会報第17号 昭和60年3月10日
 ■ 巻 頭 言

帰家穏坐                     福岡市薬剤師会 会長 冨永 泰資

 昭和60年1月1日は、本当に珍らしい快晴の元日であった。本年は良いことあるか、との期待に胸脹らませ例年の通りわが菩提寺に参り和尚に年始を申上げ、屠蘇をありがたく頂載す。

 さて、その後は本山大和尚の色紙を頂くことが通例になっているし、又これが私の一年の糧になっている。今年は丑年である為四足を折って横になってユックリと反芻している牛の絵に表題の帰家穏坐を書かれたもので何となく静かな色紙であった。

 今年は余り良いことないのかな?家に帰って穏やかに坐んなさい。まさに直訳するとそういうことになる。がその奥なるものは何か?、牛は粘り強く常々精一杯働く動物である。その後は次に備えて静かにおだやかに坐して休む姿である。本年は、明年に備えて静かにその活力を貯える年なのか?、決してなまけているのではなく備えの為の蓄積の姿なのである。

 昨年までの薬業界は如何にあったでしょうか?、分業の烽火があがって即に10年を越えました。福岡県は全国一の分業県となったこと誠に喜ばしいことである。しかしここ数年来老健法の新設、医療制度の改正、更には大巾薬価改定と矢継早にきびしく手直しされて参りました。

 その影響は患者の受診率の低下激滅(40%減)に伴う処方せんの減少も昨年暮には現実にあらわれて参りました。その上保険薬局に対する監督強化、それに伴う不祥事の発生等色々の変化が一気に噴出した感がありました。県薬は特に後者にその責任を感じ60年度は保険薬局、保険薬剤師の義務と責任業務の研修強化を計画中と聞く、誠に結構なことである。

 10数年ただ只管に分業推進、処方せん応受に狂奔し、内なるものを忘却していた感がある。先ず自らを厳しく律してこそ明日の保険薬局の道が拓けるのではないか。  このことに自身反省し色紙の文言を考えあわせるとき、今年度の分業推進事業として処方せん応受、分業推進を口にすることなく地城会員の薬剤師としての勉強会を積極的に推進したい。

 それも支部長、部会長を中心とした小規模、少人数のものであった方がよく、その講師としてその地域の医師先生をむかえたら如何なものであろう。私は分業に対する医師の考えは、どんなであったろうかと過去の月間を反省してみるに分業の声が大きく実がなかったと思う。

 日薬の分推パンフには、医師経済性を第一に考えていいと思われる経済性の面(節税)の説得が重視された面が多かったのではないか?、然し現在では薬剤師自体がその虜になり、その面を穏しての対医師交渉に走っていた様に思われる。医師は、即にそのことを見透して中々胸衿を開いてくれないのが現状であり、更にその上本当の理由は、薬剤師の不勉強を第一に最も強く感じ取っていたのではないか?、吾々は県薬、市薬を通じ毎年勉強会は可能なかぎり催して来た。

 然し市薬開局会員500の中どれ程の会員が出席して来たであろうか。多くて5分1、少い時は10分の1以下というのが現況である。誠に情ないことである。本年の分椎目標にブロック分業を掲げて来たが、私の努力不足は申すに及ばないが会員の認識、自覚のなさにも驚いている。

 もはや今日棚ボタ式(強制)分業はあり得ない。然し会員の中には薬剤師会は何もしてくれないという不満を口にする人が多い。棚ボタ分業指向が現在も多く聞かれる。然しその時ではないであろう。先ず、自らの勉強をより実行し医師にその熱意を認識して貰う努力が必要ではなかろうか。既にある部会では勉強会が発足していると聞く、一部会でも結構之を実りある勉強会とし、ブロック分業の足場にしたいと思う。地域医師とのコミュニケーションの場は先ず勉強会より、更に趣昧の会へと発展させるべきではなかろうか。

 「帰家穏坐」の年、只営薬剤師の安住の家(会・部会)に腰を据え、穏かな心で勉強し明日の糧にしようではありませんか?。
                             (西支部、周船寺 冨永薬局)


これからの分業                福岡県薬剤師会 専務理事 荒巻 善之助

 県薬専務に就任して二期半、5年が過ぎようとしています。このうち一年弱、市薬副会長を兼ねていた時期がありますから、市薬執行部を去って、4年ちょっとになるようです。市薬の役員になったのは昭和34年からですから、22年間居座っていたわけで、県薬在籍期間よりずっと長い。それだけ長いこと居たのですから、市薬のことは何でも分っていそうなものですが、これが案外と分っていなかった。

 要するに市薬に居た頃は、内側から見た市薬しか知らないわけで、外側から見るということをしなかったし、又そういうチヤンスもなかった。それが今、県薬執行部という立場から市薬を見ると、以前気付かなかった市薬の側面がわりとはっきりと見えて参ります。又、そういう見方で福岡県と他県とを比較してみると、福岡県の特徴もよく分るような気が致します。

 福岡県薬剤師会は24支部ありますが、この中で福岡市薬は県下の4分の1の会員数を擁する大支部であります。福岡市ぐらいの、或いは福岡市よりも小さな県はザラにあるわけで、福岡市薬は他の県薬と同等の、或はそれ以上の実力をもっているわけであります。これは会館及びその内部設備、事務器材、会報、役員や事務員の陣容、事業内容、等々、どれを取り上げてみても言えることです。

 ところが逆に支部を持たない大府県がある。実名を出して申訳ないが例えば大阪府薬などがそうです。大阪市薬というのは名前はあるが実体がない。府薬会館で大勢の事務員がいる片隔で2名の事務員が集金業務だけやっている。事業はすべて府薬がやるわけであります。こういうやり方は効率の点では大変都合がよい。何でも一括でやれるから当然そうなります。然し弱点もある。すべて府薬まかせになってしまうので、地区のリーダーが育ちにくいということになる。そしてこれは分業、特に面の分業を進める上では甚だ具合の悪い条件になるわけです。

 医薬分業というのは医師と薬剤師の対話こそがその基盤になる。信頼と情報のない所に分業などあり得ようはずはないわけで、その具体的な対応はすべて対話であります。従って分業の先進地域、特に面分業に於ては強烈なリーダーがいて、常に医師との対話を保ち、内には会員を説得し牽引することによって実現しているのです。

 こういう図式を考えると、県薬レベルにいかに強いリーダーがいても、決して分業は進まない。分業推進のリーダーは、その人の顔の通る範囲、説得をし実際に世話ができるぐらいの地域内でないとむづかしい、人数からいうと30〜40人多くとも80人ぐらいが限度と考えられます。

 一方、福岡県下における福岡市の分業状況をみてみると、保険薬局数は全県下の26%約4分の1強です。受付枚数は昭和53年頃のデーターで全県下の34%、56年になると21%、最近では20%、となっています。県下他支部での分業進展の足並みに較べるとスピードが落ちてきたことがわかります。

 これに恵愛団その他数軒の大型調剤薬局が、加わっていることを考え合せると、一般会員の分業率は必ずしも他支部に比して良好とはいえません。この理由はいろいろありましょうが、福岡市薬が、他の県薬なみの大支部であるということが第一に考えられます。市薬の支部、即ち区単位でも大き過ぎるのです。部会、或いは部会の連結したものが一つの単位として活勤することが必要と思われます。

 今、医療経営は、調剤薬局を含めて冷込みの時期に入っています。保険薬局の新期指定も本年1月はたった1件という、始めて経験する数宇です。これは国の医療費抑え込みの政策によることはむろんですが、それだけでなく、世界的な機関医療ばなれという傾向でもみることができます。

 反面、大衆向健康機や、健康食品、ヨガ、エアロビック等、いわゆる健康産業は、すばらしい伸びを示しています。これは情報時代の方向として受取る必要がありましょう。健康指導者が、ここ数年アメリカで最も伸びた職種ですから、そういう考えを経営の中にとり込むことも必要でしょう。

 然し薬剤師は本職である調剤から離れるわけにはいきません。むしろそういう時代になったからこそ、本当の分業推進ができる時期になってきたことを知るべきでしょう。リベート分業はもう成立ちません。これからは分業も本物の時代がやってきます。


店頭雑感               西支部西新部会 マルエー薬局 冨田 郁美

 いつも薬局の店内にとじこめられている私共は、外を眺めては、天気がよいとドライブとか、ゴルフに出るとどんなに気持がよいだろう。なんと因果な商売だなあと思い、雨の日、雪の日になると、混雑する車の列を見ながら、時間までに出勤しなくてはならないサラリーマンの方々にご苦労さまと云いたい。店をあけるまでゆっくり出来る幸せを感じたり、人間って勝手な動物だなあと、痛感致しております。

 夫々の立場でよい所、悪い所がありますので、よい方に考えることに努めるべきだとわかりながら、我儘が出て朱るのでしょう。

 皆さんは、一定の箱の中にいる人間の欲求不満、ストレスをどう解消なさっていますか。多忙で、外を眺めることも出来ない時、疲れでぐったりする夜、又ひまをもて余す時の雨のうらめしさ、誰もが経験することだと思います。

 忙しい時に限って、あれこれと質問をする人、順番を考えずに我もの顔にわりこんで云う人、そんな時、その人の人間性をふっと考えます。

 然し薬局に来る人は、病は気からと性格的に、精神的にノーマルな感情生活を送っている人は少なく、アブノーマルな人間だから、病気になるのも致し方ないと、だが、訴えを聞いている、私共の感情のうっ積は、どこに持って行くとよいのでしょう。病院時代、患者に直接に当る医師は大変だと思いましたが、その立場になるとストレスの捨て場が必要になって来ます。いくら商売でお金に結びつくとは云え、計算では感情は処理出来ない様です。奉仕の精神でといい聞かせながら、こちらの精神状態をノーマルにしてないと、適切な投薬が出来ないんじやないかと考えます。

 現在では、夜の時間をアルコールと、カラオケで捨てて、環境と零囲気で気分転換をはかっているのでしょう。女注も負けずにやっている様です。ストレス零の状態から又、明日からの仕事のエネルギーを蓄え、お客さんに接することが、商売繁昌につながって行くのではないでしょうか。会員さんで、よきストレス解消法があれば御教示下さい。


薬局の指導性                    市薬顧問 藤野 義彦

 薬局経営は、一時的な売り上げや収益の増大だけではつまらない。これも大事ですが要は長続きが必要なのです。現在薬局経営は非常に困難な時代ですが、負けて押しながされてはならないのです。

 医療分業元年と云はれた49年以未、今日まで薬剤師職能発揮の場として輝かししい伸展を見て来た処方せん応需もここに至って停滞の状況を示して米たことは衆知の通りです。福岡県における昨年12月と一昨年同月の対比を見ると枚数において6万枚、請求額にして2億8千万円の減少となっている。薬業者にとっての本年は、まさに歴史的な事実を裏付ける年となろうとしています。医療費抑制策の一環として薬価の引下げが行われ、これで3年間に40%もの引下げ幅となり、薬業界は深刻な影響をうけている。健保法の一部改正が行われ、健保本人も1割負担と云う制度になった。(61年には本人負担2割の実施と云われる。処方せん応需は、苦多くして報はれないと云う声すら聞く)

 さきに老人保健法によって一部有料制が導入されており受診抑制の力が一層働くことになったのはいうまでもありません。この様な事情から処方せん応需も落付くところに落付いて来た感があります。一部、中央医療協で問題になった一部保険薬局のよからぬ突出も是正されながら面への分業へ移行しつつあることは喜しいことです。  今、小売業はストアとストアレスの競争だと云はれ、我々薬業界特に薬局においても例外ではない。それは@医薬品のカタログ販売でありA医薬品・医薬部外品の訪問販売、B配置販売の隆盛てす。どれ1つとっても会員の方々にはギユツとこたえる事ばかりではないだろうか。訪問販売に致ってのあの押し強さはどうだろう。配置販売は薬局の隣まで来ていることは衆知の事実、この様な攻勢の餌食となったのは、特に健康食品、健康機器、化粧品であり医薬品も例外ではない。

 医療制度の転換に伴って、カゼ薬アンプル禍以米、昭和35年以降、副作用のない薬物で構成されて来た大衆薬も、これを契機として必然的に医療用医薬品の一般用医薬品への処方参入で効く大衆薬が求められることになったのは開局薬剤師として歓迎するものです、巷間ささやかれる自己治療頷域での受診抑制策による国民の薬局への回帰も期待されているのも事実です。

 しかし、こう簡単にタナボタ式に来るのだろうか。答えは悲観的と云はざるを得ない、薬局の経営不振は50年以降慢性化しここ数年特にカシマしく言はれ続けて来ている、いわゆる冬の時代といわれ、耐乏を強いられている「冬来りなば春、遠からじ」であろうか。環境はますますキビシく永河期に入るのではないかとさえいわれるのです。

 以上の様な環境の中に我々は存在する。そこで悔やむもいいが、前向きに今決心すべきときであり、足をしっかり地につけ、薬剤師職能を反省、白覚し、これからの薬局のあり方を真剣に考えるべきでしょう。自己治療は医療の原点であると言はれます。病気を治したい、健康になりたいと思うのは、だれよりも患者自身であり、”治りたい”患者が医者にかかり、一方で自分でも治そうとする。釈迦に説法かも知れないが、「自己治療」者の一番の相談相手であり、その指導者となるのが、我々開局薬剤師です。

 これは調剤を通じて医療を担当するのと同じように「社会の中の薬局」として、OTC薬を通じて医療の一部を担う重要な使命です。患者に対して、医師はなかなか充分な説明をしない、大切な情報を与えないことが少なくない。我々は患者と同じレベルで対話が出来る関係にあるので、患者の情報によって適切な指示を、また患者を励ますべきで、これは非常に大切なことです。健康教育を含めての場として最も私達に期待されるゆえんがここにあります。今こそ我々は薬剤師職能を自覚し、平几なことを積みかさねて行く経営には実践と経験が一番大切です。


薬 草 と り                 西支部・姪浜部会 中野薬局 中野 勝郎

 薬剤師会の集まりで顔を合わせると、親しい友人間で、きまってゴルフ、釣、マージャン等の話になり、皆さん、何か趣昧を持ち、その上、腕の方もプロ級の人が多く、うらやましい限りである。日曜、祭日店休なし。早朝から深夜にかけて、ほとんど無休で頑張っているのに、なおこの腕前、スタミナである。きっと何か特別のスタミナ剤でも服んでいるに違いない。誰も教えてくれないので、ヤケクソになり、手当りしだい、その辺にある強壮剤を服んでみたが、ゴルフもボーリングの腕もサッパリあがらない。

 ある日、薬局にお客が野生のアマチャヅルらしいのを持ち込み、本物かどうか鑑定して欲しいと頼まれた。種子を取り寄せ、プランターで育てた我が家のアマチャヅルは、その家の主人に似て、か細く、ひ弱そうである。客の持って来た野生のは葉もツルも大きく、ダイナミックである。野生のアマチャヅルなど観たこともないので、分らないと云うと、この有名な漢方薬?であるアマチャヅルを専門家が知らないのですかと不満そうに帰っていった。

 ドクダミやゲンノショウコ、センブリぐらいなら、野山を歩いた時、自生しているのは見かけたことはあるが、その他の薬草は生薬問屋から仕入れる乾燥した葉、根、実の類ばかりで、こんなことでは、漢方薬相談の看板を下ろさねばと、冷汗をかいた。

 私の友人に狩猟をする男がいる。散弾銃で狩猟期に入ると、カモやキジなどをとってきては薬局に持ってきてくれる。この男、生薬や薬草に非常に詳しいので驚いた。元々、薬草に興昧があるらしく、一度、猟についてこないかと誘うので、この機会にアマチャヅルでも探してみようと、猟犬がわりに、お供させてもらい、近郊の山野をかけまわった。ヘトヘトに疲れたが、気分はさわやかで、めったに味わうことのできない自然の中で、野鳥料理やアマチャヅルやセンブリ、マタタビ等、薬草採集にありつくことができた。この友人は獲物をとって帰ると、羽根が散らかり、カアチャンがイヤがるので、とった獲物はもっぱら現地で調理し、手料理で食ってしまうのである。そして食い過ぎるとセンブリなど採って消化を良くするらしい。

 さて、山に入ると、まず耳をすまし鳴いている鳥の種類をさぐる。次に鳥やウサギ、イノシシの糞を探す。糞の存在により、その場所に住みついたり、巣をつくっている獲物の大体の様子を知る。次にある植物を探している。何と、彼はセンブリを探しているのである。動物達が怪我をすると温泉につかり治療する事は聞いたことがあるが、身体の調子が悪いと本能的にセンブリを探しだして食い、回復をはかるのだそうで、その知恵に驚く。附近のセンブリの食い跡、形などから、ここにはキゾが寄っているとか、タヌキが住んでいるとか判断するのである。なるばど、彼が薬草に詳しいはずである。

 山イモ(自然生)は漢薬、八昧地黄九に使われているのは、ご存知の通りで、イノシシはこのヤマイモが大の好物で、掘った跡をみると、人間様の掘ったのとは比較にならないほどきれいにヤマイモを掘り出して食べている。その掘跡には「このヤマイモは山野シシタロウがとった…」とは書いていないが、足跡と糞(猪苓の形)をちやんと残している。あのイカツイ獰猛なイノシシが両方の前肢を使って器用にヤマイモを掘っている様子を想像するのは楽しいものである。さらに注意して見わたすと、ジャノヒゲがある。ゲンノショウコ、マタタビのカヅラ、クコもはえている。杉林のそばには、例のアマチャヅルが青黒い実をつけ、ツルをはわしている。

 突然「ズドン、ズドン」と二発、銃声が轟く。50メートルほど先にキジバトが落ちてきた。ヒョドリを次々と5〜6羽、撃ち落すともう附近には獲物は逃げてしまって、鳥の鳴き声も聞こえなくなり昼食となった。

 近くの池のそばで、猟犬?に火をおこすよう命じ、自らは林の中に消えると、しばらくして細い竹、カヅラ、杉の葉をかかえて、もどってきた。とった獲物の羽根をむしり、モモ肉、胸肉、内蔵と分けると、用意してきた、塩コショウをふりかけ、竹串にさし、火にあぶる。身の表面だけ、あぶったのは「タタキ」にし、あるいは杉葉でいぶす。胸の身は、小さく切って、ニンニクを混ぜ、特大のにぎり飯の中に入れ、アルミホイルで包んで灰の中に入れてトリ飯とする。野菜は、水ゼリ、クコ葉、掘っててきた山イモ等であり、これが野外料理でのメニューである。

 食事が終り、草っぱらに寝ごろんですうタバコが、いつものよりうまい。日常のあわただしい仕事に追われていると、考えもしなかった自然が、近くにあるではないか、藁家に往みヒエやアワ、野生の草など食っていた、半野生的人間の生活を昧わうことができたのである。


漢方研究会発会にあたって         博多支部・住吉部会 はなたれ薬局 冷川 襄

 昨年3月、福岡医師漢方研突会よりの呼びかけに応じ、社保委員会で準備してきた漢方研究会が、昭和60年1月18日(金)「福岡市薬剤師漢方研究会」として発会にこぎつけました。薬剤師会の事業の一環として、分業椎進、OTC浮上、組織強化の一助となるよう努力する次第です。

 昨年8月アンケートをとりましたが、その中で、処方せん調剤に於いては、漢方の勉強など、必要ないという意見もありました。しかし、薬剤師の職能という点から考えて、職能放棄にほかならないでしょう。分業本来の姿は職能分業です。経済的メリットだけの分業ではないはずです。薬剤師法を見ましても、処方せん中に疑義あれば、医師に照会しなければ調剤してはならないとなっております。調剤薬局の会員方も大いに勉強して、医師の信頼を獲得しようではありませんか。患者に対しても、十分な窓口説明により、分業への理解もより深まるニとでしょう。

 ここ数年、薬局モニター情報を見てみますと、漢方薬による副作用が上位に入っています。漢方薬にも「副作用」があるということが、常識化しているように見えます。しかし、この副作用とは、漢方独特の「瞑眩」や、証のとりちがえによる異常反応と思われます。したがって漢方を正しく理解することによって、防ぐことができるはずです。「副作用」とは、その薬のもつ治療目的の為に使用しても、なおかつ現われる好しくない薬理作用のことです。この観点に立てば、漢方薬に「副作用」という言葉を強調することは不適当だと思います。沈滞気昧のOTC薬ですが、客に対する十分な説明を行い、職能を生かすことによってOTCの向上につなげると思います。

 以上、調剤薬局、OTC薬局というカラーにとらわれず、共に漢方の勉強に励みましょう。

 薬剤師会は、医師会や歯科医師会に比べて、組織の弱さが指摘されています。ここに、漢方の勉強を機会に、親睦・団結を深め、組織強化に生かしましょう。
  今後の例会予定
   6月14日(金)第3回例会「小柴胡湯」
   9月13日(金)第4回例会「生薬の化学」
 漢方に興昧お持ちの先生方多数の入会をお待ちしております。
  連絡先 冷川  襄(はなたれ薬局 ・272-1551)


漢方基礎理論への提言           南支部・大橋部会 大庭薬局 大庭 秀臣

 薬剤師は、生薬を学として、勉強して来た唯一の社会的存在です。それ故に薬用植物を、人々の健に役立てるのに、最も相応しい知識を修得している筈です。しかし現代科学を基礎として学んだ頭で、5臓6腑の範囲を出ない漢方医学を理解する事は、大変困難ではないでしょうか。最近「病名漢方」として、疾病治癒と云う至上命題の為に、医師の方々にも導入されて来ました。その事は、漢方薬の普及や半病人を救うと云う点では異論ありません。しかし、医師サイドでの利用が多くなればなる程、漢方薬の見方や、適用の方法は、西洋医学的思考に偏って来ます。即ち「病名」に主力を注ぎ、漢方の論理は、影が薄くなるのでは無いかと危惧します。亦、漢方医学が持っている勝れた疾病観や、生命観までも、曲めかねないと思います。

 「医学」「薬学」「農学」等の生命科学の分野に於て「バイオ・テクノロジー」などの高度な理論や技術が駆使されている半面、「半病人」「半健康体」が多くなっています。亦一方、環境汚染をも拡大し、「原子力」を作り出した人類にとって、一瞬の誤りが、人類の破滅を招く現実に直面しています。

 今、人々は幸福とは何かを考え、「白然保護」「自然食」など自然に基いた生活を通して、「健康」に強い関心を示して居ます。民間薬に強い関心を示す国民の思考が之を示しています。

 先日、市薬剤師会として、市民の健康に奉仕する事で、民間薬、薬用酒の展示の折、市民の関心と、反響が大きかった事は、御衆知の通りです。この際、漢方が、自然の産物である生薬を、使う医学として、治療効果、薬理作用、等々、薬剤師として、新たな研突が必要ではないでしょうか。

 漢方医学は、随証療法で「証に随って病気を治す」即ち診断と治療とが密接に結びついております。「証」とは、治療方針を樹てる目標であり、基本であります。「証」は、時々刻々、変化するもので、治療に当っては、その変化に即応した方策を樹て、処方を変える事により、治療の目的を果す事が出未ます。OTCであれば「証」を自分で把握し変方を操り返しながら、病の治癒を通して、薬剤師としての職能を完逐出来るものと信じます。その間には、壁に当たり、思考錯誤に悩み、時には自分が病気に引き込まれはしないか、と思う事すらあります。

(イ)何故その様な証になったか。
(口)その証は何に起因しているのか。
(ハ)その証に対応する薬物の選定は、どの様にするか。
(二)その撰んだ薬物は、どの様にして、体の回復に働くのか。
等々、全く初歩的な疑問の山に、つき当り、時には迷路に入ってしまう事が、常々です。しか癒の前兆である副作用様症状「瞑眩」であれば許されますが、全くの誤ちである「誤治」であれば大変です。処方責任は、医師にあるのですが、多くは薬局に不満を持って来ます。

 この際、医師と共に勉強し、「生薬学」「薬用植物学」を学んだ薬剤師として、医師の諮問に答えられる体制を創らねばならないと思います。漢方薬処方等も漸時、増えています。

 現在、日本の漢方医学は、
(1)西洋医学的思考に立脚した対症療法
(2)「傷寒論」「金匱要略」など傷寒雑病論に立脚した随証療法
(3)東西医学の合体
と大きく変貌するであろうと思います。私は、西洋医学を否定したり、批判する気持は全くありませんが、その世界観が異る為、それぞれの立場に立って、その有用性を最大に生かし病気の治療に努め度いと思います。福岡医師漢方研突会に於ても、傷寒雑病論に立脚した勉学に努めている先生方も、多くなりつつあります。私達、薬剤師としても、より研鑽し、漢方の慨念を尊重し、その有用性を生かせる様、研突会を通して努力致したいと思います。


漢 方 と 易 と           東支部・箱埼部会 馬場薬局 馬場 正守

 井上 靖の小説に、古代遣跡を中心としたものがあります。中国西北の辺境の街、敦惶がそれで、ニの小さな都市(オアシス)については、実際に足を跡せずして、筆を走らせたものだと聞いています。古文書、歴史書等を下敷きにして書かれ、日本中の読者の目をゴビ砂漠の中の一つの街に向けさせ、また蒼き狼(ジンギスカン)も同様だと聞いています。先年NHKのTV取材で、敦惶の莫高窟に出かけられて、本当に本物を見て、小説に画いていたものとそっくりだと書いておられ、井上 靖先生の筆の巧みさと、誠実さに驚いています。

 さて中国の歴史に依れば、一番鍛初に世に出られた人物(神様)は天皇で、次が三皇で伏儀、神農、黄帝となっています。伏儀氏は人の利用を発見し、次の神農氏は薬草の利用をすすめ、人々に教えたとあります、その頃の人々は山に穴居生活をしていたそうです。これが神農本草経の原本とされ、次の黄帝ぱ医学の理論と針灸の術を知り、黄帝内経として人々に示しています。

 この頃になると漢民族の祖先が黄河のぱとりで農耕生活を始めた頃で、連山易、帰蔵易と云われる現在の易の始祖が人々の間でおこりました。次いで五帝の時代で、有名な堯、舜の治があり、夏(商とも云う)段、周(紀元前400年頃)の時代に大成されたものが周易で、筮竹と算木を駆使して行う一種の神占で、保身の術、天下治政の術、帝王学として発達したものです。

 しかし、易の中の易経は四書五経の中の1つで次の春秋戦国(18ケ国)の時代の文章が組み込まれ周経としてわかり易いものと変わりました。筮竹、算木の前は亀甲や鹿の肩甲骨を六で焼いて出出来たヒビ割れの型で変化を案じていました。エジプト考古学博物館(カイロ)でも同様なものを発見した時は、まさにナイル河文化も黄河文化も同じ発祥を経たのだと驚いた事があります。

 さて次に秦が起こり始皇帝が本を焼いたり儒者を殺したりして悪業を行いましたが、文宇を統一し、度量衝の目盛を定めた事は、大した業績で万里の長城を山海関から約4千粁の長さで造り、北の匈奴の攻撃から漢民族を救った事も併せて大事業だったと思います。この度量衝が出来たので、長城も築けたし漢方薬の分量の計量も便利になったと考えます。

 漢に入って長沙の大専張仲景が傷寒雑病論を示し、民間に伝承されていた漢方をまとめ、三国時代に名医華佗が現われ、外科手術に神技を示しました。

 次の西晋時代に大医令王叔和の傷寒論があり、皇甫が鍼灸甲乙経を著わし南北朝時代に梁の陶弘景が神農本草経改訂版を出し、唐代になると医学全書とも言える千金方、千金翼方が出された。医学を知る事は数多くの金を得る事と同じだという事で、千金方と名付けられたと思います。

 さて宋時代に入ると、古来よりあった医書、薬書の整理が行われると同時に儒教の影響、陰陽五行の理論等が加昧されて、運気の論が生じました。宋版の傷寒論、金匱要略等も出て、現在の古方の原本となったと聞いております。

 また金、元時代に入ると4大家が世に現われ、火と熱が疾病の主因と考える劉河間はシャ?剤を使うべきと説え、張子和は汗、下、吐の三法を活かすべきと言い、李東垣は補中益気の説を述べ、朱舟渓は病気は常陽レ余、陰不レ足で、陰を補うことが重要と云う養陰派を起こしました。

 これら漢方も易も、古くは推古天皇の御代に朝鮮を経て日本へ渡来したが、大した発展もなく憎侶や公郷の一部の人に伝えられ韓民方として知られていた。ところが田代三喜が明に13年留学して、李朱学派を修め関東に定往しました。その弟子が曲直瀬道三で、ここで漢方が犬衆の物になる傾向を示しました。

 一方易の方は地頭、守護職及び憎が学び、軍略、治世に役立てていました。上杉謙信、武田信玄等がその好例です。そして江戸時代に入り新井白蛾が出て易学中興に努力しその弟子に真勢中州、水野南北(手相の大家)そして、佐藤天竜、黄小蛾に至ります。

 漢方は江戸時代初めに後藤艮山が出て、古方派を説え、香川修庵、山脇東洋が継承し、吉益東洞等の逸材が世に出て、漢方は益々盛んとなり、浅田宗伯から湯本求真、大塚敬節、山田光胤、寺師睦済、矢数道明等となりました。

 この様に易と漢方を並んで考えると面白く李念莪、玉岡秀次訳註の内経知要にはまさに両学の合体を見る気持がします。

 この本の中に沃儀易方64卦方が記され陰陽の配列と三陰三陽の変化が詳しく述べられています。以上強引とも言うべき独善的な筆法で陰陽を記しましたが、どちらも世の人々の幸わせを願う点で共通な所があり、私白身喜こんでいる次第です。文中人名にはすべて敬稱を付すべきですが省略させていただきました。何んでも良いから書く様にとの依頼者先生の言に甘えて、こんな事になりました。恐縮。


赤ちやんはどうして生まれるの?       中央支部・春吉部会 大陽薬局 中島 英之

 ある日の我が家の夕食時のことである。我が家は、私、妻、中1の長男、小4の次男、小1の長女の5人家族である。夕食時は、テレビ、ラジオは消して、全員がテーブルを囲み、その日にあったことを、みんなで話し合って、親子の対話の時間にしている。

 その日は、長女の学校での父兄授業参観のことが話題になった。妻が出席したが性教育の授業だった。教材は音声入りのスライドで、くまのぬいぐるみが主人公だったらしい。長女がそのことで、話を切り出した。長女が次男に対して、「お兄ちやん、赤ちやんはどこから生まれるか知ってる?」

次男「お母さんのおなかからだよ」

長女「おなかからどうして?」長女は得意気な顔である。次男は、1年生の時そのような授業がなかったので困惑している。長男は少しは分かっているらしく、だまってにやにや笑いながら、弟と妹の会話を聞いている。

次男「おなかがわれて赤ちやんが出て来るのではないの? お母さん」と妻に肋けを求める。

妻「明希ちやん(長女の名前)、くまさんの赤ちやんはどこから生まれたのかな?」

長女「お兄ちやん知らなかったの……お母さんのおしりの横のトンネルから生まれるのよ。そ うよね、お母さん」

妻「そうよ、女の人はそこから赤ちやんを生むのよ。」

次男はびっくりした顔をしている。長男はだまっている。私は次男と長女の真剣な表情に圧倒されて、話す言葉も見つからず、みんなの顔を見ているだけである。

次男「ほんとう………???だったら、ぼくにはトンネルはないんだね。明希ちやんもあるの ?」

長女「わたしもあるの? お母さん」

妻「あるわよ」

次男「そしたら、赤ちやんはどうして生まれるの?」

長女「お父さんのタネをお母さんがもらうのよ。」

次男「タネ???」

長女「そうよ。お父さん、タネはどこになおしているの?」

私「大事なところになおしてあるんだよ。」

長女「あさがおのタネをなおしてある引き出しの中?」
私が大事に植物のタネをなおしている引き出しのことを言っている。

私「もっともっと大事なところだよ。」

長女「見せてよ。」

私「それは大事なものだから、ぼくたちにも見せられないよ。」

次男、長女「ふーん………」

次男「お母さん、お父さんからタネをもらって、どうして植えるの? 水や肥料はどうするの ?」
植物の場合と完全に混同しているようだ、真剣な顔で聞いてくる。私は言葉がつまったが。

妻「明希ちやん、くまさんはどうしてた?」

長女「おふとんの中で、お母さんぐまがお父さんぐまに『赤ちやんが欲しいわね』と言ったら。 お父さんぐまが『うん、欲しいね』と言って、仲よくねんねしていたね」

妻「明希ちやんはよく覚えていたのね」
長女はうれしそうな顔をしている。

妻「敏くん(次男の愛称)、人間は植水ではないのだから、水や肥料はいらないのよ。ごはんが栄養になるのよ。」

次男「ふーん……」もうひとつわからないようだ。長女にも感動的なスライドだったようだ。

 次の日の朝、長女の部屋に行くと、机の上に作文があった。見ると昨日の性教育の授業の感想文だった。”わたしはどうしてあかちやんがうまれるか、やっぱりわかりません”と書いてあった。無邪気に寝ている長女の顔を見ると、昨夕の得意気な顔が重なって浮かんできて、なぜか、なんとも言えないホッとした気分になった。


飛  鳥  行             南支部・野間部会 汲ンどり薬局 大黒 隆男

 「大和は國のまほろば たたなづく青垣山 ごもれる 大和しうるはし」

 日本武尊は望郷の想いをかく舒べたが、その大和のなかでも私はいつも飛鳥に想いをはせる。その飛鳥に行こうとの話がもちあがったのは3年前であった。漸く今年に同勢6人と共に行くことができたのである。

 1月12日朝、空路大阪に向う。大阪空港では、連絡しておいた京都の個人タクシー2台に分乗して飛鳥へ急ぐ。橿原を過ぎたあたりから昔の飛鳥の面影がとごろどころに残っているのが目につく。私にとっては、飛鳥は58、9年ぶりの訪問である。併し昔てくてくと歩いた道は今は見あたらず、舗装された道が何となくよそよそしい感じである。

 奈良国立文化財研突所飛鳥資料館は山田寺跡の近いところにあった。飛鳥の文化と遺跡についての知識を得るには、格好のこぢんまりした施設ではあるが、何か物足りない感がある。併しこれは無理な要求かも知れぬ。

 甘橿丘は、天皇陛下がお登りになったおかげで、昔の草にすがりながら登った道とはちがって、楽に登れるようになったことは、足がよわくなった私には有難かった。

 この丘から、西に北に東に見る大和3山は昔の姿そのままであった。今日は春のように何れも霞んで見える。眼下の明日香村の村落の中に、飛鳥寺安居院の大きな屋根が眺められる。飛鳥寺は日本最古の寺と言われる。

 それは昭和元年のことである。当時大阪薬専に在学していた私は、日曜日は弁当を腰にぶらさげて、京都大阪奈良の一帯を歩きまわった。そのうちでも好んで飛鳥の地を歩いた。

 今にもくずれそうな、古びて穴だらけの名ばかりのお堂の中に、丈六の大仏さまが坐っておられる場所に辿りついた。そこが飛鳥寺であった。

 大仏さまはまるで露仏のような姿であったが、それでも止利派仏師の造る仏像の特徴である杏仁形の半眼に聞いた目は、下から仰ぎ見る私をやさしく見下しておられた。

 その大仏さまも今は新しいお堂の中に静かに坐っておられる。60年ぶりにお会いする大仏さまは「久しぶりによく来たな」と語りかけておられるようで、殊の外なつかしかった。

 入鹿の首塚と伝えられる五輪塔は、以前のように草むらの中にある方がふさわしい。綺麓に整地された場所に立っている姿はなんとなくよそよそしい感じである。

 美昧しい三輪そうめんを喰べさせてくれる坂の茶服は生憎休みであった。短かくはあるが急な坂を登って酒船石に辿りつく。

 河に使われたものか不明の石造物であるが、干年以上も前によくもこのような精巧なものを造ったものだと感心させられる。

 聖徳太子生誕のところと伝える橘寺は昔と変らぬ姿であった。室町時代の作と言われる聖徳太子の坐像は威厳にみちたお姿である。

 境内にある二面石は、善悪2相を彫られた奇怪な石像物であるが何のために作られたものであろうか。

 亀石と言われる石造物も亦、何の為めに作られ、何に使われたものかわからない。明らかに朝鮮あたりでみる亀跌ではない。優しい目が特に印象深い。

 すぐ傍に立てられた地蔵菩薩の像はない方がよい。夢幻的な亀石の雰囲気にはそぐはない。


私の楽しみゴルフ                  副会長 恵愛団薬局 清水 水一郎

 ゴルフをはじめて22年、やっとHDCP14になった所です。私はHDCP10をめざしていますが、周囲のゴルフ仲間は、「それは無理だ」と言っている人が多いようです。年令からして、一寸無理かもしれませんが、自分白身を「俺は素質があるからやれるんだ」というふうな暗示にかけ、腕をあげるよう、頑張っています。この10年間ぐらいは、大体年に40回コースにでていますが、昨年は43回でした。

 永いことゴルフをやっていますと、いろんな事に遭遇しましたが、今でも一番いやなのは、やはり、うしろのパーティからボールを打ち込まれることですね。

 ゴルフは、非常に楽しいスポーツですけれども、何分にも、小さくて重いボールをクラブで打って、すごいスピードで遠くへ飛ばすのですから、とんでもない事故を起す危険が伴っています。だからプレーには細心の注意が必要なのです。

 では実際、前のパーティにボールを打ち込み、事故が発生したばあいの責任はどうなるのでしょう。ゴルファーなら知っておかなければならない問題です。

 ボクシングのように、殴り合うことを前提とした競技は、相手を怪我させないように殴れ、といったのでは、競技そのものの否定になります。だから、不可避的に危険を伴うスポーツの場合、プレー中に起きた事故は、一般的にはプレーヤーに責任は負わせないことになっております。

 しかし、ゴルフプレーは、不可避的に危険を伴うスポーツではありません。

 この場合も、前のパーティが安全な位置に遠ざかってからボールを打てば、事故はさけられるはずです。故意は論外として、不注意でも事故が起れば、プレーヤーは、危険回避義務を怠ったものとして、当然損害賠償の責任を負うことになります。危険回避のためには、多少の時間の遅れは我慢しなければなりません。少し待たされたぐらいで、イライラして、打ちいそぎボールを前のパーティに打ち込むことは、絶対にさけてほしいものです。ちょっと腕のいい人に多いようですね。

 ゴルフは、ゆったりした気分で楽しむもの。

 これからも、「他人に迷惑をかけぬこと」をモットーにして、楽しいゴルフをつづけたいと思っています。HDCP10をめざして。


開局薬剤師と勤務薬剤師の接点・急患センター        九大病院薬剤部 唐沢 博順

 休日急患センターが診療を開始して以来、今年5月で11年目になろうとしている。、考えてみれば早いものである。この間、センターの名称も、福岡市休日急患センターから福岡市立急患診療センターヘと変り、所在地も西新→祖原→薬院と変った。

 また、診療科も、内科、小児科から開始し今では、眼科、耳鼻科、産婦人科、軽小外科と増設され、日曜、祭日のみの診療から土曜夜の診療まで拡大されてきた。業務内容もいろいろ変化してきた。あと一年すればセンターも年男(?)であるが、この間、センターに出動して来た。私なりのセンターでの感想を述べさせていただきたい。

 まず、センターは、今まで知らなかった開局の薬剤師の方と知り合いになれる場である。薬を基盤にした共通の話題には事欠かないし、勤務している薬剤部では見聞きできない分野の話もあり楽しい。薬局の経営の苦労、薬価引き下げの影響、日曜日の忙しさなど、勤務薬剤師としては全く知らない薬剤師の領域がここにもあったと驚いたこともしばしばである。また、開局の方で、学校薬剤師をなさっている方もおられ、学校保健まで話がはずむ。薬剤師の仕事の広さを感じる時である。

 11年も前だと私もずいぶん若かった。一緒に調剤する開局の方は年上ばかりであった。現在の勤務病院では中年の仲間入り(?)をしようとしているが、センターに来ると、先の年齢の上下関係が復活し、一時、若返ることができるのも楽しい。

 勤務場所を一時変るのは、気分転換に役立つ。病める患者さんを目の前に見ていると「薬剤師としてガンバラねば」と白分を励ますこともセンターでは多い。

 私の子供が小さかったころは、センターで小児科の風邪処方をみて、白分の子供に服用させたこともあった。近頃では、子供を連れて来る夫婦を見て、「ああ、あんな時もあったなー」と自分の過去を思い出し、年を取っていくことを少しずつ感じている今日この頃である。

 以上、急患センターでは、現在の職場とちがったところを見たり聞いたりすることができ、勤務薬剤師として、大いに活用すべき職場だと思う。


編 集 後 記

 支部長、勤務部会各先生に原稿をお願い致しましたところ、早速会員先生方にはご投稿頂き広報部として厚く御礼申し上げます。

 今回は、会員の皆様に気軽に読んで頂ける会報をと考えましたが、どうしても堅い論文が多く、多少意に反しておりますが時節が大変厳しい時だけに止むを得ないと思っております。

 今後、詩、随筆、趣味の話等ございましたら何時でも受付けておりますので、気軽に投稿頂きますよう。又、掲載させて頂いた方には、薄謝を進呈致します。

 会員各位のご健康と薬業のご発展を析ります。

 昭和59年9月22日(土)‥南区市民体育館にて福岡市主催で「ふくおか市民健康フェスティバル」が盛大に開催されました。市薬はこれに参加し大衆薬相談を行い、 薬草・薬用酒・学校保健機器等を陳列、処方箋調剤並びに家庭救急薬等10枚余の パネルを展示いたしました。医師会・歯科医師会・栄養士会等の中で来訪者数は トップで親しく相談したり見学しておられました。

 今回は福岡市が南区をモデルに実施致しましたが、その後西区でも同様に行われ ております。

 尚薬局・組織委員各位並びに南支部の先生方にはご出勤ご苦労様でした。 今後健康教育に吾々薬剤師が地域で活動して参りますのに会員先生方のご協力を お願い致します。
                                    (広報部)

昭和60年3月10日発行
福岡市中央区今泉1丁目1番1号
 社団法人 福岡市薬剤師会
   TEL 092−714−4416
 編集人 堀 江 秀 男
 発行人 冨 永 奉 資


==会 務 日 誌==

7月24日 第141回理事会
  31日 市民健康フェスティバル実行委員会
      (小村・岩佐常務)
8月2日 三師会
  4日 社保委員会
  6日 薬局組織合同委員会
  23日 第142回理事会
  24日 日薬代議員会(専務)
  25日 第17回学術研修会88名
  26日 市薬剤師漢方研突会
  30日 第3回納涼船大会
9月1日 林厚生大臣を囲む会(三師会)
  2日 元渡辺厚生大臣講演会(三師会)
  4日 社保委員会
  7日 薬局委員会
  10日 薬務課訪問(専務)
  12日 県薬理事会(会長)
  14日 福岡市国保運営審議会(会長)
  19日 中洲3・6チェーン問題協議会
  22日 ふくおか市民健康フェスティバル
      (南市民体育館)
   〃 福薬連理事会(会長)
  23日 第6回市薬懇親ソフトボール大会
      (今津運動広場)
  26日 第143回理事会
10月4日 社保委員会
  6日 薬局・組織合同委員会
  17日 薬と健康の週間
   〃 市薬ボランティア救急薬施設贈呈
  19日 社保委員会
  23日 第3回分薬推進特別委員会
  24日 常務理事会・第144回理事会
  26日 保険薬局講習会(市薬研修室)
  29日 学術委員会
  31日 広報No.14発行
11月5日 社保委員会
  7日 急患委員会
  8日 沖縄日薬大会
  10日 漢方研究会
  12日 県学校保健大会
  13日 県薬理事会
  15日 市学校保健大会

11月20日 市衛生局訪問(会長他)
  27日 第145回理事会
  29日 第18回学術研修会、31名出席
12月4日 社保委員会
  6日 急患診療10周年記念式典(会長他)
  7日 学術委員会
  10日 医師会忘年会(会長・急患委員他)
  12日 薬局・組織委員会
  13日 福薬連栄誉者を囲む薬業忘年会
  21日 顧問会・第146回理事会
  28日 御用納(役員)
1月4日 薬業年賀会(主催、九州薬事新報)
  5日 社保委員会
  7日 全国試験センター研修会(市学薬会長)
  10日 薬務課・市衛生局・民生局・教育委
     員会訪問
  11日 福岡市国保運営審議会(会長)
   〃 県薬理事会
   〃 急患委員会
  15日 懇親支部対抗ボーリング大会
  16日 市国保運営協議会(会長)
  17日 支部長・分業推進委員会合同会議
  18日 漠方研究会第1回例会
  24日 第147回理事会
  30日 広報No.15発行
2月2日 急患委員会
  6日 学術委員会
  7日 市薬・県薬連絡会
  8日 部会連絡協議会
  9日 三師会(市薬担当)
  13日 第1回薬事連絡会(薬務課)
  15日 演研、第2回例会
  16日 県薬支部連絡協議会
   〃 第19回学術研修会
  19日 福薬連理事会
  21日 日薬代議員会(専務)
  25日 第148回理事会
  26日 県薬理事会

3月1日 広報部会(会報編集)
  4日 社保委員会
  13日 三役会・常務理事会
  15曰 県薬代議員打合せ会