番外編   流行歌で綴る戦後史

 歴史編纂には時代背景の記載が欠かせない。しかし、単なる年表では面白くない。例えば、写真一枚あればそこに説明が書かれていなくてもその写真が雄弁に物語ってくれる。ここではその写真資料が無いので、その時代を思い出すために流行歌を使うことにした。
 昭和21年(1946)

 昭和21年1月1日、天皇(当時46歳)は「新日本建設に関する詔書」によって、自らの神格性を否定し、「天皇の人間宣言」(1月1日付新聞各紙は一面でこれを報じた)を行った。

 「‥‥私は国民と共にあり、その関係は、お互いの信頼と敬意とで結ばれているもので、単なる神話や伝説に基づくものではない。私を神と考え、また、日本国民をもって他の民族に優越している民族と考え、世界を支配する運命を有するといった架空の観念に基づくものではない‥‥」

 そして天皇に代わり神となったのは、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の最高司令官、ダグラス・マッカーサー元帥であった。
 1月19日 - マッカーサー元帥、極東国際軍事裁判所の設置を命令する。5月3日 - 極東国際軍事裁判所開廷 5月16日 - 吉田茂に組閣命令下る。第90臨時議会招集(10月11日閉会)。

 昭和20年8月15日、終戦の詔勅。
 「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク・・・堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス・・・」

 敗戦・・・。歴史上かってなかった経験。価値基準が逆転した一億の日本国民は、ショックと虚脱状態に陥っていた。瓦礫の街にはいたるところに闇市が立ち、復員服とモンペ姿。栄養失調と餓死、浮浪児もあふれかえっていた。そのような中で、一風の涼風のようなメロディーが巷から巷へ流れていった。「赤いリンゴに 口びるよせて」で始まる「リンゴの唄」である。

 この唄は、「そよ風」という松竹映画の主題歌であったが、すぐにスクリーンを飛び出し一人立ちして巷に流れていった。ラジオから流れる歌声に、それまで打ちひしがれていた人々の心は元気を取り戻し、すさんだ心にも潤いがあたえられた。まさに世直しの歌でもあった。


  「リンゴの唄」 サトウハチロー 作詞  万城目 正 作曲
          霧島 昇・並木 路子 唄




 4月10日 - 第22回衆議院議員総選挙、女性議員39人。

 日本の官憲による厳しい「検閲制度」は、終戦とともに廃止されたが、それにもまして過酷な検閲機関が進駐米軍によって設置された。それがCCD(民間検閲局)である。これが個人の私信、映画、演劇、放送の内容すべてにわたって目を光らせていた。
 さらに、CIE(民間情報教育局)が、NHKの建物を占拠して、新聞報道、放送、芸能一般にわたっての企画に口を出していた。したがって、この頃は映画一つ作るにしても、日本側の自主企画は許されなかったのである。

 CIEは民主教育の目的で、強制的な映画を作らせた。大映の「或る夜の接吻」である。つまり、アメリカ映画のラブシーンに見られる接吻の場面を日本映画にも取り入れろ、ということであった。そして強制的な映画の宣伝も。
 ところが、肝心のキスシーンは画面一杯の傘のの大写しにさえぎられ、キスのキの字もなく終わってしまう。観客はみんな不平たらたらで館を出ていった。

 さて、この映画の主題歌が、「ひとり都の たそがれに 想い哀しく 笛を吹く」で始まる「悲しき竹笛」である。この歌は最初、霧島昇に渡され選択をまかされたが、彼は選択しなかった。代わりに歌ったのが、奈良光枝で、この曲は大ヒットした。


  「悲しき竹笛」 西条 八十 作詞  古賀 政男 作曲
          近江 俊郎・奈良 光枝 唄




 この年の6月、キングから「東京の花売娘」が売り出されると、たちまち燎原の火のごとく全国に広がっていった。この年はまだ銀座界隈は瓦礫の街で、人々は食うや食わずの生活、とても花売娘などいるはずもなかった。
 ところが、この歌がはやりだすと、まもなく銀座の街かどに花束をかかえた少女が三人五人と現れ、いつの間にか銀座の名物になってしまった。まさに、「世は歌につれ」である。

 なお、花売娘の全盛期は昭和24年頃で、その数は80人近くいた。いずれも戦災家庭の子で、そのほとんどが小学生であった。花束一つが100円、ラーメン一ぱい30円のころ”高嶺の花”だったがよく売れた。一晩の売り上げが30束から40束、卸しが30円だったので2.800円が手取り。いたいけない戦災少女の細腕が、一家の生活を支えていた。


 「青い芽を吹く 柳の辻に」、岡晴夫の戦後第一作である。

  「東京の花売娘」 佐々 詩生 作詞  上原 げんと 作曲
           岡 晴夫 唄




 9月 - 日本赤十字が旧満州に残された日本人引揚者ら収容所の人々の帰国移送を始める。
 この年、外地からの引揚船がぼつぼつ日本の港へ帰り始めていた。敗戦という傷跡を乗せた復員船は、さまざまに複雑な思いを運んで戻ってきた。

 「波の背の背に 揺られて揺れて 月の潮路の かえり船」、これはそうした時勢を巧みに歌いこんでいる。


  「かえり船」  清水 みのる 作詞  倉若 晴生 作曲
          田端 義夫 唄




 この年NHKの”素人のど自慢テススト風景”が始まる。日本橋の白木屋から中継していた。一種の実験番組「白木屋劇場」の客寄せのために、その前座として行われたものだ。これが独立した番組として全国中継になったのは、昭和23年からである。
 それはともかく、一つの歌がはやるきっかけに、この”のど自慢”の果たした効果はは大きいものがある。

 11月3日 - 日本国憲法公布、施行は昭和22年5月3日。
 破壊された街の復興よりも一足早く流行歌が復活し、人々に明るい希望を与えながら、昭和21年は暮れていった。