番外編   流行歌で綴る戦後史
 昭和22年(1947)

 1月1日、吉田茂首相、年頭の辞をラジオで放送中、労働運動の左派指導部を「不ていの輩」と非難し問題となったが、労働組合が立ち上がらざるを得なかったのは、生活苦と食糧難のためであった。

 戦後のインフレで、官公労働者賃金は民間の約半分に落ち込んだ。このため吉田内閣打倒をめざし1月9日、全官公庁労組拡大共闘委員会は史上空前のゼネストを決定。 1月18日、2月1日午前零時をもって無期限スト(2・1ゼネスト)突入を宣言した。

 政府は社会党右派のだきこみを図り、GHQもスト中止を勧告したが組合側は拒否、突入必至の情勢となった。しかし、大詰めの1月31日、マッカーサー元帥の命令でストは中止された。これを受けて、全官公庁労組拡大共闘委員会、伊井弥四郎議長が全組合員に対し、ラジオで涙の中止呼びかけを行った。

 1月20日、主要都市の国民学校で週2回の学校給食開始。

 前年から夕刊フクニチに連載開始された、長谷川町子『サザエさん』第1巻刊行。

 ビクターは昭和21年に全国から新人歌手を募集、三千人近い応募者の中から7人を採用、その中に平野愛子と竹山逸郎がいた。平野愛子のために書き下ろされたのが、「港が見える丘」である。ビクターは大空襲によってプレス工場も吹き込むスタジオもなかったが、この苦境を救ったのが、不倶戴天の敵、コロンビアの武藤社長で、自社のスタジオとプレス工場をビクターに開放した。この好意は、戦後レコード界を飾る心あたたまるエピソードとして、今も残るる語り草となっている。

 「あなたと二人で来た丘は 港が見える丘」、このレコードはたちまち十万枚以上売りつくし、ビクター戦後最初のヒット曲となった。これにより平野愛子は一躍スターの座につく。


  「港が見える丘」 東 辰三 作詞・作曲
           平野 愛子 唄




 2月2日、18歳未満の孤児、全国で12万3504人を数えると厚生省が発表する。
 7日、マッカーサー元帥、吉田茂宛書簡で総選挙実施を指示。警視庁、闇物資取締りのため冷蔵庫摘発隊・倉庫摘発隊を編成。  14日、東京都、条件つきで芋の買い出しを許可。

 20日、石井桃子『ノンちゃん雲に乗る』刊行。

 22日、「男装の麗人・東洋のマタハリ」こと川島芳子、北平(現:北京)から南京へ護送。南京への護送は、中国の軍事法廷出廷のため。10月22日、中国河北省高等法院、「男装の麗人・東洋のマタハリ」こと川島芳子に死刑判決。
 24日、参議院議員選挙法公布。

 人の心は休まるいとまとてもなかったとき、潤いとと希望を与える唄が出た。「岡晴夫」の「啼くな小鳩よ」である。

 男は復員服、女はモンペ、履物は軍隊靴か下駄や草履、そういった姿の人々が岡晴夫の出ている劇場におしかけた。岡晴夫の唄は、もともと流しの伝統を引き継いだ演歌調である。それが大衆に受けた。

 「啼くな 小鳩よ 心の妻よ」、彼が身ぶり手ぶりよろしくうたいだすと、満員の客がその歌声にあわせて、手拍子をうち足で床を踏み鳴らして自らも酔っていった。これがどれだけ国民のとげとげしい気持ちをやわらげたか、計り知れないものがある。


  「啼くな小鳩よ」 高橋 掬太郎 作詞 飯田 三郎 作曲
           岡 晴夫 唄




 3月2日、全新聞社が教科書用に新聞用紙の供出を決定。
 4日、GHQ、南方軍事裁判で絞首刑が30人と発表。
 5日、槙原悦二郎内務大臣、全国警察部長会議で「主食の強権供出」を訓示。これにより、主食供出促進に警察力が動員されることになる。6日、東京では米の配給が平均13日の遅れで、さらに悪化する傾向と新聞に。

 11日、東洋レーヨン、国産ペニシリンの量産を開始。
 13日、少年少女の家出が敗戦直後の20倍と新聞に。
 16日、給食費15円が払えず、給食を食べない児童がいると朝日新聞「声」欄に投書がある。
 17日、改正参議院議員選挙法公布。
 20日、列車持ちこみ荷物の全国一斉取締り開始。千葉県松戸駅では米50余俵が押収される。

 27日、極東委員会(FEC)、日本の新憲法再検討に関する指令をマッカーサー元帥に通知した旨発表。マッカーサー元帥、吉田茂宛書簡で極東委員会(FEC)の憲法再審査条項の政策決定について通告。

 30日、春の甲子園大会が復活し開幕徳島商が優勝。
 31日、改正衆議院議員選挙法公布され、衆議院解散(帝国議会の終幕)。教育基本法・学校教育法公布。

 この年の新春、松竹映画「地獄の顔」が封切られ、コロンビアから2曲、テイチクから2曲、計4曲の主題歌が売り出された。通常は一本の映画に一社から2曲であったので、異例のことであったが、それぞれヒットした。その中で大ヒットしたのが「雨のオランダ坂」と「夜霧のブルース」である。

 コロンビアから「こぬか雨降る 港のまちの」で始まる「雨のオランダ坂」は、中国風な旋律をたくみに取り入れた古関裕而の曲が、いかにも長崎らしいエキゾチックな雰囲気をだして成功。それに、「支那の夜」「蘇州夜曲」と中国風のメロディーを歌わせては独壇場の感のある渡辺はま子の起用が当った。


  「雨のオランダ坂」 菊田 一男 作詞 古関 裕而 作曲
            渡辺 はま子 唄


一方、テイチクからは、かって戦時中に出た「上海ブルース」のトリオによる「青い夜霧に 灯影が紅い」の「夜霧のブルース」が大ヒット。

  「夜霧のブルース」 島田 磬也 作詞 大久保 徳二郎 作曲
            ディック・ミネ 唄




 4月1日、6・3制や男女共学を基本とする新学制の開始により、小学校・中学校発足。

 13日、カフェー女給千数百人が「トーキョー・ウエイトレス・ユニオン」を組織し、月給制実現と新聞に。雑誌を六四ページに制限するなど、用紙割当を強化。
 19日、学童の体位は明治末期と同じ、と新聞に。
 20日、第1回参議院議員選挙実施。(社会党47議席で第一党)。
 25日、第23回衆議院総選挙実施。(社会党143議席・自由党131議席)、婦人議員が39人から15人に減少する。
 この月、当用漢字・現代仮名づかいによる国定教科書の使用が始まる。

 5月1日、昭和天皇、宮城(皇居)内を通行中に日本人記者と初会見。

 2日、マッカーサー元帥、吉田茂宛書簡で、国会などにおける国旗掲揚を許可。

 3日、日本国憲法施行。

 8日、GHQ、食糧15万トンの放出を許可。これにより、5月は遅配なしの見こみがたつ。
 13日、東京裁判で「南京事件(南京大虐殺)」の審理が開始される。
 20日、第1次吉田茂内閣総辞職し、特別国会召集。「緑風会」の構成議員数が92人に増大。参議院最大勢力となる。23日、 衆参両院、社会党委員長片山哲を首相に指名。
24日、飲食店業界代表ら、警視庁と会見。「闇物資徹底取締り」は「非現実的」と主張。

 6月1日、片山哲内閣成立。社会・民主・国協連立で初の社会党首班内閣が成立。外相:芦田均・逓相:三木武夫。

 石坂洋次郎「青い山脈」が朝日新聞で連載開始。

 9日、閣議、食糧確保・賃金や物価の全面改定など8項目の経済危機突破緊急対策を決定。
 12日、GHQ、財閥の最高機構は完全に解体されたと発表。
 24日、米国アイダホ州上空で、空飛ぶ円盤が目撃される。初のUFO報告。
 27日、食糧事情悪化のため欠席がふえている東京都の小・中学校で、夏休みの繰り上げを決定。

 昭和21年、消息不明で死亡説が決定的となった頃、藤山一郎がひょっこり帰ってきた。太平洋戦争が熾烈になったころ、楽団を組織し、海軍部隊の慰問のため南方へ旅立ち、戦後英軍の捕虜となり、シンガポール沖のレンバン島収容所に抑留されていたのである。

 昭和22年、NHKが”ラジオ歌謡”という番組をスタートさせ、その第一回に放送されたのが、藤山一郎の「三日月娘」だった。彼の戦後初のヒット曲だった。そしてこの年6月封切られた東宝映画「音楽五人男」の主題歌、「夢淡き東京」が大ヒットした。この映画で彼自身も主演している。

 「柳 青める日 つばめが銀座に飛ぶ日」この曲は戦前の「東京ラプソディー」が、まだ無傷の花の都東京を謳歌したのにたいし、焦土と化した首都に夢を求める傷ついた心を歌っている。


  「夢淡き東京」 サトウハチロー 作詞 古関 裕而 作曲
          藤山 一郎 唄




 7月3日、国務相、潜在合わせ失業者800万人と答弁。
 4日、日本初の『経済白書』発表。副題は「財政も企業も家計も赤字」。食糧危機対策で、外食券食堂などをのぞき全国33万軒の飲食店が休業。これ以後、裏口営業さかんになる。

 5日、NHK「鐘の鳴る丘」放送開始。

 17日、食糧事情悪化。東京の配給の遅れは月末に25日分、秋には40日分になる勢い、と新聞に。
 24日、東京都、主食欠配の補給に佃煮を配給。
 30日、戦災復興院、全国の家屋復興は26パーセントと発表。

 この年の春、菊田一男が占領軍の民間情報教育局(CIE)に呼び出された。フランク・ハギンスという男が居丈高にいった。「浮浪児救済をテーマにした連続ドラマをやれ。時間は毎日一回分が十五分、期間は六ヶ月」

 菊田一男はその場でことわった。日本語の持つテンポからいって、十五分で完結するドラマなんて無理だと思ったからだ。すると、フランク・ハギンスは机を叩いて怒鳴った。「やれ!命令だ、占領軍総司令部からの命令だ!」

 こうして始まったのが「鐘の鳴る丘」だった。当時家庭の娯楽といえば、NHKのラジオ放送しかなかった。だからみんな一生懸命になって聴いた。その主題歌「とんがり帽子」とともに、のっけから爆発的な人気を博した。とりわけ古関裕而のチャイム・ベルを使った曲が、童画的な幻想を呼び起こして好評だった。

 戦争が終わってみると、街には戦災浮浪時児の群れがあふれていた。家もなく、食べるものもない彼らのあいだには餓死するものがあいついだ。占領軍当局は都会の治安と美観のため、これら浮浪児の一掃を命じた。「鐘の鳴る丘」はそのためのキャンペーン・ドラマだった。

 物語は、ガード下で浮浪児隆太に鞄を奪われそうになった青年加々美修平が、それをとがめ立てせず、逆に隆太のいじけた、かたくな心をほどしてゆく。やがて、青年と浮浪児たちは、力を合わせて信州に少年の家を建てる。

 毎日がぶっつけ本番だった。古関裕而がみずからハモンド・オルガンを弾き、川田正子らが歌った。浮浪児役のほとんどが練馬区豊玉第二小学校の生徒たちであった。ナレ−ションを巌金四郎が受け持った。予定の半年からさらに延長され、それまでの週二回から五回になって、延々三年半、舞台も東京から長野、長崎、北海道と広がった。

 そして、昭和二十五年十二月二十九日、第七百九十回をもってこのロングラン・ドラマは幕を閉じた。それと同時に、浮浪児の姿も、もはや街から姿を消していた。


  「とんがり帽子」 菊田 一男 作詞 古関 裕而 作曲
           川田 正子 ・ 音羽ゆりかご会 唄




 8月1日、空気座、田村泰次郎作「肉体の門」上演開始。

 6日、広島市で初の平和式典挙行。

 9日、古橋広之進、400メートル自由形で世界新樹立。ジョン・フォード監督「荒野の決闘」封切。

 19日、最後の全国中等学校野球大会閉幕。九州勢で初めて福岡県の小倉(こくら)中学が優勝。
 25日、黒字家庭は1割、「朝日新聞」の世論調査発表。

 9月7日、日曜日に初の電力制限。一般家庭への送電を半減、工場へは全面停止。
 17日、政府、隠退蔵物資の情報提供に報奨金と発表。
 18日、GHQ、給食用粉ミルク4714トンを放出。
 食糧不足のため、この年から水田となっていた東京上野の不忍池で、稲の刈り入れ。不忍池は重要な食糧生産地とされ、稲作の他にも、冬には麦作を実施した。池として復活するのは、1950年のこと。

 昭和21年8月29日付の東京日日新聞に次のような投書が掲載された。
「私この三月、奉天から引き上げてきました。着のみ着のままで・・・(中略)・・・私は二十三歳です。奉天で看護婦をしていました。・・・(中略)本籍は福島です。両親はなく・・・」

 それからある人の口添えで女中奉公の口が見つかったが、勤めに行ってみるとその家は「待合」だった。二週間ほど働いているうちに、そこの女将から芸者になれとすすめられた。三味線も唄もうたえないから、とことわったが、それでも結構だ、といって、彼女の嫌がることを無理に押しつけようとした。

 驚いた彼女は風呂敷包み一つをかかえてその家を飛び出し、ある旅館へ泊まろうとしたが、金がないので追い出され、しょうことなしに上野の地下道にころがりこんで飲まず食わずの二日を送った

 三日目に知らない男が握り飯を二つくれた。翌日にもまた一個めぐんでくれて、「話があるからついてこい」と公園に誘い出された。・・・それ以来、ずるずると闇の女におちこんでいった。投書の記事はここで終わっていた。

 たまたまこの記事を目にした、作詞家「清水みのる」は、当時を回顧して言う。「腹が立って、体中がふるえるようでしたよ」。彼はこみあげてくる憤りを原稿用紙にたたきつけるようにして、徹夜で一篇の詩を書き上げた。三節からなるこの詩は、いずれも「こんな女に誰がした」で結んである。

 作曲を受け持った「利根一郎」も同じ思いで、その憤りを五線紙にぶっつけていった。
 「星の流れに 身を占って 何処をねぐらの 今日の宿」、この「星の流れに」は、戦後初めて書かれた、戦争への告発歌であった。


  「星の流れに」 清水 みのる 作詞 利根 一郎 作曲
          菊池 章子 唄




 10月1日、第6回国勢調査実施。調査の結果、総人口7810万1473人。東京都500万7771人。大阪府333万4659人。
 衣料の切符制が復活。果物は自由販売に。

 2日、5年ぶりの砂糖の一般配給が決まる。年内には子どものない家庭にも本物の砂糖。

 6日、文部省、教育漢字881字を発表。7日、政府、財界・報道関係991人を公職追放。
 9日、政府、新警察制度を指示する「マッカーサー元帥書簡」を発表。内容は、自治体警察の独立や公安委員会設置など。
 10日、電球が1世帯につき1個ずつ配給される。

 11日、山口良忠東京地裁判事、配給生活を守り栄養失調で死亡。「天下の公吏はヤミ米は食わず・・・と」

 13日、秩父・高松・三笠の3直営宮家を除く山科家など11宮家51人が皇籍を離籍する。
 19日、袋かけ用の紙が不足している青森のリンゴ農家が、古新聞送ればリンゴを返送と新聞に。
 21日、国家公務員法公布。公務員を「公僕」と規定し、国家公務員の団体行動などを制約する。
 22日、米軍、主食供出の報奨に軍靴を贈ると発表。
 26日、改正刑法公布により、不敬罪・姦通罪廃止となる。
 31日、米議会合同委、終戦以来の米国の救済援助額は190億ドル以上と発表。うち日本は七億ドル弱。

 日華事変が始まった翌年、昭和十三年の暮れのことであった。新橋駅は出征兵士を送る人の波でごったがえしていた。わきおこる万歳の声、揺れ動く旗の波、しかし、そのかげには涙を抑え、ひそかに別れを惜しむ若妻や、年老いた父母の姿があった。

 たまたまこの光景を目撃して、心うたれた一人の新聞記者がいた。彼は早速、見送る肉親の立場からこの別離の悲しさを詩にして書き下ろした。翌十四年一月、この記者は正式にコロンビアに入り、そしてその詩が入社第一作と決まった。この記者が奥野椰子夫、そして詩の題名が「夜のプラットホ−ム」

 これに服部良一が曲をつけ、淡谷のり子の唄で吹き込んだ。だが、出征を別離の悲しみとして唄ったこんな歌が検閲を通るはずがない。たちまち”反戦歌”というレッテルをはられて発売禁止。レコードはそのままお蔵入りしてしまった。

 あきらめ切れなかった服部良一は、詩を全部英訳し「I AM WAITING(待ちわびて)」と変え、洋楽盤のように装って吹き込み直した。しかし、日本語の詩があればこそ生きてくる曲である。このレコードはあまり売れなかった。

戦後のこの年、二葉あき子の唄でレコード化、三度目の正直で大ヒット。その当時、人々の瞼にはこの詩の風景が刻み込まれていた。

    星はまたたき 夜ふかく
    なりわたる なりわたる
    プラットホームの 別れのベルよ
    さよな さよなら
    君いつ帰る


  「夜のプラットホ−ム」 奥野 椰子夫 作詞 服部 良一 作曲
              二葉 あき子 唄




 11月1日、NHK、クイズ番組「二十の扉」放送開始。

 2日、経済安定本部の「支出モデル」が新聞に。内容は、月1800円の「基準生活費」で暮らすための支出プラン。酒は月一合までとされた。5日、警視庁、生活費の75パーセントで闇物資が購入されていると発表。

 12日、プロ野球日程終了。1球団増えて、今期より合計8球団での公式戦。大阪(現・阪神)優勝。最優秀選手は若林忠志選手(大阪)。「青バット」の大下弘選手(東急)が、首位打者と本塁打王の「二冠王」を達成。(大下選手の本塁打王は2年連続の快挙)

 17日、外務省、海外残留邦人は82万人余、うち約74万5000人がソ連地区と発表。
 18日、岡山県津山税務署で、給料だけでは生活不可能と全員が辞表を提出。24日、水不足で電力事情最悪となる。関東地方は米軍施設などのぞき、全地区の送電を停止。

 25日、第1回共同募金が開始され、募金総額5億9297万円。(翌1948年の第2回共同募金より「赤い羽根」を使用)
 27日、日産、普通乗用車「ダットサン・スタンダード・セダン」を発売。価格は16万円。

 12月1日、特等100万円の宝くじ発売。1枚50円。6日、酒類の自由販売開始(清酒1級1升550円)。
 7日、政府、菊池寛ら185人の公職追放を発表。

 11日、南北アメリカに在住の日系人150万人が、日本救援に30万ドルの義援金と新聞に。
 15日、太宰治『斜陽』刊行。
 16日、カーテンなど室内装飾用織物の製造を禁止。
 17日、警察法公布。警察の地方分権化と民主化をうたう。中央集権的警察を解体し、国家地方警察(国警)と自治体警察の2本立てとなる。

 21日、都が正月用の砂糖を1人10匁(もんめ)配給と新聞に。
 22日、改正民法公布。結婚の自由や男女平等を規定。これにより「家制度」廃止。1都13市を対象に、都会地転入抑制法公布。

 27日、GHQ、新年の日の丸掲揚を許可する。
 29日、出生届の人名が当用漢字に限定される。

 前年、「悲しき竹笛」がはやり始めた頃、米山正夫もシベリアからな内地へたどり着いた。彼は東京に着くとその足で近江敏郎のアパートをたずねた。二人はポリドール時代からの親友だった。米山正夫は疲れきっていたが、すぐにも働かなければ明日からの生活にも困る状態だったのである。

 そこで彼は旧作の「山小舎の灯」のメロディーを近江の前でくちずさんでみせて、何とかこの曲をNHKに売りこんでもらえないだろうかと頼んだ。しかし、それには曲だけではどうにもならない。歌詞が必要だった。

 そこで彼は下宿の三畳の間で作詞に取り掛かった。長い軍隊生活と、それにもましてひどい捕虜生活、身も心もすり減って、そのうえ飢えが迫っていた。筆はなかなか進まない。山の地形を詠み込もうにも、かいもく見当がつかぬ。かといって地図を買うだけの金さえなっかた。ええい、ままよ、と語調だけを整えた。

 近江敏郎は出来上がった曲を持ってNHKを訪れた。ただちに”ラジオ歌謡”に採用され、それから毎日、「たそがれの灯は ほのかに点りて」と、近江敏郎の美しく澄んだ声で、ラジオのスピーカーから流れてきた。そしてこの年の暮れには、コロンビアからレコードとなって売り出されベストセラーの一つとなった。近江敏郎もこの曲で花開くことになる。


  「山小舎の灯」 米山 正夫 作詞・作曲
          近江 敏郎 唄




 この年、用紙事情の悪化により『文藝春秋』など雑誌に休刊が続出。スカートが流行し始める。また、性病が蔓延し、推定患者数40万人。

 人々にとって、まだ明日が見えない年とはいえ、22年度の出生は271万人余で史上最高空前のベビーブームであった。