番外編   流行歌で綴る戦後史
 昭和24年(1949)

 1月1日、GHQ、「日の丸」を自由に掲揚することを許可する。

    中国共産党、北平(北京)市人民政府樹立。

 2日、NHKラジオ、クイズ「私は誰でしょう」放送開始。
 3日、NHKラジオ、クイズ「とんち教室」放送開始


 5日、米政府、占領予算の半額を日本に割当と言明。
 6日、李承晩、日本の朝鮮侵略に賠償請求と言明。
 9日、フィリピンでの戦死者4834人の遺骨が米軍輸送船「ボゴタ丸」で佐世保港に帰着。
 10日、未亡人総数187万7161人と厚生省発表。
 11日、大阪で「アカハタ」販売員一斉検挙。

 12日、東京軍政部、公立学校は窓ガラスを購入し寒風から児童を守るよう警告。
 13日、政府、「日の丸」の旗を希望配給すると決定。

 14日、GHQ、外国からの対日投資を制限つき許可。

 15日、初の「成人の日」が実施される。

 16日、初の国家公務員採用試験実施。
 18日、厚生省、検疫規則により中国・フィリピンなどを天然痘流行地に指定。
 19日、米からの観光客増加、今年は3万人にと新聞に。
 21日、GHQ、東京にユネスコ事務所設置を許可。
    蒋介石、国民政府総統を辞任する。

 23日、第24回衆議院議員選挙実施。民主自由党が過半数(264議席獲得)で圧勝。社会党は惨敗。これにより「保守安定政権」が誕生する。

 24日、参院副議長の松本治一郎ら、公職追放される。
 25日、ソ連と東欧5ヶ国、経済相互援助会議(コメコン)の設立を決定。

    政治家の牧野伸顕、死去。享年87歳。大久保利通の次男として生まれ、宮内相・内大臣などを歴任。親英米派と見られていたため、2・26事件で襲撃されたが、難を逃れた。

 26日、法隆寺金堂内陣、全焼。火元は電気座布団で、壁画模写中の失火とする説が有力。これにより、模写中だった国宝の金堂壁画12面が焼失する。また情報が交錯し、新聞号外での第一報で「法隆寺全焼」と伝えられるなど、日本中が混乱していた。

 27日、GHQ、生産の阻害許さずと労使に言明。

 28日、白井義男、日本フライ級の王座獲得(12月15日には、バンタム級も制し、2階級王座に)。

 30日、永井隆の被爆手記『長崎の鐘』刊行。


 お座敷ソングのはしり「トンコ節」、洋風の「銀座カンカン娘」が四十万の大台にのったとき、日本調の「トンコ節」もまた四十万枚のの記録をうちたてた。この歌は二度レコード化されているが、この年の正月新譜として売り出されたのがその最初のものだった。

 しかし、このレコードは発売当初、少しも反響がなかった。実際に歌われだしたのは一年くらいたってから。それも、北九州の炭鉱地区の酒宴の席からからはやりだした。そして、大阪、東京へと流行の波がおしよせてきた。おりから、朝鮮動乱が勃発(昭和25年)、その金へん景気にあおられて、この歌はそれこそ燎原の火のごとく、たちまち全国にひろがっていった。

 世の識者たちは眉をひそめた。歌詞には「あぶな絵」的な文句がずらりとならんでいる。 その一部、二番の後半「さんざ遊んで ころがして あとでアッサリ 潰す気か」などなど。
「西条八十先生ともあろうお人が・・・」と。サトウ・ハチロウーなど子弟の縁を切って絶交するとまでいきまき、あのたいていのことには動じない大宅壮一ですら、さすがに聴くにたえかねたものか一刀両断「こいつは声のストリップだ。それも全ストに近い」と。

 実のところ、西条八十も古賀政男も最初から気がひけていたらしく、なんどか筆名にしようか、と思案したこもあったらしい。また歌手の久保幸江もちょうど結婚する直前のことであり、この歌の爆発的流行にはいささか戸惑ったかたちで、相当気にしていたという。ともあれ、コロンビアにとっては「湯の町エレジー」に迫る大ヒットだった。


  「トンコ節」 西条 八十 作詞 古賀 政男 作曲
         楠木 繁夫 久保 幸江 唄




 2月1日、労働省、労働基準監督の徹底を通達。北関東・東北地方農村部で続出していた、少年少女の人身売買取り締まりの徹底を通達した。

 3日、女優の三条美紀、結婚式を挙行。大映の看板スターと青年実業家の披露宴は、独身女性のあこがれの的となった。この披露宴では、時価2万円のケーキが話題となった。

 4日、中国で服役中だった戦犯251人が帰国。
    世界労連、日独の加盟を承認と発表。
 6日、日本の国際卓球連盟加盟が承認される。
 9日、尼崎市で武装警官1200人が密造酒集落を急襲し、112人を検挙。

    文部省、教科書検定基準を制定。

 10日 米陸軍省、「ゾルゲ事件」報告書を発表。
    社会運動家の安倍磯雄、死去。享年83歳。戦前の社会運動家で、戦後は日本社会党の結成に尽力。日本学生野球協会会長もつとめた。

 12日、東京証券取引所設立。
 14日、民主党、入閣問題をめぐり、連立派(総裁:犬養健ら)と野党派(前総裁:芦田均ら)に分裂。

 16日、第3次吉田茂内閣成立。民主党連立派から2名の入閣者を迎えて発足。大蔵大臣に池田勇人を任命し、「経済安定9原則」の実施を強調する政策方針を発表する。

 17日、神戸で麻薬密輸団の捜査。26人を取り調べ。
 19日、住宅面積は全国平均1人「3.47畳」、東京都は「2.79畳」で最低と建設省発表。

 20日、秋田県能代(のしろ)市で大火。製樽工場から出火。風速13メートルの強風にあおられ、2238戸が焼失する。戦後の「消防体制立て直し」がはかられている最中の悲劇だった。

 21日、20代後半の男女比は「78対100」と判明。

 24日、エジプトとイスラエル、第1次中東戦争休戦協定に調印。
 25日、米陸軍長官、日本攻撃の際は米軍反撃と言明。

 27日、愛媛県の松山城が、放火により筒井門や櫓(ともに国宝)が焼失。法隆寺金堂壁画焼失とあわせ、文化財保護が問題となる。


 戦時中、あたら才能を発揮できずに不運をかこっていた林伊佐緒にもやっと花開く春がおとずれた。キングから出た「「麗人草の歌」によって華々しい再出発の門出を祝ったのである。これは松竹映画「「麗人草」の主題歌であるが、引続き大映の「愛染草」の主題歌「愛染草」を出すにおよんで、いよいよ歌手としてのカムバックを確実なものにした。以後、自分で作、編曲と多彩な活躍をしていくようになる。

  「麗人草の歌」 松村 又一 作詞 加藤 光男 作曲
          林 伊佐緒 唄




 3月1日、マッカーサー元帥、日本は「太平洋のスイス」になり中立を維持するよう期待と言明。
 7日、アメリカのドッジ公使、「経済安定9原則の実施に関する声明(ドッジ=ライン)」を発表。

 8日、フランス政府、ベトナムのバオダイ政権を承認。
 12日、米人類学協会が柳田国男を日本人初の外国人名誉会員に推挙と新聞に。

 15日、朝日新聞、モンゴルのウランバートルにある日本人捕虜収容所でのリンチ事件(「暁に祈る事件」)を報道。同収容所の「自称:吉村隊長」がソ連人に迎合し、同胞日本人捕虜を酷使・虐殺した事件。当時、大変な反響を呼んだ。

    極東委員会、A級戦犯の裁判打ち切りを発表。

 17日、南海の別所投手の巨人引き抜き事件、別所の2ヶ月出場停止・巨人の10万円罰金で決着する。

 20日、NHK、東京有楽町の東京電気研究所でテレビ実験の公開を実施。(〜22日)

 21日、ロンドンで国際柔道大会開催。
 23日、モンゴルのウランバートル捕虜収容所での同胞虐待で、「自称:吉村隊長」を告発(「暁に祈る事件」)。
 27日、GHQ、戦時中に剥奪した外国特許権の返還を発表。

 28日、厚生省、ヒロポンなど覚醒剤6種を劇薬指定。

 31日、東京消防庁、火災通報専用電話「119番」を設置する。

 昭和22年6月1日、石坂洋次郎「青い山脈」が朝日新聞で連載開始。東北の港町を舞台に、高校生の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた青春小説である。昭和23年に今井正監督でクランクインしたが、195日間にわたる東宝争議に巻き込まれ、完成は遅れに遅れた。

 そのため、出来上がっていたこの映画の主題歌「青い山脈」は、コロンンビアが映画の封切りまで待てず、3ヵ月前に発売に踏み切ってしまった。この歌は大ヒットし、日本映画史上名曲中の名曲といわれている。

 なお、「青い山脈」の映画化は、1949年、1957年、1963年、1975年、1988年と5回なされている。


  「青い山脈」 西条 八十 作詞 服部 良一 作曲
         藤山 一郎 奈良 光枝 唄




 4月1日、野菜類の統制を9年ぶりに撤廃。競り売り再開。

    ワシントンのアメリカ国務省講堂で西側12ヵ国が北大西洋条約に調印。これにより、8月24日に「NATO(北大西洋条約機構)」が発足。

 5日、NHK、「陽気な喫茶店」放送開始。(内海突破の「ギョッ」が流行に)
 6日、国会、1945(昭和20)年4月に起こった、病院船「阿波丸」撃沈事件での、米国への賠償請求権放棄を議決。

 8日、日本民俗学会(会長・柳田国男)設立。
 9日、神戸市の済生会兵庫県病院の看護婦6人が、「生きていても仕方ない」と集団服毒自殺。

 10日、第1回婦人週間(参政3周年記念)始まる。

 11日、作家・芸能人所得1位、吉川英治と発表。
 13日、池田隼人大蔵大臣、米の対日援助が贈与か貸与かは現時点では不明と答弁。
 14日、巨人軍の三原脩監督が、後楽園球場の対南海戦で暴行退場。(ポカリ事件) 南海・筒井選手の走塁をめぐって紛糾、守備妨害を主張する巨人・三原監督が筒井選手を殴った事件。これにより、三原脩監督は、1シーズン出場停止処分になった。

 15日、主婦連、「主婦の店」869業者を選定。
 18日、アイルランド、共和国を宣し英連邦から独立。
 21日、中国で国共和平会談決裂。解放軍が進撃開始。

 23日、GHQ、「円に対する公式為替レート設定の覚書」を交付。これにより、1ドル=360円の「単一為替レート」が設定された。
 25日、1ドル=360円の「単一為替レート」実施。


 28日、大阪で天然痘患者発生(6月9日までに62人が発症)。

 29日、IOC、日・独のオリンピック復帰を承認。

 30日、厚生省、避妊薬7種の発売を許可。

 「あの娘可愛いや カンカン娘 赤いブラウス サンダルはいて」。「銀座カンカン娘」は、同題名の新東宝映画の主題歌である。歌の人気もものすごかったが、映画が封切られ、レコードが発売されると、いったい「カンカン娘」とはどういう意味だ?ということで議論が沸騰し、新聞や週刊誌までこの話題でにぎわった。

 映画会社やビクターにもひっきりなしに問い合わせの電話が殺到して、その答えに困った。作詞をした佐伯孝夫に訊いても「さあ、よく知らないんですよ」という。作詞の注文が来たときはすでに「銀座カンカン娘」という題名は決まっていたのである。そこで、主演した高峰秀子にたずねてみると、「監督の島耕二さんに訊いてみたんだけど、監督さんの答えもなんだかあいまいで・・・」

 こうなると、この映画の原作者であり、同時にシナリオも書いた山本嘉二郎に登場してもらうより手はない。ところが答えは「・・・いえ、なにね、きみ、ただなんとなく調子のいい言葉じゃないか?・・・だろう、きみ」とんだ人騒がせの新造語であった。

 しかし、山本嘉二郎は真顔にかえっていう。「私のひそかな気持ちは、パンパンに対するカンカンでした。いま、銀座あたりには、かかと上十センチの、けばけばしいロングスカートをはいた娘がアメリカ兵の腕にぶらさがって歩いています。だけど、ああいうのだけが日本の女性ではない。焼けあとから、たくましく芽を吹いた、生命力あふれる若く新しい日本の女性、それを主人公にして、明るく健康なコメディを・・・そんな気持ちだったんですよ」

 この年から始まった成人式には、振り袖姿のなよなよした娘が登場してきたが、山本嘉二郎にいわせると「あんな姿はアンチ・カンカンの最たるものだね」と即座に拒絶する。「カンカン娘」はもっと、なりふりかまわぬ健康で強い女性なのだ。そういえば、この年、はじめてナイロンの靴下が市販されることになり、いよいよこれから女と靴下が強くなろうとしていた時代でもあった。


  「銀座カンカン娘」 佐伯 孝夫 作詞 服部 良一 作曲
            高峰 秀子 唄




 5月1日、倉金章介「あんみつ姫」が『少女』で連載開始。
 2日、婦人団体協議会が結成され、44団体が参加。
 4日、GHQ、日本製DDTの配給統制を解除。

 5日、初の「こどもの日」。

    日本柔道連盟創立。第1回全日本柔道選手権開催。
 6日、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)臨時政府が成立。
    酒類が自由販売となり、価格引き下げ。

    ベルギーの劇作家M・メーテルリンク、死去。享年86歳。童話劇「青い鳥」で知られ、1911年にノーベル文学賞を受賞。また、詩人でもあり、詩集に『温室』などがある。

 7日、1947(昭和22)年7月以来の全国料飲店閉鎖を解除。
 9日、全鉱連、四国・九州から第1次波状スト突入。

 10日、税制改革のシャウプ使節団、来日。
 11日、国連総会、イスラエルの加盟を承認。
    極東委員会の米代表、日本に対する賠償取り立てを打ち切ると声明。

 14日、東京証券取引所が再開する。GHQの証券取引許可を受けて、この日に東京証券取引所が開所式を実施。16日、から営業した。このときの東証上場は681銘柄。
    炭労740組合42万人が48時間ストに突入。

 16日、支笏(しこつ)・洞爺湖(とうやこ)一帯を国立公園に指定。
 18日、函館〜東京間のハトレース開催。1位は戦前より10時間遅い22時間5分。
 19日、中労委の斡旋案で石炭争議、妥結。

 20日、ソ連、日本人捕虜全員9万5000人を年内送還と発表(日本側計算は40万余人)。
 21日、ジャン・ギャバン主演「大いなる幻影」封切。

 22日、「湯の町エレジー」「異国の丘」などが大ヒットし、レコードは歌謡曲時代、と新聞に。

 23日、吉田茂首相、衆議院で講和は意外に早そうと答弁。

 24日、満で数える年齢のとなえ方に関する法律公布。これにより、年齢の数え方が法律上満年齢となる。施行は翌年。

    ドイツ連邦共和国(西ドイツ)成立。
    戦後初めての輸入果実として、台湾バナナが輸入される。値段は1本30〜40円程度。

 25日、通商産業省が設置される。これにより、商工省・貿易庁・石炭庁廃止。

 26日、ザビエル来日400年祭のためローマからザビエルの「奇跡の右腕」が空輸される。

 31日、国立学校設置法公布。これにより、各都道府県に新制国立大学69校が設置される。(のち、大宅壮一はこれらの新制国立大学を「駅弁大学」と命名した)

 松竹映画『別れのタンゴ』(佐々木康監督)の主題歌。スターを目指す歌手(高峰三枝子)とその婚約者(佐分利信)、指に戦傷を負ったかつての名ヴァイオリニスト(若原雅夫)とその恋人(高杉妙子)による恋のクァドリール。
 前年のヒット曲「懐かしのブルースと同じトリオで、これもヒットした。

 注:クァドリール〈quadrille〉はカドリールとも書く。男性2人と女性2人が1組になり、方形を作って踊る。フランスで発生した宮廷ダンスで、世界中に広まり、鹿鳴館でも盛んに踊られた。その音楽はジャズにも取り入れられている。


  「別れのタンゴ」 藤浦 洸 作詞 万城目 正 作曲
           高峰 三枝子 唄




 6月1日、日本国有鉄道(総裁:下山定則)発足。
    日本専売公社(総裁:秋山孝之輔)発足。

    新制国立大学68校が発足。

    国民金融公庫設立。初日来店1万人超える。
    日本工業規格(JIS規格)制定。
    東京の21店など大都市でビアホール(当時の表記は「ビヤホール」)が復活。
    雑誌『夫婦生活』創刊(7万部が即日完売)。

 3日、小説家の佐藤紅緑(こうろく)、死去。享年74歳。昭和2年、大衆小説「あゝ玉杯に花うけて」で一躍有名に。サトウ・ハチローと佐藤愛子の父でもある。

 4日、持株会社整理委員会、三菱重工の3分割決定を指令。
 5日、北海道唯一の城、松前城(国宝)が全焼。

 6日、米国帰化法の人種制限撤廃。在米日本人8万余人も市民権を獲得。

 7日、厚生省、中絶により出生率低下と発表。
 8日、ILO総会に日本から戦後初めて参加。

 11日、東京都、失業対策事業による労務者の日当を245円に決定する。(「ニコヨン」の呼称の始まり)

 12日、ガーナのエンクルマ、会議人民党結成。
 14日、映画倫理規定管理委員会(映倫)設立。

 16日、国際水泳連盟、日本の復帰を承認と通告。

 17日、全国賃金調査。男7557円、女3125円。
    東京銀座でアドバルーンが復活。
 20日、九州・四国にデラ台風。死者・不明418人。

 21日、GHQ、「軍政局・軍政部」を「民事局・民事部」に改称と発表。
 22日、日教組、政治活動弾圧に対し闘争を指令。

 23日、メチルウイスキーによる死亡者続出。東京都が一斉調査を実施し、台東区などで多数を押収。
 24日、優生保護法改正で経済的理由での中絶合法化。

 25日、戦後初の芥川賞決定。由起しげ子『本の話』と小谷剛『確証』。

 27日、ソ連シベリアからの引揚げ再開。引揚げ第1船の「高砂丸」が舞鶴に入港。
    韓国駐留米軍が撤退を完了。

 29日、列車妨害続発に、総裁「政治的意図の印象」と。


    米国ユタ州のホーゲル動物園から贈られた2頭のライオンが、上野動物園に到着。 このライオンは「ナイル」「アリス」と命名され、一緒にピューマとスカンクも来日した。

 清水みのる、倉若晴生、田端義夫のトリオで、昭和15年「別れ船」、昭和21年「かえり船」をへて、この年、第三番目の船が進水した。「かよい船」である。

 田端義夫といえば、ギターの弾き語りがトレードマークであるが、昭和14年「別れ船」を吹き込んだとき、その謝礼金の中から五円を割いて手製のギターを作り、それを弾きながら歌いまくったものだった。


  「かよい船」 清水 みのる 作詞 倉若 晴生 作曲
         田端 義夫 唄




 7月1日、政府、国鉄労組に9万5千余人の整理通告。

 2日、「高砂丸」引揚げ者240人、共産党に入党。
 3日、上野動物園、米から寄贈のライオンを公開。
 4日、警視庁、闇金融「光クラブ」を摘発。

    マッカーサー元帥、「日本は共産主義進出阻止の防壁」と声明。

 6日、下山定則国鉄総裁、東京足立区の常磐線路上で轢死体となって発見(下山事件)。

 8日、東京都、狂犬病流行で犬猫の放し飼いを禁止。
 9日、朝日新聞本社新館増築。6階に「ニューヨーク・タイムス」など外国通信社の事務所設置。

 10日、三浦の城ヶ島に北原白秋の詩碑が完成する。
    歌舞伎役者6代目尾上菊五郎、死去。享年63歳。大正期に初代中村吉右衛門と人気を二分した看板役者。昭和5年に日本俳優学校を設立。没後、文化勲章を授与される。

 12日、国鉄吹田操車場で駅長に面会断られた職員80人が列車出発を妨害。(吹田操車場事件)

 13日、ローマ法王、共産主義者破門の教令を出す。
 14日、東北・北海道で小児麻痺流行、283人に。

 15日、中央線三鷹駅で無人電車が暴走し、6人死亡(三鷹事件)。

 17日、三鷹事件に関与したとして、分会幹部2人が逮捕される。
 18日、国鉄、鈴木市蔵ら中闘左派委員14人を解雇。

 19日、今井正監督、原節子・杉葉子主演「青い山脈」封切。主題歌は藤山一郎・奈良光枝。

 20日、巨人の水原茂、シベリアから帰還。
 21日、岩国沖で戦艦「陸奥」から遺骨引揚げ開始。
 24日、新潟県に釜山からの密航者70〜80人上陸。
 27日、英で初のジェット旅客機「コメット」初飛行。

 28日、全官広組合、行政整理に対し闘争宣言。

 31日、NHKラジオ受信契約数が800万件を突破。

 長崎医大教授、永井隆博士は自ら原爆を受けた体を病床に横たえて、迫りくる死を待ちながら、「長崎の鐘」「ロザリオの鎖」「この子を残して」などの身辺記録の著を発表しつづけていた。いずれも、これを読む世間の人々の心に強く訴えてベストセラーになった。

 この三部作をもとにして、松竹で「長崎の鐘」という映画が製作された。主題歌も同名である。この年は、ザビエル来日400年祭のため5月26日、ローマからザビエルの「奇跡の右腕」が空輸されるなど、その記念行事が盛大に行われていた。

 「長崎の鐘」、は流行歌としては珍しく宗教的なムードに包まれた曲であった。これは詩、曲、唄ともに渾然一体となった佳作である。流行歌というよりは国民愛唱歌として、いついつまでも残る名作である。


  「長崎の鐘」 サトウハチロー 作詞 古関 裕而 作曲
         藤山 一郎 唄




 8月1日、美空ひばり、コロムビア・レコードと専属契約。デビュー曲「河童ブキウギ」。
    NHK児童番組「歌のおばさん」放送開始。


 2日、農林省、蔓延する新害虫アメリカシロヒトリの処分法を指令。
 4日、吉田茂首相、タバコ事業の民営化に意欲を表明。

 6日、弘前市で弘前大教授夫人殺害(22日容疑者逮捕。冤罪で52年無罪)。
    住民投票による広島平和記念都市建設法公布。
 7日、坂口安吾、アドルム中毒で錯乱し保護される。

 10日、出入国管理令公布(ポツダム政令)。
 11日、全逓に1万1500人の人員整理通告。

 12日、マッカーサー元帥、米議会の一時帰国要請に拒否を表明。
 13日、東京都、全国初の工場公害防止条例を制定。
 15日、ジュディス台風が九州上陸。死者154人。

    元日本陸軍将校の石原莞爾、死去。享年60歳。満州国樹立の中心人物。昭和6年に関東軍を指揮して、満州事変を起こした。日蓮の熱烈な信奉者としても有名。

 16日、古橋広之進、全米水上選手権大会で、1500・800・400メートル自由形で世界新記録。「フジヤマのトビウオ」の異名をとる。

    アメリカの小説家M・ミッチェル、死去。享年49歳。1936年に『風と共に去りぬ』を発表し、爆発的な人気を獲得する。1937年に「ピュリッツァー賞」を受賞。

 17日、東北本線金谷川・松川間で旅客列車の転覆事件がおこり、乗務員3人死亡(松川事件)レールの犬釘が、人為的に抜かれていたのが原因。

 18日、増田甲子七官房長官、松川事件についての談話で、集団組織による計画的妨害行為と語る。

    NHK、全米水上を戦後初の海外実況中継。
 20日、夏の甲子園で神奈川県の湘南高校優勝。

 22日、厚生省、避妊薬17種の製造許可を発表。

 24日、北大西洋条約機構(NATO)発足。

 25日、物価庁、漢方薬・文具などの価格統制を廃止。
 26日、アメリカのシャウプ税制使節団団長、「第1次税制改革勧告文概要(シャウプ勧告)」をGHQへ提出。

    日本画家の上村松園(うえむらしょうえん)、死去。享年74歳。格調の高い美人画を最も得意とした。昭和23年に女性として初めて文化勲章を受章。代表作品は「序の舞」や「焔(ほのお)」など。

 29日、ソ連、中央アジアのカザフスタン砂漠で、原爆の実験に成功。

 30日、全国銀行協会、日銀に千円札発行を要望。
 31日、キティ台風が関東地方に上陸。都内で浸水家屋14万戸、関東地方で死者・不明160人。



9月3日、上野動物園にタイからゾウが到着。花子と命名される。25日にインドからインディラが到着。

 5日、東京天文台などが波長1.5メートルの太陽電波受信に成功(世界で4番目)。
 6日、R・ロッセリーに監督「戦火のかなた」封切。

 8日、ドイツの作曲家R・シュトラウス、死去。享年85歳。作曲活動の他にもオペラ指揮者としても活躍。代表作品は、交響詩「英雄の生涯」・歌劇「ばらの騎士」など。

 9日、GHQ、1950(昭和25)年以降の芋類の統制撤廃を許可する。

 10日、日本脳炎が流行し、患者数1117人に。

 11日、電力制限緩和以来ネオン復活進む、と新聞に。
 12日、交通公社、6大都市に海外旅行相談所を開設。
 14日、警視庁、都内露店6000軒の撤廃を決定。

    近鉄がプロ野球への加盟申請。その後も、21日毎日新聞、24日大洋漁業、28日広島と申請が相次ぐ。

 15日、「シャウプ勧告」全文が日本語で発表される。
    国鉄、東海道線(東京〜大阪間)に特急列車へいわ号(1日1往復)と食堂車を復活させる。

 17日、東京都、都職員の人員整理断行。千百余人に辞令。
 18日、ポンド下落し、対米ドルレート3割切り下げ。

 19日、小津安二郎監督・原節子主演「晩春」封切。

 22日、閣議、結核治療薬ストレプトマイシンの国内生産要綱を決定。

 23日、米大統領、ソ連の原爆実験を公表。
 24日、九州大、「赤色教授」に辞職を勧告。
 25日、ソ連、2年前から原爆を保有していたことを認める。

    広島で原爆資料陳列室が開設される。広島市基町の中央公民館に設置され、後に平和記念資料館に移る。

 26日、川崎市で初の成人学校開校(以後全国に普及)。

 28日、全国教育長会議、「赤色教員」の追放を決議(各県で教員レッドパージが広まる)。
    この月、静岡・三重・石川・熊本などで教員のレッドパージがさかんとなる。


 美空ひばりのデビュー

 昭和23年5月1日、横浜国際劇場で開場一周年を祝う歌謡曲大会が催され、小唄勝太郎、藤山一郎、笠置シズ子といったベテラン歌手たちがそれぞれ趣向をこらして競演することになった。

 そのとき、勝太郎が、童謡の唄える女の子に手をひかれて退場したい、という希望を申し出た。この意向を伝え聞いた時、劇場支配人の頭には咄嗟にある少女の姿が浮かんできた。「青空楽団」で唄っていた「豆歌手」だった。

 福島支配人は、ただちに美空ひばりをスカウトして舞台に立たせた。彼のねらいに狂いはなかった。美空ひばりは岡晴夫のヒット曲「港シャンソン」を身振り手振りの表情たっぷりに唄って、満場割れんばかりの大喝采を浴びた。この舞台から美空ひばりのプロとしての歌手生活が始まった。

 さて、美空ひばりはこの昭和24年になると日劇へ進出し、「東京ブギ」を笠置シズ子そっくりのゼスチュアで唄いまくり、満員の観衆をうならせた。あんまりその真似が真に迫っているので、本ものの笠置シズ子からクレームがついた。「ちょっと、ひばりちゃん、あんたな、あんまりわての真似せんといてや」。

 そのあと松竹の「踊る竜宮城」という映画に出演し、河童に扮して得意のブギ調の主題歌を唄った。これが「河童ブギ」で、美空ひばりとしてはそれまでの単なる物真似からはなれて、初めて唄う書き下ろしものだった。そして、これがまた彼女のレコード歌謡界へのデビュー作ともなった。コロンビアの専属となったのである。

 しかし、この歌とても、ひばりは笠置シズ子の真似がうまいからブギでいこう、という安易な企画から生まれたものだった。その意味では一種の物真似の亜流だった。そこにまず気がついたのが万城目正である。「なにもあの子にあんなあちらまがいのブギなんか唄わせることはないだろう。あの子にはもっと日本の庶民的な味が出せるはずだ」。

 まさに慧眼だった。この貴重な一言がなかったら、ブギやジャズの亜流ばかりを追って、今日の不世出の大歌手、美空ひばりはは存在しなかったかもしれない。万城目正は彼女の持つ庶民的な体質を見抜くと、すぐ第一作を書いて渡した。これがこの年の9月に発売された「悲しき口笛」であった。

 この曲は、美空ひばりのために企画制作された同名の松竹映画(家城巳代治監督)の主題歌であるが、ひばりにとっては、これが最初のヒット曲でもあった。この一曲で彼女は、レコード歌手として開眼した。このときまだ12歳。

 これをきっかけとして、彼女は万城目作品を主軸に、さらに上原げんと、原六郎。米山正夫らの書き下ろしの作品を得て、昭和20年代後半の流行歌の世界に、ひばりブームをまきおこし、大人の歌手たちを押しまくって独走してゆく。

  丘のホテルの 赤い灯も
  胸のあかりも 消えるころ
  みなと小雨が 降るように
  ふしも悲しい 口笛が
  恋の街角
  路地の細道 ながれ行く


  「悲しき口笛」 藤浦 洸 作詞 万城目 正 作曲
          美空 ひばり 唄




 10月1日、毛沢東、中華人民共和国と中央人民政府の成立を宣言する。

     ゾウのインディラの贈呈式が上野動物園で開かれる。ゾウが見たいという日本の子どもたちの願いに応えるべく、インドのネルー首相が寄贈した。インディラは15歳のメスで、ネルー首相の愛娘の名前からつけられた。


 5日、日産自動車、組合に2000人の整理通告。
 6日、自治庁、都道府県職員3万9700人削減を発表。

 7日、ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立。

 9日、プロ野球で巨人優勝。本塁打王は藤村富美男。

 12日、米国プロ野球3A球団「サンフランシスコ・シールズ」が、戦後初めて来日。全日本軍などと対戦し、10勝1敗の成績を残す。なお、球場で1本50円で限定販売されたコカコーラと、ポップコーンにも人気が集中した。

 15日、乗鞍岳の東京天文台コロナ観測所が観測開始。
 16日、京マチ子・宇野重吉主演「痴人の愛」封切。

 17日、12都府県でユニセフ寄贈のミルク給食開始。

    南原繁東大学長、「赤い教授」追放問題で「学問の自由をあくまで尊重」と談話発表。

 18日、警視庁、少年ヒロポン患者の取り締まりを命令。この年のヒロポン常用者は全国で285万人。

    閣議、皇居外苑・京都御苑の公園化を決定。
    GHQ、1945(昭和20)年9月以来の放送番組の検閲を廃止。

 19日、GHQ、日本人戦犯の軍事裁判完了と発表。死刑700人余、終身刑2500人。

    政府、全国58の朝鮮人学校の閉鎖指令。

 20日、戦没学生遺稿集『きけわだつみのこえ』刊行。

 21日、田中絹代、戦後初の芸能親善使節として渡米。

 22日、相撲協会、本場所休場中、日米野球観戦の横綱前田山を出場停止。(23日、前田山引退)
 23日、上野松坂屋で戦後初の赤ちゃん審査会開催。

 24日、GHQ、新聞通信の事後検閲を廃止。

    美空ひばり初出演「悲しき口笛」封切。

 25日、GHQ、自動車の生産販売制限を全面解除。
 26日、松川事件で6人起訴(冤罪で昭和38年に全員無罪)。

 28日、人口問題審議会、産児制限の強力推進を答申。
 29日、都内小中学校で親の失業による長欠者が、前年より倍増の4400人と判明。

    航空技術者・実業家の中島知久平(ちくへい)、死去。享年65歳。日本初の飛行機研究所である「中島飛行機製作所」の設立者。軍用機生産を推進したため、戦後すぐにA級戦犯として逮捕された。

 30日、電産、全労連脱退と賃金調停案受諾を決議。
 31日、日・西独通商協定調印。総額2000万ドル。



 11月1日、改正道路交通法施行。これにより、「人は右、車は左」の歩行者と車の対面交通が実施される。

 3日、湯川秀樹、ノーベル物理学賞を受賞。

    神戸新聞社、「夕刊神戸」発行。初の1社夕刊発行。26日に読売・毎日、30日に朝日が夕刊を発行。

    田中英光、太宰治の墓前で睡眠薬自殺。享年36歳。昭和15年に「オリンポスの果実」を発表し、青春小説の傑作と言われた。師の太宰治の墓前で自殺した。

 5日、熊本県沖で遊覧船転覆。修学旅行中の小学生22人と教師ら2人死亡。
 6日、未帰還の夫の失踪宣告申し立て増加と新聞に。

 9日、政府、「憲法上は自衛戦争も放棄」と答弁。

 10日、米原子力委員会、放射性アイソトープの対日輸出許可と発表。
 11日、1948(昭和23)年春以来4億円の貯金を集めた全国子供銀行の表彰式挙行。
 14日、『結婚白書』発表。23年は93万4170組。

 15日、周恩来、国連に国府の代表権取り消しを要求。
 17日、原動機つき三輪車が輸出検査に合格し、フィリピンへ3台輸出。
 18日、山形市の小学校で400人が流行性結膜炎にかかり強制休校(校医は引責辞任)。

 19日、通産省『技術白書』、電機・造船などで米国と10年の開き、他産業は20〜30年の遅れと。

 20日、元首相の若槻礼次郎、死去。享年83歳。普選法実現に奔走し、大正14年の内務大臣時代に、念願の普選法(治安維持法も同時制定)を制定。大正15年と昭和6年の2回、首相をつとめた。

 21日、犯罪青少年の半数が覚醒剤中毒と警視庁通達。

 24日、銀座の金融業「光クラブ」経営者で東大生の山崎晃嗣が、資金繰りに困り青酸カリで自殺する。(光クラブ事件)
 25日、10年ぶりに真珠の国内販売が許可される。

 26日、日本野球連盟オーナー会議、連盟の解散と2リーグ制の採用を決定。これにより、太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)が結成される。なお、セントラル野球連盟(セントラル・リーグ)の結成は12月5日。

 27日、米軍政府任命の沖縄議会が初会合開く。
 28日、国際自由労働組合連合、ロンドンで結成。
 30日、対共産圏輸出統制委員会(ココム)設立。



 12月1日、お年玉つき年賀はがき、初発売。

    「夕刊朝日新聞」で「サザエさん」、「毎日新聞」で「デンスケ」が連載開始。


 3日、舞鶴への引揚者1300人、援護局に4万円余の越年資金求めハンストに突入。
 4日、社会党、講和問題への基本的態度決定。全面講和・中立・基地反対の平和三原則。

 5日、セントラル野球連盟(セントラル・リーグ)結成。これにより、プロ野球は「セントラル」8チームと「パシフィック」7チームの2リーグ制が確立する。

    全官公脱退の日教組・国鉄・全逓などが官公労結成(10日産別右派が新産別結成)。
 6日、GHQ、本年度主食収穫高は玄米換算で戦後最高の1440万トンと発表。
 7日、国民政府、首都を台湾の台北に移す。
 10日、全国産業別労働組合連合(新産別)結成。

    労農党の松谷天光光と民主党の園田直が結婚。党派を超えた恋を議事堂になぞらえた「白亜の恋」は流行語になる。

 12日、イスラエル、エルサレムを首都に宣言。

 14日、東証株式市場が主力株中心に大暴落。
 15日、占領軍要員と日本人との交歓禁止を緩和。物品の授受が原則自由となる。
 16日、毛沢東、ソ連を訪問し、スターリンと会談。

 17日、東京都人口集計。602万でパリに次ぎ4位。

 19日、閣議、国鉄職員・公務員に53億円の年末手当支給を決定。一般公務員1人2920円。
 20日、日本著作権協議会、創立総会。
 21日、毎日球団、愛称公募で「オリオンズ」と決定。
 22日、比叡山安楽律院で火災。正殿など6棟全焼。

 24日、吉田茂首相、民主党連立派との保守合同を提唱。
 25日、マッカーサー元帥、戦犯に特赦令。これに基づき、4年以下の刑で服役中のBC級46人を28日に釈放。

 27日、インドネシア連邦共和国、オランダから正式独立。
 30日、ソ連軍事裁判、元関東軍司令官の山田乙三ら捕虜12人に、細菌戦実施で禁固労役刑の判決。
 31日、ジャン・ギャバン主演「霧の波止場」封切。

 この年、アメリカン・ファッションが全盛。
 この年、100団体以上の新興宗教開宗があいつぐ。

 伊藤久男も戦後いちはやく第一線に返り咲いて、すでにいくつかの曲を吹き込んでいたが、彼本来の真価を示すこれといったヒットも出なかった。それが、この年のの暮れもおしつまった12月に発売された「イヨマンテの夜」によって、その健在ぶりが遺憾なく発揮された。

 彼独特の男っぽさと抒情味がたくみに入り混じって、一種の野性的な悲しさをもたたえて聴く人の心に訴えてくる、生命力にあふれた歌唱ぶりだった。

 「イヨマンテ」というのは、「熊祭り」のアイヌ語である。ふだんから飼いならしておいた熊を、祭りの当日、殺して神に供える行事で、見る側の目にはいかにも残酷にうつるが、アイヌの解釈では、熊は死んで神の使いになるのだから、熊自身にとってはむしろ祝福さるべきめでたい行事だという。

 しかし、この「イヨマンテの夜」はそうした行事を背景に借りた恋歌である。登場してくる主人公は熊ではなく、可愛いメノコ(乙女)なのだ。


  「イヨマンテ(熊祭)の夜」 菊田 一夫 作詞 古関 裕而 作曲
                伊藤 久男 唄




 昭和24年は、なんともいやな感じの年であった。下山国鉄総裁轢死事件、三鷹事件、松川事件、これらの事件が暑い盛りの夏場へかけて引続き起こった。国民はなんだか割り切れない暗い気持ちにひきずりこまれていった。

 割り切れないといえば、日本の政治、経済、社会のすべての機構がGHO(総司令部)の思惑ひとつで動かされていたことだ。一国の象徴ともいうべ日の丸の旗でさえ、やっとこの年の1月になって掲揚の許しが出たのである。

 そうしたなかにあって、国民の心のうちに、わずかながらでも誇りと自身を取り戻させたのは、湯川博士のノーベル賞受賞と、全米水上競技での古橋選手の世界新記録樹立だった。