し頂いた、たくさんのお客様からもお誉めの言葉を頂戴しました。これもひとえに先生方の御理解、御協力の賜ものだと思っております。今後この会館を研修事業や情報活動に、充分活用して頂きますようお願い致します

「写真」
「鏡開きの瞬間、おもわず目をつぶられた石井先生」

石井参議院議員労働政務次官就任祝賀会

   会長挨拶   荒巻県薬会長

挨拶  本日はこの市薬会館の落成祝賀会と一緒に石井先生の祝賀会を併催させて頂いておりますので、この会場には福岡市周辺および南部の先生方にもお集まり願っております。

 先の参院選では、先生方に大変頑張って頂き、福岡県薬は目標を100%達成、石井先生の再選を果すことができました。そして今回は労働政務次官にご就任、誠におめでとうございます。

 いま我々薬剤師には追い風が吹いておりますが、これも石井先生が5ケ年間地盤固めをして下さったからであり、私は政治というものは事実という実績の石を積み上げてコンクリートにすることだと考えます。そしてこの実績の石を作るのは我々薬剤師の役目でありこの「石」を作るために、この新会館の果す役目は大きいと期待しております。

3.石井参議院議員挨拶

石井議員  本日は市薬新会館の落成おめでとうございます。合わせて私の労働政務次官のお祝いまでして頂き本当に感謝申し上げます。又今回の参院選におきましては、全国の薬剤師の先生方がその危機感から頑張って頂き、薬剤師会単独で当選の栄を得ることができまして御礼申し上げます。

 医療法の改正でその中に薬剤師が明記され、いろいろと変化が現われてきています。薬剤師養成問題についても、大蔵省より医薬分業に関する指導者養成のための来年度予算を獲得することができまし、診療報酬改正の中での医療機関に於ける薬剤部のあり方および調剤フィーの問題も改善されるよう努力したいと思います。

 医薬品試験業務の充実と医薬分業(面分業)の受け皿作りをする上で研修制度の問題等が大きくクローズアップされている現在、そういう新しい変化に応じた立派な研修室と試験室を備えた市薬新会館の落成をみたことは、時期を得た大きな意義のあることと思います。今後はこの会館に魂しいを入れて頂き、尚一層、活動のじつ実を上げて頂きたいと思います。

4.鏡割り

.鏡割り

   荒巻県薬会長、梅末筑紫支部長
   古賀市薬会長、石井参議院議員
   倉田久留米支部長

5.乾 杯

   福岡市薬剤師会顧問  藤野義彦先生

会 館 紹 介

      〔講   堂〕

 旧会館の90uに比べて、新会館は167uとなり大巾に広くなった。又、スライド室を設置し、マイク設備等音響効果も考慮しており、従来の不備な面は改善されている。

      〔機 器 室〕

 面積は試験室103 u、機器室32u、検査室21uで、特に試験室は1.4倍の広さを確保しました。

      〔第一会議室〕

 旧会館と同じ52uの面積で、理事会他20数名の会議ができる。

      〔会 長 室〕

 玄関ホールの横、事務室の隣にフカフカのじゅうたんを敷きつめた明るい会長室ができました。少人数の会議ができる円卓も用意されています。

      〔第二会議室〕

 28uの面積を有し、各委員会の会議ができる。又、図書室を兼ねその内容を充実するとともに、会員の自由な利用を望みたい。

      〔事務室〕



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   −鳥達の身上調査−

シリーズNo.8 <ガン・カモ>

マガン  カモメと並んで冬の代表的な水鳥はガン・カモ類です。ガンカモ科というのは大きな科で、ガン、カモはもち論、ハクチョウ類、リュウキュウガモ類、ツクシガモ類、アイサ類を含みます。残念ながらハクチョウを九州で見ることはできませんので、ガンとカモの話をします。

 近年、ガンはその数がめっきり減り、夕暮れの空をカギになったり、サオになったりしてわたる光景(雁行)は九州では目にすることがなくなりました。1〜2羽でも"マガン今津にあらわる!"と新聞に載るくらいですから。

 カモはその数,種類ともまだ多く、河口や海岸で普通に見ることができます。

 ガンとカモは似ていますが、ガンの方が大きく太った感じで、首も長く、頭から嘴にかけての形も違います。

 ガンを家禽化したものがガチョウで、カモを家禽化したものがアヒルですのでそれぞれの体型を思い浮かべて下さい。

 ガンは雌雄同色ですが、カモは雄の方が様々な色彩や飾り羽をもち、きれいなものが多いようです。雌はどの種類もよく似た茶褐色ですが、これは大切な子育ての役目があるので地味な装いになっているのでしょう。

マガモ  カモは住んでいる環境により淡水ガモと海水ガモに、また、採餌方法から水面様採ガモと潜水ガモにわけられます。水面採餌ガモは水草を食べるため頭を水中に入れて、逆立ちの格好をよくしますが、体全体を水中に入れることはありません。足は体の中央についており、地上も上手に歩きます。

 潜水ガモは足が体の後方についているので、潜って進むには都合がよいのですが、地上を歩くのは下手です。

 淡水ガモ(水面採餌)の例:マガモ、カルガモ、コガモ、オナガガモ、ヒドリガモ、オシドリなど。

 海ガモ(潜水)の例:ホシハジロ、キンクロハジロ、スズガモ、ホオジロガモなど。

 福岡市内の探鳥地:今津海岸、和白海岸、海の中道海岸、室見川河口、多々良川河口、大濠公園など。
                           (九大病院薬剤部 野仲範子)

 <会員のひろば> 「卒 後 四 十 年」

雑餉部会 薬局ハルズミ南福岡 堀江 秀男

 還暦会員との指名で寄稿依頼されました。自宅に帰ると解放感から虚脱状態になるので調剤室にて筆をとることにした。合間合間の綴り方なので拙文で容赦願いたい。

 新年号なので私なりの抱負でもと考えたが自信なく、首題の通り私事で誌面を汚しますのでお気軽にお目通しの程を。

 人生50年時代では還暦は大きな慶事であったと思うが、人生80年時代の長寿社会の現在ではピンとこないのが実感である。昔日の還暦祝の様式を想像するが故かも知れない。

 日頃客や患者に75才までは現役ですよと言っている手前余り意識してない積りである。しかし時に人様から少々若く見られるせいか、自慢気にあと何年で還暦ですよと口走ってきた所をみると矢張り年令には勝てないのであろう。

 私の父は東京高田馬場(早大のそば)で戦災に会うまで30年開局していた。 その薬局で出生した私は調剤室の裏手にある6畳程の薄暗い部屋で小学校卒業まで過したのである。その調剤室は仲々立派なものであった。店の中に床上げして家を造った感じで、ニス塗りの木枠は柱になっていて飾り彫刻まであり、重厚で且つ権威のあるものであった。多くの硬質装置瓶と白い陶器の筒型軟膏ツボ、調剤台横に体温計検査器等があった。自家調剤の感冒薬が良く売れていたらしく薬包の加勢をよくさせられた記憶がある。当時店頭で忙しそうに働いていた母も今年89才になり腰下肢が衰弱、現在寝たきりの自宅療養の身である。

 薬専(最終回)卒業と同時に、在京就職を父が許さず父の転勤先大阪に引き戻され、メーカーに入社し半年後福岡営業所開設のため博多に転勤してきたのが昭和27年である。当時福岡市の人口は32万程で、岩田屋の屋上から眺めると猫の額位の街並を眼下に見て驚いたのを思い出す。時まさに石炭は"黒ダイヤ"と言われ、筑豊炭田全盛時代で大変な景気であった。中洲の中央通りは両側に外車がズラリ列をなしていた、炭鉱の重役連中の夜の出張である。 当時医薬品需要も急速に拡大し、三井三池、三井田川、製鉄夫々の病院の薬品入札量が九大病院の3〜2倍であるからお分かりと思う。恐らく炭鉱夫の腰痛、腕痛等に湯水の如く静注鎮痛薬が使われたのであろう。

 昭和31年にプロパーからオーナーに転向、極々小資本で駄菓子屋に毛の生えた様な薬局を開業したがサルファ剤、クロロマイセチン全盛期で結構繁盛したものである。手吊げ金庫の売上金で近郊の土地を求めに行ける程であった。無論当時は土地投資等も余りなく地価は安価で、坪500〜3,000円位で住宅地が手に入った時代である。

 それから34年間倒産もせず薬局経営を続けてきたが未だ夢が現実にならないのである。その間多くのことをトライしてきたが結果は決して看んばしくない。従業員を30入程雇用し直販化粧品メーカー、入手不足時代にはとアパート経営、博多駅周辺道路開通のための店舗移転、乱売時代の多店化指向で支店開設etc.45才までは何かやらないと気が済まない状態で、思えば行動する、不用意さとあつかましさ、若さの血気が斯くさせたものと述懐する今日である。

 48才で博多支部長を皮切りに10年間薬剤師会に参加し無能の私にも多くの先生方と接する機会に恵まれ勉強させて頂いたこと感謝に耐えない次第である。

 2年前退役させて頂き少々留守勝ちの店舗の確立に私なりの使命感をもって業務に専念している。

 私事ばかり連ねたので少々主観を述べさせて頂きたい。申す迄もなく社会環境は目まぐるしく変革している。情報産業、ハイテク等過去姿なきものがトップ産業となっている時代である。吾々薬剤師は人間の生命に関る薬剤が中心の職業であるので同心円的に整備拡充する以外に発展は望めない。徐々に医療も変ってきている、本年は基準薬局(家庭薬局)として整備し地域医療の枠組に入らねばならないし、国立病院の処方反応需も薬剤師の面子にかけても心して実施せねばならない。

 国民の多くから薬剤師としての認知が薄弱であり、薬局,薬店の区別も不明である。薬剤師のいる薬局という看板を出したらとの笑話もある。調剤のみの薬局は別としてOTC薬業薬局の型態にも問題がある。

 大型店化ということで生鮮以外の何んでも扱う店が薬局と名づければ国民はいよいよ薬局がわからなくなる。薬局は少くとも50%以上を医薬品、調剤室、待合所の部分とすることを長年希望してきたが日薬とて考えていない。その大型店が年商3億,5億と耳にする。薬剤師は医療人となるか企業人となるか、上手に両立させ得る器用な人は良いが私には力もなければ資本もない。薬というハードにソフトウェアを勢一杯つけて店頭で努力してる積りがままならぬ毎日である。



 <会員のひろば> 「やったぜ 優勝!!」

早良支部 支部長 南島 敏彦

 今年の福岡市薬剤師会ソフトボール大会は記念すべき第10回大会、「よし、万年最下位の汚名返上だ。優勝をねらうぞ」我西支部は城南、西、早良の三支部の連合チーム、早速優勝にむけてのメンバー募集にとりかかった。募集前半は、自然体でメンバー参加を待っていた。しかし、誰れの申し込みもこない。「どうしよう…こんな状況では大会にも参加できない…気はあせる…もう2〜3日待ってみよう」ところが待てど何ら動きがない。

 時間がない。参加を促す方策を考えねば。そこで城南支部の深江支部長,西支部の吉田支部長と相談し、まとめ役に西支部の占部先生、監督を城南支部の藤野先生、キャプテンを西支部の川添先生へお願いする構想でアタックにかかった。

 ここですぐ問題が起った。最も重要な監督をお願いするはずの藤野先生が、所用で参加できないとの連絡を受け、占部先生と相談の結果、川添先生に監督をお願いすることとなった。川添先生には快く引き受けてもらえた。

 いよいよ最強選手と強力応援団をお願いする手はずは整った。数日後、占部先生の指導のもとメンバーが決まりつつあった。順延前のメンバー募集にくらべ、今回のメンバー募集は苦労の連続である。いよいよのときは、ロートル群団で戦うのみだの気持でいた。

 市薬のメンバー締切りを明日にひかえ、新戦力となる人材がいない。市薬に連絡を取り、1日メンバー表提出を待ってもらった。

 最下位が頭をよぎった。最終の詰めで深江支部長より強力な新戦力の推せんが、また、江頭早良部会長より強力な新戦力の推せんがあった。「これで最下位はなくなった…3位かな…いや、優勝決定戦に出場できるかな…もしかしたら優勝だ」と心で叫んだ。

 その他の手配も終了し、静かな大会前の数日を過ごした。あとはソフトボール大会に全力でのぞむだけである。当日がいよいよやって来た。空は青空、今日は最下位脱出と気弱に会場の武田薬品グランドヘと急いだ。7時には現地に到着したが、グランドの門は閉じたまま、「早すぎた、佐々木小次郎と同じだ。やっぱり敗れ散る運命にあるのか」と一瞬心の中をいやな予感が走りぬけた。

 開会定刻が近ずくにつれ、その予感はふきとんだ。新戦カメンバーが若い。その上運動神経にすぐれていそうだ。練習を見学していると、バッテリーが……この時点で、今日はいいところまで確実に進出できると確信した。

 いよいよ試合開始、西支部はBパート、対戦相手は東支部と中央支部、我西支部は2試合目東支部との対戦、この対戦が今日の運命を左右する重要な戦いである。選手も応援団も例年になく真剣そのものである。

 この重要な試合に、からくも勝利をおさめた。この試合での選手の活躍を目の当りに見て、優勝を意識し応援団にも活気が出てきた。3試合目、中央支部との対戦は、前半ぬきつぬかれつの接戦を演じ「もしかしたら…」と不安になった。しかし、選手の顔色をうかがうと落ち着いたもの。終ってみると大差の勝利。目標の優勝にチャレンジできる。

 昼食は禁酒。午後「さあ、優勝戦!!」選手、応援団とも力が入る。対戦相手は昨年も優勝している強カチーム勤務部会。試合は勤務部会の先攻で始った。勤務部会が点数を入れ先行すれば、その裏すぐ我西支部の選手は取り返す。決して負けてはいない。

 9対9で迎えた6回の裏、大砲の辛島選手がこの日5本目の文句なしのホームランを打ち、ついに勝ち越した。7回最終の守りにつく選手は優勝を意識し、また応援団も同様で、プレッシャーに押しつぶされる様な雰囲気であった。ウイニングボールが江頭一塁手のググローブにおさまった時、勝利を確信した。

 「ついにやりました。優勝の二字を!!」

 幸か不幸か優勝を目標にビール,酒をたしなむことを禁止された選手の皆さん、ご苦労様、心からおめでとうの言葉を送ります。最後に、優勝するまでには多数の先生に御協力いただき感謝にたえません。

 もう一度 「やったぜ、優勝!!」



 <会員のひろば> 「晴のち風雨の大雪山系」

名島部会 タカラ調剤薬局 満園 忠治

 夏の暑い盛りの8月、福岡より空路北海道へ。涼しく快適で食べ物の美味しい地へ逃げれるとあり、家族を初め私を知る者の羨望の的になりつつ機中へ。でも今回の山旅は定宿よりの日帰り登山ではなく、テントを初め衣,食三点セット持参の行動ですから皆々が想像するほど決して楽な山旅ではありません。

 せっかく北の大地まで出向くなら、その大地にテントを張り、満天の星を仰ぎつつの幕営も楽しかろうとの発想であります。従って3泊4日の旅の中で宿泊を確保しているのは到着する日のみであり、時間に束縛されない気ままな山旅になりそうです。

 防寒用の衣類、身廻り品,食料を詰め込むとリュックは今にもはちきれんばかりである。肩にずっしり重さを感じ、したたり落ちる汗もかえりみず、ただひたすらに喘ぎ喘ぎそれらに耐えて黙々と歩く様は自分のしている事とは言え不可解な行動である。でも四季を問わず自然は常に新鮮に私を包みこんでくれ心新たにしてくれるのです。何時ものことながら登坂中の苦難はすぐに忘れ去られ、次はあの山にもと夢をふくらませてくれるのです。

 千歳空港より当時の国鉄で旭川へ。旭川より路線バスにて層雲峡まで約2時間。考えれば長い道のりである。山歩きのあとまたこの道を乗り継ぎ乗り継ぎ帰路に着かねばならないと考えると多少うんざりです。層雲峡に夕刻到着。部屋の中とは言え肌寒さにセーターを取り出し、明日に備えてリュックの整理をする。早々に温泉に入り夕食を済ませる。山登りで最も気がかりなのは天候である。雨ともなりますと遠くを望むことも出来ず楽しさは半減します。でも明日の天気は問題はなさそうではやる心をおさえて床につく。

 北海道の山々は本州の中部山岳地帯の3千m前後の雄々しい岩峰、岩稜は少くなく、おおむねなだらかに裾をひいた山容である。北海道の最も高い山でもこれから登ろうとする大雪山系の旭岳の2,290mが最高峰であります。そう余り高くなくどっしりと重量感に満ち、おちつきはらった山々にまた北海道らしさを感じとることが出来ます。

 またこれらの山には熊が生存することでも有名です。思い起こしますと1970年の夏、福岡大学ワンダーフォーゲル部が日高山系でキャンプ中にヒグマに襲撃されたことかあり、また数年前札幌の高層ビルの立ち並ぶ周辺に親子グマが出没したとの新聞記事を読んだ記憶もあります。

 この事実は裏をかえせば、北海道の自然そのものにまだまだ原始的で探険的要素が残されている証であり、自然をこよなく愛する山岳人にとっては至上の喜びとするところです。我々がこれから縦走せんとする黒岳〜旭岳のコースは現在では熊の危険性に直面することはなさそうですが、かつてはここらあたりにも生存したと印されております。

 層雲峡よりロープウェイ、リフトを乗り継ぎ降りたったところはもう黒岳7号目。入山手続を済ませ、さあスタートです。快晴とまでは言えなくともまずますの登山日和です。

 緑濃い針葉樹林帯、ダケカンバの林を歩き抜けると黒岳の頂上。広大である。平野部もそうであったがここには天を突く岩峰、岩稜はなく山容は穏やかで広々とした高原である。雲に見え隠れする山あいの雪渓が時に太陽に輝き目を奪う。同行の我が子(当時小学4年)がシマリスをみつけ手のひらにお菓子をのせて招くと恐れる様子もなくそれをついばむ。シマリスが沢山いるとは聞いていたもののこれほどまでにも人なつこく近づくとは。

 黒岳より黒岳石室へ。ここには山小屋とキャンプ場があり多くの山人はここにテントを張り、ゆっくり高原の味を満喫するのですが我々は一気に、いわゆる表大雪と呼ばれる北海道より旭岳を走破することに決めた。お花畑と雪渓を楽しみながら道む。おおむねなだらかで急登はないものの、いつになく背中の荷物の重さが気になる。右手には火口原の茶褐色の御鉢平が異様な感じで広がっている。この火口原の御鉢平は有毒ガスを発生させ、かつてはキタキツネ,ヒグマなどが死んでいたと記されている危険地帯である。

 その御鉢平をとりまく山々の景観を楽しみながら砂礫上を歩くと御鉢平に別れを告げる間宮岳山頂。この辺りより雲の動きがにわかに早くなり風も強く吹き初め、寒さを感じる。突然に大粒の雨。立ちどまったらずれ落ちそうなガレ場にリュックをおろし、雨具をとり出している間にもうずぶ漏れ。横なぐりの強い風雨にガスも出て来て視界はゼロ。五里霧中とはこのことか。山行で最も苦しく辛い時である。道標も歩路も判別しにくい。ただ頂上方向に歩くのみ。強風と雨で息がつけなく、体も徐々に冷えていくのを感じる、寒い。急登に雨をしっかりふくんだ砂疎に足をとられて歩きづらい。雨に漏れたリュックも更に重さを増し、容赦なく肩にくい込む。山歩きで雨は避けられないもののやはり天気にこした事はない。

 果てしなく広がる峰々を眺めながら歩くのが山歩きの醍醐味です。それが不可能な今、気はふさぎ萎えていくのみです。本来ならば、大雪山系でこの附近が最高に眺望の良い位置で十勝連峰を初め、北海道の主要な山々が一望できるはずである。この雨とガスではそれらの片鱗さえ見せてくれません。

 唸りつづける風雨は更に自分自身を寡黙に追い込む。必死について来る我が子を時々振りかえる。ガスの中で何かを訴えようとする目がうつろである。がんばれ!!歩けど頂上らしきところには行きつかない。あとは己との壮絶な戦いしかない。

 本によればこの間宮岳より旭岳山頂に至る急登はその長さ、きつさから言っても最も難儀なルートであると言う。それに加えてこの風雨ですからその苦しさ辛さは計り知れません。年中山歩きしている一度や二度この様な経験はするもののやはり雨はイヤです。

 時計を見る余裕すらなくまたどれほど歩いたか記憶も定かでないまま進んでいるうちに高台らしきところにたどり着く。山頂の標識をやっとの思いで捜し求め確認する。もちろん展望皆無。無念。

 寒さと疲労の為に早々と下山開始。風雨は一時期ほどの壮絶さはなくなったものの相変らずの濃いガスである。下りとはいえ相変らず足場の悪いガレ場と疲れで足もよろめきがちである。苦しみと忍耐を強いられつつ旭岳登山ロヘたどり着く。その頃は今までの強い風雨は嘘みたいにやみ青空がのぞいているではありませんか。思い出せば苦しい一日でありました。しかし、最悪の気象条件の中を歩き、それを克服したそれなりの充実感もあり、決して忘れることの出来ない山行でありました。
             (昭和59年8月)



 <会員のひろば> 「健康フェスティバルに参加して」

原部会 西岡薬局 西岡 啓子

 "大正漢方胃腸薬""カコナール"等々、漢方処方薬のコマーシャルがさかんに流される昨今。漢方薬は薬局にはなくてはならないものになりました。薬価に掲載されてからは、病院でも処方されるようになり、ただでさえ大きな薬袋に拍車をかけています。又、新薬のごとく包装された漢方処方薬は、漢方の知識がなくても売れるようになりました。

 そんな漢方薬を、時代錯誤と頑なに排除してきた我薬局でしたが、店主のこだわりにも係りなく、いつの間にか店の棚には何種類もの漢方処方の商品が並んでいます。

 そろそろ漢方に対する考えを改めなければと思っていた矢先の健康フェスティバルヘのお誘い。「とても相談にのったりなんて」と一度はお断りしましたが、「勉強と思って気楽に」という南島先生の一言に、この日の出勤となった次第です。

 会場に着いてまず驚きました。すでに、会場は整えられておりました。漢方生薬のサンプルがずらりと並べられ、処方内容が一目でわかるように図示され、とても丁寧な陳列がなされていました。前日に有志の先生方で準備されたとのことでした。もちろん、薬草茶の用意もできていました。一日掛かりの仕事だったろうと思います。

 同じ薬剤師会員でありながら、不平も言わず、薬剤師の地位向上のためにがんばっておられる先生方を目のあたりにし、白衣一枚を手に、しぶしぶ出勤した自分を恥しく思いました。

 会場には二百人程のお客様が、入れ替り、立ち替り入場され、薬草について熱心に聞いて行かれます。薬草への関心の高さを再認識させられました。「このフェスティバルを人に聞いて、ずっと待っていたんです」という糸島から来られたおじいちゃんがいらっしゃいました。もちろん満足出来る助言は与えられませんでしたが、詳しくしたためられたパンフレットをお渡しすることが出来ただけでも良かったと思いました。久し振りに、商売ぬきに人に喜ばれる心地良さを味うことが出来ました。

 薬剤師会会員になって1年半。先輩の諸先生方を見習って、私もがんばらねばと痛感させられた一日でした。



 <フレッシュさん紹介> 「大 橋 駅 に て」

南区 中村病院 銭本 美知子

 最近、通勤途中のバスの中で朝と夕方、大橋駅にできる人だかりに目を奪われる様になりました。ある日、途中下車をして興味津々その人だかりに近づいてみると、私の足元にピンクのリボンをした小犬が現われたのです。

 私は思わず、「きゃ、かわいい」と抱き上げ、更に人だかりに入ると、リヤカーと自転車をくっつけた乗り物に十数匹の小犬や小猫(それら全部にいろんな色のリボンをして)が、人にじゃれついたり、仲間同志で遊んだり、まるで動物の幼稚園を見ている様でした。

 (捨てられたのかな、可愛いけれど家にも猫が2匹いるので飼ってあげれない)とその場を立ち去ろうとすると、突然、「マツゴローだめ!いたずらしちゃ」と、おじさんの声がしたのでその方を見ると、その中の1匹の犬が近くの花屋から売り物の花を1本口にくわえてとことこリヤカーに戻ってきたのです。

 「人にもらわれて行くのに、名前付けているなんて変わってますね」と、隣りにいた女性に思わず言ってしまったところ、その人が、「この犬と猫、この人のペットで平成2年の5月から5ケ月間かけて北海道のムツゴロー王国に歩いていくんですって。

 このリヤカーで全部を連れていくので協力と共にカンパをお願いしますと、そこに書いてありますよ」と教えてくれました。その日は、世の中には変わった人もいるのだと思いながら、少しばかりのカンパをしてそのまま帰りました。

 しかし、毎日バスの中からその小犬や小猫を見ているうちに、野次馬根性のある私は、動物を連れて北海道にリヤカーで行くという途方もない計画をたてているおじさんに、話を聞いてみようという気になったのです。おじさんは初対面の私に気軽に、自分は2級の身体障害者証明書を持ち、生活保護で暮らし、親しい人も身近におらず、ふとした事から野良の動物を飼い、そのペットたちが次々と自分達と同じ境遇の犬や猫をくわえてきて「いつのまにか十数匹にね」と話してくれました。

 しかし、ここではそんなに多くを飼っていける場所もないし前々からムツゴローさんの生き方に共感を覚えていて、いつか、広大な北海道で人間も動物ものびのび暮らしたいと思っていたそうです。

 一番驚いたのは、十数匹いるとえさ代も相当かかる為、自分は1日1食で食べたいものもあまり食べず、その分を動物たちに与えているがその事は全然苦にならず、むしろ楽しいし生きがいでもあるという事でした。

 子供もいない私が言うのはおかしいかもしれませんが、子供に出来るだけ良い環境を与えてやりたいという親心の様なものかもしれません。それを聞いた時は、(この人は本当にペットとしてではなく家族の一員として動物たちを愛しているのだ。動物と共に生きているのだ)と、もう何も言えずこみ上げてくるものがありました。

 自分の夢を実行しようとして頑張っているおじさんを見て、私も信念という程大袈裟なものではありませんが、日進月歩していく薬業界についていける様、常に向上心を持ち続け、薬剤師としての任務や患者さんたちとのふれあいなど、微力ながら医療に貢献できる様、頑張って行きたいと思います。

 おじさん、動物くん達、ファイト!
       (S62年 第一薬科大学卒業)



 <余 滴> 「会 長 の 御 奥 様」

 会長の御長男の結婚披露宴が、先頃市内のホテルで行われた。御招待にあづかった女性軍は、これ見よがしにお召かしし、競って集うのが世の常である。

 色とりどりの野鳥の群の中にあって、丹丁鶴のように衆目を集めた美人が居られた。 その方が会長の奥様である。

 ドラマ「代議士の妻」では、代議士は東京と地元をしきりに往き来するので、東京では身辺のすべてを美人の秘書にまかせていて、地元に於いて妻は、次回の選挙で主人が「再当選を果たすように」ひたすら励むとなっている。

 ところが会長の奥様は
「この次また会長に再選されでもしたら…、私は、知りませんけんね」
今日は、会長の奥様ゴキゲンななめ

 「三津家さん…、大体ですね、ウチの主人(会長)は、薬局(くすり屋)には向いていないのですよ。学校のセンセイか、そこらの役人にでもなっといた方が良かったのです。ミチを間違えとります。商売が全く苦手で…、三津家さんあなたも同じですよ。あなたも全々商売だめでしょうが」

 「ハイ、わかりました」
またゴキゲンのいい時に出直します。

 古賀会長の御一家は、会長の御両親揃って健在、鳥飼総合病院の理事長90才。福岡大出の医師(長男)、福岡歯大出の歯科医師(二男)、第一薬科大出の薬剤師(長女)。

 所謂、今はやりの三師会を一家で形成し、外では厳しいが、御家庭では不思議にやさしい御主人(会長)に囲まれた女王蜂様。

 「三津家先生、主人がいつもお世話になっております。先生も大変ですね。奥様によろしくお伝え下さい」

 「ハイ、ありがとうございます」
これが会長の奥様である。

(記 会長のお店のとなりの大濠薬局)



 <部会紹介> 「博多東部会の紹介」

博多東部会長 泣Mオン薬局 鶴原 潔

第1章 プロローグ

 平成元年12月2日午前10時すぎ、博多区冷泉町1番11号(有)ギオン薬局の電話が鳴った。私はすかさず受話器を取り上げ、「はい!ギオン薬局です。」と答えた。電話の相手は、「薬剤師会の……」まて、この声には聞き覚えがある。私の頭の中では、この声の主をインプットされている数多くのデーターの中からサーチし始めていた。すぐに回答が出る。○○薬局の△△先生に違いない。「薬剤師会の△△です」 予測は適中した。しかし何故△△先生が私に電話を……?

 「市薬会報の原稿をお願いします」 「□□薬局のxx先生にギオン薬局に頼めば書いてもらえますと云われました」 「えっ−、xx先生に?」

 ちなみに□□薬局とは、はっきりとは申しませんが、西新(藤崎)の商店街の中にある薬局で、他にJR博多駅の朝日ビルの中にもまた雑餉の方なんかにも店があります。確か頭文字がAFだったですネ、はっきりとは申しませんが。ついでに○○薬局は、月隈の方にあって、はっきりとは申しませんが、薬局名を日本語に訳すと都市薬局とでも表現するんでしょうか。

 とにかく無理やり原稿を書くことに同意させられました。では本論に入ります。

第2章 博多東部会紹介

 「博多東部会JR博多駅より北側、呉服町の旧電車通りまでの間の13の薬局にて構成されています。以前は18薬局だったのですが、昭和62年迄に、2薬局が閉局、そして同年4薬局が博多南部会に編入となり、翌63年に1薬局が新規入会し現在に致っております。

 13軒中調剤薬局が10軒を占めています。FAX導入薬局の数は3軒。近々導入予定が1軒。国立病院の処方せんの件もあり、この際博多東部会の先生方是非FAX導入をお願いします。部会長の部会内連絡がすごく楽になりますので。

 部会活動としては、原則として年2回会合を開いております。全員の先生方が集まるという訳にはいかないのですが、5〜8人ぐらいの先生方には出席していただいてます。

 市薬の催事に関しましてもすごく協力的で前回の石井選挙においては、後援会員獲得100名以上の薬局が13軒中10軒にのぼるなどがんばってもらっております。

 我々あっての薬剤師会です。博多東部会あっての市薬剤師会です。今後とも、博多東部会、がんばります!!

第3章 エピローグ

 原稿を書くのが大好きな先生方、○○薬局へ御連絡を。
 原稿を書くのが苦手な先生方、朝の電話に御注意!!

(今後、原稿のお願いは、夜の電話に致します!!  編集人)



 <トピックス>

市薬 学術委員会

 下痢に於ける経口輸液療法の現状
 <脱水の予防及び治療に穀物を含む経口輸液はいかが!>

 我が国では、脱水症の予防、治療に主に経静脈輸液を用いている。 WHOやユニセフでは、母親に対し下痢に関する教育や脱水予防の為に、経口輸液の普及に努めてきた。経口輸液法の原理は小腸上皮細胞の刷子縁に存在するブドウ糖、あるいはアミノ酸、ペプチドの共輸送体を介してナトリウムや水の吸収機構を利用したものである。長年ブドウ糖をベースとした経口輸液が用いられてきたが、最近では澱粉(多糖類)、蛋白質、特に穀物を利用した経口輸液が普及して効果を上げている。例として、ブドウ糖ベースに比べ穀物ベースの方が体液の喪失を軽減し下痢の期間を短縮する報告がある。

 経口輸液の組成

図表

 以上、穀物を利用した経口輸液は生理学的に優れ又経済的でもあり、しかも家庭内で容易に作れる点て有効な治療法といえる。但し消化酵素の発達が未熟な乳児や慢性化した下痢の為、小腸粘膜が強く障害された症例には経静脈的な治療が必要である事は言うまでもない。
 医学のあゆみvol150No.12 1989.9.16.P782

 たばこと薬のかんけい

 喫煙により薬物の代謝が促進され有効な薬物血中濃度の持続時間が短縮される事がある。報告されている薬物は、テオフィリン、リドカイン、フェノチアジン系薬剤、ベンゾジアゼビン系薬剤、三環系抗うつ剤、ヘパリン等である。その作用機序は喫煙が肝臓に於いて薬物代謝を促進させ、血中消失半減期を短縮し、クリアランスを増加させる為である。

 テオフィリンによる動物実験では、ニコチン含有タバコ,ニコチンレスタバコ共に血漿中濃度に於いて、「吸収は悪く、消失時間は早い」という結果が出ている。

 またシメチジンの実験では、特にニコチンによる影響で「吸収の遅延、対称群及びニコチンレスタバコ群に比べ、最高血漿中濃度の減少、半減期の延長」という結果になっている。

 現在臨床上使用されている多くの薬物における喫煙の影響が徐々に解明されつつあるが、今後、喫煙と薬の相互作用に於いて、きめ細かい配慮が必要となろう。
  最新医学44巻7号P1475



 <広 報 >「福岡市医師会アンケート調査」

福岡市医師会 広報委員会

医薬分業に関するアンケート結果をみて

 今年6月から中医協の委員長に、館龍一郎 東京大学名誉教授が就任され、日経メディカル9月10日号にそのインタビュー記事が掲載されていましたが、その中で医薬分業に関して以下のような意見がのべてあります。

 「医薬分業を今直ぐ行うべきという意見もありますが、患者の立場から言うと大変不便な場合もあります。だから世論調査の結果をみても、患者はこの制度に全員が賛成しているわけではありません。処方箋をもらって薬局に行くのは二重手間だし、薬局が遠いと更におっくうでしょう。やはり病院で薬をもらえたほうが便利なわけです。

 しかし、外国はどこでも医薬分業になっていますし、薬価の切り下げで診療報酬を調節していくことは不自然です。院内投薬は長い間の慣行ですから、性急に切り替えることはしませんが、方向としては医薬分業にもっていかなければいけないと思っています」

 アンケートの集計をみますと、現時点では院内投薬の施設の方が多いようですが、年齢的には若い層ほど、また同じ無床診療所でもビルクリニックのほうが医薬分業の比率が高くなっているようです(グラフ1と2をご覧下さい)。会員の諸先生方から貴重なご意見を多数頂きましたので掲載いたします。それらを読ませていただくと、医薬分業という制度に対して不信感,不満をもっている会員もいらっしゃるようです。館氏のインタビューによると世論調査が行われたそうですが、その結果は患者の方も医薬分業より院内投薬を希望しているとのことです。

 厚生省もたてまえとしては医薬分業を推進しているとのことですし、中医協の新会長も方向としては医薬分業をとると言明していますので、将来は医薬分業が全国的に実施されるのかもしれません。しかし医師と患者の一部が不満をもっているわけですから、今後医薬分業を推進する為には、施行するうえでの障害を1つ1つ除く必要があると思います。それらの障害を逐一指摘することは、医療の現場にいる私共にしかできません。今後も本誌でこの企画を繰返し、会員の皆様の貴重なご意見を承りたいと存じます。

 注1,誌面の都合上、同じような意見は編集委員会でまとめさせて頂きました。そのため字句等の表現が多少異なっているかもしれませんが、ご容赦下さい。

 注2,ご意見の中で「入院患者以外(外来患者)のみの処方箋使用が許可されれば、外来のみ分業したい」というご意見がありましたが、入院施設をもっている施設では、入院は院内投薬、外来は医薬分業にしてもよいそうです。

図

図

現在、医薬分業の医療機関の意見
医師のメリット

@経営、税金等に関して有利である。
・経費節減に役立った。(人件費の節減)
・所得税、現在の所、特別措置法の適用で有利であり、節税対策として極めて有用。
・総収入減少による減税。
・薬価の変動に経営が左右されない。
・診療平均点数が下がり薬品の支払と合わせ考えるとメリットがある。
・薬の損害?勘定を気にしないで医師本来の医療に専念できる。
・薬の選択が自由にできるし、薬価差益を考えなくてよい。
・薬品卸問屋の支払いが激減する。
・診療科(眼科)によっては診療点数が有利。
・薬を購入してあげる収入よりも、院外処方箋料の方がはるかに利益が多い。

A事務,保険請求、薬品管理等の負担軽減
・事務の簡素化。薬品代の節約。
・保険請求が簡易であること。
・窓口の混雑防止。
・看護婦の手間が省け、その分ケアに力をいれられる。
・薬の購入、管理からの解放。

B薬局と協力してできること
・投薬処方のダブルチェックにより院内での投薬ミス等がない。
・薬剤師による薬の説明が詳しく出来る。
・医薬品の情報が迅速に得られる。
・薬剤に対する(効果・副作用等)認識がシビアになる。
・不在の折り、薬局が問い合わせ(解熱剤の使用法など)に応じてくれている。

Cその他
・薬価差益による利益の誤解解消。
・薬価改正による点数改正には煩わされない。
・薬品による差益の誤解をなくす。 ・患者の信頼感強まる。
・患者に薬の内服を勧めるとき強く言える。

患者のメリット

・患者の待ち時開が短縮。
・院内感染の危険が少ない。
・重複処方をさける事ができるので、薬漬けにならない。
・薬代と診療費がはっきりわかる。
・処方策を見れば自分に処方された薬剤名が分かる。

医師のデメリット

・患者対薬局のトラブルがあると、患者が病院にこなくなる。
・老人から薬局まで行くのが面倒だから薬を自院で出してもらいたいとの希望がある。
・受診回数の減少による検査の不徹底。
・入院の院外処方が出来ないのが不便。
・外科では自賠,労災など途中変更が煩雑。
・調剤薬局投薬150円まで薬剤名省略の制度がないので病名もれに神経を使う。薬価差収入がない。
・使用回数,量ともに少ない薬を薬局に購入してくれと依頼しにくい。
・薬剤師の薬に対する知識が充分でないと困る。
・ 時々説明で誤解を招く。
・患者さんから医薬分業の方が病院はもうかるだろう等の無理解な中傷を受けることもあり広報不足だと思う。
・総収入減による経営の見直し。

患者のデメリット

・費用の増加,時間のロス。
・時間外の場合、不便である。

医薬分業制度全般に対する意見など

・分業率1%以下。希に使用する薬(例,制がん剤)のみ処方。完全分業でなく患者の希望によって院内投薬もしている。受診者減少の様子もなくクレームも現在のところ全くない。
・現在、患者さんの希望を聞いているが99%以上が院内投薬を希望されています。患者さんのメリットを考えないと医薬分業は進まないと思います。
・最初は節税と人件費節約を目的として分業を始めたが、薬品購入の面倒さがない、調剤を薬剤師にまかせる安心感など、分業本来の利点に満足していて特別措置がなくなっても続けます。患者さんにとっては多少の不便さはあると感じていますがプラスの面もあると思っています。
・医薬分業は経済的にはメリットなし。経済的には薬価計算や明細書記入の煩わしさからは解放されるが、処方箋を書かねばならないのであまり得にはならない。薬局をつくらなくてよいのは得。
・医師の投薬(院内)に対してあまりにも薬剤師の点数のとり方が烈しく、医師会も強く無茶な点数のとり方を是正するよう注意すべきである。時には収入にて医師より点数が高い場合あり。
・薬が処方箋で薬局への往来がいやで不評だとの患者さんからの忠告を耳にする。自家ビルなので雑居ビルとして薬局を入れたいと考えている。厚生省も分業推進論と聞く。医師会も強力に援護してほしい。
・最初経費を減らすために行った白色がなくなったので、その方のメリットはなくなった。現在はその惰性で行っている。

医薬分業をしない医療機関の意見

@薬局の問題

・近くに調剤薬局がない。
・周囲に適当な土地、建物がない。
・対応できる薬局は少ないのではないか、薬剤量が多数のため。
・一医院一薬局では薬局側の経営が立ち行かない。
・自分の薬局を作りにくい為。
・処方投薬の微調整がやりにくい。
・調剤薬局の薬剤師の性格が悪かったら誰も行かない。
・当院のみの処方箋数の医療機関で薬局を設立するには地理的に困難と思われる。
・漢方薬を専門的に投薬する薬局がない。
・薬局を完全には信頼していない。
・院外処方で処方内容通りの薬が投薬されるか否か不安(同一薬品で二流品を使用される事が考えられる。)
・薬局とのトラブル。
・処方箋を発行したとき、指示薬(例えば抗生剤)が薬局(不特定)にないとき勝手に他剤を投薬したことがあり、院外処方を取りやめている次第。
・政治的規制が大きい。(例えば妻が薬剤師で現在やっていても認めない。)
・薬局設置に対する規制が厳しい。
・外来患者が少なくて(一日10名〜20名)近所に共同で利用できるような医院もなし、医薬分業がなり立たない。
・医療機関と調剤薬局が将来も共存、共栄できるか見通しが不明である。
・トンネル薬局を作れないから。院内調剤の技術系の料金(乙)はなぜこんなに安いのか。息子は医学部にではなく薬学部に進学させてトンネル薬局を開設させるべし、院外処方の点数は日建て制で月額8,000円+薬価差が処方箋1枚につきあるのに院内では初診(再診療)十調剤料で高々2,000円内外である。この技術料の格差の上、更に副作用でも起これば医師側の責任である。今後査定されるとしたらレセプトの点数以上を差し引かれて、何とマイナスにもなりかねない。おかしいではないか。
・2次薬局の基準がおかしいのでは?経営上全く別なら同一敷地でも問題ないのでは?
・医師の処方通りの調剤が出来ているか?(時に薬物が違っている)

A患者にとってメリットがあるか

・患者さんに不便をかけると思われるから。
・患者サービスが低下する。
・患者の投薬時間の延長。
・院内投薬が患者へのサービスと思えるから。
・慢性疾患の多い病院で2週間から1ヵ月間、投与内容の変更のないMitte1なら意味もあるが、第一線で急性感染症,循環器疾患等短期間の中に内容を変更する必要のある医院では、投薬の内容を医師が直接説明した方が患者は安心して服用できるのではないだろうか。
・患者の経済的及び肉体的負担増大のため。
・患者側のデメリットが解消され本当に患者側に分業が理解されるまでは実施しない。
・医薬分業が患者のため、自分側のためになるものであればしなくてはいけないでしょう。患者から直接薬の相談を受けたとき、分業でない方が対応がスムーズにいくし、第一お互い迷惑をかけないですむ。
・患者の立場で考えてみる。地域的に高年齢層が多い。
・処方箋を持って隣の調剤薬局に行く姿は、現代の開業医師の側面を見ているようで何ともわびしい。
・患者さんの不満をよく耳にするし、コミュニケーションから遠く感じられる。
・患者側が今までの便利な習慣を変えられようか。患者側が先生のところで「下さい」と言った時、「当院では出せない」と言いきれるか。(老人,主婦,子供に)
・自分が患者になった場合を考えるとき、病院に行き更に薬局に行くことは時間的に非常に問題になると思うし、更に処方した薬が患者に与えられているかをチェックする時間も大変である。薬の匙加減が最も大切なことである。
・周辺の小児科医で4月分の投薬などで悪化して当方へ来院するケースなどを見ていると、患者側の立場になって思うに医薬分業にふみきれない。
・ケースバイケースで、許されるのであれば経営的に分業したいと思っているが、やはり自分が楽になるからといって小さな子供を持った比較的若い(低収入?)親達に負担を転稼するのはジクジたるものがあると常々感じているため。
・数年前に医薬分業を約3年間位実施したことがあり有床診療所のため全面分業は不可能だった。患者の負担の増大のためと、二度手間(2ヵ所に行かねばならぬ)のため、分業を患者が希望せず、処方箋交付より投薬を希望するものが多かった。また審査上、一部処方箋交付は不可との指導あり、近くの保険薬局も閉じたため現在は処方箋は全く出していない。
・薬剤師の技術料そのものが医療費自体をアップさせていると考える。大病院ならいざしらず、小規模な診療所でもそのような上のせ技術料をとる必要があるとは考えられない。あり余る負担を患者にかけ、ひいては技術料に影響すると考えられる。
・今までの慣れ。患者は当然医療機関内で投薬を希望している。
・患者の負担が増加する。

B医師の立場から院内処方にする

・患者を診療しまた病状経過を見ながら、病状に適した薬剤を投与しまた適宜に変更しやすいから。
・患者自身の希望,便宜とコミュニケーションが得られる。
・院内投薬が最も確実であり、且つ患者さんも安心して服用ができ、便利である。
・医者は患者を常に念頭に考えて、自分で薬室?を見て投薬すべきである。
・診療,診察,投薬の一貫性が必要で望ましい。
・患者からの情報フィードバックが受けやすい。
・医師と患者の信頼関係において。
・患者さんと医療機関との分離。
・(出しっぱなし)無責任で金儲けばかりを思わせる。
・医学教育の原点に従って、医療を行いたい。分業すると医学基盤のうすい医療技術者となる可能性がある。
・「家庭医」的機能が望まれる時代に果して分業がいいのか?
・医師の権利を放棄するものである。現在行われている分業は経済的な理由によるものと思う。
・医師本来のあり方から見て分業を行うべきでない。当院はしっかりした病院、薬剤師2名により厳重管理されているのでその必要を全く認めない。
・単に経済的理由(実際は大部分がそうだが)で医薬分業をすべきではないと考えます。
・ダブレット投薬だけなら分業不用。
・責任を持って自分で処方投薬できる。薬の成分,薬理,効果が判定できる。
・救急病院で時間外等出来ない。
・船員出航の場合、時間がないため医薬分業により薬局に行くのは不可能。
・産婦人科では時間外,休日お産あり。かなりの数に昇りますので院内投薬の方が便利です。
・当院は精神科専門のクリニックであり、患者のプライバシーの面から医薬分業は行わない方針である

C院外処方は却って不便ではないか

・却って煩雑になる。
・院内処方が簡便である。
・院外処方を書くのが煩わしいから。
・便利さがそがれる→患者の減少→変化を求める力がない(それ程弱ってきている)。
・医薬分業はよく分からない。
・なんとなく馴染めない。
・老医になるといろんなことをするのもおっくうです。
・医師側,患者側両方共に院内処方が便利だと考える。

D経営面からみて院内処方にする

・在庫薬品の問題。
・薬価差が以前に比し、少なくはなっているが未だ利益が望めること。
・医療経営が薬価差に頼っていたり、外来患者の傾向に向かっている情勢では節税より少ない薬価差でもしがみついていかない?のではないか、第二薬局でも作る力のあるところは別であるが。
・分業によるささやかな薬価差の減少。
・医師,患者にとって経済的にまだメリットがあるから。
・未だ借金があり、総収入を増やさなければならないから。
・減収となるので行わない。
・経営資金繰りのため。
・税制の今後の変化が分業するメリットがなくなると思う。
・青色申告となるため必要なくなった。
・5,000万円以下の特別措置法がなくなった場合、経費がほとんど算定できなくなる。
・白色より青色申告にした為、有利。
・内科,小児科で今年度より青色申告である。「分業にすると経費が無くなる」と思われる。
・経費に対する薬品代は10%程度であり目下問題はないと考える。
・開業以来青色なので5,000万超の件は考えなくていい。
・患者数の減少しつつある特に内科は、分業は無理。医師会は分業のみにこだわらず院内投薬も援護すべきである。
・潜在技術料の薬価差益の採算がとれるまでは分業しない。
・患者さんの多くは慢性疾患(高血圧,糖尿病,甲状腺疾患,肺結核など)月1回〜2回となり処方箋のみでは多分経営上、支障のでる心配がある。
・借金を背負っていて、やはり水揚げが少しでも多くしたい。(対BANK)

Eその他

・薬剤師(4名)在職し、将来的に永年勤続可能性大なるため予定ありません。
・多数の入院患者がいるので。  ・病院となり、薬剤師もいることで入院患者への投薬のため。
・漢方薬のみ院外処方です。
・外来透析だけなので投薬が限定し、患者にとって不便。
・件数が少なく、処方投薬も少ないので。
・外来数が少なく、入院,労災,自賠は分業は不可能です。
・投薬料が少なくほとんどが自費診療(産科)であるのでできるだけ薬価(納入価も考慮)の低いものを使用対象としているので。
・老齢のため長期開業はしない。
・医療法人3病院の地域差がありMS法人とのからみもあり、現在のところまだ問題の処理に時間が必要。
・医薬分業の強制は絶対反対である。外人はよい制度と言っているそうです。問題の処理に時間が必要。
・地域的に見てできる状態ではない。
・時間外にならない時間外(申し込みをしていて遅れて来院)ケースが多く分業一本に絞れない。
・税制の改正により節税のため分業に走りたい気持ちはあるが踏み切れない。

Fこうすれば医薬分業を行ってもよい

・医療費の適正化を実施した後なら賛成。現在は経営赤字を薬価差益で補充せねばならない状況なので。
・医薬分業を行わないということもありません。法的に一斉に行うことになれば良いがと思います。
・当方にとってはいいことずくめですから、いっそ厚生省で強制的に行ったらいいと思います。
・地域全体例えば、隣組の医師が一緒に行える状態ができあがり、一斉にやればできるか。現在は不可能でしょう。
・医薬分業を行うなら、殆ど完全分業の方向にして下さい。消費税のもありますから。 そして分業薬局は増やす必要がありましょう。

G医薬分業制度全般に対する意見

・現在の医療問題で分業が完全になされた場合、保険経済はどうなるのか。
・厚生省の医薬分業に対する考えが不明瞭。
・調剤は本来薬剤師の仕事であり、看護婦に行わせるのは問題があると考えている。
・医薬分業でない日本的習慣が患者にとって便利と思う。
・厚生省が本気で分業を推進しているかどうか疑問である。
・医療費の配分が変わる。分業により医療費が増加する。医療機関にとってはやりかたによってはメリットがあるが、現在の日本に於て医療そのものに対してのメリットはどうだろうか。医療の核家族化は問題がある。
・日本の文化,歴史的に医師と患者は薬を媒体にしてコミュニケーションないしメンタルケアを行ってきたはずである。何も異文化のまねなどをする理由はない。

現在、院内投薬をしていて近い将来に医薬分業を行う予定があると答えた医療機関の意見

・日本の現状にそぐわない。
・入院処方の点で引っかかっています。
・手続きが煩わしい上に不合理である為、なかなか分業できない。
・分業予定なるも思案中。分業による患者の負担増。調剤薬局までの距離、方向等の便,不便。
・入院患者以外(外来患者)のみの処方箋使用が許可されれば外来のみ分業したい。
・自分名義の土地に薬局を開設できないのが大きな理由である。他人が開設するのであれば問題ないと思うのだが、制限が厳しすぎるのではないだろうか。
・医薬分業を行う意志はあるが、1人で行うにはまだ不安あり。その地区である程度まとまって行うならばできるだけ近い時期に行いたい。できたら医師会等で音頭を取ってもらいたい。
・一部分医薬分業の方が患者の為にもなり、治療の進歩にもついていけると思う。
・先端をきって実施していたが、従来の薬局を建築建替時に当局の不許可でやむをえず薬局が廃業し現在に至る。
 昭和59年9月、私の所有地とはいえ、20m離れた大通りに面した位置に薬局設置が許可。当方は経営には全く関係なく、第三者が当方に申入れて希望、開設していたが、上記のごとく建替時に不許可になった。薬局は既得権をたてに当局に迫ったらしいが、厚生省の通達一本で法律にもない事を不許可としたのは無法である。失業した薬局側も結束がなく弱腰でお上には巻かれろという姿勢。こちらが希望しても適地がないし、薬局の要望に合わない。
     (福岡市医報 10月号より転載)



 <分業推進の為のアンケート調査>

福岡市薬剤師会 社会保険委員会

 福岡市薬剤師会では、国立福岡中央病院の院外処方せん応需、又福岡市内科医会との分業推進懇談会発足等、分業推進に向けて積極的な対応、諸施策を進めています。

 社会保険委員会では、今後更にきめ細かな具体策を検討し実行に移す目的で、その活動の資料となるアンケート調査を実施しました。
( )内は市薬合計

1.処方せん応需状況について
(イ)処方せんを月平均何枚受け付けていますか。
     1.    0      (64人)
     2.    1〜10    (24人)
     3.    11〜50    (44人)
     4.    51〜100   (27人)
     5.    101〜300   (14人)
     6.    301〜500   (11人)
     7.    501〜1,000  (43人)
     8.    1,001〜2,000 (47人)
     9.    2,001〜5,000 (30人)
     10.    5,001以上  (3人)

2.処方せん調剤について
 (イ)今後も処方せん調剤を行っていきますか。
     1.行っていきたい(256人)
     2.行いたくない (39人)
 (ロ)(イ)で「2.行いたくない」に○をつけた方はその理由を下記の該当するものは全て○をつけて下さい。
     1.医師主導である、医師次第の分業           (12人)
     2.仕入れが大量でないと出来ない、無駄になる在庫が多い (20人)
     3.店を留守に出来ない                 (10人)
     4.地理的に無理である                 (11人)
     5.請求手続きが面倒である               (5人)
     6.医家向け医薬品の知識がない、勉強するチャンスが少ない(3人)
     7.0TC薬品で十分やって行ける            (9人)
     8.その他(                    ) (6人)
 (ハ)(イ)で「1.行っていきたい」に○をつけた方にお尋ねします。
 (A)周辺で(複数の薬局・複数の病,医院)面分業が可能だと思いますか。
     1.思う  (175人)
     2.思わない(79人)
 (B)現在の薬局で処方せんを受けられる設備がありますか。
     (待合所・調剤室スペース・店内配置構造)
     1.ある                  (207人)
     2.処方せん発行があれば改装してでも整備する(40人)
 (C)周辺に処方せん発行をしてもらいたい未発行医院がありますか?
     1.ある(172人)
     2.ない(80人)

3.保険薬剤師は常時何人いますか。(パートも含む)
     1.     0       (9人)
     2.     いないときもある(18人)
     3.     1人      (157人)
     4.     2人以上    (113人)

4.現在の備蓄薬品のうち内用剤の数は。
     1.     ない    (35人)
     2.     1〜20    (68人)
     3.     21〜50   (25人)
     4.     51〜100   (33人)
     5.     101〜300  (66人)
     6.     301〜500  (28人)
     7.     501〜1,000  (7人)
     8.     1,001以上  (0)

5.現在の備蓄薬品のうち外用剤の数は。
     1.     ない    (52人)
     2.     1〜20   (100人)
     3.     21〜50  (66人)
     4.     51〜100  (51人)
     5.     101〜300 (19人)
     6.     301〜500 (2人)
     7.     501以上  (0人)

6.現在主に受けている処方せんの発行医は下記のうちどれですか。
 (2つ以上あれば全てに○をつけて下さい)
     1.内科   (109人)
     2.小児科  (45人)
     3.外科   (26人)
     4.眼科   (41人)
     5.整形外科 (27人)
     6.精神科  (7人)
     7.耳鼻咽喉科(45人)
     8.婦人科  (19人)
     9.皮膚科  (29人)
     10.泌尿器科 (12人)
     11.歯科   (164人)
     12.その他  (7人)

7.あなたの薬局は「麻薬小売業者免許」を受けていますか。
     1.はい  (50人)
     2.いいえ (251人)

8.あなたの薬局は「労災保険薬局」の指定を受けていますか。
     1.はい  (52人)
     2.いいえ (238人)

9.県薬会報9月号3ページ2行目以降で書かれている備蓄代行薬局(備蓄センター代行)として薬剤師会からお願いした場合、承諾してもらえますか。
     1.出来ない                    (155人)
     2.診療科目によりしてよい (そのときの科目  科)(81人)
     3.全面的にしてよい                 (42人)

10.ファックスの設置状況をお尋ねします。
     1.設置している       (90人)
     2.必要性があれば設置してよい(124人)
     3.当分の間考えていない   (85人)
     4.その他(        )(8人)

11.国立中央病院の処方せんが発行された場合。
     1. 積極的に受ける  (147人)
     2.面倒だが受ける   (53人)
     3.受けたくない    (54人)
     4.その他(     )(27人)

12.内科医師会と分業の話が進められていますが、その話合いに積極的に参加されますか。
     1.する     (191人)
     2.しない    (52人)
     3.その他(  )(38人)

図


 アンケート調査の結果について

社会保険委員会 理事 小野 信昭

 昨年10月、アンケートの回収を行い、その集計結果が出ましたので報告します。

 このアンケートは全会員を対象に行いましたが、それは、現在保険薬局の指定を受けていない所でも、国立中央病院の処方せんが発行された場合、今進めつつある内科医会との分業問題をはじめとして、一般病医院の処方せん発行が進む場合は受入れに参加されるのではないか、また、今後は積極的に参加して頂きたいと願っているからです。

 アンケートの回収率については、保険薬局が約70%、全体では63%でした。従って、非保険薬局の回答が約50件含まれています。このアンケートで見る限りは、分業に対し前向きの薬局数が約200、歯科処方せんだけならという消極的な薬局数が約60、全く応需意志のない薬局数が約40と考えられます。

 ここで再度認識して頂きたいことは、保険薬局としての指定を受けた以上、処方せん調剤の理由なき拒否やたらい廻しは許されないということです。

 国立病院の処方せん応需は、今や至上命令です。薬剤師の職能、職責を問われている問題です。今回のアンケートで、国立病院の処方せん応需に即対応出来る薬局数は、約120となっていますが、これでは絶対数が不足すると考えられます。市薬としては応需態勢の万全を期すため、応需薬局を指定することとし、その指示パネル作成の準備をしています。そこで、各支部,各部会で内科医会との分業推進問題を含め、さらに討議して頂き、積極的参加をお願い致します。

 ファックスの設置については、その後も増加の傾向にあります(130)が、調剤の前準備備蓄薬品の管理、及び情報の伝達等必要なものでありますので、是非設置して頂きたいと思います。また、社保委員会では、コンピューターの導入によるファックス網のシステム化により、備蓄基幹薬局の有効な活用等、応需態勢の整備を進めているところです。



 <竹尾啓二先生 厚生大臣表彰祝賀会>

日 時 平成元年12月7日 午後6時
場 所 タカクラホテル

画像

 祝賀会次第
          司会 戸田常務理事

開会の挨拶     高倉副会長
発起人代表挨拶   荒巻県薬会長
来賓御祝辞     野間薬務課長
          神谷国保組合理事長
友人代表祝辞    藤野市薬顧問
記念品贈呈     高木日薬会長
          (代理 荒巻県薬会長)
花束贈呈      肥高,家永両事務職員
祝電披露      戸田常務理事
乾 杯       古賀市薬会長
祝い目出度     冨永市薬顧問、副島先生
          山手先生
万才三唱      高島慶四郎先生
閉会の挨拶     大久保先生

 タカクラホテルでの祝賀会には、県薬市薬を始め薬業各界の100名を越す先生方が出席され、竹尾先生の受賞のお祝が盛大に行われました。荒巻県薬会長は、発起人代表挨拶で竹尾先生のその真面目なお人柄を「私が会計をしていた頃は会費未納会員が多くて困ったものてしたが、竹尾先生になってからは、会費が完納されるようになり肋かりました」とお話しになりました。

 花束贈呈は日頃から竹尾先生にお世話になっている事務職員の肥高さんと家永さんのお二人から先生と奥様に贈られました。そして私も、タダで花束を贈ろうなどというミミッチィ考えからでは決してありませんが、KBCラジオの「時には花を贈りましょう」のコーナーに電話をしたら当選して、先生の奥様にお花を贈る事ができました。竹尾先生から「今日、床屋さんに行ったら、先生、厚生大臣表彰をもらったんですか」と言われてびっくりしましたよ。とおっしゃっていました。

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 私も近所の人から「KBCに電話したんじゃない」と言われ、マスメディアの影響の大きさに驚かされました。お孫さんを抱いて、お客様一人一人に嬉しそうにご挨拶をなさる奥様の姿が印象的でした。

 最後に博多恒例の祝い目出度は副島、冨永、山手三先生方で唱われ、飯塚からお祝いにかけつけて下さった高島先生による万才三唱、そして大久保先生の閉会のことばで終りました。
                 (記 木原)



 「理 事 会 他 会 議 報 告」

 〔第9回理事会〕

日 時 平成元年11月15日(水)午後7時
場 所 市薬仮事務所
出席者 古賀会長、竹尾、高倉、長谷川各副会長、藤原専務、三津家、戸田、松枝、坪根、正岡各常務、木原,高杉,南島,冷川,城戸,小野,藤田,成澤,市花各理事、日高監事

1.会長挨拶
 2月15日に引っ越していらい9ケ月たち、会館建設も予定通りでき上がり20日に竣工致します。仮事務所での理事会は今回が最後になります。いろいろな事業が年末に向け、県市とも過密なスケジュールになると思いますがご協力下さい。

2.会務報告  藤原専務理事
@第9回福岡県覚せい剤、シンナー禍絶滅県民大会について 市薬出席者 約60名
A平成元年度医薬品全国統一試験実施について(日薬)
B西日本地区給水衛生協会よりの功労者推せんについては、今回は推せんをしない。
C11月5日ソフトボール大会を実施した。

3.委員会報告

4.協議事項
@会館の竣工式および祝賀会について 竣工式 11月20日(月)午前11時 市薬会館1F駐車場に於いて
 祝賀会について
 17日に会員向け祝賀会と石井道子労働政務次官就任祝賀会を併催する。
A県薬で試案中の生涯教育については再考の必要があるのではないか。

 〔第10回理事会〕

日 時 平成元年12月13日(水) 午後7持
場 所 市薬会館会議室
出席者 古賀会長、竹尾、高倉各副会長、藤原専務、三津家、戸田、松枝、坪根、正岡各常務、木原、高杉、南島、冷川、城戸、小野、藤田、成澤、市花各理事、礒田監事

1.会長挨拶
 新しい会館ができ上がり、今日は第一回目の理事会です。内部整理も終って一応落ち着いたものと思われます。16日には今年度最大のイベントである落成祝賀会を行います。なお17日は会員向けの祝賀披露ならびに石井道子労働政務次官就任祝賀会が併催されます。理事者はお客様の接待よろしくお願いします。

2.会務報告  藤原専務理事
@アジア太平洋博覧会感謝の夕べ 11月17日 ホテルニューオータニ 古賀会長出席
A試験センター技術者講習会 H2年1月25,26日(東京) 獺越、城戸出席
B内科医会との懇談会 11月20日 午後7時 「一条」(古賀,高倉,藤原,正岡)
C福岡市学校保健大会 中央市民センター 木村英樹先生 受賞
D市医師会忘年会 12月5日 ホテル日航(高倉副会長、藤原専務)
E竹尾啓二先生 厚生大臣表彰祝賀会 12月7日 午後6時 「タカクラホテル」
F第1回健康づくり情報システム検討委員会 12月9日 午前10時 九州経済調査会会議室(古賀会長)
G「薬誠会」設立総会 12月10日 正午 「タカクラホテル」
H西日本地区給水衛生協会技術部会開催 H2.1月12,13日 日環衛生センター九州支局(坪根、城戸)

3.委員会報告

4.協議事項
@新会館落成祝賀会についての最終打ち合せ
A福薬連年賀会について
B公衆衛生協会会員募集について 市学薬の未入会員34名の入会を決めた
C協同組合について協議した

5.商組報告
 1月15日より医薬品券が発行される

委 員 会 報 告

〔社保委員会〕

日 時 平成1年11月4日(土) 正午
場 所 市薬仮事務所
出席者 古賀会長、藤原専務、正岡常務、小野、藤田各理事、入江、岩穴口、大庭、清水、川畑、鶴原各委員

1.内科医会との分業について
 @アンケートの部会単位の集計
 Aモデル地区の選定 面分業の可能な地区
 B共同研修会
 C備蓄薬品の処理方法

2.ファックスのあっせんについて

3.委託薬品の管理システム(コンピュータ)について

日 時 平成1年12月4日(月)
場 所 市薬会館会議室
出席者 正岡常務、小野、藤田各理事、入江、岩穴口、大庭、清水、川畑、山口、鶴原各委員

1.国立福岡中央病院との話し合いについて

2.内科医会との分業問題について

〔急患委員会〕

日 時 平成1年11月8日(水)午後6時
場 所 市薬仮事務所
出席者 成澤、市花各理事、竹尾、深見、馬場、打越、北島各委員

1.年末年始および12月,1月,2月分の出動者表作成

2.急患センター出動者チーフについて
 小川雅子、馬場正佳、新井光男を選出

3.新準備薬品について

4.九山学会休日急患センター連絡協議会報告

〔学術委員会〕

日 時 平成1年11月14日(火)午後6時30分
場 所 市薬仮事務所
出席者 長谷川副会長、篠崎常務、成澤、市花各理事、山田、車田、中島、久池井各委員

1.次回研修会の役割分担について

2.会館落成記念講演について

3.平成2年度学術研修会の概要について

日 時 平成1年12月21日(木) 午後3時
場 所 市薬会館
出席者 長谷川副会長、篠崎常務、成澤、市花各理事

1.新会館研修室の設備点検
 プロジェクター、映写室用カウンター、マイク、スクリーン、照明等

2.机の数は現在90名分であるが120名分は設置できる。

〔組織委員会〕

日 時 平成1年12月21日(木) 午後7時
場 所 「千太」
出席者 竹尾副会長、戸田常務、高杉、南島各理事、松井、森川、戸田、吉田、合澤,深見各委員

1.組織第2委員会の新旧メンバー紹介

2.ボーリング大会の打合せ

〔広報部会〕

日 時 平成1年11月28日
場 所 「ほり田」
出席者 古賀会長、藤原専務、木原,城戸各理事、北島委員、野仲先生

1.1月号の編集について

〔第2回会営薬局特別委員会〕

日 時 平成1年12月20日(水) 午後2時
場 所 市薬会館
出席者 高倉副会長、藤原専務理事、三津家、正岡各常務理事、冷川理事、松井、松枝、深江、南島、吉田、有田各支部長、堀家税理士

 高倉委員長挨拶
 会営薬局用の建物の管理反び購入資金の利子負担等について、一応の結論を出しておきたい。よろしくご協議願いたい。

1.管理問題について
 近い将来に備蓄センターや協同組合の事務所として使用される可能性があるので、第三者には貸与しない。警備保障会社に警備を依頼する。

2.利子負担について
 借入金の返済については、会営薬局がスタートするまで利子のみとし、その間の資金は、A会員に5,000円の負担をお願いする。



 「研 修 会 報 告」

〔漢方学術講演会〕

日 時 平成1年11月2日(木)18:30〜20:30
場 所 三鷹ホール
出席者数 79名

 演題と講師
  「不定愁訴症候群の管理医療における漢方製剤」
  近畿大学東洋医学研究所
    第一研究部門助教授 谿 忠人先生

〔学術研修会〕

日 時 平成1年11月21日(火)午後6時30分
場 所 三和化学福岡メディカルホール
出席者数 61名
     歯科医師会5名

 演題と講師
  「歯科疾患の予防と治療」
   −特に虫歯と歯槽膿漏について−
   福岡市歯科医師会 学術担当理事
    歯学博士 花田 勝正先生

県薬のお知らせ

新薬研修会について

 住吉の県薬会館で行われていた「新薬研修会」は、一月より今泉の市薬会館に場所を移して開催されていますので、お間違えのないようにご注意下さい。
 詳しい案内は、県薬会報に掲載されています。

書籍の幹施について

 購入ご希望の方は、2月10日迄にお申し込み下さい。
  「医薬品相互作用検索一覧 第2版」
  東京都薬剤師会監修
   太田区管理センター編集
  薬事日報社発行 A5判 623ページ
   定価5,000円(税込み)会員価格4,200円



 「薬 誠 会 設 立 総 会」

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日時 平成1年12月10日(日)正午
場所 タカクラホテル

来賓 医誠会会長 安部龍夫 先生
     副会長 迎 菊郎 先生
〃        茶木照人 先生

1. 開会挨拶      藤原市薬専務理事

2. 発起人代表挨拶   荒巻県薬会長
 本日はお忙しいなか薬誠会設立総会に、医誠会役員の先生方のご臨席を賜わり御礼申し上げます。先日古賀市薬会長と私は医誠会総会にご招待を受け、我々薬剤師の職能向上のためには是非とも政治力が必要であるとの思いを強くして帰ってまいりました。そして、今回の参院選で石井道子議員と同じ宮沢派ということで、いろいろと薬剤師会のためご尽力くださった太田誠一議員を御支援申すべく、今回の「薬誠会」の設立となりました。日曜日にもかかわらず、このように大勢の先生方に出席していただき本当にありがとうございました。

3.来賓挨拶      安部医師会会長
 本日は薬誠会設立総会おめでとうございます。先日我々の医誠会総会に、荒巻県薬会長、古賀市薬会長にご出席いただきまして、薬剤師会の先生方とご一緒に頑張っていきたい旨お話し申し上げました所、直ちにこのような会を設立していただき本当にありがとうございました。これからは歯科医師会の先生方もお誘いして三師会で協闘してゆきたいと思っておりますので宜しくお願い致します。

4. 議事                        (出席者51名)

 (1)薬誠会々則制定の件
 (2会費決定の件
 (3)役員選挙
   会 長  藤野 義彦
   副会長  木村 英樹  藤原 良春
   幹 事  正岡 民次  磯田 正之
        高杉 正典  木原三千代
        松枝 茂雄  三津家正友
                 (会計)
        南島 敏彦  清水 達三
        深江 暉夫  合澤 英夫
        吉田  斌  竹尾 禎二
        有田 俊雄  大久保俶住
        城戸嘉寿子  成澤 哲夫
   監 事  白木太一郎
   事務局  二宮善四郎

5. 新会長挨拶  藤野薬誠会会長
 先程の役員選挙で私に会長をやれとのご指名でございますので、薬誠会会長を引き受けさせていただくことになりました。お引き受けしましたからには、勢一杯頑張ってゆく所存でございます。先生方のご支援をお願い致します。

6.太田誠一衆議院議員挨拶
 本日は私のために薬剤師会の先生方には早速「薬誠会」を設立していただき御礼申し上げます。先ほどのスムースな議事の進行に薬剤師会の先生方の頭の良さを見る思いでございます。
 平成2年2月18日であろうと予測される衆院選は、この福岡一区は本当に厳しい状況で予断を許しません。このような時に「薬誠会」を設立していただき感謝申し上げます。

7. 懇親会      乾杯 古賀市薬会長

8. 閉会挨拶     木村県薬専務理事



 「受賞おめでとうございます」

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 「会員の移動」

図表

図表



 「会 務 日 誌」

11月4日 漢方研究会 18:30 三鷹ホール
  4日 社保委員会 13:00 
  5日 第10回ソフトボール大会 9:00 武田薬品グランド
  8日 商組福岡ブロック研習会 13:30 県薬会館
  〃  医薬品統一試験打合わせ 北九州市(城戸)
  〃  急患委員会 18:00
  11日〜12日 日薬学術大会 静岡
  13日 国立病院との打合わせ 16:00 (古賀、藤原、正岡)
  14日 学術委員会 18:30
  15日 第9回理事・監事会 19:00
  17日 アジア太平洋博覧会感謝の夕べ 18:00 ホテルニューオータニ(古賀)
  18日 薬局薬剤師研修会 13:30 県薬会館
  19日 女子薬研修会
  20日 市薬会館竣工式 11:00
  〃  市内科医会との懇談会 19:00 一条(古賀、高倉、藤原、正岡)
  〃 〜22日 事務所移転作業
  21日 学術研修会 18:30 三和化学
  25日 市薬試験センター委員会 13:00
  28日 広報部会 19:00
  29日 勤務部会例会 18:00 三鷹ホール
12月5日 医師会忘年会 18:30 ホテル日航 (高倉、藤原)
  7日 福岡市学校保健大会 13:00 中央市民センター(古賀)
  〃  竹尾先生厚生大臣賞受賞祝賀会 18:00 タカクラホテル
  9日 福岡市健康づくり情報システム検討委員会 10:00 九州経済調査会(古賀)
  10日 薬誠会設立総会 12:00 タカクラホテル(古賀)
  13日 第10回理事・監事会 19:00
  16日 市薬会館落成祝賀会 12:00
  17日 市薬会館落成祝賀会並に石井道子先生労働政務次官就任祝賀会 12:00
  20日 福岡市健康週間行事実行委員会 11:00 市役所(古賀)
  〃  第2回会営薬局特別委員会
  21日 学術委員会 18:30
  〃  組織委員会 19:00 千太
  22日 県薬支部連絡協議会  13:30
  〃  太田誠一議員講演会事務所開き 10:00(古賀、他)
  25日 社会福祉審査会 15:00 市役所(古賀)
  28日 御用納め



 「川  柳」

博多人形

zuhyou



 「編 集 後 記」

・立春を目前にし「春は名のみ〜の♪風の寒さや−♪」と口ずさみたくなっています。今号は新会館の落成を記念して「市薬会報」発行いらい初めてのカラー表紙でお届けします。

・広報でご紹介しました「福岡市医師会医薬分業アンケート」は回収率70%、市医師会の先生方のご意見が、広報委員会で大変訂寧に集計報告されていますので、せひお読み下さい。心よく転載を許可して頂いた市医師会村山専務理事と栗田編集委員長の両先生に心より感謝申し上げます。

・県薬保険薬局セミナーに於いて、厚生省代田審議官は「薬剤師が薬を独占する以上、その義務を果すべきである」と。そして日薬佐谷常務理事は、朝日新聞が分業問題を一面トップに取り上げることについて「この分業問題が日本医療のペレストロイカだからです。しかしこれが悪い方向に進むようなことがあったら、今度は薬剤師さんを追求しますよ」と言った女性編集者の言葉を紹介されました。薬剤師100年の悲願といわれる医薬分業が目前にせまり、薬剤師の権利よりも義務が、いかに大きく重たいものであるかを考えさせられる研修会でした。

・薬誠会会長を引き受けられました藤野義彦先生。顧問としてのご挨拶はよくお聞きしていましたが、久し振りに会長挨拶を聞き「藤野節、いまだ衰ろえず」の感を強く侍ちました。この藤野会長を得、薬誠会の輪がもっともっと大きく広がるよう期待しております。

(木原)

・古賀会長、新会館の建設については本当に御苦労様でした。用地譲渡から今日まで大変長い年月でしたが、立派な会館が出来上り、心からお喜び申し上げます。

・建設に際して、ある時は、我が子の成長を見守るように厳しく、細心の注意を払われ、又ある時は、お孫さんをなでまわすように眺められていたお姿がとても印象的です。

・新会館の建設が市薬の歴史、就中、市薬の起源発掘につながったことも喜ばしいことの一つです。

(藤原)

平成2年1月31日発行(隔月年6回発行)
福岡市中央区今泉1丁目1番1号
社団法人 福岡市薬剤師会
T E L 092-714-4416
発行人  古 賀   隆
編集人  木 原 三千代
印刷所  給サ英社印刷