番外編   流行歌で綴る戦後史

 昭和25年(1950)

 この年になると流行歌レコードの売れ行きが急カーブをえがいて下降していった。それは前年来日した総司令部経済顧問ドッジ公使の、いわゆる「ドッジライン」といわれたインフレ抑制作のための荒療治政策のためであった。産業界は極端な金づまりで、逆にデフレ・パニックの様相を帯びてきた。時の大蔵大臣池田勇人が「中小企業者の一人二人、倒産して首をくくったところでやむを得ない」と放言して大きな非難を浴びたのもこの年のことである。

 世の中が不景気になると、大衆は勢い賭け事に走る。その射幸心をもっとも煽り立てたのがパチンコの出現だった。もともとこれは子供のための遊戯として考案された一種の玩具だったが、名古屋からはやりだすと、またたくまに全国にひろがり、大人が夢中になってしまった。

 01/01 年齢の表記・呼称が満年齢で書くよう変更。従来は数え年制が習慣化していたので国民若返り

 01/19 社会党,左右両派に分裂(4.3統一)

 オールド・ファンならば昭和15年に出た「高原の旅愁」という歌をきっとご存知だろう。これは伊藤久男の叙情歌手としての一面を遺憾なく発揮した佳品であった。この作曲者の鈴木義章がのちの八洲秀章である。彼は昭和24年から25年へかけて二つの名作を発表している。「さくら貝の歌」(土屋花情作詞・小川静江唄)と「あざみの歌」である。彼はポリドール、ビクター、テイチク、キングで作品を発表し昭和24年コロンビアの専属となった。

 ある日、会社の女子事務員が、小さな紙片をひらひらさせながらやってきて言った。「八洲さん、こんな詩どうかしら・・・」
    山には山の憂いあり
    海には海の悲しみや
    まして心の花園に
    咲きしあざみの花ならば

 彼の心はとたんに疼きだした。楽想が激しく胸のうちを去来した。彼はその紙片を手にすると宿直室にこもってぴたりと戸をしめきった。誰の作ったものとも判らない詩・・・だが、そんなことはどうでもよかった。彼は夢中でピアノを叩いて曲をまとめあげた。そして題名をつけた・・「あざみの歌」昭和21年夏のことであった。

 あとでわかったことだが、この歌の作詞者はその頃キングの社員だった横井弘だった。彼は藤浦洸について詩作の勉強をしていたのである。

 さて、曲はできあがったものの、この「あざみの歌」はその後長い間日陰に捨て置かれたままになっていた。昭和24年、彼の「さくら貝の歌」が先にラジオ歌謡に取り上げられて好評を博した。それが機縁となってひと月遅れて「あざみの歌」もやっと陽の当たる場所へ移し代えられた。このとき、彼は志摩光一という歌手名で自らこの歌を歌った。その清純なメロディーは深く人の心をうった。レコードはこの昭和25年に伊藤久男の唄によって吹き込まれた。とかく乾ききった世の人の心に、しっとりとうるおいを与えてくれた歌だった。


  「あざみの歌」 横井 弘 作詞 八洲 秀章 作曲
          伊藤 久男 唄



 戦時中、季香蘭の芸名で歌っていた彼女は、戦後は山口淑子の本名にもどって、ビクターの専属となった。しかし、彼女ののヒット曲といえば、この年の1月に発売された「夜来香(イエイ・ライ・シャン)」であろう。

 彼女はもともとクラシック系の歌曲を得意とする歌手で、戦時中は満州の奉天で白系ロシア人の教師につき、戦後はもっぱら三浦環の教えをうけて勉強していた。彼女は美声の持主である。その高音はすきとおるように美しく、真珠でもころがすような感じだ。発声もも実に張りがあって格調正しい。それだけに、流行歌を歌うとあくがない。タイプからいえば叙情歌手なのである。戦時中の「紅い睡蓮」も「蘇州の夜」もそうであった。


  「夜来香」 佐伯 孝夫 作詞 黎 錦光 作曲
        山口 淑子 唄



 歌手にもやはり水の合う会社と合わない会社があるようだ。前年キングを退いてコロンビアへ移った小畑実も、手をかえ品をかえていくつかの曲を出しているが、ついにこれという目ぼしいヒット曲も出ないままに、処遇問題の不満もからんで、ついにこの年1年限りでコロンビアを辞め、再び巣立った故郷のビクターへと戻っていく。

 皮肉なことに、彼がキングに置き土産のようにして残していった「星影の小路」だけは爆発的な人気を呼び、この年のベストセラーズのうちでもトップ・クラスの二十万枚一気に売り切ってしまった。これはやはり、小畑実という歌手の本質をよく見抜いて、そのテクニックをフルに発揮させた作曲家利根一郎の手柄に帰すべきであろう。クルーン唱法、実はそのテクニックをフルに発揮させたのもこの曲あたりからだった。これによって、小畑実の歌は急速に進境を見せる。ひとつには当時すでに極度に性能のいいマイクが開発されていたから成功したともいえる。アメリカではビング・クロスビーがクルーナーとしての始祖だった。


  「星影の小路」 矢野 亮 作詞 利根 一郎 作曲
          小畑口実 唄



 02/13 都教育庁,教員246人をレッドパージ.以後反対闘争激化

 03/01 自由党結成

 03/01 池田蔵相「中小企業の一部倒産やむなし」と発言,問題化

 03/24 旧制高校最後の卒業式

 この年を通じて最大の収穫といえば、3月にコロンビアから発売された「水色のワルツ」である。その評判と人気は大変なものだった。かねてから口の悪い批評家や音楽の専門化でさえも、口をそろえて「戦後の大衆歌謡の最高傑作」と折り紙つきのべた褒めであった。ところが、これを作曲した当のご本人である高木東六にいわせると、この曲は「最も低俗きわまるポピュラー・ソング」だとまるで唾でも吐きかけるような口ぶりであった。彼の流行歌ぎらいは有名で、戦時中から「くたばれ流行歌」を叫び続けていた。

 さて、この「水色のワルツ」の楽想がまとまったのは終戦の翌年、昭和21年の冬のことだった。そのころ、高木東六はまだ疎開先の信州伊那市に居ついたままで、朝鮮の民謡「春香伝」に取材したオペラの作曲に筆を染めていた。炬燵にあたりながら第二幕の構想を考えているとき、ある一連のメロディーがふっと心の中を流れていった。彼は無意識のうちにそれをメモしておいた。これが「水色のワルツ」のモチーフだったのである。

 終戦を迎えた地方都市はどこでもそうだったが、流行歌の氾濫だった。伊那市もご多聞にもれない。それに悪いことには、彼の居た家のすぐ近くに映画館があって、これが客寄せにやたらと流行歌のレコードを流す。彼はそれこそ「身の毛もよだつ」思いだったそうだ。腹が立つやら口惜しいやら・・・だが、そのうちふと考えた。なに、俺だって流行歌ぐらいは書けるさ。あんなくだらいものよりも、もう少しましなものを・・・

 そこへたまたま、東京のある芸能社から新曲の作曲を依頼してきた。新曲ばかりで歌謡曲大会を開き、聴衆に人気投票させよう、という趣向だった。高木東六はスケッチおいた旋律で一つの曲をまとめあげると藤浦洸のもとへ送り届けた。藤浦洸は楽譜を受け取ったとき「実に気品のある美しいメロディーだ」と思った。さっそく、曲にふさわしい歌詞をつけ、最後に題名をつけた・・・「水色のワルツ」

 ところが、これを新曲歌謡曲大会で発表し、聴衆の人気投票をとってみると、結果はびりから二番目。二葉あき子の唄でレコードに吹き込んだのはそれから四年後のこの年昭和25年のことであった。発売してみると売れに売れた。銀座のバーに「水色のワルツ」というカクテルまで現れたくらいだ。単に戦後流行歌謡の傑作というだけでなく、戦前戦後を通じて日本流行歌史のトップを占める代表作の一つである。俗に親に似ぬ子は「鬼子」というが、これは流行歌ぎらいの巨匠高木東六の生んだ「鬼子」である。しかもこの「鬼子」はアンチ流行歌派の親に世俗的名声と、しこたまな経済的利益を贈り物にしたのであった。

 不肖の親父、東六さんは苦笑いしながら言った。この「水色のワルツ」と戦時中に作った「空の神兵」でずいぶんとふところがうるおいましたよ・・・こんなことなら、もう少したくさんこういった曲をこしらえておけばよかったですな・・・と、本人の口から出た感懐であった。


  「水色のワルツ」 藤浦 洸 作詞 高木 東六 作曲
           二葉 あき子 唄



 04/13 熱海で大火.1461戸焼失

 04/15 公職選挙法公布

 04/19 鉱工品貿易公団の公金横領犯・早船元首,元ミス東京の妻と自首(つまみ食い事件)

 04/22 第1回ミス日本に山本富士子

 美空ひばりのヒット第二弾  「東京キッド」
 レコード関係会社の誰かが言った。「まるで宝くじで百万当たったようなもんです・・・」笑いが止まらないのだ。それほど美空ひばりを手に入れたことは大きな収穫だった。百万円どころではない。石炭のボタ山の中からダイヤモンドを掘り出したようなものであった。それだけに、せっかくテストまで受けに来たものを、みすみす取り逃がしたビクターは臍をかむ思いをしたことであろう。

 さて、その美空ひばりという大魚はコロンビアの水に合ったものか、この年も「東京キッド」というヒットを放った。その成功の原因のひつには、やはり作詞・作曲を含めての会社側のスタッフが、美空ひばりの持つ庶民性をよく見抜いていたということもあろう。

 ポケットにしのばせたチューインガム、街のマンホール、焼け跡のビルの屋根、やみのフランス香水、チョコレート・・・歌詞の中にちりばめられたこうした言葉には、戦後のの匂いがしみついており、それを歌うひばりの姿は、そのまま戦後の十二歳の子供を代表していた。これは同名の松竹映画の主題歌であったが、この歌だけでも独立して結構楽しめた。

    歌も楽しや 東京キッド
    いきで おしゃれで ほがらかで
    右のポッケにゃ 夢がある
    左のポッケにゃ チュウインガム
    空を見たけりゃ ビルの屋根
    もぐりたくなりゃ マンホール


  「東京キッド」 藤浦 洸 作詞 万城目 正 作曲
          美空 ひばり 唄



 05/03 吉田首相,南原東大総長の全面講和論は曲学阿世と非難

 05/10 日立製作所,スト突入(〜8.10)

 この年は大映の「羅生門」が第十二回カンヌ国際映画祭でグラン・プリの栄冠を勝ち取るという収穫はあったものの、その他の邦画一般についていえば、その場限りの俗受けをねらった作品がほとんどだった。映画会社は興行成績を優先に手探りの企画を立てていたのである。

 その中でも、前年度の東宝「青い山脈」の成功はよい刺激となったようだ。新しい青春路線として、会社側は再び同じく石坂洋次郎原作による「山のかなたに」を、やはり同じ制作スタッフで映画化した。「青い山脈」もそうであったが、戦後一般の傾向からみて、映画主題歌の売れ行きはコンスタントな実績をおさめていることが分かってきたので、このころになると、新作映画の企画が立てられると各レコード会社はその主題歌の争奪に血まみれになっていた。

 そして歌の方も脚本の段階から準備に入り、映画の封切りと同時にレコード発売というのが常識となった。この「山のかなたに」も西条八十、服部良一、藤山一郎という「青い山脈」同じトリオでレコード化された。前作ほどの爆発的な人気は出なかったけれど、その健康的で明るい歌詞が大衆の嗜好に投じてかなりひろく愛唱された。


  「山のかなたに」  西条 八十作詞 服部 良一 作曲
            藤山 一郎 唄



 06/00 警視庁、従来の似顔絵に代わるモンタージュ写真作成

 06/04 第2回参議院議員選挙

 06/06 住宅金融公庫発足

 06/09 信越線熊の平トンネル入口でガケ崩れ.50人死亡

 06/25 朝鮮戦争始まる

 07/02 金閣寺,放火のため全焼

 07/08 マッカーサー,警察予備隊7万5000人創設,海上保安庁8000人増員を指令

 07/10 初渡米留学生63名出発(試験は志願者6947名、合格者280名)

 07/27 広島の沖合で機雷爆発、漁船4隻遭難(死者46人)

 07/28 新聞・通信・放送界にもレッドパージ始まる

 この年、イギリス映画「赤いい靴」が封切られて若い世代の心を魅了してしまった。これはバレリーナを主人公としたバレー映画で、そのダンス・シーンの技法には目をみはるような斬新さがあった。

 おそらくこの映画の題名にあやかったもであろう、七月にコロンビアから「赤いい靴のタンゴ」が出た。この歌は発売されると、いち早くダンス音楽にアレンジされて都内各地のダンスホールで演奏され、歌詞は知らなくてもメロディーだけが流行した。折から、「水色のワルツ」が流行期の絶頂期にあったが、はからずもここで、タンゴとワルツの合戦が現出した。奈良光枝と二葉あき子が天下の人気を二分していた頃だったからなお興味があった。

 このように流行歌の軽音楽化はやはり外国曲の影響だった。つまりは、もうこれまでの古い感覚の流行歌では大衆の心はつかめななって来ていたのである。それかあらぬか、この年あたりから芸能人たちの渡米が盛んになってきた。その先人グループとして、古賀政男、霧島昇、市丸、二葉あき子らの一行がハワイを経由してアメリカへ渡って行った。


  「赤い靴のタンゴ」  西条 八十作詞 古賀 政男 作曲
             奈良 光枝 唄



 08/10 警察予備隊設置令公布施行

 09/01 公務員のレッドパージ万金十決定

 09/03 ジェーン台風,死者・不明539人

 09/20 衣料切符制度廃止

 09/24 日大ギャング事件

 前年「麗人草の歌」で第一線にカンバックした林伊佐緒は、この年みずからの作曲による「ダンスパーティーの夜」を出して気をはいた。彼の作曲家としてのすぐれた才能は、すでに戦時中の「出征兵士を送る歌」で立証ずみだが、流行歌調のものでヒットしたのはこの曲が最初であろう。のちに、やはり自分で吹き込んだ「高原の宿」や三橋美智也の「りんご村から」のような佳作も出している。

この歌の作詞者、和田隆夫は本名和田忠朝。明治44年、島根県広瀬町の生まれで、レコード界へのデビュー作は昭和12年、タイヘイに吹き込んだ「さみだれ軍歌」だった。戦時中は企画院に勤めて「軽合金製造工業原価計算」などというむずかしい文書を作成したという。

 およそ流行歌とは縁遠い道を歩いていた。戦後、キング・レコードで「ダンスパーティーの夜」そのほかいくつかの作品を書いたが、正式には昭和23年からコロンビアの専属になっている。作詞をするかたわら、「日本伸銅協会東京事務所長」といういかめしい肩書も持っている。


  「ダンスパーティーの夜」  和田 隆夫作詞 林 伊佐緒作曲
                林 伊佐緒 唄



 10/13 GHQ,1万余人の追放解除承認

 11/01 ディマジオら米大リーグ選手来日

 11/03 「君が代」演奏許可

 11/10 民間産業のレッドパージ9524人

 11/10 政府,旧軍人3250人の追放解除

 11/10 NHK東京テレビジョン実験局、定期実験放送開始

 11/15 政府機関のレッドパージ1171人

 11/22 プロ野球第1回日本選手権開催

 12/13 地方公務員法公布(26.2.13施行)