番外編   流行歌で綴る戦後史
 昭和23年(1948)

 1月1日、宮城一般参賀が23年ぶりに復活する。元日と2日の両日で約13万人が参賀に参加した。

 2日、劇団民芸が初公演。演目は、村山知義演出の「破戒」。
 8日、日本にキリスト教大学を設立するための基金が、米国で募集されたと新聞に。1949年、この基金をもとに「国際基督教大学」が設立される。

 10日、前年12月以来、性病・結核が65万件、と新聞に。
 11日、東京都、4人以上の世帯に木炭1俵を配給。

 12日、明治製菓、ペニシリンの製造を開始(この年38社が生産開始)。

 16日、中国への賠償物資輸送第1船が横須賀を出港。
 17日、日本最大で高速をほこる旅客用蒸気機関車「C62(愛称:シロクニ)」が完成する。
 18日、米政府、「干しあんず」1万余トンの対日輸出を命令。
 22日、警視庁、映画館に風紀監視の臨官席復活を通達。
 24日、文部省、朝鮮人学校の設立を認めず、日本人の学校への就学義務を通達。
    戦後初の仏映画「美女と野獣」封切。

 26日、豊島区の帝国銀行椎名町支店で行員ら12人が毒殺され、現金と小切手18万円余が 強奪される。(帝銀事件)

 29日、第1回共同募金(前年)は、5億3042万円と発表。
 30日、ガンジー、極右ヒンドゥー教徒に暗殺される。享年78歳。

 前年の10月、ものすごいバイタリティーをもった「ブギ」の女王、笠置シズ子が登場した。「東京ブギー」である。日劇で「踊る漫画祭」というアトラクションが上演された。その一場面に登場した笠置シズ子は、三千人の観衆を前にして、あの広い舞台も狭しとばかり、野獣のように吼え、狂ったように踊りまくった。このものすごい体当たり的演技に、観客はすきっぱらを蹴飛ばされたうえに、横っ面を張り飛ばされたような衝撃を受けた。

 「ブギ」というリズムは、すでに昭和12年ごろにアメリカから渡来していたが、戦時中であったため流行せず、戦後になってようやく陽の目をみた。これをいち早く流行歌に取り入れたのが上原げんとで、岡晴夫のうたった「東京の花売り娘」(前年の項参照)がそれである。しかし、一般に「ブギ」という名を広めたのは、やはり服部良一のこの曲である。このレコ−ドは、この年1月の新譜になっているが、実際に売り出されたのは、前年の12月だった。

 笠置シズ子は、舞台は奔放で体当たり的だが、人物はいたってウェットで人情にもろく義理がたい、その人間味のある人柄に人気が集まった。文壇では当時、林芙美子、林房雄、吉川英治、画壇では梅原竜三郎などが大の笠置ファンだった。とりわけ、林芙美子は小説の執筆に行き詰ったときなど、必ず笠置シズ子の舞台を見にいったという。
 「東京ブギウギ リズムうきうき 心ずきずき わくわく」


  「東京ブギー」 鈴木 勝 作詞 服部 良一 作曲
          笠置 シズ子 唄




 2月1日、沢田美喜が、混血孤児の救済施設「エリザベス・サンダース・ホーム」を大磯に開設する。
 2日、GHQ、炭鉱労働者と供出米完納農家に、米国製タバコを配給と発表。
 5日、全国の考古学者50人が考古学協会の設立を決める。4月1日に発会式。委員長:藤田亮策(りょうさく)
 8日、NHKのアナウンサー採用試験(定員20人)に800人が応募。
 9日、セーラー万年筆、国産ボールペンの販売を開始。

 10日、片山哲内閣、社会党の左右両派の対立により、九ヵ月で総辞職。

 11日、自治体警察が1565市町村で試験発足。
 14日、食パンの食中毒続発で、東京都はコッペパン配給への切り替えを指令。

 16日、米国、岸信介らA級戦犯容疑者の裁判を放棄。

 17日、米第八軍、1921年5月から1年半で日本女性824人が在日米軍人らと結婚したと発表。
 21日、衆議院が芦田均を、参議院が吉田茂を、それぞれ首相に指名。両院協議会が開催 される。

 26日、アスピリンなど大衆薬39種の統制を解除。

 27日、閣議、公務員の新給与水準2920円と決定。
    この月、東京が裏口営業(闇営業)の飲食店の摘発を強化。前年施行の飲食営業緊急措置令で、外食券食堂以外の飲食店に休業命令が出された。しかし、闇営業を行う店が多かったため、取締りを強化していた。

 前年、「夜のプラットホ−ム」で一躍脚光をあびた二葉あき子は、この年新春早々、「バラのルンバ」というスロールンバのリズムで美しく歌って成功しているが、続いて出したブルース調の「フランチェスカの鐘」が大ヒットした。
 「ああ あの人と 別れた夜は」


  「フランチェスカの鐘」 菊田 一男 作詞 古関 裕而 作曲
              二葉 あき子 唄




 3月2日、中国検察当局、ソ連抑留中の元満州国皇帝の溥儀(ふぎ)を反逆罪で起訴。
 3日、東京都、井戸水使用者に塩素さらし粉を配布。
 5日、入浴料と洗髪料、ともに2倍の6円に値上げ。

 6日、米・英・仏など西側6ヵ国会議、西独の西側組み込みを決議。これにより、ドイツ分裂が決定する。

    小説家の菊池寛(かん)死去。享年59歳。代表作は『恩讐の彼方に』『父帰る』な ど。出版社「文藝春秋社」の創立者でもある。

 10日、芦田均内閣成立。(民主・社会国民協同3党の連立内閣)
 11日、「九州大学生体解剖事件」について、横浜軍事裁判所で軍事裁判が始まる。これは、1945年5月に行なわれた米軍捕虜8人への生体実験にまつわる軍事裁判であった。

 15日、民主自由党(総裁:吉田茂)結成。自由党と民主党幣原喜重郎派(同志クラブ)が合流し、153議員を擁して議会第1党となる。幣原喜重郎は、党最高顧問に就任した。

 17日、英・仏・ベネルクス3国、西欧連盟条約(NATOの母体)に調印。
 19日、GHQ、南氷洋捕鯨漁獲は1321頭と発表。
 20日、著述家の公職追放として、林房雄ら270人を公表。

 21日、第1回NHK全国のど自慢コンクール優勝大会が、神田共立講堂で開催される。26名が参加し、優勝者3名を選出。司会は高橋圭三アナウンサー。

 23日、ワイズミュラーの「ターザンの黄金」封切。

 25日、「男装の麗人・東洋のマタハリ」こと川島芳子、スパイ罪で死刑執行。北平(現:北京)で執行された。享年41歳。本名愛新覚羅顕シ(王ヘンに子)、字東珍、別名金璧輝。

参照 ウィキペディア(Wikipedia)川島芳子
川島芳子と同様に漢奸裁判にかけられたが釈放された李香蘭こと山口 淑子

 NHK「ラジオ歌謡」と「のど自慢」が、レコード発売のマ−ケットリサーチとして利用されるようになったのもこの頃である。特に毎日繰り返して放送される「ラジオ歌謡」は、聴取者の反応を見るのに絶好のメディア(媒体)であった。

 前年、「山小舎の灯」でようやくその名前が広まりかけた近江俊郎は、再び「ラジオ歌謡」で「南のバラ」を出し、これが好評だった。近江俊郎が彼の最大ヒット曲「湯の町エレジー」を吹き込むようになったのもこれがきっかけであった。
 「南の薔薇 そよ風に ほほ笑む 君の姿」


  「南の薔薇」 野村 俊夫 作詞 米山 正夫 作曲
         近江 敏郎 唄




 4月1日、新制高等学校(全日制・定時制)発足。

     新制高等学校発足後初の「選抜高校野球大会」、16校が参加して開幕。学制改革後初の大会であるが、通算では20回目の開催となる。

     ベルリン封鎖が始まる。

 4日、プロ野球開幕戦(東京後楽園球場)の阪神対金星戦で、米国メジャー風の始球式。GHQ経済科学局長マーカット少将が、観客席からグラウンドにボールを投げ込 んだ。試合結果は、雨のために5回1対0で金星のコールド勝ち。

 6日、新制高等学校発足後初の「選抜高校野球大会」決勝戦。京都一商と京都二商が対戦し、1対0で京都一商が優勝。

 7日、世界保健機関(WHO)発足。

 8日、「東宝争議」始まる。東宝は、経営不振を理由に270人の解雇を通告し、解雇者の撮影所立ち入りを禁止。一方、労働組合側は、会社の解雇案を拒否。21日には、東宝砧(きぬた)撮影所に立てこもり、反対闘争を展開。

 10日、イスラエルのテロ部隊、パレスチナのデイル・ヤシン村を襲撃し、村民254人を虐殺。
 12日、日本経営者団体連盟(日経連)発足。
 15日、日絆(にちばん)工業、セロハンテープの製造を開始する。
 18日、回虫激増で駆除薬70トンが、近く入荷と新聞に。

 19日、蒋介石、中華民国初代総統に選出される。

 21日、「東宝争議」激化。東宝砧(きぬた)撮影所に、会社側提示の解雇案を拒否した労 働組合員が籠城。

 23日、文部省、全小中学校に学校給食を拡大と発表。

 27日、衆院不当財産取引委員会で、昭和電工への復金融資をめぐる贈収賄が問題化。後の「昭電疑獄事件」に発展する。

    海上保安庁設置法公布。同法公布につき、英・ソ・中は武装軍復活のおそれあり と批判を表明するも、アメリカが強行。

 28日、警視庁、『四畳半襖の下張(ふすまのしたはり)』(非売品)の出版社社長を猥褻容疑で逮捕。

 30日、東京都衛生局、メチルアルコール中毒多発で簡易検査の受診を呼びかけ。4月だけで、死者4人・失明者2人を数えていた。

    この頃、知識人層の共産党入党が相次ぐ。

 この年の春、コロンビア文芸部で慰安旅行することになった。そこで当時ディレクターだった林諄が、旅行先と宿屋の下見に出かけた。小田原、湯ケ原と回って熱海へやってきたとき、ふとギターを弾いて流している男の姿が目にとまった。そこは商売がらで、咄嗟にあるアイディアが浮かんだ。温泉町のギター流しを主人公にした歌を作ろう。題名は「湯の町ブルース」がいい。

 東京へ戻ってくると彼は、野村俊夫にその発想を伝えて作詞を依頼した。偶然か、野村俊夫にも戦時中の苦い失恋の思い出があった。それがそのまま湯の町に結びついた。彼はさっそく筆をとると三節からなるバラード風な詩を書き上げた。流行歌にしては珍しく起承転結のある作品だった。

 それを古賀政男に作曲してもらった。ところが、出来上がった曲はブルース調とはまた異なった、短音階の甘く切ない古賀メロディーだった。そこで題名も「湯の町エレジー」と変えることにした。このレコードはたちまちヒットし、戦後としては最高の四十万枚を売りつくした。この歌がはやりだすと、さっそく新東宝で映画化され、近江敏郎自ら主演した。

    伊豆の山山 月あわく
    灯りにむせぶ 湯のけむり
    ああ 初恋の
    君をたずねて 今宵また
    ギターつまびく 旅の鳥


  「湯の町エレジー」 野村 俊夫 作詞 古賀 政男 作曲
            近江 敏郎 唄




 5月1日、海上保安庁設置。巡視艇28隻、職員1万人が配備される。
    軽犯罪法公布。入墨禁止・迷信利用行為の禁止などの項目を削除し、凶器・侵入具などの携帯罪などを新たに追加。

    美空ひばり(12歳)、横浜国際劇場で本格的歌手デビュー。

 2日、夏時間(サマータイム)実施。GHQの指導により、この日の午前0時を期して、 時計の針を1時間進めて実施。この「サマータイム」は、9月の第2土曜日まで続けられた。しかし、日本の生活習慣にあわず、1952年4月11日に制度自体が廃止となった。

    講道館で第1回全日本柔道選手権大会開催。
 3日、文部省と朝鮮人連盟との間で、「朝鮮人学校問題」が決着。在日朝鮮人連盟(朝連)が、閉鎖校をあらためて私立校として設立申請。

 5日、文部省、朝鮮人学校を私立学校として正式認可。
    ソ連から引揚げ再開、サハリンの1592人が函館港へ到着。
 6日、シベリアからの引揚者2001人が舞鶴港に到着。

 7日、麻薬取締法案決定。中毒者を6ヵ月収容などを規定。

 9日、東京日比谷公会堂で「母の日大会」が開催される。これ以後、米国式に5月の第 2日曜日が「母の日」となる。以前は、皇后誕生日に母の日的な行事を併催していた。

 10日、国連監視のもとで、南朝鮮で単独総選挙が実施される。

 12日、厚生省、児童福祉法に基づき、母子手帳の配布を開始。(1966年、母子健康手帳と改称)
 14日、イスラエル、独立を宣言。アラブ諸国反攻。
 15日、14日のイスラエル独立宣言をうけて、イスラエルとアラブ諸国が「第1次中東戦争」に突入。

 16日、東京でヌード撮影会に400人参加。終了後、公然猥褻の現行犯で、主催者とモデルを逮捕。
 20日、ロングスカートとリーゼント流行と新聞に。
 26日、東京で全国ファッション・コンクール開催。洋裁学校生など4000人が来場。
 27日、トルーマン米大統領、「マッカーサー元帥のアメリカ帰国を希望」と表明。
 31日、国際ペンクラブ、日本の復帰を承認。

 終戦とともに、淡谷のり子はコロンビアからテイチクへ移った。その彼女が、この年「君忘れじのブルース」を出して、依然たる”ブルースの女王”の貫禄を示した。人気上昇中の二葉あき子とともに双璧をなし、ここに戦後のブルース・ブームをまきおこした。 ブルースの語源は「憂愁」からきている。アフリカから売られてきた黒人の祈りをこめた歌から始まった。

  「君忘れじのブルース」 大高 ひさを 作詞 長津 義司 作曲
              淡谷 のり子 唄




 淡谷のり子については、戦前のブルースについても記しておく。
 その一つ、「窓を開ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える」、昭和12年に出た「別れのブルース」である。この曲は発売当時少しも売れなかった。日華事変の勃発とぶつかり、流行歌はやがて軍歌一色に塗りつぶされていこうとしていた頃である。

 ところが不思議なことに、半年ほどたってから満州の前線の将兵のあいだでさかんに歌われ始め、大連のダンス・ホールではアンコールにつぐアンコールの大人気だった。さらに妙なことには、漢口の放送局から、前線の兵隊たちの大合唱で日本へ送られてきた。

 やがてそのうち、大連から船で運ばれてきて、まず大阪に上陸第一歩を印した。だから、この歌は大阪からはやり始めた。それから発売元の東京へやってきた。逆輸入であった。流行歌には時として、このようになんとも奇妙な運命を背負っている場合がある。


  「別れのブルース」 藤浦 洸 作詞 服部 良一 作曲
            淡谷 のり子 唄




 その二つ、「雨よ 降れ降れ 悩みを 流すまで」、翌昭和13年に出た「雨のブルース」。これがまた空前の大ヒット。大衆の心理は、お上からのお仕着せを拒絶する。ましてや、何の娯楽もない前線の兵士にとって、軍歌ばかり歌わされ聴かされることは、息の詰まる思いであったろう。前線で一番人気のあったのが、ブルース調の歌であった。

 だが、このブルースも間もなく歌うことを禁止されてしまった。戦争が苛烈になるにつれて、歌手たちもどしどし前線部隊の慰問に狩り出されていった。みんな時局がら、毒にも薬にもならぬ歌を唄った。憲兵の目が光っているからだ。しかし、兵隊たちは”ブルースを!ブルースを!”と絶叫してきかない。明日をも知れない命の持ち主の集まりなのだ。

 淡谷のり子はついに、「別れのブルース」、そして「雨のブルース」を唄った。懲罰はもう覚悟のうえだった。唄う淡谷のり子も兵隊たちもみんな涙だった。廊下では監視の憲兵将校が、見て見ないふりをしながら、泣いていた。


  「雨のブルース」 野川 香文 作詞 服部 良一 作曲
           淡谷 のり子 唄




 6月6日、ダービー開催。売り上げ1億円の新記録。
 7日、国労、手当など要求し鶴見線で終日スト。これが国鉄初の「全線スト」。以後波 状スト続いた。

 9日、南原繁東大総長が天皇退位に言及と報道される。
 11日、家永三郎・朝永振一郎らに、日本学士院賞が授与される。

 13日、作家の太宰治、東京の玉川上水に山崎富栄と入水自殺する。享年40歳。

    古橋広之進、水泳800メートル自由形で世界新記録。

 18日、福岡県の勝田炭坑でガス爆発。60人死亡。

    都内の全小中高生に検便実施、と新聞に。都内小学生の74パーセントに寄生虫の疑いがあると判明したため。

 22日、文部省、国立大学設置案を決定。各県1校。

 23日、東京地検、昭和電工社長日野原節三を商工省課長への贈賄容疑で逮捕。(昭電疑獄事件)

 24日、ソ連、陸路を完全に遮断し「ベルリン封鎖」(26日より米英など生活物資空輸を開始)。

 27日、全国PTA協議会結成。

 28日、福井県でマグニチュード7.3の大地震が発生する。震源地は福井県東北部九頭竜川下流域。発生時刻が午後5時15分頃と、夕食の準備時と重なったため多くの火災が発生、被害が増した。死者3895人、負傷者1万6375人。建物全壊3万5420戸、半壊1万1449戸、焼失3691戸。

 29日、衆院裁判官訴追委、静岡地裁の天野判事の訴追を決定。これが、初の裁判官弾劾となる。
 30日、米で開発されたトランジスタが公開される。

 岡晴夫の好敵手が小畑実であった。この年の6月、「長崎のザボン売り」を出すに及んで、彼の真価は遺憾なく発揮された。この歌はエキゾチックな中国メロディーをあしらったものだが、小畑実はこれを実に軽快に明るく唄っている。青春歌謡といってもいいだろう。

 この歌がはやりだしてから、物好きなファンが、わざわざ長崎までザボンを買いに出かけたところ、ザボンなんか売っていなかったという。しかし、この歌のおかげで、その後、本物のザボンが長崎に現れたというのだから、歌の力はおそろしい。
 「鐘が鳴る 鳴る マリアの鐘が 坂の長崎 ザボン売り」


  「長崎のザボン売り」 石本 美由起 作詞 江口 夜詩 作曲
             小畑 実 唄




 7月1日、宮内府、宮城の呼称廃止し、皇居とする。

    「沖縄タイムス」紙、ガリ版刷りで創刊。
 5日、グアム島に5年間潜伏の旧日本兵2人が帰国。
 6日、北朝鮮からの引揚げが終了。総計約32万人。

 7日、酒類値上げ。清酒1級900円、ビール150円、サントリー角瓶1405円。

 12日、福岡市の博多山笠が7年ぶりに復活。

 13日、優生保護法公布。これにより、人工妊娠中絶などの条件が緩和される。

 15日、GHQ、新聞社・通信社への事前検閲を廃止。

 16日、初のエジプト米が横浜に到着。感謝会開催。
 20日、国民の祝日に関する法律公布。即日施行され、年9日を制定。
 23日、戦後初のロックフェラー財団留学生に選ばれた保健婦、看護婦ら女性4人、横浜港を出港。

 29日、ロンドン五輪開幕。日独は招待されず。

 31日、政令201号公布。これにより、公務員の団体交渉権・争議権などが否認される。

 この年に出た「懐かしのブルース」は、歌うスターとしての高峰三枝子の存在を、再びクローズアップした。彼女は戦後いち早く松竹のスクリーンにカムバックし、その主題歌もいくつか吹き込んでいるが、この「懐かしのブルース」のヒットで、歌手としてのゆるぎない地盤をかためた。

 これは同名の映画の主題歌であるが、戦後の一時的衝動から生まれた一連の戦争暴露ものから、ようやく平静を取り戻して作られたミュージカル作品であった。この映画と主題歌のヒットによって、同じトリオで、こののち「別れのタンゴ」「想いでのボレロ」「情熱のルンバ」という一連の映画主題歌が生まれてきた。
 「古い日記の ページには 涙のあとも そのままに」


  「懐かしのブルース」 藤浦 洸 作詞 万城目 正 作曲
             高峰 三枝子 唄




 高峰三枝子の代表曲に「湖畔の宿」がある。昭和15年の5月に出た曲であるが、戦後もよく歌われた曲であるので、ここで取り上げておく。

 この歌は昭和16年ごろからはやりだした・・・と、思ったらたちまち情報局から発売禁止の命令が出た。言ってみれば、これは女の失恋歌である。この頃は、人間は恋をしてはならなかった。だから失恋などあり得ない。それを、ただ一人山の湖に行って、ランプを引き寄せ、手紙を書いたり消したりすることは、非国民の仕業である、と決めつけられた。

 おもしろいことに、こうやって役人から睨まれ、発禁になったような曲にかぎって、兵隊のあいだでは人気があった。前線の兵士たちには、発禁なんか関係ない。あちらでもこちらでも、せいいっぱい声をはりあげた「湖畔の宿」の大合唱がきかれた。兵士たちはみんな孤独だったのである。

 歌手たちの戦地慰問で、兵士たちからのリクエストが圧倒的に多かったのがこの曲だった。とりわけ、特攻隊の基地で、若い航空兵たちが直立不動でこの歌を聞き、そのまま出撃していった姿が忘れられないと、高峰三枝子は幾度となく語っている。
 一 「山の寂しい 湖に ひとり来たのも 悲しい心」
 三 「ランプ引き寄せ 故郷へ 書いて又消す 湖畔の便り」


  「湖畔の宿」 佐藤 惣之助 作詞 服部 良一 作曲
         高峰 三枝子 唄




 8月1日、NHK「のど自慢」で復員兵が「異国の丘」を歌う(10月竹山逸郎らでレコード化)

 6日、ロンドン五輪と同日開催の日本選手権1500メートル自由形で、古橋広之進・橋爪四郎が世界新。

 9日、渋谷駅前の「忠犬ハチ公」像が再建される。
 13日、改称後初の全国高校野球選手権大会開幕。

 15日、大韓民国が独立し、式典が挙行される。大統領には李承晩(イ・スンマン)が就任 。

 16日、大リーガー、ベーブ・ルース死去。享年53歳。

 19日、労働争議(東宝争議)中の東宝砧(きぬた)撮影所に、東京地裁が財産保全の仮処分 を執行。撮影所内に立てこもっていた労働組合員は400人。彼ら対して、東京地裁が「会社への撮影所明渡し」の仮処分を決定。仮処分執行のため、武装警官2000人に加え、アメリカ軍騎兵1個中隊・戦車7台・飛行機3機を投入。そのものものしさは、「来なかったのは軍艦だけ」と評された。組合側は流血の惨事を避け、撮影所を明け渡したうえで闘争を継続することに決定した。

 21日、帝銀事件容疑者として画家・平沢貞通逮捕。

    GHQ、22年度の出生は271万人余で史上最高と発表(空前のベビーブーム)。

    折口信夫・杉村春子らに戦後初の芸術院賞。
 22日、米空軍、ジェット戦闘機の配備を開始。

 27日、九大生体解剖事件で5人に死刑判決。

 29日、ヘレン・ケラー、11年ぶり2度目の来日。
 31日、種なしスイカの量産化に見通しと新聞に。

 昭和23年8月1日(日)、NHK「素人のど自慢」がラジオから流れてきた。と、その途中で、耳なれぬリズムの軍歌調の歌がきこえてきた。声もしっかりしている。唄い終わると鐘の乱打、万雷の拍手。

 アナウンサーのインタビューが始まる−−−。シベリア・・・抑留生活・・・望郷・・・そういった言葉が語られる。軍隊調の答えだった。そして、この歌の題名は「異国の丘」というこであった。作者は不明だが、シベリアの捕虜収容所では朝となく夕べとなく、敗戦の故国をしのんで唄われているという。

 たまたまこの放送を自宅で寝転がって聴いていた作詞家の佐伯孝夫が、翌日ビクターへ行って話した。会社でもやはり聴いて印象にとめた人がいた。佐伯孝夫の話をきくとみんなが異口同音に、これはいける、といった。こうなると、そこは商売がら、時を移さず磯部ディレクターがNHKへかけつけて「異国の丘」のレコード化の了解をとりつけた。その後、他のレコード会社の者もかけつけたが、あとの祭りだった。

 まもなくこの歌は、佐伯孝夫が歌詞に筆を加え、清水保雄が編曲して吹き込まれることになった。歌手は、これを放送ではじめて唄った中村耕造と、目下売り出し中の竹山逸郎だった。

 「異国の丘」はレコードの発売とともに、秋口から猛烈にはやりだした。それはこの歌に盛られた内容が国民のセンチメントに強烈に訴えたからである。曲もよかった。遠い異国の土に囚虜の身となった人達の、はるか故郷の空に馳せる望郷の念が切々として大衆の心をうった。そして、みんなわが身の上のような思いをして涙を流した。

 さて、この歌の流行にさらに拍車をかけるように、NHKでもまたこれを繰り返し連日のように放送した。独唱で、合唱で、管弦楽で・・・それこそ編曲に手を加え品を変えての力の入れようだった。

 そのかたわら、一曲放送が終わるごとに「この歌の作詞作曲者は申し出てください」と付け加えることを忘れなかった。たちまち、五十数人が名乗り出た。なかにはまた聞きで作者の名を知らせてくるものもあった。ビクターにも何人か現れた。しかし、いずれも当の本人であるという決め手はなかった。

 ちょうどその頃、吉田正という元陸軍伍長がソ連から復員して故国の土を踏んだ。長い戦場での明け暮れと二年にわたる抑留生活のために、身も心も消耗しきったいた。とりわけ、ソ連国境における戦闘で敵弾を受けて倒れ、数日間にわたって意識を失い、一度は「死んだ」体は衰弱も極限に達していた。

 彼は舞鶴に上陸すると、心ときめかしてその足で故郷茨城県日立市に帰って行ったが、そこは空襲と艦砲射撃で無惨や、見るかげもなく破壊しつくされていた。呆然としてたたずむ彼の耳もとに、どこかで聴いたようなメロディーの歌が流れてきた。
   「今日も暮れゆく異国の丘に
    友よつらかろせつなかろ・・・」

 なんでこんな歌が内地で唄われているんだろう・・・?彼は自分の耳を疑った。無理もない。自分の作曲した歌が、生みの親よりひと足お先に復員して、はやっているなんて、狐にでもつまされた思いだった。彼はいったんまた東京へ戻った。そして、自分より一年先に帰還していた友人の米山正夫を柿ノ木坂の家に訪ねた。そこで意外な話を聞いた。NHKがこの歌の作者を探している。というのだ。

 だが、吉田正は、まだ異国の空の下に抑留されたまま残っている戦友の身の上に思いを馳せると、自分だけが先に帰ってきたことが、何だがすまないような気がして、NHKに名乗って出るような、晴れがましい気持ちに急にはなれなかった。しかし、米山正夫に何度もうながされて、ついにNHKにやっていった。

 彼がこの歌の作曲者であるという物的証拠は、昭和19年満州から帰還した角田勘吾という友人の手紙に書きとめてあった楽譜と名前によって立証された。これを確認したのが、当時NHKの著作権課長をしていた長野伝蔵だった。この年の11月のことである。

 歌詞の作者は増田幸治とわかった。彼は昭和21年2月、ウラジオストック郊外、アルチョム収容所で、すでに戦時中から唄われていた「大興安嶺突破演習の歌」のメロディーに、「俘虜の歌える」という歌詞をつけた。そして副題を「異国の丘」とした。もちろんこの原曲が吉田正の作ったものだった。

 この曲は実は昭和18年ごろ彼が作ったものである。もともと彼はエンジニアが本職で、プロの作曲家ではなかった。趣味として作ったものである。その後、十年のあいだに吉田正は、わが国の流行歌地図を一人で塗り替えてしまった。この歌の縁で、佐伯・吉田コンビは戦後幾多の流行歌の佳品を生んでいった。なお、「異国の丘」は新東宝で映画化された。

    今日も暮れゆく 異国の丘に
    友よ辛かろ 切なかろ
    我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
    帰る日も来る 春が来る


  「異国の丘」 増田 幸治 作詞 佐伯 孝夫 補作 吉田 正 作曲
         竹山 逸郎 中村 耕造 唄




 9月1日、西独、制憲評議会を開催。議長にアデナウアー。

 4日、大蔵省、貿易実績の発表を復活(15年以来)、6月までの輸出入は前年同期の5・ 8倍。
 6日、最高検察庁、詐欺などによる国会議員への告発受理54人、うち15人を起訴と発表。

 9日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が樹立される。首相には金日成(キム・イルソン)が就任。

 11日、九都市で輸入コーヒーの希望配給を決定。

 13日、東京地検、福田赳夫を昭電疑獄で逮捕(18日大野伴睦、30日来栖赳夫を逮捕)。

 14日、都で大規模な教員移動。女性校長2人誕生。
 15日、主婦連合会(主婦連)結成。(会長:奥むめお)
    ラジオの契約数が700万台突破、戦前並に。
 16日、マッチが8年ぶりに自由販売となる。

 18日、全日本学生自治会総連合(全学連)結成。
 20日、「美しい暮らしの手帖」創刊。編集長・花森安治。
 24日、本田技研工業設立。社長・本田宗一郎。

 この年のキングは、その発売した流行歌の数こそ他社より少ないが、ヒット曲はいずれも圧倒的なベスト・セラーズになっている。しかもそのほとんどが、キングのドル箱、岡晴夫と小畑実、この両雄の歌によって占められるという状態だった。この二人に津村謙と林伊佐緒が加わることによって、ここ両三年にキングの黄金時代が築かれた。

 岡晴夫は前年の「啼くな小鳩よ」に引き続き、この年の9月「憧れのハワイ航路」という空前のヒット作を出した。これはダメ押しとでもいう大ホームランであった。岡晴夫の人気はこの一作で、もはや不動のものとなった。

 戦後の日本は、アメリカ一辺倒だった。占領軍の兵士のなかには、ハワイ生まれの二世たちも多く混じっていた。戦時中、若人たちの憧れは満蒙の天地だったが、それがいまやハワイへと向けられた。しかし、この当時はまだ渡航の許可はおりていなかった。それだけに、憧れは一層強く燃え立ったのである。その心理を巧みについたところに、この歌の成功の一因があった。

 また、岡晴夫は美空ひばりに大きな影響を与えた歌手でもあった。その美空ひばりの本格デビューは、翌昭和24年の秋である。
 「晴れた空 そよぐ風 港 出船の ドラの音愉し」


  「憧れのハワイ航路」 石本 美由起 作詞 江口 夜詩 作曲
             岡 晴夫 唄




 10月1日、警視庁と大阪府警、犯罪通報専用電話「110番」設置。

 2日、斉藤秀雄・吉田秀和らが東京家政学院内に子供のための音楽教室を開設。
 5日、初の教育委員選挙実施。投票率は、56.7パーセント。

  6日 東京地検、「昭電疑獄事件」で西尾末広前副首相逮捕。

 7日、芦田均内閣、「昭電疑獄事件」の道義的責任をとって総辞職。

 8日、電球・歯みがきなど111種の品が自由販売となる。
 9日、松竹歌劇団が採用試験を実施。競争率20倍。

 11日、漫画家の岡本一平死去。享年62歳。ユーモアに富んだ政治漫画を得意とする大正期漫画界のリーダーであった。岡本一平の妻が岡本かの子、息子が岡本太郎である。

    文部省、高校社会科に世界史の新設を決定。
 14日、警視庁、『小説新潮』掲載の石坂洋次郎「石中先生行状記」を猥褻として同誌を押収。

 15日、主食を2合5勺から2合7勺に増配を決定。

 19日、第2次吉田茂内閣成立。(民自党単独少数内閣)

    東宝争議終結。解雇通告の撤回と引き換えに、山本薩夫ら組合幹部20人が退社。これにより、195日におよんだ争議が終結。

    日本新薬、虫下し剤サントニンの工業化に成功。

 22日、農林省、さつま芋配給を月15日以内に抑制。
 26日、東富士は横綱に、増位山は大関に昇進。
 29日、準A旧戦犯・豊田副武らへの軍事裁判開廷。
 30日、文部省、高校国定教科書『民主主義』を刊行。

 この年はデュエット曲が花ざかりであった。その中で最大のヒット曲は「三百六十五夜」である。同名の映画主題歌(新東宝作品)。これは霧島昇と松原操という往年の「愛染かつら」のおしどりコンビが、戦後久々に吹き込んで大当たりをとった。
 「みどりの風に おくれ毛が やさしくゆれた 恋の夜」


  「三百六十五夜」 西条 八十 作詞 古賀 政男 作曲
           霧島 昇 松原 操 唄




 11月1日、秩父山中で高木正得元子爵の白骨死体発見。
 2日、戦後初の文化勲章。上村松園が女性初の受賞。

    米大統領選でトルーマン再選。

 3日、国連総会、対日独講和条約作成の要請を決議。
 5日、閣議、冬期の家庭用電力確保で、不正使用防止・工場の夜間操業停止など緊急対策を決定。

 6日、全米カメラ展にポラロイドカメラ出品。
 8日、9月の勤労者世帯収入は9892円と総理府。。

 10日、国鉄、1等寝台車を7年ぶりに復活。
 12日、極東国際軍事裁判所、A級戦犯25名に有罪判決。(うち、東条英機ら7被告に絞首刑判決)。

    文部省、小学校学籍簿に5段階の相対評価法の採用を通達する。

 14日、ガールスカウト復活し東京で第1回大会。
 15日、プロ野球リーグ戦終了。優勝は南海。最高殊勲選手は山本(鶴岡)一人監督兼内野 手。
 16日、八幡製鉄所労組、新給与体系を求め大正9年以来最大の72時間ストに突入。
    日本コロムビア、米コロムビアとレコード原盤輸入契約を締結。

 17日、正月の餅米配給は前年の倍1人1キロと発表。
 18日、6大都市でウイスキーの希望配給を開始。
 20日、福岡県小倉市の主催で、初の公認競輪が開催される。4日間の開催で、入場者は 5万5000人。

 23日、第1回全日本合唱コンクール開催。
 25日、東急、150人乗りトレーラーバスを運行。
 26日、政府、都会地転入抑制の全面解除を決定。
 27日、南海の別所昭(毅彦)投手、巨人へ移籍。
 29日、海員組合、48時間スト突入。全船舶が停船。
 30日、国家公務員法改正公布。

 この年のその他のヒット曲。

 「君待てども」、前年「港が見える丘」で一躍脚光を浴びた平野愛子の第二弾。ブルース調が切々として胸をうつ。
 「君待てども 君待てども まだ来ぬ宵 わびしき宵」


  「君待てども」 東 辰三 作詞・作曲
          平野 愛子 唄




 「東京の屋根の下」、灰田勝彦のいかにも若々しい青春賛歌である。三節の歌詞のなかに日比谷、上野、銀座、新宿と、焼け跡から起ち上がる東京の姿に、夢を求めて歩く、アベックの気持ちが歌いこまれている。
 「東京の屋根の下に住む 若い僕等は しあわせもの」


  「東京の屋根の下」 佐伯 孝夫 作詞 服部 良一 作曲
            灰田 勝彦 唄




 12月1日、松竹新喜劇、大阪中座で旗揚げ公演。
 6日、警視庁、初めて女性看守24人を採用。

 7日、警視庁、「昭電疑獄事件」で芦田均前首相逮捕。

 9日、GHQ、米で分離された結核の特効薬・ストレプトマイシン菌を厚生省に手交。

 10日、国連総会、「世界人権宣言」を採択。
 12日、衆議院、炭鉱国管事件で収賄容疑の前法務次官・田中角栄の逮捕を許諾(13日逮捕)。
 14日、大日本仏教会、国鉄各駅のクリスマスツリーは信教の自由を侵すと内閣に質問書提出。

 15日、年賀郵便が9年ぶりに復活し受付開始。

 16日、中国共産党軍、北平(現北京)へ無血入城。
 17日、国連、イスラエルの加入要請を拒否。
 19日、マッカーサー元帥、日本政府に「経済安定9原則」の実行を指示
    オランダ、インドネシアとの停戦協定破棄し首都に侵攻。スカルノらを逮捕。
 21日、家庭裁判所の設置が決定される(実施は、24年1月)。

 23日、衆議院、内閣不信任案可決。衆議院解散(なれあい解散)。

    巣鴨拘置所で東条英機ら7被告に絞首刑執行。

 24日、GHQ、岸信介・笹川良一・児玉誉士夫らA級戦犯容疑者19人を釈放。
 26日、ソ連軍、北朝鮮からの撤退を完了。

 27日、総理庁、総人口は8021万6896人と発表。

 28日、ベネディクト『菊と刀』刊行。
 29日、人吉市で祈祷師一家惨殺事件発生(後の「免田事件」)。
 31日、日銀券残高約3552億円。前年比62パーセント増。

 この年は、帝銀事件、太宰治の入水自殺、東宝争議、昭電疑獄事件による芦田均内閣の崩壊と世間を賑わすトピックには事欠かない年であった。そして、東京裁判が終結し、東条英機ら7人の戦犯が刑場の露と消えていった。

 一方、ロンドン五輪と同日開催の日本選手権1500メートル自由形で、古橋広之進・橋爪四郎が世界新、年賀郵便が9年ぶりに復活、福岡市の博多山笠が7年ぶりに復活、と明るい話題も増え始めて暮れていった。