◆ 薬の有効性について
福岡市薬剤師会 副会長 長谷川 宏 明
薬がきくとかきかないとか日常的に話されているが、ある薬が特定の疾患の治療に使われて有効であるかどうかはどのように決められるのが正しいのか、この部分についての認識が薬の専門家とされる薬剤師でさえ低いことは残念なことである。
ある薬剤を特定の疾患を持った一群の患者に投与した結果、その中の一定数の患者が治癒した時有効率何%と表現されると、いかにも治癒した患者のすべてが薬効によって治ったような印象を与えてしまうが、この%は厳密に言えばその病院で医師が行った治療の成功率であってけっして薬だけの力の反映ではない。
疾患の治療に影響を与える要因は薬効以外に患者の心理的状態・生活環境・年令・性別・思想信仰・性格・医師への信頼度等多くの要因がある。こうした疾患を治療して行く上で影響してくる様々な要因を制禦して薬効のみを浮き上らせなければ投与された薬剤の真の効果は判定できない。
特に心理的要因はストレスがその代表であるが、多くの疾患の発症に関連し、同時にそのストレスから解放されることが疾患の治癒に強く影響することは広く知られており、ストレス下の患者には薬も非常にききにくいこともよく知られている。
心理的要因以外の要因も疾患によっては強く影響している。例えば季節的要因は高血圧症やアレルギー疾患その中でも花粉症には直接的に影響しており、花粉症は季節が変って花粉が飛ばなくなれば自然に治ってゆくことは衆知のことであろう。こうした薬効以外の治療に影響する要因をまとめてプラセボー効果とよんでおり、実際にプラセボーを使った試験を行うと、多くの疾患で想像以上に治ってゆくものである。
それでは様々な要因をどう制禦すればよいのかとなるとそれは制禦不可能であるというのが現在の結論である。制禦不可能な様々な要因から目的とする要因の効果を浮かび上がらせるための研究はイギリスでまず農業分野で肥料の効果を調べる研究から始まり、その手法、方法が工業に応用され医学生物学の研究にも応用されるようになっている。
その方法はアメリカでさらに発展し、日本ではやっと昭和30年になって始められている。その方法は諸条件や要因がほぼ同じようになるような分け方によって分けられた二群の患者群に、一方には薬効を調べる薬剤を披検薬として投与し、一方にはプラセボーを投与して、同時に条件を同じにして治療を行い一定期間後に二群の間に治療の効果に意味のある差があり、差がつく要因が薬効以外にはないと考えられる時、その差は薬効による差であり被検薬はプラセボーに比べて効果があったのでその疾患に有効であると結論する方法である。
この方法は二重盲検比較試験として現在では広く行われており、その方法や評価方法は推計学に基づいて確立された方法になりつつある。また新薬の製造承認を厚生省がメーカーに与える時の必要不可欠のデータにもなっている。
疾患によってはプラセボーを投与することに倫理的な問題があり、また特殊な難病のように患者数に制約があって比較試験ができない場合もあるが、倫理的な側面は、現在では有効性・安全性が確認されている薬剤が多くなったことからこうした薬剤を対照薬として比較してゆく方法がとられ、プラセボーを対照薬とすることは少なくなっており解決されつつある。
最近の新しい薬剤では膨大な量の動物実験をはじめとする基礎実験で薬理作用や毒性についての試験が行なわれているが、その成績は有効性と安全性を推定する根拠とはなっても、人間である患者に投与した時の有効性と安全性の最終的な根拠とはなり得ない。
薬の専門家である薬剤師は、薬は有効であるはずだと言った固定観念に囚われることなく、その薬がどのような試験によって有効とされているかを確認すると共に、医学・薬学の進歩に応じて常に新しい目で薬を見直し、その時々に最も有用な薬剤が患者の治療に使われるための努力を怠ってはならない。
◆ いよいよ開幕 よかトピア!
よかトピア実行委員 藤 下 修
すでに、会報25号で公式発表?されているので、今回は、私見を混じえて、「健康
いきいきドーム」のご案内を・・・。
まず、パビリオン本体。東京ドーム、そしてダイエーホークスのツインドーム構想
と、最近、エアドームに対する関心は急速に高まっている。内圧を高く保ち、建築物
をささえる構造は、まさに"生きている建物"という表現がピッタリという。さあ、
あなたもよかトピアでエアドームを体験してみよう。
若い人たちのライブや、コンサートでは、聴衆が総立ちでショーに参加している。テ
レビでも、クイズ番組など一般参加型のものも多い。このパビリオンのメインの一つ、
双方向シアター(電通)も、子供たちが、単に受身でアニメを見るだけでなく、その
ストーリーを自分たちの好みでスイッチ・オンし、選択決定できるようにつくられて
いる。パビリオンなど、特設スタジオでなければ不可能な方法で、ぜひ子供たちに体
験させたい。
もうひとつのメインは、三師会に監修をまかされたメディカル・ゾーン。「レベル
を保ち、そして楽しく」という努力(博報堂)の結晶は、どうやらメディカル博物館
の様相を呈してきた。
トーキングや立体ミニシアターなど、最新のメディアを軸に、「解体新書」や、シーボルト記念館からの実物、結石破砕機やMRI画像診断機の模型、腕相撲ロボット、ファイバースコープ、プリケアグラフなど、ここはあなたが"健康へのチャレンジ・過去,現在,未来"を体験する場である。
最後に、関係各位の協力に感謝の意を表し、よかトピアの成功を祈りたい。
<特別寄稿> 「大喪の礼」に参列して
九宏薬品株式会社代表取締役会長
(社)日本医薬品卸業連合会副会長
木 瀬 克 巳
当日は恰も天候迄が昭和天皇の崩御を悼むかのように、小雨降り続く底冷えのする大変寒い日であった。私は総桧造りの葬場殿の前に設けられた、左右一対の幄舎の右側の大テントの中に、数千人の人込みに混って「大喪の礼」に列席していた。もっとも、私など出席したといっても、人の海の中にまぎれて、肝心の儀式の模様などは何も見ることが出来なかった。
そう言った意味では、家に居てテレビを見ている方が、むしろ全体の様子を知ることが出来たであろう。だが厳粛な中で挙行された「葬場殿の儀」並びに「大喪の礼」に参列し、悲しみの中に野辺の送りをさせて頂いたこの感激は、出席した者にしかわからないであろう。
特に天皇陛下の御誄おんるい、この世にこれ以上の心のこもった弔詞があるだろうかと思える程素晴らしく、参列者の胸に切々と訴えるものがあった。それ迄寒さのため多少ざわめいていた式場も、陛下のお言葉と共に静寂を取り戻した。
「明 仁謹んで御父昭和天皇の御霊に申し上げます」から始まり「しん殿しんでん(しんは木へんに親、棺の意)に又殯ひん宮にお祭り申し上げ、霊前に額づいて涙すること四十余日、無常の時は流れて云々」の声涙共に下るお言葉をお聞をした時、私は思わず泣けてしまった。そして最後に「誠に悲しみの極み……」で突然お声が止んだ。しばらく待ってもお言葉がない。マイクの故障かと一瞬思ったけれど、流れから考えると感極まって陛下は絶句されたのだと思う。
こゝで又私は深い感動を覚えた。式の間、絶えず冷たい雨が降り、身体全体が凍えそうな北風が時折り吹込んではくるが、私は苦にならなかった。殆んどの人がトイレや休息所に行かれたが、私は席を動かなかった。
式の進行はモニターテレビでしか知り得なかったが、それだけに静かに天皇のこと、天皇制のこと、「葬場殿の儀式」は皇室の儀式「大喪の礼」は国の儀式と言われること等考えさせられた。
思えば昨年九月十九日、昭和天皇ご重態を知らされた時、私は一瞬、日本は大丈夫かという不安にかられた。何故そんな気持になったのか論理的には判らない。理屈ではないのである。それ以後今年の一月七日に崩御される迄の長い一進一退のご闘病生活の間、私は天皇及び天皇制というものを改めて考え直してみた。
平素は殆んど考えたこともなく生活している私であるのに、天皇ご重態と聞いた一瞬、不安と恐怖と空漠とが我が胸中に去来したのは何故かと。
小学生一年の時に昭和を迎え、その後満洲事変、日支事変、大東亜戦争と、まるで我が青春は戦争一色であった。然もその間、五・一五事件、二・二六事件等生臭い事件が相次いで発生したりして、大変暗い青年時代を送ったことのように思えるが、むしろ楽しかった思い出の方が多いのに驚く。
父が役人であった関係で韓国の京城で生れ育ち、終戦の時は現地で除隊となり、着のみ着のままで妻子と苦労しながら引き揚げて来た。そして当時の国民が皆んなそうであったように、色々と辛苦をなめて今日に至っている。言わば昭和と共に生きて来たという思いで一杯である。
だが此の間、天皇の戦争責任など私は一度も考えたことはない。天皇のご存在があったればこそ、今日の日本の繁栄があるのではないか。戦争の責任を云うならば、それは当時の軍部であり、国民を戦争にかり立てたマスコミである。平和を願われた昭和天皇や善良な国民こそ被害者である。
二・二六事件以降、大東亜戦争の始まる前後の世相を、今思い出してみても(それ以前は私も子供だったのでよくわからない)そう判断せざるを得ない。
さて我が国は、天照大神が高天原より豊葺原水穂の国へ、汝皇孫行きて治めよと邇々芸命ににぎのみことを差し向けられて以来、連綿として皇位が継承され今日に至っている。皇位継承を哲学的に云えば、不連続の連続ということである。
天皇については戦前は現人神であり、戦後は人間になられたと言われる。そして必ず明治憲法と戦後憲法との比較に於て区別されるようだ。然し戦前の憲法に於ても、第一条は、「天皇は神聖にして犯すべからず」と規定されており、その限りでは現人神であろう。
だが反面、無答積の統治者(人間)としての規定もある。従って戦前から天皇は現人神であるばかりでなく、人間としてのご存在でもあったと言える。どちらか一方に決めつけること自体ナンセンスと云わねばならない。
先述したように、人間というお姿からは不連続であり、現人神というお立場からは、天照大神以来連綿として神の心を継承し連続された神そのものである。昭和天皇は、美濃部博士の天皇機関説に対し、「それでよいのではないか」と仰せられたとも洩れ聞く。
天皇のお心には、天皇が機関であろうとなかろうと、そんなことはどうでもよいのである。唯々国民の幸福と日本国並びに世界の平和を皇祖皇宗の御霊に祈られるだけである。
天皇の責任がどうとか、機関がどうとか、憲法の規定がどうとか、我々凡人がその尺度からのみ神の心を批判したりすること自体、次元の連うことを知らねばならない。お在します世界が始めから我々とは違うのである。
マッカーサーにしても、昭和天皇を始めは人間天皇としてお出迎えしたが、会見後は態度が変ったと云われるのも、現人神の天皇を感じたからであろう。
古事記に、高天原といゝ豊葺原といゝ、何れも「原」という言葉が出てくるが、これは農耕を意味するのではなかろうか。天皇並びに日本人の祖先は、想らく農耕民族であり、大家族生活を宮んでいたのであろう。その中心となり全家族から敬慕された太祖こそが、天照大神であられたのであろう。
大家族の中での親子関係が、そのまゝ日本国全体に広がっていったのではなかろうか。そこに国民は常に天皇に対しては赤子であり、尊崇の念を護持してきた所以がある。
暴虐を極めたあの織田信長ですら、天皇に対しては忠節の心を忘れてはいない。国民は時には天皇のご存在を忘れることもあったが、大事な時には必ず天皇のご存在に気が付いたのである。
それは恰も、我々が平素は親の事を忘れていても、何かの時には親の名を呼ぶに等しい。親と子は別々の存在に見えるけれども、実は一体なのである。親を批判したりする子に禄な子はいない。国民と共にあると仰せられる天皇と国民は、正に一体であり親子の関係である。
九月十九日天皇ご重態の報に一瞬日本は大丈夫かと感じたと先述したが、今にして思えば、天皇即日本国であり即私であったという事が潜在的意識にあり、それがショックで顕在化したのであろう。そしてそれは私だけでなく、日本人全ての心であろう。ほんの一部の者を除いて、ご重態の報伝わるや老若男女を問わず、多数の国民がお見舞いのため記帳に訪れ、又宮城前では平癒祈願の合掌の姿が多数見られたのがその証明である。
昭和天皇大喪の礼に参列さして頂き、改めて天皇並びに天皇制への私の思いの一端を述べさせて頂き、茲に謹んでご冥福をお祈り申し上げる次第である。
最後に二月二十四日の夕刊フジに掲載された、昭和天皇についての筑波大教授村松剛氏のコメントの一部を抜粋してこの稿を締めくゝりたい。
「摂政時代を含めると、足掛け七十年のご在位でしたが、これは世界史にも例が少ないですよ。その間徹底して己をむなしゅうして国民のことを考えてこられた方ですね。皇居で記帳した人の話では「父に死なれた気持ち」が非常に多かった。「無私」で子供のことを考えるのは父親の理想像なんてすね。私にとっても「偉大な父親」という気持ですよ。
いろいろ言う人達は皇室の伝統を潰すことによって、弱体化を図ろうとしている
人ですよ云々」。
<特別寄稿> 「真 の 受 け 皿」
熊本県薬剤師会理事 社会保険部会 合 田 武 司
健保連の点検事務研修会で、医薬分業と保険調剤の話をしてほしいと県保険課の紹介で依頼が入りました。
健保連事務局のお話では、常々診療側の医師会・歯科医師会とは親しく会合しているとのことで保険課と打ち合せの上、分業推進の話をまじえはじめて事務研修会を行いました。健保連熊本連合会は熊本県下に本部をおいている20組合で構成され、当日は組合担当者・事務専任者・事務局の方々30名ほど参加されました。
1)保険調剤の仕組みとその業務内容について
2)調剤報酬の算定について
3)審査・指導における諸問題について
等の総論と実務論の骨子部分の解説をしましたが、レセプト点検事務のベテラン集団を対
象にしていますので、理解がはやく反応も的確で、一応予定の時間内で事務レベルの必須
事項の説明を終了しました。
当方の目的は医薬分業で、保険者の中には分業消極論の風聞もありますので、このような機会に医薬分業を理解してもらいたいと薬剤師会のコマーシャルをいたしました。
1)医薬分業は医療の場における医と薬の協業である。
専門化・細分化していく医療の中でめざましい医学・薬学の進展、医療技術の革新や新薬の開発、Drug lnformation の膨張など複雑化していく現在、すみやかに薬の専門家を確立しなければならない。
2)先進国で医薬分業が定着してないのは日本だけである。
日本では古来、薬餌は医師によって行われていた。その習慣が今日まで残っている。医師のサジ加減が生かされる、患者に便利である、といった利点はあるが、その簡単さ・利便さは今日の医療にはたして適しているだろうか。
人口老齢化を迎え、医療制度の見直し、医療財源の適正化等など今日的課題に国民全体で取り組んで行かなければならないときに、旧来の慣習をもう一度真剣に見直す必要がある。
3)モノと技術の分離が医療制度の見直しの第一歩である。
処方する医師のインサイドワークと調剤(薬剤師のインサイドワーク)による薬剤というモノを分離しなければならない。的確な処方と適切な調剤は医療の質をた かめ、医療費の適正化につながる。
4)医薬品の新規開発はめざましく、その情報管理や追跡は薬の専門家がこれを行っ
ている。
毎年、数百種の医薬品が新規に薬価収載され医療に繁用されている。これらの薬剤はよりシャープな切れ味(有効性)を持つものが多い。しかし薬は有効性と同時に安全性も高めなければならない。そのためには新薬の有効性と安全性を追跡する必要がある。
全国の医療機関・薬局にはその目的でモニター制度があり、2,500の薬局(熊本県下では38薬局)がモニター薬局として新薬の監視に当たっている。保険薬局では患者毎の薬歴簿を作成して、個人レベルで薬剤の有効性・安全性の確認を行っている。
医薬分業の基本的な総括については参加者によく理解して頂いたと思います。しかし総論だけでは分業は進みません。具体的な各論については充分な発言ができませんでしたが、以下小生なりの一考察を……
分業の実務論で最も重要な必須条件は、つねに云い続けられている受け皿の整備です。受け皿と云えば、すぐ薬局・設備・機器・備蓄薬剤といったモノを連想しがちですが、
モノは、その気になればすぐにでも調達することができます。本当の意味の受け皿とは、医療の一端を担う薬剤師の資質だと思います。
国民のコンセンサス・医療関係者からの協力・医療行政等からの支援を期待するなら、それだけの価値を持たなければなりません。医療担当者の一員であるという自覚と、進歩し続ける医療や薬学を身につけていく日々の研讃こそが真の受け皿であると思います。
〔筆者紹介〕
合田先生は熊本市で開局され、分業の先駆者であり、現在熊本県における分業活動の中心人物として活躍されております。
バードウォッチングしてみませんか
−鳥達の身上調査−
シリーズNo.3 <サギ>
小川の浅瀬や池のほとり、田んぼの用水路などにじっと佇んでいる白い大きな鳥を
見かけたことはありませんか。そうです、シラサギです。でも、シラサギというサギ
はいません。白いサギの総称がシラサギで、多くはコサギ,チュウサギ,ダイサギのこ
とを指しているようです。
その中で最も普通に見ることができるのがコサギ。コサギの見分け方は、シラサギの中では小型(全長6 1cm)であること、嘴が黒いこと、そして一番の特徴は黒い足と黄色い足指です。これが識別できれば間違いなくコサギです。もっとも泥漁りで足指が汚れていることもあるようですが……。
シラサギが美しくなるのは繁殖期に飾り羽が伸びて背を覆うときです(夏羽)。少
しの風にも毛先が動きヴェールをつけたように華麗です。
そんな姿に似合わないのが餌を探しているとき。片方の足を浅い水の中でふるわせ
るようにして泥をかきまわしているのはどうみてもドジョウすくいの雰囲気です。
その他アマサギ,クロサギ,アオサギなどもちょっと注意してみると海岸や河口,
田畑などでみることができます。アマサギは夏羽になると頭や首,背の部分がアマ色
(橙黄色)になるコサギより少し小さめのサギです。
クロサギは名前のとおり全身がすすけた黒色のサギですが、白色型もいます。白いけれどクロサギです(ややこしい)。
アオサギは大型(全長93cm)で時々ツルと間違えられます。ツルとサギを見分ける
ポイントはどこでしょう。それは飛んでいるときの首の格好です。首を真っすぐに伸
ばしているのがツル、Z宇状に曲げているのがサギです。
案外身近にいるのに人目につきにくいサギの仲間にゴイサギ,ササゴイ,ヨシゴイ
など忍者のようなサギがいますが、これはまた次の機会にでも。
(九大病院薬剤部 野仲範子)
<会員のひろば> 「薬剤師人生2/3」
早良部会 漢方療法 野芥薬局 江 頭 溜
今や日本は世界の経済大国にのし上がった。然し我々薬局はどうであろう。政治行政や経済活動の主要な仕組みと組織は、この30年余りほとんど変わっていない。政権は常に自民党が握り、大体同じ様な政策を続けてきたし、国家の行政機構はほとんど変わらなかった。各省庁の組織や権限にも大きな変化はないし都道府県の組織と範囲に至っては、明治初期から約100年以上もほとんど変わっていない。
さて、自分自身の事をふり返ってみれば、約30年前東京から福岡に帰り親が経営する雑貨屋的な薬店の後を継ぎ、これでは薬剤師の免許証が泣くのではないかと思い自分の理想に向かって走りだした。然し実際行動に移して見るとなかなか思う様にはならず、開局のかたわら福岡済生会病院に2年間、週2回研修で勤務させてもらった。当時の薬局長は福井先生で随分御世話になった事を思いだす。
その当時の処方箋調剤は医薬品の原末を使って調剤したものである。初めの頃は、小児科の処方箋を調剤して帰った夜など翌朝病院に行くまで不安な時もあった。然し、そうやって勉強した事が後々大いに役に立っている。OTCを販売する時も自信を持ってする事が出来た。薬局製剤の励みにもなったのである。
それから2,3年後、乱売が西新で始まった。全商品3割引から4割引。その頃、市薬の理事か部会長であったので日夜走り回ったものである。会長は四島先生から白木先生に受け継がれた頃であった記憶がある。その頃私も若くて血気さかんな時でした。その当時今の県薬会長の荒巻先生が市薬の理事で大変御世話になったものである。
最近医薬分業があちこちで実践されている事は結構であるが、私が感じるのは、薬剤師が処方箋調剤だけ出来て一人前の薬剤師である顔をされては薬局のオーナーとしては困るのである。私の希望する若い薬剤師は、調剤はもちろん患者さんに接して健康や日常生活のアドバイスが出来て始めて本来の薬剤師ではないだろうか。薬の知識だけでは患者さんとの会話はうまくいかない。だから、せっかく薬学を学んだ割には社会的信用が得られにくい。随分損をしている方が多いのではなかろうか。
21世紀の薬剤師として社会的信頼を得るためには、自分自身が常に外に目を向
けて活動する事であり、学校薬剤師等は身近な見本ではなかろうかと思う。私は学校薬剤
師を無報酬の時代から始め、柴田伊都郎先生や、残念であるが今は亡き馬場先生等の御指
導を受けながら頑張ったものである。苦労もあったが楽しい事も多かった。
今、石井道子先生の選挙活動中である。唯一の薬剤師議員高野一夫先生を落選させた事が思い出される。政治に関心を持つ事も、薬剤師会の中だけでなく他の業界の方に接して薬剤師のPRに努める。又、老人クラブや婦人会の健康講演に時々行っているが、社会勉強になる事ばかりである。
近い将来、薬局を活性化させるには、一つの薬局に複数の薬剤師が必要ではないかと思われる。まず経済的問題や社会の健康ニーズをとらえた商品構成、考え方、そして一番難しい法律問題にチャレンジし、乗り越えなければならない時代が来るだろう。
日本は今後、流通の自由化と競争により小売業、医療業界が変化してくる事は必然である。働かなくて報酬だけを要求する薬剤師は、落ちこぼれていく時代が来るであろう。21世紀には健康産業は発展するのである。心ある薬剤師は大いに社会に出て奉仕の精神で夢多き未来に向かって頑張ろうではありませんか。
<会員のひろば> 「ボーリングあれこれ」
箱崎部会 みくに調剤薬局 仁田脇 三朗
第7回市薬ボーリング大会が去る1月15日成人の日に博多スターレーンで行われ、我が東区が団体優勝、個人戦でも3位他飛び賞多数で、秋のソフトボール大会の憂さをはらし、終了後の懇親会のビールのおいしかった事、今年はいままでより参加者も多かったようで企画された委員の先生方事務局の御努力に感謝しております。
ボーリング大会のことなどすっかり忘れた2月中旬木原先生より電話との事一瞬いやな予感?はたして原稿依頼、生れてこのかた書くことなど大の苦手、どうしよう、ほっとこう、でも会報を出される御苦労も大変な事、とにかく取留めのない事でも。
京よりボーリング(43回京都国体から正式種目として初登場)という事でボーリングもやっとスポーツとしての確たる地位をきずく事が出来たようです。
振り返って見ますと福岡にボーリング場が出来たのが昭和38年頃カネボウボーリング場が最初で福岡スターレーン(大名町現在日本たばこ)福岡フォーカス(博多駅前)等今ではなくなっているボーリング場が走りではなかったでしょうか。
当時福岡スターレーンでゲームの申込をして待ち時間2〜3時間とのことで外に出て、天神をブラついて帰って来てもまだ順番が来てない事も多く、ボーリングをするのも大変な時代でした。昭和47〜8年頃が最盛期で東区だけでも5〜6軒のボーリング場があったように思います。
ローラースケートやフラフープと同じで間もなくブームが去り東区では現在香椎スポーツガーデン1軒となっていますが、土,日曜などゲーム待ちもある様で大変盛況のようです。とび梅国体の会場となっていますので来年の国体が楽しみです。
パチンコ、ピンポン、軟庭、ソフト、サッカー、バスケと、球技が好きでボーリングも最盛期にマイボールを作りリーグ戦にも出ていましたが、いつのまにかゴルフにうつり、年一度の市薬のボーリング大会が唯一のゲームでしたが、昨年よりサンアローボールでのハンディキャップリーグ(4名のチーム戦で毎週木曜午後8時より)に時々ピンチヒッターで狩り出されるはめになり20年前のマイボールを取り出して月1〜2回投げていますが、体力の衰えと、ボールの重さにねらったスパットにボールがなかなか投げられず、アベレージも160位でチームの人の足を引張っている状態ですが、少しでも運動不足の解消に役立てばと続けています。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆? パーフェクト300点まであと一投、まわりで投げている他のチームの人も注目するなか、最後の一投ボールはきれいにポケットに入って全部のピンが倒れパーフェクトと思った瞬間10番ピンだけがユラリ、無残にも残って299点、クヤシー、昨年暮のハンディキャップリーグ戦でのとなりのチームのスコアです。
今年の2月16日のリーグ戦で東区の医院の事務長さんが300点のパーフェクトを達成されています。ゴルフのホーインワンよりむつかしいのではないでしょうか。ボケ防止、運動不足解消のためにも年を取っても比較的手軽に出来、家族全員で楽しめるボーリングをもう一度見なおして見てはいかがでしょうか。
<会員のひろば> 「女 性 と 仕 事」
博腎会病院 田 中 希保子
春三月、卒業の季節を迎える。
今年もまた、たくさんの薬剤師が生まれ、社会へ巣立っていく。私が卒業したのは、も
う17年も前のことになってしまった。
私は、福岡の大学を卒業後、郷里の熊本へ帰り二年間の就職、その後、嫁いで再び福岡の住人となった。結婚して1年後、長男そして3年後、次男出産、専業主婦として育児と家事に一生けん命だった。
ところが、下の子供に手がかからなくなると、時間に余裕がでてきてのんびりとした毎日を過すようになった。けれども、何だかもの足りない。このまま何もせずに過していたら周りに取り残されてしまいそうで不安にもなる。せっかく4年間大学で学んだのに何も役立てていない。私も仕事がしたい。そして社会に参加したい。……etc.
色々考えた末に主人に相談してみる。
予想通りあまりいい顔をしない。"何で今さらそんな事を考えるのか"といった様子だ
った。話し合いのあと、"家庭の事、子供の事を大切に考えて、今まで通りやること!そ
れができないならやめろ。それでもと言うなら仕方がない"としぶしぶの了解だった。
子供の成長に合わせて、最初の2年間はパート。その後、現在の病院にお世話になって3年半になる。
振り返ってみると、専業主婦でいた8年間は全く仕事をしていなかったわけだから、再就職の時は大変だった。この間のブランクは想像以上のものだった。体は動かない。頭も回らない。以前やっていたこともすっかり忘れてしまっている。おまけに新卒の同僚はどんどん仕事を覚えていく。最初はあせったし本当になさけなく思えた。そのうちに、8年間もブランクがあったんだからそう簡単にうまるわけない。コツコツ最初からやり直すしかないと思い直してやっているうちに自信も少しずつついてきた。
女性の場合必ずぶつかる結婚と出産。
その時に仕事を続けるかどうかの判断にせまられる。私のように一度家庭に入り、その
後再就職といったケースもある。
その人がどんな方向に進むかは、その家庭の事情にもよるし、価値観によっても異なる。これからは、ますます仕事を続ける女性がふえてきて、結婚や出産、家庭の在り方をどう考え、そして乗越えていくかが、私達女性の今後の大きなテーマになっていくと思う。
今の私は、家庭の世話に仕事に大変忙しいけれども、毎日が充実している。
主人も薬剤師なので、共通の話題もできたし、きびしいアドバイスも時々あって、本当
に有難いと思う。子供達も、淋しい思いをすることもあると思うけれど、明るく育ってく
れている。私にとって、"家庭の平和と協力"があってこそ仕事を続けていける。私のわが
ままを聞いてくれて、感謝しなければいけないと思っています。
<会員のひろば> 「私 と ゴ ル フ」
西部会 虚y永薬局 冨 永 計 久
昭和49年、2500円の6番アイアン1本を、バーゲンで買いました。その頃、ゴルフは、実際見た事もないし、勿論、クラブを握った事もありません。ただ、テレビで見る程度で、あまり興味は、ありませんでしたが、友達に誘われて、バーゲンで買った、6番アイアンを持ち、練習場で、初めて打ったボールが、なんとナイスショットで、ゴルフのボールは、こんなに飛ぶのかと、びっくりしました。これが、私とゴルフの出会いです。
それから、2年間、ゴルフの事は忘れていましたが、周りが何人かゴルフをやっていましたので、一番安い、ゴルフ道具一式を、そろえました。
初めてのゴルフは、芥屋ゴルフコースで、ゴルフ場が、広々として、緑の芝の美しかった事、その時の感激は、忘れる事ができません。時期的に、緑の一番美しい5月で、丁度、初めて、スキーに行き、スキー場の雪の白さ、美しさを見た時の感激と、全く同じでした。
ゴルフ場の美しさに、感激した後だけに、アウト一番ホールのティショットは、自分のゴルフ人生にとって、重大な一打になると、少々オーバーですが、本当にそう思いながら、第一打を打ちました。ボールにあたる事はあたりましたが、なんと記念すべき第一打は、右に大きくそれて、見事にOB、その上ロストボールになってしまい、その時のショックが、今だに尾を引いて、なかなかうまくなりません。
私は、ゴルフにかぎらず、スポーツは、見るのも、やるのも、大好きです。中でも1対1の対勝負の格闘技は、特に好きで、テレビ等で、放映されると、ほとんど見ております。
自分でやっておもしろいのは、剣道、見ておもしろいのは、ボクシング,空手,柔道等で、倒すか倒されるかの、あの緊迫した真剣勝負は、見ても、やってもたまりません。
格闘技は勿論、スポーツは稽古に裏付けられた、心技体の三拍子そろった者が普通勝つのですが、どういう訳か、ゴルフには、ハンディというのがあって、(アマチュアだけ)だいたい同じくらいのスコアであがれるようになっています。
100m走でいうと、Aさんはすごく遅いから50m地点から、Bさんは少し遅いから25m地点から、Cさんはすごく早いからOm地点から一斉にスタートして、100m地点で、だいたい同じくらいのタイムでゴールインする。アマチュアに限ってですが、試合でハンディのあるスポーツは、ゴルフ以外ないのではないでしょうか?
一般的にスポーツでハンディをつけたらそのスポーツは全くおもしろくなくなってしまうのではないかの思います。
しかしゴルフはおもしろい、何故か?ゴルフは対勝負みたいに闘う相手がいないだけに、すべて自分で責任をとらなければなりません。スコアがよかっても悪かってもすべて自分の責任です。そこでハンディなるものが生きてきて、へたはへたなりに一生懸命やればゴール付近でうまい人とせり合う事ができ、ゴルフをおもしろくしているのではないかと思います。
という訳で、12月の市薬のコンペでは、ハンディのおかげ、同伴していただいた満園先生,仁田脇先生のおかげ、そして前日の忘年会で飲みすぎ、二日酔いでスコアをくずされた先生方のおかげて優勝させていただきました。次回のコンペでもこれらの幸福が重なりますよう祈っております。
市薬ゴルフをお世話いただいております高倉先生はじめ、諸先生方、これからもよろしくお願い致します。
<会員のひろば> 「スポーツの魅力」
市立第一病院 長谷川 和 美
私が市立第一病院に勤務して、早や5年が過ぎ去ろうとしている。外来の窓口業務一つを取ってみても考えさせられることが多々あり、薬の専門家である薬剤師として、また病院に携わる一員として恥ずかしくない様、努力している毎日である。
そして、その活力の源となっているもののひとつにスポーツがある。私はスポーツ大好き人間である。野球,卓球,バレーボール,テニス,ゴルフ,バドミントン,スキー,ボーリング,バスケットボール,サッカー…と、とにかく自分でするのはもちろん、観るのも大好きです。
しかし中学・高校と経験してきたバスケットボール以外は、基本ができていないせいか、どれも自己流で上手くないのはいかにも私らしいのである。
そのバスケットボールが、高校を卒業して以来まったくプレーする機会がないのがとても残念です。(学生時代はとても人気のある花形スポーツだったのに…。)
今日は、私が市立第一病院に勤めて新しく始めたテニスとゴルフについてお話しさせていただきたいと思います。まず、テニスですが、学生時代、友人からテニスを誘われても頭から女性がするスポーツだと決めこんでいたせいもあるが、まったく興味を示さなかった。
ところが、実際やってみるとこれが実におもしろいのである。なんといってもテニスの醍醐味は、絶妙なショットが自分の意のままに決まった瞬間にある。豪快なサービスを打ちこんで相手に手も足も出させない。相手の強烈なサーブを打ち返し逆サイドをつく。
長いラリーの末にチャンスボールをつかんで相手にスマッシュを決める、などなど。これらが決まったときには言葉では表現できない快感が得られるものだ。
とにかく私のテニスは足ニスと呼ばれるくらいよく走るのである。練習ではまったくパッとしないのに、実戦になると強い。しかし、やはり基本ができていないバラバラなフォームなので、これ以上上達は望めそうもないが、ストレスを解消するには老若男女を問わず、気軽にできて最適なスポーツである。
次に、ゴルフですが、まだ本格的?に始めて半年もたたないビギナーです。なにせ、初めてスイングしたとき、隣の民家にクラブを放り投げたという話は今でも語り草になっているぐらいですから、実力の程は容易に想像できると思います。市薬にはいっている方で最近始めた人が多いのにビックリするくらい人気が高まっています。
しかし、これがまた大変奥の深いスポーツである。止まっているボールを打つのがこれほど難しいとは、ゴルフの経験がある人なら誰しも思うことでしょう。そしてゴルフは、テクニックもさることながら最もメンタルなスポーツであるといわれている。
ミスショットして林の中へ入れた場合、次のショットで幅の狭い木の間を狙って失敗して結局3つも4つもよけいにたたいてしまう。確実に横のフェアーウェイに出したほうがスコアがまとまることは十分わかっていながらこの簡単なことができない。
そしてミスを取りもどそうとして、どんどん深みにはまっていく。しかし、快心のショットが打てたときの満足度は、他にかえられるものがないほどです。ゴルフとは人生に似て波乱万丈にみちた味わいの深いスポーツである。
それから最後に、ご存知の方も多いと思いますが、我が市立第一病院はこの5月より、新病院としてオープン致します。薬剤師も増員され、後輩の教育という大きな責任も感じています。薬剤師としてまだまだ未熟な私ですが、この新病院とともに大きく成長していきたいと強く思っています。
<フレッシュさん紹介> 私にとって『大切なもの』
大名部会 椛蜑齧局福ビル店 伊 藤 美佐子
わたくしは、薬剤師会に入ってまだ2〜3ケ月です。会報は今まで勤務先で簡単に目を通させていただく程度でしたが、薬剤師会に入ってからは、自分のものとして、すみからすみまで読むようにしています。(まだ、1〜2部ほどですが……)そして、あちらこちらの先生方が書かれたいろいろな文を読み、「たいへんだな〜。毎回どなたかが原稿を書かれているんだな〜。」と人ごとのように思っていました。
でも、人ごとではありません。『フレッシュさん紹介』とは言え、この私に順番がまわってきたのです。何をテーマに書こうかと迷っていましたが、私にとって『大切なもの』についてお話しすることにします。
みなさまも大切なものをいくつかお持ちだと思います。『一番』と付けるといろいろ差し障りがありますので、今回はあえて『一番』とは付けずにおきます。『両親』もちろん大切な人、『お金』もちろん大切な物、『仕事』もちろん大切、でも私は今、スポーツをすることに大切さを感じています。
私は小さいころから体を勤かすことが好きで、小中高と学校に通っていた時代は、授業で体育、催し物では体育祭、放課後は部活、そして休み時間には校庭や体育館で体を動かしていました。
なかでも部活では陸上競技部に入り、走ったり跳んだり、おかげで地区大会、県大会と出場させていただきました。その時、練習はきつい、もういやだと思いながらも大会で良い結果がでると、無我夢中、勉強もせず、へとへとになるまで体を動かしていました。そして、ふと気付くと大学に入ってまで陸上を続けていたのです。
しかし、社会人となり仕事をしはじめると、何かと覚えなければならないことが多くあり、毎日が仕事だけで明け暮れるような生活となってしまいました。それは、いままでやり続けてきたスポーツさえ忘れさせてしまうほど、ゆとりのない状態でした。また私にとって、それは新しくきびしい環境でもありました。
そして3年目に入るころになると、若干のストレスや余裕が出てきたのか、このままではいけないと思うようになってきました。そこで思い出すのがスポーツ。仕事をはなれ、忘れる時間を持ち、その時間にスポーツができれば、と思ったのです。といっても週に一度の休日は、しなければならないことや、日ごろ平日にはできないことをするのに精いっぱいで、あっという間に一日が過ぎ、なかなかスポーツをするまでにいたりません。
でも、もしその時間があれば、ゆとりもとりもどせ、気持ちや頭の切り替えもでき、仕事への新たなエネルギーを生み出すのではないか、しかも体のためになることを考えると、やはり、スポーツをすべきだと思いました。
今、週に一度、仕事を終えてからですが、ボウリングをしにいっています。結構運動量があり、めいっぱい体力も使っているのですが、終ったあとは、いやなことや仕事のつかれなど忘れることができるようになりました。
そして、またひとつ初めようとしているものがあります。それはゴルフです。以前から両親より進められていたのですが、いろいろと余裕がなく、したくてもできなかったのです。それが最近、あるきっかけで徐々に初めています。これでまたひとつ、体を動かす機会が増えたと喜んでいます。
ということで、今考えてみると、学生のときあれこれと体を動かしていたから、それなりに充実し、おちついた日々をおくれたのではと思います。そのときのようになれるよう、これからもスポーツをする時間を大切に、体を動かすことを大切に思っていきたいと考えています。
みなさまの中にも、スポーツをすることや、体を勤かす時間を大切にされていらっしゃる方がおられると思います。その中で、私にもできそうなことがあれば、ぜひ、教えていただけませんでしょうか………。
(S61年第一薬科大学製薬学科卒業)
<部会紹介> 六本松部会の今昔
六本松部会長 三津家 正友
部会紹介にあたって、先生、様等の尊称、敬称は略してます。お読みの方は適宜付けて下さい。
桜爛漫の舞鶴城趾と水辺の美しい大濠公園に囲まれ、美術館,英霊を祭る護国の杜,九大教養部校舎と、六本松部会の地域は人情と文化の街である。
◆六本松部会の生い立ち
昭和20年代、六本松、唐人町、簀子、友泉の各地域は一緒で舞鶴部会と称していた。
当時会員約50名、毎月1回唐人町クラブに集まり、月千円の頼母子講、会費の徴集に始
まり、故人となった若狭半吉、四島久(元県薬会長)や、石井、木立の両女傑等の先達か
ら、薬事情勢、薬局経営、新薬の動向等に就いてお話を伺っていた。現在日薬で云う「生涯教育」である。なお当時の青年将校として山手陽一(元県商組専務)古賀隆(現市薬会長)が居た。
筆者等は当日早目に出かけて七輪に火をおこし、ヤカンに酒を温め、チクワと湯呑茶碗を配るのが仕事であった。
昭和30年代になり地区別に分れ、友泉を含めて、六本松部会として発足した。14名
。
会合の場所も草ケ江荘(旅館)に移して四島、小田、女子薬の江ロ春子等先達の話しを聞き、将来を語り合っていた。その頃からヤカン酒がカンビンに変ったことを覚えている。
学校薬剤師制度が発足して、環境調査の機器を持ちこんで復習に余念の無い日もあり、花見、雪見や温泉で皆揃って英気を養ったが某年宝泉寺温泉に旅して、翌朝部会宛に芸者の花代数名分請求されたが、犯人は迷宮入りとなった。
◆医師の部会、歯科医の部会とのお付合い「医者は薬を売り、歯科医は金を売る云々」と云われ、それではと医師による調剤薬局経営論があり、又全国の郵便局の隣に官立の調剤薬局を作って街の医者の処方箋を全部さばけと叫ばれた事もあった。
医院の前に調剤薬局を作ってマンツーマン(当時は門前薬局とも称した)と云う言葉が出来、「マンツーマンは老木に宿るヤドリ木の如し」医薬分業ではなくて協業であるとか世間は賑やかであった。
六木松部会では毎月の会合で充分意志が通い合っていたので部会単位で行動していた。
歯科医の部会では吾々の意を充分理解され花見、川下り等合同で遊び、医薬品や処方箋の研究会等を行い現在に至り、所謂面分業・グループの分業として地域の住民にも充分理解されている。
医師の部会でも種々の紆余曲折はあったが数名の医師が試験的に一部の処方箋を発行されたが「処方箋を発行するならその医者は全部発行せよ」とか「メーカー別に薬品名を書け」とか、その他種々のお役所的な考え方に医師も充分理解してもらえず立消え状態となったのは残念である。
◆くすりの商売について
意気軒昂であった。往年の大量販売と云う言葉に踊らされ、「くすりの種業」大濠薬局(外にも有るが名を差し控える)等はアリナミン1,500円を980円で売って儲けなし。蚊取線香を73円で仕入れ74円で売って1円の儲け、メーカーだけどんどん儲けて自分自身は「クタビレ儲ケ」今考えると愉快な限りである。
但し当時も他人迷惑になるからと安売りを自粛した部会員が大勢を占め、安売りで華やかな活動をされた方は、理由あってか、他の地へ移転され、大濠薬局だけが隅の方でくすぶっているようである。
編集部の木原女史より紙面を厳しく制限されているので、一気に現代に飛んで部会員の横顔を少し紹介する。 平成元年3月現在
富安アヤメ
やや御年配でも矍鑠として高等女子教育界の重鎮として活躍中。
小田浩平
父(漢方の大家)の趾を継いで誠実な漢方家で住民の人望厚く、町内会長を務める。
碇父子
薬局は「薬の売り方はカクあるべし」と模範的薬局を目指して奮闘中。福岡ファーマシーグループの統師。
小松至誠
九州全域の官、公社に薬品の納入実績を誇り、現在マンツーマンを数軒展開中であるが近く全県下を席巻する。壮年実業家。
樋口昌嗣
薬と食べものの間を埋めて全九州で活動する日本健食界の指導者。
中野 寛
調剤薬局の草分け中野佐の愛息。
松尾可恵
美人薬剤師。地域住民の信頼厚く独身。
藤木弘美
美人薬剤師。容姿端麗。独身(註)諸々の申込は部会長まで。手数料無料。
古賀 隆
御存じ福岡市薬会長。緻密な頭脳と温厚な人柄で地元の信頼厚く、小中高大学のPTA会長歴任、愛妻家。
三津家正友
自薦で部会長。
以上少々控え目に紹介させて頂いた。六本松部会の今後の翔び方に就いては次の機会に報告させて頂く。
★★★★★部会長のぷろふぃる★★★★★
六本松部会長の三津家先生は、現市薬会計常務理事、市学校薬剤師会監事を務められ、古賀市薬会長のご紹介のところに書かれた言葉がそのまま充て嵌まるような先生です。
私共広報部にとりましては、市薬会報第一号を手掛けられた大先輩でもあります。お酒は市薬でも5本の指に入るくらいお強くて、酔っぱらった先生は一度も見た事がありません。それに2年前に還暦を迎えられたとはとても思えない、若い人も羨むプロポーション(178 cm , 65kg)の持ち主で、女性には殊にやさしくダンディな先生です。
<トピックス>
「スイッチOTC薬について」
市薬 学術委員会
医薬品は、「医薬品の製造承認等に関する基本方針について」(昭和42年9月13日薬発第645号薬務局長通知および昭和42年10月21日薬発第747号薬務局長通知)によって医療用と一般用の区分が確立され、医薬品製造承認にあたって医療用医薬品と一般用医薬品との取り扱いが区別されるようになった。
近年、国民の健康志向が高まってきている一方で、医療財政の膨張に伴う医療費適正化の動きがあり、プライマリーケアの一環としてセルフメディケーション、セルフケアの重要性が盛んに言われている。その手段に用いられるのが一般用医薬品(大衆薬,0TC,一般薬も同義語)であり、最近話題になっているスイッチOTC薬もその一つである(表1)。そこで、スイッチOTC薬についてその概要を紹介する。
スイッチOTC薬とは、米国のswich-OTC-drugに由来しており、「医療用医薬品の有効成分として使用されてきた成分を、自己治療たるOTCの有効成分として転用(スイッチ)する場合」の意味である。
スイッチOTC薬の登場によって一般用医薬品の申請区分(1〜5区分)も明確にされ、申請区分1〜4に該当するものを「新一般用医薬品」と称するようになった。わが国におけるこれまでのスイッチOTCの主な成分を表1に示す。
スイッチOTC薬は次の点について十分検討され、承認基準に適合したものに限定される。
@成分:薬理作用が緩和であり、医療用医薬品としての使用経験の中で副作用の程度・発生頻度が高くないことが確認されており、習慣性・依存性・耐薬性を生ずるものでないこと。
A適応:適応疾患の自己診断が比較的容易であること。
B用法・剤形・容器:使用方法が理解しやすく、誤用の危険性が少ないこと。また、過
度の長期投与。
Cその他:併用による相互作用の危険性が少ないものであること。また、包装単位が適
切であること。
また、その取り扱いは、薬発第1101号薬務局長通知(昭和61年12月27日付)により、昭和62年1月1日以降承認された一般用医薬品は3年間の市販後調査期開か課せられることとなった。市販後調査の実施に当たっては、承認取得者が薬局など販売者を通じて行う。
したがって、薬局など販売者の果たす役割、特に開局薬剤師の機能がさらに重要となって
きている。最近のスイッチ成分を配合剤として含有する主なスイッチOTC薬を表2に示
したので参考にされたい。
医薬品をめぐる現境は大きな転換期にあり、その中でOTC薬の果たす役割はこれまで以上に重要となることが予想される。新一般用医薬品については、その取り扱いが明確化され、医療用医薬品と同様に、原則として市販後調査がすべての新一般用医薬品につき実施されるようになった。われわれ病院勤務薬剤師も、一般用薬品、特にスイッチOTC薬について服薬指導の観点から、さらに注意を払う必要があると思われる。
なお、アメリカでは医師,薬剤師,製薬企業,法律家などが集まってスイッチOTCの位置付けが検討されている。その中で、大衆による医薬品の適正な選択,スイッチOTCのコストベネフィット,十分な情報提供,処方箋薬と非処方箋薬の明確な区分などが問題点として指摘されている。
参考文献
1)増田聡生:薬事日報,No.7430号 (63.L0.8)
2)丸山正文:月刊薬事,29,553〜556 (1987)
3)編集部:ibid,28,921〜926(1986)
4)日本医薬情報センター編:一般薬日本医薬品集1988〜9版,薬業時報社(1988)
5)高山昌也:日本薬剤師会雑誌, 40,465〜471(1988)
6)渡辺 徹:薬事日報,No. 7453 (63.11.24)
本稿は、福岡県病院薬剤師会の会誌であるDRUG INFORMATION NEWS(Na 86,1988.
8.15)に、〔質疑応答(福岡大学病院)〕として掲載されたものである。転載を許可され
た、福岡県病院薬剤師会会長の黒田健先生に感謝の意を表する。
「小柴胡湯の併用で B型慢性肝炎に効果」
小柴胡湯は、抗炎症作用,免疫調節作用,肝細胞障害防御作用,肝再生促進作用,肝血流量低下抑制作用など、多様な薬理作用が認められており、B型慢性肝炎,非A非B型慢性肝炎,アルコール性肝障害など各種の肝機能障害に対する有用性が高い。
特に、このほど新しい薬物療法として、B型慢性肝炎に対する、小柴胡湯とインターフェロンβとの併用療法の、より高い有用性が認められ、日本肝臓学会東部会('63.11.18)ならびに西部会('63 12.2 )で発表された。
昭和大学藤が丘病院消化器内科と大阪労災病院内科・病理のそれぞれが、B型慢性肝炎に対するインターフェロン・漢方薬併用療法について発表した。演題は、前者が「HBe抗原陽性のB型慢性肝炎例に対するインターフェロン・漢方薬併用療法」、後者が「B型慢性肝炎に対するIFN療法―小柴胡湯併用療法について」であった。
クリニックマガジン,トピックス,(2),1989
「あいかわらず多発している アニサキス症」
ほとんど季節を問わず、しかも新鮮な状態でどの家庭でも手軽に食べることのできるサバは、腹腔はもとより筋肉内にも多数のアニサキス幼虫が寄生しており、サバの生食あるいはそれに近い形での摂食が、全国的な患者の発生につながっている。
この多数の患者発生の理由の1つは、サバそのほかの魚の生食にある。したがって、予防法は海産魚の生食を避け、加熱(60°C,1分以上)あるいは低温処理(-20°C以下数時間,すなわち冷凍食品)をすることである。
患者多発の理由の第2は、胃腸科病院の臨床医がきわめて熱心であること、あるいは切除されることなく短時間で痛みを除いてくれる、という風評によって、患者が患者をよぶ形で増えていると考えられる。
第3は、大きく普及した胃内視鏡によってアニサキス症の診断と摘出術が容易になったことである。以前よりも病気に対する恐怖観念が薄れたため、二度ならず数度にわたり感染・治療を繰り返す者すら出現している。
この日本独特の生食習慣は、ダイエットの名目で地球の各地に広まり、そのため世界の各国でアニサキス症の患者発生をみるに至っており、高価なダイエット代となっている。生活習慣の変換が思わぬ病気の発生につながるという興味ある現象である。
医学のあゆみ,メディカルトピックス 3, P 72,1988
急患センター出動者懇親会に参加して
3月10(金)福新楼に於いて開催された今回の集まりは、特に「急患診療薬局業務
手引き書」の完成披露を兼ねて催されたもので、手引き書の編集をご指導くださった
吉本喜四郎,野仲範子両先生を始め、市薬専務時代にこの急患センター薬局の開設に
ご尽力くださった現県薬会長の荒巻先生、診療現場で大変お世話になっている平山婦
長、そして市薬執行部からは古賀会長,高倉副会長,藤原専務理事とたくさんのお客
さまをお迎えし、出席者数も51名で例年になく盛会でした。
会場のテーブルは、何となく年代や出身学校、勤務場所毎に自然に集まって「久し
振りねエー白髪ふえたんじゃない」「えエ−この頃、細かい宇を読むのに眼鏡がいる
ようになったのよ。」とかまるで同窓会の雰囲気です。
急患センター薬局への出勤者は、薬局開設者、病院勤務者、薬局勤務者、福岡市の
職員、大学の職員、大学院生等、いろんな分野で仕事をしている人達120名で構成され
ていて、出動メンバーは、名前の「あいうえお」順で組まれておりますので、わりに
同じ先生と組む事が多いのです。それで合わない先生とは一年も二年も合いませんし、
年に一度のこの懇親会でしかお目に掛かれませんので、私はこの集まりは大変楽しみ
にしております。
昨年、九大病院副薬剤部長になられた樋口先生は急患センターOBで、もう一緒に
お仕事する事はありませんし、お目にかかる機会も無いんじゃないかと思っておりま
したら出席してくださってました。今後、この急患センター出動者の和がOBの先生
方の出席も含めて、もっともっと大きく拡がってゆく事を願って止みません。
(記 木原)
<広 報> 「第7回 市薬ボーリング大会」
組織委員長 戸 田 昭 洋
平成元年1月15日は成人式であり日曜日、大行天皇崩御のため自粛ムードただよう中、第7回福岡市薬剤師会懇親ボーリング大会は午前10時、博多スターレーンに於いて決行された。
西支部が西,早良,城南の3支部に分かれ始めて独自に参加する大会でもある。
その状況下で参加者数を懸念したが、各支部長,部会長先生方のご努力ご苦労により、115名の参加をみた。
各支部毎の参加者数(応後者も含む)
東支部 13名 中央支部 11名
西支部 12名 南支部 11名
早良支部 14名 博多支部 25名
城南支部 13名 勤務部会 16名
ゲーム結果
支部対抗戦(参加者の1ゲーム平均点)
優 勝 東支部 140点
準優勝 勤務部会 136点
3 位 博多支部 132点
個人戦(3ゲーム総得点)
優勝 堀 浩文 536点
(博多支部千鳥橋薬局)
準優勝 中野 寛 517点
(中央支部赤坂門薬局)
3 位 入江理裕 513点
(東支部セイイ薬局)
尚 BB賞 肥高 豊 ?点
(中央支部市薬職員)
ブービー賞の肥高さんは、ちなみに2連続受賞(女性は30点加算、男女同権なのに!)1ゲームの得点では準優勝の中野寛先生(第一45年卒)の203点と西森基泰先生(京城16年卒、中央支部,山荘通り薬局)の194点が輝く!特に西森先生のオカラダとオトシ(ひょっとしたら4つの時代を生き抜いてあるのでは?)を考えると驚異的な数字であろう。
ご本人に伺うと「なめたらいかんゾ。薬剤師は元気かとバイ、元気やなかといかんトゾ!」とにこにこ。「何か賞ば出さないかんちゃないと」と大会委員は大荒て、結果は「規定にございませんので、賞がなか」と。キマットル・・・・・・
コンピューター付きゲーム機で最初は戸惑いがあったが、そこは何とやら、さすがのものでスムースに運び、午後1時前にゲーム終了。
終了後、大ホールに場所を変え、古賀会長の挨拶ののち藤原専務理事による乾杯の音頭で懇親会は聞かれた。暖かい海鮮鍋等をつつき、和気あいあい。ビール、ウイスキーもはいって宴たけなわ。
CDカラオケの準備もあり、九大病院副薬剤部長の金枝先生の「夫婦坂」を先頭に、藤原専務理事のトリまで各先生方の自慢のノド熱演をたっぷり拝聴し、また見せて戴いた。
事故もなく、高倉副会長の閉会の辞で午後3時前に締め括った。そののち、三三五五、マージャン等で更に親睦を深められた先生方もいらっしゃったとか・・・・・・
〔漢方研究会〕
演 題 「お?血と漢方処方」
講 師 山内一晃
(小太郎漢方製薬(株)学術部)
日 時 平成元年1月20日
会 場 福岡市薬剤師会館研修室
出席者 76名
「お血」といえば、一般に「血の道症」や 「婦人科系症状」と思われているが、血液のとどこおりからくる病気がお血症である。お血からくるいろんな病気がお血症である。お血からくるいろんな病気の説明と、お血症によく使用される漢方処方を、具体的に適用の仕方について説明された。実戦的な内容で店頭での相談や説明に役立つ話が聞かれた。
(報告担当 冷川)
〔薬物療法研究会〕
時 所 平成元年1月24日(木) 午後6時30分
日 場 市薬会館研修室
出席者 94名
演題と講師
「抗アレルギー剤について」
エーザイ活纐部企画室
プロダクトマネージャー
岩下真治 先生
〔学術研修会〕
日 時 平成元年2月23日(木) 午後6時30分
場 所 P大日本製薬会議室
出席者 87名
演題と講師
「鼻をどう診るか」
―花粉症の季節を前にして―
耳鼻科柴田クリニック
医博 柴田浩一 生先
当日は、研修会場の市薬会館が建設中のため、大日本製薬会議室で開催されました。
会場が150名収容できる広さですので出席者数が心配されましたが、前回と変わらない出席者数で、準備をされた学術委員の先生方もホッと一安心。
「第27回 福岡市薬剤師会 ゴルフ同好会」
日 時 昭和63年12月4日
場 所 芥屋GC
参加者 13名
前日、芥屋「玄洋館」にて忘年会を開催、12月4日午前7時45分スタート。
忘年会に参加しなかった冨永計久先生が優勝されました。
写真:優勝賞品を手に嬉しそうな冨永先生
「実はこの賞品は手に持っただけで、後で返還されるそうです。」
第19回社団法人 福岡市薬剤師会 臨時代議員会
日 時 平成元年1月28土)午後4時
場 所 市薬会館研修室
出席者 古賀会長、高倉,長谷川各副会長、藤原専務、三津家,坪根,松枝,正岡,藤下各常務、城戸,高杉,南島,成渾,冷川,小野,藤田,市花,木原各理事、礒田監事
代議員
東支部 柴田伊津郎、加藤正剛、入江理裕、吉村順二
博多支部 冨永雄三、鶴原潔、石井雅明、山口利英、森川公彦、渡辺久代、吉田徹、蔵元良行、阿波欽治
中央支部 森田明、中野佐、国武一人、西森基泰
早良支部 糸岐良次、本川栄、清永遠三、波多江敬三
城南支部 合渾英夫、深江暉夫、野田靖夫
西支部 吉田斌、占部吉幸、竹尾禎二、中野勝郎
南支部 古賀茂次、木村英樹、山口博、岩永栄次、深見俊彦
勤 務 木村浩三、唐沢博順、豊福利治
議 長 貝島圭次
代議員53名中37名出席。よってこの代議貴会は成立する。
議事録署名人 古賀茂次、深見俊彦
▲会 議
正岡理事の司会により午後4時開会
1.開会挨拶 高倉副会長
昭和63年3月の臨時代議員会で、会館建設についての承認をいただきました。それに基づいて、会館建設プロジェクト委員会を5回開催して計画を練り上げました。本日は慎重に審議していただきたいと思います。
1.会長演述 古賀会長
平成元年に会館建設という―大事業が行われることになりました。又、本年は石井選挙も行われ、正に記念すべき年であります。
本日は、会館建設についての議案を提出しますので、充分に審議していただきますようお願いしまして、御挨拶と致します。
1.議 事
議案第1号 会館建設の件
昭和63年3月12日開催の第17回臨時代議員会で会館建設プロジェクトを編成し、慎重に計画を練り、検討を重ね建設会社と交渉した結果、次のとおり合意に達したので御承認を得たく提案する。
建設会社 八千代建設株式会社
設計監督 石橋建築事務所
会館の規模、内容 別紙
工事期間 約8ケ月
建設費 1億6,800万円(解体費を含む)
〔質 問〕
▲富永(博多支部)
@新会館の維持管理費はどのくらいになるか
A補償金の支払いと新会館の借入れ金について
〔答 弁〕
▲古賀会長
@建物は280坪から377坪と広くなるが、土地が18坪削られるので固定資産税は変らない。
約500万円
A福岡市(用地課)より補償金の一部が支払われ、そのなかから旧会館の返済残金を完済した。新会館については会員の負担金は無い。
〔質 問〕
▲国武(中央支部)
建物に対する補償期間はどれくらいか。
〔答 弁〕
▲古賀会長
この代議員会で議案が承認されないと契約はできないのでその件は受けたまわっておく。
〔質 問〕
▲竹尾禎二(西支部)
建物の外側に一般の人々にアピールするような物を希望する。
〔答 弁〕
▲古賀会長
前庭園の角にポールを建て、それに3面の看板と4階屋上の西鉄側にも取り付ける。
〔質 問〕
▲本川(早良支部)
@電車の騒音に対する考慮はなされているか
A石橋建築事務所への支払はどれくらいか
B旧会館の施設は転用されるのか
〔答 弁〕
▲古賀会長
@講堂を西側に移し、電車側はフロアーになっているので心配無い。
Aきわめて安価でお願いしている。
B古い施設を転用するとかえって高くつくので考えていない。
議案第2号 仮事務所の件
所在地
福岡市中央区今泉1丁目11番2号
葛燒蜷サ作所福岡支店跡
議案第1号,第2号ともに承認。
1.閉会挨拶 長谷川副会長
議案第1号,第2号について、慎重に審議していただきありがとうございました。今後執行部としましては、立派な会館が出来るよう最大の努力をして参ります。本日は誠にありがとうございました。
新 会 館 概 要
(平成元年11月竣工予定)
新会館完成予想図
会 館 要 記
(建 設 地) 福岡市中央区今泉1丁目1番1号
(土地面積) 455.11m2(1 3 7.7坪)
(建築床面積) 1,063.64m2(321.75坪)
1 階 266.13m2
2 階 255.16m2
3 階 267.05m2
4 階 8.25m2
(設計・施工) 八千代建設株式会社
本社 福岡市中央区薬院3丁目2の9
(工事監督) 石橋建築事務所
(着 工) 平成元年2月
(竣 工) 平成元年11月
理事会報告
第191回理事・監事会
日 時 平成元年1月18日(水) 午後7時
場 所 市薬会館会議室
出席者 古賀会長、高倉,長谷川各副会長、藤原専務、三津家,戸田,松枝,坪根,藤下各常務、木原,高杉,南島,冷川,城戸,小野,藤田,成澤,市花各理事、日高監事
議 事
1. 会長挨拶
1月7日に大行天皇が崩御され、新しく平成元年がスタートしまして本日は第一回目の理事会であります。市薬にとりましても本年は、石井選挙,新会館建設と大きな事業があり気を引きしめて掛らねばなりません。よろしくご審議下さい。
2. 会務報告
藤原専務理事より報告
@ 簡易専用水道の会議が県庁であり、坪根,城戸各理事出席。
A 福岡市健康週間第2回実行委員会が福岡市衛生局であり古賀会長出席
B 新薬研修会の開催について、1月17日より会場が市薬から県薬会館へ変更になっている
C 西日本地区給水衛生検査協議会技術部会が日本環境衛生センター九州支局であり、坪根,城戸理事出席
D 市薬懇親ボーリング大会には115名の参加があった
E 八千代建設と最終打合わせ、古賀会長、藤原専務理事
F 1月18日三役会、会館プロジェクト委員会で最終結論を得た
3.委員会報告
4.協議事項
@ 会館問題について
会館プロジェクト委員会より提出された案について理事会で承認された
A 予算について
平成元年度市薬予算案により、会費等基本的な問題について協議した
B その他
おおま敬氏出陣式
1月25日(水) 午前10時
「おおま敬を励ます会」 於県薬会館
2月5日(日)午後8時
上記へ出席を要請
第192回理事・監事会
日 時 平成元年2月20日(月)午後7時
場 所 市薬仮事務所
出席者 古賀会長、長谷川副会長、藤原専務、三津家,戸田,松枝,坪根,正岡,藤下各常務、木原,高杉,南島,冷川,城戸,小野,藤田,成澤,市花各理事、日高監事
議 事
1.会長挨拶
先日の合馬敬氏の補欠選挙は、石井選挙を伺う大切な選挙で、支部長始め会員の先生方にご協力いただきましたが、ご承知のような決果となり6月の石井先生の再選が大変憂慮される事態となりました。後援会は100%達成できるよう3月いっぱい頑張って下さい。
12,13,14の三日間掛って仮事務所への引越しが無事終りました。新会館は11月末完成の予定です。
2.会務報告
藤原専務理事より報告
@ 新会館建設にともなう福岡試験センターの休業問題について
A 石井道子後援会活動について
日薬の締切りは2月末となっているが、石井事務所では3月末迄受け付ける。1月末の県薬の状況は達成率92.7%となっている
B 2月4日市医師会館にて福岡市内科医会と分業問題についての話し合いが持たれた
出席者
内科医会 中村会長、小野副会長、石原副会長、堀の内専務理事
薬剤師会 古賀会長、藤原専務理事、平岡常務理事、成澤理事
C 会員数の増加に伴ない県薬代議員数が35名から40名に5名の増員になった
3.委員会報告
4.協議事項
@ 予算について
平成元年度市薬予算案について協議した。最終決定は、3月の理事会で行う
A 市薬通常代議貴会の開催日時について
開催日は4月22日(土)に決定した
B 健康イキイキドーム完成披露出席者について
3月13日(月)午後4時現地にて実施。
出席者の確認を行った。
お疲れさま!
2月12,13,14日は市薬会館の引っ越しです。古賀会長他役員の先生方は、連日出勤でお手伝い。古賀先生は手にホーキを待って、藤原専務はあの細い体でテキパキと差しず。職員の皆さんも本当に御苦労さまでした。
委員会報告
〔社保委員会〕
日 時 昭和64年1月5日(木) 午後1時
場 所 市薬会館図書室
出席者 正岡常務理事、小野,藤田各理事、鶴原,大庭,山口,入江,岩穴口、清水,藤野,川畑各委員
1.保険薬局特別会費問題について
・コンピューター用紙と現在使用中のレセプト用紙の費用に関する問題
・新事業に対する資金確保
2.レセプト審査
日 時 平成元年2月4日(土) 午後1時
場 所 市薬会館図書室
出席者 正岡常務理事、小野,藤田各理事、清水,大庭,鶴原,平島,山口,川原各委員
1.保険薬局特別会費問題および保険薬局委員会の今後のあり方について
2.レセプト審査
〔薬局委員会〕
日 時 平成元年1月10日(火) 午後7時
場 所 千太
出席者 松枝常務理事、冷川理事、篠崎,石井,本村,青谷各委員、藤原専務
1.1月20日開催の漢方研究会について
当日の役割分担を打合せ
2. 懇親会
〔急患委員会〕
日 時 平成元年1月26日(木) 午後6時半
場 所 市薬会館図書室
出席者 成澤委員長、藤下,小松,深見,北島,竹尾,馬場各委員
1. 大喪の礼(休日)時の診療について
急患委員8名に割り当てる
2. 診療時の窓口対応について
昨年末に患者とのトラブルあり、言葉使いに注意。
3.残業届けについて
30分以上業務時間が延長した時は、残業届けを提出する
4.県薬の救急医療委員会の報告
調剤技術と医療に携わる心がまえの手引書を作成する。
日 時 平成元年2月3日 午後7時
場 所 市薬会館図書室
出席者 成澤委員長,藤下,小松,深見,打越,竹尾,馬場,北島各委員
1.3,4,5月の急患センター出動表作成
2.確認カード発送の件
従来通りの形式で行う
3.出動者懇親会について
招待者 吉本先生、野仲先生、平山婦長、古賀会長、高倉副会長、藤原専務
日 時 3月10日(金) 午後6時半
場 所 福新楼
会 費 3,000円
4.新規出動者説明会について
千堂年昭(九大病院薬剤部)
〔学術委員会〕
日 時 平成元年1月20日(金) 午後6時半
場 所 網元
出席者 長谷川副会長、藤下常務、成澤,市花各理事、中島,久池井,山田各委員
1.1月24日開催の薬物療法研究会の準備と役割分担について
2. 次回の学術研修会について
市薬会館研修室が使えないので、場所を大日本製薬会議室(呉服町)に変更して行う。
3. 石井道子主催「合馬敬氏を励ます会」への出席を会員に呼びかける。
4. 3月の学術研修会の予定
「皮膚科領域のアレルギー疾患について」
日 時 平成元年2月13日 午後6時
場 所 潟ニック会議室
出席者 長谷川副会長、藤下常務、成渾,市花各理事、中島,久池井,山田各委員
1. 学術研修会(2/23)の準備と役割分担
2. 次回(3/24)の学術研修会の予定
日時 3月24日(金)午後6時30分
場所 三和化学会議室
演題「皮膚科領域のアレルギー疾患」
講師 九大皮膚科外来医長
今山修平 先生
3. 地域医療における学術委員会の役割について
4. 来年度の事業計画について
5. 「市薬会報」のトピックスについて
〔広報部会〕
日 時 2月8日水)午後7時
場 所 市薬会館図書室
出席者 古賀会長、藤原専務、木原,城戸各理事、野仲委員
1.広報部の予算について
今回は、特に古賀会長にも出席して戴き広報部の来年度の予算について検討
2.「市薬会報」3月号の編集について
|