巻  頭  言  集

 組織運営は政治や経済など時代の変化によって移り変わって行く。巻頭言集を読めば、その時代に何を要求され、何を行ってきたかがよく理解される。そして歴代会長は数々の改革や新しい事業に取り組んできた。そこで、会長時代別に巻頭言集を作ることにした。 なお、これに関連して興味深い記事も追加しておくことにする。

古賀 隆 会長時代 昭和年61年4月26日〜平成2年4月21日

 第14回通常代議員会において、この人しかいないという思いで推挙されたのが古賀会長であった。そして古賀会長誕生を待っていたかのように数々の大事業が押し寄せてきた。2期4年の間に4回の臨時代議員会が開催されたことも初めてであった。

■ 巻 頭 言 「会長に就任して」 福岡市薬剤師会 会長 古賀 隆 昭和61年8月30日

 去る4月26日の代議員会において、会長という大任を仰せつかりました。身のひきしまる思いと同時に、責任の重大さを痛感しております。以来4ヶ月余りを経過いたしましたが、先づ最初の仕事は理事の選出ということから始まりました。新しい時代に即応できる態勢という観点より、各支部から適在適所で選ばせていただきました。結果から云いますと執行部の平均年令も随分若返ったように思います。

 年度始めの各支部総会にもすべて出席いたしました。整然と規律正しく進行された支部、なごやかな雰囲気の中に行われた支部等、それぞれの特色が表われており、支部結成8年の才月を感じとりました。ただ支部によっては出席率がいまひとつで、これは今後の課題であると思います。

 扨て、OTC、調剤薬局ともにその環境は年々巌しく、業態の多様化、廉売の恒常化、客数の減少、薬価基準の改正、保健法、老健法の改正と、どれをとっても明るい材料は見あたりません。

 そして昨年12月には医療法の一部改正が行われ、薬局薬剤師が医療法の中に明示されることになりました。このこと自体は画期的なことで、党派を超えた薬剤師議員の活躍の賜物であり、今更ながら政治の力の重要さを身にしみて感じました。反面、OTC薬局も、自から薬剤師倫理を高め、販売姿勢を正し、医療にたづさわる一員としての自覚が一層求められることになります。

 勿論我々は、医薬品を販売することを業とするものですから、現実の価格競争にも追随することは必要と思いますが、いたづらに大型店、大資本の店舗と価格戦争を繰り返すのみでは、いづれ敗北を喫することは火を見るより明らかであります。薬局には他の一般販売業、薬種商では出来ない特権のひとつに薬局製剤があります。薬局製剤を法的条件を満たして正しく販売するのは非常に面倒であります。しかもそれだけに、やれば薬局にふさわしい大きなメリットとなります。折角昨年、県薬の薬局委員会で5種類の薬袋を作ったのですから是非これを活用したいものてす。

 これに関連をいたしますが、現在市薬には試験センターを設置しております。しかし実質は学校薬剤師会の水質検査等の業務に使用されておりますだけで試験センターとしては機能しておりません。6月に日薬の試験センター協議会が開催されましたので各県の実状を検分してまいりましたが、先進的に取組んで相当の実績をあげているところ、程々のところ、これからやろうと云うところなど様々でしたが、共通して言えることは経営的に非採算性の事業だということです。今後、市薬の試験センターをどのように方向づけていくか、充分に研究しなければならない問題と考えます。

 次に改正医療法の中にありますように、これからは薬局薬剤師の調剤実務研修、学術研修が義務となってまいります。日薬では年間100時間を目標にしておりますが、福岡県薬では当面50時間を目標としております。この実績如何が今後薬剤師の社会的評価を得る指標ともなります。積極的な受講を是非お願いいたします。

 医薬分業も福岡県は先進県として評価されておりますが、現在では一応頭打ちの状況にあります。これからは面分業を地域的に如何に推進するかが課題になります。しかしマンツーマン分業とは異なり、地域医師会との充分なコンセンサスと理解が不可決であり、又地域保険薬局全員の応需態勢、しかも平等な応需とはいかないむつかしさ、などがあり、これが進展しない理由でもあります。しかし今年の福岡市の或る支部の総会では相互に役員の出席をみ、又支部三師会の開催を実現するなど積極的に対応されていることは、今後に明るい兆しを見ることができます。

 昨今県保険課による保険薬局に対する指導が一段と巌しくなってまいりました。特にいわゆる第二薬局とみられる保険薬局は、順次指導と内容調査が行われております。これについては医院側にも影響を与えることであり、県の三師会で協議が行われ、五者協議会で別段の示唆がなされるはずであります。

 今年は参議院の改選年で7月6日に投票が行われました。今回は二師共闘で歯科医師会より立候補の関□恵造先生を後援することで薬削師会も全力で応援いたしたわけですが、比例区第3位にランクされたことは、まことに御同慶でありましたが、同時に歯科医師会の組織力の強さ、行動力、資金力などあらためて感じいった次第です。我々薬剤師も開局勤務を問わず、更に強固な組織づくりを急がねばなりません。次回3年後は石井道子議員の改選年であります。

 又今回は衆参両院の同時選挙になりましたが会員諸兄には薬剤師会推薦候補に対する全面的な御支援、御協力をいただき感謝申しあげます。ただ我々の宝にも等しい折角の衆議院議員を2名も(網岡、伊藤両氏)落としたことは残念の極みであります。他日を期して復帰を切願するものであります。今後政治的活動を活発に行なうには市薬剤師連盟の設立が必要ではないかと考えております。これについては、いろいろご意見もあると思いますのでよく協議検討を重ねてまいります。

 薬業界も内外共に多くの問題をかかえており、取まく環境もまだまだ厳しくなることが予想されますが、福岡市薬剤師会としても代議員会で承認決定されましたことを基本に、ひとつひとつの問題に真剣に取組んでまいりたいと存じます。

 会員諸兄の絶大なる御協力、御鞭撻を熱望する次第です。

 「薬剤師会の現況と私見」  福岡市薬剤師会 副会長 堀江秀男 昭和61年8月30日

 同日選挙には多数の会員諸君のご出動をお願いし、有難うございました。自民党の圧勝となり、自民党は国民の信託を受けたわけであります。ご承知の通り内外共に酷しい政治、経済環境にあり、これを打開すべく中曽根内閣に期侍する結果であろうと考える。然し乍ら政府は行政、財政、教育改革を主眼にしているわけで、之を素通りするわけにはいかないのである。行政の主導力が強い中曽根内閣で医療改革も当然押し進められてくることは論を待たない。

 吾々薬剤師に関る諸問題は申す迄もなく中央における厚生省、日薬、或いは中医協において枠ぎめされるわけで薬剤師会の政治力が問われる由縁である。昨年来103国会で成立を見た医療法改正に薬局、薬剤師、薬事が明文化されたのも薬剤師会の政治力の顕れである。確かに薬剤師の医療にむけるポストは向上し評価されたわけであるが、之に伴う責任と義務が重大である。今後自らが研鑽し薬局、薬剤師、調剤或いは他の薬事を通して地域医療担当者として国民に認知されるべく努力をせねばならない。

 さて保険調剤であるが、全国で年間1億枚を応需しているが、約10%分業で増加の傾向は鈍化しているのが現状である。厚生省と日薬は全国八ヶ所の分業モデル地区を設定し約3年間の経緯をみて医療状況、分業実態、患者の動行等を分析調査し将来の分業路線の資料とすべく実施に入っている。近々調剤Feeの丸め、本人二割負担による患者抑制案、等医療費の増加と共に打出されてくると思われる。調剤料の丸めの歩止りを日薬は検討中であるがマイナスは覚悟せねばならないが見返りに薬歴管理料の増額を勝ちとりたいと考える。

 今後医薬分業は原点に立戻り吾々薬剤師の分業理論を確立し、国民の為の分業をターゲットにしぼり、国民に充分理解を頂く運動を展開せねばならない。何故なら中医協の一部に分業は高価につくとの声のあることも忘れてはならないからである。

 私は常々会員諸君よりO.T.C市場の浮上策はと問われるのであるが、自らも痛感するところである。医薬品総生産額の12%がO.T.C薬剤である現在、全く残念に思う。何故O.T.C薬品がここ迄低下したのか、之には種々原因が有ると思う。

 皆保険制度による医療優先、早期発見、早期治療は結構なことだが、云わゆる軽治療、家庭治療分野まで保険医療に包含されているのが現状である。私は専ら治療分野より健康増進分野に20年前から中心をおいてきた。のもそのためである。又国民の医薬品に対する恐怖症的なもの、これも過去の薬害問題に起因しているのであるが、医薬品のプロとして吾々は医薬品の安全性と有効性を平易にアピールして説得をせねばならない。

 一方O.T.C医薬品の流通が多角化し配置販売、特に都市型のもの、事業所販売、健保組合の配布等、色々あるが之等も一つ一つ解決させねばならない。配置は目下合法的に行われているが同一名称商品の排除、都市地域の非必要性による限定地域への改定等法改正が行われる以外に方法はない。

 高度医療が21世紀への課題であるなら配置販売方式等先進国にない制度は検討されるべきと考えるのである。又事業所、健保組合等も不必要な薬品を供給するより医療券、或いは領収書による一部負担等無資格者が医薬品の流通に関与せぬ方法をとるべきと思う。条件的なものは解決に努力せねばならないが問題は国民が薬局、薬剤師に何を望んでいるか、地域住民は何んなニーズを吾々にもっているか充分考える必要があろう。

 先日博多区医師会長が私に「先生医療、開業医や薬局は昔から全く変っていませんね」と申されたのが印象的で思い出される。過去は医療(O.T.Cも含めて)は専門家の分野で施されるものと考え、行われてきた。現在大手の大企業が国民のニーズを求めてアンテナSHOPといって情報収集店を大都市につくり国民が何を、どの様に求めているかを模索していると聞く。吾々は地域住民とのコンセンサスをとり乍ら吾々に何を求めているかを基本から検討せねばならないと思うのである。これによって客数増加、O.T.Cの必要性が理解され、地域医療に於ける薬剤師に信頼が返ってくると思うが如何ですか。

 紙面を尚少々頂きましたので、8月20〜21日に開催されました日本薬剤師会第61回臨時代議員会の出席報告を速報としてお届け致します。高木日薬会長は演述の中で、
 (1)地域医療体制が明確化し処方せん調剤をもって、之れに参加することが医療法に盛り込まれたが、医療法の精神にふさわしい薬剤師職能を再確認し、薬物治療を有効かつ安全に行うことであり、分業と薬剤師の資質の向上が絶対条件であると強調された。

 (2)若松に於ける全国モデル地区三師合同会議に言及し医師会側からの分業推進の方向が強調されたことを高く評価された。又現時点ではモデル地区事業を成功させ、全国的に拡張することに専念すべきである。

 (3)薬剤師の資質の向上は分業推進と一般用医薬品販売に欠くことは出来ないが、薬科大をも含めて新薬剤師の養成計画(六年制を差すものと考える)と現薬剤師の生涯教育にある。

 昭和60年度会務並びに事業報告、昭和60年度収入支出決算報告、昭和60年度剰余金処分の件が連続上提されブロック代表質問が11ブロックより行われた。内容については後日の日薬会誌に詳細に記述されるので簡略に質問内容について列記致します。(順不同)
 (1)試験センター問題
 (2)健食関連
 (3)地域医療体制
 (4)開局薬剤師職能とセルフメディケーション
 (5)指定医薬品取扱い(特に卸業者)
 (6)日薬誌の講読会員が少ない
 (7)医療用医薬品の流通格差
 (8)大学6年制問題
 (9)病院外来フィー
 (10)配置取扱品目の規制強化
 (11)薬剤師必要数、養成計画に関する日薬方針
 (12)生涯教育実践の日薬方策
 (13)勤務薬剤師の待遇改善方策
 (14)無店舗販売、非対面販売拡大に対する日薬方針
 (15)薬価基準新規収載品の即日実施に伴う即日発売
 (16)一般用医薬品のレペルアップと要指示薬見直しについて
 (17)大学病院からの処方せん発行推進について
 (18)外来、入院共に劇薬加算の見透しについて
 (19)分業推進と薬価改訂
 (20)分業の画期的政策はあるか
 (21)非薬剤師資本家による調剤薬局対策はあるか
 (22)国立病院の院タト処方せん発行に監督官庁で予算問題で抑制的なところがあるか、等多種の質問が集中致しましたが、吾々九州ブロックでは、
 (1)N H K大河ドラマ「いのち」7月3日放映場面での「薬は誰が合わけても同じですが」のセリフについて日薬はコメントをNHKに行ったか他関連4項目
 (2)予算執行に関する事業費の中で開局事業費が少く開局軽視ではないか
 (3)都市型配置は法改正しかない、国会活動に努力しているか、とこの3項目を脇園代議員が行い、数回のやりとりで満場熱気が集中しました。
 詳細については紙面の関係で記されませんが全国代議員の熱烈な激論が交わされました。  尚一般質問17名では再に赤裸々な討論が行われ満場歯痒ゆさと疲労感が溢れ二日目午后4時代議員会は終了し薬連会議に移行。
 本当に概略のみで会場の状況等はお察しが付きにくいと思いますが報告させて頂きました。

 「ある日の午后」   福岡市薬剤師会 副会長 栗田邦彦 昭和61年8月30日

 私の薬局にとって年中で一番ひまな時期がやって来た。小児科調剤は7、8、9と下降線をたどる。午前中はまあよいとしても、長い午后をどうして過すかが問題である。今日も今日とて月曜病。昨日の水泳の疲れか、植木いぢりの中腰の姿勢が悪かったのか、息子の50ccバイク修理がたたったのか。

 午前中はまあまあ処方箋をさばいた。1時間の昼休みも終った。さて午后6時迄の戦争が始まろうとしている。ラジオを聞きながら、日薬雑誌を読みながら、合間に子供をからかいながら処方箋調剤を楽しんでいる。だから時として住所、TELしらべを忘れる。まあ次回来訪時に聞けばよいと思っていたら、今月は一度きり仲々続けてはきてくれない。早良区のパール調剤薬局から届けていただいた佐賀県の薬歴力−ドをしらべて立派さに驚く。大病院々みに予診をとるシュライバーが必要となる。

 「次は御手洗さん、住所は…。本籍は宇美ですか。」「そーです。」「何でわかりますか。」「学生時代の友人がいました。「神功皇后、応神天皇の故事を知っていますか。実家にいって聞ぃてごらんなさい。」といっている間に看護婦さんが、ファフレノプシス(コチョーラン)を1鉢持って来て植えかえてくれという。シンビ、デンドロ、パフィオ等は栽培しているが、コチョーランはやった事がない。旱速本でしらべて植えかえは5、6月が適期となっているが、根をいためない様に注意して水ゴケで植えつける。今年はへチマ水は1件もなくランの相談が多くなった。

 「次は○山亮さん。これは臥竜先生の名前をもらったのですか。諸葛亮ですよ。」「そーです。主人が三国志をよんでファンとなり亮ときめました。」「そうですか、私もファンです。もう何度目でしょうか、人物名、地名等一覧表にして持っています。御主入によろしく」と。

 午后の夕立はげしくなり停電す。そうそう三国志ばかりではなく、ギリシャ神話の人物、武田信玄を読んでは、甲斐、信濃の地名、字名をしらべて表に書いた事。5年ばかり前に来ていた客の中に新免さんがいて、「武蔵の末裔ですか」と聞いて嬉しそうに「そ一です」といわれた事。日隈さんに、「熊本の出ですか」と聞いて感心させた事、発音を聞いて、「筑豊ですか、岡山ですか」と聞いた事、考えていたら電話のベルがなっていた。七隈の某医より、汗疹剤の注文あり、「明日の午后とどけます」といってたら電気がついた。

 ○○貞治さんの処方、母親に明日からの三連戦阪神に勝って下さいと主人に伝えてもらう。かくて本日の午后も6時、やっと終った。

 明日から又、気合をいれて仕事にせいをだそう。間違いのない様に注意して。

 「研修会,講演会への薬局開設者の出席を」
  福岡市薬剤師会 副会長 清水水一郎 昭和61年8月30日

 去る4月26日の通常代議員会で副会長に再選され、引続き2年間、大役を務めることになりました。微力ではありますが一生懸命務めるつもりです。よろしくお願い致します。

 薬剤師会の重点施策は、調剤薬、OTC薬の供給を、薬剤師の独占的業務権として確立することです。学術委員会の事業である研修会、講演会も、この施策の目的達成のために計画実施されております。

 本年も学術委員会では6回の研修会、講演会の開催を予定していますので、薬剤師職能の向上をめざしておられる先生方が、多数御出席下さるようお願い致します。

 さて昨年12月には医療法が改正され、その中で調剤薬局、保険薬剤師の位置づけが明確にされましたことは、薬剤師にとりましては、まことに画期的なことです。今後の地域医療計画の作成にあたっては、地方薬剤師会の意見を聴かなければならないよう明記されています。この様なことからしても、これからの薬局、薬剤師は同一地域内における相互の連係を密にし、さらには医療機関、関係者との連絡もよくして、地域住民に対する処方せん応需体制を万全なものにしてゆかなければなりません。

 このように状況は切迫してきていますので、保険薬局で働く薬剤師個人個人は、常に正しい保険調剤を心がけることはもとより、医療チームの一員として高く評価されるよう、なお一層の研鑽と努力の必要があります。

 市薬のA会員、特に保険薬局の開設者になっておられる先生方、薬局をとりまく医療環境の変化に対応するためにも、是非とも市薬主催の研修会、講演会に多数御出席いただき、御研鑽下さるよう、担当副会長として、かさねてお願い申し上げます。

 「組織委員会 薬剤師会の常務理事を担当して」 常務理事 高貪 博 昭和61年8月30日

 委員長  高貪 博
 副委員長 高杉正典
 委 員  井原浚−・鶴原 潔
      森田 明・糸岐良次
      深見悛彦

 昭和61年度の代議員会にて古賀新会長が選任されますと、間もなく組織の常務理事を担当せよとの電話がありました。

 私は元来几帳面な方でなく、むしろ「オーマン」な男ですのでそんな大役果せるかなと思っていましたが、諸般の事情もあって止むなく引き受ける事にしました。

 考えて見れば組織と云うのは薬剤師会の未来に影響を及ぽす非常に大事な仕事だと思います。会員の団結融和、未入会員の入会促進、対内的対外的な組織の充実等々、簡単に考える事は出来ない事ばかりです。

 私は組織を担当するに当って、前の常務理事「小村先生」が非常にきめ細く、そして綿密に計画され実行されておった事を脳裡に思い起します。彼程組織事業に適任な人は又とないと云っても過言ではないと思います。私は彼の10分の1、いや100分の1でも出来ればと思い乍ら昨今の会務に取り組んでいます。

 私は元来「和」をモットーにしています。争いをする事なく、人間皆「和」を第一義的に考えて行動し処世するならば必ずや世の中は、うまく行くと思っています。

 私は組織を充実させる為には、先任の理事が残した恒例行事を実施する事が、初年度の仕事としては適当でないかと考えております。

 然し納涼船行事を廃止して海水浴を計画したのは全くの誤算でした。現在は海で泳が無くてもプールで泳ぐ、女性は日焼けするのを嫌う、云われて見れば全くその通りです。ここに未だ経験の浅さを感じさせられます。

 然し今後はソフトボール大会、ボーリング大会等々、又ボランティアの救急薬品の補充、健康フェステイバルの対応、未入会会員の入会促進対策等々、先輩諸先生が残した事業の数々を着実に実行して行きたいと思っています。

 そして又今年度は同好会活動を発展させたいと思っています。現在は私が世話をしているゴルフ同好会は常に20名内外の参加を得て定期的に年4回実施しています。 その他に囲碁、写真、釣り等の同好会があると聞いております。そんな同好会が幹事を立て定例的に開催し同好の志を集め又ふやし発展的に実施されますならば組織委員会の方でも何らかの考えを持たねばなるまいと思っています。この仕事を進めて行くには委員会の先生方は勿論、一般会員の先生方の御協力が無けれぱ遂行出来ません。

 皆様何卒自分自身が組織の世話役になった積りで今後の組織委員会行事の実施に当っては御協力賜りますよう御願い致しましてペンを置きます。

 「薬局委員会本年度事業方針について」 常務理事 松枝茂雄 昭和61年8月30日

 委員長  松枝茂雄
 副委員長 大久保候住
 委 員  加藤正剛・冷川 襄
      国武靖夫・末田順子
      有馬 純・藤野久枝(副)

 次の通り委員会で立案計画致しましたので御協力の程を御願い致します。

 ▲ホーム薬局の育成と研修

 凡そ社会に於て薬剤師と云う公共性の強い職業がどれだけ貢献しているかをアピールする為にも研修に研修を重ねその様会を多く作り度いと思います。全会員の参加を希望します。

 ▲医薬品の適正な流通と供給

 OTCを取り巻く環境は相変らず厳しいものと思われます。全国小売業者数は滅少の傾向ですが小売薬局数は増加しています。
 浮上策の一端として、卸の小売問題、配置販売の活動制限、健食の訪問販売、医薬品の値引合戦等、有効な措置の実現に努力し度いと考えております。

 ▲薬局製剤及び指定医薬品の活用

 県薬で薬局製剤の5品目について薬袋や添付文書を作成販売致しておりますので御利用下さい。此の活用方法、薬事法上の留意点等の疑問点についての研修会も考えております。

 ▲薬局の整備

 医薬分業は改正医療法で規定された様に法律上でも医療の中で一つの地位が確立されました。これにより薬医療機関として定義づけられたわけであります。患者にとっても薬局らしい薬局の有り方が求められると思います。国は昭和65年度を目度にしている様ですが県では3年を目度にと考えております。

 ▲ヘルス事業への参加

 本年も各保健所単位で健康作りフェアがあるとと思われます。中央区は中央保健所で9月2日、3日の両日行われます。市薬は9月3日午前9時から正午迄くすりの相談を務めることになって居ります。福岡市全体の健康事業として今年は趣向を変えてハイキングを兼ねて薬用植物を探しその効用、利用法を学ぶ会を油山市民の森に於て9月14日午前11時より午後3時迄行われます。市薬の事業として市政だよりに案内されます。事前に現地を委員全員にて調査して具体策を練って万全を期し度いと思っております。又毎年国の事業として行われる薬と健康の週間も10月20日より3日間行われます。これら事業に積極的に参加することにより薬剤師職能のPRと地位向上とを目指し活動し度いと思います。その他地域別の公民館活動とか老人クラブの会合とか色々の保健活動に薬剤師としての接触を重ね市民の理解を深める事も大切な事と思います。信頼される薬局、親身になって 相談出来る薬局作りに努力したいと模索しておりますので会員の皆様の御意見なり御要望をどしどし薬局委員会宛御投稿下さい。

 ▲漢方講習会について

 研修事業の一環として本年度より薬局委員会で取扱うことになりました。本年は9月、11月、2月の3回位実施する予定です。日時、議題は未定ですが今後充実した会が持てる様に多数の会員の出席をお待ちします。

 ▲大衆薬浮上の為の討論会について

 OTCを主力とする薬局では一番関心の深い処だと思いますが是又難しい問題です。
 メーカーも卸も必死、我々は勿論必死です。薬の専門家と自負する我々薬剤師が経済戦争に捲き込まれるのは嫌ですが大なり小なり自立しなければならない処に問題があります。
 簡単に結論が出る問題ではないでしょうが少しでもより良い方向に持って行く為に集会の場を設け度いと願っております。
 以上色々と調子の良い事を書き立て重複した処もありますが思いは一つだろうと推察します。新しく巣立つ薬剤師が期侍の持てる薬局作りに邁進しましょう。会員各位の忌憚のない御意見をどしどし御寄せ下さい。

 「社保委員会」    常務理事 宮崎和人 昭和61年8月30日

 委員長  宮崎和人
 副委員長 占部吉幸・正岡民次
 委 員  入江理裕
      山□利英・藤田 彰
      小野信昭・平島公彦
      清水達三・岩穴口 男
      有田俊雄・大庭秀臣

 昭和59年10月1日健康保険法が改正され、被用者保険本人の1割負担の導入、退職者医療制度の創設、薬価基準の引下げ以来毎年何らかの形で改正施行されて参っております。

 本年度も調剤基本料の20円引下げ、薬価基準の引下げ、そして新らしく薬歴管理指導料の増設(患者ごとに作成された薬歴に基づき薬剤等に関し必要な指導を行った場合に算定する。)

 ただし初回時の算定は認めない2回目より50円加算と云う具合に調剤薬局に於ける薬剤師の仕事の量が増えてきております(調剤、薬袋書き、計算、服薬指導、薬歴管理)、それと共に最近厚生省からの通達で福岡県衛生部の動向として保険薬局の指定に当って医療機関と同一敷地の薬局については認められなくなった事と調剤室の改正(調剤室の前面は店舗から内部がよく見えるように大部分を透明ガラス張りとすること、尚、この部分を陳列棚等で遮へいしてはならない)薬局で調剤し患者に薬を渡す場合服薬指導を行う為のカウンター投薬形式がみられてきた為「薬局の調剤室の項の薬剤を交付する為の窓口を設けること」を削除した。

 この様にめまぐるしい変還する健保状況に対し社保委員会としても即応して参りました。レセプト改訂、レセプト作成、服薬指導せん、薬歴管理カード作成又毎月1回のレセプト審査、搬入等やればやる程仕事の多い委員会です。

 本年度より分業推進委員会も社保委員会の一環として事業を行う事になりました。ここで社保委員会の61年度事業計画を申し上げます。
 @レセプト審査、整理、搬送
 A保険業務の敏速な情報収集と伝達
 B請求業務、請求方法の指導講習会(年2回)
 C備蓄リスト作成(三役預り)
 Dコンピューター情報収集
 E保険調剤薬局部会の推進
 以上を本年度推進して参る所存でございます。又会員皆様方からの意見、所望がございましたら、社保委員会の方へお申し付け下さる様お願い申し上げます。

 「学術委員会の運営について」  常務理事 長谷川宏明 昭和61年8月30日

 委員長 長谷川宏明
 委 員 清水水一郎・中島英之
     車田吉正・久池井正人
     山田稚弘・藤下 修
     成沢哲夫

 人に投与される医薬品は、基本的に有効性と安全性が確立された医薬品でなければならず、この点での妥協は許されるべきではない。医薬品の有効性と安全性は、現在では充分とは言えないが、ほぼ確立されつつある。新発売の医薬品でも、長期投与時の安全性を除けば、製造承認が許可されるまでに相当チエックされており、やや安心して投与できる状態となっている。このことは副作用が無いということではなく、どんな副作用がでるのかが判明していることで、発現早期に対応できることから、重大なダメージを避けることができる。

 昭和42年10月に新しい製造承認許可基準が制定されるまでは、動物実験が終った薬物を、専問家とか権威者と言われている医師が一定数の患者の治療に使ってみて、有効率何%で、これは白己の経験から有効な薬であるとして、平気で治療に使われていたが、このような使った、治った、だから有効という有効性の証明方法は、どれほど多数の患者に使われたものであっても、何らの証明にはならない。このことはすでに様々な試験を通して証明されている。患者の疾患が治る過程で、薬効以外に多くの要素が影響を与えていることが明らかとなり、薬効によらずに治る患者がたくさんいることが判ってきたことから、使った、治った、だから有効だとする方法では、薬効以外で治ったものもすべて薬で治ったとされ、他人のふんどしで相撲を取った部分までが薬の力とされてしまう所に、有効性の証明にはなり得ない根拠がある。

 それでは真の有効性はどうしたら証明できるのか、薬効以外で治る要素を一つ一つ取り出して、この点で治った者は何人、他の点では何人、そして薬で治った人は何人と分離できれば真の薬効による有効率を出すこともできようが、これは不可能である。こうしたことから、薬を投与するか、しないかで二群に患者を分け、投与されたかしないか以外の点では二群にできる限り差が無いようにして治療してみて、二群の間の治り方の差を見よう。そしてそこに差があった時、はじめてこの薬は投与した方が治り方が良い。だから有効であると結論するのが二群比較試験であり、さらに色々な判定上でも公平を期するため二重盲検比較試験が工夫され、現在では薬の有効性の最も強力な証明方法となっている。製造承認の許可申請にも必要不可欠のデーターとなっている。

 薬剤師の本質的な職能の中にこの真に有効であり、安全性が確立されている薬剤であるかを判断する仕事も当然含まれ、この二点について確立されている薬剤について、より有効性を高め、より副作用をコントロールしやすい製剤は、投与方法は、患者指導はという所に発展しないと意昧が無い。患者に薬を投与するとき、この薬は真に有効なのか、安全なのか、有効とされた根拠は学問的に確立された方法でなされたものなのか、薬剤師であれば徹底的に追求してほしい。そしてこの点に疑問のある薬剤は、薬剤師自からが排除してゆく努力が必要であろう。真の医療人を目指すのであれば、こうした視点から今扱っている薬剤も、健康食品も見直してほしい。妥協は医療人への道を遠くするだけであろう。

 学術委員会としては薬剤師が自信をもって患者に投与できる薬剤を中心に取りあげ、より深く、また幅広い知識を研修してゆくことが使命だと考えている。特に今年は医療法改正によって年100時間の研修を行うという薬剤師にとってかって無いレペルアップが要求された元年でもあり、県薬との連繋を密にして運営してゆきたい。しかしすべては薬剤師一人一人の中に医療人としての自覚と、研修に対する積極的な取り組みが生まれてこれなければ、どのような研修会を持ってもその意義は生かされない。研修元年であることを認識され研修会への積極的な参加を期待します。

 「急患委員会」  常務理事 成沢哲夫 昭和61年8月30日

 委員長 成沢哲夫
 委 員 藤野哲朗・金山一彦
     木原三千代・小松秀美
     瀬越 寿・深見朋子

 昭和61年度の急患委、員会の現況報告と主な事業についてご説明いたします。

 1.昭和60年度1年間の業務量
 下記の通り昨年度1年間の業務量の統計ができましたので報告いたします。
   図表1

図表1

 2.過去5年間の1日平均業務量の比較表
 土曜診療は57年9月にセンターが中央区薬院ヘ移転してから行なわれています。
   図表2
図表2

 上記の通り59年度がビークで60年度は横ばい状態になっていますので、センター移転後大体3年で患者数も落ち着いてきたと見ることができるでしよう。

 3.新規出動者業務内容説明会
 急患委員会では福岡市の急患診療に新しく参加していただく市薬会員の先生方のために、随時に業務内容の説明会を開いています。
 本年度第1回目の説明会は5月20日に3名の先生が出席され、第2回目の6月25日には7名、更に第3回目の7月9日には1名の先生方が新しく参加してくださって、現在は総勢215名の市薬会員で急患診療に協力しています。会員の先生で福岡110万市民のために自分も出動してみようと思われる方は、市薬事務室の肥高事務員までお申し出くだされば適当な時期に説明会をいたします。

 4.急患診療の薬局業務手引書
 次は『福岡市急患診療薬局業務手引』の編集について述べてみます。
 この薬局業務手引書は、昭和58年より当時の市薬学術担当副会長の吉本喜四郎先生(市立第一病院薬局長)のご指導により、急患診療に出勤する薬剤師全員で編集にあたり、より正確な調剤ができるように、また編集作業の問に皆で薬学の学習ができることを願い、更に今後各地で実施されるであろう急患診療に、薬剤師が協力する時の参考になればと思って始めたものです。
 そこで昭和58年度から年に2回の編集会議を開き、その当日に出席できる者が集って各項目の原稿を検討し、昭和62年度末までの5ケ年計画で完成させる予定にしています。これまで58、59、60年の3年間に6回の検討の結果、昨年度61年2月に原稿ができた一部の項目を活字にしました。
 その内容は、「小児薬用量」、「小児薬用量表」、「老人薬用量」、「医薬品集収載薬品早見表」、「約束処方」の5項目で、今後は61、62年度の2年間に残りの項目を検討して追加完成させるつもりです。
 追加する項目は「調剤申し合せ」、「シロップ剤の配合について」、「服薬指導」、「院内製剤の調製法」、「準備図書一覧表」、「必要設備と備品」、「専任薬剤師の業務」などを予定しています。
 手引書作成検討会の第1回から第3回までの模様は、市薬会報の第16号(昭和59年7月30日発行)に報告していますのでご覧ください。
 さて本年度の第1回(通算第7回目)検討会は、10月18日(土)午後3時より5時まで市薬会館研修室で行ないますので多数のご出席を希望します。尚急患診療に出動されていない方でもご興味をお持ちの先生は遠慮なくご出席くださって結講です。

 5.委員の交替
 最後に委員の交替についてお知らせいたします。
 昨年度まで南区委員としてご協力いただきました、大久保淑住先生が本年度より市薬の理事としてご活躍くださることになりましたので、その後任として長住部会の深見朋子先生(ふかみ薬局)にご協力をお願いすることになりました。その他の委員は昨年通りです。
 以上の通り本年度も引き続き委員一同微力ながら市薬事業の一端を担当させていただきますのでよろしくお願いいたします。 61・7・1

 「学薬の現況」  福岡市学校薬剤師会 副会長 坪根百彦 昭和61年8月30日

 梅雨の季節となり先生方には学校環境衛生に色々とご苦労されていることと思います。

 各区の講習会も今年は照度騒音黒板等で一応終了し、現在はプール管理が主で、プール水の検査を初め、腰洗い槽の手擢りや、周囲の金網等の破損のような小さい点まで注意し、事故のないよう努力しなければなりません。

 更に高温多湿の時期ですので欽料水や食器洗浄度や児童の手洗い等にも注意が必要です。第1学期が終りますと夏期休暇になりますので休暇中の注意等を薬剤師として助言して頂くと良いと思います。

 このような学薬の努力は学校における児童の保健だけでなく家庭における健康生活にも役立つ事と思われ、薬剤師の価値も認められる事と思います。

 福岡市薬剤師会員で学校の環境衛生に努力し児童の健康を考え度いと思われる方は市薬剤師会或は学薬直接でも結講ですが申し出て頂けば市教育委員会へ推薦致します。

 「商組より」      常務理事 戸田昭洋  昭和61年8月30日

 開局薬剤師は医療担当者の一員としての性格と医療品等を供給する商人としての性格の両面をあわせもっている。この商人としても地域社会より期待されうる様、「流通の是正と価格の正常化」を基本とし、次の4つのスローガンのもと、日夜、努力しているのが商組である。

 1.医薬品の使命を堅持し、地域社会の保健衛生に貢献しよう。
 2.業界の発展を期し、組合員の団結をより一層固める。
 3.正常な流通安定を阻害する要因を排除し、経営権の確立をめざそう。
 4.大衆薬の普及運用と小売経営の内容刷新に努力を傾注しよう。

 具体的には

 (1)大衆薬の拡大強化

 イ、妊娠診断薬の販売経験と成果を生かす。
  59年11月より、全商連の陳情により、販売が解除されたが、そこには情勢の流れを正しく見ながら、何事にも怖じけず強く当って行く必要性と重要性がある。
 ロ、要指示薬の規制緩和
  @抗生物質、Aマイナートランキライザー、B女性ホルモン剤等の販売緩和に対する阻害要因の見出しと、その排除のための研究及び実践。
 ハ、大衆薬普及キャンペーンの見直し

 (2)再販制度の再建

 製、配、販が強力に協力しあわねばならぬので、実勢価格の把握及び是正の為、チラシ広告等情報の提供を市薬に熱望する。

 (3)組織の強化

 県職員8万8千人に対し1人当り5千円で「4億4千万円」の医薬品券の発行に対する受け皿としての組織の拡充強化及び寿医薬品券発行の推進

 (4)都市型配置販売

 業者との話し合い及び商品の差別化の研究及び実践

 (5)特納品問題

 OTCの医薬品売上が6千8百億円、健康食品4千5百億〜5干億円、特納品は2千億円今でも性懲りなくやっているメーカーに対し巌重な抗議と即時中止を申し入れている。

 (6)健康食品問題

 広告規制を巌重にすることと、医薬品との区別を明確にさせる様、指導の強化を厚生省に求めて行く。

 (7)部外品の医薬品化

 医薬品の部外品化は大量消費をねらったところから発生している。このことは、配置売薬、特納品と同じ性質のもの。医薬品業界全体の問題として、メーカーと話し合う。
 まだまだ、無店舗販売、ニセ薬等々の問題が山積しているが、面倒がらず、無視せず、出朱ることから、遂次解決の方向へもって行きたいと思う。
 仲間の組織である薬剤師会、ならび薬剤師諸兄の、絶大なる御理解と信頼と御緩助を望むものである。

 以上が京都の近藤良男先生を会長に仰ぐ、全国医薬品小売商業組合連合会の考えであり、福岡県商組の理事長石田達推先生並びに山手陽一先生の考えです。
 よろしく御協力のほどお願い申し上げます。

 「女子薬だより」  福岡市女子薬剤師会 会長 城戸嘉寿子 昭和61年8月30日

  福岡市女子薬剤師会は、さる6月8日、県薬会館において昭和61年度総会を開催しました。昭和60年度会務報告、決算報告を承認し、昭和61年度事業計画案ならびに予算案を原案通り可決しました。

 本年は役員改選の年にあたり、私が会長を留任することになりました。今期執行部として次の先生方が決定しました。

 会計担当樺島和子、東部会長山田和江、博多部会長石井多嘉子、中央部会長山手嘉子、南部会長河崎昌代、城南部会長波多江美佐子、早良・西部会長野口美智子。

 役員の方々を始めとし、会員皆様の御協力のもと、重責を果たしたいと思っております。どうぞよろしくお願い申し上げます。

 本年度総会での特別講演は、例年と少しばかり趣きを異にしまして、「男女雇用機会均等法」について福岡婦人少年室室長の丹羽君江先生のお話を伺いました。

 男女雇用機会均等法は昨年5月、第102回国会で成立し、61年4月1日より施行されました。同法により、専門的知識又は技術を必要とする業務に従事するものとして、医師、弁護士、公認会計士、一級建築士などと共に薬剤師が法的に認められました。これによって、長い間、日本女子薬剤師会をはじめとし、各都道府県の女子薬剤師会が根強く要望して参りました時間外労働の制限撒廃などが実現しました。

 このことは、女子薬剤師として喜こぶべき事柄であると同時に、その社会的な責務が非常に重大になった事を充分に自覚し、実力の養成につとめなければなりません。そのための一つの手段として、県薬、市薬と同様に、研修会ならびに講習会が、今後の女子薬剤師会の事業の大きな柱となって参ります。ちなみに女子薬剤師会では、毎年、日本女子薬研修会講本にもとづく研修会を春季、秋季、2回行っておりますが、本年度のテキストには「老人における病態生理と薬剤の使い方」、「最近の薬務行政にむける話題」、「癌の化学療法」、「感染症としてのエイズ」が含まれております。今年はこれらの内容について研修会が行なわれることになっております。皆様の積極的な御参加をお待ちしております。

 又、近年、老令化社会えの対応と、新しい医療制度の中で薬剤師の果たすべき役割が大きくクローズアップされて来ました。特に女子薬剤師は地城に密着した立場を生かして、薬剤師職能のP・Rやその発展のために力を注ぎ、地域医療の中での薬剤師の位置づけを定着させるため頑張らなければならないと考えております。

 今後とも市薬の皆様方の御指導をお願い申し上げます。

■ 巻 頭 言 「新年を迎えて」 福岡市薬剤師会 会長 古賀 隆 昭和62年1月31日

 激動の年といわれる、昭和62年の幕明けを迎えました。一年の計は元旦にあり、会員の皆さんもいろんな思いをこめて、新しい年を迎えられたことと思います。

 昨年は医療法の改正による薬局薬剤師の医療参加が明示され、明るい展望が語られましたが、一方では健康食品問題による販売姿勢が問われる暗い出来事もあり、明暗に明け暮れた年でありました。

 扨して、今年はどのような一年でありましょうか。卯年に因んで平和で平穏な一年であればと願望いたす次第ですが、そうはまいらないのが現実の世の中というものであります。福岡市薬剤師会もいろいろな問題と行事をひかえて多端な一年になりそうです。そのいくつかをとりあげて、会員諸兄の御協力を仰ぎたいと思います。

 1.市薬会館間題

 福岡市の西鉄高架工事による計画路線内に会館所有地の一部が入るために、市より、市薬所有地を譲渡してほしい旨の要望書がきております。この間題は、市薬にとっても大変重要な事柄を含んでおり、充分検討する必要があり、慎重に対処しておりますが、すでに一部では工事が着工されております。何れ具体案か市より提示されると思います。咋年12月の理事会において、会館問題特別委員会の設置をお願いし、今後万全の対応をすすめてまいりたいと考えております。

 2.九州山口薬学大会

 前回、昭和53年に福岡市で開催されてより、九州を一巡した九山大会が、本年ふたたび福岡県薬担当で福岡市において、10月17日・18日の2日間、開催されます。前回同様、電気ホールを中心に会場をすでに確保しておりますが、この大会は、日薬の学術大会に匹敵するといわれる程、地方大会としては全国有数のユニークな大会と評価を受けていると聞いております。地元の福岡市薬としても全面的に協力を惜しまず大会成功の原動力にならねばと思います。

 3.アジア・太平洋博覧会

 すでに新聞紙上で予報・PRされておりますのでご承知と思いますが、これは市制100周年を記念して、昭和64年に開催されるものであります。すでに基本計画が出来あがっているそうですが、その中に、これからの大きな社会的課題となります、国民の医療、健康問題を「21世紀社会における健康と医療」というテーマで、ひとつのパビリオンを構成、展示しようという構想が加えられました。

 これに三師会の参加要請が、福岡市、博覧会協会よりありました。三師会で協議の結果その趣旨は大変結構なことで異論はないのですが、実際にはいろいろ聞題もあると思うので参加はするが、三師会で更によく協議を重ねていくことで現在に至っております。今後、三師会とも数名の委員を出して、対応していく予定です。アジア・太平洋博に、仮称「健康と医療館」という他所の博覧会になかった構想が出展されることを知っておいていただき、又、協力もお願いしたいと思います。

 4.NHK健康フェアー(福岡市民健康のつどい)

 NHKが全国各都市を持ち回りで企画開催、更に放映しているもので、今回3月21日(土)に福岡市立中央体育館で開催されます。市の三師会も主催者の一員として参加し、薬剤師会担当のセクションも設けられます。主に薬局委員会に担当をお願いしておりますか、これらの催しも、医療法の中にあります地方自治体による健康対策事業の一環ともなり、積極的に参加したいと考えております。尚、テレビ放映は3月27日(金)午前8時30分より、9時30分までになっております。是非見ていただきたいと思います。

 5.石井道子後援会の強化

 参議院議員の任期6年というのは長いようですが、2年後の64年にはもう改選期を迎えます。昨年末の日薬連盟臨時総会で、全国各県一致で、次期候補には石井道子一本で推薦が決定されております。そして、比例代表制は次回も現行のまま行われるであろうと予測されております。問題は、選挙資金等の準備態勢にあります。関口選挙の例をみても、前回の倍近くの資金、経費を要する計算になります。

 今年の2月に行われる日薬連盟評議員会で現在の日薬連盟会費に上乗せして何がしかの会費が今後2年間賦課される見通しであります。しかし、60年の医療法改正、61年の老健法改正、又.今国会で可決されるかどうか微妙な点もありますが、税制改革における、売上税の中で医薬品については課税されないことになった。これらの陰には、石井議員等薬剤師議員の強い働きがあって実現された事実をみても、困難を乗りこえて支援態勢を強化しなければならないと思います。

 今年は地方統一選挙の年でもあります。支部で推せんした候補には、支部の計画に従って寸暇をさいて応援に出かけてほしいと思います。推せんはしたけれど、ただそれだけ、では薬剤師の足下を見すかされるだけです。開局者、病院勤務者、メーカー、卸、大学関係、官公庁、全ての薬剤師の結集が必要です.よろしくお願いいたします。

 1月18日に前厚生大臣今井勇議貝が来福された機会に、三師懇談会がもたれました。私も出席いたしましたが、薬剤師会からは、神谷県薬会長が配置の問題について強く要望をいたしました。

 前厚生大臣で社労委関係にくわしいはずの今井議員でも、この間題はよく知っておられないようなのです。香川県でもこの件で強く要請を受けたとのことで早速実状をよく調査しますとの回答を得ております。

 今は三師協調の時代ですが、他の二師に比べると我々の力はまだ弱く小さなものです。二師に匹敵する力を養うには、会員の意識啓蒙と団結力を高めていく以外にありません。今年も皆さんと一緒に精一杯頑張りますので、どうかよろしくお願いいたします

 「医療用医薬品の公正競争規約について」 武田薬品工業兜汢ェ支店 支店長 永谷 浩
                                  昭和62年1月31日

 明けましてお目出とうございます。先生方には良き新春をお迎えのことと心からお慶び申し上げます。私は昨年7月福岡支店へ赴任して参りました。今後何かとお世話様になる事と思いますのでどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 扨して既にご高承の事と存じまずが、医療用医薬品につきましては景品類の提供の制限に関する公正競争規約が関係官庁及び医療・薬関係の各団体の全員賛成のもとに昭和59年3月に認定され、同年7月より実施されております。

 即ち独禁法の特例を定めた景表法に基づいた医療用医薬晶製造業「公正競争規約」が策定され会員各社共に景品類の提供による非価格競争を是正すべく当業界として種々改善を重ねて正常な商慣習の確立に向けて努力しまして既に3年を経過致しました。

 この公正競争規約の運用にありましては医療用医薬品製造業公正取引協議会が設置され、現在医療用医薬品の供給のほぼ100%を占める238社が会員会社として加入しております。

 当協議会は全国を10支部に分けており当公取協九州支部では各県別(福岡県はブロック別)に10班の編成にて、特に運営委員会杜46社が中心になり各班毎に医療機関を始め関係の先生方へ趣旨ご説明とご協力をお願いに参上すると共に、会員会社相互の啓発と規約連守体制の確立に努力しております。

 お蔭様で先生方の格別のご理解とご支援のもとに当協議会の目的も一応達成されているのではないかと思いますが、まだ不充分な点が多々あろうかと反省致しております。更に会員各社の医薬精報担当者の一人一入に至るまで規約の精禅を定潜させるべく、今後共各県別ブロック別に医薬情報担当者に対し毎年研修会を開催する等引続き努力して参る所存でございます。

 更に規約の徹底を図るべく、具体的には規約違反の防止及び是正のために全国的に調査委員会(九州支部では情報拠理小委貝会)を設置して違反行為がない様努力し、若し違反があった揚合にはこの調査委員会にて対応する事になっております。

 当協議会と致しましては会員会社夫々が公正競争規約の一層の徹底により規約違反の絶無を図り、薬業界全体が政治の揚でも、又一般大衆からも正しく理解され評価される業界になるよう努力して参りたいと存じます。今後共何卒宜しくお碩い申し上げます。

 又、卸売業「公正競争規約」も昭和60年4月に実施され現在各支部各県別ブロック別に、規約の遷守定着に尽力させております。卸売業と製造業が正に車の両輪としてお互いに力を合わせ、薬業界の安定の為公正競争規約の一層の定着を図り公正な競争秩序の確率を図り、社会的責任の一端を果たしてまいりたいと存じておりますので、当業界、製造業の公正取引協議会の意のあるところをお汲みとりの上、先生方の一層のご支援、ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

 諸先生の御健勝と益々のご発展を心からお祈り申し上げます。

 「薬剤師法第24条」    福岡市立第一病院 薬局長 吉本喜四郎 昭和62年1月31日

 「薬剤師は、処方せん中に疑わしい点があるときは、その処方せんを交付した医師・歯科医師又は獣医師に間合わせて、その疑わしい点を確かめた後でなければ、これによって調剤してはならない」「罰則=規定に違反した者は、3万円以下の罰金に処する」以上のことは、薬剤師であれば皆良くご承知のことでありますが、この「疑わしい点」の内容については、薬剤師の知識・経験の差による、主観に左右されると考えられます。

 例えば、処方せん中の所定の記載事項が欠けている場合。薬名又は含量の記載が不明瞭か、誤記と認められる場合等は、その対応も単純に判断できますが、私はこの他に、現代のチーム医療の中での薬剤師に求められる役割として、医療過誤の中で、薬物療法によって患者さんの受ける被害を、未然に防ぐことが必要とされるようになったと考えております。しかし、その内容には数多くの問題を含んでおりますので、今回は二つの点にしぼってお示し致したいと思います。

 その一つは、最近のJJSHP,Vol.22,No.10(1986)に、日本薬剤師会の顧問弁護士である、三輪亮寿先生が書いていられます、「いわゆる「2枚処方せん・倍量処方」の違法問題」という論文の中で、このような処方せんが医師から発行された時の、調剤に当たる薬剤師のとるべき手段として、薬剤師法第24条の疑義確認をなすべきであり、これに対して医師から納得のいく回答を得られない時には、薬剤師は薬剤師法第21条の定めた、調剤応需義務から解放されるべき、「正当な理由」をもったことになり、更には、そのような疑義のある処方せんに基づく調剤により、患者に死傷の結果が生じた時には、薬剤師は民事責任と刑事責任を追及されることになるといわれます。

 何故なら、そのような情況下で調剤したことこそが、民法709条(不法行為)の注意義務違反(過失)と評価され、刑法211条(業務上過失致死傷罪)の業務者としての注意義務違反(過失)と評価されるからとのことで、「行政法の局面」での、「調剤をしなくてもよい」というだけではなく、「民法・刑法の局面」では.「調剤をしてはならない」という、調剤拒否義務があることを、肝に命じておかなければならないと結んであります。

 次の一つは、薬剤師法第24条とは、薬剤師の義務を謳ってあるというように理解されておりますが、私はここで一つの提言として、この法文は、薬剤師が医療チームの中で、薬の専門家としての役割をはたす、椎利をも示すものであると申したいのです。

 一例として、今から十数年以前に、我が国の薬業界を震憾させた、キノホルム→スモンの事件がありますが、皆様ご承知のように、現在我が国では、この製剤は全く姿を消しておりますが、ヨーロッパでは依然として整腸止瀉剤として広く用いられており、1973年5月には、英国の医薬品安全性委員会より、全英国の医師宛の通知の中で、「最近10年間に日本で発生した,一万例のスモンの流行に匹敵するようなことは、他のいずれの国にもなく、何らかの別の局地的要因が本剤と相乗的に作用したに違いないと考えられる。(中略)

 英国の製薬業者は、自家療法は少なくとも4週間の間隔をおいて、7.5gを越えない治療過程に制限すべきであるということに同意した。(後略)」と結論しています。他方、その当時の日本医事新報にも、キノホルムの1日服用量・服用期間別スモン発生率の記載があります。(別表)、この事件も現在は全て和解が成立して終わっておりますが、

 別表

図表

 この事件の最中に、処方医の責任を追及する声と、私共薬剤師が薬の専門家としてのチェック能力と責任についての発言が、被害者団体の一部にあったことを憶えております。 勿論、この事件が発生するまでは、私共は、キノホルムは消化管から吸収されない薬物で、有効かつ安全であるといわれて、それを信じておりましたから、この時点で責任を追及されても困るのですが、今後はこれを教訓として、医薬品情報の適確なる収集・整理・評価を行ない、薬剤師法第24条を、薬剤師の業務遂行のための権利と解して、処方せん鑑査の中で、正しい薬物療法の実施に貢献しなければならないと考えます。

 更に、最近、現職の医学部講師の先生から、「近頃は、処方せんの内容に対する疑義照会が増加して、診療のじゃまになる感がしますが、しかし、これは正しい方向にむかっていると思います」という言葉が聞かれましたのを申し添えます。

 作用があれば反作用があり、一つの行動を起こせば、思いがけない批判にあうのが現ですが、大切なことは、薬剤師のライセンスは、薬剤師個人の生時保障のために在存するのではなく、国民の健康保持のために、薬剤師の存在が必要とされているからであることを、白覚しなければなりません。(1987年1月1日記)

 「所  感」         福岡市薬剤師会 顧問 藤野義彦 昭和62年1月31日

 常日頃運営について、重大案件のある中で、古賀会長以下執行部の方々の努力と誠意に心よりお礼申します。今回テーマは与えられませんでしたが、卯年の春に私なりの所感を気儘に書かせて頂きました。

 先ず、今一度開局薬剤師の役割を考えましょう!!新しい臨床薬学と云う視点に立つ薬剤師は、その技術基盤としての「情報管理」を再確認しなければなりません。しかも、その情報は患者に対してのものと、医師に対するものです。前者は健康教育を含めた、プライマリケアの立場で、後者は医療チームの一員としての責任の分担です。

 それと開局薬剤師は、凡ゆる大衆薬を通じ、人々のセルフメディケーションに関与しているのです。おのずと適切なアドバイス加必要なことは言うまでもない。薬局は、医療の中の薬局と大衆薬を中心とする社会の中の薬局という、二つの機能を同時に持たねばならないのです。

 販売不振と大揺れの小売薬業界で発展、生き残りをかけて、それぞれがひしめいている。近年の薬局をめぐる経営的環境は単独店でのサバイバルを難しくしているばかりでなく、同志的結合をしている協業グループでも、単なる共同仕入事業だけでは発展活性化は困難になって来ている。

 それは、消費者の健康志向等のニーズ、消費動向の多様化などの状況に対応しなければならないからです。具体的には個々の分業、相談などの特徴を打出して、コンビネンス志向の店作りが必要だと云われていますし、その指向の方向は、個々の選択や努力の白主性で決めよと云っている。薬局も小売業全体の流れが「消費新時代」に対応している中で論外ではない。

 新設される売上税は、医薬品は免れて、直接小売薬局には関係なさそうですが、しかし薬局で取扱う商品の間口は広い。供給するメーカー、卸より、仕入高になるのはまぬがれ難いし、医薬品業界もメーカーの系列化と相まって、卸のスケールメリットの追及が急です。卸の巨大な自販力が小売薬局に与える影響は見逃せない。

 協業グループの活躍が目立つのも、特にここ数年の傾向です.非協業小売は競って協業グループに身を投じて経営の安定に向かったことが、一昨年、昨年の特徴でした。己の性格、立地を考え、個々の目標決定を急ぐときです。

  医療費適正化の動きの中で、医薬分業も大きな曲がり角に来ている。分業を考える医師の大多数はすでに踏切っている。あとは無関心派をどのようにPRして行くかであり、最前線に立つ保険薬局の一層の奮起が望まれる。こうした中で、専門保険薬局が、O.T.C薬を導入して保険調剤との兼業を志向する人が多くなっている。O.T.C薬を通じて、軽医療分野にも力を入れだしたのです。

 分業推進に索引車的役割を果たして来た、マンツーマン形態はこのところ頭打ちになっていることを数宇が示しています。対称機関の発行量を考え、採算ペースに乗らないものは、リスクをおしてまで開設に踏切りにくい。この様な隙間をカバーするのは、やはり既存の保険薬局しかない。

 近くの診療所に患者を紹介できるのも、O.T.C薬を中心とした保険薬局の強みです。後発する悔しさもあろうが、面分業の展開を考えながらの努力が必要なのです。又、専門化を指向している相談薬局も、手持の知識と手持のO.T.C薬でオールラウンドの疾病にあたることの、よし、あし、も問われています。あくまで健康相談と健康教育の原点に立った行動が求められている。

 大半の薬局経営者は過渡期に多くの試行錯誤をくりかえしながら、経営基盤を築いて行くし、何度も修羅場をくぐり抜けた入程、逆境に強い。むしろ、そのような人達ほど、量販店が近くに進出し、価格競争を仕かけて来ても、怯むことなく、積極果敢に応戦、逆境さえも「こやし」にしている人々です。ただ、立地、資本力の差が歴然としているのに「同じ土脹で、販売競争したのでは勝負は見えている」。その時こそ職能を生かす以外にない。

 それは、保険調剤はおくとして、なべて言えることは、薬局製剤はじめ(O.T.C)専門薬局としての知識と技能、サービスでもって付加簡値をつけることです。その余裕をもって、繁用品については、ライバル店に遜色ない価格の提供をし、又処方調剤における患者薬歴のみでなく、一般薬を含めた薬歴を世帯単位で整備し、医師の薬物治療に対するバックアップや相談者の指導に役立てることです。

 保険薬局とか専門薬局。一般薬とかクスリの「効用」はさておき、いま薬局が取扱う商品の中、特に生活消費雑貨についての廉売合戦のさなかにいるのも否定出来ない。薬局が雑局といわれ、兼業薬局といわれながらも、それぞれが真割に薬局の職能と経営の基盤と安定を見つけようとしている現象と見たい。「もの」としてだけの効用を求めて来る消費者には安いにこしたことはない。売る方も物品販売の意識に徹すればよい。薄利多売のモットーで客を集めれば店は繁盛する。そこには「もの売りの哲学」も生きて来よう。 雑貨屋薬局には処方せんは出せないという。

 その背景には「もの売りはなんの技術もない。技術のないものは医療職でない」と、いうことかも知れない。社会の中の薬局としては、その職能上からも、一般地域筐民と密接にかかわっていること故、私はそれ等の商品を取扱うにしても、薬局で扱う全商品は「すべて薬剤師の管理下にある」という発想に我々は立つべきであり、取扱う必要がある。この考え方からすれば薬剤師らしい扱い方が当然求められる

 「市薬広報部拡充について」     担当理事 城戸嘉寿子 昭和62年1月31日

 明けましておめでとうございます。皆様ごきげん麗しく新しい年をお迎えになられた事とおよろこび申し上げます。

 さて、福岡市薬には従来から広報部はありましたものの、その専任の担当者はどなたもいらっしゃらない状態でした。昭和61年最後の理事会におきまして、広報部を拡充することが決定され、私がその担当者になりました。

 広報部の任務は主として、年2回、1月と7月に会報の発行と、年4回、3、5、9、11の各月に広報を皆様にお届けすることです。今まではこの仕事は専務理事さんが兼任でやっておられましたが近年、専務さんの職務は非常に多忙をきわめておりますので、会報、広報の発行に関するすべての業務を一手におやりになる事は困難な実情になって参りました。

 そこで此の度、新しく広報部が拡充され、その担当者としての重責が私にかかって参りました。女性の私が推されましたのは、会報に女性的な視点も盛りこんでいきたいということと、今までは多少固くるしい感じが強かったので、もっとやわらかさと楽しさを出していきたいという事のようです。

 それともう一つ、理事の末席をけがし乍ら、あまり市薬の運営面に寄与しておりませんでしたので、この際女子薬剤師にもっと仕事をしてほしいという、この方が大きな理由かも知れません。それで広報部のスタッフは女性の方達におねがいしました。木原三千代、椛島和子、迫田法子、宮崎干登世の各先生方にお手伝い頂くことになりました。

 会報、広報の発行の他に今後広報部のもう一つの任務となって来るのは市薬の歴史に関する書類、資料を収集竪理して史実を伝承していく準備をすることです。市薬は社団法人として発足して16年を迎えますが、法人発足以後の資料は確実に保存されておりますが、それ以前のものに関しましては、会の事務所が再三、再四にわたり移転した事などもありまして散逸している部分もあります。

 それらを市薬の長老の先生方にお伺いしたり、お手持の資料等を拝借したりして会の歴史を編さんする準備にかからなければなりません。私はこれら広報部の職務には全く経験も知識もありませんので藤原専務理事さんと、この面で豊富な御経験をお持ちの三津家先生に御指導を頂き乍ら、一生懸命にやっていきたいと思っております。

 手始めに今回の会報には、開局、勤務、メーカー、卸、学薬、女子薬等各界の方達から原稿を寄せて頂きました。また新しい試みとして、リレー随筆とフレッシュさん紹介の欄を設けました。

 今後とも出来るだけ多くの会員の方達からの御意見やお考えなどを反映させて、ほんとの意味での会員の交流の場、会員の広場となるような会報を目ざしていきたいと考えております。

 皆様方の御協力を切におねがい申し上げる次第でございます。

 「長老の先生方を囲む懇談会」                 昭和62年1月31日

 日時 昭和62年1月9日14:00-17:00
 場所 市薬会館会議室

 出席者
 小松眞佐男 先生(監事)
 須原勇助  先生(元副会長)
 鶴原正造  先生(元会長)
 冨永泰資  先生(元会長)
 馬場勘二  先生(元会長)
 藤野義彦  先生(元会長)

 主催者側
 古賀 隆  会長
 藤原良春  専務理事
 三津家正友 常務理事
 城戸嘉寿子 広報担当理事
 木原三干代 広報委員

 福岡市薬の歴史を伝承するための準備の一環として昭和62年1月9日に市薬会議室において長老の先生方を囲む懇談会を開催致しました。お寒い中にもかかわらず長老の先生方7名と主催者側から5名の出席者を得て座談形式で藤原専務理事が進行役としていろいろとお話をお伺いしました。

 昭和初期ごろから薬業活動を始められた先生もいらっしゃいまして、めずらしいお話もたくさん出て参りました。

 昭和28年以降に関しては市薬事務局で保存されている資料により歴代会長ならびに役員のお名前は判っておりますがそれ以前の事に関しては全く白紙の状態でした。

 長老の先生方の御記億をたどり乍ら、まずは歴代会畏さんのお名前を確認することから始めました。それによりますと、昭和4年ごろに本村巳之吉先生が会長をなさり、ついで森下源太郎、岡本太郎、山口源次先生へと引きつがれ、昭和18年から内田三郎先生となり、それ以後は会長のお名前と在職の年限がはっきりと確認されました。

 昭和18年に官制の薬剤師会長が任命され、同年の9月1日に福岡市薬剤師会(当時は薬剤師協会の名称)が創立されたようです。それまでは県薬の支部の形で経理なども独立した形でほなく一緒になっていたようです。

 その当時(昭和18年)は事務所は渡辺通二丁目の岡本薬局内におかれ、ついで渡辺通一丁目の実業会館内、春吉三丁目へと移転し、昭和26年3月に御供所に薬剤師会館が出来ました。

 御供所の会館あたりから御記憶の方が多いのではないかと思います。この会館も昭和46年3月17日に火災で焼失し、3月19日には福岡商工会議所内に仮事務所を置きましたが非常に家賃が高ったそうで、4月15日には博多駅近くのいわとビルに再移転しました。

 昭和47年7月11日に旧福岡県婦人会館(現.県薬会館)に変わり、昭和55年8月から現在の市薬会館に参りました。このように会の事務所一つとってもこれだけの変遷を重ねて来ております。

 もう一つ特に心にのこったお話は先輩諸先生方の医薬分業に対する真摯なとりくみでした。

 昭和26年6月に医薬分業関係法案が一部改正して可決され昭和30年1月から実施という事になっていました。従来は患考の要求があった時のみ処方せん交付の義務を課していた制度が根本的に改革され、処方せんの強制発行と併せて処方内容の公開により投薬の通正化を期するものでありました。

 しかし「…処方せんを交付することが患者の治療上特に支障ある時…」「患者又は現に君護に当たっている者が特に希望したとき…」には処方せんを発行しなくてもよいという但し書きを追加する修正が行われました。

 このただし書きが以後の医薬分業の形態を全く骨ぬきのものにしてしまった事は皆様方御承知の通りと思います。しかしこの分業法案も実施時期が更に遅れそうな様相になったため、昭和28年に分業実施同盟が結成され、全国各都道府県より代表者が集まり国会議事堂周辺で寒風のすさぶ中に座りこみ分業実施促進の運動を展開されたそうです。

 福岡からも当時の磯田会長と今日出席された馬場先生が上京され、三年坂の議事堂附近で「医薬分業」とかいたはちまきをしめて座り込みをしたというお話でした。

 このような事があって昭和29年12月に薬事法の一部改正が国会を通過成立し、医薬分業の実施時期が1年3ヵ月延期され昭和31年4月からいよいよ分業が始まりました。先輩諸先生方の血のにじむような努力や運動がつみ重ねられて、現在のような医薬分業の形態が出来て来たわけです。最近は分業はすでに時代のすう勢となって参りましたがここに来るまでの先輩諸先生方の御苦労を忘れてはならないと思いました。

 尚、昭和18年福岡市薬剤師会発足以来、昭和63年は45周年に当たりますので、記念式典を行ってはどうかとの意見が出されました。執行部でのご検討をお願いします。
 (一部県薬のあゆみを参考にさせて頂きました。文責 城戸嘉寿子)

 「第1回OTC懇話会」                     昭和62年1月31日

 日時 昭和62年1月14日(水) 19:00-21:00
 場所 市薬剤師会館

 趣 旨

 1.現在のOTC薬をどのような考えでどの様に販売しているか。
 2.今後のOTC及びOTC薬局はどうあるべきと思うか。

 出席者
 東支部  正岡民治(まさおか薬局)
 博多支部 吉田 徹(吉田薬局)
 中央支部 小野信昭(小野調剤薬局)
 中央支部 中野 寛(赤坂門薬局)
 西支部  波多江敬三(飯倉薬局)
 西支部  竹尾真一(タケオ薬局)
 南支部  瀬尾 隆(タカヒロ薬局)
 南支部  岩佐周一郎(創健薬局)
 南支部  小村正治(おむら薬局)
 薬局委員 7名

 古賀会長挨拶:
 医薬分業も進んできているが、薬局にとってOTCは大きな柱であり、真剣な討議をお願いします。
 現在、国会において審議されている売上げ税について医薬品は対象からはずされました。調剤報酬にも税がかかる筈であったが、はずされる様になりました。これは代表が国会にいるからであり石井議貝が幹部にアピールしているからです。薬剤師会も政治に強くなければならない。会の為に動いている議貝は各支部でも一生懸命応援して下さい。

 堀江副会長挨拶:
 今年は「視界0社会」と言われ、先の読み難い年であるし薬業界も大型店侵入など問題があり、OTCは苦戦を強いられている。今後のOTCの要望、抱負を出席者の先生方に述べて頂きたい。

 白己紹介

 <懇話会>

○ 効く薬の発売をメーカー厚生省へ強力に要望して欲しい。
○ スイッチOTC及び指定薬の解説を会報等で会員へ知らせて欲しい。
○ ピルの発売に対し、薬剤師経由で取り扱われる様にして欲しい。
○ 薬剤師会は会費が高い割に恩典が少ない。
○ 市、県会議員立候補予定者には、薬剤師会としての要望をどんどんアビールするべきだ。
○ 医薬品券の発行先の面拡を更にお願いしたい。
○ 価格の安定対策
○ 薬局の業務そのものが将来続けうるのか否か心配である。

 時間が経つにつれ熱心に幅広く、話し合いが行われました。

 初回の懇話会でもあり、中々方向づけかなされなかったが、回を追う毎に各テーマについて深く話し合いがなされ、肉づけされてゆくと思います。せっかくバリバリの現役の先生方がお忙しい中て集まられて懇話会が行われますので、何か薬局経営に役立つ良いアイディアが具体化される様になると良いと思います。時間は限られていますが、楽しみです。
(薬局委員会委員 加藤正剛)

 「会館間題特別委員会設置さる」                昭和62年1月31日

 昭和61年12月12日の理事・監事会において以下の方が委員に決定しました。
 古賀 隆 (会長)
 堀江秀男 (副会長)
 栗田邦彦 (副会長)
 清水水一郎(副会長)
 藤原良春 (専務理事)
 三津家正友(会計常務理事)
 小松眞佐雄(監事)
 高倉 博 (南支部長)
 松枝茂離 (中央支部長)
 高杉正典 (博多支部長)
 占部吉幸 (西支部長)
 井原俊一 (東支部長)
 獺越 寿 (学薬会長)
 斉田和夫 (顧問)
 藤野義彦 (顧問)
 冨永泰資 (顧問)
               (広報部 城戸事寿子)

 「随筆シリーズ」 自彊術(じきょうじゅつ)博多支部・住吉部会 住吉薬局 細井徹一
                                  昭和62年1月31日

 昨年、思うことがあってカルチャー教室へ通った。初めにうけた講座は三ヵ月で終わるので、つぎは料理にしようか、書道にしようかと迷っていたときのことである。

 たまたま休日で、学生時代の書物整理をしていた息子が、これっ、オヤジさんのだよと一冊の本をもってきた。日本最初の健康体操「自彊術」とある。10年近く前に買って、イラストをみてやってみたが、うまくいかなくて、そのままになってしまったものである。

 著者は東大医学部講師をへて開業している近藤芳朗医博である。自身の糖尿病を白彊術で克服したことから、白彊術を医学的に解明しようと、健康体操教室までひらいて、研究を続けてきたそうである。この本は、そうした研究の発表であり、体操実技の解説書でもある。読んでいて、とかくこの種の本に多い誇張や権威者ぶったところがなくて、しかも引用文献をきちんとあげて、謙虚に解説していることに、たいへん好感をもっていた。

 そんな折、この著者の愛娘も自彊術の本を出版したという新聞記事をみた。しかも同じカルチャー教室で、10年近く白彊術を教えていることもわかった。こんなことから、ぜひこの機会に正統の白彊術を習おうと、さっそく受講することにした。

 近藤医博の長女で、夫の転勤で福岡へ来て以来、自彊術の普及に励んでいるという久保頴子さんは、新聞の写真よりずっと美しい。明るくて生き生きしている。ポンポンと飛び出す、歯切がいい軽妙なスピーチは、いまも鮮やかに印象に残っている。

 週1回、2時間ずつ、6ヵ月近く通ったころ、全部で31ある動作も順序どおりに、やれるようになった。はたでみている家族は、いまはやりのエアロビクスのような華やかさもお色気もないと批評するが、そのとおりである。大正時代、あんま、マッサージから創案されたものだけに、体操というより、自分ひとりでやる自己按摩といったほうが、ぴったりする感じである。

 半年続けて第一に、ひどかった肩こりが、すっかりとれたことに驚いた。頸から肩にかけての、あの重圧感がなくなっただけでも、すばらしい。第三動と第四動で、僧帽筋の凝りをときほぐすからだというが、こんなに効果があるとは知らなかった。

 そして先日、ふるさとの中学の友人達に誘われてヤマイモ堀りを楽しんだとき。足場の悪い傾斜地で、重い道具をふりおろしての穴堀りだっただけに、さぞ明日はと、足腰の痛みを心配した。ところが、ウソのように全くなんともなくて、改めて白彊術の効果に感心した。

 以前から、なにか運動をせねばと思っていた。ジョギングがよいというが、周囲の目を気にしていては、毎日、気軽に近所を走るわけにもいかない。またゴルフをすすめられるが、カネもヒマもなくて、運動神経が人一倍鈍いときては、これもあきらめるよりほかにしようがなかった。

 こうして巡りあったのが白彊術である。毎日すきなときに、どこででもできる。遂具もいらないし、天気も関係ない。相手があって競争心をかきたてられることもなく、白分ひとりでマイペースでやれる。しかも一回が15分ていどですむなど、いまの私にとって申し分のない運動法である。

 彊術という名称は、易経の「天行健、君子以白彊不息」[てんこうけんなり、くんしみずからつとめてやまず]からとられたそうである。

 月日がたつのははやい。思えば開局して32年、あっという間に過ぎてしまった。いま還暦を目前にして、思うことの多い毎日である。せめて「自彊不息」(みずからつとめてやまず)の日々でありたいと願っている。

 「随筆シリーズ」 結婚式今昔 中央支部・賛子当仁部会 山手薬局 山手嘉子
                              昭和62年1月31日

 お正月早々、身内の結婚式に出ました。話にきくゴンドラやスモークも花束贈呈もなく、悪評高いお色直しも、打掛をドレスに替えただけで簡単でしたから、いつも新郎新婦が座っていて、友人達の批評めいた祝辞が続いてなごやかでした。

 若者らしく、二人に対するインタビューがありましたが、変な質問も出ずに、年輩者としてはまずは御同慶の至りでした。おかしかったのは、新居の台所に初心者マークが貼ってあって、祝辞に、新婦がかわいそうだから早くとってやれとか、初心者マークがとれたら食事に招んでくれとかあって、車のマークではなかったと気付いたことでした。

 以前の身内の結婚式となると、30年余の昔にさかのぼります。未だ、日本が高度成長の時期にもさしかからぬ頃、社会も親も貧しくて、岩田屋の8階が結婚式場でした。学生だった私はものの数にはいらなくて、披露宴に招ばれなかったと云うと、当事者である姉は、妹を招んでないとは知らなかった。親が入数を制限したのだと、恨めしげに云います。相手側も、兄弟の代表だけだったようで、それがおかしくない時代だったのです。

 兄の結婚となると更にさかのぼって、そこここに戦災の焼け跡がある時代になります。教会で、花嫁は白のウユディングドレスでしたが、ドレスは教会の借りもので、返す時に、身丈をあげた処を、高校生だった私がほどいて居て、ちょっとハサミがすべり、布を切ってしまいました。1センチ足らずの傷ではありましたが。困惑しました。

 結局、知らぬ顔をきめこんで返してしまいましたが、今思い出しても、うしろめたい気がします。教会の祭壇の前に並んだ写真に、仲立ちして下さった、父の友人である坊さまが写って居られ、教会と坊さまの取り合わせが不思議がられたものです。それに、なぜかこの日が仏滅でありました。披露宴は、家の座敷だったと思います。もちこまれた大きな鯛を、知り合いの奥さんが、晴れ着の袖を括り上げて、捌いて居られたのしか覚えていません。

 ちなみに、お仲人さんの御都合で決まった今回のお日取りは、めでたく大安でありました。

 「随筆シリーズ」 受験〜私がんばりました 福岡市女子薬剤師会 理事 野口美智子
                                 昭和62年1月31日

 昨年6月初旬、東京にいる息子に電話をかけて、ビル管の講習をうけてみようと思うけど。と相談したらいとも簡単に「頑張ってみたら?」と言う。ついでに「講習の費用が十万円程かかるけど貸してくれる?」と言ってみたらこれまた簡単に「ああいいよ」と言う返事、十万円まきあげたてまえ、どうもひっこみがつかなくなって、暑さにも負けず年にも負けず3週間の講習会に出ることになりました。

 ビル管、ビル管と口では調子よく言うけれど、実は正式に何と言うのかも知らず、そういう資格をとる為、講習会に出る人がどんな人達なのかも知らず、ましてや講習の内容などわからないまま、7月18日無謀にも開講式にのぞみました。

 開講式でいただいた本の重さと講習会カリキュラムで、これはどうもただごとではないと少々後悔。ともかく「私は建築物環境衛生管理技術者の講習をうけるのである」と改めて自分に言いきかせた次第です。

 講習会福岡会場の受講者91名、うち女性は7名。いくら長寿の時代とは言っても還暦すぎた老女?と言うのは見あたりませんでした。受講者は沖縄広島他九州一丸から集まっていました。

 講義科目の中には私など見たことも聞いたこともない科目もあり、講師が何を言っているのかさっぱりわからない時間もありました。でも最後に試験をうけなくていいのなら、かなり面白い、と言うか好奇心を満足させる勉強も結構ありました。電気設備の基礎理論だのごみの処理だの燃焼設備、ビルクリーニングの技法だの……木造平屋建のわが家では思いもしないことですが、こう言う仕事をしている人達は充分理解出来ていることでしょう。

 講習が始まって数日すると、席の近くの人達とだんだん仲よくなって、そうなると野次馬根性がそろそろと首をもたげて、人サマの顔色など伺いながら「アノウ貴方さまはどんなお仕事で?」と聞いてまわったのですが、やっぱり多いのはビルメンテナンスの会社で、これは殆どがビル清掃でした。その他ビルに関係する電気工事、空調、水管理などの会社の経営者とか勤務者が多かったようです。他は保健所とか裁判所の入もいました。

 毎日受付にいた御婦人に話をきいたら「こんどは変わった方が受講してますよ」と言うので何だと思ったら私達薬剤師のことでした。私は他凡のことが気になったけど他の入は薬剤師がビル管の資格をとって何の役にたつのかと何度も尋ねられました。

 さて103.5時間(うち実習15時間)の受講終了後8月7日はテスト。かりにも国家試験だからともったいをつけられて、一世一代の緊張でテストをうけました。

 学校保健法、水質、空気位は、学薬の勢力範囲だから何とかなったけど、初めから終わりまで何が何だかわからないのはメチャメチャの答案を提出して、結極、資格はとれなくても、勉強したことに意義がある!!とフテくされてしまいました。物覚えが悪いのも、理解出来ないのもみんな年のせいにして、とにかく厚かましく講習会に皆勤し、試験をうけ、夏の半分を終わってしまいました。

 その間にわが家の娘と息子はひそかに電話をかけて「若い者でも疲れるのに、あの野次馬バアサン大丈夫かねエ」「最後のアガキよ」と話し合ってた由。十万円返そうかと言ったらいいよいいよとまことにおおらかなことでした。

 そして後は運を天にまかせて、神サマ仏サマ試験判定委買サマと言ってるうちに、9月になって合格通知、10月7日終業式と言うことになりました。

 当日会場に行くとお友達になった誰彼が握手をするやら席をとってくれるやら、お互いによかったよかったと東大にでも入学したように喜びあって、又何かあったら会いましょうネと約束して終業式は解散。

 もう二度と頭を使う講習会には出ない、と固く決心をしたのですが、のどもと過ぎて熱さを忘れなければいいけれど、如何なものでしょうか。出来ればこの資格が役に立って学校の貯水槽管理が市薬で出来るよう願っています。坪根先生、獺越先生そしてノグチ先生本当にお疲れさまでした。

 最後に、このあとビル管の資格をとられる方、御参考になるような資料などございますのでどうぞ御利用下さい。

 「随筆シリーズ」 年頭雑感 博多支部・博多西部会 冨永薬局 冨永雄造
                            昭和62年1月31日

 数年マスコミから干されている大学教授の本に巡り会った。寝正月を幸い活宇のページを捲って見た。40年前属国アメリカを引きつれた大英帝国とヒットラーが率いるヨーロッパの間に展開された第二次大戦はEC共同体誕生の出発点になった。国家統合のスタートである。

 当時欧米先進国は日本の参戦を地球の東の果てで大人の目を盗んで持ち出した真剣を振り廻す、ニキビ面の子供と見て眉をひそめ苦笑しながらきびしく折濫した。

 大戦この方地球がやっと幾つかの大陸(EC、ソ連、コメコン、アメリカ、中国)に纒まるのに半世紀以上を費やしたとは云え、「地球は一つ」の方向に着実に歩んでいる。

 一方地球を国単位で眺めると世界160余国の大半が国王、軍人、教祖、太統領、書記長等々の独裁国である。

 日本は国家権力が五権(政界、官僚、財界、学界、マスコミ)に分権分立され、トロイカにあらず、五ロイカ体制である。現に外国女性がひとり旅を安全にエンジョイ出来る社会体制を維持している。

 戦争を知らない世代の一部に改正論者がいるが3人のり一ダーの平和憲法維持の年頭宣言は日本丸の進路に過ちはない。広島の数十倍、数百倍の単位で語られる核戦争時代や全面外国依存の資源小国日本のとるべき道は明確に見えている。

 国の読み方で見落してはならない点は、(一)国家権力の所在、(一)社会体制、(一)勤労意欲を損なわない程度の競争原理を維持しながら富が適正に配分されているか?、(一)識字率よりも教育の内容(特に産業革命以降の近代現代史の取り上げ方)、(一)トップの社長の一票より、社員の十票二十票百票が政治を動かし政治家を生む公正な選挙制度等が上げられる。

 日本型民主主義は前記の五権のバランスと高学歴国民で構成されていて、五権の一つが突出すると他の四権と国民が手を携えて頭をたたいて白浄作用でバランスを回復する現時点で、五ロイカ体制は民主主義の先頭に立っている。

 さて長年のOTCの混乱と低迷の原因所在は五権と我々自身のいずれにありや?五権を動かし越えるものは消費者にあり。国民への薬剤師提言の再開を切に望みます。

 今年はOTCカルテの再チェックと牛歩の歩みであっても着実な新たな積上げを実行しよう。DI活動と共にファックスによるスピードと高贔位のOTC軽医療情報サービス体制のスタートを切にお頭いします。

 「随筆シリーズ」 遊びの効用 東支部・名島部会 千早薬局 内田文子
                           昭和62年1月31日

 「おばあちゃん、ごはんですよ」と声をかけると、自分の好きなテレビ番組を見終わってから、やおら立ち上がり、ゆっくり食堂に出てきて、椅子の上に正座し、それからおもむろに食事を始めます。

 4・5年前までは、もう少し動作も速く、お茶碗を出したり、おかずをつぎ分けたりして手伝ってくれ、男性ばかりの我家では、大変助かったものでしたが、今では食卓に足りないものがあっても、自分では動こうとせず、持ってきてもらうまで待っており、食べ終わるとさっさと自分の部屋にもどって、テレビの前にすわるようになりました。

 それが食事だけでなく、万事がそのようで、手伝ってもらっていたものが逆に、手がいるようになって、私の仕事がふえ忙しくなってきました。でも手伝ってもらうのが当たり前だと思えば、腹が立ちますが何れ、自分も年をとったらあのようになるのだし、寝たきりで食べさせてあげたり、いろいろ身の廻りの世話もしてあげなければいけない思いをすれば、自分でちゃんと食べてくれ、自分の身の廻りのことは何とかやってくれるだけでも、有難いことだと盛謝の念さえわいてきます。

 このようにして、「物は考えよう、何事も良い方へ、良い方へと解釈する」ということは、明治生まれの厳しい両親と同居して、波風をたてず穏やかに毎日を送るための私の生活の知恵でした。

 そのため発想の転換のおかげで、どんなにいやな言葉や態度に接しても、我慢できるようになりましたが、それにも増して、趣味というものが、私のストレスを解消するのに大きな役割を果たしてくれているのに気づきました。

 確実に老いてゆく中で、心身共に健康で、世間から取り残されずに生きてゆくためにはまず仕事が必要だと思いますが、幸いに、薬剤師のはしくれとして、何とか仕事らしいことをやれますので、遊びとして、17年前より、屋外でできるテニスを、そして3年前より家の中でできる習宇と、エレクトーンを始めてみました。全然上達はしません。でも心身の健康保持に役立っているのですから、それ以上は望みません。

 この趣味を細く長く続けていって、いつも前向きの姿勢を忘れずに、いつまでも明るい生活を送ることができれば、誠に、幸だと思います。

 「随筆シリーズ」 手軽に出来る漢方料理 西支部・七隈部会 飯倉薬局 波多江敬三
                                 昭和62年1月31日

 昨年より気候の異常で売り上げが不振だし、近々、新しい税金"売上税"が施行されるとか、又日本で初めて女性のエイズ患者が死亡し、"エイズ"が広がりつつあるなど、暗い話しばかりですね。今年、卯四緑の年は、平穏な年だそうだが、年初より胃が-痛くなるような気配です。

 そこで、消化不良や食欲不振を起こしたら次のような料理をためしてみたらいかがですか。

 陳皮仔鶏(ちえんぴーずじー/鶏肉の陳皮妙め/3〜5人前)

 ※主材料
 陳皮(みかんの皮の干したもの)  6g
 鶏肉             1.2kg

 ※副材料
 ねぎ(ねぶか)         1本
 とうがらし           16g
 しょうが            10g
 さんしょうの実          2g
 塩                2g
 ごま油             10g
 紹興酒              8g
 しょう油            6.5g
 砂糖               6g
 スープ(コンソメスープでよい) 60g
 なたね油(サラダ油でもよい)  1kg

 ※作り方
@ 鶏は2cm角に切っておく。
A ねぎはぶつ切りにし、しょうがを薄切りにしたものをたたいておく。
B 器に@の材料を入れ、紹興酒5g、しょう油4g、しょうが5g、ねぎ1/2本分、塩2gを加えてよく混ぜ、そのまま20分間ほどおいて、鶏に下味をつける。
C 陳皮は温水で洗って2cm角に切り、とうがらしは種を除いて、これも2cm程度に切っ 切っておく。
D 中華鍋になたね油を注いで、強火にかけ、温まってきたら、Bの鶏肉を入れる。黄金色に揚ったら、鍋からあげて油を切る。
E 鶏肉を楊げるのに用いた、なたね油60gを中華鍋にとって、火にかけ、とうがらし、さんしょうの実を入れて妙める。香りが出てきたら陳皮と鶏肉を入れ、続けて、しょう油2.5g、紹興酒3g、しょうが5g、ねぎ1/2本、砂糖、スープを加えて炒める。
F 汁気がなくなるまで妙めたら、ねぎとしょうがを除き、ごま油を垂らして、サッと混ぜ、皿に盛りつける。

 ※効能
 精神的ストレスなど、自律神経系の過度の緊張か原因で生じた消化器系の機能低下を回復させる作用があり、食後の腹部の膨満感やたんが多い、胃酸がこみ上げてのどに酸味がある、食欲がないなどの症状を改善する。

 ※このような方におすすめします。
@ 消化不良、食欲不振などでお悩みの方。
A 胸のつかえや腹部の膨脹感のある方。
B せきがでて、たんが多いという方、特にそういった症状のあるお年寄り。
 (漢方健康料理より)

 「随筆シリーズ」 女性考 九州大学病院薬剤部 野仲範子 昭和62年1月31日

 あけましておめでとうございます。政治的にも社会的にも話題が多くあわただしかった年末に比べ、抜けるような青空で迎えた1987年の元旦は、まずは平和な幕あけでした。

 お正月はおせち料理をはじめ食べ物が手近にありますので、ついつい手が出てしまい、仕事に戻ってから体の動きが鈍くなったことにあわてています。そんなお正月は炬燵に入って部厚い新聞をめくったり、テレビを見たりすることが多いのですが、最近特に目立つのは女性キャスターなる人達です。現在では、ニュースキャスターか-女性の憧れの職業ナンバーワンだそうです。

 そういえば昨年は何かと女性が話題になった年でした。華麗なファッンヨンのダイアナ妃や堂々として笑顔の美しいアキノ大統領など有名女性達、マラソンなどスポーツ面でみせた女の底力、そして男女雇用機会均等法の成立………など、など。

 薬剤師の場合、もともと女性の比率が高い職種なので何となく男女平等のような気がしていましたが、もう一度気を引きしめる必要がありそうです。女性といえども権利と義務の関係は承知しているつもりですが、とかく女性は"甘え"を指摘されることが多いようです。

 勿論、十分に能力を発揮し、第一線で活躍している女性も多くいます。しかし、女性の仕事に対する姿勢は男性に比べて実に様々です。女性はいつも迷っているともいえます。その分、仕事に腰が入らないとみられるのかもしれません。

 社会に第一歩を踏み出したとき、女性の仕事なり人生なりの方針はちょっと先までしか立っていないことが多いのです。その先にある結婚、出産、育児といったものが仕事や人生に与える影響の大きさを知っていますので、長期の予想は立てにくいというわけです。そして現実となった結婚で悩み、出産で悩みます。結果的に長く仕事に携わっていても短期予想の積み重ねが多いといえます。

 でも、最近は少しずつ変わってきました。結婚し、子供ができても仕事を続ける人が増えており、それが特別ではなく、あたり前とまではいかなくてもそれほど抵抗なく受け入れられてきています。このことは女性が出発点から仕事の継続を頭に入れてかかることができ、長期予想も可能となります。

 たとえ育児やその他の事情で一時仕事から退く期間があっても、やがてまた復帰する心づもりなら、その間も復帰にそなえた対策がとれるはずです。今までですと仕事を離れると仕事のこととは関係が切れてしまい、やがて子供達に手がかからなくなったからとやおら仕事に戻るため、本人も周囲も大変です。仕事を離れている間の充電は本人が積極的に情報を集める姿勢が大切ですが、これは働いている人の協力なしではできません。

 師弟関係、友人関係、先輩、後輩関係その他人間関係のパイプもいつまでも保っておきたいものです。特に女性同志、お互い様の気持で協力する必要があると思います。

 しかし、仕事と家庭と両方持つことは確かに大変でしょう。でも、男性は昔から家庭を持って仕事をしています。女性も同様に考えれば変に気張らなくてもすみそうですが、現実はまだまだ女性のハンディが大きいようです。そのためには配偶者の考え方が問題です。夫と妻のかかわり合い方も変わっていくことでしょう。

 ともあれ、これからは女性も結婚してもしなくても仕事と一生かかわることがあたり前となります。そうすれば生き方だって変わるはずです。勿論、人生の考え方は多様ですから全ての入が働かなくてもよいのですが、何か自分を活かす道をはやくから見つけるという点では同じでしょう。

 こういう時代の流れに対して男性はいかがお考えですか。女性は心優しき男性の協力を得て大いにはばたき、また女を磨きたいと思っているのですが………。卯年のお正月に自身の反省をこめて考えてみました。

 「随筆シリーズ」 薬局で出会った入々 南支部・大橋部会 スエタ薬局 末田順子
                                昭和62年1月31日

 薬局を開いて早いもので新年と共に6年目を迎えた。その間にいろんな人達も出会い、沢山の人々と知り合いになれて楽しい。

 やっぱり一番頼りにしていただくのは、おとしよりだ。おとしよりの話は長い。話し出されると1時間かかることもある。他の患者さんの調剤もあるし、気はあせるのだけれど、いろいろ話を聴いてあげて、心が晴れたと、明るい顔で、帰って行かれると、話し相手になってあげて良かったとホッとする。

 おとしよりは、ほんとに定期便の様にきちんとお薬をとりにいらっしゃる。開局当初より、もうずっと通っていただいている方々も相当多い。だから白分の父や母の様な気がして大切に接している。

 毎週火曜日の定期便のもう80歳に近いけど、元気なHさん。東大の工学部を出られて、エンジニヤだったそうだけれど、退職後の老いの身の寂しさを話していかれる。薬も大切だけれど、いろんな悩みを聴いてあげて、心のわだかまり、心の病いを取り除いてあげるのも大切な治療だと思う。心が晴れたと喜んでお帰りになると私も嬉しくなる。趣味は文筆とのことで、先日私のことを書いた随筆を新聞に投稿していただいた。庭に柿がなったと、秋には沢山の甘柿をいただいた。

 今、通院中で一番のおとしよりは、90歳のKさん。歩きやすい様にと学生さんがはく上ぐつをはいておいでになる。杖をついていらっしゃるけれど歩き方は。とても元気だ。内科の薬は種類が多く服用法を説明して納得してもらうのに苦労する。何回説明しても解っていただけなくて大変だ。一種類ずつ袋に入れて飲み方、何に効く薬かと大きく書いてお渡しするけれど、すぐ電話がかかって来る。心配になって家に行ってみると、おじょうちゃんが来たと(ちなみに私は昭和15年生まれなのに)よろこんで下さって『あがれ、あがれ』と、リンゴ等むいていただいて恐縮してしまう。今このおじいちゃんに、正しくお薬を服用してもらうにはどんな方法が良いか思案中である。

 自分で印刷会社を経営しているTさんは、もう5年間通院中。印刷のインクにまけるらしくて手の荒れがひどい。飯の種だと我慢してもうずっと副腎皮質ホルモン入りの軟膏を塗り続けている。長期投与による副作用を心配して、なるべく薄く薄く塗ってと注意する。最近はお酒を止めてもらった。酒を止めたら荒れ方が随分少なくなったとよろこんでもらった。最近女の子が生まれて、その子が水ぼうそうになって、今一緒に通っている。とっても可愛いい女の子だ。

 交通事故で整形外科に入院中のNさんは。もう4ヵ月近い入院だけれど、皮膚疾患にかかられて、今おいでいただいている。ベンツの450に乗っていたので命拾いしたと今は、元気だ。入院に必要なタオル、石けん、コップ等薬品会杜のもらいものをおすそわけしてとてもよろこんでもらった。クリスマスには大きなデコレーションケーキを戴いて感激した。又時々は、おとしよりの訃報に会って、悲しい思いをすることもある。

 元新聞記者で、最近は、考古学をなさっていたSさん。人間的にも素晴しい人だった。『ここの薬局の薬は良く効く』といつも大声で入ってこられる。嬉しくても面映い気持で迎える。最近お見えにならないので御白宅に電話したら、お亡くなりになったとのお家族の言葉に涙した。旗をもって、一緒に遺跡の発掘に行こうと約束していたのに。心からSさんの御冥福を祈りたい。等々一人一人の患者さんに対する思いはつきない。

 赤ちゃんの患者さんも多い。こよなく子供の好きな私は、必ず声をかけるか、抱っこさせていただくことにしている。お母さんと育児のことなど話しながら、出来る限りのアドバイスをしたいと思っている。

 この様に毎日毎日沢山の人々に会って、少しでもその方々のお役に立てることを幸せに思っている。たゆみなく、進歩を続ける医学、薬学の世界に遅れをとらない様に努力するのは大変だけれど、死ぬまで現役で、この仕事を続けて行こうと思っている。

 「会報表紙写真」

 「題字」は会長、古賀隆先生の自筆です。

会報表紙
■ 巻 頭 言 「薬剤師職能と今年の課題 (薬局等構造設備規則の一部改正について)」
            社団法人 福岡市薬剤師会 会長 古賀 隆 昭和62年7月25日

 61年度は会長就任早々から衆参同時選挙をはじめとLて、62年4月の地方統一選挙に至るまで、全ての選挙が行われ、あわただしい1年でありました。しかし60年の医療法改正、61年の老健法改正、62年における、これは廃案にはなりましたが、売上税のときを見ても、やはり政治の場に発言力を持つことがいかに重要であるか事実で示されております。

 そういったことから福岡市薬でも、これからの政治活動は不可欠との考えから、今回政治連盟を設立することにいたしました。これから64年の石井道子選挙に向けて、又地方選挙に対しても強い活動態勢をつくっていきたいと思います。

 去る4月25日に代議員会も無事に終了いたしました。代議員会では今年もいろんな意見要望をいただきました。OTC薬局の浮揚策・最もむつかLいところですが、末端会員の現況を常に上部団体にあげ、中央における強力な施策を訴え、又市薬で努力すべき問題については、担当委員会を中心に前向きに取組んでまいりたいと思います。

 非会員対策については、アウトサイダーの加入促進と同時に、一般病院、診療所、会社、大学等の勤務者についてもPRにつとめ、1入でも多くB会員への加入をお願いしたいと考えます。

 分業推進については、特に面分業を進めていくについては、市薬という広範囲的視点ではなかなか対応がむつかしく、これは支部単位で行なうのがベターであると考えます。幸い支部三師会の開催が数支部で始まっておりますことは、大変よい兆しであると思います。少額ながら支部に対するこの点の予算措置をいたした次第です。

 扨て、公衆衛生に寄与する薬剤師職能の中で、急速にクローズアップされてきたことに試験センター関係の事業があります。これまでも、市立小中高校の飲料水の定期検査は行ってまいりましたが、61年11月より水道法弟34粂の一部改正により、ビル受水槽の10屯以上の設置者は定期的に検査を受けることが新たに義務づけられました。(従来は20屯以上)。

 従って小中高校の大部分がこれに該当することになり、市薬では県学薬の指導、示唆を受けて厚生大臣の指定機関の指定を受けるべく、県整備課、厚生省、福岡市等と度重なる折衝を続けてまいりました。

 ただ県内には厚生大臣指定の検査機関が既に7ケ所存在することから、新たな指定は至難なこととされておりました。これも関係各位の強力な御支援を得て本年5月末に、漸やく全ての手続きを終えて、厚生大臣の認可を待つばかりとなりました。

 これら試験センター事業は、収益事業にあたりますので定款の改正を必要といたします。

 代議員会において、これから予測される事業を含めて一部改正を提案、承認を得た次第です。

 そして今回、かねてどういう形で改正されるか注視されておりました「薬局等構造設備規則」の一部改正が6月1日付官報によって告示されました。予想外に早い実施との感がなきにしもあらずですが、これには即刻対応していかねばなりませんので、以下改正の趣旨要点、県薬の対応、そして市薬の対応について現時点での取決め、考え等を記しておきたいと思います。

 ◆薬局等構造設備規則の一部改正について

 1.改正の趣旨

 昭和54年に薬事法が改正されたときに、法弟9条の9によって医薬品の試験検査の実施方法等が定められましたが、いろいろな事情によって薬局等における試験検査のあり方については検討事項となっておりました。

 その後、GMPの施行等によって医薬品の製造段階における品質確保、管理などが技術的にも進歩し定着してきました。

 反面、医薬分業の進展にともなって特に薬局で開封された調剤用医薬品で日数の経過したもの、長期間貯蔵されていた医薬品、外部包装の変色している医薬品、薬局製造医薬品についての必要な試験検査等、薬局等における医薬品の品質管理、試験検査の必要性が年々高まってきたことから今回の省令改正となったわけであります。

 2.改正の要点

 従来の構造設備規則の中から次のものが削除されました。薬局の場合、●アスベスト金網●ガラス管及びガラス棒●寒暖計●コルクボーラー●三角架●湿度計●熱湯計の7点。

 この7点を除いたものについては、従前通り各薬局共設備することが必要です。そして次の5点が新しく追加されました。

 ●はかり(感量1mgのもの)●薄層クロマト●PH計●崩壊度試験器●調剤及び試験検査に必要な書籍。そして書籍を除く4点については、薬局の所在する都道府県内にある厚生大臣指定の試験機関と利用について契約をした場合は設備を免除されることになったわけです。

 ◆調剤及び試験検査に必要な書籍とは、正式には厚生省より各県薬務課を通じ今後指導がなされると思いますが,ほぼ次のような書籍です。

 (ア)日本薬局方及びその解説に関するもの(次のうちから適当なもの)
 ◆第11改正日本薬局法(解説つき) 日本公定書協会編 8,000円(広川書店)
 ◆日本薬局方註解  40,000円(広川書店)
 ◆その他(解説つきのもの

 (イ)薬事法規に関するもの(次のうちから)
 ◆薬事衛生六法   3,800円C薬事日報社)
 ◆衛生行政六法   4,500円(新日本法規)
 ◆その他

 北九州市薬と契約する。
 契約料金については次の通りとする。
  北九州市薬会員  3、000円 (3年間)
  県 薬 会 員  6、000円 ( 〃 )
  非  会  員 180、000円 ( 〃 )

 3.福岡市薬の対応

 今回の改正により、福岡市薬はどうするのか、ということですが、昭和54年に薬事法の一部改正が行われた際に、福岡市薬でも会館を建設する機会に、試験センターを設置し、同時に厚生大臣指定を取得することを計画したことがありますが、先に述べた 薬局の設備規則等の改正については、検討事項として先送りとなったことから、これでは、今すぐ厚生大臣の指定を受けても会員の賛同は得にくく、経営、維持上、経済的にも困難をともなう見通しから、今日まで見送ってきた経緯があります。

 事実他の都道府県においても、いち早く厚生大臣指定を受けた試験センターにおいて経営的にかなり苦慮されていることが、毎年の日薬試験センター協議会でも報告されております。

 しかし、本規則改正が行われ試験センターの活用、必要性が具体的となった時には、厚生大臣指定を是非取得しなければならない、という気運も年々高まっておりました。

 昨年後半より、改正の時期が近いという情報を耳にするようになり、理事会においてもその際は指定機関の申請をすることに合意をみており、代議員会において必要な定款改正も行っております。

 そのような準備は事前にしてまいりましたが、これから重要なことは先づ県薬がどう考えているかであります。6月1日の官報告示を受けて、いち早く県薬試験センター特別委員会において市薬の意向表明を行ないました。6月10日には、市薬三役揃って県薬会長に協力要請を行ないましたが、神谷会長も全面的に支援する旨表明されました。

 次いで、神谷会長にも同行していただき、三役で薬務課を訪問指定申請について意志表明と協力を請願いたしました。

 しかし、問題はこれからであります。福岡市には厚生大臣指定の福岡県製薬協薬業試験所があります。行政と折衝していく上で一番の問題点になると思われます。又申請にあたっては、専門技術者の雇用、器具の整備など維持経費についても、かなりの出費を見込まねばなりません。

 しかし、幸いに水道法34条による事業が厚生大臣指定の認可を待つばかりの段段階にきておりますので、これらの収益事業等からも堅実に運営される見通しを持っております。

 福岡市薬は、他の県薬と匹敵する規模を持ち、会員数を擁する県薬の中心的葉剤師会であります。しかも他に比較しても全く遜色のない試験センターを付設する福岡市薬の会員が、今回の改正で他の試験機関に依存しなければならない姿は将来的にみても、い ろいろな面で大きな損失であると考えます。このような観点からも、執行部は総力をあげて、厚生大臣指定の取得に努力をしてまいりたいと思います。

 本年は九州山口薬学大会が、10月17、18日の両日福岡市電気ホールを中心として開催されます。只今準備も着々と進行しており、近日中にプログラム参加申込書もお届けできると思います。特に福岡市薬には強く支援を要請されておりますので、一人でも多くの参加をお願いいたします。会館問題については、現在さしたる動きはまだありませんが、今年中には市当局より新たな動きがあると考えております。

 叉、対外的事業に対する協力要請も多々あります。例年行われる福岡市主催の健康週間、64年開催のアジア太平洋博覧会、63年開催の福岡県健康フェスティバルなど、地域医療計画、ヘルス事業への薬剤師の積極的参画という意味からも理事各位、各委員、会員の先生方にも荷重な協力をお願いしている次第です。何卒御理解を賜わりたいと思います。

 今年も1年間よろしくお願いいたします。
                                    62.6.21.

 <薬事春秋> 「今後の薬局はどうあるべきか」
            社団法人福岡県薬剤師会 会長 神谷武信 昭和62年7月25日

 昭和58年以降、毎年医療にかかわる大きな法律改正があった。昨年の老健法改正で一段落したわけだが、夫々の施行については、本年も引続き検討されて居リ、最終的には、国民の急速な老齢化に対し、世界に類のない健康保険制度を、どのような型で存続するかにかかって来ていると思う。

 老健法の改正で、中間施設には7つのモデルを指定し、その医療費をどうするか? 今秋には一つの案が出されると思うが、指向する所は次のようになっている。現在62万人のねたきり老人がいる。うち25万人が長期入院、25万人が自宅療養、12万人が特養施設に入っているが、昭和75年には100万人になると試算されている。

 そのうち30万人を中間施設に収容しようとするものだが、医師会の反対があったにも拘らず、その医療費は、アメリカのD.R.G方式が取沙汰されているし、家庭医問題懇談会では、西独やフランスが導入している人頭割も考えられている模様である。

 醵出金按分率で一歩ゆづった健保連は、早々に老人医療に限って、出来高払制度の改革を決議している。附帯決議第4項に゛醵出金按分率を変行することにより、被扶養者保険の財政運営に支障があるときは適切な措置を講ずる、とあり、今や保険が医療のすべてをカバーすることがむつかしくなって来ていると思う。

 法改正により浮び上った薬剤師職能は、下記図式の通りですが、国会で審議にたづさわった議員ヽ厚生省の関係者、薬業マスコミ記者等々から、一様に之だけの条件が揃ったのに、薬剤師会は何を考えているんだとの示唆もあります。

 このような時期、この部会で薬局はどうあるべきか、をテーマに討議の場が持たれたのは誠に有意識だと思う。

 制度の移り変りにより、ヘルス事業、休日急患業務、公衆衛生、学校保健活動、更には情報提供、試験とあらゆる場で活動の道は拡がった訳です。その前提として生涯教育も必要です。

 それ等えの参画は大変な労苦を要することだが、参加された方は、いくばくかの満足感を持たれることと思う。その考え方を如何にして薬局の日常業務の内に導入するかが今日の結論になるかと思う。調剤、情報活動(含中毒)生活環境の保全、医薬品の有効利 用、情勢の変化にそったプロパガンダも必要になろう。

 数ある薬業団体のなかで、国の施策に参画し活動出来るのは、今のところ薬剤師会だけである。しかも諸事業の実施は末端の市郡であることを考えると、日薬末端組織を社団法人化するのが急務となった。A会員50名以上の支部の法人化を提言します。

 <薬事春秋> 「卸薬専部門に明日はあるか」
         福岡市医薬品卸業協会 会長 九薬社長 大黒隆博 昭和62年7月25日

 「経営苦境の薬専卸、倒産寸前まで!?、日本卸連調査で判明」。去る6月3日付の薬局新聞第一面の見出しである。(社)日本医薬品卸業連合会・一般薬流通委員会は、傘下卸企業を対象に、薬専部門の経営効率調査を隔年実施しているが、このほど「61年度薬専卸経営の現状」をまとめ発表した。副題には、「流通機能変革の岐路に立つ薬専部門」とある。

 卸‐特に兼業卸−における薬専部門の不採算性が叫ばれて久しいが、今回の調査では、その極めて深刻な現状が一段と浮き彫りとなった。前回59年度の調査で、薬専部門の営業利益率(本来の営業活動における純利益率)はマイナス0.03%であったが、今回はそれがさらに悪化し、マイナス1.0%とな・っている。2年前に比べ、売上生産性は若干向上したものの、マージン率が大きく低下し、加うるに人件費以外の「その他経費率」が大幅に上昇したことが、赤字拡大の原因となっている。

 調査対象76社の中には、薬専部門の売上が総売上の50%以上を占める「専業卸」が6社ある。この6社は首都圏・近畿圈等の巨大都市圏にのみ存在し、九州等地方の卸は何れも医家向を主体として薬専部門を併せ持つ「兼業卸」である。従って、我々地方卸の実態をもっと正確にご理解頂くためには、このレポートのより細分化した説明が必要となる。

 地方卸の殆んどは、薬専部門の売上構成比が20%以下であり、極く少数の卸が20〜30%である。そこで、兼業卸の売上構成比別経営効率表をみると、売上構成比20%以下の60社合算の営業利益率はマイナス2.51%であり、30%以下の67社をとってもマイナス2.30%となっている。しかも、この赤字は慢性的であり、且つ年々エスカレートしつつある。

 薬専部門だけ切り離せば、正に倒産必至であり、卸としての社会的使命を放棄し、且つ医家向部門の黒字で補填する余袷が無くなれば、廃業の道を選ぱねばならなくなる。今日、卸薬専部門はそこまで追い詰められているのである。

 巨視的且つ長期的に見れば、サバイバルの一つの手がかりが今回の調査の中にある。合算で唯一の黒字グループは、月商規模別では10億円以上、売上構成比別では50%を超える専業である。仮に薬専部門の全国月商が四百億円とすれば、月商10億円の而も専業の卸40社(九州では5社程度)で成り立つこととなる。固よりこれは机上の空論であり、企業の統合合併が理屈だけで簡単に断行される訳ではないが、集約化・専業化は打開策の一つとなるであろう。

 当面の改善について私見を述べさせて頂く。

 先ず身近なことから要望を申し上げれば、当日配送分の朝のご発注は是非前日に頂けないだろうか。どの卸もいま薬専部門の採算好転のため、業務の劾率化に懸命に取り組んでいる。効率化には本来のセールス活動時間の極大化が必要であり、30軒に近い担当得意先をカバーするには、遅くとも9時30分には出勤しなくてはならない。それが、ごく少数のお得意先の朝のご発注により遅延し、10時半以降の出勤となっている。

  稼働時間が短かくなれば、お得意先一軒一軒に対する情報提供等本来的サービスは低下する。サービス低下を来さないよう努めれば、帰社時間が遅くなる。(どの卸でも薬専部門の帰社は他部門に比べ、一時間乃至1時間半は遅い)ご発注品の翌日の配送制は、卸の本来的サービス享受のため、又卸薬専セールスの労務管理のためにも、柾げてのご協力をお願いしたい。

 市薬としての研修事業については、店頭販売薬剤師のための生涯研修を継続的・体系的に行う必要がないだ為うか。年々来客数が減少する理由は、国民皆保険制度や薬事行政等外部的要因も多々あるだろう。然し、条件が悪ければ悪いだけ、店頭販売についても薬局経営についても人一倍の勉強をせねばならぬと思う。薬剤師職能向上のための医療用医薬品研修は、固より結構である。

 然し、開局薬剤師の先生方の圧倒的業務は店頭における指導販売である。店頭販売がカバーする領域は、疾病予防であり、健康管理・健康増進でありそして軽医療である。薬局は、生活者としての地域住民にとって、最も身近で相談し易い「健康情報の拠点」でなければならぬ。店頭に立って来客を的確に指導し、適切なO・T・Cを販売する権威ある薬剤師づくりこそ、離れゆく客を再び薬局に取り戻し、薬局を不毛でなく豊穣な小売店にするための急務ではあるまいか。

 そうした店頭薬剤師に必要不可欠な知識とノウハウを、店頭医薬学、店頭販売学として集大成し、最も重要な研修プログラムに組み込まれることを提案申し上げる次第である。

 「君よ 朝の来ない夜は無い」と言う。然し「天は自ら助くるものを助く」である。薬局様と我々卸とがそれぞれの自助努力をベースに、お互いをサポ一トし合う「相利共生」の豊穣な世界を相共に切り拓いてゆき度いものである。

 <薬事春秋> 「職  能  考」
      福岡逓信病院 薬剤部長 福岡市薬剤師会監事 日高賢志 昭和62年7月25日

 昨今の医療情勢の変化は目まぐるしく、医学薬学の進歩に伴って医療の高度化、多様化は止まるところを知りません。その渦中にある私ども薬剤師の現実的な問題について私なりの所感を述べて皆様のご批評をいただきたいと思います。

 現在の行政を考えてみますと、行政面では医師、看護婦、放射線、臨床検査技師などに比して薬剤師という職能が如何に取り扱われているかということです。薬務局はあっても薬剤師職能については全く無関心に等しい現状です。また医薬分業についても過去40年来の努力にもかかわらず、未だ完全医薬分業は施行されていません。薬剤師の努力不足も一因ですが、利害相反する団体の薬剤師に対する評価も分析してみる必要があります。

 薬剤師の資質の向上に積極的に取り組む一方、行政、政治を上手に活用し、職域代表の議員を政界に送り薬剤師の声を取りあげていただき、地位の向上をはかるべきではないでしょうか。

 つぎに薬学教育機関である薬科大学は、学問の殿堂として多くの学生を薬剤師として社会に送り出しながら、卒業生が社会的にどういう評価を受けているかについては、全く無関心であると言っても過言ではないでしょう。

 それに反して医師は開業、勤務医をみても常に大学と密接な関係をもっていることは、私にとって非常にうらやましいことです。大学としても卒業生が気安く相談や、研究に行けるように門戸を関放していただきたいと思います。私ども薬剤師も積極的に大学の門を叩くことです。学問は大学を卒業したら終ったと思うのは全くナンセンスです。

 薬剤師としての職能域は開局、勤務、研究、行政など多方面にわたりますが、立場を異にする他の職能には全く無関心で、お互に相手を理解し難い点が多くあります。日本薬学会、日本薬剤師会、日病薬など所属する団体は数多く、会員も細分化されるにしたがい薬剤師の団結は、非常に困難で行動力も弱くなります。

 私ども薬剤師は職能別という垣を越えて、もっと団結し山積した諸問題にあたるべきです。身近な例で恐縮ですが、私どもの病院では開業医、勤務医を含めて毎月症例研究会なるものが聞かれています。一面から云えば利害相反する医師が一つのテーマで討論し、切瑳琢磨の結果、医学向上に大きな成果をあげています。

 これは私の理想ですが、私ども薬剤師も大学、開局、勤務薬剤師がお互いに問題を提起し討論を重ね、それを積重ねることにより薬剤師としての専門性を自覚し、社会的な評価を得、医療人として胸をはって行けるように努力をすべきだと思います。そして医師会をはしめ各医療団体と学術、職能面の交流を深め、現在のきびしい医療環境の中、将来の展望を期待しつつ一歩一歩努力を重ねて行くべきではないでしょうか。

 ここで職能を異にする薬剤師の一致団結をお願いすると同時に、薬剤師会としてもこの問題に真剣に取り組んでいただきたいと考えております。

 <フォーラム> 「雑  感」
         博多支部 千代・古塚部会 十字堂薬局 鶴原正蔵 昭和62年7月25日

 昭和の初期青年男女をして、大いに感激せしめたる書物に、鶴見先生著の「母」なる小説があった。主人公大川朝子の経営せる薬局は売上げ日増しに減少し、余儀なく閉鎖寸前の状態であったが、突如街に鈴の音高く走り回る欧州大戦勃発の号外を手にし時事刻々と高騰する洋薬の販売に意を用い、薬局の商運を一気に回復した場面がある。戦争が薬業界を一新させる例でもある。この教訓は先の第二次世界大戦に於いても同様の結果をもたらした。

 明治初期、太政官布告により医薬分業が発せられたるも、当時受入れ薬剤師僅少の為実行に移されず、以後薬剤師会の悲願として、朝に夕に医薬分業達成が叫び続けられた。

 終戦後即ち昭和二十四年七月一日、G、H、Q、の依頓により、日本に於ける、薬事全般の調査とそれに基ずく機構、制度の改善勧告の為、米国薬剤師協会、薬事使節団が来日した。七月十五日、別府に於いて、使節団による特別講演会が行われ、サムス準将は「今の日本の医療は、医師は薬を売り、歯科医師はゴールドを売って生計としている」と強くアッピールせられ、各地講演の後、九月十三日、同使節団一行は、「法的及び教育手段により、医、薬を速やかに分離せしめる事により、医師は診断し、処方し、薬剤師は医薬品を確保、貯蔵し、医師の処方せんに基づき調剤、投薬する目的を達すること」との勧告文を、厚生省、日本医師会、日本歯科医師会、日薬に手交して帰国した。

 昭和二十六年三月二十四日、政府はこの勧告に基づき、医薬分業法案を国会に提出し、同年六月、第二十二条に但書を挿入し、妥協修正案が国会を通過、施行せられたが、薬剤師にとり、この但書は今日に至るも尚大きな痛手となった。しかし幸いにも先輩諸兄姉の並々ならぬ御努力により、今日各地で医薬分業が進展しつつあることは誠に同慶の至りである。

 一方教育に於ける部門も、又大きく変化をもたらした。かっての3年教育は4年に延長せられ、更に日薬会長は昨今、薬学教育機関に対し修学期間の延長いわゆるインターン制を要望せられつつある状態である。薬剤師の任務の重大さと医薬品の文字通りの日進月歩に対処のためと、更には予想される看護婦教育の延長とを合わせ考えてのことと思われる。

 私は同窓生諸君の特別なる御推挙により母校、京都薬科大学法人役員の末席を42年以来今日まで20年間も汚さして戴き、その間、薬大の教育の使命とは何かと、薬学それ自体が主体なのか、それとも薬剤師免許証そのものが主体なのかと、教育者等の間にわだかまる深い悩みにも接することが出来た。

 教育は文部省に、薬剤師免許証交付が厚生省の主管にあることにも大きく起因しておるようであり、またせっかく薬剤師免許証の交付を受けても、実際に使用すべき職場特に開局、医薬品販売業に若い薬剤師が興味を示さないことにも大きな不満があるようである。

 ちなみに京都薬大に於ける60、61年度卒業生の進路は次の如くである。今や学校教育は昔日の惑どころでは無く、全く目をみはるものがある。

 質量分析、かっては考えられなかった豊富な実験用動物飼育室、R.I.、コンピューターによる臨床薬学情報センター、更に来秋より講義の始まるバイオテクノロジーの教育と研究等、その止まる所を知らない。

 この薬学の凄まじい躍進と、質量共に限り無く前進する製薬業界、これに準じた医療関係の薬剤部の充実、それに反して未だに旧態を以前として脱することの出来ない分野、新しい教育を受けた若い薬剤師諸君が、薬局、医薬品販売業に目を向けないのは、むしろ当然の事かと思われる。前図の薬局、販売業就職者並びに未定者の中には、いわゆる家業を受継ぐ若干名が含まれており、これ等を除けば、全く淋びしいかぎりである。魅力ある職場作りこそ急務である。

 今後の福岡市薬剤師会の進展と、その中心となるべき開局部会の物心両面に互る充実を長い間薬剤師会の走り使いをした者の一人としてひたすら祈るものである。

 <フォーラム> 「自己の生涯教育法」九大病院薬剤部 藤下 修 昭和62年7月25日

 私が琉球大学病院から九大病院に戻ることを決意した年、昭和53年、ナポレオン・ヒルの「巨富を築く13の条件」(実日新書)を読んでいた。すでに読まれた方には無用の解説となるが、あの大富豪、アンドリュー・カーネギーの命を受けて、ナポレオン・ヒルが、20年間かけて、500人を越すアメリカの偉大なる人物の成功の秘訣を要約したものである。

 しかし、公務員である私ば巨富″に対する熱意が足りなかったのか、この本を読んで次のことを感じていた。
 ●理解できない部分を読むのは難しい
 ●興味のない部分を読むのは難しい
 ●同じ本を何度も読むのは難しい

 実は、後で知ったことであるが、理解できることと、実践できることとは別で、理解できることが、実践できるようになるためには、少なくとも6回以上繰返し読むことが、心理学的に必要なのである。

 医学や薬学の書を読むときにも、上述の困難さは同様である。理解できないところ、興味のないところは、いつまでも読まず、そして解らず、まして6回以上読むこともないので、なかなか実際に役立つまでには至らないのである。本のみによる生涯教育が難しい理由はここにある。

  ポール・マイヤー

  堀岡教授が今年の春、九大を退官されるころから、私は、゛指導者″ということについて考え始めていた。それは、自分で自分に行なう生涯教育の方法をどうすべきか、ということと共通している。こんなとき、ボール・、J・マイヤーのカセットテープ1)による自己教育法を知り、3月23日からこのテープを聴き始めた。前述のナポレオン・ヒルの本の内容をさらに充実させた「成功の理論」「成功の秘訣」のプログラムである。

 このテープを知る前は、私が“あなたの成功″のための生涯教育について、意見を述べることなど想像もしていなかった。(学術担当の仕事としての生涯教育については考えていたとしても…)それが次の、ように変わってきたのである。何のための生涯教育か?真に国民の医療に貢献し、その二一一ズに応えるためのものであるならば、それは必ずOTC薬局を浮上させ、調剤薬局をより発展させるものであるに違いない、と。

  カセット・テープ

 このカセット・テープによる自己教育法の優れた理由の一つは、本だと読まないところは解らないが、テープだと聞こえるところは、解るようになるという点である。

 第二に、興味のないところでもテープなら聞こえてくる。眠くなったら眠ればよい。睡眠学習という方法もある。眠っていても、それは子守歌のように、あなたの潜在能力(まだ使われていない140億個のうちの97%の脳細胞)に入力されるに違いないからである。

  第三の理由は、解らないところも、繰返し聴けるという点である。本だって読めるじゃないかと言われるかも知れないが、おなじ本を6回以上読むのは難しい。でもテープなら6回以上は楽に聴ける。カラオケで歌われる曲など何度でも聴ける。そして聴いていた曲が歌えるようになる。(逆に、歌詞カードと楽譜だけで、何回繰返したら歌えるようになるか、やってみていただきたい。)

 薬学や医学に関して言えば、学術講演会は、演者の声を聴き、スライドを見て、資料を読み、メモを取る優れた方法ではあるか、一度きりである。それ故、これらの内容をビデオ化して集積したり、すでに作られているビデオ・ライブラリーを活用する方法は、繰返し学習することを可能にする。

 以上、自己の生涯教育法について述べてきたが、これを「自己の成功法」とされるか否かは、あなた次第である。ただしあなたには、この方法を知るまでに私が過ごした無知なる9年の月日を、再び繰返すような無駄なことだけは避けて欲しいと祈るものである。

 最後に、この自己教育法を知るきっかけを与えて下さった堀岡教授に感謝の意を表したい。

 <フォーラム> 「学校薬剤師になって思うこと」
                 福浜小・当仁小担当 森田幸枝 昭和62年7月25日

 私は昭和45年始めて姪浜小、姪浜中の学校薬剤師に就任致しました。当時姪浜地区には学校薬剤師として仕事をする人が不足していました。

 学校薬剤師として如何なる仕事をするのかという内容も知らないままお引き受けした次第です。故に研修会には西区の先輩の諸先生方の御指導を戴き、曲りなりにも学校薬剤師としての職務を遂行出来るようになりましたことを心から感謝致しております。

 当初は野口、竹尾、田添の諸先生達と一緒に担当学校のプールの水質検査等に参りました。というのは、未だその頃は学校当局に私達学校薬剤師が検査に行くことを迷惑がられ嫌な顔をされたものです。それ故3、4人で一緒に行きますと心強く又、仕事の方も皆で手分けしてしまうので能率も良く、テキパキと仕事も終ることが出来たものです。

 この事は単に自分の担当校のみでなく、諸先生方の担当の学校も見学出来、大いに対学校的にも、対人的にも、又社会学的にも色々と勉強になりました。暇な折には同じ薬剤師同志なので話もはずみ、大変楽しく懐しく旦亦嬉しい思い出の一駒です。

 しかし、そのうち市学薬の方からの指示にて、学校にはなるべく大勢の人数では行かない様にとのことで、個人で行くようにしました。その頃はプールの水質検査や照度、黒板面の色彩と明度等の測定をしていましたが、仲々学校側も注意事項を改正して呉れない時もありました。そんな事で学校側の対応によっては、何人かで行く方が良い結果をもたらした時もあった様に思います

 現在では学校薬剤師の存在も、薬剤師会、学校薬剤師会、教育委員会の方々の御努力により、その仕事の内容も有意義さも認められて参りましたが、当時は思うように学校側の協力が得られずプールの水質検査、又薬品投入の必要性すら長い間かかって学校薬剤師が指導して参ったことでした。

 しかし未だ私達の仕事の内容については理解されていない点が多々あります。先日も学校の机、椅子の適、不適の調査を致しました。その調査に当っては学校側は協力してくださいました。

 しかし、実行となるとなかなかです。デ一タが出ても規準があっても、それを実行するのは学校側ですから、やはり教師の協力を得なければならないのです。学校の先生方にその必要性、規準の信憑性〔ここではJIS号数をさす〕を認められなければ実行はされ甦いのです。そこに私はジレンマを感じる次第です。

 然し段々と学校側も学校薬剤師の仕事を理解してくれ出した事は事実でございます。薬剤師会、学校薬剤師会の組織力というものに、つくづくとその偉大さを感じております。今後共、化学の進歩と共に検査内容も一層高度化し範囲も広がって来ることと思いますので、諸先生方の御指導に預ることも多いと思います。何卒よろしく御教示くださいます様お願い致します。

 最後に右も左もわからなかった私を今日どうにか職務を完うすることが出来るまでに御指導裁きました市学校薬剤師の方々に心から厚く御礼申し上げます。

 <フォーラム> 「薬剤師会の役割と薬剤師職能」
          博多支部 住吉部会 はなたれ薬局 冷川 嚢 昭和62年7月25日

 このところ薬局の環境は、相変わらずのOTC不振、大手チェーン店の進出、安売り、調剤報酬の丸め等となかなか明るくなりそうにない。会員の間からも、薬剤師会に入会しているがメリットがないという声が聞かれる。

 しかし、このメリットということについては、考え直してみる必要がある。このことは薬剤師会の存在意義にもつながる。法的に医師、歯科医師、薬剤師の三師は同等の立場にあるが、現実には最も弱い立場にある。こういう弱い存在の者が個々に事に当っても及ぶわけがない。従って個々では弱い力でも、力を結集すれば増大することができる。つまり薬剤師会入会のメリットはここにある。

 会から何かをしてもらうことではない。互に力を合せあって、目的達成を目ざすことである。ただ会費を払うだけの消極的参加でなく、目的をもって積極的に参加し、問題点に当っていかねばならない。そして、こういう末端会員の声を集約し、また指導していくのが、会長及び役員の役割である。

 私の所属する博多支部では、今年3月博多区三師会による「政治を語る夕べ」には65名の、5月の博多支部総会には54名の出席が得られた。市薬5支部の中では最高の集りだと思っている。これは堀江元支部長(現市薬副会長)が基礎を築かれ、さらに現在の高杉支部長の努力により、会員の認識が変化してきた為と思われる。博多支部に限らず、市薬、県薬、日薬と盛り上げていかねばならない。

 さて今回の統一地方選にて、県知事選挙には3師会協力のもと、薬剤師会も今迄になく活発に運動がなされた。しかし残念ながら田中候補は落選してしまった。これ迄になく積極的に会として取り組んだということは評価できるが、2つの問題点が残された。一つは何故市長や知事は保守候補でなければならないのか。今回自民党は売上税を国会に上程し国民の大反感を買ってる最中であった。田中候補も売上税反対を表明したが、時既に遅かった。保守側候補が勝つ見込でいたのならば、世論を少し甘く見過ぎたとしかいいようがない。

 2つには今回の3師会協闘は、単に医師会の機嫌を損わない為としかとれない。3師会が協闘することには賛成である。しかし協闘するにはそれなりの政策協定が必要である。市薬の会報や広報、県薬からの通達等を見ても政策協定は示されていない。以後協闘 するからには、政策協定を全会員にはっきりと示さねばならない。

 かって処方箋による調剤料が320円に改定された時、日薬のこれ迄の努力の成果と評価されたが、私にはとてもそうは見えなかった。努力がなされていたのは事実であるが、むしろ、医師会のお蔭様で分け前をもらったに過ぎない。それが証拠に処方箋発行料が50C円に改定された時から、第2薬局が出現するようになり、その後日医会長が変わり、医師会の力が弱まると、次々と医療費削減策がうち出されてきた。

 分業の理念より、医療費の削減が優先なのである。今迄医師会の力が強大で薬剤師会が何と言おうと、医師会に反対されるとイ可も通らなかった。だからと言って追随ばかりしていると、いつ迄も対等の力関係など及びもつかない。

 自分等の主張が正しいと思えば堂々と主張しなければならない。国民全体に審判をはかり、医薬分業推進の認識を高めねばならない。民意を得ずに悲願威就もあったものではない。徳洲会病院が各地に進出を始めた頃、地元の医師会はこぞって阻止の動きに出た。 しかし地元民は、24時間診療、つけ届なしの徳州会病院を観迎し、医師会の方が悪者扱いにされた。

 また週刊誌等マスコミも徳州会の応援をし、その上当時の武見日医会長も徳州会を認め、医師会は反対できなくなった。これなど端的な例である。

 以後医師会も急患制の強化やモラルの向上に取組むようになった。医薬分業が進展しないのは、医師会に比べて薬剤師会の力が弱過ぎるということはあるが、あまりにも、国民の間に医薬分業ということが浸透Lていない為でもある。残念ながら、この方面には努力不足としか言いようがない。

 もっともっとマスコミ等を通し医薬分業を訴えて行かねばならない。初めの方にも書いたが、医師と薬剤師は法的には平等である。しかし、この平等は保証されていない。薬剤師は医師の処方箋に基づいて調剤を行う。処方箋中に疑義ある時は、医師に正さなければならない。その回答が納得いかない場合調剤を拒否できることになっている。

 もしこれが開業医と調剤薬局の間で実際に起れば、以後処方箋が発行されなくなる可能性が生じる。こうなれば、調剤薬局にとっては死活問題である。なまじ薬剤師としての職能を活かしたばかりに失職するなど、全く不合理な片手落ちである。つまり体制としての医薬分業でなく、医師の任意分業である為にこういうことになる。

 先程も書いたが主張すべきは主張し、国民全体医薬分業が当然という認識に達する迄持っていかねばならない。いつまでも医師会の小判鮫では、永久に目的は達成されないだろう。

 社会保険本人の一部負担金導入の際、薬剤師会は建前上反対したが、本音は賛成であった。結果はこ存じの通り一部負担金が導入され、薬局にとっては何も良い事はなかった。こんな事をやっていては、医師会からは信用を失い、厚生省からは甘く見られるだけである。事に当る場合、末端会員に至る迄議論を尽し一丸となってぷつからねば、何も得る物は得られない。

 諸先輩の会員の先生方からは、既にわかりきった事だと言われるかも知れないが、我々薬剤師が職能を活かして身が立つよう、薬剤師会に積極的態度で参加して行きましょう。

 <フォーラム> 「午后の暇な調剤室で」
       西支部・原部会 たつみ薬局 清水調剤薬局 清水達実 昭和62年7月25日

 毎日薬局をしていても、これとぃって特徴のある薬局でもなく、特技や趣味に秀いでてぃる訳でもなぃので、会誌の紙面を汚がすのではなぃかと思いながら書ぃてぃますが、時の流れは加速度的に早く感じ、我々の居る薬業会でもめまぐるしい変遷と洪水のような物品や情報は容赦なく我々の薬局を巻き込みます。

 また薬局薬店の乱立や雑貨の山積、そして薬までも巻き込んでの安売合戦と次元の低い所でのそしりあい、薬剤師としての自覚も薄れてゆきます。まわりを見わたすと不景気の中で、もっと厳しい条件下で他業種は淘汰されて、逞しい活力を発揮し新らしい店を繁栄させている。それと比較すると薬局は比較的安定した業種として、なんの進歩もなく昔と同じように、安売りの繰返しが起っている。

 さて、私は一日のうち半分をOTC薬局で、半分を調剤薬局で仕事をしていますが、医薬品の供給という面では同じ薬局でありながらその方法では、あまりにも違いがある事にとまどいを感じます。OTC薬局では薬剤師も売り手で、お客様がくると丁寧に頭を下げその心の中では、如何に利益のある薬を売ろうかと商売心が先行し、たとえ薬剤師として知識を駆使して、お客様の健康の為に良い薬を選んであげても、ある特は努力や熱意の甲斐なく売れなかったり、もし売れた時は嬉れしさに何度も「有りがとうございます」と頭を下げてしまいます。

 それに対して調剤薬局では処方箋を特ってこられた患者さんの方が「お願いします」と頭を下げられ、その処方箋を受け取った薬剤師は、これぞ薬剤師の仕事とばかりに自信にあふれた態度で調剤し、服用指導をして投薬します。すると患者さんの方が、有りがとうございました」と何度も頭を下げられますし、薬剤師は「おだいじに」と言いますが、有難うございます」とは心の中で思っても言いません。

 そうはいってもO T C薬局では、来店するお客様はその薬局を信頼して選んで来て下さるお得意様ですから、薬剤師はそれに応えるべき最全の努力と技術で薬を選び、生活指導や食事指導をします。その効あってお客様が健康を取り戻しお礼を言いに来てくれた時は、OTC薬局をしていて良かったと満足感にひたれます。

 また、OTC薬局では軽医療とは申せ来客する患者さんの病は多種多用で、病院でいえば総合病院なみで、それに関連してお客様とのコミュニケーションも持てて楽しい。いっぼう調剤薬局では、大部分の薬局がマンツーマン型できまった医院からの処方箋であり1日中同じような薬ばかり調剤していて、調剤薬局がいくら頑張ってみても処方箋を持って来る患者は医師のお得意様であって、処方のとおりにしか薬を調剤できず、どんなにのみにくい薬でも、必ず服用させるように指導しなくてはいけないし、いろいろ指導しても病気が治ったらそれはやはり、医師が治したのであって調剤薬局の方にはあまり伝わってはこないし感激もないのです。

 OTC薬局では、この乱立乱売の中で良い薬を自信をもってすすめても、他店との売価が気になってしまうし、利益をあげる為にある特定商品のみに力をいれてしまう事もある。

 調剤薬局では当然値引きもなく、OTC薬品を売る努力に較べると、今の所高い列立が得られるようです。このように同じ開局薬剤師としての職能の問には、現場でみるとあまりにも大きな二面性があります。もちろん一軒の薬局が、OTCと調剤を兼ね備える事が出きれば理想的だと思います。

 先般の医療法改正で、薬局薬剤師も医療制度の法の中で一員として認められた事は、地位の向上という面で嬉しい事ですが、薬剤師がそれを維持する為には自覚と責務も仏果になってくるでしょうし、卒後教育を年間10O時間という課題も科せられるし、地域に根づき、地域医療の他にもいろいろの世話係や商店会などにも引っぱり出され、本業の薬局の方がおろそかになりがちです。

 それにしても今は不景気の中ゆえ、あたりかまわずの安売り乱売屋も侵入して来たし、なににも増して配置販売業や医薬品まがいの健康食品の横行、そして医薬品副作用過大報道による薬不信。分業でも医療費抑制の中で、特に報酬抑制や薬価切り下げでつらいめに合い、ひがみ目で見ると、薬局業界ばかりに風当たりが強くさえ感じてしまう今日このごろです。

 しかしながら薬剤師職は己が選んだ道であるし、天職として授かったのだから日本の薬局全部が、我々の職能団体である薬剤師会に入会し、さらに薬剤師の全てが入会しやすくして皆が入会し、団結して我々の薬剤師会が力をつけ、活力を持って統一された方向に従って進むなら、また薬剤師ひとり一人がプライドと自信を持って生きるなら、今のような雑貨の山積みや薬の安売りに手を染めずに、大切な医薬品を自信をもって国民に供給し、薬剤師本来の職能に没頭した仕事が全うできる世の中になるのではないだろうか。

 <随筆シリーズ> 「薬業の道に入って60年を振りかえり」
           東支部・箱崎部会 箱崎薬局 馬場勘二 昭和62年7月25日

 大正13年に熊本薬学専門学校に入学して以来、薬学の知識を利用しての生活、その道一筋に生きて来た過去をふりかえり、お話しする事は同業の皆様少しでもお役に立てばと思い恥を偲んで書きました。

    独   立

 昭和5年勤めていた熊本実験医学研究所を退職して、開業する為に福岡市博多区大浜薬局の管理薬剤師をしながら、同級の宇野益雄君や博多駅前の吉村薬局に勤めていた、井手敏君の案内で、春先の日の短かい2月の終り頃、開業する場所を探し歩いた。適当の場所は見付から無い、福岡市の西の方の炭坑街は肌に合わない。南の方は今の住吉から先は、農家ばかりで町らしい処が無い。東の方が将来開けるのではないかと思った。

 名島の水上飛行場を見物して帰り、長い長い松原通りを藁葺農家の点々と続く粕屋郡箱崎町の東の端に、一軒の土蔵作りで2階建の白壁の空家を見付けた。夜の7時頃、うす暗かったので周囲の事情も知らず、探しあきた気持もあった、借りる決意をして家賃15円、敷金なしで契約をしたのは昭和5年3月18日だった。

 家の建坪は60坪で、中庭を含めて100坪の敷地で表側の店舗になる所は間口5間、奥行4間で、広すぎて並べる商品が足りないので半分を板を打ち付けて間口を扶くしカウンタ一式の接客台を作って店舗らしく商品を一列に並べて開業したのは4月1日、私が26才で独身だった。当時の造作費は下表の通りです。

   売薬棚引出し付き 2ケ       135円
   カウンター及び床張り造作      175円
   薬局の設備等調剤器具及び装置瓶    40円
   商品代、大山万年堂払い       149円97銭
   川口屋                49円67銭
   鳥飼医療店払い            25円
   井上工業薬品・化粧品         36円
   看板代                54円
   其の他の雑貨(染料を含む)      76円36銭
                  計  747円

 いよいよ独立だ。全く未知の土地で、自分一人だ、貧乏暮しの両親を早く助けてやり度いし、学費の援助を受けて御世話になった馬場つぎさんに返済したい。期待と不安の背水の陣だ。500円の持金で運転資金なしだ、その上250円の借金。今から思へば良くやったと追懐する。

 昭和5年4月1日開業当時1ヶ月の売上 1ケ月分合計金550.01円、一日平均18.33円

  当時の物価はゴールデンパッド煙草 7銭
  散髪代            3円5銭
  薬剤師会費(年間)      4円
  店員の給料(食事付)     4円50銭
  女中の給料(食事付、仕込)   4円50銭
  生活費5人分         30円

 【取引関係】
薬 品:大山万年堂、三苫一党堂
    川ロ屋、染井博多支店
    高杉製薬
医療品:鳥飼薬局、林田中商店
雑 貨:ヤヨヒ本舗、三亀化粧品
    近藤染料、資生堂

※現在の物価1万円位と考へると
 生活費1月30円は30万円となる。
 今私の店の売上に凡そ相当するのでその当時より進歩していません。

  昭和5年当時の薬剤師会の模様

 私の開業した箱崎町は粕屋郡だったが福岡市薬剤師会に属していた。粕屋郡で薬剤師会員は15名、箱崎町は佐々木薬局さんと私と2人で、佐々木さんは町会議員で郡の消防団長だったので、私は連絡役だった。市薬の会長は大学前の本村薬局の御主人で、県の会長は井上善の社長さんで中洲の峰松さんが副会長で、会長はロ髭を生やした威厳のある長身の方で、副会長は小柄で親しみ易い方で2人共熊本薬専の出身者だったので、可愛がられた様な気がする。

 昭和7年薬局に配布された薬剤師綱領の文章の一部

 薬剤師と言う、同じ職業を持つ一人一人が同じ心、同じ希望、同じ情熱を共有して、目的達成の為の連帯を確立する事が大事で、地域社会に根ざし、地域の共感と感動を呼び乍ら、社会の中に限り無く波紋を広げ、よりよき社会と心の連帯を広げる業種である。

 ※薬剤師会費は年間4円でした。

 <随筆シリーズ> 「遠い風景」
           中央支部・大名部会 十字屋薬局 森山富江 昭和62年7月25日

 引越しの荷物の中から小さい女の子が通りをながめていた。向かいの板塀の上から無花果の青い大きな葉っぱがのぞく。

 少し大きい女の子が珍しそうに家の中をみて通りすぎる。知らない人ばかりだなぁ、女の子はちょっぴり不安にちょっぴり悲しく、黙って上りロに腰かけて表をみている。ずっとずっと昔の、然し決して消えることのない風景だ

 家の中にはおバアチャンとカアチャンとトウチャンとニイチャンがいたが、ひる間はいつもおバアチャンと2人だった。

 夏の日、遊びつかれて帰ってくると、台所の天井から吊した大きなショーケの中から、赤い皮をした黄色い切口の冷んやりしたフカシ芋をとってくれる。時には水ガメの中に、プ力プカ浮いているうぷ毛のチカチカした桃をむいてもらうこともあった。

 それからお天気の良い日など田舎の小父さんが、手拭いで頬かむりをして裏口からはいって来て、おバアチャンと何か話しながら下肥をとり、桶をかついで何度も往復する。臭いなぁ。フカシ芋のおヤツにあくと1銭もらって駄菓子屋にゆく。当りクジを手に、飛びトビし乍ら帰る女の子の背中で、ゴロゴロと雷がなりだす。ワーッと女の子が家の中に走りこむと追っかけるように夕立が道をたたく。

 ひと息、夕立がすぎると通りの向うに大きな虹がかかる。街の木も人も潤いをとりもどしたように淡々と話しだす。イチヂクの実をいっぱい入れた龍を天秤でかついでイチヂク売りがやってくる。もぎとられた無果花の白いお乳が光っている。

 母は夜おそく帰ってきた。朝起きると枕もとに大好きな童話の本がおいてあることがある。手に持てない程大きくて厚い本だ。母が仕事に通っている小倉のお店のお嬢さんから借りてきてくれたものだが女の子にわかる筈がない。

 イソップ物語やグリムのようなものだったと思うが、フクロウのさしえが今も頭の隅のほうに残っている。

 或る朝、目をさますと大きなせ栗の袋がおいてあった。ワアー栗、とはしゃいだ声をあげると、おバアチャンが゛昨日はお前の誕生日やったとタイ。と云う。母が小さい娘のために、小さいが暖い心で買ってきてくれた甘栗だった。

 学校に行くようになると、何かある時はきまってトウチャンがきた。いつかお便所で転んで、からだじゅうウンチ臭くなり、ワアワア泣いていたらやっぱりトウチャンが迎えに来てくれた。大きなトウチャンの外套と背の高い姿を見たとたん又、ワーッと涙があふれた。

 学校はとても好きだったが、手工は一番きらいだった。白い紙に赤い色紙を丸く切ってはり、日の丸を作るのが仲々うまくゆかず、糊がしみて赤く手垢のついた画用紙にペッタリ押してあった朱色の丙と云う判コ、カアチャンに見せずにソッとしまっていたが………。

 4年生位になると本に夢中になった。海老茶色の表紙の少年少女世界名作全集で、少公子や小公女を読んだときの感動! それからは手当り次第の乱読ですっかり本の虫だった。よむことの好きな少女はひとかどの文学少女のように成長してゆき、いろいろな物語りのなかに暫し自分をおき、しみ透るようにその心の中にさまざまの心を滲ませていった。

 その頃からようやくトウチャンが伯父であり、末娘が3才の時、夫を亡くした母が2人の娘を連れて実家にかえり、子供と一緒に生きてゆくために日本刺繍を習い乍ら、小倉に勤めていることもわかるようになった。

 5年生位の時かな、母がやっと自分の店を持つようになった。何時もデパートの呉服部の人が来て、母と仕事の打合せをしたり、出来上った反物を持って帰ったりしていた。忙しい時季は夜半まで刺繍台に向っていたので、朝は、きまってオバアチャンが御飯を炊き、お弁当を作ってくれた。その頃の母は美しく、しんなりして、父兄会など出て来ると、他所のお母さん達にくらべ、何となく際立っているのがとても嬉しかった。

 仕事の関係か、すっきりした着物姿で何かの会合や旅行などにもよく行っていた。当時は珍らしい実務者であった母にとって、それはようやく訪れた、しぱしの華やぎであったろうか?

 姉はもうひとりの伯父の処へ養女にもらわれていた。製鉄所の労務請負の仕事をしていた伯父の家は大きな2階家で、広い2階には若い男衆がゴロゴロいて朝晩のごはん時は壮観だった。馬のハミ入れのようなお橿や大きな皿が並び、五衛門の釜ゆでのような大釜でごはんが炊きあがる。ピーンと張った空気と活々とした男達の動き、伯父が出勤する時はまた堂々たるもので、さながら花と竜の世界であった。祗園まつりなど泊りがけでゆく時は、提灯山を見てかえり、伯父がつれていってくれる甘い物屋の永金時など、若松の家では許されない体験で、とりわけ楽しいものだった。

 私と違って些か大人で寂しい心をもっていた姉は、そんな中で大きな声を出すでもなく、いつも一寸くらい目をして、掃除やごはんの手伝いをしていた。2つしか離れていないのに随分年上のように思えたものだ。養女にゆくと云うのがさして重大でなく思えた私の小さい心で、その頃の姉の哀しみと傷みはわからなかったのだろう。

 女学校に入学して弓道部に憧れ、最初の昇級試験に2級をとった時は、この伯父が一番喜んでくれた。薬専にゆきたいと思いはじめたのは何時頃からだったろう。キューリー夫人を夢見たか?入試は九大の医学部で行われた。

 試験がすんで、冷い北風の吹く東公園を、母とならんで歩く。ホッとした気持と、何かとんでもない方向を走りはじめたのではないかと云う不安で何か話したいと思うが、何も言葉にならなかった。発表が学校に届いたのは丁度放課後で、家事の時間のあと片付けに割烹室の掃除をしている時だった。パタパタ廊下を走ってくる音と“庄島サーン通ったトョ、通ったトョ、ミンナ”と云う友の上ずった声が、ワーンと耳の中でなった。一瞬声なく、ついでドッと嬉しさがこみあげてきた。私も走る!

 誰に1番に知らせるべきか。 上京まで嫁入支度のような慌しさのなかで、姉が入学式に間に合うようにと、白いブラウスを縫ってくれた。

 上野の山の桜が霞のようにハンナリと匂う頃、その名も桜木町の校舎の門をくぐる。 おカッパ頭にした3人の郎女が、東京弁の中で少し緊張してポソボソと北九州弁でしゃべった。入学式が終って九州へ帰る母を送るぺく、学校の前の石畳の遺を歩く。着物姿のよく似合う母と、母に似ず丸々としたダンゴ鼻の少女、短い衿足に東京の風が吹く。ことば少く谷中の坂を下りてゆく母娘、ほの暖いような春の空気と、並んでゆく母の着物の匂いを、女の子はいつまでも忘れない。

 昭和17年4月!日本のきびしい歴史のなかで、今、多感多難な青春がはじまろうとしている。

 あれからソロソロ半世紀、いつも級長だった姉と、頑張っても級長にはなれなかった妹は、母と3人、時々旅にでる。相変らず賑やかな末娘の話しを80をとうに越した母は、昔のように穏やかな笑顔で、楽しそうにきいている。

 <随筆シリーズ> 「停年予備軍のいらだち」
           済生会福岡総合病院 副薬剤部長 仲尾次広子 昭和62年7月25日

 大正の終りから昭和の始め生れの方々、つまり、その多くが最後の薬専時代を経てこられた先輩方で、次々に第一線から退いていかれ、いやが上にも世代の交替を感じさせる昨今の病薬である。

 卓越した指導力で病薬を率いてこられ、輝かしい業績とともに手力を残しつつ、あざやかな引きぎわを作られた堀岡先生の場合は、会員に与えた印象がまだ余韻を残している。

 小学生で終戦を迎えたわれわれの世代にとって、戦後の混乱期に学生時代を過ごしてこられたこの年代の先輩方には一種、気骨のようなものを感じる。個性的な逸材がそろっていらっしやるし、豊かな経験と努力によってつちかわれた貴重な指標を、折々の交流の中で後輩に残して下さった。

 それにひきかえ、「次はお前の番だよ」という声が現実のひびきをもって迫ってくる中で、後輩のために残すものが何もないいらだちを感じながら、お粗末な幕切れを迎えそうである。

 今さしかかっている地点は、マラソンでいうと、いよいよゴールが視界に入る競技場へ向けて心の準備を始めているところであろう。

 グラウンドー周のあいだはただ、完走の努力のみをたたえる拍手が聞える中、走り続ける最終ランナーの姿がイメージされて仕方がない。

 華やかなレース展開と記録で観衆を引きつける能力がなかったのだから、せめて最後の力を出し切って、ひたむきさだけでも認めてもらうしかないだろう。

 世の中にはさまざまな引退劇がある。スポーツの世界では第一級の選手達が華やかな演出でしめくくりを作り、観衆の拍手喝釆を浴びながら去っていく。彼らの努力は並太低ではないから、一言一句が感動を呼ぶ。そして、体力的には充分の余力を残しているので、本当の意味での第二の人生への出発をかねている。

 平均寿命がますます延びて来た現代、一般市民の停年の場合も後輩たちは「お元気で第2の人世を歩んで下さい」などと祝福の言葉に花束を添えて送ってくれる。それがお世辞であることは先刻承知であるからして、残るレースこそ大切にしたい。

 思うに、われわれの商売は、気もちの持ちようによってはやりがいのある仕事にもなり逆に、惰性で続ければ全くつまらないものにもなる。

 特殊調剤があったり、専門的な判断を要する場面もたまにはあるが、日常の仕事は機械的な作業が多く、近い将来、コンピューターかその大部分をやってくれるまでのつなぎ役でしかないように思う時さえある。

 反面、世の中の人が最も関心をもつ健康についての情報をふんだんに受け入れることのできる環境の真っただ中にいる。それは大きな特典であり、積み重ねた知識はささやかではあっても、大切な財産である。ただ、薬局の中では添付文書を手がかりに、うわすべりの知識だけで、薬剤師でございと構えてはいないだろうか。もっと役に立つ知識にみがき上げる改修作業が残っているような気がする。そのための材料はそこここにたくさんころがっているし、新しい治療法や新薬の情報も毎日のように流れてくる。新素材もどんどんとり入れながら仕上げの工事を進めていきたい

 <随筆シリーズ> 「お酒が好きです!!」
           中央支部・警固部会 小野調剤薬局 小野信昭 昭和62年7月25日

 清酒、焼酎、ウイスキー、ワイン、ブランデー、何でも大好きです。日本酒を飲んでいて長年不思議に思っていたことは、表示の種類の多さです。調べてみると色々な事が分りました。俗に清酒と言われていますが、大きく分けて3段階の成分表示があります

(1)米・米油だけで作られるものは「純米清酒」『生一本』の表示がなされています。
(2)米・米油・醸造用アルコール(米1トン当り120リットル以下のアルコール添加)で造られるものは『本醸造』、『特別本醸造』の表示がなされています。
(3)米・米油・醸造用アルコール・醸造用糖類(米1トン当り220リットル以下のアルコール添加)で造られるものがあります。

 この中で曲者が「醸造用アルコール」「醸造用糖類」なる成分表示です。本来日本酒は、しぼりたてでアルコール分が20%近くあって、これに水を加えて15〜16%の清酒を造るわけです。

 つまり、白米1kgから2.2リットル程度の清酒が造られるわけですが、第2次世界大戦時の米不足の時代に行なわれたアルコールと水で増量し、薄辛くなったものにブドウ糖・水飴・コハク酸・グルタミン酸ナトリウム・香料等を加えて、原料1kgから実に3倍の6.7リットルの日本酒とは言い難いアルコール飲料を造ることが、今なお、大メーカーの手で行なわれているのです。

 国産ウイスキー・ブランデーに致ってば原酒(モルト)の割合によって、特級(30%以上)1級(20%以上〜27%未満)、2級(10%以上〜17%未満)と定義されており、アルコールで薄められ添加物で加工されたアルコール飲料を、我々消費者は長年ウイスキー、ブランデーとして飲まされ続けているのです。

 医薬品においては厳格な成分表示がなされている様ですが、先日新聞報道された様に保存剤、安定則に関しては未記載のものが数多くあります。当薬局でも抗生剤の坐薬基剤に含有されるカプリン酸で粘膜刺激があったと思われる例が数人出ました。

 これらの生成分外の添加物は注目されにくい範囲の事柄ではありますが、薬副帥としてチェックしておくべき問題だと思いました。酒同様薬品に関しても叉実生活においても表に出ている物事の裏に隠れている全体像を、常に司る努力を欠けてはいけないと思うこのごろです。

 <随筆シリーズ> 「くさぐさの花に寄せて」 白十字薬局勤務 河埼昌代
                            昭和62年7月25日

 チュンチュンジュクジュクすずめの宿あらそいも一段落したようです。どこかで雨蛙もないています。そのうすやみの中に小さな黄色の花がうかびあがってみえます。何という名の花でしょうか。何げなくみている足もとの草花などよくみると実にいろいろなものがあり、名前を知らないものの多いのにおどろきます。そして年ごとに種類もかわっていくようです。競争があるのでしょうか。

 高橋治著「くさぐさの花」やっと手にしました。うれしくて一息に頁をめくってしまいました。俳句との組み合せが何とも楽しく教えられることが多くて、これからも度々頁を開くことでしょう。俳句にもなじんでいけそうです。道ばたの野菊や田んぼのレング草など宅地化が進んでみられなくなってくるのはさびしい限りです。2、3年前まであったアカツメグサも消えました。タンポポも少なくなり、スミレも見られなくなりました。そのスミレが春先、植木鉢に植えられて花屋の店頭に出ていたのにはびっくりしました。

  董程な小さき人に生れたし (夏目漱石)

 オオイヌノフグリは健在です。まだ風の冷たい春になったばかりのころ、淡青色のこの花をみるとほっとします。今はカタバミが黄色い花を咲かせています。ねぎ坊主をみたのはいつのことでしょうか。

  ねぎ坊主雨降れば又さむくなる   (大野林火)
  けしの花10日たちけり散りにけり  (加舎白雄)

  麦刈て近江の湖の碧さかな  (白井露月)
  菜の花や月は東に日は西に  (与謝蕪村)

 小さいころ車窓からみた田んぼのレングの赤、麦の緑、菜の花の黄色のコントラストの美しさが忘れられません。

 今年もスズランの花が咲きました。葉が枯れおちてなくなったようにみえてもいつのまにか芽を出して白い花を咲かせます。強い花なのですね。露草もどんどんふえていく草のようです。可れんな花に引かれて、植本鉢にうえたら傍若無人に茎をのばされて、閉口しました。

 昨年、くすの木の途中に根づいてしげっているのをみた時は感心しました。芍薬の花はもう散ったでしょうか。今頃はショウブの花の盛りでしょう。まもなく蓮も水面に姿をあらわすことでしょう。夏もすぐそこです。

 <随筆シリーズ> 「32年ぶりのクラス会」
           西支部・七隈部会 藤野薬局 藤野久枝 昭和62年7月25日

 突然、東京から男性の声で「23年ぶりに福岡へ帰るから、クラス会をしよう」と電話がありました。名前を聞いても、顔は思い出せません。30年余り会っていないのですから…。小学校の同窓生でした。アルバムで捜がしましたが、昔の写真ではっきりしません。

 クラス会は卒業以来、私は行ったおぼえがなく、先生にも申し訳けなく思っていましたので、この機会に是非にと思い、友人に電話をしてとりあえず何人でも良いから、集まろうと云う事になりました。先ず、先生に連絡を取り、友達がやっている店でクラス会を5月4日にする事に決まりました。当日は、30数年ぶりに会う先生や友人の事で、胸をふくらませて出かけました。丁度、博多は「どんたく」で、にぎわいは最高潮です。

 先生にあげる花束を用意して、店に入ると、友人3人と先生が、来ていらっしやいました。開ロ一番は「ワー変っていないね」でした。先生はとても大きい先生で、私達にはとてもやさしかったと気憶しています。男性にはこわい先生だったようです。

 名前は、池田トシ先生。今もって独身、体重は昔よりずっと肥られて、うん10キロ、とても若く感じられ、体格のよさには圧倒されました。

 同窓生も11人集まり、懐かしく、感激のひとときでした。会うまでは顔がどうしても思い出せなかったのですが、会うと一度に思い出し、なつかしい顔がそろっていました。

 小学校時代の顔とあまり変らず「ワルソウ坊主」の顔もありました。シワと白髪がちらりほらり、でも、気持は一気にタイムトンネルをくぐって30年前にもどり、話に花か咲き話はつきません。

 担任の先生ともなると、私達は尊敬と何君は、授業中窓からエスケープして、学校中を捜がしたとか、何君は悪い事をして、ピンタされたとか、昼休みは男子と陣取をして女子が勝っていたとか、学校では男子と女子はにらみあっていたが、家に帰ると結構、男子も女子も仲良く遊んでいたとか、それはそれはにぎやかに話がはずみました。時間がたつのも忘れて……。信頼をもって慕っていました。年令の差ももちろん感じていました。しかし今では、私達かグーツと先生の年に近ずいたようで、自分達だけが年をとったような感じがしてなりませんでした。夜もふけ、又の再会を楽しみに、先生には増々お元気でクラス会には必ず出席して下さるようお願いしてお別れしました。

 後日、住所録と写真を送ったところ、クラス会に出席出来なかった人より電話をいただいて、来年是非開いて下さいとの事でした。4、5年もすれば、孫をだいている人もいるでしょう。

 <随筆シリーズ> 「もう一人の私 in MAY」
           西支部・姪浜部会 タケオ薬局 竹尾真一 昭和62年7月25日

  町の緑がひときわまぶしさを増す5月。そんな日曜日の午後、私はバスに乗り薬院へ。天気は晴れ、でも心の中は一面雲が広がってる。気持ちを落ち羞かせるためにコーヒーを一杯のみ、白衣に着がえて調剤台に向う。ひさしぶりの調剤に胸ドキドキの私。 そんな気持ちをよそに、来ました、処方箋。(心の中に雲か厚く広がる。)

 指先は不自然なりズムで処方箋に従って薬を調剤する。水剤、散剤etc。調剤済みの薬は、監査して頂いて患者さんへ渡されていく。窓口でのテキパキとした指示に、患者さんは頭を深ぶかと下げ「ありがとうございました」と一言。患者さんは薬袋をしっかり持って子供さんを大事そうにだいて、御主人と足早やに家に向かわれる。その後ろ姿からは「お薬をもらったョ、よかったネ。」「これで良くなるョ」とでもやさしく語っているように見える。なぜか満足感とでもいうようなものが全身を満していく。「おだいじに!」(「カイカン!」)

 このような光景は、私の店では何度あるだろうか?努力不足を反省させられる。(中略)5月の太陽で、町の緑はひときわ美しさを増す。四季は、文字の上では春・夏・秋・冬と書ける。でもそれを感じ取るのは、その人その人で違ってくる。またその時の心の変化で同じ人でも感じ方が違ってくる。人というものは「感情の動物だ」とはうまい事を言ったものだと思う。

 子供は思いついたままに勝手にチョロチョロする。でも大人は、理性とかもろもろのものが慟いて形にはまった動きをし、(反省し、また)行動する。まして薬剤師というものも、その与えられた権利、知識をその人かどう生かすか、人にどう与えられるか、そ してまた、薬剤師も1人の人間なのだから、その人はその人の人生を進むべきなのであろう。

 時間が刻々と過ぎていく。さあ、あなたも力強く、夢を持って、あなたのレールの上をまっすぐ進みなさい! 夢も力も皆んな同じよに与えられているのだから。

 途中下車もいいでしょう、ただひたすら走るのもいいでしょう。薬剤師というものの基本は一人の人間であるという事なのだから。「さあ、一緒に薬剤師という一人の人間の人生を楽しみましょう!」と、その時、店のドアか開いた。(と同時にもう一人の私の姿が消えた。)私は無意識のうちに「いらっしゃいませ」と言葉をかけた。

 「レール」(もう一人の私)より
                       第一薬大硬式庭球部 17回生

 <趣味・紀行> 「碁 と 50 年」 博多支部・博多西部会 児島薬局 児島 豊
                                昭和62年7月25日

 私は碁か好きだ。最近では毎日7時起床、先づ新聞碁を並べる。前日まで続いた碁が、今日はどんなに変っているかを見るのが楽しみで、その後で前日の売上げ仕入を整理する日課としている。

 私が始めて碁と触れあったのは昭和10年、長崎で薬専卒業前に下宿の友人に手ほどきされたのに始まるので早50年を過ぎている。

 卒業後始めて就職したのは九大病院薬局だった。勿論1、2年は無給。当時薬局長は柳川出身の江口作先生だった。調剤室、製剤室、研究室とまわされた。調剤室は調剤台が6台程あり1台には薬剤師2人に若い袴をはいた女の人が1人づつ付いて調剤した。散剤、水剤を手ぎわよく包装していた。現在では全く考えられない風景だった。

 仕事は大体4時頃終り、夫々に図書室に行ったり、写真もはやり暗室にとじこもる人、野球の練習、中には碁を打つ人もいた。

 薬局長はじめ岸田氏(香椎)、花田氏(死亡)、等氏、西島氏その他数人いたようで、薬局長にも何目か置いて教はった。

 この時代が一生の中最も平和で優雅な時代だった様な気がする。仲間に柴田源一郎氏、西島数喜氏、小松真佐雄君、柴田伊津郎君、福井正樹君、磯田正春君等がいた。

 レコードコンサートとしやれこんで春吉の柴田氏宅に皆んなでおしかけたりしたこともあった。映画にも行った。井出寛、森川信劇団の寸劇を見に川丈に足を運んだりした。夏は涼を求めて中洲のアサヒビール園に、那珂川の川面を眺めながら、喉をうるおしたものである。

 この生活も3年位で別れ、当時大阪衛生試験所にいた先輩西原氏(現糸島)を便り上阪阪大理学部化学教室赤堀四郎先生の助手として勤務することとなった。

 此処でも碁に縁があり、同室の研究員と実験の合間を見ては石を並べた。福岡で2、3年もまれていたので割合に力がついていたようで少々面白い碁がうてるようになっていた。

 崇塚先生も碁が好きで隣室の小竹無二雄先生と、時折自室に閉じこもって打ってあったようで、どちらが強かったか知らない。

 当時尼崎の寺院で何か湿布剤を家伝薬として出していたので、その管理とし下宿することになり、比処の和尚が碁が好きで近所の人を招んではよく打っていた。たまの日曜日には奥の20畳ある大広間でパチンパチンやるのは何とも云えず大人になった気特だった。

 其の後3年位して赤堀先生が顧問をしてあった「大学目薬」の参天堂製薬研究室に就職した。その頃から戦時態勢が日益しに厳しくなリ、実験用の試薬の入手も事欠く様になり工場の方ら戦意昂場とかで厚生活動が盛んとなり体育部、書道部、囲碁部が出来夫々活発に動き、私は詩吟部、囲碁部を任せられ時々碁会をやった。その頃結婚レ児島の家を継ぐことになった。1年程して実家の人手不足と長男の誕生で博多へ帰った。

 その頃2人いた店員も1人は徴用され、当分は店頭に1入立つ心細さをしみじみ感じたものである。

 時勢も益々きゆうくつとなり一流商品が次々と少なくなり、ついには配給制度となり一流商品は部会単位に配給された。メンソレ、ノーシン、仁丹、セイロ丸など全く貴重品で勿体つけて販売し、夫々に似つかかしい商品名の同質のものが出回った。

 その窮屈な時でも亡父は碁が止められず、月に1、2度はプロの他方棋士を招き近所の緑川医院長(現先先代)、当時寿通りで精々堂として活躍してあった渡辺荒太郎氏と共に自宅の2階で指導碁を打ってもらっていた。渡辺さんは少し強かったが外はちょぼちょぼで亡父と打つのが楽しみだった。

 昭和20年6月19日の福岡空襲で仮店舗も自宅も焼失し1年後箱崎で仮営業していたが、父も空襲病と云うか少々ぼけて気力も衰え10日後病疫した。それまで細々と病院廻りを店員にまかせていたが、私自身自転車で1週間おきに郡部の医院を訪問し受註配達もした。

 その中に2、3の医院とも碁を通じて知りあい、時には返りの時間を気にしながら過したこともあった。これも3、4年は続いたが、大手間屋の進出もあり止むなく手を引き小売専門で店頭に立つ様になり今日に到っている。

 博多支部内での囲碁部の発足なったのは、10年程前支部役員で志賀島での一泊懇親会の時偶然にも4人もの同好者がいたことで、早速支部の同好者を募集した処8人もの人が東まりました。

 九鉱薬品の山田氏、前第一病院の吉本氏、斎藤氏、高杉氏、冷川氏、樋ロ氏、山川氏と私です。早速年1回づつ4 5回は続きましたが、最近では日曜は研修会とも重なり都合のつきにくい人もあり、その後立ち消えとなっていることを残念に思っています。

 最近では三師会の交流も多いようだし、幹部の方々にも囲碁の対抗懇親の機会を与えられる様呉々もお願いします。

 碁は面白いものです。上には上、下には下もあるからだと思います。正月など7、8才の幼い小学生名人がプロの名人に何目か置いて戦っている真剣な顔を見るのはほほえましいものです。

 50年もたってこんな棋力でこんな小学生に歯が立たないと思うと情けなくもあり、その深さをしみじみし考えさせられています。

 <趣味・紀行> 「博多一口にわか」
          東支部・千代吉塚部会 千代薬局 須原勇助 昭和62年7月25日

 ▼ 中曽根首相
 「中曽根さんが売上税反対で国民からそうスカン食うござるが、此の間から板付の飛行場に来られたけん、お茶をどうぞて云うたらプリブリはらかきなった。」
 「貴方がどけんか云うとろうもん」
 「そらあ一八十八夜の(八女茶一止めちゃ)はどうですなって云うとる。」

 ▼ アメリカとの友好
 「中曽根さんが此の間からアメリカに行きござったが、うんと費用のかかりよろう」
 「そげん事は貴方が心配しなる事がいるもんかい。日本の黒字問題でアメリカが腹かいとるとの修繕やらしに行ってござるとの事じやけんユーコー(有効−一友好)に使はっしやる」

 ▼ 車のキー
 「あんた車ば置くときや、ヨート注意ばしとかにや、近頃は車の中の品物ば盗るドロボーの流行しよるばい」
 「う一ん犬丈夫、あたしゃ車ば置く時はいつでも千ヤーンとキー(気)掛けとる」

 ▼ ポストンマラソン
 「アメリカで有名な心臓やぶりの丘で6千人も走ってござるとい、瀬古選手は優勝してござあが、日本円で650万円ぐらいもらわれるげな」
 「それならりックにでも入れて帰られるとな」
 「そりゃーボストン(ボストンバック)に決まっとる」

 ▼ 長者番付発表
 「長者番付発表のあっとるが、高額納税者は土地もっとる人のごとあるな」
 「そらあ、そうじゃろう、今と昔じゃ一ジダイ(時代・地代)も替わってきとる

 <趣味・紀行> 『中国』視て歩き食べある記
         中央支部・警固部会 アサヒ薬局警固店 野口定子 昭和62年7月25日

 医食同源を2つに分け“医文化の旅”と“食文化の旅”夫々の視点で歩いた中国の或年或日の印象を順不同で記してみたい。

  昨61年5月は、医文化を主目的、渡辺武先生御夫妻を団長に医師薬剤師鍼灸師およそ40名で、上海、成都、重慶、南陽、北京を訪ね、各中医学院表敬訪門、技術交換、同仁堂薬局や荷花池市場(漢方薬市場)見学、仲景墓地、医聖祠参詣等の視て歩き。

 今年3月は、食関係オーナー主軸の薬膳グルメツアー(15名)に便乗、゛年に1度は北京ダックを食べよ侃と肥満を気にしながらも怪気炎の食べ歩き。

 この2つの旅の共通点は唯2つ。その1は大阪空港発着で始点は上海、終点は北京ダック賞味の北京。その2は九州から唯1人参加、未知の人との同室で旅心が増幅されたこと。

 2つの旅は、目的も、訪れた都市も北京、上海以外は異った上、5月(連休直後)と3月(二月堂のお水とりの頃)という季節の相違からか、中国旅行中の天候も全く対象的であった。

 旅中10日間一滴の雨もなく五月晴れの゛医文化の旅に反し、゛食文化の旅、、はドカ雪の大阪空港、出発おくれによる上海玉仏寺の精進料理キャンセルをふり出しに、翌日の上海も雨あられ、広州、桂林こそひどい降雨はなかったものの、北京の2日目まで片時も雨具は手ぱなせなかった。

 同行の誰かが「中国でまだ1度も太陽に面会できない」と嘆いたら、現地通訳が「3日前までは大きな氷が降ってたから、雨はまだ良い方だ」「エッ、大きな氷が? ウッソー」と誰かのオクターブ高い声、「ああ、氷ってアラレのことだろう? それともヒョウかなきっとそうだよ」と違う声音。

 「でしょう、でしょう」と一同ナットク。昨年5月の北京は乾燥して黄砂が舞い、レース様のネッカチーフで顔も頭もすっぽり覆って、砂ぽこりをさけている現地の女性に感心しながら中医学院へ急ぎ、更に中国中医研究院中薬研究所の図書室の蔵本、古文献の量と質に脱帽の後、中国医学科学院薬用植物資源開発研究所の薬用植物園見学の折も5月の太陽は、おしみなくふりそそいでいた。

 その陽ざし一ぱいの標本圃は、およそ3ヘクタール、約800種の植物が展示栽培、草木性の植物は1種あたり3坪位宛100種を越えるかと思われ、大木性のものとは、植物形態別に区画栽培され、開花前の草麻黄の外、甘草、地黄、黄伯川、大黄、当帰、等々全部を見るにはとても時間も体力も不足。印象深く思いおこされるのは、おいとま直前に見せていただいた別宅人工栽培の天麻。お別れにいただいた両手一杯の萄薬のみごとな花束、その馥郁たる花と太陽の薫香。

 今年の北京は3月の降りしきる雨の中を、昼は郷土料理、夜は薬膳料理、そして明日は宮廷料理と、どんよくなまでに゛食。を追いかけている。日本語の上手な成人病研究の医師に、2日間、テーブルを御一緒してもらい料理一品一品の材料、薬理、漢方薬、民間薬から医食同源を聞きながら、眺める、写す、味う、忙しい思い、珍らしい驚き、知らなかったことを知り得たよろこび、全部ひっくるめて満腹。

 ホテルに帰るバスの窓から゛マキシム。の看板が見えたとたん「今夜マキシムに行く人○○時にロビー集合」の声。同室の東京の女性もドレスアップして外出。誘われたけど1大部屋に残’〕静養。北京のマキシム御一緒したい気持はあるが゛水毒体質。の悲しさ、゛冷温相打つ。雨夜の夜食は自信がない、過食は毒だ等とロ惜しがってるうちに眠りにおちてしまった。

 翌日はじめて、3月の中国の太陽を拝む。故宮博物館の仏教美術に目を奪われた後、持参のロングスカート着用で゛坊膳、、の宮廷料理。さすがにここの料理は説明を聞くまでもなく品格が高い。医食同源には違いないが゛ゲテモノ、、的なケレン味のないのも良い。味覚も視覚も洗練されている。昨夜のヘビ料理、サルの頭、シカの生殖器(子宮、卵巣、ぺニス)やアキレス腱等の料理は、それなりの珍らしさはあるか、くりかえし食べたいとは思わない。この坊膳の料理は毎週でも食べたい、りクエストしたい。まだ陽のあるうちから、とっぶりと闇に包まれるまで何時間位食べつづけたのだろう、テーブルを離れて、隣接のソファーでのデザートも亦、結構。

 黒ゴマかと食べながら、よく見ると黒アりだったり、大皿一杯の竜にはエビとチョコレートが使われていたり、洗練された上品な古典の外に、いくつかの意外性が組みこまれて長時間の食事に、ほんの少しアクセントの気くばりがあった。

 この素晴らしい宮廷料理で思いおこすのは昨年5月南陽市政府招待所でのお別れパーティ料理。゛医文化の旅、1番の美味で去り難い想いをつのらせた南陽市は御存じ我等が医聖、張仲景師の故郷である

 南陽市には北京、上海の国際空港からの直行便がない。地図で探しても「南陽」の文字が見つからぬ。かなりの田舎町かも……とのおもいを胸に、重慶から23時間程の軟臥車の旅を経てようやくたどりついた、はるけくも遠い憧れの地であった。

 孫市長お迎えの10台の車に分乗して宿舎に向う町並は、しっとりと美しい。たっぷりの歩道の車道側はプラタナス(すずかけ)の並木、その並木の中央に直線でのびる車道。河南の立派な地方都市で張仲景墓地の外、張衡(後漢の偉大な科学者、天文学者)の陵もあり、゛後漢の光武帝。の故郷でもある。

 仲景墓地、医聖祠参詣の念願を果した後、武候祠、漢画館、人民病院、張仲景国医大学及附属病院、済康薬店、玉器廠、恪花工芸廠、糸織厳等、日曜日も特別参観させていただく。

 この玉器廠で、私は仲景玉像にめぐりあい、入手することか出来、りックに安置してその後の中国を゛同行二人≠ナ歩いた。

 仲景師像の両手の間の玉の巻物……陰陽の間……の中味が視える様に、それに近づく様にヽ精進せねば。ずしりと重かったあの実感。東洋医学の一里塚として今後の精進を誓っ、た南陽の、まばゆいばかりの太陽。

 南陽での2泊3日の間、渡辺先生と旧知の孫市長はじめ全市をあげての熱列歓迎、関係機関こぞって視て歩き。過密スケジュールに終始便宜を与えていただいた上「日中友好世代相伝仲景事業万古流芳」の記念旗を贈られ喜びを重ねた。第1夜は孫市長招待の歓迎レセプション、第2夜は答礼レセプションと昼夜通してテレビカメラが。お蔭で夜の散歩でもサインを求められ、たちまち人だかり。対日感情は良好であった。

 仲景墓地、医聖祠参詣の折、矢数道明、寺師睦宗、渡辺武、諸先生方の先年の揮毫が石に刻まれ、石刻長廊に掲げられていて、先達の熱い息吹に射すくめられるような、熱いものが伝わるような、何とも言い知れぬ感動を覚えた。一年を経た現在でも医聖祠での感動は、胸をしめつけるような強さでよみがへり、我が精神の足りなさを恥じる。

 仲景墓地、医聖祠、仲景病院、張仲景国医大学等きれいに整備されている南陽市にも、時間給水や食券(民衆)という一面があった。

 中国の一入っ子政策とペアで思いおこす一コマである。それでもテーブルを囲んだ中国の方々は誰方も、大そうおもてなし上手で、にこやかで、酒も料理も知らぬまにすすむ。南陽市で唯一の日本語通訳という初老の女性は、日本語の唱歌をいくつも歌ってくれた。その中の……兵隊サンのおかげです……という歌詞に、私の仲景酒の杯がおもわずゆれた。彼女は無心に歌いつづけていたのだが………。

 今年3月広州の若い男性通訳(大学院生)は「侵略されたことはあっても、侵略したことはない、広大な国土を持、っている自負は失いたくない。将来は日本に留学して日本文学を研究したい。Jこの二人の通訳も、なぜか時々ペアで思いおこす。

 2つの旅での印象をまとめると中国は広いそして大きい。けれども48年アメリカを旅Lて感じたアメリカのそれとは全く異質の大きさである。

 飛んでるものは飛行機以外、4つ足は机以外、何んでも食べると聞く中国の胃袋は、東洋哲学や医学、孔子様に仲景師、偉大なるものを育ててきた歴史をもつ。

 私の中国の旅は、始まったばかり、哲学、仏、シルクロードえと、旅の夢は広がるばかり。思い立ったが吉日とばかり、この後も幾度でも訪れてみたいと希うこの頃である。

 「お知らせ」                           昭和62年7月25日

  受賞おめでとうございます

 荒巻善之助先生厚生大臣表彰受けらる

 健康保健法施行60周年記念厚生大臣表彰が5月26日東京霞が関の厚生省で行れました。福岡県の薬業関係者では荒巻善之助先生がその栄誉に浴されました。

  訃 報

  河野義明先生
 福岡市勤務薬剤師会名誉会長の河野義明先生が6月29日、くも膜下出血のため急逝なさいました。先生は昭和26年熊本薬学専門学校 を御卒業になり、藤沢薬品研究室を経て、昭和27年7月より九大病院薬剤部に勤務なさいました。昭和42年九大歯学部開設と同時に初 代薬剤部長の重責をつとめられ、昭和60年3月退官なさいました。

 長野長和先生
 西支部友泉部会、ユアーズ薬局の長野長和先生が胃癌で闘病中でしたが、7月13日逝去なさいました。
 昭和34年長崎大学薬学部卒業、享年53才
 慎しんで御冥福をお祈り致します。

 「あとがき」                      昭和62年7月25日

 oうっとうしい梅雨も明け、入道雲、海、山と本格的な太陽の季節となりました。  o会報22号が出来上りました。

 o皆様に楽しく読んで頂くために、出来るだけ多くの方々こ執筆を依頼しました。原稿を書いて下さいました先生方、御協力ぽんとにありがとうございました。

 o原稿依頼から、編集、校正と広報部の仕事はなかなか骨がおれますが、バラバラの原稿が、それぞれの場所を得て、有機的連がり、ー冊の本に仕上っていく過程の中に、楽しさと喜びもまた感じています。

 o広報の仕事にたずさわるようになって、いろいろな会の機関誌など、今までと違った角度からも眺めるようになりました。本会の会報が楽しく、特色あるものになるよう努力したいと思っています。

 o会員の皆様、どうぞお元気で暑い夏をのりきって下さい。
                              (域戸嘉寿子)

 ■ 巻 頭 言 「年頭にあたって」 福岡市薬剤師会 会長 古賀 隆
                               昭和63年1月25日

 明けましてお目出とうございます。会貝の皆様にはそれぞれよい新年を迎えられたことと思います。

 今年は十千十二支でいう戊辰(つちのえたつ)年であります。明治維新、日本の新しい夜明けとなりました明治元年がこの戊辰年にあたります。怒濤の如く押し寄せた尊王攘夷、尊王討幕は遂に徳川幕府終焉の途となったわけですが、この一連の戦いを戊辰戦争と名づけられたのも、ここからきております。その時代から120年がたったということになります。

 暦の十二支は実在の動物がモデルになっており、一年間マスコットとなり或いはヒーローとなって人間杜会にも大いに貢献しているところですが、辰年だけは、何故か想像上の動物「龍」があてられております。その由来はよく分りませんが、多く絵がかれ想像されるその姿は、まさに怪龍そのもので、その魔力は水難除け、農耕、漁業、家内安全、満願成就と霊験を一身に背負っております。中でも徳川家康を祀る日光東照宮は、つとに有名で陽明門には400もの姿、形の異なった龍の彫刻が施されているということです。徳川幕府300年もの繁栄も或いは龍神のお陰かも分りません。そのように極めて縁起の良いスーパースターの年ですから薬業界にとっても希望の持てる明るい年になってもらいたいと思います。

 扨て薬剤師会にとって昨年はどのような年であったでしょうか。

 ■医療法改正その他

 60年末の医療法改正によって薬剤師の医療参加が明示されましたが、その後地域医療計画の策定にあたって薬剤師がどの様な形で参画するのか、大変気になるところですが、現在協議段階の県が多く、今後除々に明確化されてゆくものと思われます。

 ■厚生大臣指定を受ける(水道法34条)

 さて市薬にとって喜ぶべきことがひとつ。水道法34条の2第二項による厚生大臣指定を62年7月4日付で受けることが出来ました。これは当初より橋本県学薬会長、獺越市学薬会長など学薬関係の先生方が熱心に動かれて端緒を作られ、のち市薬も加わって、総力をあげて関係方面との折衝に当った結果得られたものです。試験センターに新しい大きな資格を得たことで今後業務推進のひとつの核になるであろうと期待するものです。各位の御努力にあらためて感謝申しあげる次第です。

 ■厚生大臣指定申請準備(医薬品試験)

 昨年後半最大の懸案事項になりました問題です。6月1日「薬局等の構造設備基準の一部改正」が公示されてからいち早く指定準備に折衝をくり返してきておりますことは、機会ある毎に会員の皆様にも申しあげてきておりますので御承知のことと思いますが、折悪しくアウトサイダー薬業5団体等の基準改正に対する反対運勤、更に厚生大臣指定申請の動きなどから厚生省が新規指定は当分しないとの見解をとり、ために62年12月中に予定の指定申請が出来なかったことを残念に思っております。

 ■厚生科学研究

  62年には厚生省に3つの厚生科学研究班が設置されております。そのひとつは医療法改正にからむ卒後研修に関する研究、2つ目は医療品情報センターに関する研究(これは福岡県薬が指定されている)、いまひとつが「販売段階における医薬品の安全性等の確保に関する研究班」であります。設置のきっかけになりましたのは若年者における咳止薬の乱用問題でありますが、これを機会に、薬局における販売方法などを抜本的に見直そうというのが、この研究班の主たる目的になっております。もともとこのような問題の発生する下地には商業性追究の大型乱売店の進出が所かまわず、にわかに増加していることです。勿論、開設の自由権は認められるところですが、医薬品の特殊性からみて、安全性の確保と同時に、安定供給がその前提になければなりませんから、当然行政による何等かの対策がなければならないと考えるものです。この研究班は62年より3ヶ年の研究期間となっておりますので、是非安定供給の面についても課題としてもらいたいと思います。

 ■診療報酬改正

 62年12月22日診療報酬改定が発表され63年4月1日から実施されることになりました。今回の引上げは医科3.8%、歯科は据置きで薬科が1.7%になっております。 1.7%引上げの原資は約50億円とのことですが、これは主に薬歴管理指導料の引上げに当てられる模様ですが詳細はまだ決定されておりません。

 ■会館間題

 会館問題についても触れておかねばならないと思います。昨年1年間、福岡市との間でかなりの折衝を行なってまいりました。まだまだ双方の主張に相当の差があり目途はたっておりませんが、補償金額について具体的な数字が示される段階に来ておりますので、より慎重に最善の努力を続けてまいります。

 ■石井道子後援会へのお願い

 年頭から大きなお願いがあります。石井道子議員の改選期も来年の7月に迫りました。再選を期しての準備計画もすでに決定しております。資金計画については、すでに特別会費の賦課等によって対応出来る見込みであります。党員、党友の募集については昨年末にお願い申しあげたところです。最大の課題になりますのが本年早々からお願いする後援会員獲得運動であります。3月末を目途にA会員、B会員とも一名当り100名の後援会員を獲得しなければなりません。福岡県薬で20万人、全国で500万人が目標です。いえ、これは至上命令です。

 全国区比例代表制は前回と同じ方法で行われることが決っております。従ってこれだけの支援態度と条件がなければ、現役の議員といえども当確の順位にランクされるのはむずかしい、ということになります。前回25位にランクされ次点に泣いた無念さは今も忘れることが出来ません。この時は幸い1年後に繰り上げ当選になり今日のような石井道子議員の活躍があるわけですが、二度とそうしたことのないよう頑張ってやろうと思います。今回は病院薬剤師会、メーカー、卸等も全力をあげて支援態勢をつくることが合意されております。全国区唯1人の薬剤師議員、その灯を消さぬよう是非御協力をお願いいたします。

 戊辰、今年は私の年でもあります。好運の年にあやかって、市薬の諸問題が万事好調に進展することを願い、あわせて会員皆様の御健勝と御繁栄を祈念しながら年頭の御挨拶といたします。

 薬事春秋 「よかトピア」の成功にむけて」 福岡市衛生局 局長 加藤竺子
                                昭和63年1月25日

 新年あけましておめでとうございます。

 福岡市薬剤師会の先生方には、日頃から市の衛生行政に深いご理解とご協力を賜り感謝致しております。

 桑原市政も二年目を迎え、安定、創造、前進をモットーに「海に開かれた活力あるアジアの拠点都市・福岡づくり」、「健康で思いやりのある人づくりと地域づくり」を施策の柱として21世紀に向け時代に即応した、個性ある都市づくりに取り組んでおられます。特に来年3月17日から9月3日まで171日間にわたって開催される「アジア太平洋博覧会−福岡’89」(よかトピア)を成功させることが市政の当面の大きな課題となっております。

 ご承知の様にこの博覧会は九州ではじめての国際的規模の博覧会であり、市政100周年の記念に計画されたものですが、「新しい世界のであいを求めて」をメーンテーマに、アジア、太平洋、そして世界へ向けて友情と共感、理解の輪を広げる祭典として、すべての市民の皆様が燃え上がって福岡を、九州を、そして日本列島、アジア太平洋世界へとふれあいと感動の場をのばして頂きたいと願っております。

 いまのところ福岡市と姉妹都市であるアメリカのオークランド市をはじめ、広州市、ボルドー市、ニュージーランドのオークランド市など、世界30カ国からの出展並びに参加が見込まれており、文字どおりの国際博が展開されようとしております。  国内パビリオン20館も先端科学技術の枠を集め、斬新な企画とデザイン、それぞれが特色を生かしたアイデアで検討されており、開催中は日本列島の流れが変わるのではないかと言う期待さえ持っております。

 開催地の「シーサイドももち」には既に人口海浜も出来上がり、234メ一トルの日本一の海浜大展望タワーや、日本一の観覧車のある大遊戯施設も計画されています。

 いまこうした博覧会計画の中に、私達にとって最も大切な「生命、そして健康」をテーマとしたパビリオンの実現に向けて、福岡の医・薬・歯の三師会の先生方が中心となって努力頂いております。

 健康と言うテーマは、いつの時代にも私達の人間活動の源泉であり、21世紀に迎える超高齢化社会を明るく活力あるものにするため、いま私達がすべての英知を結集して、単に保健医療面のみでなく文化人類学的視点からも、又社会、経済、諸制度の仕組の上からも、そして私達自身の健康意識も、予測される超高齢化社会に適合するように構築しなくてはなりません。そうした諸テーマを多面的、総合的に学習できるテーマ館であり、見る人に夢と創造と感動そしてエネルギーを与えるようなテーマ館の実現が待たれます。

 去る昭和60年2月、福岡市民の健康づくり会議を発足致しました。学識経験者、保健衛生関係の代表の方、それに行政も加わって福岡市民の健康づくりについての、いわばマスタープランとも言うべきものをご審議頂き行政施策に反映したいと言うこころみです。このメンバーの中にも薬剤師会から代表の先生方に入って頂いてご協力頂いております。
 昨年12月21日に中間提言を市長に提出して頂きました。

 この提言の中にも人生80年時代の健康意識の改革、ライフステージに応じた積極的な健康づくり施策と疾病予防対策の推進、そして市民が積極的に健康づくりにはげむためのHealthプロモーションの大切さ、そのベースともなる家庭や地域の保健機能の活性化な どがのべられています。

 「無病息災、人生50年」と言った時代から、単に病気をなくすと言うことより、もっと積極的な自分で自分をうまく使いこなすための自己管理が大切で、その中心には勿論心身の健康、そして社会参加による生き甲斐なども含まれています。

 また、昨年5月城南区に城南保健所が設置され、福岡市の1区1保健所も整備されました。保健所は「健康都市ふくおか」の実現を目指して地域の皆様のご協力を得ながら、健康教育をはじめ実践活動に力を入れております。

 こうした市民の健康づくりへの熱意をより具体的に実践するため、各種情報や社会資源、健康づくり施設を結ぶためのネットワークづくリも計画され、その中核となる健康づくりセンクー構想も具体化しようとしております。

 従来から、市民の健康づくりの一翼を担う薬剤師会の先生方には、健康展、健康フェア等々各方面で格段のご協力を頂いておりますが、「福岡市民の健康づくり」と「よかトピア」の成功のために今年は更にー層のご指導ご協力をお願致します。

 今年が、会員の皆様並びにご家族の皆様にとりまして、幸多い年でありますよう心から祈念致します。

 薬事春秋 「越 年 雑 感」 第一薬科大学 学部長 河野喜美彦 昭和63年1月25日

 明けまして御目出度うございます。
 今年は辰年でございますが、辰年は激動の年とも申します。どうぞ皆様には良い年でありますようにと祈念申し上げる次第です。

 大晦日から正月、別に周りの状況が一変するわけではありませんが、ただ気分だけは一新されるのであります。今年こそはと計画し、決心し、努めてきたけど、振り返ってみると全く変ってなかったな、進捗してないなということが多いのではなかろうか。私が現在気に病んでいることは(その実現に情熱を傾けているもの)二つのことがらでございます。

 一つは六年制の問題、もう一つは生涯学習のことでございます。

 薬学教育は四年で充分と考えておられる人は数少いのではないかと思いますが、さりとて薬学教育六年制が直ぐ実施されるという見透しもたたない現状でございます。唯何故六年かと言へば、社会の二−ズに充分奉仕出来、医療人としてのチームワークのことを考えるとそれぞれの基礎学科の充実が見直されるからでごぎいます。

 ではそれを推進して行く人は誰でしょうか、個人の力ではありません、薬学教員の集り例へば薬学教育協議会でもありません。薬学教育協議会で決めても任意団体でございますので取りあげてもらえないと泡沫同様に消えてなくなります。

 薬剤師会は社団法人でございます。社団法人の薬剤師会が取り上げて下さつて初めて力を得るわけでございます。それは社団法人日本薬剤師会が正式のルートにのせ政府と交渉して下さることによって、法治国日本で初めて話題となる仕組みになっているからでございます。薬剤師会の皆々様の御理解と御協力を御願いする次第です。

 次は生涯学習のことでございます。
 自分は偉いと思い、既ち増上慢で人生を送っている薬剤師は皆無と思います。そしてそうであればその人は最早や周囲の人々の魅力は無くなっているでしょう。頭痛薬が無くなったので買っておこう、何処で買い求めるかなと御客が意志決定をするには、いろいろのファクターがあるでしょう。一寸具合が悪い、あの薬剤師さんに相談してみようという場合、自分の心、自分の知識を満たしてくれる薬剤師の所へ足を向けるのが人情であります。もしそんな薬剤師の存在は稀というのでは、地域の方々の薬剤師に対する認識は高まらないのではないでしょうか。それを解決するためには弛まざる努力が必要です。その効果は一朝一タには現われるものではございません。

 百三才になっても彫り続けられた北村西望氏は、「たゆまざる 歩みおそろし カタツムリ」という句を作っておられますが、一作一作に新らしさと進歩を楽しみ努力をなさっておられます。

 薬剤師同志日々仲良く、励まし合い、薬剤師職能を向上させることこそ医療従事者又、地域医療担当者としての義務ではないでしょうか。

 薬事春秋 「医療の変革」 九大病院薬剤部 部長 青山敏信 昭和63年1月25日

 厚生省は、昭和62年1月14日 医療費適正化対策本部を強力に推進するため、幸田事務次官を長とする「国民医療総合対策本部」を設置した。その中間答申が6月に出された。

 第1部に、国民医療の現状と今後の方向、第2部に、良質で効果的な国民医療をめぎして(老人医療の今後のあり方、長期入院の是正)、第3部に、大学病院における医療と研修の見直し、第4部に、患者サービス等の向上、第5部に、今後の検討事項となっている。

 21世紀を控えて「患者はモノではない」との読売新聞(昭和62年1月16日)の記事に端を発し、患者中心の医療、医療サービスの量から質への転換が急速に進んでくると思われる。

 九大病院でも、総合外来が設置され、これまで外来患者の他科診察は、次回の診察日にしか受診できなかったが、関連する診察科の受診はその日に受けられるようになった。また、夕食の配膳時開も1時間繰下げられたり、食器もプラスチック容器から家庭料理の感じのする強化ガラス容器への変更、さらに、これまで冷たかった副食を暖かくするなど検討されている。周囲がこのように変化していくと薬剤部はどのように対処すべきか考えねばならない。

 高齢化社会を迎えて、一病息災あるいは二病息災の時代になってくると患者は自已の疾病、治療について大きな関心をもってくる。有効で安全な薬物療法を行なうためには、患者自身の自覚と協力が必要になってくる。これまでの服薬指導よりはより広汎に患者へ薬の情報をいかに与えるかが大きな問題となってくると思われる。アメリカでget theanswersのキャンペーンが行なわれ、それをうけて薬剤師側はgive the answersが考えられている。

 昭和62年5月Memorial Sloan Kettering Cancer Center を訪れたところ、抗癌薬についても患者用の説明書が種々用意されていた。たとえば、ブレオマイシンについては、一般的事項、初期にみられる副作用、長期使用後にみられる副作用、裏面には副作用等医師及び薬剤師に連絡すべき事項などを記載したカードも、患者が自由にとれるところに置いてあった。

 アメリカと日本では、国民性も異なり、医療制度も異なるので、そのまま日本へ導入することは不可能かも知れない。しかし、今後の課題として充分検討しておく必要があろう。

 さらに、たとえば、前回の疾病の治療法において抗体産生が起つていないかなどの問題も考えられる。若し変な抗体産生が起っていると次回はショック等を考慮した治療法を考えねばならない。より有効で安全な治療を行なうためには、服薬歴のみならず、診断薬等も含めた巾広い治療歴が必要になってくることも考えられる。

 薬剤師も、患者の立場に立って、将来を見越した職能の充実、何を患者が期待しているのか、何をなすべきかなど充分に考えて、これからの医療に対処していかねばならないと感じている。

 薬事春秋 「新春雑考」 福岡県医薬品卸業協会 会長 城島民雄  昭和63年1月25日

 明けましておめでとうございます。皆々様お家族おそろいで、新春を迎えられましたこと大慶至極に存じます。

 さて、社会の発達につれ企業が機械化・高度化するにつれて、企業の内部組織も複雑になり細分化されております。従って企業に働く人々が、大きな機械というメカニズムの歯車的存在となり、人間としての自由と幸福が損なわれる傾向が有識者によリ危倶されております。

 私どもの会社もコンピューターが発達し、主要な数値は瞬時にわかるようになり、VANを通じてお得意先よりの受注も入るようになってまいりました。この機械化のメカニズムによる組織の発展と、これらを構成している個々の人々の自由と幸福とをどのように調和させるか、組織を通して人間としての可能性をどのように求めるかと言うことが、非常に重要な関心事になると考えます。

 また企業内における各種のマニュアルの整備は、社員の同質化(金太郎飴)を指向し、個個のパーソナルな創造性をも摘みとることになるのではないかと、反省している昨今であります。社員一人ひとりには、自己の入生設計を希望とロマンをもって組み立てるよう伝えております。

 他方、私どもに密接な関係ある医療機関におきましては、単に延命治療ではなくクオリィティ・オブ・ライフの思想が導入されようとしています。人生を豊かにし幸福な人生を送れる医療へと変化されることでしょう。小売薬業の仕事であるセルフ・ケア医療も、人々がいかに幸福な人生を送れるかに根ざした社会的使命が基盤と存じます。

 ますます世の中は多様繁雑化してまいりますが、街の科学者として又社会の指導的立場としての諸先生方の、向後のご健勝を念じ新年のご挨拶といたします。(株式会杜 ユニック)

 薬事春秋 「くすりの文化と医療用医薬品 プロモーションの倫理基準」
      藤沢薬品工業株式会社福岡支店 支店長 岩本寿郎 昭和63年1月25日

 明けましておめでとうございます。先生方におかれましては、お揃いでよいお年をお迎えの事とお慶び申し上げます。

 くすりの文化は、新しい物質の開発と古き良き物が伝承される、いわゆる「物」を中心として築き上げられます。又一面くすりに携わる方々によって育てられる部分がより大きく文化の向上に寄与するものと思っております。競争は薬業界の発展と活性化につながりますが、文化の向上に寄与するものと思っております。競争は薬業界の発展と活性化につながりますが、文化の向上には少し邪魔になることもあリましょう。

 日本製薬団体連合会では昭和58年9月「製薬企業倫理綱領」を制定しております。この中でプロモーションの倫理基準として、「会員会社は、医療担当者を対象として、医学・薬学など諸科学の進歩に応じた医薬品の適正な使用を期し、品質・有効性・安全性・使用上の注意などに関して科学的根拠に基づく正確且つ迅速な情報の伝達・収集・フィードバックを行うよう常に真摯な努力を行うべきである。

 会員会社の行うプロモーションは、いついかなる場合においても医薬品に対する信用を損なうことのないような配慮が必要である。としています。

 この為に医薬情報担当者は、正しいプロモーションを行うべく、自らの資質向上を期してたゆまぬ研讃に努めている所ですが、それにもまして先生方から一層親身なる御薫陶を陽り、これを基に「くすりの文化を育てる」と云う医薬情報担当者としての使命を果たしたいと考えておりますので宜しくお願い申し上げます。

 諸先生方の御健勝と御活躍をお祈り申し上げます。

 薬事春秋 「云いたい放題」
    国家公務員等共済組合連合会 浜の町病院 薬剤部長 豊福和登 昭和63年1月25日

 日本語の慣用語の一つに“趣昧と実益をかねた”という言葉がある。ふつうは結構なことをさす表現として使われている。しかし私にはこれは戒語と感じられる。趣昧は趣昧、遊びは遊びであるべきであって、実益を狙ってはならないのである。

 遊びに実利がまじると、それは翼のない鳥、窓のない部屋、酸素のない空気となる。にがくなり、淋しくなり、いやしくなる。欲と道づれで趣昧を持つと、それは遊びではなくなる。一文のモウケにもならないからこそ遊びは貴重なのだ。……と、作家開高健は正月元旦の新聞に寄稿している。

 小生も正にその通りであると思う。趣味はあくまでも“遊びの心”でなければならないと思うし、だからこそ欠点があってもご愛嬌として受け止められる。この欠点がなければプロになれるよと云われ、又云ってもさ程の責任も無く、又云われた本人も“なる程 ネ”と素直に耳を傾ける事が出来ると思う。

 金を貰う以上は相手を満足させるものでなければならないと思うし、それだけの心血を注いだ作品でなければならない。あまりにも現在は“安易と無責任”、“アイデア=奇抜”だけで世の中が動かされている様な気がする。

 アマ・スポーツでも現在は賞金が貰える時代となったのであるから、“実益”は当然と云えば当然の事かも知れない。しかし、アマがプロの選手と同様に金銭を口に出して請求するような事になれば、これはもはやプロと云わざるを得ない

 アマを代表する“オリンピック”も、西欧圈各国、特に東欧圈の国々の選手養成にかける意気込みは、“アマ”ではなく“プロ”の養成であると思う。その種目別により人選し三世代前までの遺伝子を調ベて、その適性をチェックすると云われる。

 それが全て国家予算で養成されるとなれば、これが果して“アマ”なのだろうか?、金メダルを取れば年金、報奨金、アパートが支給されるとなれば目の色も変わるのは仕方のない事だろうけど、小生には大いに疑問が残る。

 このような待遇を日本も採用すれば、もっともっと金メダルを取れる選手が集って来ると思われるのだが。韓国がこのような方式で充分な成果を上げているのを見ても然りである。

 やはり“趣味=アマ、実益=プロ”と解釈して、素人としての楽しみ、遊び心、ロマンと云うものを大切にしたい。素人だからこそそこに「やすらぎ」があると思う。しかしながら、私達は医薬品、即ち薬学等についてはプロである。アマには負けられない。それにはそれ相当に自己研讃をして絶対に追い抜かれない様に努力しなければならないだろうし、お互に助力し合って向上して行かねばならないと思います。

 “EAT・9・愛川欽也司会”のTV番組で出た゛キチン・キトサン″を調べて見たかったのですが、年末で忙しいと云う理由でやめました。概要はカニの甲羅が汚泥処理用凝集剤から体内消化性手術用縫合糸に至るハイテクノロジーやバイオテクノロジー用素材となりつつあるものです。

 主成分はキチンという多糖(生体高分子)で、ゲル、フィルム、繊維などに加工しやすく、この特性を生かして色々な研究が医療、農業、工業など広い分野で進んでいるそうです。多分に包接化合物:β・シクロ・デキストリンの働きと類似しているようにも思えます。まだよく小生にもくわしい事が解りませんので、九大のD・Iセンターの藤井俊志先生にお教えを願いたいと思っています

 新春より“云いたい放題”を書かせて頂きました。お許しの程をお願い致します。

 フォーラム 「老 人 の 雑 感」 博多支部 敬愛堂薬局 三根孫一
                               昭和63年1月25日

 来る年も来る年も医薬分業 医薬分業とさけびつつ特別会費、政治資金と挙出をつづけて薬剤師会に協力して来たつもりでいたら愈々処方箋が出る頃になつたら、ごく一部の人の所に集中して一般薬局には月に2、3枚しか受付けぬ有様です。努力が足りぬと言われるかも知れぬが予定はそんなつもりじやなかったのです。

 尚望みを託して夢中に成っている間に店の売上げが余り伸ばぬのに気がついた頃には市の中心地と思う商店街の薬局の隣や近所にも配置売薬の車が来て配置しているではありませんか。我々老人には配置売薬と言へば薬局もない田舎の家々を一軒一軒配置して年に一回集金に廻るのを見ていましたので現在の様に都市の密集地の薬局も何軒もあるのに配置されているのにびっくりです。配置の制度の不勉強がかくなったのでしょうか。何か打つ手はなかったものでしょうか、自分の馬鹿さ加減に復がたって仕方がありません。

 薬剤師になるには国家試験を通り、亦薬局を開設するには設備も愈々むづかしく成っているのに何だか不公平の感がします。

 其上関東地方には生協の薬品カタログ版売も出来た模様で今は一寸一時中止されているとか、然しいつ九州に上陸するかも知れぬ有様です。要心肝要です。やはりお互に情報の収集を密にしていざと言う時には我々全員が一致団結して事に当る覚悟が大事だろうと思います。薬剤師にはそれが一番むづかしい気がします。そして最初の対応が一番大事だと思われます。老人の愚痴で相済みません。謝謝。

 フォーラム 「勇気を持って」 西支部 吉田薬局下山門店 吉田 斌 昭和63年1月25日

 勇気を持って私の不満を書く。ワイフに原稿依頼が来たらしい。ワイフはいやだと言う2、000円の原稿料の為に書くのではないと言い訳しつつ書く。まず調剤薬局について書く。

 君達の代表は代議員会でここ6〜7年処方箋料の会徴集分が高い高いと1〜2円論争を県でも市でもくりかえした。その結果を君達は考えなかったのか。

 分業は自分ひとりでかちえたと考えて思い上がっているのか。君達は日薬の歴史を否定するのか。調剤基本料300円制定に対する日薬会長談話を君達は無視し、知らないふりをして権利のみを主張して私達の意見に耳をかしてくれなかった。

 その結果を君達は想像できなかったのか。君達は調剤専門薬局である。知らなかったではすまされない事を明記しておく。商組に対する会費2,000円の件についてもしかりである。ほかの市・郡はみな喜んで会の団結の為に入会し払ってくれた。福岡市はどうであろうか。今利益がないからと2,000円の金をおしむのか。

 はずかしさというものが君達にはないのか。来年年薬価は20%さがるという。いつの日か0TCもいくらか店頭にならべることもあるだろう。保険料だよと気持よく払ってくれた会員もいたことを明記しておく。権利の主張のみではじの慨念もないのか。組織の弱体化我関せずの考え方か。この件も知らなかったで逃げないでくれ。

 会費さえ払えば薬剤師会を自分達のものだと考えOTC薬局の悩みを理解しようとする思いやりも持ちあわせがないのか。もうくどくは言わない。日薬の歴史だけは読みなおし先輩達の行動だけは否定しないでほしい。

 OTC薬局(私自身)について書く。近くの薬局は敵なのか。反省してみようではないか。真の敵は明日隣りに道路をはさんだ目の前にアウトサイダーと言う形で入ってくる。これが私達の敵である。これは薬剤師会の敵であり杜会の敵である。

 世間は何も薬局通りや薬局街を望んではいない。消費者は薬に対して安さだけを望んでいるものでない。結構毛だらけ描灰だらけと無責任に考えているわけでもない。薬剤師の倫理のなさをなげいている。我々の仲間の団結力の弱さを笑っている。勉強不足を笑っている。こざかしく紳士ぶって先を読み行動を起さない気弱さを笑っている。女房、子供が明日からぐちを言いなげき悲しむのが解っていながら酒に逃げ趣味に逃げてからいばりをしている私達を笑っている。なぜ戦わないのかと笑っている。

 私達は戦おうではないか。へりくつを捨て団結しようではないか。行動しようではないか。自分自身の敵とせず、社会の敵、薬剤師会の敵として理諭武装しようではないか。

 仲間が困っている時その足をひっぱったり、一傍観者になるなさけなさだけは捨ててもらいたい。何か手助けすることがあるはずである。他人のふんどしで相撲とるアウトサイダーを撲滅しようではないか。レジャー委員会を作ってレジャーにうつつをぬかしている時ではない。レジャーの必要性もわかるが組織を強化して戦争しようではないか。武器はある。ありあまるほど武器はある。我々の業界ほど保護された業界はない。ただ立ちあがらないだけである。距離制限に負けた時我々はなげき悲しんだ。それは他の業界も一緒だ。しかし我々はすぐに立ちなおった。日薬の知恵者が試験センターという制度を考えた。

 福岡県(市)の場合トップの決断力のなさと一部の馬鹿者によっていびつなものになったがとりあえず法律は出来た。約束どおり10年で出来たこれほどの武器があろうか。運用をまちがわないでほしい。我々にはチャンスがめぐってきた。医療法の一部改正である日薬はこの幸運をものにした。貴方達はこの法律の真の目的を知っておいでだろうか。知らなかったらすぐに知るように努力されたい。

 私はその目的を知った時、日薬に感謝の気持が倍増した。これほどの武器があってなぜ立ちあがろうとしないのか。私は向う三軒両隣りに薬局が出来るのはごめんである。薬局通り、薬局街はごめんである。彼等はアウトローでありアウトサイダーである、真の敵である。我々の仲間ではない。社会の敵である。薬剤師会の敵なのである。入会金欲しさに入会させるべきではない。薬剤師倫理にかけるのである。人間性にかけるのである。我々はこのような敵にかんぜんと立ち向かおうではないか。先輩達の恩にむくいる為にも我々の生活を守る為にも後輩達に笑われない為にも団結し戦うべきは戦おうではないか。愛すべき薬剤師会を守る為に市薬会長を中心に団結しようではないか。

 商組について書く。商組理事を今回ひょんな事で県・市とも辞任する事になった。商組活動を知らない人々が福岡市にはあまりにも多いので少々説明として書こうと思う。全国組織としては再販制度、要指示薬のかん和に始まりスイッチOTC、妊娠診断薬、ピルの解禁、カタログ販売の規制、都市型配置の規制、健食と医薬品の区別、大衆薬の向上といった大きな問題が活動の基本である。

 県商組においては医薬品券の拡大、県全体の調整事業である。市の段階では調整事業が主体となる。毎月20日前後にメーカー、問屋、我々小売業代表理事の三者による研修会が行なわれている。

 市といつても福岡市を中心に五郡が入り一市五郡をもって福岡地区薬業協同組合という名弥であり約600人の会員がいる。会員は薬種商200人、薬剤師会400人であり理事は10人のいすがあるが薬剤師会員理事は山手先生、中野先生、戸田先生、私の4人である。

 戸田先生が福岡地区薬業協同組合(市)の理事長であり県の段階におけるブロック長である。又、市薬理事であり商組担当である。又、県の段階では竹尾先生が県薬からの出向という形で副理事長である。山手先生は専務であり中野先生は会計理事である。

 今度の任期いっぱいで山手先生が県も市も辞められる事になった。私も県も市も辞める事我々辞任組も出未うる限り戸田先生を助けて調整事業を手助けする覚悟は有るが一会貝として限度の有るのも事実である。戸田先生一人で一市五郡を走り回ることになるのも事実である。

 そこで会員一人一人の自覚と勉強を望む。調整事業のポイントはスピードに有る。がせねたの段階で結構である。戸田先生に電話すべきである。私の浅い経験ではあるがでおくれた場合は失敗し時間にゆとりのある場合は満足出来るものになった。すぐに部会( 薬剤師会の)をまとめ市薬なり戸田先生に電話すべきである。

 自分だけでもんもんした気持でいたら君ひとりに不利益をもたらすだけでなく地区に薬剤師会に多大の不利益をもたらす。ニュースはスピードがあってこそニュースである。この事を自覚すべきである。

 アウトサイダーを防せぎ薬の安売りをする者を正しく導くのは我々会員の義務であることを自覚してほしい。ミルク雑貨といえども原価をきって販売すればれっきとした犯罪である。それを見のがすのは会員としての自覚のなさである。チラン、DM、カタログがあればすぐに薬剤師会へ送り戸田先生へ電話すべきである。市薬は第二薬局委員会をつくり我々の要望に答えようとしているではないか。我々も協力してしっかりしたOTC委員会になってもらおうではないか。

 会費について。会費は今年より2,000円にきまった。その内500円が市に。残こり1,500円は県に行くのである。医療品券リペート5%は3%が県、2%が市に残る分であるが、市商組はすべて事務経費として市薬に納入している。そのかわり補助金として50万円もらっているが、これは中央や県に行くお金だと考えてもらってまちがいがない。

 この補助金も来年から会費をとっているのだからとけずられようとしているのが市薬の実状である。我々の予算は帳面ずらはともかくとして600×500=30万がすべてであると考えてほぼ間違いない。

 これで毎月の研修会12回と年1回の総会を行なっている。総会の案内状の切手代もなく市薬の配布物とー緒に出す為、お客は市薬より会長、専務(三没)が1〜2人、商組理事6〜7人、会員3〜4人といった総会が毎年続いている。

 この総会は商業組合の為毎年開く義務がある。600人中3〜4人ではあまりにもさびしいではないか。せめて30〜40人は集まって活発な意見が出て終りにはパーティーぐらい開きたいものではないか。会員の自覚を望む。このような状態が実状である。調剤薬局の方々よ。団結の為2,000円を出して会員になって欲しい。そして大いに意見を出して欲しい。

 そうすれば、商業組合だから経済活動は何でも出来るのである。みなさんのお手伝いもきっと出来るはずである。広い市場が有り、夢がたくさんある。団結しようではないか。ニヒルにかまえるのはよそうではないか。我々OTCもさびしいのである。大いに話しあおうではないか。

 最後に6年前の代議員予備会議で金がない、人がいないと勇気をふるって言ったことをせせら笑った人達よ。少しは反省して欲しい。今でも私は薬剤師会に対して金がない、人がいなによって明日の指導者をつくることを始めようではないか。これが私の夢である。

 あのような決断力、実行力、理解力、思いやりを持った指導者を育てようではないか。仲間が欲しいのである。これが勇気をもって私に青白い事を書かせた私の気持である。私の考え方に同調する人又は反発して意見してくれるような人、反省して友になってくれるような人、仲間が欲しいのである。私の気待を卒直に書いたのではずかしいのである。はずかしいので読み直すことなく投かんして2,000円かせがせてもらう。

 フォーラム 「薬局委員を経験して」 西支部 有馬薬局 有馬 純 昭和63年1月25日

 薬局委員になって色々な健康フェアや薬草観察会等に参加する機会を与えられ、直に市民と接触してみて多くの人が健康に並々ならぬ関心をもっていることを知りました。しかしながらこのことが薬局に対する関心と全く関係ない事がより驚きでした。

 アンケートをとりながらの雑談の中でどんな薬局が皆にとつて良い薬局か尋ねてみましたが殆んどの人が戸惑った表情で返事に窮していました。考えた事も無い問題のようです。私はその時の雰囲気から薬局は何の関心も期待もされていない事を痛切に思い知らされました。

 ただ薬を安く売ってくれさえすれば良いと思っているんでしょうか、違います。そのような人ばかりではありません。事実薬局へ行ったこともない人々が健康フェアとか薬草観察会に参加し、又健康食品業者の呼びかけに応じ、白分の薬局の前を素通りして、そして馬鹿々々しいぐらい高価な物をどんどん買っています。これらの人達はどうして薬局へ相談に来ないのでしょうか。

 我々は安売り以外に市民の足を薬局へむけさせる事はできないと思い込みすぎています。薬局が信頼されているとか、いないとかの問題以前に薬剤師という職業を良く知らない人が数多くいるという事実を認識すべきです。もうこの辺で社会が薬剤師を本当に必要としているかどうか真剣に考える時期に来ていると思います。

 薬学部不用論、薬種商の資格化、看護婦の調剤権要求等々、あっち、こっちで火の手が上っています。我々の存在理由を問われている現実を目前にしながら薬剤師の誉りを捨て乱売に狂奔し、金々の毎日を過し、お客の高いという一言に怯え、増々社会的地位を低下させています。

 このような薬局に健康の相談が出来る知識があるなんて夢にも思わないでしょう。国民は自分の健康を誰に相談したら良いか判ず、うろうろしている間に似非健康業者や似非神様に騙されて泣いています。新聞の報道をみて馬鹿な奴だと笑って看過できることではありません。何故なら薬剤師にもその責任の一端はあるからです。我々が薬剤師の職能をしっかりと機会あるごとに国民に知らせておけばこのような事態を少しでも防ぐことは出来たはずです。

 薬剤師会も対外的な色々な催しに積極的に参加し、会員も薬剤師会が何かしてくれる事をただ持つのではなく、会の呼びかけに積極的に応じて市民との触れ会いの場を多く持ち、薬剤師の職能を宣伝して下さい。

 公の催しの場には薬局へ行ったことのない人がかなりの数にのぼります。それにこのような場所は利害が介在しない分だけお互いに素直になれて自分の持っている知識を十分に発揮できます。会員の皆様の色々な行事への参加を期待します。人が足りなくて困っています。

 最後に、人の不幸を糧とする職業は儲けようと思ったらいけないと思います。無欲で話した結果はお客様次第ということです。

 フォーラム 「みんなの会報」 博多支部 千鳥橋薬局 山口利英 昭和63年1月25日

 薬剤師仲間が集まると必ず話題になるのは、「薬剤師の将来はどうなるか」です。具体的には『医薬分業はすすむのか』『薬局経営は』『今の薬局の姿でよいのか』等そこには真剣に薬剤師としての悩みがあり、それをどう解決すればよいのか模索している姿があります。そして次は薬剤師会はどう考えているのだろうか、どう対応しようとしているのかと。

 私が最近、多少薬剤師会に関わっていることもあって「どう思う」と鉾先がこちらに向いてきます。本当にみんな薬剤師会に期待しているのだなと思います。と同時に薬剤師会の活動などがみんなの中まで十分に浸透していないようにも思われます。到底みんなが聞きたがっていることに十分こたえることはできません。ただ今は薬剤師会の会議にでる機会が少しは多く、そこでいろいろ教えて貰ったことを精一杯話すだけです。それでも熱心にきいて貰えます。千代吉塚の部会には県薬専務の荒巻先生がおられますので部会の中で今日の医療情勢や薬剤師会の活動について直接部会員が聞けるのはとても幸せなことです。

 以前、会の活動に直接関わっていなかった時は、県薬や市薬の代議員会を傍聴させてもらっていました。そこでは今薬剤師が直面している課題や問題について報告や論議がされ方向性が示されます。それは私にとって薬剤師会と直接触れるものであったし、会の活勣を理解する上にも大いに役立ちました。一度ぜひ代議員ではない会員さんも傍聴されたら如何でしょうか。

 代議員会の傍聴や総会へ出席すればある程度のことは分かると思われますが、実際は一般会員の参加者は少ないようです。これはそれらの会議への興昧がないのではなく出席したくても店があるのでできない会員さんも多いと思います。またそうした会員さん程会への信頼と期待は大きいのです。そういう会員さんのためにも会報等で会議内容の報告があったらなぁ一と思っています。

 私にとって日薬の活動を知る機会は日薬雑誌でありその中で「理事会議事要旨」「代議員会議事録」は非常に興味深く読んでいます。実にリアルに会議の雰囲気を感じさせてくれます。このような報告が載った会報ができたらなぁ一とおもっています。しかし実際は大変な作業で現実的には無理かも知れません。

 昨年広報部が拡充され会報・広報が充実されてきたことを大変嬉しくおもっています。会と各会員を確実に結びつける会報・広報が今以上の太いパイプになることを望んでいます。

 フォーラム 「出  会  い」 東支部 加藤薬局 加藤正剛 昭和63年1月25日

 私が和白に薬局を開設して来年の2月で早や3年の月日が経とうとしています。

 初めての薬局経営で、手探り状態で今日まできました。薬局開設にあたり、当時東支部の支部長をされていた礒田先生を尋ね、いろいろ御指導を頂き、又、近所の諸先輩方、又大学の大先輩でもある井原先生や、正岡先生にもいろいろな事を教えて頂きました。

 ともすれば仕事上、内にこもって閉鎖的になるところでしたが、和白部会長、又、薬局委員、市の代議員etcいろいろな仕事を与えられ、初めは不安で、恐る恐る参加していましたが、その役目役目でたくさんの方々にお目にかかれました。

 薬局委員会も初め何が何だかわかりませんでしたが、回数を重ね、薬草観察会他、いろいろな行事を共にするにつれ親しくして頂く人達が増えてゆく事が楽しみとなりました。

 又、東支部の報告会に初めて参加した時、大学の同期生の藤野哲朗君とも偶然に約10年ぶりの再会をしました。この薬剤師会の先輩の藤野先生にも学校薬剤師、又急患センター登録など、いろいろな活動を教えてもらいました。

 とにかく、この3年間自分の店の事だけで一人よがりな仕事をし、世間が狭くなりそうなところを、礒田先生はじめ、諸先輩方の御指導で、外にも目が向けられすてきな方々とも知り合えて大変有意義でありました。

 皆様方に紙面を借りてお礼を申し上げると共に今後共末永くおつき合いの程宜敷くお願い致します。

 さて薬局を開設する迄の私は、科研製薬というメーカーにおりまして9年間プロパーをやっておりました。

 これだけの間御世話になったら、愛社精神がしみつく様で、今だにというか、今からもずっとエールを送りつづけるだろうと思います。仕事は、大分で6年、熊本で3年営業活動をしてきました。仕事柄いろいろなドクターに接してきましたが、何百人ものお医者様に会うと本当に様々な性格の先生方がおられました。

 大分、熊本各県にそれぞれ今でもお付き合いして頂いているドクターが4、5人づついらっしやいます。

 病院の忘年会のおさそいが今だにあったり、一度お祝事があった時などは、わざわざ「お祝いだ。!」と言って阿蘇から福岡まで来て頂き、感激した事がありました。

 これらの先生方に共通して言えるのは、上っ面の付き合いではなく奥さん、子供さんを含め家庭の中まで入り込んだお付き合いをしていた方々という事です。

 他に問屋さんの気の合う友人達や、他のメーカーのプロパー仲間たち、営業をしていたら人との出会いの機会は名剌のやりとりから始まり、本当に広がってゆきます。

 今まで述べてきた人達とのつながりは私にとって大事なものです。今にして思えば本当に自分一人ではなく、たて、横、人と人との有機的なつながりで生きているんだなと実感として思っています。

 これからも人との出会いを大切にしてゆきたいと思っています。

 随筆シリーズ 「家庭の薬草たち」 東支部 柴田薬局 柴 田伊津郎 昭和63年1月25日

 わが家の裏に30坪足らずの空地がある。私はここに手当り次第に各種の薬草を植えている。ほとんどのものが1〜2株だが、中にはゲンノショウコやドクダミのようにはびこって困るものもある。

 もともと町なかの空地のことで日当りがあまりよくないので、殖えもせず枯れもせずというものが多いが、けっこう楽しみなものである。メモをたどりながら2〜3まとめてみた。

 1.オタネニンジン(朝鮮人参)とトチバニ ンジン(竹節人参)

 数年前からオタネニンジンの苗を取り寄せて植えてみたがなかなか都合よく育たない。あきらめていたら60年春植えたものが1粒だけ実をつけた。そこでこれを採種して、やはり自家産のトチバニンジンの種子2粒と同時に60年秋とり播きしてみた。

 まったくささやかな試みであったが、幸い翌61年春全部発芽した。地上部はほとんど区別がつかないくらい似ているが、根は全然違うはずである。これを確かめるため62年の春堀り出して撮ったのが写真@である。

 写真Aは62年秋の状態で、オタネニンジンはだいぶ大きくなっているがトチバニンジンはあまり変っていない。これからどうなるか楽しみである。

 2.カラスビシャク(半夏)

 畑地の強害草として農家のきらわれものだというが、福岡近郊ではあまり見かけない。わが家のカラスビシャクはいつ採集したものか覚えていないが、だいぶ繁殖している。それが62年9月、初めて果実をつけた。今まで30年近く見てきたものだが、実を見たのはこれが初めてのことである。

 日本雑草図説には果実の図があるが、他の本でこの実のことを記載したものがないので気がついた時は半信半疑だった。

 写真を撮って早速播いてみた。全部発芽して幼芽が出そろったのを見てやっと納得したものである。

 3.ウイキョウ(茴香)

 比較的日当りのよい所に1株だけだがウイキョウがある。茴香には開業当時の思い出があって特に懐かしい。私が開業したのは昭和22年で、当時は薬品も少く、旧軍の放出物資や進駐軍のものか密輸ものなどが出廻って、私どものところにも薬品試験の依頼が多かったものである。サントニン・サルファ剤・メチルアルコールなどから検便検尿、変ったところでは精液の検査まで持ち込まれたこともあった。

 その頃開業医からアンモニア茴香精が手に入らぬかと頼まれたが、まったく入手の見込みがない。何とかならぬかとの強いての頼みで自分で作ることを考えたが茴香油がない。しかたがないので薬草店から茴香を買ってきて、これを水蒸気蒸溜して油をとることにした。その時の油の一部がガラス管に入って、今でも試験室のどこかにあるはずである。わが家のウイキョウは今、切株から青々とした新芽を伸ばしている。

 4.サンシュユ(山茱?)とサンショウ(山椒)

 ある書物に「ひえつき節の庭のサンシュの木はサンシュユのことだ」とあったが、これは間違いでサンショウが正しい。植木屋さんはサンシュユのことを「さんしゅう」といっているので、これが間違いのもとかも知れない。

 木村雄四郎先生は、剪花翁伝前編に「木に雌雄あり、雌花の花いと勝るなり」という文を引用してサンシュユは雌雄異株だと書いておられるが、特に雌雄異株としたものは見当たらない。わが家のサンシュユも1本だけが毎年結実している。

 サンショウは雌雄異株に間違いはないはずであるが、わが家のサンショウは1本だけなのにこれも毎年実がなる。町のなかなので雄本が近くにあるとも思えないのに実がなる。今はやりの未婚の母というわけでもあるまいが、何とも理解に苦しむことである。

 随筆シリーズ 「気 分 転 換」 東支部長 和白薬局 井原俊一 昭和63年1月25日

 大阪での或る研修会を終え会場の玄関を出るや、快晴の午の刺すような陽光が全身に振りかかってきた。誘われるともなく、このまま一直線に帰福するのは借しいと。気分転換をしたい。

 フッと帰途の沿線添いにある倉敷の「大原美術館」が浮び上った。この思い付きに囲りの2人の先生が賛同され、3人で立寄ることになった。お2人の先生は博多直行の特急券が無駄になります。然し乍ら、薬局の店頭で齷齪の毎日を考えるとその無駄も理解できます。仕事柄文化系的な気分転換が必要なんです。

 新倉敷駅で下車、車で30分程で大原美術館に着く。堀割りと柳と白壁の町並みの中に土蔵造り風の美術館が見えます。吸い込まれるように中に入るや、名画の洪水に射たれた。セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ、コロー、シスレー、モネなど馴染み深い後期印象派の絵画に圧倒される。更にカンディンスキー、ブュッフエ(自分が一番好き)、ルドンなど近代派の絵に又感動する。

 別棟へ巡くと、棟方志功の強烈な墨絵も圧感。その他ピカソ、ロートレック、ドラクロワ、黒田清輝、マネの「横笛を吹く少年」など挙げたら切が無い。丁度20年前、パリに行った時、独りでメトロに乗って探し出して観た「パリ印象派美術館」を思い出した。

 確かコンコルド広場の一隈にあったと思う。隅然先日の新聞でこの美術館は崩されるとか。ルーブルの陰に隠れて消されるのかと思うと平家物語である。

 つまり「人の世の無情」。我が零細薬局も年々陰に隠れていって平家物語にならないかなと危惧する昨今であります。なんとか消されずにズーと薬剤師会々員でありたいものです。

 帰りの貪敷駅にてO先生勧めの「ままかり」という郷土みやげを買った。ままを隣りにまで借りに行く程おいしいの意味で面白い。そんな1日を終えて帰宅した。が閉店までの僅かな30分間もう薬局の店頭に立っていました。

 何という貧乏性なのだろうか、欲深いというのか。薬剤師職能ってこんなものでのでしょうか。たった今気分転換してきたところなのに。この習性とその矛盾さ。故に気分転換が必要だと………。How to Change of feeling。

 随筆シリーズ 「考えてから歩きだす」 中央支部 竃局白十字 白木太一郎
                                昭和63年1月25日

   青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたを言う。
   ……年を重ねただけで人は老いない。
   理想を失うとき初めて老いる。……

 これは、サムエル・ウルマンの「青春」という詩の一節である。

 ―昨年の秋、宇野収・作山宗久著「『青春』という名の詩」が出版されて、ベストセラーになった。この詩は、それ以前にも、あちこちでしばしば引用されていたが、作者のサムエル・ウルマンについては、詳しいことがわかっていなかった。この本は、幻の詩人サムエル・ウルマン(1840〜1924)の実像の解明に情熱を傾けたビジネスマンの作品である。

 私にとって、人生の一時期としての青春は、とっくに過ぎてしまったが、心の持ちかたでは、情熱を失わずに「青春」を持続したいと願っている。

   イギりス人は歩きながら考える。
   フランス人は考えた後で走りだす。
   そしてスペイン人は、走ってしまった後で考える。………
   ……これに型どっていったら、我々日本人は一体どういうことに
   なるだろう。……

 上記の文章は、笠信太郎著「ものの見方について」の冒頭の一節である。これにやどっていったら、私は、「考えた後で歩きだす」タイプではないかと思う。これは自分の性格に由来する部分が多いと思うが、いつもこのパターンではうまく行かないこともあるのでT.P.0.に応じて他のパターンに変えることができる柔軟さが大切だと考えている。

 以上は、最近、本を読んで考えたことのー端である。

 随筆シリーズ 「家 庭 菜 園」 南支部 有田薬局 有田悛雄 昭和63年1月25日

 薬局でよく野菜を食べなさい、野菜を食べる量が少ないとお客さんには云っているが、一つ自分も野菜を作って見ようと思いたって、日当りの良い空地十坪程に野菜作りを始めました。

 野菜の生育する条件は、先づ土質のP.H.が中性を保つ事を理想とします。人間も体質が中性であれば病気をしないと聞きますが、土質もP.H.が酸性に傾けば肥料をあたえても吸収し難く発育が悪い、それで消石灰を混ぜて耕し中和します。

 近頃酸性雨とかで耕地も酸性に傾いていると聞きます。次は日光、温度、水が植物に必要な三大条件です。それに窒素、燐酸、カリの無機肥料と堆肥の有機肥料を買って来て、先づ土地を耕す時堆肥を入れ込み後野菜の生育につれて無機配合肥料を少量づつ与えます。肥料の与え方も栄養過剰にならぬ様又少な過ぎぬ様適量を与えるのが「こつ」です。

 春、秋には春菊、人参、さやえんどう、かつを菜、ねぎ、ブロッコリー、等割合病虫害に強いのを選んで哉培します。

 我々少年時代は春菊、人参には青虫や夜盗虫は仝く見かけなかったが今は何処からとなくやって来てせっせと青菜を喰い込んだり、人参の茎を噛切って土中に隠れています。虫も農薬との闘いや自分の生活圈の拡大に一生懸命生きている様です。

 春先、さやえんどうの芽が出て間もなく、油虫等の虫卵が芽に一杯付着しているが蟻が何処からともなくやって来て畠の一遇に巣を作リ、そこから続々と隊列をなして新芽の虫卵や虫を自分達の巣に運んで野菜の生育に手助けしています。自然の摂理と云おうか全くよく出来たものです。

 近頃の店先に並んでいる、パック入りの野菜は外国からの輸入品やビニ−ル哉培の品物で見かけは良いがパックを開けるとすぐ萎びてしまう。四季に合った自家菜園の野菜は3、4日放置していてもシャンと青々して味、香りも大分違う様です。消費者も石油文明にどっぷり漬った見かけの良い野菜にとらわれず少しは虫喰いの入った野菜を買う様に心掛けると農薬害から或程度守れるのではないかと思います。

 野菜が生育して少しづつ食卓にのせて食べるのも楽しみの一つです。

  随筆シリーズ 「柿の蒂としやっくり」 寺沢内科病院薬局 蛯原菊子
                              昭和63年1月25日

 約6年前、死を間近かにした腹部の癌患者として、夫は九大病院に入院していた。ベッドに伏したまま、もう起き上ることも出来ない頃であったが、こういう状況の時、夫は、しゃっくりに襲われた。

 健康体と違い、体力が極度に衰え、まさにマイナスのエネルギーを使って生きている様な状態で、側で見ていても、このしゃっくりはとてもきつそうであった。お医者様に、どうにかならないでしょうかと訴えると、精神安定剤を注射して眠らせるしかない様で、眼が覚めると、又始る。

 漢方に詳しい方なら打つ手をすぐ打ったであろうが、私としては一足遅れて、以前読んだ大塚敬節先生の本のことを思い出した。

 かつて、吉田茂首相の主治医であった馬場辰二先生は「今の医者は、しゃっくり一つなおせない。」と大塚先生に語られたそうである。吉田首相が、四国に滞在した時、しゃっくりが出てどうしても止らず、土佐の名医達もなおせず、馬場先生が飛行機で四国に飛んで行き、漢方薬により一日で治して帰って来られたと書いてあった。

 この時の漢方は「甘草浮心湯加陳皮」てあったそうである。遅ればせながら、このことを思い出し九大病院近くの薬草店に飛んで行ったら、柿蒂湯をすすめてくれ、取りあえず柿の蒂だけを煎じて飲ませることになった。

 この柿の蒂の劇的効果は、忘れることが出来ない。煎液を口に含んで、ごくんと喉を通過しただけで、ピタリとしゃっくリが止ったのである。現代医学でも、こんな効き方をするものはそうないのではないかと思う。

 「まるでまんがみたいだね」と今は忘き夫は云った。もう少しつけ加えると、数時間経つと又起り何回か飲んでいる中に、出なくなったのである。こういう劇的な出会いで漢方に入られる方も多いとのことである。

 それにしても、しゃっくりなど、そう度々おこるものでもないのに、よくもその昔、柿の蒂としゃっくりが出会ったものと唯感心する。

 随筆シリーズ 「長寿法についての一考察」 中央支部 調剤薬局マイヅル 平島公彦
                                 昭和63年1月25日

 年齢に応じた生理的な若さ以上に、体の状態を保持することにより、老化を防止し、さら、より若返ることによって天寿を延ばそうとする手段である長寿法について、現在ではまだ体系的な方法をなしてはいません。

 しかし老化防止、生命延長は近来〈老人学〉の課題となっています。一般にあらゆる疾病の予防および治療が天寿を全うするための前提ですので近代医学も大きな役割を果たしているわけです。

 脂肪食の制限とビタミンの補給が老化防止にある程度役立つことは確かなことです。またメチニコフのヨーグルト飲用療法は歴史的に有名です。内分泌等ホルモンと老化との関係。それに肝機能が低下すると老化が進むことが認められています。驚くことは、現在の人類が自然のあるべき若さよりもずっと早老しているという報告です。自律神経系のストレス等が老化に影響していることは否定できないことです。

 平均寿命は確かに伸びていますが、肉体の老化という問題は何ら解決されてないのです。漢方の話しで恐縮ですが、古代中国において老化はどのように取らえられていたのかと言いますと、傷寒論序文中には、人は百年の寿命を持っているというのに、その身体を大事にせず、寿命を短かくしているとあり、また黄帝内経素問の陰陽応象大論中において岐伯が弟子の黄帝に次の様に答えてます。

 七損八益ということがありますが、それはつまり人は年をとるにつれて陽を損じやすく陰が盛んになりやすいという理をよく心得て陽気を損じないように注意することであります。そうすることにより陰陽の調和がとれるのです。このことを守らないと身体は早く老衰してしまうことになります。

 智者はこのことをよく心得て陰陽が調和した養生法に従って生活するのですが、愚者は寿命なんてものはそれぞれ個人差があるのだから養生法を守ろうと守るまいと死ぬ時は死ぬのだとばかり不摂生な生活を致しますので早く老いぼれるのであります。

 すなわち愚者は陽気を使い果たしてしまうものであり、智者は陽気を温存しているものであります。陽気があり余まる程充分にありますと耳や目もはっきりとし身体も軽く強靫でありますし、年老いても壮年のように若々しく、壮年の者はますます調子よく生活できるものであります。

 聖人といわれる人は、すべて物事をなすのに無理をせず、故意にせず、ただ無為の行ないをして、安らかな生活態度を楽しみ、有無相対を超越した境地に立って思いのままに行動致しますので寿命は尽きることがないのであります。また上古天真論中、黄帝が師の岐伯に質問するくだりに、大昔の人々は年をとって百才を越えても、まだその動作が衰えるようなことがなかったと聞いている。

 ところが今どきの人々を見ると50才にもなればもうよぼよぼしている。なぜこのようなことになったのかと。これに対して、岐伯が答えるには、大昔の人々の中で養生の道理をわきまえた者は天文暦数を心得て、春夏秋冬の天の気に調和し、飲食に節度があり、起き臥しにきまりをつけ、みだりに心身を過労させることがないというようなわけで、肉体も精神もともども調和がとれ、そのため百年の寿命を全うすることができたのだと。

 そして大昔の聖人と呼ばれる方々が人々をよく教育し、そのため社会は円満に治まり、人々の心根は真に素朴であり得た。このような社会だと人間としてのあるべき心得を全うすることができたので肉体の方もそれに従って安泰であったのだと。

 以上の様なことを現代と比較すると現代社会において老化せずに百才という寿命を全うするなど不可能であり、また人類の早老化現象に歯止めなどかけれないよう感じてしまいます。天文暦数など心得がないので、春夏秋冬の天の気に調和せず、飲食に節度なく、起き臥しにきまりなく、みだりに心身を過労させているような私には、長寿法を語る資格などないなと思いながらも、老化してしまってから老化防止を考えるというのは、のどが渇いてたまらなくなってから井戸を掘るようなものですから、やはり自分自身気をつけなければと感じるしだいです。

 随筆シリーズ 「無農薬野菜づくりの楽しみ」 東支部 高美台薬局 藤野チトミ
                              昭和63年1月25日

 数年前より近くの農家から10坪ほどの畑を貸り、趣昧と実益(?)を兼ねて、野菜を作っています。

 子供達には出来るだけ無農薬に近いものをと思い、夜は懐中電灯を持って、夜盗虫退治に行く事もしばしばです。大根、人参、キュウリ、トマト等は、無農薬でもどうにか出来ますが、白菜だけは特別で、4、5日も間を置いて行ってみると、ひどいものはレース状になっています。それで白菜には2回までは「仕方なし」とマラソンを使っています。昨年は暖かかったからでしょうか、11月の中頃までモンシロチョウが飛び廻っていました。割箸片手にせっせと青虫をつまんでいる私の廻りをです。

 娘にはかわいいチョウチョウも私にとっては憎いただの虫なのです。

 先日、採れたてのホウレン草を夕食に出すと茎をつまんで、娘「これなぁに?」、私「ホウレン草よ」、娘「けど葉っぱがないじゃん?」、私「葉っぱは虫が食べたんよ、けど良一よく見て、少しはあるはずよ」、娘「ヘー?」。ほとんど茎ばかりのホウレン草でも、味はとても良いのです。

 夏のトマト、キュウリにしても曲ったり、見た目は悪くても本当の味がします。甘みがあります。子供の頃丸かじりしたあのトマトの味がします。

 私の団地でも「滅農薬野菜を食卓に。!」と生産者と契約しているグループもあります。市販のものよりだいぶ高いそうですが、私は自分で作ってみて、労力や有機肥料の施し等からすれば「決して高くはないよ」と話しています。

 昨年の夏は雨が多く、水やりは楽でしたが、雑草との戦いでした。日中は暑いので、早朝か夕方に行くのですが藪蚊の襲来です。虫よけスプレーをしていても、ズボンの上からでも剌され、かぶれ易い私には重労働です。それでも土いじりが大好きで、畑に出ると、 ストレスもふっ飛び、何も忘れてもくもくと草をとり、土を堀り起しています。

 友人や、近所の人に差し上げて「おいしかったよ」と言われるのがまた嬉しくてたまらないのです。

 つい最近聞いた事で、消毒に薬品を使わずタバコや、トウガラシを水に溶かして、かけても効果があるそうで、今年は是非試してみようと思っています。

 趣味・紀行 「中国璃江下り」 福岡市薬師会 顧門 冨永泰資 昭和63年1月25日

 突然中国広州・桂林3泊4日の旅に誘われた。10月22日12時福岡国際空港を中国民航臨時便にて出発、飛行機はソ運製と聞き何となく不安を感じ今まで利用もしなかつた海外旅行保険にもはいった。

 更に晩酌用に日本酒のパック入りを買い求め機上の人となる。左に雲仙岳を眺め眼下に人影もない石炭繰上げ塔の寂しい姿の高島を見る長崎まわりにて東支那海に出る。出るまでは視界良好なるも海上に出るや雲又雲にて視界零、何もすることなし、旅行パンフにより両市の知識を頭に入れる。途中上海経由と間き興昧を持ち街様を期待する。

 と同時に頭に浮ぶのは上海事変、地元ゆかりの爆弾三勇士のこと、戦後40年を過ぎても思い出す戦争のことにわれながら驚くと共にわが年令を感ず。

 雲上を飛ぶこと3時間高度が下がり眼下に広大な平野出現、添乗員は広州近きをしらせる。高度下降するにつれ平野の広大さに驚く、約1時間後広州飛行場に着陸、添乗員の後に続いてバスまで500m程歩く。

 場外は整備中、トラック、タクシーは整然と一方通行にて運行、クラクションは時析り鳴る位にて静か。然し人々にてノロノロ歩き、着陸第一印象としては静かで人懐っこく、優しく、おっとりとした動じない国民性と感ず。かつて韓国に旅した時の人を射る様な、日本人を憎むような、日本を追い越せという様な鋭い視線でないことに先ず安心する。

 普通送迎バスに乗り市内へ出発、一歩広場を出ると歩道付上下二車線の道路は車と自転車で全く埋りバスの進行は遅々として進まず、真夏の3号、202号線そのもの、それにしても自転車の多いこと、砂糖の山に進む蟻の群れの如し、それでも殆んどクラクションは鳴らずゆっくりと左右の田園を眺めることが出来た。山は遥か彼方に低く見える、又手前は広莫たる農地、点々と野菜の姿が見える。

 町に近ずくにつれてその様は増え撒水機も活動して人の活力を感じる。家屋は石、煉瓦、土の2、3階建てで何とも粗末に見える。やがて市街地、道路上下2、3車線高架自動車も縦横に走ってはいるものの、専用道以外は舗装も悪い。その道路を進むこと2時間位にて飯店のある中心街に入る。

 2車線は車で埋り歩道は店舗兼用住宅の軒下、人々々とても急ぎ足にては進めない。飯店までの歩道脇は各種店舗、近代的な貴金属、衣類店が点々とあれど殆んど庶民の胃袋の店。

 中でも北京ダックといわれるアヒルの頭口つき首が何百となく店頭に下リ、又煥製の肉類各種が所狭しと列べられそれに群る買物客、然し悠調な手秤りによる商取引に驚いたり感心したり、その人混みの中を添乗員を見失なわない様急ぎ足に追い飯店に辿り着く、何と間口5m位、少しは明るく飯店らしき入口の構え、一歩中に踏み込むと表の通りとは問題にならぬ人の多きこと、3階奥の間と告げられそこに着くのに又一苦労、何と入口は5mのこの飯店。

 中は岩田屋の半分位の面積、中央に吹抜がありその周囲に大小の部屋、その部屋は全室満員の大混雑、3階のわが食堂に分け入る。「食は広州にあり」との言葉を胸に秘め料理を待つ。一寸物たりない味のビールを一気に一杯飲みほす。出て来た料理は期待したダックの頭でも豚足でもない日本で食べなれたギョウザ、焼そば等々極普通の見なれたもの、ところがだ味が全く違う。

 小生が家庭で常に求めている自然の味、調昧料の入っていないサラッとしたウマミ、言葉では表わせないウマミ、しかも小生が好む食塩も不用の調和のとれたウマミ、日本の支那料理の如きシツコイ味がないサラッとしたウマミ、さすが「食は広州にあり」だと感じ入り今日にかぎってビールは2杯でストップ、ただ賞味するのみ。

 次々に入る客の為飯店を出てホテルヘ、既に9時、夜景は都心部とは思えぬ暗さ、それでも人は多い。30数階建のホテルに入りパック酒に爛をつけ持参の肴にて第一夜を宿す。

 第2日6時起床窓外には既に勤務の人の足速やな姿と自転車の列、住宅、店舗の外観に比しこの中心地にあるホテルの豪華なこと、3ホテル共に30階以上並立す。昨夕食と全く同味のカユを主体の朝食をホテルにて摂り9時市内観光に出る。

 人と自転車を分ける様にしてバスは進む。ここにも孫文の中山記念堂あり、昨年行きし台北にもあればなり、三民主義の孫文の思想は中国、台湾共に信捧せる思想でありこの孫文と最も関係深きはわが福岡でありたるが故に進藤前市長が広州を姉妹都市に選ばれたのかと納得す。

 それにしても新聞連載の三国史を読んでも中国の革命はこの地広州又はこの周辺に全て端を発している様なり、古今を通し革命の素地があるものと思われる。その他数ケ所を見物し夕4時桂林に向う、50分の飛行にて桂林着。

 遠く周囲に林立する尖塔の山影を夕暮の薄日に眺め先ず驚く、走ること1時間半にてホテルに着く。ここは広州のホテルと違って粗末にして周囲はただ畑ばかり、桂林市内まではタクシーにて4、50分の何もない田畑の中の一軒屋なり。夕食も広州とは雲泥の差、海より遠き為川魚一どじょう?のつくだ煮の様なもの、少々疲れたる為明日の璃江下りに備え早く床に就く。

 第3日愈々目的の璃江下り、広莫たる大地に流れる璃江の上流を更に古いバスにて楊堤乗船場へ、10時頃乗船、既に米国人10数人先客あり、200 m 位の川巾の流れてもような清流にタグボートに曳かれて動き出す。

 陽朔まで約4時間川面の冷たい風を興奮の頬に気持よく受けながら時に船腹をこする様な浅瀬を迂廻し清流とはいえ底も見えない深渕を悠々と下る。その両岸遠く近くあの山水墨書に出て未るトンガリ山が重々とかさなり時に眼前に迫り又遠くかすみ、カロヤンハイ、加美の素の宣伝写真そのままに眼前左右に開けり。

 その両岸所々に人家人影あり牛、ヤギの放牧、電気も通じてないと思われる岸壁の一本道を天拝を措ぎ又オンボロ自転車を石コロ道と遠目にも見える左右にブレて1人2人と通つている。

 自転車はあれど原始生活そのものの様なり。船中中食は先ずスッポンの血の老酒割り小コップ1杯2元、まず之を飲む。そしてスッポンスープ、初めてのスープなり如何なる味やらんと思いきや広州でのスープに劣らぬ美味なり。途中仕入れたと思われる川エ ビの油揚げ等々船尾で川水で洗っての野戦料理そのもの。

 ビールで腹を満たしまずいご飯は少々とす、約4時間この大古海底隆起によって出来たと云われるこの奇山、奇景に眼を見張り、又周囲の未開に驚きつつ陽朔につく。ここは可成りの町なれど所謂香港で経験する千円の長子が下舟と同時取囲む。おちおちと買物も出未ない状況。

 又果物以外は買うものなし。やっとの思いでバスに乗りたれど胸のボールペンを失敬される。帰りは璃江も見えない別の道を一路桂林空港へ。璃江は南に下って香港・マカオ間に流れる珠江となる由。

 それにしても珠江の黄水とは全く違った清水に桂林の町と水墨圃の良さを感じ夕陽を背にして再び広州に。ホテルの近くの免税店といわれる店をのぞくも何も買うものなし、筆と水墨画を少々土産に求む。全て日本円40円=1元にて事足れり、出発時ドルに替えたことがくやまれる。何故なれば買うものなく又円の方が使い易い為なり。明朝6時ホテル出発なる為早寝する。

 4日目5時半起床6時にホテル出発、空港へ早朝の為にスムーズに車は走る。空港は既に大混雑。ロビーに入る手続を終り9時頃出発帰途に、2時頃無事福岡に着陸ホット安心する。

 広州と福岡の関係、孫文の偉大さと福岡玄洋社との関係の深さを改めて感銘深く体験すると共に現代中国が戦後40年を経た今日未だ昭和初期の日本の生活の中に極一部近代日本が存する様な過去と現代の混在を感じる。

 今日ではテレビにて中国秘境、シルクロード等を見るが全くその画面そのままの所に突然福岡の現代の一部が出現した様な感じなり。然し史蹟を見学するに庶民の生活とは全く想像もつかない圧倒される文化を有する国であり国民の偉大さを痛惑する。

 外見が古今混在を実感すると共に生活も又同様、月給一公務員が平均70元一日本円で3,000円〜3,500円一これは私の初任給と同じで約50年前の生活である。年収1万元を目標に全国民が努力し夢見ているのが現在の中国とか、とても現在日本では想像もつかないことではないか。

 自転車が庶民の重要な交通機具であり戦後われわれが博多まで商品仕入に走っていた頃を思い出し懐しくも又今日の日本の有難さを痛感し、よくもこれまで敗戦国日本が発展したものと日本人の偉大さにも又驚きを感じる。

 彼地に足を踏入れて先ず戦後を思い出し、広大な土地と地形そして人々々の群を見て先の戦争の無謀さと彼国の偉大さを痛感すると共に平和の尊さを実感す。過去外国旅行も何度かして来たるも今回程平和の尊さを実感した旅はなかった思いなり。景色も偉大なれどもその国民性、底知れぬ中国の国力、未来への大いなる期待の持てる夢ある国中国の旅再度の機会を夢見て筆を置きます。

  「に わ か」 博多支部 千代薬局 須原勇助 昭和63年1月25日

 お宮の内職

 比のごろは、円高不況で、お宮の御賽銭も上りが少うなって、困まって来たもんじゃけん、どこのお宮でも内職ば始めさっしやったげなが、何ばさっしゃるとじゃろうかい、聞いて回って見てもう。

 先づ一番に、箱崎様に行って何ば始めさっしゃったって、尋ねた所が、私の所は昔から幸福の神様じゃけん、結婚式場ば始めたって云はっしゃった。皆な幸福じゃろうかって聞いた所が、そらあ幸福幸福(敵國降伏)にきまっとる。

 次は宮地獄神社に参いって聞いた所が、大工さんばはじめさっしゃったげな。道具やら無かろうもんて云うた所が心配はいらん、鋸=(残の島)もありゃ、那た(奈多)もあるって云はっしゃった。

 今度は櫛田神杜に行って、聞いた所が私の所は、内科の医者ばはじめたって云わっしゃったが、わかりますなてきいた所が毎日銀杏=(胃腸)ば見よりますって云わっしゃった。

 次は愛岩様に行って聞いた所が、私の所は醤油屋ば始めたって云わっしゃったが、樽やら材料がありますなって聞いた所、心配はいりまっせん、ほらそこい、もろみ=(室見)が流れよる。

 今度は太宰府天満宮に参って聞いた所が、私の所は昔から焼もちば焼いとります。もうかりますなって聞いた所が焼餅の事じゃけん七里=(で焼いて70円)で売りよりますと云はしゃった。

 この頃は、学問の神様で評判の良かがどうすりゃよか点の取れますなって聞いた所が、太鼓橋の上で逆立しておがむがよかて云わっしゃった。どうしてですなって聞いた所が、天満がさかさまになって、満天=(満点)。

 フレッシュさん紹介「青春してます。/」 古賀多津子 昭和63年1月25日

 ゛スコーン″とボールの弾ける音がとても気持ちいい!

 季節は冬だというのに体中が熱い。額の汗を拭いながら球を追ってコートを懸命に走るのが大好きです。一球一球、打って返ってくる球の快い感覚にとりつかれ、はや1年。でも、腕前はまだまだ………。

 先日もボレーを打ち損ね顔で受けてしまったり、バックがなかなか思うように打てなかったりと、迷プレー………。さらに、息も絶え絶えになる程コーチに鍛えられ膝がガクガクになるなど、ハプニング続きの練習風景です。こんな私でも最近“うまくなった”と誉められることもあります。これを励みに頑張ろうと思います。

 私にとってテニスは、仕事の疲れやストレスを解消してくれるビタミン剤です。

 薬剤部では、テニスがとても盛んです。年に数回“KPオープン”という大会があります。これは、お互いの親睦を深めようと行われています。今年の参加を目指しはりきっています。

 ところで、この春で大学を卒業してまる2年。歯病に勤務し1年になります。テニス、同様、薬剤師としても未熟な私です。日常の調剤、製剤はもちろんのこと雑誌等で知る他の薬局の先生方の活躍を自分なりに応用できないかと考える昨今です。院内で接遇が重視されていますが、私なりに痛みをもった患者さんの気持ちをよく理解し、いつもやさしい気持ちで服薬指導をと心がけています。

 今年は、たつ年、たつこ年です。1964年生まれの私は年女。いつもフレッシュな気持で仕事に向かえるようテニスを続けていこうと思います。

 こんな私ですが、諸先輩の先生方どうぞよろしくお願い致します。
     (S61年 第一薬科大学卒)

 「専 務 雑 感」    専務理事 藤原良春 昭和63年1月25日

 振り返り 専務に就いて 早や二年
  我が身の不足 懸愧に堪えず

 この二年 問題ばかり 多かりし
  時代の流れ 更に加速か

 改選期 有志の人を 請い願う
  新たな対応 山川ありて

 見渡せば 人それぞれに 異才あり
  束ねる長は その責重し

 人の和と 結束にしか 道はなし
  多難なあしたに 望み託して

 巻 頭 言 「薬剤師の明暗を分ける年」 福岡市薬剤師会 会長 古賀 隆
                              昭和63年7月31日

 「61年度医療費17兆円超す」という見出しが、6月12日の各新聞のトップを飾っていた。

 高齢化社会における医療費の増大に対する社会の関心の高さと問題提起を示すものであろう。厚生省の推計では、63年度の国民医療費は18兆9600億に達するとのことである。

 老年人口が7%を越えて高齢化社会に突入したのが昭和45年で、現在が約10%、2000年(昭和75年)には16%の予想であるというから、厚生省があらゆる方策を駆使して医療費抑制策に取組んでいくことも当然と言える。

 ただ医療というのは人間の健康に関わる問題だけに、むやみに受診の抑制は出来ないし、費用についても福祉と同様、やたらに個人負担を増すわけにもいかない。それやこれやで、老人保健法の創設、つづいて改正、健保法・医療法の改正、薬価基準の切下げなど矢次早やに法改正がなされてきているが、これとても厚生省が考える程に抑制につながっていない。 これまで一番抑制効果の表われたのは、59年における医療費の本人1割負担の導入の時に伸び率が3.8%に抑えられた時だけで、あとは又6点数%に上昇している。このことから、本人負担2割近しと言う声も聞かれる所以である。

 医療費抑制策の中で医薬分業はどのように進められるであろうか。厚生省の考えは、医療の質を高めるためには医薬分業は必要というのが基本的な考えである。3年間の「モデル地区事業」の中で若松地区が高い評価を受けたのも、同地区が、第二薬局、マンツーマンを排除し面分業を強く推進していることが基本にある。

 新たに5ケ年計画で「分業推進基盤事業」を厚生省は始めるが、大病院からの応需を積極的にやりなさい、情報活動、備蓄、薬歴管理など盛込んだ模範的分業、質の高い分業を進めなさいと言うのが内容で、従って、これからの分業は二師との連携もさることながら、分業は患者、国民にとって、より大きな価値と利益をもたらす医療の形態であることの理解とPRに努めなければならないと思う。

 又、医療費抑制策が強化される程、期待されてくるのが落ち込んでいるOTCの浮揚である。その表われがOTCは効かないと言うイメージから効くOTCへの転換である。

 所謂スイッチOTCの出現である。現在は、まだまだ厚生省も慎重な構えであるが、薬局薬剤師のモラルと姿勢如何によっては拡大されていくだろう。

 そのような期待にもかかわらず、OTC薬局においては、尚不安材料の方が一杯である。

 カタログ販売、配置販売に加えて最近はガソリンスタンドで薬を販売しようとの動きもあるそうである。我々は医薬品の特殊性を強調するけれども社会通念は医薬品を商品としてしか見ていないと言うことである。

 医療費が、どんどん締めつけられていく中で、医療人としての薬剤師、薬局はどう生きて行くのか、アウトサイダーによって自在に侵食されていくOTC部門をどう死守していくのか、最後は時の政治力にかかってくると思う。

 そう言う意味では、昭和63年は薬剤師にとって危急存亡の年になるのではないか、とさえ思う。

 ひと度国会から薬剤師議席を失うとどうなるか、昭和40年高野一夫議員を落選させてから、再び石井道子議員を国会に送り出すまでに実に19年の歳月を要している。その間の政治的空白(薬剤師会にとって)時代における薬剤師会の損失は歴史を見れば一目瞭然である。

 今年、6月29日に自民党は参議院比例代表の公認候補を内定発表した。それによると現職14名、新人12名の計26名である。石井道子議員は勿論現職14名の中に公認されているが、問題は果たして何位にランクされるかである。15位以内にランクされるには余程の条件づくりが必須である。

 現在、後援会員獲得1会員100名目標で懸命にお願いしている段階だが、これも極めて低調である。余すところの期間も、もうあまりない。 執行部もその対策に苦慮している所である。どうか会員諸兄の(A会員、B会員共に)奮起を切にお願いする次第である。

 福岡市薬も過年度から持越した幾つかの大きな課題があるが、その中で試験センターについては、医薬品に関する厚生大臣指定申請の準備をしてから1年を経過して尚未解決で、試験センター利用契約も北九州市薬と契約している状況は、まことに申し訳ないと思っている。しかし交渉を中断しているわけではなく、日薬が年末までには指定されるよう努力すると回答しているのに対して、もっと早急に指定されるよう折衝を続けているところである。

 会館建替問題については、福岡市との補償問題も解決したので、あとは時期の問題になるが、いろいろな兼ね合いもあるので執行部に御一任願いたい。

 福岡市制100周年言己念事業の目玉であるアジア太平洋博覧会への三師会、玉屋グループの協同出展が既に決定し、「健康いきいき館」(仮称)のテーマで現在実行委員会、総会の二機関において具体的企画、設計が精力的に続けられている。 その全容も近々発表されることになると思うが、これも薬剤師会の重要な社会活動のひとつであるので認識と協力を賜わりたい。

 私は4月の代議員会において、再び会長に選出されたが、役員構成も早々に終え担当理事によって各委員会共、すでに事業活動に入っているが、今期理事の年令を見てみると、30代、40代が11名という理事構成の半数を越えている。これら若い人達の活力がこれからは特に大切と思う。 特に期待しているところである。

 私も若い理事者に負けないよう頑張るつもりである。一層の御支援、御鞭撻をお願いする次第である。

 <特別寄稿> 「日本人は人類社会のはみ出し者か」 福岡大学学長 宮野成二
                                 昭和63年7月31日

 先日たまたま目を通した本に「ヒトは自然からのはみ出し者である」という表現があった。余り上品な書名ではないが「パンツをはいた猿」という本である。著者の栗本さんの主張はざっとこういうことである。

 「地球上の生物はお互に調和し合って生きており、ひとり人間だけが自然界の調和を乱すならず者である。動物や昆虫は増殖しすぎると自然陶汰によって適正な規模まで調整をはかる。ところが人間はふえ続けるのみか自然界のバランスを崩すことなしには生きられない動物という意味ではみ出し者なのだ。必要以上に他の種の生命を奪ったり仲間を殺数しつつ生きつづける。」

 もっともヒトをこのようにはみ出し者それも悪い意味のはみ出し者とする見方もあるがそうした極端な結論をかんたんに下せるものでもあるまい。

 その議論はさて措き私の少々気にかかることはヒトが自然界のはみ出し者である如く、「日本人は人間社会の中でも極めてユニークなはみ出し者ではないか」という点である。

 急に成金にのし上がり札束に物を言わせて(もっとも前西独首相シュミットさんによれば日本人はせっせと紙切れを貯め込んでいるとのことだが)世界の資源や土地を買いあさる姿を見るとそうした不安がさっとよぎることもある。

 ここで日本人が人間社会にとって好ましいはみ出し者か有害なはみ出し者かを少し冷静に考えて見よう。

 先づいい意味では世界に例のない技術の達人ということである。

 零戦といえば半世紀前の太平洋戦争で勇名をはせた日本海軍の主力戦闘機である。戦争がタブーとなり耳にするのもいやだという人があるとしてもこの飛行機が今を去る50年前の日本人が生み出した世界の傑作機であることに相違なかろう。

 日本海軍は速度、旋回性能、航績力の三点の何れにおいても世界最高水準の戦闘機の計画要求書を三菱に交付し、その主務設計者となったのが当時三十才の堀越二郎技師であった。素人が考えてもわかることだが速度を大きくすれば旋回性能は低下し航続距離も短かくなる。この相反する三つの機能を一つの機種に要求するのは五種競技の選手に各種目に於てそれぞれ最優秀の記録を出せというに等しい難問である。

 しかし堀越技師を筆頭とする三菱技術陣は不可能に挑戦し、1グラムでも機体を軽くすべく全智全脳を絞った末、完成したのが世界に冠絶する「零式艦上戦闘機」であり、我々はそこに欧米人の感覚とは無縁の日本的技術の結晶を見ることができる。

 しかもブルドッグのようにどうもうな外観のグラマン戦闘機とは似ても似つかぬ優雅な流線は戦闘機というより芸術品にふさわしい今日の経済的発展の基盤にはこのせんさいな日本的技術者魂があったのである。

 マイカーの泥を落としワックスをかけ我身のようにいつくしむ光景に接する。これほど機械という無機物を生き物のよう扱う日本人の心情、技術的完壁主義、せんさいな美的感覚が家電製品から自動車、新幹線までエネルギー効率のすぐれた製品をつくり上げ人類社会に十分の貢献を果し、今後も果し続けることであろう。

 つぎに悪い意味のはみ出し者になりはしないかという懸念についてふれておこう。それは度を越した集団指向性である。

 数日前テレビでスズメバチに巣箱を襲われる西洋ミツバチと日本ミツバチの戦いぶりを見た。一匹のスズメバチに西洋ミツバチは一匹づつ対抗し忽ち数千の死骸の山をきづくのに対し日本ミツバチは一匹のスズメバチを集団で包囲し各個体の飛翔筋が放出する熱(48℃)で遂に強大な侵入者を熱死させてしまった。

 これは集団の強味を巧みに利用した行動例である。ところで集団指向性がいつもプラスに働くとは限らない。学校教育では集団の価値を優先し校則で規制するが個性の尊重や啓発はどうしてもおろそかになる。「人に迷惑をかけてはならない」ことは教えても「人の為に奉仕する」人間性の養成は後廻Lになる。

 気になるのはこれからの日本である。今日つまり七月六日私はアメリカの黒人女性学長と会って一時間程話し合った。この人は少数民族、少数人種(黒人、スペイン系、アジア系、インディアンなど)問題minorityproblemの専門家であるが困難な問題に立向うアメリカ人の勇気を感じとることが出来た。

 アメリカ大陸は広大である。しかしキューバやベトナムの難民を進んで引受けメキシコの密航者さえふところに包んでしまうのを見ると国土の広大さのみのなせるわざとは理解しにくい。失業率が二桁にもなろうとする自国にわざわざ難民を受容するのはたやすいことではなかろうと思う。

 日本は変動する為替レートのなせるわざとは申せ名目では世界最高の経済大国に成り上った。統計に忠実に従えば一人当りGNPでお隣りの中国のざっと100倍であり、トヨタ自動車の年商はフイリッピンの国民総生産の3倍に当る。南の国にとっては日本の国の存在そのものが「コップの中の嵐tempest in atea‐pot」ではすまされず一国の死活問題となりつつある。

 水は低きに流れるように日本を目指す外国人労働者は急増し遠からず社会問題となるであろう。外国人流入の事のよしあしは別として我々が単一民族の国として人種問題と無縁であった時代はすぎ去りつつあり集団指向性から脱却し多様な価値、文化を認め異人種と共存し得る国際感覚が必要となる。

 技術の優先のみに頼っていては21世紀の日本に多くの期待はできないように思われる。

 <特別寄稿> 人の心の暖かさ−着任3年目にして想うこと−博多保健所所長 花田咲子
                                 昭和63年7月31日

 暦の上では、もう夏至を一週間も過ぎているのに相変らず風は冷たい。北半球にある日本では、此の時期むし暑いうっとうしい日々が続く筈だが、福岡では未だ梅雨らしい雨にも雷にも出逢っていない。私は雷が大嫌いなので、例年よりも安らかな日々を過していることになります。

 私が博多保健所へ着任してから今春で三年目に入り、博多支部の総会へは二回出席させて戴きました。高杉支部長さんや、荒巻県薬会長さん方のお話をお聞きしていると胸の熱くなる思いがいたしました。

 皆様方は地域の学識者として住民から尊敬され、相談をされ、その信頼関係の中で繁栄していかれることが一番理想的ではないかと私はつねづね思っております。

 近年世の中は、“バイオ”とか、“ハイテク”とか、科学の進歩は実に驚異的で瞠目いたしますが、それによる便利さや豊かさの中で、人間として最も大切な心の豊かさを失いつつあるように思えてなりません。村おこし、街おこしのリーダー達も、このような思いにかつれての運動展開であろうかと、共鳴しております。

 私も人生の最後のステージに臨むに当り、最近とみに人の心の暖かさにひかれ殊の外、感激するようになりました。年をとって涙もろくなったのだと言われるかも知れませんが…。とにかく周囲の人々と積極的にかかわって人と人との心の交流を暖い豊かなものへ復元させたいと思っています。

 若い頃は引込み思案で、心では思っていてもなかなか自分から飛び出して周囲の人々とのコミュニケートができませんでしたので、友達も少く、近所親戚つき合いも下手でした。今までは子供達や主人がそばにいて淋しいと思ったことはありませんでしたが、これからだんだん喪失の時代に入り、又身体的にも衰えて介助をうけなければならないときがやってくることを思うと、そしてそれは私だけではなく周囲の多くの人々にも確実に到来、且つ介助を必要とする人口の増嵩を思うとき、私達は互いに助け合い福祉の心を心として実践につくさなければならないと思うからです。

 先生方が全員相互の結束を益々強められて、住民に信頼される薬剤師会として、健康づくりの為の啓蒙啓発活動を、より一そう地域に密着して展開されると共に、益々ど繁栄されることを心よりお祈りいたします。

 最後になりましたが、毎年博多区健康フェスティバルでは大変など協力を戴き、心より厚く御礼申し上げますと共に、これからも益々のご協力をお願い申し上げます。

 重ねて皆様のご健康とご繁栄をお祈りいたします。

 <薬事春秋> 「診療報酬改正と病院薬剤師」 福岡大学病院 薬剤部長 黒田 健
                                昭和63年7月31日

 さる4月より実施された診療報酬の改正は、老人医療の今後のあり方、長期入院の是正、大学病院における医療と研修の見直し、患者サービスの向上などなどについての国民医療総合対策本部中間報告の趣旨をふまえた内容のもので、今後のわが国医療のあり方に強い影響をおよぼしてくるものと思われます。

 教育、研究および診療の三位一体による高度専門医療を標模する大学病院医療に対して、厚生省は、外来患者の規制(紹介制として患者の流れを変える)、他の医療機関に比べて高い検査料の是正、保険医認定制度の導入(研修医に対する若葉マークあるいは仮免許といったような制度)などの問題点を厳しく提示してきましたが、今回の改正の段階ではこれらの難問の具体化はひとまず見送られた形になっているものの、次回65年の改正では、再び浮上してその実現化の方向へ動くものと思われます。わが国の医療全般にわたって、この大学病院の例のような否応のない改革が求められているものと受け止めなければなりません。

 医療従事者としての病院薬剤師はこのような厳しい社会のニーズにどのように対応すべきでありましょうか。人口の老齢化に伴う国民医療費増大の抑制、および薬剤師不要論へつながりかねないコンピュータという高度情報処理システムの普及という二つの大波に激しくゆつれながら、病院薬剤師が21世紀へ生き残る道として、クリニカルファーマシイの実践への取り組みといったわが国の現実では大変困難な問題について、長い間試行や論議が続けられてきたわけであります。

 ところが今回の診療報酬改正で、300床以上の病院に入院中の患者に適切な薬学的管理のもとに投薬が行われた場合、月100点の調剤技術基本料が新設されたことは、病院における薬剤業務のあり方として入院業務指向という方向づけを行政が明確に打ち出したことを意味していると思われます。

 すなわち、今回の改正が病院薬剤業務のあり方についての思い切った発想の転換と決断とをせまる画期的な趣旨を含んだものである点、病院薬剤師としてはこれを高く評価すべきでありましょう。

 病院薬剤師の日常の標準的業務は、薬品管理、調剤、製剤、薬品情報および薬品試験として列挙されますが、巡回による病棟薬品管理、IVHの調製、さらにTDMを通じての合理的処方設計への関与など、比較的クリニカルと言われるような業務もこれらの組識の中で行われています。しかし入院患者に対して直接的に薬学的サービスを行うという形での業務は、残念ながら非常にまれなケースに過ぎないという現状であります・その根底の原因は、病院薬剤師の技術料の過少と関連した慢性的要員不足に由来するもので、外来調剤を主とする従来業務にきりきり舞いを続けている全く余裕のない勤務環境にあるからだと思われます。

 一方、新設の入院におけるいわゆる100点業務の条件は、300床以上という病床数規制のほかに、専用の薬品情報室に複数のDI専従者がいること、注射せんで一本渡しの注射薬投薬を行っていること、入院患者にインタビューして服薬指導を行っていること、薬歴管理を行って必要な指示を出していることとされており、これらの条件を直ちに実施できる病院は全国的にも数少ないと思われますが、これを努力目標として実現化を図る道を病院薬剤師は選択すべきだと考えています。

 さらにここを拠点にしてクリニカルファーマシイサービスが充実されて行くならば、わが国の病院薬剤師職能の前途は洋々たるものがあると言えるでしょう。そのためには、病院薬剤師の既存の立場にとってそれが合理的であるか非合理的であるかの価値判断はひとまずおいて、コンピュータ調剤システムを導入するかあるいは院外処方せんを発行するなどによって、従来の外来業務を大幅に縮少して行くことを企てる以外によい対応策があるのかどうか、慎重に検討したいと考えています。なお、300床という病院規模による差別を取り払い、また入院患者を持たない診療所薬剤師のあり方についても別途検討しなければなりません。

 以上、福岡県病院薬剤師会の責任者として最近の所感の一端を述べてみました。岐路に立つ病院薬剤師職能のあり方について会員各位の関心と理解をお願い申し上げる次第です。

 <薬事春秋> 「医 療 と 薬 剤 師」 九州大学病院 副薬剤部長 金枝正巳
                                 昭和63年7月31日

 近年、全国的に「患者中心の医療」が積極的にとり入れられてきた。まことに喜ばしいことである。

 九大病院においても62年5月に総合診療部が新設され、経験豊富な医師が外来受付の近くに立ち、初めて訪れた患者の申し出でに適合した診療科を指示し、効率の良い医療を展開する体制となった。そして、これまで一日一つの診療科しか受診できなかったものが、必要に応じては複数科の診療が可能となるシステムづくりができ上った。

 また、昨秋から医事課の会計窓口、本年4月からは薬剤部における薬の交付窓口がいずれもオープンカウンター方式に改造され、これまで診察料などの会計収納、薬に関する相談、服薬指導などをガラスで仕切られた30p四方の狭い窓口で行っていたのを、広々とした自由な場所でのびのびと実施できるようになった。病院当局の患者基本サービスの一つの現われであるがまことに時宜をえたものと好評である。

 薬の交付窓口のオープン化に際しては、薬の相談件数が多くなり、調剤業務の停滞をきたし、投薬待時間が延長し、一般患者のサービス低下につながるのではないかという危惧があったが、実際に実施してみると思った程混乱はなく業務は至極円滑に遂行されている、関係部門担当の事前の周到な準備と日常業務に対する真撃な姿勢によるものであろう。

 これまで他の医療関係者と比べ、患者と薬剤師の間隔が一寸離れた感じであったのが、ぐっと縮まり明るい雰囲気になったことは、非常に素晴らしく有形無形の効果が期待できる。

 薬剤部は患者が診察,検査,会計などを終え最後に立寄る部門であるので、ここでの印象は病院全体の評価に大きく影響する。受診科,年令,性別などの面から相手の心理をよく観察し、親切,丁寧をモットーに気持良く応じていかねばならない。

 このところ1年毎に行われている診療報酬改訂においては、調剤のハード面よりソフト面の業務すなわち医薬品情報,薬歴管理,服薬指導などに対し評価のウエイトが移っている。

 今年4月1日付の改正では病院薬剤師にとって画期的ともいえる新しい点数化が実現した。いわゆる施設基準に適合する病院の入院患者に投薬を行った場合、月1回100点の調剤技術基本料の設定がなされたのである。病院薬局の機能の強化と技術の評価が新しく認められたもので大きな意義をもつものである。施設基準にはいくつかの厳しい条件がついているが、国がこれからの病院薬剤師のあるべき姿として示した指標と謙虚に受け止め、ある程度の犠牲は覚悟の上で条件達成を目指すべきだとの考えで、勤務部会役員会では熱心な検討が繰返されている。

 これまで薬剤師は調剤,医薬品の供給,薬事行政など夫々の立場で職能を発揮し医療に参画してきたが、これからはさらに新しい時代に即した対応が望まれる。すなわち医薬品情報の提供,服薬指導,薬歴作成,薬物血中濃度測定と投与計画,患者の個人差を考慮した薬物療法への参加,注射薬の専門的知識による混合などのクリニカルファーマシー的業務(後半は病診部門)である。

 すでに実施しているもの,これから取組まねばならぬもの、とてもやれそうにないものとに分けられるが何とか手がけていきたいものである。

 昭和65年には医療法の第2次改正が行われる。医療の中の薬剤師の位置づけを中心に関連事項についての法的見解がさらに鮮明に明示されることだろう。われわれは、日常業務の周辺を今一度見直し、社会的に立派な評価を得るよう努力を重ねていかねばならない。会員諸士のご研鑽をお祈りする次第である。

 <薬事春秋> 「QualityofLifeと薬剤師の役割」 田辺製薬梶@福岡支店長 田代義徳
                                  昭和63年7月31日

 薬剤師の職能の中でも、患者に薬の使用の目的を理解させ、正しい服用法や使用法を説明し、適切な使用上の注意を促し、薬物治療の効果を最大限に発揮して、更には患者の安全性を確保することは、極めて大切なことである。

 近年、患者の服薬コンプライアンスを向上させるための研究が活発になされているが、さらに最近では、国内外の文献で薬剤投与とも関連して、QualityofLife(以下QOLと略)という言葉が散見され、重要視されてきている。

 QOLの課題は高血圧症治療時のみでなく心臓疾患や高脂血症など、特に高齢者の医療の全般にわたる課題であり、薬剤師との関わりも深いようである。
 これを高血圧症でみると、この疾病の大部分が軽症又は中等症で、自覚症状が少なく、日常生活にはほとんど支障のない人が多いので、長年にわたる治療管理が必要であり、それに伴ってQOLの問題が大切になり、治療成功の鍵を握るとされている。

 QOLを日本語に訳すると、生活の快適さ生活の質,又は、生活の充実感などの言葉が生まれている。外国雑誌のなかでもQualityof Life惑いはA Fuller Life などの語が使われ、薬剤投与での配慮が啓蒙され始めている。

 QOLの概念は五つの次元として、具体的に定義されている。
 (1)身体症状
 (2)情緒状況
 (3)認識機能
 (4)社会活動能力とそれに基づく満足感
 (5)Well−being 感と生活満足感

 また、この定義の内容は次の8つのバロメーターで、それぞれの適切な段階に分けられて分析評価されている。
 @ 健康感:健康,元気さ,生活の充実感,不安など
 A 身体症状:これは2つにわかれ
 A DistressIndex:疲労感,口渇感,味覚,悪夢,めまい,ふらつきなど
 B 睡眠尺度:入眠困難,眠気,早期覚醒,覚醒時疲労感 など
 C 仕事の実行と満足感:仕事のペース,仕事中の疲労感,集中力低下,仕事の満足感など
 D 情緒状態:感情の表現,抑うつ,不安感,敵意,妄想 など
 E 認識機能:記憶力や見当識
 F 社会的関係:社会や地域の活動における友人や親戚との連携の度合
 G 生活の満足度:結婚,生活水準,経済状態,などの満足の度合
 H 性機能について:陰萎,性欲減退など

 ところで、薬剤にはなんらかの副作用があり、QOLを下げる可能性は高い。従来の薬物療法で問題となっている胃腸障害や薬疹のような身体的副作用のみではなく、QOLは人間のデリケートな精神的,肉体的な機能面にまでおよんでいることを認識しておきたい。つまり、薬物療法を高血圧の分野で考慮すると QOLの問題が重要視され始めたのは降圧剤の著しい進歩によってであり、降圧剤の一番最初の段階はとにかく血圧が下がればよい、次に副作用が少ないはうがよい、その次に検査所見に悪い影響が少ないものがよい、これらはほぼ満足されたので次の課題として、QOLが取り上げられてきたものである。

 即ち、薬を使う時、副作用として変わった症状が起こっていないか、検査所見ではどうかを検討し、さらには生活の快適さ・生活の充実感・仕事の能力・性機能なども配慮して、患者個々に適した薬剤を選択し、QOLを向上させる必要がある。

 QOLの運用には医師の指導管理が最も大切であるが、薬の適切な使用と安全性確保のためには薬剤師の果たす役割も重要である。

 九州大学健康科学センターの川崎教授は、ある座談会で、個人別の健康度のチェックの指標として、次のような条件を紹介されている。
 (1)めしがうまい:毎日食膳にむかった時、食欲が良好である。そして便通が規則正しくある。−即ち、消化器系の健康
 (2)かぜひかぬ:天候の変化に対して抵抗力がある。−即ち、皮膚・呼吸器系の健康
 (3)昼元気がよい:心身の活動力とその持続力に富む。仕事に疲れ易くないことを意味する。
 (4)よく眠る:毎夜安眠熟睡して疲労の回復力がよく、あすの活力に余裕があること。

 以上の条件は大体肉体的なすべてを網羅すると述べられている。

 薬剤師の服薬指導にあたり、この4条件はQOL運用の参考として、価値あるものと思われる。

 <薬事春秋> 「地場企業としての所感 コーヤク梶@取締役社長 吉村慶元
                             昭和63年7月31日

 過日、友人から江戸時代の処世訓「貯蓄十両・儲け、百両。見切り、千両・無欲、万両。」を教わりました。十両といえば、今日の1億円に相当しましょう。個人的にも不可能な貯金ではありません。「消費は美徳」の心地よい美意識イッパイのケジメのない生活であれば不可能です。無意味な出費を、たとえ少額でもやめ、有意義に生きるため積極的な生活習慣の変革をやれと訓えています。

 次いで儲けですが、書いて字の如く、信頼してくれる人を一人でも増やすことで、そのために自分の言動が、どうあらねばならぬか、自明の理であります。満足した一人の信者は、二十五人の仲間にクチコミするといわれます。そして見切りとは現状をヨミ、時代の方向をもヨミとる力であります。現在の各人それぞれの仕事の権威となるよう努めれば、自ずから体感を得て備わるヨミの力であります。

 今日の変化は全く不連続であり、アイマイであり、スピードがあり、拡がりが大きく、突然に表面化することすらございます。ダラダラした改善という名の対応はあり得ません。悪習慣と訣別する勇気、全く新しい価値感での対応がないと駄日であると訓えています。市場の渇きをイチ早く察知し、強い独自性・自主性での対応を示唆しています。

 さらに今日は飽食の時代、極端にいえば、ホシイモノが無い、それでいて物欲に覆われた自分の姿を見出します。この姿は他人様からは、毅然とした偉丈夫に見えますが、心は空洞であります。人間本来無一物です。ところが、人間、家柄とか親御さんとかでモノ・カネでの差が生じます。

 また、成長して自分の労働で、モノ・カネを得ることになります。さらに、ペーパーマネーが横行している現今、自力でなくカネを掌中にすることが出来ます。このモノ・カネを自分の所有と思い、自分の力と過信しておりますが、よく考えてみると知識・教養に至るまで、実は、すべて他人様から与えられたもので、縁あって一時的に所有させて貰っているだけで、人と人、或いは人と物、人と時間、人と空間の支え合いで生かされていることが体験・自覚できるようになると、心は満たされ、万(=無限)両を得たと同じ、との有難い教訓であります。人生を真撃に生きる者のみ味わえる人生の「原点」「基本」でありましょう。

 弊社は、取扱品の関係から、法的に擁護され、規制された経営環境下にあるため、専業意識・特別意識が固定化してきた感すらございます。加えて営業の主要な部分が、医療用の医薬品や医療器械・設備等、今日の国家財政を左右する医療保険制度の傘下に組み込まれておりますと、被保険者の既得権的医療需要や社会保障制度の運用如何で、順調な物事の推移がでてまいりますと、傘下・制度下のことを忘れ、自分の実力・能力が作動していると錯覚し、改善・改革を怠るようになってまいります。

 昨今、医薬品のカタログ販売の容認、倉庫業の医薬品卸売一般販売業の可能性、医薬品の再販適用撤廃等の「規制の緩和」が噂されます。これは、シビル・ミニマムを護ろうとする官僚の善意でもあろうと思います。これら、規制の緩和に賛成と言えば、既得権を固守されるお得意様の方々には無礼極まることでございますが、生活者・消費者のライフスタイルに背を向けたものであるならば、これは地場社会の障害物でありますから、チャネルから排除されることは当然であります。またこの場合、自ら身を退くべきとも考えます。

 弊社は、異業種、他企業間との交流・交錯、地域生活者の多種・多様な需要の変化等から、弊社の存在価値につき常にインセンティブを与えられておりますし、この様に恵まれた現況、恵まれた業界、そして縁あって生かされている現状に一つ一つ思い当たり、一層感謝の念を深くいたします。片や、弊社本社のあります北九州市では、地場基幹産業の衰退をマスコミが取材し、失業率を報じますと、往時中央から螺集した関連の大手企業が、まるで手足をつぼめる如く出先機関を減少してまいり。ます。人情の機微を窺い得て複雑な気持になります。

 顧客との関係をさらに重厚にし、信頼性(POSの如き)、妥当性・適時性(合目的な戦略・戦術のためのデータベースの如き)を高め、市場の質的な変異に如何様にも対応できるためにも社員の企業家マインドを必要とします。誠実な、清潔な人間性を必要とします。心ある異業種の方々の特色に学び、既存の境界線を見直し、従来の理論・考え方に意図的に抵抗し、「発想の転換」のできる、自律的なイノベーターの輩出する職場をもつ企業たつんと意気込んでおります。

 <会員のひろば> 「時代が変る」 春吉部会 六月田薬局 森田 明 昭和63年7月31日

 63年も既に半ばを過ぎあと12年で21世紀を迎えようとしています。時代は急速に転換しております。日本の近代化は常に外圧が大きな力となっているが日本人はこれに旨く対応し現在のような経済大国まで伸展してきたものと思います。

 鉄,造船,自動車,電子産業の時代等々戦後産業界だけ見ても時代は代りつつあります。今は、ハイテク産業の時代とよばれ、また働き過ぎ日本が世界中から批判をうけ余暇産業時代を迎えようとしています。

 世界的に見て日本の平均的勤労者の労働時間は年間2,108時間で西ドイツの1,659時間,アメリカの1,924時間を大きく超過しています。一日8時間労働として日数換算で西ドイツに比べて56日間,アメリカに対しても23日間休みが少ない。

 我々薬局特にOTC従事者の場合はっきりしたデータがありませんので推測の域をでませんが平均1日10時間営業,日曜完全週休で、盆休み,正月休みを考慮しても実働日数約300日労働時間は実に3,000時間となります。

 薬局の特殊性を考慮すれば、営業時間の短縮は困難であり又すべきでないと思われる。
結果的には勤務時間を2交替制にすれば丁度西ドイツ並になりますが経済力が問題となってきます。

 現在の従業員を倍増して尚かつ経営が安定する必要があります。21世紀の薬局像として未来をみつめるとき楽観或いは悲観こもごもに交錯するなかでこの際外圧に匹敵する政治力を発揮して未来を切り開きたいものです。そのためにも台風の目を作る必要を痛感します。

 戦後の我々の業界を振り返って見れば、メーカー段階で流通経路は70%が薬局であったものが現在は15%と大きく低落しています。社会変革の影響を他の産業並みに大きく受けています。人類の健康指向がある限り製薬業界は拡大伸長を続けるがその流通チャンネルとして薬局がどれだけ利用されるか現状では大いに問題があり、今後の変革,時代の流れを我々にいかに有利に展開するかが台風の目となるものと思われます。

 そこで、最後になりましたが我々の一番の弱点と言われる政治力をつけ医薬分業を勝ちとり本来の姿に戻そうではありませんか!

 <会員のひろば> 「京城薬専時代の思い出」
           春吉部会・警固部会 永瀬永寿堂薬局 中野 佐 昭和63年7月31日

 昨日まで青年だと思っていたのに玉手箱を開けてみたらもう65歳の老年になっていた。

 昭和16年3月2日長崎県立対馬中学校を卒業し昭和16年4月8日18歳で京城薬学専門学校に入学した。日本人75名,韓国人30名,台湾人5名であった。

 校長は海軍薬剤少将で薬学博士・薬学士の玉虫雄蔵先生(東大薬学科出身)で後に名城大学薬学部長になられた方で軍人には似合わない温厚な人だった。教頭は薬学博士・薬学士の伊東半次郎先生(東大薬学科出身)で後に徳島大学薬学部長になられた方で新進気鋭の教授で微量分析の権威者であった。

 薬学の金文字の帽章のついた角帽をかぶり、黒い詰め襟にPharmaceuticalの頭文字Pの襟章を付けた学生服を着て希望に燃えてさっそうと京城の街を通学していたのは昨日のようであった。

 1年生の2学期の学期試験の勉強中に太平洋戦争が始まり、最初は勝った勝ったと喜んでいたが昭和17年6月10日ミッドウエイ海戦の敗退により物量に勝るアメリカ軍には勇敢なる日本兵もじりじりと後退せざるを得なかった。

 かくて学徒動員令が下り、6カ月短縮卒業により2年6カ月で昭和18年9月21日、20歳で卒業した。光陰矢の如く過ぎ去り人は去って行ってしまった。

 今思うと学生時代が人生の花だったと思う。戦局悪化により薬専生も化学の実習より学校教練が重要になってきた。江原道平康の地平線の彼方が淡紫に霞む広大な高原地帯の陸軍演習場で1週間兵営宿泊をした。

 敢闘精神旺盛な配属将校荒木哲次郎大佐,公門慶六中尉,古川繁雄少尉の3名が軍隊に入隊してもすぐ役に立つよう龍山歩兵第22部隊の現役兵の伍長と軍曹に学生と思わず兵隊同様手心を加えずビシビシ鍛えてくれと現役兵の伍長と軍曹に言い、我々は92式重機関銃で散兵戦の猛訓練を受けた。

 何をモタモタしているかと叱咤され、非力の小生は腕力のある学友よりは苦しかった。背嚢に20kgの砂袋を入れ38式歩兵銃を担いで20里行軍があったが、これに落伍したら幹部候補生の適任証はやらんぞ、一兵卒では高等教育を受けた者としてプライドが許さんだろう、非常時下の日本は青白いインテリーは求めておらんぞと叱咤激励された。

 小生もせめて陸軍薬剤少尉にならなければと思い最後まで歩き通したが右肩は紫色にはれあがっていた。然し当時は苦しかったが若かったので一晩寝れば疲れは回復した。

 鉄道で京城駅を北上する何千何万という若い童顔の真新しい軍服を着た兵士を京城中学や竜山中学の生徒のブラスバンドで出征兵士を送る歌、「わが大君に召されたる、生命はえある朝ぼらけ、たたえて送る一億の、歓呼は高く天をつく、いざ征けつわもの日本男児」と小・中・大学,専門学校,国防婦人会の大勢の人びとと日の丸の旗をふって歓呼の声で送った前途有為の青年将兵が生きて故郷に何人帰りつくことができたであろうか。

 昭和18年9月21日卒業証書を貰って校門を去る時、配属将校公門慶六中尉が薬剤師として将来の日本を背負って立て、他の薬専出身者に負けるな、陸軍特別操縦見習士官・海軍予備学生に合格した者は入隊まで後一週間しかないので、御両親・兄弟・親戚の方々に別れの御挨拶をしてくるよう諸君の武運長久を祈る、と激励された。

 勉強と試験の苦痛から解放されたが、いつ召集令がきても若い命を国に捧げなければならなかった。人の生命や病苦を救う崇高な使命がある薬学生が試験管や乳鉢を操縦桿や銃に持ちかえて軍務につかなければならないようにそれ程戦局は逼迫していた。

 同級生中、海軍予備学生に合格した北海道の苫小牧工業出身の杉尾忠君は昭和19年12月11日レィテ島沖の特攻作戦に第一金剛隊の一員となり出撃、敵艦に体当りして散華した。江田島の海上自衛隊学校の慰霊碑にその名前が刻まれている。

 陸軍特別操縦見習士官に合格した沖縄一中出身の古波津里英君は昭和20年4月7日東京上空に飛来してきたB29爆撃機に飛燕戦闘機で体当り攻撃を敢行し撃墜した。自らは落下傘で降下して命は助かり今は那覇市で薬局を開局している。

 敗戦後、配属将校荒木哲次郎大佐は多くの生徒を死に追いやったと言って割腹自殺をされたそうである。我が青春も16.425日の彼方に消え去ってしまって再びもどることはない。ただ若き日多くの出征兵士を送った赤レンガの京城駅はソウル駅となり赤レンガ三階建ての薬専の校舎は今も昔のままの姿で残っていた。

 <会員のひろば> 「自由と義務」 春吉部会 潟yンギン堂薬局 三井所清 澄
                               昭和63年7月31日

 暑い最中老人のうわごとと思って聞流して下さい。

 薬業界のことは若い方々がいつも大変頑張っておられ感謝しておりますが、長年一本調子でやって来ましたので今更後悔しても始まらないのですが、やはりこれからの世相が嫌でも頭に入ってくるので遂色々言いたくなる様ですが悪しからず。

 この頃の司法行政や政治経済,特に福岡県内のことは色々気になることが多すぎます。県内のマナーの悪さは有名なことで暴力団,暴走族,露店商,政治裏金等々は税金はどうしているのだろうと思うと店舗を張って固定資産税,源泉課税,事業税等を真面目に払うのがおかしい様に思われますが一等地の路上で10年20年に渡り吾々の倍以上の売上のある露店でも税務署は分らないそうで全く自由の様です。

 最も裏ではみかじの料は払わねばならないそうですが半日の売上程度で大したことはないらしい。又バス停駐車のタクシーに文句を言ったバスの運転手はタクシーの運ちゃんに殴られそれを乗客は知らんふりです。

 路上のごみ箱にごみの山・これ等はごみ箱を置かなくて済む様にしたいものです。くわえたばこの男女、何処を見ても理想郷とは思えませんが来年はここでよかトピアを開催するそうで外国からは皆さん遠慮してか国内企業が主の様です。もっと根本から考えて環境の整備,人心の一新,特に教育面で必要と思います。

 百年千年の福岡を考えて物事を行ったら如何かと思います。自分は南区の住居では水道と井戸水を併用していますが両方の蛇口に袋をつけてこしていますが水道水は二三日で黒ずんで来ますが井戸水の方はいつまでも真白で又味も比べられない位うまいですが之も何時まで続くものか。熊本市の例もあり産業廃棄物の恐怖に絶えません。

 <会員のひろば> 「信じられない様な現実」 香椎部会 福岡東洋漢方薬局 大部芳広
                                  昭和63年7月31日

 小生、薬剤師と鍼灸師の二つの土俵で仕事をしている為、卒後教育もこれ又大変ではあるが、新しい知識や技術の修得に楽しみを感じる事も多い。

 先日も6月下旬に、北京中医学院の彭 静山教授が2度目の来日をされ、東京と大阪で脳卒中後遺症の片マヒに対する眼鍼療法のセミナーが開かれたので、千載一遇のチャンスとばかりこのセミナーに参加した。全国から医師と鍼灸師が多数集まり、久し振りの本場中国医学の素晴らしい独創的な技術を目前にして強い感銘を抱いた。

 彭 静山教授はこの治療法の創始者であり、片マヒのみに限らず、眼鍼によって色々な疾病の治療法まで発展させた権威者である。そもそも小生がこの治療法を知ったのは少し前の事になるが、当時は正直なところ余り信用していなかったのである。

 ところが小生の漢方薬局に併設している鍼灸治療室に或る時、パーキンソン氏病の患者が来院した。従来の鍼灸治療や湯液では、と言うより少なくとも未熟な小生にとってはこの錐体外路疾患であるパーキンソン氏病を治す事は、はっきり言って自信がなかった。

 そこでこの患者に眼鍼療法を試みたのである。眼球に近い所の眼窩の周囲の特殊なツポに中国鍼を、刺入したと同時と言って良い位、即ち、刺入して4−5秒位で数年来の足の振範がピタリと言って良い程止ったのである。患者本人の驚きも然る事乍ら、小生の驚きの方が大きかった様だ。

 最初の内は1−2日で再び振せんが起り、再度眼鍼療法をすると止ると言った状態が2週間位続いたが、次第に振せんも軽くなり現在では極く僅かに振るえる程度で、週2回位の頻度で治療している。歩行も以前より随分楽になったと患者は言うのである。

 こんな経験等をして以来、この眼鍼療法の効果を小生も信じる様になってから脳卒中後遺症の片マヒ治療を主として、其他色々な疾患にこの眼鍼療法を応用している。又、日本の或る医師は73才の女性の片マヒ患者が、12回の眼鍼療法で仰臥して、マヒした足を挙上する事が出来る様になり、且つ、杖をついて100m位歩ける様になったと言う。

 さて、日本に於ける此の度の実技セミナーでは、実際に数名の患者さんが会場に来ておられ、実際に治療をされる様子を自分の目で確かめる事が出来た。

 その一部を記すと、脳血栓で4年前に倒れ、左の手足がマヒした患者に眼鍼を行なうと、治療前に仰臥位で15pしか挙上しなかった患側の足が5分間の治療で42p挙上し、一人で装具なしで数歩歩いて見せた。

 又、或る患者さんは、1年前に倒れ、今尚言語障害がひどく、全くと言って良い程言葉が出なかった人が治療後にはアイウエオが何とか言える様になったのである。患者さんも家族の方も涙で言葉にならない様子だった。

 ところで、有効率は発病3年以内なら80〜90%位だとの事である。完全に元通りとは行かない迄も、マヒが少しでも軽くなれば患者にとっては夢の様な話である。

 さて何故この様な劇的効果があるのかについては未だ解明されてはいないがいずれにしても効果の差こそあれ確かに効く事丈は判って来たのである。

 又、鍼を用いなくても同じ領域のまつ毛の根元の粘膜を消毒した綿棒等で刺激しても鍼程ではないが、同じ様な効果があるのだと言う。知識として知っておくと薬局の店頭でも役に立つ事もあるかと思い参考迄にその治療領域と適応疾患の経区を図1に示す。

図


 薬局の店頭で患者さんに手を施す事は勿論、法的に出来ないが、患者自身が行なう事は問題ない。但し、呉々も注意しておきたい事は消毒した綿棒なり衛生的に問題のない物を使って行ない且つ、余り強く刺激して粘膜を傷つけない様にしなければならない。

 安全面を考えるなら手指で眼窩内縁をもんでも或る程度の効果がある様な気もするが如何がなものだろうか。惑いは毎日眼窩周囲全体をもむと色々な疾病の予防にも少しは効果があるのではなかろうか。又、店頭での望診にも使える。

 この様に最近は東洋医学にも次から次へと新しい治療法が出て来る昨今である。ハゲ治療に閻三針の鍼治療や、今話題の101等はその最たるものではなかろうか。漢方の分野も更に広い視野で色々と新しい情報を受け入れ、自分の血肉となる様な生きた卒後教育と熱意が毎日の店頭活動に活力を与えるカンフル剤となるのではなかろうかと痛感する此の頃である。

 <会員のひろば> 「趣 味」 九宏薬品(株) DI室 山田雅弘 昭和63年7月31日

 最初に、体を動かすスポーツについてですが、運動神経は人並みにはあるのでしょう。中学、高校ごろは、草野球程度ですがよくやりました。病院勤務をした40年代は、メンバーの一員として参加してやりましたが、その頃、九大二外科からネーベンで来られていた杉町先生(現、九大二外科教授)もメンバーの一人でした。50年代、九宏薬品に勤務してからは、市薬のソフトボール大会に3〜4回博多支部から参加し、1−2本ホームランも打てました。しかし、現在は、TVでプロ野球を見る位です。

 山登り(山歩き)は若い頃、若杉〜宝満,背振〜金山などや傾〜祖母に行きました。九重連山には5−6回行ったと思います。毎年夏になると想いだすのは、大学2年の時、友人と二人で四人用テントを携行し、重量30kg近くのキスリングを担いで、日本アルプスの立山から黒部渓谷へ縦走した時のことです。

 当時すでに麓から美陀ケ原へのケーブルはありましたが、私達は、それに乗らず常願寺川の渓流を逆のぼり、立山温泉,五色ケ原経由で立山に到達するコースを選びました。立山に到達するまで途中、尾根で思いもかけぬ烈しい雨に遭遇し、テントを頭からかぶってかなり長時間の雨を凌いだが、寒さのために体は凍りつきそうになり、死をも覚悟したように記憶しています。結局そのために、最初、全行程3泊4日の予定が3日間順延し一週間になってしまいましたが、こういう思いもかけぬできごとが起きるのが山の恐さでしょう。

 立山に登頂後の下りは、剣岳をわきに見ながら剣沢から黒部渓谷,宇奈月温泉,魚津へとでましたが、黒部渓谷の凄絶さと美しさには魅せられたものでした。

 今後、手軽に山歩きをするとすれば、福岡市民のハイキングコースである油山位でしょうが、しかし、毎年六月の第一日曜日に上高地で催されるウェストン祭に、一度行きたいという願望を持っています。

 スポーツを別にして趣味と言いますと、囲碁ということになるでしょう。その他、切手収集,レコード収集(カセットテープも含めて、クラシック,ジャズ,ポピュラー,フォーク,歌謡曲など)も一時期やりましたが、現在はやっていません。麻雀は若い頃やりましたが、これで身を持ち崩したので、趣味というより麻雀ぼけしたと言えます。

 囲碁について述べますと、覚えたのは中学の頃で、家に下宿していた九大の学生さんと私の兄が少し打つことができて、二人の対局を見ながらいつの間にか覚えたような気がします。高校になってたまに近くの碁会所へ習いに行き、卒業時頃は初段近くになったようです。そして大学受験に失敗し一浪をしたため、その間、碁会所へまた通い、二〜三段位になったと思います。

 大学へ行ってからも囲碁を打っていたことに変りはありませんが、当時はまだ大学で囲碁部があったのは関東,関西地方の大学を除いてはほとんど無かったのが悔まれます。今では全国の大学で囲碁部のないところは数える程しかないと思われるし、大学間の対抗戦も盛んで、それと共に当然レベルも高くなり羨ましく感じます。

 現在、囲碁人口は500万人とも1,000万人ともいわれ小学生,中学生への普及はかなりなものであり、また女性の愛好者も同様増えてきています。

 今後、益々囲碁の普及が図られることと思われますが、一団欒の一つとして囲碁を楽しむ家庭が増えれば大変楽しいことと想像できます。

 <会員のひろば> 「病院薬剤師として思うこと」 福岡大学病院 薬剤部 土師 清
                                 昭和63年7月31日

 無芸、無趣味そして筆無精の私に、今回の原稿依頼があったのは、確か6月の中旬だったと思います。私は悩みました。そして、私は今、この機会に昭和60年の医療法改正につづき今年の診療報酬点数表の一部改正により今後、医療機関のなすべき機能,特質が問われ、患者ニーズの高度化,多様化に対応せざるを得ない状況にきている現在の社会情勢を鑑み、私達薬剤師が近未来に何をなすべきか私の13年間の病院薬剤師業務を振り返り、その糸口をみつけるべき、今回筆をとることにしました。

 昭和50年に私が福大病院薬剤部に勤務しはじめた頃は薬剤師のなすべき中心業務は今でいう狭義の調剤であり、それを習得するのが私達薬剤師の仕事であり使命であるとその時私は思っていました。しかし医療情勢の変化と共に次第にノンコンプライアンスの面から患者への服薬指導が重要視されるようになり、医師、看護婦等を対象にしたDI業務もDI室に専任者を配置することでだんだんと確立されてきました。

 又、昭和50年代のコンピューターの開発,発展は著しいものであり、医療分野にもその波及は大きく拡がりました。私達の薬剤部も昭和55年に薬品管理室に端末機を導入し、医薬品の受払い業務に活用しはじめました。

 そしてTDM、さらに昭和60年には調剤の一部の機械化ともいえる全自動錠剤分包機を購入し、現在入院患者サービスを行っています。昭和61年には、外来患者サービスの一環として、今までの調剤業務の見直しを図り調剤方式等の改良や全自動分割分包機等の機器購入を行い、現在大幅な薬の待時間短縮につなげています。

 以上が私の歩んできた業務の推移であり、最近まで私は今までの業務内容は、時代の流れに沿っていると思っていました。しかし、私達を取り巻く現在の社会情勢を考えると、これからの薬剤師には、今まで以上になすべきことが山積みにされている様に思え、現状の業務に甘んじている自分に叱責する思いです。

 そして私は今後、薬剤師が社会的使命を達成するために、何をなすべきかその答えを早急にみつけだすことが今の私達薬剤師に課せられた大きな課題であると考え始めました。そんな折に今年の6月に東京都で開催された第2回クリニカルファーマシーシンポジウムに参加する機会を得ました。

 今回のシンポジウムは、クリニカルファーマシーの現状と問題点がメインテーマで薬学教育者、行政・病院診療所・開局の薬剤師等が一堂に会して2日間講演と討論が真剣かつ活発に繰り広げられました。

 そこで現時点で私と同様に薬剤師の近未来に危機感等を感じられている先生方に、今後の薬剤師業務発展の手がかりとなればと思い、今回のシンポジウムの中で北里大学の小宮山先生が講演された内容を私なりに解釈し要約したのでその一部を紹介して私の話しを終えたいと思います。

 小宮山先生は「臨床現場でのクリニカルファーマシー活動へのステップ」と題し、演者自身の実務体験を基に話されました。まず始めに、クリニカルファーマシーサービスの定義は新しい既念ではなく患者の合理的薬物療法に寄与する薬剤師サービスそれ自身であり本来の活動であると述べられました。

 そして現在の日本のクリニカルファーマシーの流れは2つに大別されるが、今後は臨床現場でクリニカルファーマシーの展開はステップ方式でスタートすべきであり、実務サイドのみならず教育サイドにおいても努力すべきであると述べられ、各々サイドのステップ方式を詳細に述べられました。

 特に薬剤師が望まないものは薬局に根付かない。中央薬局に効果的医薬品供給システム等が確立されていなければならない。さらに医療チームの一員として信頼を得、あてにされる薬剤師の存在となるためには責任とプロの誇り、地道な努力が必要である等と述べられました。

 そして最後に、近い将来、必ず機械が調剤をする時代がくる、そして現在の医療経済体制はいつか必ず大きなメスが入れられる。その時になっては遅すぎる。クリニカルファーマシーの本質は薬剤師による合理的薬物療法の追求である。肝心なのは薬学関係者の正しい現状認識とプロ意識そして薬学を取り巻く状況変化に対する危機感とその対応策の着手であると切実に述べられました。
* 第2回クリニカルファーマシーシンポジウム 講演要旨集

 <会員のひろば> 「今日、この頃」 博多西部全 くすりのヒロヤ 山村博久
                                 昭和63年7月31日

 先日、あるお客様より私に電話が、ありました。そのお客様は、随分長い間、当店のお客様でもあり、最近は、支店でお買物をされている方です。話しの内容とは次のような事でした。最近、支店の従業員の接客態度が冷たいとおっしゃるのでした。開店した当時、店長も他の従業員も、心暖まる接客で、それが自分にも伝わって来て、買物が楽しく出来たとおっしゃるのでした。でも、近頃の「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」という挨拶には、心が伝わってこないともおっしゃるのでした。支店も3年が経過し、少し繁盛するようになり、毎日の忙しさにかまけ、支店長や他の従業員も一番大切な「心」を忘れがちになっていたのでしょう。

 それは、私自身にもいえることだと思いました。8年前、夫婦で、店をはじめた頃はお客さんも少なく、お客様が、当店に来て下さることだけで、うれしかったものです。あの頃は、私も家内も、本当に一生懸命でした。年中無休で働き、家内は子供を生む前の日まで、それも、夜遅くまで働いてくれました。

 お客様が、電話をかけて下さってきたことで、私自身、考える機会を改めて与えて下さったと、そのお客様に感謝しております。反省をもしております。

 今、自分自身について考えるに、従業員も5人に増え、昔ほど一生懸命じゃないように思われます。謙虚さが、ないようにも思われます。「実るほど、頭をたれる稲穂かな」です。それから、私どものような町のどこにでもあるような薬局においては、なによりも「心のサービス」が一番です。

 色々、偉い方の講演を聞いても、書物を読んでも、やはり同じことを言われています。それゆえ、店が、どんなに大きくなり、いくら増えても、私自身、初心に戻り、「心のサービス」が出来るような接客を、心がけなければならないと思っております。

 同業種で、仲の良い友人ができました。彼とは、同じ薬業人として、売り上げ、イベント,問屋やメーカーの事,人間関係と幅広く、それぞれの店のことを卒直に話しあっています。お互いに全く違う環境で営業をやっているものですから、かえってそれがいい刺劇になり、アドバイスし合い、日々の販売にも、プラスになっております。そして、ここでも、彼との結論は、いつも「心のサービス」だと言うことで、終りになります。また、こんな友人が出来たことも、うれしく思っています。

 これが、私の、「今日、この頃」……です。

 <会員のひろば> 「中国語口座によせて!」博多東部会 センタービル薬局 塚田靖子
                                  昭和63年7月31日

 私は、中国語を習い始めて一年近くになります。習おうと思った動機は単純な考えでした。知人に中国旅行に誘われていた時にたまたま市政だよりに、中国語無料講座受講生募集、の見出しに、これは、グッドタイミング、だと思い、早速飛びついて、応募しました所、運よく抽選に当り、今日までに至りました。

 今は、中国語がブームで、中国語講座に人気が集まり応募者数も多いらしく、私などが一度で当った事は、幸運だったと思っています。

 興味本意で始めた中国語は、習えば習う程に面白さが湧いてきて、今では講座のある日が楽しみになってしまっています。

 最初、六十人余りだった受講生の方々も、無料から有料になるにつれて、少なくなって今では二十人足らずに減ってしまいました。

 ほとんどが女性ばかりで男性は2人です。女性パワーの凄さには感心します。

 最初の頃は週2回の講議と発音の難しさと初めて見る漢語と、物覚えの悪さに途中で落ちこぼれるんではと心配しましたけど、これは年の功と申しましょうか、図々しさと度胸で頑張って、どうにかここまでやって来られました。

 講座のある日は、朝早くから家事に取りかかり、発音練習のため、カセットを聴きながら、夕食の用意などをして、バタバタと出掛けて行きます。何しろ忙がしいので、予習も復習も満足にせず、受講しているその時間だけ、集中して聞いてるのみですので、全く上手になりません。

 一年たった今でも、理解に苦しむ事が多くて心配になります。時たま忙がしくて、行くのが億くらになる事もありますけど、落ちこぼれると大変なので、足を引きづりながら出かけたりします。

 何しろ若い時と異って、無理が効きませんし、頭の働きも鈍くなり、同じ事を何回も何回も繰り返し、やっと人並についていく感じです。 受講生の方々の平均年令は、32才位だと思いますが、皆さん熱心な方ばかりで刺激に刺激を受け、牛の舌なんか忘れてハッスルしています。

 中国語の先生は、皆九大留学生の方々です。日本語は流暢で、漢字は達筆で、そして努力家です。又礼義正しく更に言葉使いも丁寧で、時々私の方が何かとお知えられる事もあります。

 若くバツラツとした留学生の方々に接する事が出来ただけでも「中国語を習っていて良かったなあ」と思っています。

 もう少し、話し聴き取れる様になり、気の合った仲間と一緒に、中国にでも行けば、きっと楽しい旅行になるんではと思っています。それにはまだまだ遠い先の事で、夢の又夢になりそうですけど、出来る限り続けて頑張りたいと思っています。

 <会員のひろば> 「死学事始」 箱崎部会 セイイ薬局 入江理裕 昭和63年7月31日

 四季はなは定まれる序(ついで)あり、死期は序を待たず、死は前よりも来たらず、かねて後に迫れり。人皆、死ある事を知りて待つこと、しかも急ならざるに覚えずして来る。

 沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるがごとし。(徒然草)
 と兼好法師は死を語っています。

 皆様方は一度や二度は死ぬ目に会い、その恐怖が、ぞーっと、背中を吹き抜けた経験をお持ちでしょう。又死を思い夜半に戻された事もあるでしょう。その時、死んでなくて良かったと胸をさすられた事でしょう。

 しかし人間は必ず死ぬ。という完全な摂理があります。この摂理を理解すべきです。死を自分の物とし、死をみつめて、人生を生き抜けば早く死しても、老いて死しても、内にも外にも、調和と安らぎが得られます。摂理を認めたがらず、又まだ先の事として、死にたくない。又はまだ死ぬはずない、と摂理に逆らう生き方は、不安、恐怖、取り越し苦労が続き、人生に混沌が生じます。

 死はだれもがいつの日か直面する事になる厳粛な事実です。徒然草のどとく、今日、明日にでも死が後より迫ってきている事を今すぐ認めた方が、どれだけ賢明でしょうか。

 永遠の肉体。肉体の不老不死等という事は絶対にありません。又、死は、個人の好き、嫌いで永くも短かくもなる事はありません。

 死とは一体何でしょう。まず普通に云われている死は人生最大の不幸でしょうか。不浄、不吉な事でしょうか。永遠の別れでしょうか。全くの孤独でしょうか。

 よく云われている絶無、まったく何もかも消滅してしまい、後には何も残らないのでしょうか。死は暗黒の世界にひきずり込まれる事でしょうか。もうだれにも会う事が出来なくなるでしょうか。

 私は全部否定します。決してそんな事はありません。これは、私が20年間かかって、得た結論でございます。しかしながら皆様方には、「見て来たようなウソを云う」という事になり、この世的な科学では証明は出来ません。しかし私には確信があります。自信もあります。霊体験もあります。

 しかし、私の云う事は「うのみ」にはしないで下さい。貴方の理性と知性に照し合わせて判断して下さい。ピンと来るものがあれば賛同してほしいし、そんなバカな!と思われる方は、即、否定されてかまいません。

 理性に裏づけされない納得と云いますか。知識は、まったく無意味ですし、その方にとっては毒となる事もあります。否定されて私が困る事は全くありません。又、貴方の人格が否定される事もありません。

 死は、一種の卒業式です。一応人間業を終了出来た大吉の日です。家族との別離?とんでもありません。より一層身近になっています。

 孤独?とんでもありません。死んだ直後より、先に死んだ親,兄弟,姉妹,友,霊友等が、皆迎えに来ます。そして人間の時、苦しかった事や色々の苦労をねぎらってくれるでしょう。会いたいと思った人には全て会えます。残して来た地上の肉親の様子も全部わかります。ただ死ぬと、一般にバイブレーションと申しまして、日本語にしますと、振動という事になりますが、それが肉体と霊体ではまるっきり違い、肉体ではそれが感授できません。それが出来る人達が霊能者と呼ばれています。そして低いバイブレーションしかもたない人間には、霊からの呼びかけに、応じられないわけです。まるっきり聞こえないわけです。そばに居ても肉体を持つ者には、わからないわけです。何故でしょうか

 人間に生まれるというのは、霊の修業の為だからです。人間というのは、もともとは霊です。肉体をまとった霊です。霊である事が本質です。霊が主で肉体が従です。霊は永遠ですが肉体は滅びます。人間は霊,精神,肉体で、出来ています。生きてる人間が霊ならば、死んだ霊からの呼びかけに何故わからないか?それは、肉体で霊を完全に包んでいるからです。

 霊界の霊は先が見えます。地上に修業の為に行った霊が苦しんでいる時、色々と教える事によって修業の邪魔をしない為です。人間は自分の自由意志で生きて行かねばなりません。人間が霊ならば再び人間に生まれ変る事が出来るか?

 答 出来ます。人間に生まれる理由として前に生まれた時やり残した仕事を行う為と、前に生まれた時からのカルマ(業)又は償いの為に生まれます。そして人類の進歩発展の為にも生まれて来ます。長くなりますので今日はこの辺で終わります。

 <会員のひろば>「私の雑感」 六本松部会 ヤツナミ薬局 松尾可恵 昭和63年7月31日

 この四月、2ケ月前に学校薬剤師を始めて引き受けさせて頂きましたが、始め学薬に入れさせて頂きたいなぁ−と思ったのは、ある方の葬儀の後、皆様と一緒にお茶を飲みにいった時、非常に和気あいあいとしたアットホームな雰囲気に、つい私もお仲間に入れて頂きたいなぁ−と思ったのが始まりです。

 ところが初めての事ばかりで、研修を含め出る事も多く、分らない事ばかりで今年1年間は良い勉強と思い、出席させて頂き、学校へも足を運ぶ積りでおりますが、学校を卒業して始めて学校と名の付く場所の内部を垣間見た分けですが、常識で考えて下さったら分かりそうな事も、今の生徒の親なる人達や、先生という立場の人達の敏感すぎる反応される事を実感として、少し分らせてもらったように思います。

 子供達も親も先生方も、ピリピリし過ぎるように思い、昔の自分の小,中学生時代を思い返えしてみて、子供も親も先生方も、大らかさがあったように思い、良い時代に育ってよかったと思い乍ら、今の時代、子供を育てるという事の大変さを思い、又、可哀想に思いました。

 そういう昨今に於いて、私の店に来る人で、“水の健康法”を一生懸命しておられる人が多く見られる。心臓,甲状腺病に特に良いと云われて、信じておられる人が多い。それも水道水を飲む事だそうです。どこを押したら、こんな話が信じられるのか?分りませんが、私達の話よりも、健康食品を売られる方々の巧みな話し方を信じられる。この一般消費者の人は、健康に関しては、何を根拠に信じて行ってやっていらっしゃるのだろう?

 私達、健康に関して専門的にやっている者が、如何に信じられていないか、痛切に感じる。このような消費者にアピールし、なおかつ、健康指導者として、信頼されるような薬局、又人間になりたいと思いますが、こういう事柄に合うと、なかなか一生涯掛かってもやれないのでは?とつい弱音をはきたくなる程、理想と現実のギャップに、溜息が出るこの頃です。

 <会員のひろば> 「私流楽々子育てノート」 城南区 副島啓子 昭和63年7月31日

 「子育て奮闘記でも…」という御依頼で原稿を書かせて頂くことになった訳ですが、私としては楽しませて頂いていて、少しも奮闘しているつもりはありません(諸先輩お母様方にはそれはドタバタだと思われるかもしれませんが)私自身が、母親が教職にあり、産休を過ぎると、子守りのお姉さんに育ててもらい、母の愛情に飢えていたのか、子供心にその淋しさが身についていたのでしょう。

 自分の子は学校に上がるまでは家で自分と育ってほしいと常々感じておりました。で、仕事も、病院の忙しさもかえり見ず、産休入りできっぱりと辞め、(随分、迷惑をかけていますが)我が子のお世話にどっぷり浸っています。お世話というより一緒に遊んで暮らしています。今までになかった三食昼寝付の優雅な暮らしです。

 夫を朝送りだして、夜迎えるまでの13−14時間は私のものですから、子を泣かそうと笑わせようと、家の中がちらかろうと勝手です。産前1か月、産後4か月という長い間、実家にお世話になり、その間は子のお相手と洗濯のみの生活でしたから、ひどく楽でした。

 いざ家に帰って、さあ大変だろうと思いきや、意外と簡単。どこに行くにも子を連れ出し、子は親に振りまわされている様です。人並に突発性発疹は出ましたが、お陰で子の病院通いもなく、福大病院と筑紫病院には度々お邪魔し、我が子はいろんな人に会えて、未だに人見知りを覚えていません。バス、電車の中では、人ににこにこあいさつのしどうしです。

 病院勤めのお陰で、小児科受診の子のお母さんから得たものが随分役に立ったし、もちろん、我が子の処方せんに書いてある薬も理解でき、やめても薬剤師、処方せんをもらえばチェックする。扁桃炎もどきで、ジゴシンelex.が書いてあったらDr.に聞いてもらうし、ロートエキスやらリンコデの量はしっかり見直します。逆に、シロップはできるだけ混合した方が便利で、ボンタールSyr.なども2日分ぐらいだったら混合してあった方がのませやすいとか、DS.は水に浴かすより、そのままか、シロップにまぜたりヨーグルトにふりかけた方がよくのむとか・‥。

 子を持って自分は今まで何と無責任に窓口で説明していたのかと改めて感じたり。先日、急患センターに復帰させて頂いて、窓口説明が産前のそれと随分変わっていた様に思います。坐薬は、必ずうんちの後に使った方がよいですよと言ったり、粉薬はヨーグルトに混ぜてものませやすいですよと言ったり…・今までにない説明ができました。

 我が子も今、つかまり立ちに興味をもっていますが、できるだけはわせて手足を強くさせようと思っていますので、我が家には夕食時以外には低いテーブルをおいていません。

 いすをさがしてからはハイハイで寄ってきてはいすにつかまっています。狭い家中這いまわるので、玄関にはワゴンを、台所の入口にはダンボールといすを、コードの近くには大きなおもちゃをおいて、ベランダにはすだれや、行水用のプールや洗濯かどでしきりをつけて、それらの内側で、子供としては充分遊べるスペースを作って遊ばせています。

 親が眠い時は、子供部屋の入口を締めて寝ていると、最初は、親を起こそうとしたり、体の上たよじ登ってきたり、おもちゃで遊んだり…そのうち一緒に寝てしまいます。これからもこんな手抜き子育てで行こうと思っていますが、それなりに子には自由さがあってよいのでは(?)と自画自賛。

 そろそろ寝ていた達郎が日を覚ましたのでペンをおきます。いつか機会があり、こんな母親ですが、お手伝いできることがあったらよろしくお願い致します。

 <会員のひろば> 「バイタリティのO型 愛に生きるが、現実性も強い」
                  九州大学病院 薬剤部 平川雅章 昭和63年7月31日

 ある保険会社のパンフレットに0型気質の特色例が書かれていた。原稿書きを頼まれた時、何を書こうかなと思っていたところでしたので、これを参考に自己紹介します。

 <自然の生命力が最も強く、たくましいが健康に神経質すぎる。>

 私は健康に神経質すぎることはありません。酒もタバコも人並以上で、仕事で遅くなることも気にならないが、Workaholic(仕事中毒)でもalcoholic(アルコール中毒)でもない様にバランスを取ればいいと思っている。とは思うものの、近ごろ、alcoholicに近づいてきている様な気がする。

 一言、ビールはサントリーモルツが好きである。

 現在、私は腰を痛めている。アメリカ帰りの同僚が、調剤室にいると腰が痛くなる、これは労災だと言っている。

 市薬剤師会の皆様、調剤する時は、姿勢を正しく!!<日的志向型、目的が決まれば、まっしぐらに直進し、目的があいまいなときはズッコケ気味>

 その通りだと思う。とくにズッコケ気味が心地良い。<ロマンチックと、強い現実性の二本立て>30才を過ぎて、現実性が増して来ている様に思えるが、強いロマンチストである。

 例えば、私はあまり泳げないが、太陽が昇る前の海が大好きである。釣に行ったとき、釣より景色を眺めることがよくある。(魚が一匹も釣れないからかも知れない。)

 <社会の力関係に敏感,勝負師である。>学生時代から、中国語の勉強が好きで、ちょっとした小遣い稼ぎになったものだ。薬剤部では中国語の勉強が嫌いらしく、稼ぎにはならない、残念である。私が入局した当時、大坪先生が、連続3回負けて、奥様から叱られたらしく、それ以来、中国語の勉強は闇に消えてしまった。

 <やや一言多い>他人に言われる事あり、“口は災いのもと、である、注意しよう”

 <食事は実用的、何でも頂くクチ>力を込めて言いたい。納豆,らっきょう以外はOKです。

 <理論的で信念が強い、反面、考え方がストレートで単純な一面もある。>良くわからない。

 <仲間を求める。>結構、照れ屋で寂しがり屋である。

 以上、取り留めのない原稿になりましたが少し、私の事おわかり頂けたでしょうか?最後になりますが、薬剤部の皆様、私は本当にロマンチストなのである。

 <朝日新聞「声」欄より> 「薬剤師は医師の処方は批判せず」
               福岡市 柴田伊津郎(薬剤師 74才) 昭和63年7月31日

 患者に渡す薬について、その効能などを医師がよく説明するよう、厚生省が指導すると報導されていた。そのこと自体は結構なことだが、この記事の一部に気になることがあった。

 患者が自分の服用する薬について、十分理解しておくことは大切なことである。しかし、これを薬局で説明するとなると、よほど慎重にしないと逆効果となる恐れがある。記事中のイラストでは、医師から投薬された薬を、薬局の人が見て「あー、こりゃ安物だなぁ」といっている。とんでもない話で、こんなことはおこらない。

 薬局では、医師の処方内容を批判するようなことは厳に慎んでいる。効能、効果の説明についても、診療に影響することのないよう、十分留意している。イラストのようなことは、あってはならないことである。これでは、医師との間に不信感を生むだけでなく、薬剤師と患者との信頼にもマイナスの効果を生んで、患者に良い結果は与えないであろう。

 <フレッシュさん紹介> 「衛生行政の中の薬剤師」
             福岡市下水道局管理部水質試験所 仲江圭子 昭和63年7月31日

 はじめまして。私は昨年より福岡市役所に勤務しております。直接的には薬務に携わっていないので、少しでも薬に接したいと思い、昨年の11月に本市薬に入会させて頂きました。

 この会報は、一方的ですが存知ている先生方が多々、文を書いておられるのを、なるほど、と他人事のように思いながら目を通していたところ、まさか自分が書くことになろうとは少々とまどっています。

 医薬品に関する第一線で働きたいというのが私の望みではありますが、思いどうりにはいかなかもので、現在、水質検査をしています。

 市役所でどういう仕事をしているのか、ピンとこないかと思いますので、福岡市のPRも兼ねまして、ちょっと紹介させて頂きます。

 各自治体によって異なっていると思いますが、福岡市では、我々薬剤師が役所に入る場合、衛生管理職という身分で入ることになります。一般的には、薬局,病院,企業等に従事される方が大多数だと早いますが、行政にも、薬剤師としての専門的知識,資格を必要とする仕事は多々あります。

 例えば、食品衛生法第19条第4項で定められている食品衛生監視員がその1つです。これは衛生局に属する保健所等で食品の衛生面を監視,指導する職務です。

 その他、衛生行政に携わる職務としては、環境局,水道局,下水道局等があり、薬剤師の方も多数活躍しておられます。

 とは言っても、私としては、薬学を志したからにはやはり医薬品に関するスペシャリストになるのが本筋ではないかと思います。

 「この薬はどんな薬?」と尋ねられたとき、その説明ができないはど情けないことはありません。ですから急患センターの仕事は、その調剤数,医薬品の種類等、問題にならないほど少ないかもしれませんが、私のような者にとっては、調剤を忘れないそして常に薬に対する興味がもてるという点で、非常に勉強となるものなのです

 今後ともこの様な気持ちで臨んでいきたいと思いますので、諸先輩の方々どうぞよろしくお願い致します。

 それから行政にも薬剤師の仕事はあるのだということを、これから薬学を卒業される方々にも周知され、ぜひぜひ公務員試験を受けられるようお勧めされるようお願いします。
   (S61年 福岡大学薬学部薬学科卒)

 <広  報> 「柴田伊津郎先生  叙勲記念祝賀会」 昭和63年7月31日

 

 日 時 昭和63年7月2日出 午後6時
 会 場 西鉄グランドホテル

 

 祝賀会次第
 司会 藤原良春市薬専務理事
 1.開会の挨拶
   荒 巻 善之助 福岡県薬会長
 1.発起人代表挨拶
   古 賀   隆 福岡市薬会長
 1.来賓の御祝辞
   熊 谷 富士雄 福岡県衛生部長
   林   武 彦 福岡県議会議員
   久保田 秀 己 福岡市議会議員
 1.記念品・花束贈呈
 1.受章者の謝辞
 1.開宴の辞
 1.乾  杯
   神 谷 武 信 前福岡県薬会長
 1.祝電披露
 1.祝い目出度
 1.万才三唱
   白 木 太一郎 先生
1.閉会の挨拶
   大久保 俶 住 先生<

 柴田伊津郎先生の、栄えある勲五等双光旭日章受章を記念して、有志による祝賀会が先生御夫妻をお招きして、上記のように盛大に開催されました。お祝いの挨拶の中では、「薬剤師の鑑」という言葉が度々出てきて、又友人代表のスピーチでは藤野義彦先生,金枝正巳先生,小松真佐雄先生よりいろいろなエピソードも披露され、柴田先生の人柄が忍ばれるひとときでした。

 なお柴田先生に対する賛辞は、発起人代表古賀隆先生の挨拶文に尽きると思いますので、ここに記載します。

 「挨拶文」

 発起人代表  古賀 隆

 このたび、春の叙勲に際し、柴田伊津郎先生が栄誉ある勲五等双光旭日章を受章されました。このことは柴田先生のみならず、私達薬剤師会員にとりましても、この上ない喜ばしい慶事であります。心からお祝いを申しあげます。御承知の通り、先生は人格まことに高潔円満で会員の信望も厚く、今日まで多年に亘る輝かしい足跡を拝聞いたしますときに、今回の叙勲はそれに報いるにふさわしい受章であると喜びにたえない次第であります。

 先生の数々の功績については、その経歴、業績を見ていただきますとよくお分りいただけると思いますが、特に私が申しあげたいのは過去叙勲を受けられた先生方が、何れも県薬会長或いは支部の会長というトップを勤められた方ばかりでございます。

 柴田先生は、その性格から、晴れがましいそのような役職を経験されておられません。ただ歴代会長から、ひたすらこわれるままに、淡々と常務理事、理事或いは国保審査委員などの要職を三十余年にわたり勤めてこられました。このことは、やはり先生の非凡な学究的才能を会が必要としたからに外なりません。先生のこのような長年の業績が評価され、今回の受章に到ったことの意義,価値の偉大さを、こんにちつくづくと思うのであります。

 誰言うともなく、先生のことを薬剤師会の「鑑」と申します。まさにむべなるかなであります。どうかこれからも益々御健勝で我々後輩の指導・育成に御尽力を賜わりたいと存ずる次第であります。発起人を代表して一言お祝いを申しあげ祝詞といたします。

          (社)福岡市薬剤師会会長
             (出席者 90名)

 <会議報告> 「第185回理事・監事会」             昭和63年7月31日

 日 時 昭和63年6月24日(金) 午後7時
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 古賀会長、竹尾,高倉,長谷川場副会長、藤原専務理事、三津家,戸田,松枝,坪根,正岡,藤下部常務理事、木原,高杉,南島,冷川,小野,藤田,成澤,市花各理事、日高,磯田各監事

 1.会長挨拶
 石井道子後援会活動について、党員,党友の獲得は全国的に見ると低調である。福岡県でも提出した名簿に不備なものがあり若干不足している(市薬は100%達成)ので福岡市でカバーしたい。なお締め切り日は7月まで延期された。後援会員については6月20日に支部長会を開き協議したが今後一層の努力が必要である。会員にお願いする上からも、まず理事者は、100名の獲得を達成して頂きたい。

 2.報告事項
 藤原専務理事より報告
(1)福岡市国民健康保険運営協議会委員に古賀会長推せん
(2)各保健所運筥協議会委員に各支部長を推せん
(3)アジア太平洋博「健康館」の進展状況について
(4)その他

 3.委員会報告協議事項
(1)各委員会の事業計画について了承された
(2)組織委員会から出された「薬局に勤務している薬剤師の調査」アンケートについては、一部不適当な項目があるとされ、再度委員会で検討することになった。
(3)入会申込書は二部作成し、一部は会に一部は支部長に提出することになった。

 4.協議事項
(1)会館建設問題について
(イ)設計事務所,建設会社等について協議したが決論は次回の理事会で出すことになった。
(ロ)建設専門委員会(プロジェクトチーム)の設置が了承され、その委員選考は会長に一任された。
(2)石井道子後援会活動の統轄責任者に、竹尾副会長が選任された。
(3)会員名簿の作成が了承された。今回は定款及び連盟規約をつけることになった。

 恒例の「三師会」が、医師会の担当により行われた。医師会及び薬剤師会の役員改選が行われたこともあって、その紹介に始まり、よかトピアその他の諸問題についてなどやかな懇談会であった。尚次回は歯科医師会の担当で行われる予定である。

 <委員会報告>                      昭和63年7月31日

  「組織委員会」

 日 時 昭和63年5月26日(木) 午後7時30分
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 竹尾副会長、戸田常務理事、高杉,南島,成澤各理事、吉村,森川,吉田,戸田(重),占部,糸岐,瀬尾,深見他各委

 1.委員会の活動方向について
(1)内容を強化して問題が起きた時対処できる組織作りをしたい。
(2)会員相互の融和をはかるたの、性格の異なる行事を開催し、なるべく多くの会員に出席してもらう。
(3)第1,第2委員会は必要に応じて会議を分ける。

 2.事業計画について
(1)非会員対策
 (イ)部会毎非会員薬局名を提示する。
 (ロ)研修会出席者名簿記入を管理,勤務薬剤師別にする。
(2)新規入会員の指導
 (イ)入会のしおりを作る。
 (ロ)入会者がある人数になれば、年数(1年又は3年未満)で法規の説明を薬務課の応援で行う。
 (ハ)医薬品券のメリットを説明して、小売商組に入会を勧める。
(3)未組織B会員対策について
 (イ)急患診療出動者(勤務を除くB会員)の組織化のため成澤理事へ協力要請。
 (ロ)成澤理事より出動状況の説明あり
    A会員 42名
    B会員 23名(勤務部会会員数72名中)
    49名(末組織B会員数118名中)
    C会員 4名(会員数25名中)
    計 118名
    勤務以中のB会員の出勤者中より、新たに急患委員を選任(理事会にはかる)し、組織委員会へ協力させたい。
(4)薬局に勤務している薬剤師の調査のためアンケートを実施する。
(5)納涼船を実施する。
(6)ソフトボール大会を実施する。
(7)ボーリング大会を実施する。
(8)業界のアピールとしてボランティア活動も必要である。(県薬に質問する)。

 〇第1組織委員会

 日 時 昭和63年6月8日(水)
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 竹尾副会長、高杉理事、森川,深見他,占部各委員

 1.非会員対策について
(1)理事会を通し事務長が県薬務課の資料よりチェックする。
(2)部会長が会員,非会員のチェックする。
(3)薬事協会等の名簿よりチェックする。
(4)入会のシオリを作成する。

 2.部会の活性化について
 博多支部では、部会活動が成功しているので、博多支部の会員用,部会長用の連絡用紙等を参考にし、部会活性化をはかる。

 3.納涼船について
 検討した結果申し込み時期が悪く今回は中止する。

 4.ソフトボール大会について
 9月18日(日)武田薬品グランドで実施する。

 〇第2組織委員会

  日 時 昭和63年6月8日(水) 午後7時
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 戸田常務理事、南島理事、戸田(重),吉田,吉村各委員

 1.63年度の目標について
 非会員対策、特に勤務薬剤師(薬局に勤務する)の掘り起しと入会促進。

 2.上記の目的でアンケート調査を行うにつき、その内容を検討した。なお、アンケート調査案は6月24日の理事会にかける。

 「薬局委員会」

 日 時 昭和63年5月25日(水) 午後7時
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 竹尾副会長、松枝常務理事、冷川理事、篠崎,本村,青谷各委員

 1.事業計画について
(1)医療法及び薬事法改正に伴う薬局の整備と適正化
(2)医薬品の適正な流通と管理による安定化
(3)健康事業への参加
(4)薬と健康の週間行事への参加
(5)公衆衛生,薬害防止運動への参加
(6)OTC浮上策
 以上の件につき協議した。

 2.年間計画について
(1)能古島にて民間保育園健康部会の野草採集会を実施 5月31日
(2)薬局薬剤師研修会  6月実施
(3)漢方研究会     7月 〃
(4)薬草観察会     9月 〃
(5)福岡市健康週間行事・各区健康フェア 10月実施
(6)漢方研究会    12月 〃
 以上の予定で事業を行う。

 日 時 昭和63年6月15日(水) 午後7時15分
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 竹尾副会長、松枝常務理事、冷川理事、篠崎,国武,本村,青谷各委員
1.薬局薬剤師研修会について

 日時 7月7日(木) 午後7時
 内容(1)日薬ライブラリー映写
 (イ)専門職としての薬剤師
 (ロ)開局薬剤師のマナーとエチケット
 (2)講濱「OTC薬局の今後」
 講師 竹尾副会長

 2.漢方研究会について
 日時 7月26日(火) 午後7時
 内容 生薬の組織培養の現況
 3.誤食誤飲事故対策ポスター作成について
 継続して検討する。

 「薬局委員会」

 日 時 昭和63年5月25日(水) 午後7時
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 竹尾副会長、松枝常務理事、冷川理事、篠崎,本村,青谷各委員

 1.事業計画について
(1)医療法及び薬事法改正に伴う薬局の整備と適正化
(2)医薬品の適正な流通と管理による安定化
(3)健康事業への参加
(4)薬と健康の週間行事への参加
(5)公衆衛生,薬害防止運動への参加
(6)OTC浮上策
 以上の件につき協議した。

 2.年間計画について
(1)能古島にて民間保育園健康部会の野草採集会を実施 5月31日
(2)薬局薬剤師研修会  6月実施
(3)漢方研究会     7月 〃
(4)薬草観察会     9月 〃
(5)福岡市健康週間行事・各区健康フェア 10月実施
(6)漢方研究会    12月 〃
 以上の予定で事業を行う。

 日 時 昭和63年6月15日(水) 午後7時15分
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 竹尾副会長、松枝常務理事、冷川理事、篠崎,国武,本村,青谷各委員
1.薬局薬剤師研修会について

 日時 7月7日(木) 午後7時
 内容(1)日薬ライブラリー映写
 (イ)専門職としての薬剤師
 (ロ)開局薬剤師のマナーとエチケット
 (2)講濱「OTC薬局の今後」
 講師 竹尾副会長

 2.漢方研究会について
 日時 7月26日(火) 午後7時
 内容 生薬の組織培養の現況
 3.誤食誤飲事故対策ポスター作成について
 継続して検討する。

 「社保委員会」

 日 時 昭和63年4月4日 正午
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 宮崎常務理事、正岡理事、大庭,有田,清水,岩穴口,小野,山口,藤田,入江,占部各委員

 1.3月23日の社保説明会の反省
 2.レセプト審査
 3.指導箋の今後

 日 時 昭和63年5月6日(金) 正午
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 宮崎県薬理事、正岡常務理事、小野,藤田各理事、入江,山口,清水,岩穴口,有田,大庭各委員

 1.レセプト審査
 新請求様式,コンピュータ

 日 時 昭和63年6月4日田 正午
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 正岡常務理事、小野理事、入江,清水,鶴原,岩穴口,川畑,大庭各委員

 1.63年度事業計画の確認
(1)備蓄薬品リスト10月作成予定‥・藤田
(2)若松地区の見学
 2.25,000円以上の明細書のコピー添付の件は、まだ未定である事を各支部確認すること。
 (県薬社保委員会の決定をもって各薬局に知らせる。)
 3.国保明細書における男,女記載の確認

 日 時 昭和63年7月4日(月)正午
 場 所 市薬会館図書室
出席者 正岡常務理事、藤田理事、山口,川畑,大庭、岩穴口,鶴原,清水,入江,藤野,平島各委員

 1.編テツ順の変更
 2.処方コピーに関する注意事項
(1)(処)の未記入
(2)処方欄の計算及び走書きは消してコピーする事
(3)約束処方と誤解されやすい記載は訂正してもらう事
 3.屯用の計算は従来通り、但し内服の計欄は/とする事。

 「急患委員会」

 日 時 昭和63年5月18日(水) 午後7時
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 高倉副会長、藤下常務理事、成澤理事、馬場,北島,小松,竹崎,深見(朋)各委員

 1.年計表について
 58−59年末では伸びているが、59年以降は横ばいである(患者数)。
 2.出勤表について
(1)出動表作成方法について説明
(2)B会員(勤務を除く出動者)の組織化を検討。
 3.薬局業務質疑応答集について
 県薬の救急医療委員会で作成したものであるが、今後続けて発行するかどうかは県薬で討議する。
 なおこの委員会には市薬より成澤,藤下両理事が出席する。
 4.事業計画について
(1)委員会を10回開催
(2)急患センター薬局業務手引書編集の検討会開催
 調剤申し合わせ、中毒対応一覧表等を収載し、他の急患センターのモデルとなるものを作成したい。
(3)新規出動希望会員のための説明会を随時開催
(4)医薬品集第4版発行に伴い、看護婦さんとの研究会開催

 日 時 昭和63年6月28日(火) 午後6時30分
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 藤下常務理事、成澤理事、馬場,北島,小松.竹尾(真),深見(朋),打越各委員

 1.打越新委員の紹介
 勤務以外のB会員の代表として組織委員会へも協力
 2.新規出勤者について
 吉田和子先生(中原病院)
 3.薬局業務手引書の編集について
 早見表,小児薬用量の見直しが必要である。各委員で分担する。提出期限は7月末。
 4.県薬救急医療委員会の報告
 急患センターへの問い合わせで、中毒に関するデータを集積するため質問用紙を充実する。
 5.その他
 枚,件,剤数の数え方を統一して、業務手引書に収載する。

 <事業報告>                       昭和63年7月31日

 「薬物療法研究会」

 日 時 昭和63年6月22日(水) 午後6時30分
 場 所 市薬会館研修室
 演 題 「脳神経と脳代謝改善剤」
 講 師 山之内製薬株式会社 医療部課長 三宅照久 先生
 出席者135名

  「杜保説明会」

 日 時 昭和63年6月27日(月)午後7時
 場 所 市薬会館研修室
 演 題 「厚生大臣の定める調剤報酬明細書に添付する資料の取扱いについて」
 講 師 社保担当理事、小野信昭先生
 出席者 134名

 食べられる野草採集 (薬 草 観 察)

 主 催 民間保育園健康部会
 場 所 能古島
 日 時 昭和63年5月31日
 参集者 民間保育園健康部会 50数名
 協 賛 福岡市薬剤師会
 随行員 九大薬学部助教授 正山先生
     同 大学院生 2名
    市薬剤師会  竹尾,坪根,篠崎,柴田,大庭

 能古島の小林園長さんから御依頼があり、正山先生にもお願いして、左記の随行員が同伴することになった。遠くは小倉の幼稚園の先生も見え、皆さん楽しみにしてあったらしい。

 梅雨のはしりと思われる日が続き、心配していたが幸にも薄曇りの天気に恵まれ、姪の浜港に晴れやかな顔がそろい9時14分の船に乗りこんだ。

 能古島に到着後、数班に分れ、先頭を正山先生しんがりを柴田先生が受けもち、他の者は適当に中間に位置して見晴台へ向って出発した。

 先生達はクサイチゴに舌鼓をうちながら野草を摘み、薬草の説明を聞いたり、ムサシアブミに吃驚したり、園児の土産にとカタツムリ頂上に到着後、早速みそ汁やてんぷらの料理を3,4人の人にまかせて、その他の先生達には正山先生から薬用・食用に供される草木について、採集したものを示しながら、40分間程講議があった。をとる方もあり草の生い繁る山道を汗を拭き拭き登られた。

 その後、色々の料理された野草を賞味しながら食事を摂られた。我々は一足先に下山した

 能古の港で皆に再会した時、一日を有益に過せたことへの満足と喜びの顔がそこにあり、別れを惜んで袂を分った。

 末筆ながら正山先生が快よく参加戴いたことに深く感謝して報告を終ります。

 目についた主な草木
 ヌルデ、アカメガシラ、クサギ、タラノキ、テイカカズラ、スイカズラ、クズ、アケビ、ヨモギ、オオバコ、ノビル、クサイチゴ、ウツボグサ、アマチャヅル、メハジキ、チガヤ、アカネ、カキドオシ、 他
    薬局委員 篠崎 正十郎

 <支 部 だ よ り>                  昭和63年7月31日

 「福岡市薬剤師会 中央支部総会」昭和63年7月31日

 日 時 昭和63年6月8日
 場 所 博多城山ホテル

 1.開会の挨拶
 2.支部長挨拶
 3.来賓挨拶
 4.議  事
 第1号 昭和62年度事業並びに決算報告
 第2号 昭和62年度決算認定の件
     監査報告
 第3号 昭和63年度事業計画案
 第4号 昭和63年度予算案及び会費決定の件
 5.その他
 A 新入全員の紹介
 B 市薬中央支部遠出委員の紹介
 6.閉会のことば
 7.懇親パーティ

 出席者 来賓 荒巻県薬会長
        古賀市薬会長
        藤原市薬専務理事
        久保田市議
        石原市議
        早麻県議
     会員    27名
     家族・職員 24名

 来賓の方々より御挨拶を頂いた後、会食をしながら抽選会や国武先生がライオンズクラブでアメリカへ行かれた時のお話しをして頂き楽しい一時を過せました事を報告申し上げておきます。
 (記 小野信昭)

 福岡市薬剤師会 博多支部総会

 日 時 5月21日(土) 午後5時
 場 所 ホテルクリオコート博多

 日 時 5月21日(土) 午後5時
 場 所 ホテルクリオコート博多

 総会は、冨永副支部長の司会により、冷川副支部長開会あいさつ。高杉支部長の冒頭挨拶に続いて、荒巻福岡県薬剤師会会長、竹尾福岡市薬剤師会副会長並びに花田博多保健所所長よりそれぞれ来賓祝辞が述べられた。次いで、山口利英議長のもとに議事に入り、報告事項、議案はいづれも承認可決され、最後に任期満了に伴う役員選挙が行われた。新三役、監事は下記の通りです。

 役職名  氏 名  薬局名
 支部長  高杉正典 高杉調剤薬局
 副支部長 富永雄造 富永薬局
 〃    山口利英 千鳥橋薬局
 会 計  蔵元良行 聖和堂薬局
 監 事  細井徹一 住吉薬局

 総会終了のあと懇親パーティが催され、来賓として、田村博多区医師会会長、葛西博多区歯科医師会会長(代理)、井上、新宮各県会議員、北岡,友杉,南原各市会議員が出席和気あいあいとして盛会を極め、当日の全日程を終えた。

 当日の総会において決定の昭和63年度事業計画は、下記のとおり。
◇ 63年度事業計画
 @ 支部組織の確充。
 A 部会活動の促進。
 B 研修事業への積極的参加。
 C 二師会との積極的対応。
 D 政治力の高揚。
 E 会員相互の親睦促進事業。
 F 急患医療、学薬への積極的参加。
◇部会別出席者数
  部会名  会員数 出席者数
   浜    12    8
 千代・吉塚  15    8
 博 多 西  14    3
 博 多 東  12    7
 博 多 南  16    13
 住   吉  13    8
 月   隈   5    4
 板   付   7    0
 雑   餉 16     9
  出席会員数 60名
  来   賓10名
   合 計  70名
            (記 高杉正典)

 福岡市薬剤師会 南支部総会

 日 時 5月7日(土) 午後7時
 場 所 和風レストラン「秋」

 出席者数 28名
役員の改選
 支部長 有田俊雄
 (S24.熊本薬専卒,井尻部会)
 副支部長 大庭秀臣
 (S38.徳島大学卒,大橋部会)
 会 計 瀬尾 隆
  (S48.福大卒,長住部会)
           (記 高倉 博)

 福岡市薬剤師会 東支部総会

 日 時 昭和63年4月10日
 場 所 リーセントホテル

 出席者数 22名
 来 賓 林武彦県議会議員
     古賀市薬会長
     藤原市薬専務理事
 1.開会挨拶
   馬場勘二,馬場正守両先生黙寿
 2.来賓挨拶
 3.報告事項
 @ 事業報告 井原先生
 A 理事報告 正岡先生
 B 各委員会報告
 C 代議員会報告
 D 会計報告
 E 支部役員改選の件
  支部長  松井昌也(徳松薬局)
  副支部長 村田博昭(村田薬局)
   〃   藤野哲朗(藤野薬局)
  会 計  入江理裕(セイイ薬局)
  各 委員 薬局  篠崎正十郎
       杜 保 入江理裕,藤野哲朗
       急患 馬場正佳
       組織第1 松井昌也
        〃第2 吉村きく子
           (記 松井昌也)

 福岡市薬剤師会 西支部総会

 西支部、最後の支部総会を下記の場所にて開催を致しました。支部会員の御協力を得て全て、無事に終ることが出来ました。報告とともに御協力いただいた事に感謝致します。

 日 時 5月24日 午後6時
 場 所 福岡市薬剤師会館3F研修室
     セントラルホテル(懇親会場)

 出席者数 46名
 通常の議題に賛同をいただいた後、西区の3分割について、会員の先生方に協議を充分にいただき、3分割を決議致しました。
 早良支部(早良区)
 西新部会,原部会,早良部会
 支部長 南島敏彦
 城南支部(城南区)
 別府部会,友泉部会,七隈部会
 支部長 深江暉夫
 西支部(西区)
 姪浜部会,壱岐部会,西部会
 支部長 吉田 斌

 前記の様に、支部を行政の線引き通りに分割する事を決議いただき、新しい支部長さんも決定致しました。市薬にも誕生したばかりの新支部に、あまり負担がかからぬ様、折を見て、お願いをしたつもりです。三支部の事業計画も一致する所が多く、中でも、支部,部会組織の建てなおしと充実の為、支部会則,部会別等を(市薬剤師会細則一部改正の1部第1章 会員の所で部会長及び支部長は前項の入会申込書の進達をそれぞれの部会もしくは支部の議を経て……)1部前記改正を盛り込みながら、組立てられて、今年獲得した部会権限と、それに伴う責任と、部会,支部活動に参加いただく各会員の先生方の義務を、新支部のために、歯をくいしぼって、先生方1人、1人の力を活動のため燃焼いただければ、新しく三つのコンパクトに団結した、各支部が、出来上ってくると思います。
            (記 占部 吉幸)

 <社団法人 福岡市薬剤師会 役員紹介>             和63年7月31日

 正・副会長,監事 略歴
 「会  長」
 古賀 隆 先生
 S3年5月29日生
 S25年 熊本薬学専門学校卒
 元福岡市薬剤師会 理事
 元福岡市薬剤師会 専務理事
 福岡県薬剤師全 副会長

 「副会長」
 竹尾啓二 先生
 S3年8月25日生
 S24年 熊本薬学専門学校卒
 元福岡市薬剤師会 常務理事
 福岡県薬剤師会 常務理事
 福岡県小売商業組合 副理事長

 「副会長」
 高倉 博 先生
 S5年9月9日生
 S30年 星薬科大学卒
 元福岡市薬剤師会 常務理事
 元福岡市薬剤師会 南支部支部長

 「副会長」
 長谷川宏明 先生
 S13年1月11日生
 S35年 長崎大学薬学部卒
 済生会福岡総合病院 薬剤部長
 元福岡市薬剤師会 常務理事
 福岡県病院薬剤師会 理事
 福岡市薬剤師会 勤務部会 理事

 「監  事」
 日高賢志 先生
 S4年10月25日生
 S26年 熊本薬学専門学校卒
 福岡逓信病院 薬剤部長
 福岡市薬剤師会 勤務部会 学術委員長

 「監  事」
 磯田正之 先生
 S2年5月2日生
 S22年 熊本薬学専門学校卒
 元福岡市薬剤師会 理事
 元福岡市薬剤師会 東支部支部長

 <一度は泣きました。二度は泣きません!>            和63年7月31日

 市薬会員の皆さん、日薬誌の中の−薬連ハイライト−「もう、泣きません!」読まれましたか?

 前回の選挙で次点に泣いたばかりに昭和58年の健康保険法改正の時、その中に薬剤師職能が取り入れられずにくやしい思いをした事と、昭和59年9月当選以来の石井議員の素晴しい活躍が私達会員向けに詳しく書いてあります。

 先日、後援会名簿の用紙と一緒に私達の手元に送られてきた、“石井道子後援会入会のしおり”は一般の人向けに作られていますので、−石井道子の最近の活動から−というところを読んでみても、石井議員が私達薬剤師のために、どれ程の活動をしてくださったのか詳しく書いてはありません。

 そして、後援会員獲得の福岡市薬目標達成のためには、市薬会員の皆さんに是非とも石井議員の活動を知っていただく事が必要です。

 なかでも、前回の選挙を知らない会員さんのなかには「石井道子!石井道子!と言われても、だいたいどういう議員さんなのか良く知らないわ。」という会員さんも多いのじゃないかと思われますので、ここに日薬連幹事長 高橋輝一郎氏が書かれたものを転載いたします。

 是非、御一読下さい。“後援会員獲得1会員100名”は誰のためのものでもありません。私達、薬剤師のためのものです。

 100名集めてしまった方も、まだの方も、「Don’tstop!!ザ後援会」で何としても、9月末日の集計迄には、市薬目標を達成したいものです。 
 (記 木原)

 石井道子参議院議員の最近の業績                 和63年7月31日

 1.カタログ販売(通販)につき行政指導基準確立の支援
 2.中医協の調剤報酬アップを支援
 3.新型間接税における日薬要望事項の実現方尽力中
 4.医薬品情報センター補助金制度の新設
 5.薬局等構造設備規則改正に伴う医薬品試験検査委託制度の実現
 6.医薬分業推進基盤整備費の予算化
 7.医療法
 @ 薬剤師・調剤・薬局・薬事を明記
 A 医療審議会への薬剤師の参加
 B 付帯決議に「薬剤師の役割」を明記
 8.老健法
 @ 審議会へ薬剤師の参加
 A 老人保健施設基準における薬剤師配置,医薬品管理規定等の明記
 9.保険調剤報酬(社会保険診療報酬)に係る個人事業税の非課税措置の存続

 <女子薬ホットライン>                    和63年7月31日

 5月29日、三鷹ホールで開催された福岡県女子薬剤師会総会に於いて、大変嬉しいことに城戸先生が福岡県女子薬剤師会会長に、そして山手先生が福岡支部長になられましたので、ここに御紹介いたします。

 皆さん、しっかり応援しましょう!! 女性の先生ですので、生年月日をうかがうのは差しひかえましたが、卒業年次だけはシッカリ書かせていただきました。

 「福岡県女子薬剤師会 会長」
 城戸嘉寿子先生
  (社)福岡市薬剤師会 試験センター
  (社)福岡市薬剤師会 理事
   S31年 共立薬科大学卒業

〔福岡県女子薬剤師会福岡支部支部長〕
  山手嘉子先生
   簀子当仁和会 山手薬局
   福岡市学校薬剤師会 理事
   S32年 九州大学医学部薬学科卒業

 <「川  柳>        「博 多 人 形」        和63年7月31日

 ◇カタログと  チラシ販売  どこに差が

 ◇医療法  誰れが変えるの 日和見で

 ◇お祭りで  売り上げ上がれば  よかトピア

 ◇店頭で  悩み聞くのも  いい薬

 ◇奥方に  叱られ上手が  役員に

 ◇後援会  名簿集めは  誰れのため

 ◇会報で 人を知るのも  又楽し

 ◇広報に  女のパワー  期待され

 ◇代議員  女名前が  見つからない

 ◇後援会  子供の友にも  ケーキ出し

 ◇カレー見て  お出かけですか  お母さん

 ◇店先きで  薬は売らずに  油売り

 <編 集 後 記>                       和63年7月31日

 〇今まで市薬では、「市薬広報」と「福岡市薬会報」とに分けて発行しておりましたが、会員の皆様により一層親しんでいただける広報を目指して、今号より「市薬会報」に一本化してお届けすることに致しました。発行月は、従来通りの奇数月とし、1月号と7月号は特別号の予定ですので"“会員のひろば”へのご寄稿御待ち申しております。

 ○「もしもし、私は市薬広報担当の木原と申しますが……」と言う突然の電話に、今回ご寄稿下さいました先生方は本当にびっくりされた事と思いますのに、このような素晴らしい原稿をお届け下さいまして本当にありがとうございました。

 そして、自分には関係の無い事だとお考えの先生方、次回は先生のところへお願いの電話を掛けるかもしれません。

 その節は、どうぞつれないお返事はなさらないで下さいませ。       (木原)

 ■ 巻 頭 言 「ご理解とご協力を」 福岡市薬剤師会 副会長 竹尾啓二
                                昭和63年9月30日

 4月末昭和63年度の事業計画とその裏付けというべき予算を執行部原案どおりご承認を得ました。つづいて役員、委員が決定して早くも六ケ月が経過致しました。五月末から役員、委員の先生方は各自自覚を以ってその業務に精励されておられます。

 組識、薬局、社保、急患、学術、広報各委員会は、毎月開催され実に真摯に、真剣に、前向きに検討討議されています。第一回目の委員会で本年度の事業計画が樹立され、その実行に移っておられます。特に組織委員会では、福岡市薬発展のための基礎は組織力、和と団結力が基本であるとの考えを原点として、役割と機能を発揮しようと懸命に討議されています。会員諸兄には会員としての義務と権利があります。市薬の定款、細則を充分御認識下され守る可き処は守って市薬の地盤を固めると共に薬剤師職能向上を図る必要があると確信致します。会員諸先生には、委員会で企画立案される諸事業に対して、深い御理解と御協力を切にお願いする次第であります。

 薬局経営面では、薬価の引下げが続き、薬業界に冬の時代が到来しています。薬局に於ける経営については、慢性的な不振が続いており、春の来ない冬の時代が居座っている様に思います。薬局の増加も年々上昇路線をたどり、これからの経営は未曽有の至難な道になりそうであります。医薬品の特殊性と薬局の自主性を発揮せねばなりません。否発揮する時が来たと云う感じが致します。

(イ)正確な調剤(ロ)効き目が良く特徴のある薬局製剤(ハ)正しく広い知識を持つ漢方薬(ニ)適確な判断と養生法の皮フ病薬(ホ)安全性と有効性に富んだスイッチOTCの採用等々生涯教育に徹し、お互い如何なる困難にも打ち勝ち人生に生き甲斐を持てる様に、又地域住民に密着した薬局経営をして行かねばなりません。

 地域住民が真の健康を真剣に期待し考えている時に、物に心を添え健康への正しいアドバイスをせねばなりません。当然薬剤師自身の資質の向上という事が必要になります。卒後教育に、学術研修、薬局薬剤師研修会、諸種研修会に、ゼミナーに、積極的参加をお願いします。

 経営が厳しい状況下で、生き残りの条件が問題になって来ます。地域社会での存在価値を高めて行くには、消費者のニーズを迅速に的確に把握して対応してゆくしか方法はないと考えられます。意識改革を行い、発想の転換を行って大衆薬に期待されるセルフメディケーション新時代を展開してゆかねばなりません。

 その様な状況下で我々各自は小売薬業のために、自己完成をせねばなりません。薬局経営をするために先ず第一に自己建設をして完成を目指し努力邁進して行かねばなりません。景気が悪い、業績が振るわないのは、薬剤師会が悪いのではありません。これは各自一人一人が自分の責任を忘れない様に充分注意して、同業の同志と語り合い励まし合って自己建設に努力せねばなりません。

 福岡市薬が今日さん然と有るのは、先輩諸氏の血の彦む様な労苦があったらばこそここ迄発展して来たのだと感謝しております。私達はその先輩の努力労苦に負けない様一人一人が頑張って、市薬の存続と益々の隆盛に邁進せねばなりません。それには、会員一人一人が誠意と責任を以って努力する事であります。お互いに頑張りましょう。批判する事より建設的な考えを持って強く正しく押し進む以外有りません。希望と情熱を持ってこの厳しい時代を急がずあせらず根気良く最善を尽して参りましょう。

 先生方の御指導と御鞭撻を宜しくお願い申し上げます。

 特別寄稿 「大いに頑張って下さい」 日本薬剤師連盟 幹事長 高橋輝一郎
                               昭和63年9月30日

 萬才! 石井道子政務次官就任!
 7月22日、政府は杉元環境政務次官の後任として、私達の代表石井道子参議院議員を決定し、同日付で発令いたしました。

 石井先生は参議院環境特別理事として、薬剤師としての専門知識・行動力・その実績を買われて、環境政務次官という大役を任されたもので、持ち前の負けん気、たくましい行動力、旺盛な研究心、着実に積みあげてゆく実績、政務次官就任の道を開いたと思います。加えて、薬剤師の職能拡大を身をもって示されたのであって、私達薬剤師を大いに、勇気づけたもので、来年の参議院選挙に対する活動に弾みがつきました。

 異常な雨続き、番狂わせの夏にも不拘、石井選挙は白熱化してきて、電話の問い合せもしきり、各都道府県の最前線が一団となった様子が手にとるようにわかってきました。

 今回の環境政務次官の就任は、日頃の努力の積みかさねの成果とはいえ、薬剤師会・薬業界あげての喜びとなりました。

 早速、政務次官就任の祝賀会が、「東京・渋谷・東急ホテル」にて、開催されました。8月18日、日本薬剤師会の第65回臨時代議員会に全国から集った代議員の方から、期せずして、「オメデトウ」という言葉と共に、頑張れ、頑張れと、石井道子議員に声をかけていました。

 今日まで、党員・党友・後援会員作りにと頑張ってきた私達にとって、心から嬉しいことであり、参加者全体が、さらに、後援会員作りを懸命にやるぞとの心構えのあらわれと受けとりました。

 この所へきて、どっと、私達に対して、激しい御しかりやら、意見具申をいただきますが、いよいよ戦いは堰を切ったなという印象を深くしていますと同時に、これを、みなさんの御激励と受けとめて、私達も頑張ってまいります。

 このような事もあってか、党員・党友もふえてきて、それぞれの募集目標100%以上達成の都道府県支部も多くなったのは、未達成支部にはなりたくはない、恥はかきたくないと、ここを先途と頑張ったのだと思われて、指導者各位の御苦労に深く感謝します。

 これからは、薬剤師会は半人前などといわれるような小成に甘んじることなく、渾身の力をふりしぼって、戦ってゆきたいものです。

 これから、終盤までの長丁場は、選挙区候補者と連動しながら、「第15回参議院選挙にむかって、全国どこの支部組織も10回以上開催を目標」に選挙区の票の掘りおこしの目的で、石井道子議員を中心とした会合をもってゆくことになりますので、この石井道子はげます会の開催を、各種支部会合の前後につないでいただいて、石井道子議員の陣営のカウント効果にもつながるものとなるよう、一層の御協力をお願いします。

 このたびの参議院選挙でありますが、石井道子議員が全国区参議院議員として当選なされて3年の歳月を経過しました。私達は、薬剤師職能を代表して国会で活躍して下さった高野一夫先生を失って以来、国会で、私達の立場で、職能を代弁していただく方が一人もいない、ここ一番の急所で、手詰めの一手のたりない悲哀を様々に思い知らされて参りました

 私達のこうした輿望を担って出馬した石井道子先生は八面六臂の大活躍で、時、あたかも財政再建、高令化社会に対する社会制度の見直しの中で、たださえ遅れをとっていた薬剤師職能の位置づけと業権拡大に、身をなげうって残されたご功績には目を見張る思いがいたします。

 このような中で、日本薬剤師会も年来の懸案事項解決の糸口をつかんで、懸命の努力をかたむけています。これからが大切です。

 石井議員に依存することも多いのです。
 薬は「モノ」にあらずとした考え方は、厚生省の指導もあって、漸次、徹底してきた矢先き、総務庁は先ごろ流通分野の公的規制緩和について調査報告をまとめ新行政改革審議会に提出しました。医薬品販売業についても@店舗改装許可 A添付文書 B試験検査用器具の範囲などについてもメスがはいっていますが、これからも、今後の重要な政治課題の一つになるのです。

 この一事を見ても、国民のために、薬剤師の力を結集して、新しい時代に対応する薬剤師の将来を築いてゆかねばならないと思います。どうか、後援会員の募集、地方における石井道子はげます会の開催などに健斗をして下さい。

 福岡市薬剤師会、支部薬剤師連盟のみなさん!“ほのお”のような運動を展開して、石井、石井、と燃えひろがった、大きな運動となるよう期待しています。

 さあ結集しよう! 「石井道子先生を励ます会」         昭和63年9月30日

 日 時 11月26日(土)  午後3時40分〜4時20分
 場 所 福岡県薬剤師会館

 来年6月の参議院選挙での石井先生の当選を願って、上記のように「励ます会」が行われます。今後も何度か「励ます会」は有ると思いますが、全国各地を分刻みで移動している石井先生が、福岡県にいらっしゃるのは、この日以外には望めません。11月26日の1回だけです。

 そして、石井先生は、福岡会場の後直ぐに北九州会場へと移動されます。

 私共にとりまして、かけがえのない石井先生です。何んとしても、あの県薬の講堂を溢れんばかりにして、お迎えしたいものです。

 是非、是非、お誘い合わせの上御出席下さいませ。

 特別寄稿 「エスカレーター」 福岡県薬剤師会 会長 荒巻善之助  昭和63年9月30日

 福岡市の地下鉄は、出来たてで利用客が少ないせいもあり、ピカピカで気持ちがよい。深いので登り降りに苦労するのと、待ち時間の長いのを我慢すれば、全く快適な乗物である。

 ちょいちょい利用するうちに、乗客の面白い行動に気がついた。エスカレーターの乗り方である。

 電車が止ると、エスカレーターで出口に向うが、このうち最初の数人は大抵歩いて登る。動いているエスカレーターの上を歩くのだから速度は倍になる勘定だ。せっかちといえばせっかちだが、ほんの数秒でも時間の節約になることは間違いない。

 このせっかちな人達は、駅と時間帯によって人数が違う。天神や博多駅など昇降客の多い所では10人ぐらいが歩くが、千代町ぐらいの駅になると最初の1人からして止っていることもある。通勤時になると歩いて登る人数がぐっと増えて倍以上になる。よほど小さな駅でない限りエスカレーターの幅は二人分になっているから、1人だけ止っているときは横をすり抜けて登れる。

 つまり止っている人が1人だけか、同じ側に並んで止っていてくれるなら、横を登っていくことができるが、左右バラバラに止ると登れなくなる。ときにはその後からくぐり抜けて行く人もあるが、大抵はここで止る。同じ段に二人並んで話し乍ら止っていると、これはもう後は完全に止る。ここで止ると、後の人はいくら歩いて登ろうと思っても登れなくなる。いらいらしても他人と同じ速度でのろのろ登っていくしかないわけだ。

 そこで自力で階段を登る人達ができる。普通に階段を登る速度は、エスカレーターの速度よりかなり速いから、その分だけはいらいつしなくてすむ。最初の1人ぐらいはよくかけ登る人がいたが、最近は「危いからかけ登ってはいけません」という表示が出ているようだ。

 ながながと説明に紙数を費したが、こういう光景は、大凡御存知のことだと思う。問題は毎日見られるこの光景が、人生航路とよく似ているな、ということである。つまり「チャンス」と「実感」と「努力」の配分が、である。

 エスカレーターの登り口には最初に来れば確実に歩いて登れる。二人冒迄は確実だ。三人目になるとどうなるか判らない。時と場所によっては10人目ぐらいまで歩いて登れるかも知れない。ただ確実なのは2人目迄だからどうしても歩いて登るつもりなら登り口に最も近い電車の降り口で待期していることが必要である。そのためには、何輌目のどの出口が、最も登り口に近いかを知っていることが必要で、1度利用した駅ならば、これはわけなく知ることができよう。問題はそういう同一条件の中で、その人が、どう行動するかということである。

 エスカレーターの登り口に最も近い出口から降りるかどうかは「チャンス」である。然し2度目からはその出口から降りることはできる。つまり、リサーチによってチャンスはつかめる。それを「意識するか、しないか」の差である。たまたまその出口の近くに空席がなくて、離れた場所に座っていても、降りる頃その出口迄来ていれば、これは「努力」である。満員でその出口にどうしても来れなければ、自力で階段を登る。これはもっと努力が要るが、一般人はこんなものだろう。

 何もそんなにセカセカしなくても、のんびりとやればよいじゃないか、という考え方もある。それはそれでもよいだろう。然し駅の外に出て次に乗るバスの時間が1時間に1本で、それに乗れるか乗れないかの差となるとこれは大きい。毎日電車に乗る、数分、いや数秒早く目的地に着く。無駄な意識、無駄な努力のくり返しのようでも、その中の1回だけその数秒が大きな差を生むようなことが、人生にはあるのではなかろうか。

 石井選挙がだんだん大詰めに近づいてきた。後援会名簿作りに会員諸氏の努力をお願いしているが、これをやっていても同じようなことを感じるのである。

 知人が多い、少ない、性格が人なつこい、内気だ、これはハンディであり、チャンスと置き換えることもできる。いつでも名簿を取れるよう用紙を懐に忍ばせておく、オフィスや商店なら、必ず印はある。これは意識である。そして事あるごと、言いにくい思いでお願いする。これは努力である。

 これだけの意識と努力、これが無駄になるかもわからない。然し石井道子を落すか落さないか、その差がここで決まるとなれば、その差は大きい。石井議員の事跡を改めて云う迄もないが、ここで議席を失うか、失わないかの差は、今後の我々の主張が通るか、通らないか、その分れ目であることだけは確実である。一生懸命努力しようと思う。

 特別寄稿 「北九州市薬剤師会検査室について」
      (社)北九州市薬剤師会 副会長 未宗成二    昭和63年9月30日

 ・昭和54年3月、厚生大臣指定 建築物衛生環境管理法にもとずく水質検査機関
 ・昭和54年4月、厚生大臣指定 水道法にもとずく簡易専用水道の検査機関
 ・昭和56年6月、厚生大臣指定 薬事法にもとずく検査機関
 ・昭和62年8月、福岡県知事指定 ビル管法にもとずく水質検査機関
 ・昭和63年7月、厚生大臣指定 食品衛生法にもとずく検査機関(申請中)
 「社団法人北九州市薬剤師会」が取得している指定は上記の通りです。

 なんでも法律というものは、年々に強くなってゆき、指定の条件などは六ケ敷くなります。

 簡易専用水道の指定では行政より「今、水質検査をやってもらっているが受水槽・高置水槽の水槽検査を別の業者にやってもらうということになれば面倒になるので、是非薬剤師会でとって下さい」との強い要請があったのです。

 厚生省の方針は県下1ヶ所の指定検査機関ということでしたが、法律の出来た最初のこともあって北九州市内4業者、福岡県下2業者の計6業者が指定されました。やはり法律は新しく出来た時には少々の無理もゴリ押しもお願いすればなんとか了解をしていただけました。月日がたってくると先の既存業者が強くなって仲々に最初の時のように思いどおりには参りません。

 今、一番福岡市薬で問題になっている「厚生大臣指定の薬事法にもとずく検査機関」についても、最初に取組んで申請をして許可まで取付けました。

 福岡県では衛生研究所・福岡県製薬協会・北九州市薬剤師会の3団体だけでした。勿論これには大きな政治力が必要です。八幡西区選出の住吉徳彦先生に働きかけ是非受理していただくようにと夜討ち朝駆けで何回も事務所を尋ねてやっと日の目をみたのです。

 今、申請をしている「厚生大臣指定食品衛生法にもとずく検査機関」の申請についても1年余りの準備期間はかかりましたが、小倉薬剤師会々長小野英吾先生より、福岡県議会副議長の安枝守太先生のご盡力でなんとか報いられそうで心より感謝致しております。

 以上のように政治力は絶対に必要であり参議院選の石井道子先生にも総力を挙げて頑張るべきです。私達の代表として上位当選を目指しましょう。

 現在「社団法人北九州市薬剤師会検査室」の概要については、
 検査従事員スタッフ 5名
 事務職員      2名
 検査機器については、ガスクロを始め液クロ・原子分光光度計等最新の機械器具類130種類完備して稼動しています。私共の習った「第5改正日本薬局法」では遠い過去のものです。私共の分析は全部手分析で滴定して色の変化等によって判定していましたが、随分に個人差があって多少の誤差は止むを得なかったのですが、現在は全部械器分析でデジタル・表・グラフ等にて出てくるので検査結果は、おのずからはっきり判明します。
 今日の「北九州市薬剤師会試験室」の存在は、行政のご指導ご援助の大であったことを忘れてはなりません。

 私試験室担当責任者から見れば、福岡県薬は今までは余りにも理解がないと思います。

 福岡県薬自身直接に試験室の問題を取扱かっていないので全然に無理解、検査補助金として1検査機関45万円とは何を基準に考えているのでしょうか。1人の検査員の人件費は給与・ボーナス・色々の保険料・交通費・家族手当を加算すれば約350万円かかります。 これは人件費として自然増加を加算して毎年上ってゆきます。

 機械器具類も日進月歩の時代であり新しい設備の機器でないと取り残されます。又常に新しい機器の取扱いを勉強せねばなりません。こんな点を考えると頭の痛いことばかりですが、県薬の先生方も実情をしっかりと把握して頂きたいと思います。

 昭和63年度より荒巻会長以下新役員となり、検査室の認識を再確認していただきたいと思います。

 毎年福岡市薬・北九州市薬それぞれ検査室の件については県薬宛に文書で陳情を行なっております。

 一日、も早く「厚生大臣指定薬事法にもとずく検査機関」の指定を取得して、共に手をたずさえ、協力して、医薬品の品質管理や医薬品にともなう色々の検査方法等の向上をめざして頑張りたいと思います。

 特別寄稿 「株式会社ユニックDI室の現状について」
       株式会社ユニック DI室長 車田吉正         昭和63年9月30日

 今回、福岡市薬剤師会より当社のDI室の現状につき紹介するようにとの依頼を受けまして恐縮している次第です。

 当室のDI業務も未だ不備の点も多々ありますが概略をご紹介します。今後のためにも会員の諸先生のご指導を頂ければ幸に存じます。

 昭和54年薬事法の改正に伴いまして、卸売一般販売業の法的定義が明確化されまして、卸としての本質的機能であります、医薬品の流通に関する諸問題につきましても法的責務が課せられたことは事実です。しかし、これは医薬品のもつ使命である安全性,有効性のことから当然のことと言えます。

 同時に薬事法第77条の2「情報の提供等」に卸売一般販売業の義務が明記されたことの意義こそ重大であると受け止めています。

 当社はご存知の通り長年にわたり、株式会社川口屋としましてご愛顧を受けて参りましたが昭和61年4月株式会社ユニックとしまして、第二の創業に向けて新発足を致しました。

 当社のDI室は旧川口屋時代の昭和48年4月にDI室を設置、初代、DI室長として、甲斐田茂先生が就任され、引続いて、昭和57年6月に松本規先生が着任され、現在のDI室の基礎固めをされ、現在に至っております。

 現在は営業本部学術担当としまして、鮫島貫志郎先生に社員教育とDI業務のご協力をも得まして、都合4名(本年6月よりDI室専従者1名増)で現状では以下に示す業務を行っています。

 ◆Dl情報の提供

 DI業務の中では薬事法第77条の2の主 旨の通り医薬品の安全性,有効性に伴う、これ等の新しい情報を正しく、速かに、お得意様に伝えるのが第一義ですが、卸の場合は取引メーカーに限度があり、又取引の濃淡により、その情報入手もまちまちです。当社の場合DrugInformationを発行しておりましたが、諸般の都合で一時中断の止むなきに至っておりましたが、卸DIと致しましてはメーカーDIの一部代行のつとめもあり早い時点で復活を予定しております。

 ◆お得意様からの質問に対する情報の提供

 書籍,資料も可成取揃え、又医薬品情報データベースは富士通エフ・アイ・ピーK.Kとオンライン契約を結びお得意様のご質問には出来るだけご要望におこたえ出来るよう努力しています。

 昭和63年1〜5月受けました質問件数につきましては別表の通りです。

 最近の傾向としましては錠剤識別のみにとどまらず質問内容は薬理等の高度のものが多くなっているようです。当社の場合各事業所の管理薬剤師の先生方にもご協力頂いております。

 ◆Dl情報等の交換会

 川口屋支社におきましては毎月第二,第四月曜日、各事業所の管理薬剤師の会合がありまして、お互いの情報交換,研修がもたれています。この会のお手伝い,情報の提供をしています。

 ◆商品知識に関する社員教育

 社員の多くは薬学教育は受けていないわけですが医薬品を扱うためには、薬を知らなければ、その安全性,有効性をそこなうことにもなりますことは申すまでもないことです。そのため社内学術ニュースを発行、社員研修につとのています

 その一部をご紹介させて頂きますと次の通りです。
 No.1 新造影剤について(繁用されているものの比較他)
 No. 2 ニューキノロン系薬剤について
 No.3 潰瘍治療剤について
 No. 4 プロスタグランジンの薬理とその薬効
 No.5 老人性痴呆の各種治療剤について
 No.6 ACE阻害剤について
 No.7 頻尿治療剤にについて
 No.8 繁用消毒剤の使い方とその調製法

 以上、当社のDI室の業務概略につき述べさせて頂きましたが、実質的な内容面につきまして、なお多くの検討,改善すべき課題が残されています。

 最後に会員諸先生におかれましては今後ともご支援,ご指導を賜れば幸甚に存じます。

 会員のひろば 「会報を読んで」 井尻部会 菊水薬局 大久保俶住 昭和63年9月30日

 福岡市薬剤師会会報は7月に発行された夏季特別号で第24号となる。今回から会報、広報が一本化されて福岡市薬剤師会会報として再スタート奇数月に年6回発行されると言う。

 恩恵に浴する我々会員にとっては会誌の充実と発行増は大歓迎であるが、編集の御苦労を考えるとき、唯頭が下る思いがする。

 今度「会報を読んで」のテーマで原稿の依頼を受けた。しかるにその編集の苦労が並大抵ではないことが判っているだけに、無責任に感想文など書けるものではないとお断りしたのであるが、よりベターな会誌とする為に是非と言われここは私情を排して以下感想を述べることとする。

 普段何気無く読む会報も感想文を書くべく読み返してみると編集の苦労以外に随所に編集の気配りがみられ、編集の苦労が更に肌で感じられるから不思議である。

 手元に日本薬剤師会雑誌、福岡県薬剤師会会報、福岡市薬剤師会会報がある。

 我々会員が会の運営を知る上で重要な会報である。日薬雑誌は学術的知識と会の運営について全国的な視野で、県及び市の会報は地方、地域的な視野で身近な情報、知識を供給してくれる。従って市薬会報はよりローカルで身近な話題が必要となる。それだけに泥臭い話題も時には必要となってくる。

 夏季特別号での石井道子後援会名簿獲得の上位会員名の掲載並びに関連記事は、石井道子再選にかける熱意をヒシヒシと感じると共に、あえて泥臭い部分にも踏み込んだ勇気と決断に敬意を表したい。

 因に市薬会報のこの試みに呼応し県薬会報でも後援会名簿100名獲得会員名を掲載すると聞いている。また福岡市薬剤師会政治連盟が発足した現在、政治連盟専門のページも必要ではなかろうか。

 次に私達会員にとり一番大切で関心のある会の運営に関する記事について触れてみたい、会報については、会議報告、委員会報告等で充分な報告がなされている。唯その内容からは執行部の考え、会員への要望等は知るすべもない。幸い夏季特別号では古賀会長の巻頭言で現在の会の問題点を充分に理解することが出来たと思う。会報である以上常に執行部が何を考え、何をなさんとしているかを知らせる義務があると思う。毎号編集に当っては特に留意願いたい。会員がトップの考えを理解してない組織ほど惨めなものはないのである。

 最後に二ケ月に1回の発行に当っては相当の経費を要すると思われる。ページによっては行間を狭くしたり、文字を小さくする工夫も必要である。また裏表紙等への広告宣伝の採用も経費節減になるのではなかろうか。

 我々会員にとって、最も身近な薬剤師会とのパイプのひとつが会報であるならば、編集に当っては諸々の意見もあるかと思うが、その意見が会報をよくする為のものであれば常に積極的に取り上げられよりよい会報が末長く続く事を祈念するものである。

 最後に「継続とは力なり」とか編集に当る皆様の御苦労に感謝の意を表し筆を置く。

 会員のひろば 「私と急患センター」 急患委員会委員 打越美千代 昭和63年9月30日

 私が急患センターに出動を始めてから、約6年がたちます。出動の動機は、私の薬剤師としてのスタートラインに遡ります。

 大学を卒業して郷里に帰った私は、半年間病院に勤務しました。その病院は外科で、救急病院でもありました。まだ薬剤師としての経験も知識も、半人前にも満たない私でしたが、そこでの救急医療の印象は、とても強烈なものでした。交通事故で運ばれてくる人、けがをしてとび込んでくる人、そして、それらに冷静に手際よく対処していく医師や看護婦……。その後、もう少し薬の勉強がしたくて、市内の調剤薬局に勤務するようになり、数年がたち、仕事にも慣れてきたころ、急患センターへ出動するようになりました。薬剤師として救急医療の場で働いてみたいと思っていたからです。

 また、急患センターに出動することで、いろいろな立場の薬剤師の人々と、一緒に仕事をしたり話してみたいと思ったからなのですが、振り返ってみると、その成果は大いにあったと思います。

 ここまでは、出動するための急患センターということで書いてきましたが、実は、私は患者として、それも真夜中に、急患センターに行ったことがあります。それは出動を始めてしばらくしてからのことですが、日曜日の夜、福岡市の東のはずれで、車が故障して動かなくなり、電話をかけに行こうとして、車を降りたとたん、右足をひねってしまったのです。「泣き面に蜂」とはこのときのことをいうのではないでしょうか。やっとのことで兄に迎えにきてもらい、急患センターに辿り着いたのは、夜中の1時を過ぎていたと思います。診察の結果は、右足骨折。手前味噌ではありますが、この時の急患センターのスタッフの人々は全員、大変親切で、痛みでひきつっている私には、まさに「地獄で仏」の心境でありました

 このことがあって、私は、急患センターの存在は、その利用する人の数だけでは計り知れないものがあるということを再認識しました。

 また、小さな子供をもつ私の友人たちからも同じようなことを聞くことがあります。

 今は、人生の中休みとばかりに、仕事をやめて主婦している私ですが、急患センターへの出動は、私が薬剤師である限り、続けていきたいと思います。

 会員のひろば 「薬剤師会に期待する」 千代吉塚部会 叶X川誠心堂薬局 森川公雄
                                  昭和63年9月30日

 7月9日,10日の両日、私が所属しております千代・吉塚部会では、天ヶ瀬温泉に1泊2日の小旅行を楽しんできました。部会での旅行などというのは、最近では珍しいことだそうですが、大変楽しく、また有意義な旅行となりました。参加者は総勢10名。全員男性で、一番弱輩の私から一番年輩の須原先生まで年令の幅は約50年。こんな一行が3台の車に分乗しまして、酒や歌、御馳走や湯を介しての、珍道中でした。

 一番弱輩者の私としましては、大先輩ばかりの中に入っての旅行ということで、正直いって不安も多少あったのですが、どうして、どうして、特に御年輩の先生方のバイタリティ溢れる若さには驚くばかりで、またみなさんの、世代を排した温かいおつきあいに接して、そんな不安もふっとんでしまって、本当に楽しい時を過ごすことができました。

 これだけ世代の違う者同志が、同じ地域で同じ業種に関る者という接点だけで、これだけうちとけあって楽しむことができるというのは、本当に素晴しいことではないでしょうか。また、それだけ同じ生業を持っているという接点は、人間にとって大きなものであるということを再確認することができました。

 ところで、以前から、薬剤師会員相互の関係が希薄であるとか、支部総会の集りが悪いとか、部会も会員が集まらないので、満足に開けないなどということが、よく言われています。参加しない方々には、時間がないとか、参加するメリットを感じないとか、それぞれ様々なお考えがあるのでしょうが、今、我々の業界には、個人個人のレベルでは解決し得ない、たくさんの問題が山積みされているということに、もっとみなさんが危機感を持つべきではないでしょうか。

 その中には、例えば、政治的レベルの問題もたくさんあります。そういった政治レベル、国家レベルの問題は、特に薬剤師会を介して、会員相互団結して立ち向わないとどうしようもないのです。また、そんな政治レベルの問題も含めて、今、我々の業界は過渡期であり、経済的レベルにおいても、久しく低迷しているといわれています。

 つまり、そんな低迷している器の中で、個々の店や薬局が、自分の店や薬局のレベルでだけで競争し合っても、結局つまらないんじゃないかと、私は思うのです。今は、みんなで頭を寄せ合って、業界全体の底上げに協力して、もっともっと大きな器を作り上げて、その大きな器の中で自由に競争できるような業界を作り上げる時期ではないでしょうか。

 もちろん私なんかには、具体的にどうすればいいのかなどという考えは、思い浮かぶべくもないのですが、ただ、みんなが業界や薬剤師会全体のことにもっと関心を持って、とりあえず、集まるときには集って、まず会員相互が顔見知りになって、いろんな人のいろんな考えを聞くということぐらいは、誰にでもできるし、また、やらなければならない最小限のことではないでしょうか。もちろんこれは、開設者の先生方ばかりでなく、勤務されている薬剤師の先生方にもいえることと思います。

 全く、私のような弱輩が、えらそうなことを書いてしまいまして、諸先生方には、お叱りを受けそうで恐縮しておりますが、今回の旅行を通じまして、もっとみんな団結できる仲良くなれると感じましたことを書こうと思っておりましたら、なんだか話が大きくなってしまいました。お許し下さい。

 フレッシュさん紹介 「社会人としての薬剤師感」
              長住部会 距F愛調剤薬局勤務 江頭邦明昭 和63年9月30日

 朝夕も涼しく感じられるようになり、さわやかな季節となりました。私も社会人3年目を迎え、毎日元気で仕事に取り組んでおります。そして、社会人としての大変さを感じています。

 働き出すと、まず時間の余裕が非常に少なくなりました。学生時代は、無理矢理用事を作って暇をつぶす様な暮しをしていたのですが、現在では、短い自分の時間をいかに有効に使うかを考えなくてはいけなくなってしまいました。皮肉なもので、働きだすと、勉強の必要性を痛感するようになり、専門書を読もう、とか、業界雑誌等を読もうとか思うのですが、なかなか思うにまかせません。できるかぎり講習会などに出席させていただきたいと思っています。

 また、薬剤師という専門職とはいえども、一社会人としての、一般常識、礼儀、マナー等の習得の必要性があるのではないかと思っています。

 どうも私自身にもいえることですが、同年代の他業界の人々と比べるとそれらの点でわりと劣っている様にみうけられます。我々薬剤師は閉鎖的な社会で職をとっていますので、ついついひとりよがりになりがちみたいです。ですから自分から進んでそれらのことを身につけようと思わなければいけないみたいです。

 そのためにも、ビジネスマンや他業界の人々との接触を積極的に行なおうと努めて、そして自己啓発の時間をできるかぎり作って、専門バカにならない様にしなければいけないと思っています。

 あと、学生時代と大きく違ってきた点は、運動をするチャンスになかなかめぐまれないという事です。以前ですと、体育の授業、クラブ活動、サークル等で何かと機会があったのですが、なかなか働きだすと、そういった機会が少なくなってきました。しかしやっぱり汗をかきたくて、この4月より、高校時代に少しかじったことのある、バレーボールのチームに参加しています。月2回の練習ですが汗だくになって頑張っております。

 やっぱり汗をかくことは、非常にさわやかなもんだと改めて感じています。動かしなれていない体ですので、試合の次の日ともなると、がたがたになってます。それでも、いい気分転換になってるみたいです。余談ですが運動後のビールの味もまた格別です。残念ながら試合の方はいまのとこ出ると負けですが早いとこ勝利の美酒を味わいたいものです。

 その他自分の時間がある時は、ふらっとどっかに行ったりしています。この夏はふらっと瀬戸大橋に行ってきました。世界にほこる橋ですので、さすがに見るべきものはありました。橋自体もすばらしいのですが、それをとりまく、瀬戸内の風景、漁村等の様子なども風情があり、美しいものでした。聞いたところによると、魚も大変おいしいらしいです。瀬戸内名物のしゃこ酢、ままかり酢などでいっぱいやると最高ではないでしょうか。こんど暇ができたら、どこへ行こうかと、今から考えています。

 最後になりましたが、諸先生方には、これから先、色々と迷惑をおかけすると思いますが今後ともよろしくお願い致します。

 できるかぎり、薬剤師会の発展に協力させていただきたいと思います。そして早く身心ともに一人前になりたいと思っています。
               (昭61年 福岡大学薬学部薬学科卒)

 部会紹介 「千代吉塚部会について」                和63年9月30日

 4月に開催される(社)福岡市薬剤師会通常代議員会総会に於いて、例年、市薬会費納入の早さで表彰される千代吉塚部会とは、一体どんな部会なのでしょう。
 福岡県庁ができて、現在再開発が盛んな街に在って、東公園の中に有る十日恵比須神社は、商売繁盛の神様として、一月十日にお祭りが有りますが、それはそれは、とても賑あうお祭りです。

 部会は13名の部会員さんで構成され、県薬会長の荒巻先生は、ここの部会員さんです。部会長の山口先生に伺いますと、一ケ月に一万円の会費を徴収してあって、部会財産が、100万円あるから、今度“天ヶ瀬温泉”に一泊旅行をするということでしたので、その旅行記を書いていただきました。

 ある会員さんから、特に夜の行状については、詳しく、正確に書いてもらってくれとの要望がありましたので、その点を特にお願いしましたが、如何でしたでしょうか……。

 信憑性はともかく、本当に楽しい旅行だったようですね。

 これからも、部会紹介を続けてゆきたいと思っておりますので、部会長の先生方、どうぞ宜しくお願いします。
            (広報部 木原)

 「数十年振りの部会懇親旅行」 千代・吉塚部会 部会長 山口利英 和63年9月30日

 部会のたびに話題になっていた部会懇親旅行を7月9日〜10日の日程で天ヶ瀬温泉で行いました。

 当日は部会員13名の内都合により参加できなかった3部会員を除く10薬局の先生方が参加されました。

 集合時間前には先生方が集まられ、時間どおり森川誠心堂前を岸田,鶴原,森川の各先生の車で出発し無事予定どおりホテルにつきました。ホテルは折りからの温泉ブームで満室の状態で仲居さんも忙しそうで、なかなか相手をしてもらえませんでした。

◆たいへん盛り上がった懇親会

 懇親会は六時半から始まり山口部会長より部会報告があり、部会長老でもあり、この程叙勲を受けられた須原先生から挨拶を受け、梅原先生の乾杯の音頭で始まりました。

 料理は少し贅沢するつもりで「特注」しましたが、期待に応られなかったのではと少し残念でした。しかし皆さんの盛り上がりのなかで「特上」の料理へと変身したようでした。

 会場では予想どおり先輩の先生方からは昔の楽しかった部会の様子などいろいろ聞かせて頂き、昔を知らない部会の先生方は非常に興味をもたれたようでした。

 時間が経過するほど座は一層盛り上がり、最初にマイクを握ったのは藤野先生でした。とても上手で若い(?〉先生方はびっくり、藤野先生の歌が終わるやいな次から次と各先生方の歌が続きマイクの休む間も無い程で、薬剤師会の集まりと言うよりは「音楽学校」の同窓会?では、と錯覚するくらいでした。特にびっくりするやら感激させられたのは須原先生が「琵琶湖周航の歌」を絶唱された時です。

 楽しい宴も9時に終わり、二次会に移りました。二次会場は高崎先生や藤野先生が泊まられている部屋でのマージャン大会とホテルのスナックと名の付いたフロアー(スナックには女性はいなくて番頭さんが着替えてマスターの役で再出演)で、これまたカラオケパーティーを11時まで続け、おなかがすいたので外に出てチャンボンを食べ部屋に戻ったのは12時過ぎ、それから若い者(?)は川原の露天風呂へ、だれも入って居なくて残念でした。残念を胸にこのグループは2時前には就寝しました。

 一方、マージャン組はまだ明かりが光々、おむすび片手に朝4時すぎまで、勝負はドロー、つぎの朝眠そうな目で朝食(おつかれさまでした)。

 ◆酒蔵がカラッポ?!

 懇親会の二時間半に飲んだ酒なんとビール30本,酒三升それに焼酎五台、これには幹事もびっくり、これでも途中でオーダーストップしたのですよ。だれが飲んだってみんなですよ!本当に大丈夫だろうかと心配した位です。お酒がいけるってことはみんな楽しかったということです。二日酔いの先生が居られなかったことが不思議です。みんな強いのですね。

 ◆来年は何処にしようか?

 もうすでに来年のことが話題になっています。忘年会の時話し会いましょう。それまで考えておいて下さい。

 ◆お勘定は

 今回の費用は部会費(月1万円)の中から出しました。当初予定より5千円程オーバーしてしまいました。(幹事失格)

 ちなみに今回の旅行で長年貯めてきた部会会計も底が見えそうになってきています。来年の旅行のためには特別会費が必要になるのでは?(来年参加を予定されている先生方、「特別会費」の了解工作を早々と奥方へしていた方がよいのでは)この件もつぎからの部会の議題にしておきましょう。

 「トピックス市薬」       学術委員会        和63年9月30日

 ◆経口補水液投与による循環血液量の変化

 脱水に対し電解質溶液の経口投与が、簡便で、しかも有効な治療法として注目されている。一方、補液の目的は血液量の維持である。最近、ラットにおいて補液により血液量がどのように変化するかが報告された。

 血液量の増加速度は、0.9%NaCl(生理食塩液*)群に対し、0.45%NaCl+2%グルコース(共に等張液である生理食塩液と5%グルコース液を約半分ずつ混ぜたもの*)が、最も速い血液量の増加(約3倍*)を示し、次に市販の経口補水液(ポカリスエット)、1.8%NaCl液(約2倍*)の順であった。また、水道水,5%のグルコースは、0.9%NaCl と同等であった。

 血液量の平衡に達する時間も、0.45%NaCl+2%グルコースが最も早く(約1/2*)、次に市販の経口補水液であったが、1.8%Na.Cl液は、0.9%NaClより遅くなった。
 医学のあゆみ、145,774(1988)より (注:*印は学術委員会にて記す)

 ◆日本で市販されていな抗寄生虫薬の入手法

 近年、わが国と熱帯諸国との交流が頻繁になるにつれて熱帯病の輸入症例が増加し、その医療対策が重要になっている。とくに原虫と嬬虫に対する有効性の高い治療薬の入手が困難なたの、厚生省の「輸入熱帯病の薬物治療法に関する研究班(注)」により、次の薬品が治験薬として確保された。

 レゾヒン,アラレン(クロロキン),キニーネ注,ファンシダール,プリマキン,ロミジン(ペンタミジン),アテプリン,ゲルマニン,デヒドロエメチン注,ペントスタム,フアジン,ビルトリサイド,ベルモックス,ミンテゾール,ランピットの15種類である。
 医学のあゆみ、145,829(1988)より

 (注1:東京大学医科学研究所,東京都港区白金台4−6−1,田中寛教授,注2:日本熱帯医学協会,東京都中央区日本橋本町4−9,朝倉健夫のいずれかに交付を依頼すること。以上,学術委員会調べ)

 ◆昆布摂取によって誘発された甲状腺中毒症

 1984年〜1987年までに頚部異常感を訴えて来診した症例中、毎日昆布を過剰摂取した20〜72才の43例中、8例に、昆布多食による甲状腺中毒症状(ITT)がみられた。

 ITTと診断された8例の内訳は39〜59才の男性1例,女性7例で、摂取したヨード計算量は8.3−141mg/day(平均34.0mg/day)で、2−30年(平均10.4年)にわたっていた。

 臨床所見は、びまん性甲状腺腫5例,結節甲状腺腫2例で、他の1例は甲状腺腫は触れなかったが、中毒症状は昆布摂取中止1−3ケ月(平均2.0ケ月)後に消失した。

 長期のヨード摂取でも機能抑制は示さず、摂取の中止により中毒症状の消失も急速であることなどから、甲状腺ホルモン合成調節に一時的な乱れが生じて、ITT病態を形づくったものと考えられている。
 医学のあゆみ,145了 845(1988)より

 ◆経皮吸収硝酸薬の使い方 一耐性の発現とその対策一

 硝酸薬が経皮的に吸収されることは古くから知られていたが、最近になって持続的な抗狭心効果ないし血管拡張効果を期待した、新しい経皮吸収硝酸薬製剤が開発されつつある。(ニトログリセリン.バソレータ軟膏;硝酸イソソルビド,フランドルテープ)一方、ここ数年硝酸薬耐性が問題となり始めたが、この耐性が作用持続時間の長いものほど顕著であることが米国で報告された。

 耐性が報告されたのは、我が国では発売されていないニトログリセリンのパッチ製剤(24時間以上持続)で、軟膏(6時間持続)では効果の滅弱は認めないと報告されている。一方、イソソルビドのテープ(24時間以上持続)では今のところ耐性の報告はないが、8〜12時間の無硝酸薬時間を設けた間欠使用法により、耐性発現を予防できると考えられている。
 ファルマシア,24,699(1988)より

 点  描 「新聞の投稿記事について考える」 市薬広報部    和63年9月30日

 <新聞は 疑って読むに しくはなし>

 8月12目付、朝日新聞声欄に載った中島先生の「医薬分業に薬剤師も一役」という記事をお読みになりましたでしょうか。この記事を会報で取り上げたいと思い、中島先生にご連絡致しましたところ、この記事は、当初意図した趣旨が充分に伝わっていない。又新聞社の方で勝手に書き替えている(題名とも)ので、ニュアンスが変り残念であったということでした。

 そこで、中島先生が最初に投稿された原稿,新聞社より短くして欲しいという要望で、書き直された原稿、それを更に新聞社が書き替えた記事の全文を掲載しますので、読み比べて下さい。そうすれば中島先生の意図された趣旨、及び新聞の投稿記事がどのようにして作られたかが、お分りいただけるでしょう。と同時に考えさせられる問題があります。

 7月14日付、柴田伊津郎先生の投稿記事

 「薬剤師は医師の処方は批判せず」に対する反論として、「処方批判ができる薬剤師を望みたい」(北九州市 会社員 沢田宗夫)、更に、これに対する反論として、「医師任せではない薬剤師の仕事内容」(福岡県 薬剤師 石丸和憲)という投稿記事(県薬会報参照)が相い次いで載りました。反論の記事を含めて、はたして、これらの記事は筆者の意を充分尽した文章であったのか、もしかして書き替えられた点はなかったのか、と一抹の疑問を感じます。そこに、一編の言己事だけを見て反論する、或いは批判することの難しさを痛感した次第です。この件に関すると感想ご意見がありましたら広報部までお寄せ下さい。

 「医薬分業における薬剤師のあり方」 春吉部会 椛セ陽薬局 中島英之

 私は福岡市中央区で、8年前に調剤薬局を開設して、医薬分業の発展と薬剤師のあり方に深い関心を持って、理想の調剤薬局、薬剤師像を目指して微力ながらがんばっている一人の薬剤師です。7月9日の朝日新聞夕刊の一面記事、そして7月14日の「声」欄の柴田氏、7月19日の沢田氏の御意見を興味深く読ませていただきました。お二人とも核心を得た御発言だと思いますが、やや誤解があるように思う。

 まず柴田氏は、9日の記事の中のイラストで薬局の人が、「安物だなぁ」と発言していると捕えておられますが、イラストをよく見ると、発言しているのではなく、そのように思っただけで、発言内容までは、イラスト中に記載されていない。

 このようなことは、私もしばしば経験することであるが、発言を慎むべき言葉だと思っている。処方内容に疑義があれば、その場で医師にTELなどで照会して、その点を確認して、訂正すべき点があれば、それを求めることは当然必要である。

 しかし処方内容を十分に検討することなく、患者の前で、軽卒に批判めいた発言をすることは、却って患者に不安を与えることになって、治療に混乱を来たすことにもなりかねないので、薬剤師として慎むべきで、その言葉には、細心の留意が必要だと思う。これは沢田氏が指摘されているところの薬剤師の医師に対する立場云々とは、次元の異なる問題だと思う。私は沢田氏の指摘される問題点の解決に、次のような方法をとっている。

 私は、昨年10月の九州山口薬学大会での医薬情報部会で、「医師に対する医薬品情報の活用」のパネルディスカッションでも発表したが、先述の処方内容についての照会のTELも、一旦、患者の前から席をはずすなど留意し、緊急を要しない点については、診療終了後、医師とディスカッションしている。

 私は薬局を開設して8年間、このことを実行して、患者にとって有益で感謝される薬局、薬剤師を目指して努力している。これが、真の医薬分業の発展につながる、と信じている。
 (〇朝日新聞に投稿した最初の原稿)

 「医薬分業における薬剤師のあり方」

 食品の添加物や残留農薬などに、多くの人が敏感になっている。薬についても、半端な知織で、怖いとか、なるべく飲まない方がよいとか先入観念を持って、自己流の飲み方をしては、薬が効かないとか、治らないなど、不満を訴える人が多い。私は調剤薬局の薬剤師として、患者の立場に立って、次の4つのことを実行している。

 @医師の処方内容に疑義があれば、電話などで照会して、その点を確認して、訂正すべき点があれば、それを求める。(処方鑑査)もちろん、患者の前での軽卒な批判めいた発言は、却って、患者に不安を与え、治療に混乱を来たすことにもなりかねないので、絶対に控えるべきで、患者への発言は細心、の注意を払う。A正確に調剤する。(薬剤調製)B患者が安心して、正しく服用、使用できるように、患者の性格や生活習慣などを考えながら指導する。(服薬指導)C定期的に、頻回に医師と会って、薬の情報や、服薬指導する中で、患者から得られるいろいろな情報を医師と話し合って、従来、医師のみが行っていた「処方を考える」段階にまで、薬の専門家としての薬剤師が発言して進出していく。(処方設計)

 このようなやり方を続けていると、わざわざ遠くから相談に来られる患者さんも増えたりする。「おかげさまでよくなりました」という喜びの声を聞くと、薬剤師としての誇りと責任を感じる。こうしたことが、真の「医薬分業」の発展につながる、と信じている。
 (〇短かくした原稿)

 「医薬の分業に薬剤師も一役」

 食品の添加物や残留農薬などに皆さん敏感になっている。薬についても、怖いとか、なるべく飲まない方が良いとか、効かないなど、不満を訴える人が多い。私は、調剤薬局の薬剤師として、患者の立場に立って次の四つのことを実行している。

 @医師の処方に問題点があれば、電話などで照合し、必要ならば訂正を求める。(処方鑑査)。患者の前で、医師の批判めいた発言は、患者に不安を与えるので控える。A正確に調剤する(薬剤調製)。B患者が安心して、正しく服用できるように、患者の性格や生活習慣を考えながら指導する(服薬指導)。C定期的に医師と会って、薬の情報や、患者から受けるいろいろな注文を交換する。従来、医師のみが行っていた「処方を考える」段階まで、薬剤師が関与する(処方設計)。

 このようなやり方を続けると、わざわざ遠くから相談に来る患者さんも増えたりする。「おかげさまでよくなりました」という声を聞くと、薬剤師としての誇りと責任を感じる。こうした方針を貫くことによって、医薬分業の発展を図りたいと思っている。
 (〇新聞記事)

 「朝日新聞へ厳重抗議」                  和63年9月30日

 松田市医会長は上記申し入れの折、去る7月9日付朝日新聞記事を取り上げ、県医を通じて日医より朝日新聞本社へ厳重抗議するよう文書をもって申し入れた。

 その文書の大要は、@医師が患者へ投薬説明をしないのは薬価の安い「後発品」を投与し、高価な「先発品」を渡したようにして保険請求をなし、その差益を得るためである。A記事中のイラストは患者に不安感を植えつける薬剤師が描かれている。

 以上のことは、医の倫理を根底から否定するものであり、医師並びに薬局と患者との信頼関係を阻害するものである。
福岡市医師会発行 「メディカル トピックニュース」より  (8月5日発行)

 「日医、朝日新聞の薬の記事で訂正を強く申し入れ」       和63年9月30日

 −「開業医が“ゾロ”を使い薬価差益でもうけている」という表現に−

 松田一夫会長は7月19日、県医の桜井会長に会見し、朝日新聞本社へ日医より厳重抗議するよう文書をもって申し入れた。これを受けて日本医師会は8月9日開いた常任理事会で、朝日新聞の7月9日(土)夕刊1面「患者に渡す薬、医師は説明を」という見出しの記事の中で、
 @いかにも開業医全体が薬価の安い「後発品」医薬品を使い、保険請求では薬価の高い「先発品」で請求、その差益でもうけているかのような表現がある。
 A薬を患者に渡す時に、医師は全く説明をしていないかのように書いている−このことは問題があるとし、訂正を申し入れていたが、8月9日(火)付の朝刊の記事「患者への薬説明,体制整備へ厚生省着手」でも訂正されていないことから、今後は日医広報を通して朝日新聞社に強く訂正を申し入れることになった。

 広報担当の松石常任理事は、「8月9日付朝刊に、村瀬常任理事の『開業医は医薬品について正当な方法で仕入れ、処方しており、その内容について隠し立てをするようなことは全くない。従来から治療上差し障りのないケースについては医薬品の内容を説明してきており、患者の側もより積極的に尋ね、対話をはかってほしい』とのコメントをのせているが、記事全体の論調は日医の申し入れに対して訂正を行っていない」と述べ、今後は日医ニュースで日医の考え方を明らかにするとともに、朝日新聞側にも再度、訂正記事の申し入れを行っていくとしている。
 (日医ニュース8月20日号に掲載)          8月19日発行

 広 報「“よかトピア”三師会主催 パビリオンについて] 市薬広報部 和63年9月30日

 昭和64年3月17日から9月3日まで約半年間に亘って開催されるアジア太平洋博覧会に福岡市三師会が主催者として出展することが2月末にプレス発表された。

 過去に開催されたいづれの博覧会においても三師会が主催したパビリオンは無く、その点非常にユニークなものとして注目され、博覧会協会も一生懸命にこのパビリオン作成にとり組んでいる。

 以来数回に亘り出展議会総会ならびに実行委員会が開かれ、パビリオンの構築に向けて着々と準備が進められて来た。

 出展者全組織の最高決議機関として総会があり、これには三師会の会長,副会長クラスの人達がメンバーとなっている。薬剤師会からは古賀会長,竹尾副会長,藤原専務理事が、これに参加している。又、実際的な企画,立案をする場として実行委員会が設けられ、市薬からは松枝,藤下常務理事と城戸理事がそのメンバーとなっている。

 パビリオンのハード面の計画はすでに決定し、床面積8,012uのエアードーム方式で建設されることになった。内部は4つに区分けされ、第1ゾーンは“生命の誕生”をテーマに動物の赤ちゃんをマルチモニターで写し出し、ここはメインとなる第2,第3ゾーンへの導入部となる。

 第2ゾーンは座席100程度の双方向シアターで観客がストーリー作りに参加しながら主人公と一緒に物語を進めて行くという演出になる。ここは主として小学生高学年およびそれに伴うファミリーが対称となる。

 第3ゾーンは“生命を守る”をテーマに三師会の主張を盛りこんだメディカルゾーンとして展開される。ここの目玉は健康ロボットでオプトビジョン方式で健康や身体について語りかけるようになっている。もう1つは三洋電機が最近開発したばかりの立体ビジョンでこれは日本での初公開になるものである。これに健康や薬などに関するソフトを入れて供覧することになっている。

 パビリオンを象徴する名称については最初プレスに対する出展表明の時点では“健康いきいきランド”(仮称)としてスタートしたが、その後、いろいろな観点からさまざまな意見が続出し、二転三転した。8月9日に開催された総会・実行委員会合同会議において“健康いきいきドーム”に決定した。これはパビリオンがエアードーム形に決まった事をうけて、エアードームが後楽園の東京ドームで一躍有名となったのでパビリオンそのものも売りものにしようという意図で命名されたものである。

 第1,第2,第3ゾーンに関するソフト面は、三師会の意見を盛りこみ乍ら、電通と博報堂の精鋭たちが、目下作業に取りくんでいるところである。

 尚第4ゾーンは最大の協賛者である玉屋デパートの物販ゾーンである。

 以上、これまでの経過をふまえ乍ら、過去数回に亘る総会,実行委員会で話し合われ、決定された事をお知らせした。
                  (記 実行委員 城戸嘉寿子)

 会 議 報 告 「第186回理事・監事会」             和63年9月30日

 日 時 昭和63年7月20日(水) 午後7時
場 所 市薬会館会議室
出席者 古賀会長、竹尾,高倉,長谷川場副会長、藤原専務理事、三津家,戸田,松枝,坪根,正岡,藤下部常務理事、木原,高杉,南島,冷川,城戸,小野,藤田,成澤,市花各理事、日高,磯田各監事

 1.会長挨拶
 日本保育協会が石井道子議員を全面的に支援することになり、7月18日の九州地区役員会で講演した。これに荒巻県薬会長,古賀市薬会長が随行した。なお、石井議員は環境政務次官に就任することになっている。
 試験センター問題については、荒巻県薬会長が、日薬に強力に要請し、急速に進展中である。

 2.報告事項
 藤原専務理事より報告
(1)福岡市よりの事業補助金について
   62年度補助確定額350万円
   63年度補助内定額360万円
(2)よかトピア総会について
(3)石井道子後援会員獲得状況について
(4)党員,党友募集状況について
    福岡市は党員701(目標560)
        党友595(目標588)
(5)西区健康づくり推進協議会委員に吉田支部長を推せんした。
(6)日本新薬より常用新薬が寄贈された。
(7)その他

 3.委員会報告並びに協議事項
(1)各委員会の活動状況が報告された。
(2)ソフトボール大会の準備金(各支部へ配布)2万円を3万円に引き上げることが了承された。

 4.協議事項
(1)会館建設問題について
 (イ)設計,施工については八千代建設、工事監督については石橋設計事務所に依頼することが決定した。
 (ロ)会館建設プロジェクト委員会委員の選任について
    委員長 高倉副会長
    委 員 長谷川副会長、藤原専務理事、三津家,正岡各常務理事、藤田,小野各理事、獺越学薬会長、二宮事務長
(2)ファックスの導入について
   市薬会館,会長宅,専務理事宅の3ヶ所に設置することが決定した。
(3)よかトピア入場前売券について
   7月末日を過ぎて残ったものについては、値引しないことに決定した。

 「第2回部会連絡協議会」                    和63年9月30日

 日 時 昭和63年7月23日(士) 午後5時30分
 場 所 セントラルホテルフクオカ
 出席者 古賀会長、竹尾.高倉,長谷川各副会長、藤原専務理事、三津家,正岡,松枝,坪根,藤下,戸田各常務理事、城戸,高杉,南島,成澤,小野,藤田,木原各理事、日高監事
    東支部 松井昌也、村田博昭、加藤正剛、吉村きく子、柴田伊津郎
    博多支部 山口利英、鶴原 潔、大賀昌子、水田雅章
    中央支部 森田 明、西森基泰
    城南支部 深江暉夫、合澤英夫、藤田 胖、小林 智
    早良支部 清水達三、江頭 溜
    西支部 吉田 斌、竹尾真一、戸田ミヤ子
    南支部 有田俊雄、岩佐周一郎、小村正治

 議 題

 石井道子後援会について
 古賀会長挨拶
 石井道子後援会の党員,党友については竹尾副会長の御努力で、市薬目標をオーバーして達成することができました。ありがとうございました。
 石井道子参議院議員が、7月22日の政府閣議で環境政務次官に決定された。又日本保育協会が支持グループに追加されたので後援会名簿獲得活動をするのに励みになるものと思われる。
 市薬に於ける後援会員獲得作戦の統割責任者は竹尾副会長とする。
 7月9日の朝日新聞夕刊のトップで大きく報道された記事に対する柴田伊津郎先生の投稿が7月14日の「声」欄に掲載された。

 質 問

 ▲森田春吉部会長
 博多支部が良く頑張ってあるので伺いたい。

 答

 ▲高杉博多支部長
 支部の部会長会を年10回、各部会は年2回開催してもらい、1会員につき2,000円補助している。
 4月末日の集計状況は、非常に悪かったので、個人別資料を作った。部会長を良く掌握している。
 慶弔費と入院見舞金を一等親に5,000円と決めている。

 質 問

 ▲竹尾副会長
  西支部長の吉田先生のところの様子をお話し下さい。

 答

 ▲吉田西支部長
 各部会長さんと一緒に一店舗づつ全てお願いして廻りました。

 報告事項

 藤原専務理事
 @よかトピア前売入場券の残り枚数は、おかげさまで300枚となりましたので完売できるものと思われます。御協力ありがとうございました。
 A恒例になっておりました納涼船は中止されましたが、ソフトボール大会は9月18日に行われます。

 各委員会よりのお知らせ
 学術委員会
 8月17日に行われる研修会への参加お願い。
 組織委員会
 納涼船の中止と地引き網の件のお詑び
 薬局委員会
 7月26日に行われる‘漢方研究会”への参加お願い。

 「委 員 会 報 告」                     和63年9月30日

 「組織委員会」

 日 時 昭和63年7月8日(金) 午後7時
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 竹尾副会長、戸田常務理事、高杉,南島各理事、糸岐,森田,戸田(重),松井,森川,吉村,吉田,深見(俊)各委員
 1.ソフトボール大会の役割分担について
 各自確認
 9月18日(日) 9時開始
 2.入会のしおりについて
 小委員会に於いて原案作り。
3.アンケート内容の件
 4.部会の活性化について

 日 時 昭和63年8月4日(木) 午後7時
 場 所 「千太」
 出席者 古賀会長、竹尾副会長、戸田常務理事、高杉,南島各理事、松井,吉村、森川,戸田(重),森田,深見俊,糸岐各委員
 1.ソフトボール大会決定事項の伝達について
 2.入会のしおりについて
 小委員会で原案を検討中である。
 3.第2委員会について
 古賀会長より、経済的問題及び政治面について、重点的に活動して欲しいとの要望あり。

 (組織小委員会)
 日 時 昭和63年7月18日(月) 午後7時
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 竹尾副会長、戸田常務理事、高杉,南島各理事、戸田(重),吉田各委員
 1.入会のしおりの原案作り

 「社保委員会」

 日 時 昭和63年8月4日(木) 午後1時
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 正岡常務理事、小野理事、入江,山口,鶴原,平島(久),清水,岩穴口,大庭,川畑各委員
 1.レセプトチェック及び指導
 2.備蓄リスト回収、中間チェック
 3.若松モデル地区の研修について

 「急患委員会」

 日 時 昭和63年7月26日(火) 午後6時35分
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 藤下常務理事、成澤理事、馬場,深見,竹尾,打越,小松,北島各委員
 1.薬局業務手引書の編集について
 剤数計算の項の表現について一考を。
 件数の数え方は、処方件数通り
 2.新規出動者の説明会
 7月30日(士) 午後2時〜4時の予定
 3.薬局業務手引書の検討会について
 次回8月3日の委員会で見直し検討する。

 日 時 昭和63年8月3日(水) 午後6時40分
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 藤下常務理事、成澤理事、深見,打越,竹尾,馬場,北島各委員
 1.新規出動者説明会報告
 参加者4名
 (飛松,荒川,城戸,渡辺)
 2.9.10.11月の出動表作成
  10月8日,9日の準夜一名増員予定
 3.急患診療の調剤に関する申し合わせ等に関して検討
 9月初め初稿
 3月下旬発行予定

 「学術委員会」

 日 時 昭和63年7月13日(水) 午後6時30分
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 長谷川副会長、藤下常務理事、成澤理事、中島,久池井,車田,山田各委員
 1.「市薬会報」掲載内容(トピックス)の内容検討
 2.7月19日(火)開催の“薬物療法研究会”の役割分担について
 3.後期内容について検討
 ・抗不安薬(10月)
 ・不安神経症(11月)
 ・抗アレルギー(1月)
 ・耳鼻科領域(2月)
 ・皮膚科領域(3月)

 日 時 昭和63年8月10日(水) 午後6時30分
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 長谷川副会長、藤下常務理事、成澤,市花各理事、中島,車田,久池井山田各委員
 1.8月17日(水)開催の“学術研修会”の役割分担について
 2.新市薬会館研修室の設備等について検討した
 3.代替研修会場の検討
 大日本製薬・三和科学を検討。

 「薬局委員会」

 日 時 昭和63年8月23日(火) 午後7時15分
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 竹尾副会長、松枝常務理事、冷川理事、石井,国武,青谷,本村,篠崎各委員
 1.福岡市健康週間、「薬草観察会」について
 10月16日(日)西区小田神社周辺
 9月25日(日)には市薬の観察会を行う。
 2.福岡県「薬と健康の週間」
 10月18日〜10月20日
 天神地下街 イベントコーナー
 「身近な薬草展」

 「広報部会」

 日 時 昭和63年7月6日(水) 午後6時30分
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 藤原専務理事、木原,城戸各理事、野仲,宮崎各広報部員
 1.「市薬会報」夏季特別号の原稿整理
 2.会報の表紙写真を、今後どのように扱ってゆくか。

 日 時 昭和63年8月18日(木) 午後7時
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 藤原専務理事、木原,城戸各理事、野仲,宮崎各広報部員
 1.「市薬会報」夏季特別号の反省
 表紙は写真の方が見栄えがいいので、後「広報」を止めて「会報」に一本化するのであれば、以後、表紙は全て写真にした方が、対外的PRの為に出すのにも、都合が良いのでは。
 2.「市薬会報」9月号の編集について、今後、原稿をお願いする方には、写真をつけていただくようにしたい。

 「試験センター準備委員会」

 日 時 昭和63年8月20日(土) 午後2時
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 藤原専務理事、坪根常務理事、城戸理事、獺越学薬会長、野口学薬副会長、細井学薬理事
 1.福岡市薬剤師会試験センター認可申請現況
 ・上記の件につき、厚生省は日薬との合意も出来て、8月中に申請書を提出するよう指示された由。
 ・9月中にも厚生省の認可が得られる可能性もある。
 2.試験センター委員会
 ・目的は試験センターの運営を行う。
 ・実務は必要に応じて、その時に定める。
 ・委員長は坪根とし、実務の責任者は城戸とする。
 ・この委員会は次回の市薬理事会の承認を得る。
 3.63年度計画試験
 ・会館建て替え問題があるため、厚生省の認可を待たずに、試験をできるだけ早く行う。
 ・試験品目、項目については、県薬試験センター委員会で定めたものに従い、できるだけ早く実施するよう努力する。

 「第1回会館建設プロジェクト委員会」

 日 時 昭和63年7月28日(木) 午後7時
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 古賀会長、高倉,長谷川場副会長、藤原専務野田 三津家,正岡各常務理事、小野,藤田各理事、獺越学薬会長、二宮事務長
 1.古賀会長挨拶
 会館建設に当り、プロジェクト委員会の設置が理事会で了承された。設計・施工については八千代建設、工事監督については石橋設計事務所に依頼することが理事会で決定されている。今後二度と建て替えすることは無いであろうから、あらゆる角度から検討して立派な会館が建設されるよう、尽力していただきたい。
 2.高倉委員長挨拶
 本日は第1回の委員会であるからたたき台となる基本的なことについて討議したい。
 3.協 議
 駐車場,事務室,会議室,研修室,試験室等必要な項目を上げ、これに基き、八千代建設に基本設計を依頼することになった。

 「第2回会館建設プロジェクト委員会」

 日 時 昭和63年8月12日(金) 午後2時30分
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 高倉,長谷川各副会長、三津家,正岡各常務理事、小野,藤田各理事、獺越学薬会長、二宮事務長
 1.高倉委員長挨拶
 8月11日八千代建設より平面図(案)について説明を受けた。これについて協議したい。
2.協 議
 平面図について討議し、次回は八千代建設をまじえ協議することになった。

 「第3回会館建設プロジェクト委員会」

 日 時 昭和63年8月24日(水) 午後2時30分
  場 所 市薬会館会議室
 席者 古賀会長、高倉,長谷川場副会長、藤原専務理事、三津家,正岡常務理事、小野,藤田各理事、二宮事務長
 八千代建設より渡辺会長、西野,斉藤各部長
 1.古賀会長挨拶
 会館の建設については、予算及びそれに伴う建坪数に制約があるので、この点を考慮して進めていただきたい。
 2.協 議
 八千代建設から出された設計図について協議し、基本設計図の手直しを求めた。
 八千代建設の設計図が出来しだい次回の委員会を開催する。

 「事 業 報 告」                       和63年9月30日

 薬物療法研究会

 日 時 昭和63年7月19日(火) 午後6時30分
 場 所 市薬会館研修室
 演 題 「脳循環と脳循環改善剤」
 講 師 武田薬品工業株式会社福岡支店
     学術課長 稲 田  宰先生
     (出席者数119名)

 学術研修会                             和63年9月30日

 日 時 昭和63年8月17日(水) 午後6時30分
 場 所 市薬会館研修室
 演 題 「痴呆の病態」…画像診断を中心に
 講 師 九州大学医学部第二内科
     佐渡島省三先生
      (出席者数 97名)

 高齢化社会が急速に近づくにつれて、脳機能の低下した老人の増加が社会問題となってきている。このような状況を受けて、脳代謝改善剤(6月22日),脳循環改善剤の2回の薬物療法研究会と、痴呆の病態の学術研修会をシリーズで行なってきたが、その概容を記して事業報告に代えたい。

 加齢と共に脳の循環血液量が低下することや、循環血液量の低下と痴呆の症状に相関があることなどから(図参照)、老人性痴呆の治療薬として脳循環改善剤が多く用いられている。

 脳循環改善剤の主な作用機序は脳血管の拡張であり、最近、血圧低下などの全身性作用が少なく、脳血管に、より選択性のある薬剤が開発されてきた。それらの中には血小板の凝集や粘着を抑制したり、赤血球の変形能を増強して、脳の血流をより改善する作用を持つものも現われてきた。

 脳の血流が脳の機能に多く関与する理由は、血流が脳にブドウ糖や酸素を送り、刺激の伝達・伝導に必要なエネルギー産生の源となっているからである。この作用を増強させる薬剤が脳のエネルギー代謝改善剤であり、ブドウ糖の脳内移行を促進したり、脳神経細胞内のミトコンドリアでATPを産生する薬剤などである。

 脳の機能改善は、そのエネルギー代謝の促進によって起こる神経伝達物質の生合成や分泌およびそれらの再吸収抑制など、神経伝達物質の代謝改善により、臨床の諸症状の緩和となって表われてきている。

 しかし、まだ神経伝達物質と臨床症状との関連について、未知な部分も多く残されており、それらの解明と薬剤の開発、またポジトロンCTによる画像診断など診断方法の確立、さらに脳循環を促進させ、脳の萎縮を予防する方法の積極的な推進など、総合的な対策に期待が寄せられている。

 「薬局薬剤師研修会」                      和63年9月30日

 日 時 昭和63年7月7日(木) 午後7時
 場 所 市薬会館研修室
 出席者数 50名
 1.日薬フィルムライブラリー上映
 @ 専門職としての薬剤師
 A 開局薬剤師のマナーとエチケット
 2.演 題 「OTC薬局の今後」
 講 師 市薬副会長 竹尾啓二 先年

 「漢方研究会」

 日 時 昭和63年7月26日(火) 午後7時
 場 所 市薬会館研修室
 出席者数 60名
 演 題 「バイオによる漢方薬の組織培養」
 講 師 正山征洋九大薬学部助教授

 「女子薬研修会並びに石井道子議員を励ます会」開催         和63年9月30日

 福岡県女子薬剤師会では下記の通り秋期研修会を開催し、あわせて石井道子参議院議員を励ます会を行った。

 日 時 昭和63年9月4日(日) 午後1時〜4時30分
 場 所 福岡県薬剤師会館
 会長挨拶 福岡県女子薬剤師全
      会長 城戸嘉寿子
 講 演 「薬物送達システム(DDS)の動向と展望」
     第一薬科大学教授 都築脩三先生
 学術映画「腸内菌数と宿主」ミヤリサンk.k
 以下に研修会の模様を簡単に報告する。

 会長挨拶

 本日はせっかくの休日のところを女子薬研修会に多数お集まり頂きありがとうございました。又、第一薬科大学教授の都築先生にはお忙がしい中を私共の研修会のために心よく講師をおひきうけ頂き、高いところからではございますが厚くお礼申し上げます。

 さて、地域医療の中に薬局、薬剤師が明記されて二年たちました。この中で薬剤師が、どう職能を発輝していくか、又社会からどのような評価をうけるかが非常に重要な問題になって来る。医療の中で薬剤師が適正な地位を獲得するためには、日進月歩の医学,薬学の知識に遅れをとらないようにする事も大切である。医療法改正の中で卒後教育,研修が義務づけられ、日薬でも年間100時間の研修をうち出している。県薬でも生涯教育記録表を作成して各自で研修記録をつけるようになっている。このためにも最近は各地域の薬剤師会においては研修事業が非常に盛んになっている。女子薬主催の研修会は年に1.2回しかもてませんので、各地域薬剤師会の主催する研修会にも積極的に参加して頂きたい。

 又、本日は研修会終了後に石井道子参議院議員を励ます会を行います。ただ今石井道子議員は苦戦をしいられている様子である。県薬を通じて後援会員の獲得作戦を展開中であるが仲に、思うようにははかどっていない。又、女子薬では独自の後援会組織である「道の会」に、皆様に御入会頂くようお願いしているところである。これには3千円の会費が伴いますが、石井議員に対して物心両面から応援をしようというわけである。7月22日付で環境政務次官になられました石井議員は国会の場で一生懸命頑張っていらっしゃいます。私達も出来る限りの応援をして是非上位当選をして丁貢きたいものである。

 励ます会をやることもランク付けに大きく影響するとの事で本日はどうぞ最後まで御協力をおねがいします。

 講 演
 日本女子薬研修会のテキストにのっとり、又、御自分の研究分野のスライド等もまじえ乍ら素人にも分かりやすく講演され

 「石井道子参議院議員を励ます会」  (午後3時30分〜4時30分)   和63年9月30日

 1.遠藤政夫参議院議員挨拶
 (代理 奥様の遠藤美智子様)
 2.太田誠一衆議院議員挨拶
 (代理 奥様の太田保子様)
 3.合馬敬参議院議員候補者挨拶
 4.石井道子参議院議員挨拶
 (代理 荒巻県薬会長)
 5.古賀隆県薬連副会長挨拶

 励ます会には、雨の中にかかわらず121名(女子薬会員75名,市薬関係者46名)の出席を得て、盛会裡に会を終了することが出来ました。当日石井道子議員は公務のため出席がお出来になりませんでしたが、研修会あてに祝電を頂きました。又、太田議員からはお祝いと祝電を、遠藤議員からもお花を頂だい致しました。

 市薬会員の方々にも大変御協力を頂きました事に厚くお礼申し上げまして、報告を終ります。
    福岡県女子薬剤師会
    会長 城戸 嘉寿子

 挨拶要旨

 1.荒巻県薬会長
 本日の石井議員を励ます会は、女子薬剤師会研修会に引き続いて行われていますので先生方に特にお願いしたいのですが、美容師さんの組合の推選をいただいておりますので、美客室にいらっしゃる時には、是非後援会名簿をお持ちいただきたい。

 環境政務次官就任の知らせは、丁度石井議員が福岡県薬にいらっしゃった時に、東京から電話が入って大喜びしました。それ位石井先生と福岡県薬とは縁があって、石井先生も福岡県薬を非常に頼みに思ってありますので、是非頑張って下さい。

 2.古賀県薬副会長
 女子薬剤師が60%を越す現在、どうしても女性の先生方に頑張ってもらわねば、今日のこの会の目的を果たせません。

 一にも二にも、後援会員獲得しかありません。県薬目標20万で、まだ達成率30%です。

 選挙というものは、再選はた易いが、新人が当選するのは非常に難かしいものです。

 19年振りに得た唯一人の薬剤師議員です。どうしても再選を果たしてもらわねばなりません。1会員100名を是非頑張って下さい。

 最後に古賀会長が音頭をとり、全員立上がって右手を上げ「石井道子後援会頑張ろう」と気勢を上げた。
              (市薬広報部)

 やるっきゃない!後援会−もう時間がありません−          和63年9月30日

 「なんや、お前 ま−だしようとや?」
「うん、市薬会報に“Don’t stopザ後援会”て、つやーに書いたもんやけん、止められんようになったとよ。」
「そうや、そんなら俺も加勢してやるけん、その用紙とパンフレットば、やってんやい。」
といいながら、ポケットに入れて、なぜか、スナックへ飲みに行ってしまいました。
 ここ迄は、是非、博多弁で読んで下さい。

 ・お土産は 名簿でいいのよ お父さん

 市薬目標は6万名です。
 10月末日の市薬集計迄、のこり30日しかありません。本当に、いま頑張らなければ竹尾副会長が、巻頭言に書いて下さったように、“春のこない、冬の時代が居座ってしまう”事になりかねません。そうなってから、あの時もう少し頑張っていれば良かったのにと、悔んでも始まりません。

 選挙に弱い薬剤師会と言われますが、少なくとも福岡市薬には、絶対に組織力も団結力もあると思います。

 その証拠に、よかトピアの前売入場券も、無理かなあと心配していましたら、なんと最後の一ケ月で完売してしまいましたし、党員党友も達成率124%と、県薬支部の中でトップです。後援会も、市薬広報の5月号では、わずか5,614名だったのが、夏季特別号では18,137名に、そして、9月号では25,930名にと着実に増えてきています。

 「古賀先生、会長挨拶の中に、シャロウ議員とか、シャロウ委員でなければと言う言葉がよく出てきますが、シャロウって一体何の事ですか?」と質問する位の政治音痴の私ですが、執行部の先生方が一生懸命なのを見るにつけ、こりゃーどうあっても100名集めないかんかなと思いました。

 子供の友達が遊びに来たら「おーっ、後援会が遊びに来たね」とついニタリ、久し振りの友の来訪にも「あーっ、いいところに来た来た」と、まず後援会の名簿がチラック。

 1日3人で1ケ月で100人なんだから、なんだ簡単じゃないのと思いますが、なかなか、そう簡単にはいきませんね。でもお願いしてみて、ことわられた人はありませんでしたね。

 ・お中元 なかに名簿の 用紙入れ

 もう750名は集めたんだし、私が一人二人お願いしたところで、この集計結果を見たら焼け石に水なのではないかとも思いますが、この一人二人の積み重ねが、大きな数になるんだからと思い直して、今もコツコツ続けています。

 それに、皆んなが後援会名簿100名を集めさえすれば石井道子先生の当選が可能なのなら、なんとしても、やるっきゃないんじゃないかな……。

 ましてや、この7月22日に環境政務次官になられた先生を、落選させてたまるものですか。本当に、二度と泣きたくありませんもの。

 ・後援会 会長の笑顔 いつ見れる
              (記 木原)

 つや一に
(博多弁で格好,体裁をつけるの意味)

 よかトピア前売入場券講入について 福岡市薬剤師会 会長 古賀 隆 和63年9月30日

 昨年の11月福岡市衛生局より5,000枚の割り当てを受け、本年1月の発売時より、この販売につきましては大変苦慮致しておりました。会員の先生方には再三再四のお願いで、無理など負担をおかけした面もあったかと思います。

 7月末日、お陰をもちまして完売することができました。会員の先生方には厚く御礼申し上げます。又御協力いただきました支部長,部会長,勤務部会,県薬各支部及び関係各位に対し、感謝申し上げ御礼とご報告に代えさせていただきます。

 叙勲おめでとうございます                    和63年9月30日

 勲 五 等 瑞 宝 章     須原勇助 先生

 千代吉塚部会 千代薬局
 昭和7年 熊本薬学専門学校卒

 このたび、春の叙勲に際し、須原先生が郵政事業に貢献されたことによって、栄えある勲五等瑞宝章を受章されました。この受章祝賀会が8月6日(土) ホテルニューオータニにおいて行われ、古賀市薬会長が出席されました。

 なお、須原先生は、福岡県商組副理事長、福岡地区医薬品小売商組副理事長、福岡市薬剤師会副会長を歴任され、会員のために尽力されました。

 「会報についての基本方針」  専務理事 藤原良春      

 この度、大久保先生より会報についての貴重な御意見をいただきました。広報部としては、今後も会員の方々の御意見を参考にしながら、よりよい会報となるよう努力して参ります。そこで、会報はどのような考え方で編集しているのか、又今後充実発展させる目標も含めて述べておきますので御理解並びに御協力をお願い致します。

 1.情報の伝達として

 会報は会と会員を直接結ぶパイプです。先ず、会をどのように運営しているのかを詳細に伝えて理解していただく事が、運営に於ても、又組織を活性化させる上でも大変重要なことです。従って情報としては、執行部の考え方、運営、事業活動はもとより、各種会合の内容、学術面,行政,関係団体,業界等広い意味での情報を伝えたいと考えています。

 2.会員のサロンとして

 現在市薬会員は800名を越え、世代間の相違もあって会に対する意見、要望もさまざまです。会としても、会員同士の間でもいろいろな考え方があることを、知っておく必要があります。その目的で設けているのが会員の広場です。執行部に対しても、批判,意見,要望がありましたら遠慮なく書いて下さい。又、詩,短歌,俳句,川柳等趣味,娯楽面も取り上げて親睦の場にしたいと考えています。

 3.対外的PRの手段として

 政治力も重要ですが、今や会の存在を対外的にPRすることは不可欠の時代となっています。時折り口で説明するより、定期的に会報を読んでいただく方が理解を得やすいことは、論を待たないでしょう。そういう意味で会報は、「会の顔」とも言えます。対外的には前号より、市医師会,市歯科医師会,市衛生局.各区保健所,県薬務課.県薬,日薬に配付することに致しました。今後は市長,県知事,推せんしている市会,県会,国会議員,及び新聞社まで配付対象を広げたいと考えていますが、それには内容の充実、更に内容のレベルアップが必要であり、それに伴うページ数の増加、そして体裁も整える必要があり、現在は予算不足がネックとなっています。

 4.記録として

 会報第1号が発行されたのは、昭和53年(会長 藤野義彦)です。その後昭和57年(会長 富永泰資)に市薬広報が追加発行されました。通算すると今号で52回発行されたことになります。昭和61年、いずれ市薬年史を発行する事になるであろうと考え、資料の調査に当りましたが、昭和46年の社団法人発足以前のものは殆んど残っておりません。歴代会長の名前さえ、昭和28年以前は不確かな状態です。まして事業内容は調べようがありません。この事を考えるとき、会報の記録の大切さが痛感させられます。会報に出ている「会務日誌」にしても、書いている私でさえ感激はありません。おそらく読まれている方は少ないでしょう。しかし、後になって会史を振り返るとき、その目次惑いは索引となるものなので欠かすことができません。

 5.結びとして

 以上会報が持つ意味、又編集方針を述べましたが、最も大切な事は、読んでいただけるものでなければならないという事です。そして会報は、会員のために存在するという事を念頭に於て編集に当りたいと考えています。

 会員の皆様、日薬誌,県薬会報,市薬会報とありますが、最も興味を示されるのはどれでしょうか?願わくば、市薬会報を最もよく読んでいるといわれるようにしたいものです。

 最後に、会報の編集には現在4名の女性が携わっています。特に担当理事である木原先生は、大変ユニークな発想の持ち主で、そこに期待するところ大であります。と同時に、立派な会報に発展するよう、会員の皆様方に御協力をお願いする次第です。

 <編集後記>                           和63年9月30日

 〇福岡の街に秋を告げる、筥崎八幡宮の放生会(ほうじょうや)が始まりました。やはり、放生会にお参りして、新生妻を買って帰らないと、何んだか秋がやって来ないような気がするから不思議です。

 〇先日、日本薬剤師連盟幹事長の高橋輝一郎先生に、厚かましく原稿依頼の手紙を出しました。原稿の締切り日を過ぎても原稿は届きませんし、やはり、お忙しいから、地方の福岡市薬剤師会(広報部)の願いは聞いていただけないのかなぁと、あきらめておりましたら、9月8日速達で送って下さいました。
     ヤッター! バンザイ!

 〇市薬念願の大事業である試験センターの申請書が受理され、新会館の建設に向けて、着々と準備が進められています。

 でも、今一人一人の会員が頑張らなければならない一番大切な事は、来年の石井先生の参院選に向けて、いかに行動するかという事ではないでしょうか。            (木原)

 「 川  柳 」      博 多 人 形           和63年9月30日

 ◇調剤は やさしき心と みつけたり

 ◇おだてられ いつの問にやら 役員に

 ◇県薬を ケチ薬という 人もあり

 ◇夏季休暇 ゴロ寝と甲子園で 過ぎにけり

 ◇かの夫(ひと)を カウチポテトとは よく呼べり

 ◇世代感 演歌聞く親に 子はソッポ

 ◇やってみて 前任者の苦労 よくわかり

 ◇晴れやかな 叙勲の陰に やさしき人

 ◇川柳に 託して 会を思いやり

 ◇編集の ミスがちらつき 目が覚める

 ◇横たわる 高きハードル 乗り越えて
       今たどり着く 試験センター

 ■ 巻 頭 言「一歩一歩前進しよう」 福岡市薬剤師会 副会長 高倉 博
                                 昭和63年11月30日

 63年4月23日の市薬代議員会に於て副会長に指名され、早くも6ケ月の月日が経過しました。第二次古賀内閣は思い切った若返りが行われ、事業の進行も順調に進んでおります。今回原稿依頼を受けるに当り、私は副会長として、社会保険、休日急患、及び会館建設(プロジェクト委員会委員長)業務を担当していますので、その所信の一端を述べさせて頂きます。

 厚生省では本年より5ケ年計画で、「分業推進基盤整備事業」を実施しています。この事業内容の骨子は、@大病院(国立病院)からの処方せん応需体制の整備、G情報提供事業、B備蓄体制の整備、C薬歴管理実施方策等で、その目的は、面分業の進展を図るとともに質の向上を目指しているわけです。

 本会としてもこれに対応して行かなげればなりませんので、参考にしたいと考え先日社保委員会のメンバーと、若松地区の実態調査に行って参りました。勉強になる事が多々ありましたが、中でも町の中心を一寸離れた小さな薬局でさえ、月千枚から千五百枚程度応需されているとの事、誠に驚きの極みでした。

 この事は、井上浩一先生をはじめとして、役員の各先生が良く指導された結果だと思います。若松地区は、地域毎に小さくグループ化され、三師がいっも連携を持っておられるという事が成功の原因かと思われます。

 又、他県他地区からの進入は、この三者の連携によって阻止しています。即ち、「他所からお出でになって調剤薬局を作られたならば、三者は即座に分業を中止するでしょう」と宣言され、薬局設立の意味を無くしてしまうという事です。又、再度の驚きは、三師が同一会館内に事務所を置き三師のトップはいつでも話し合う事が出来るという状態です。

 若松での面分業は、若松であればこそ可能であって、今の福岡市にスライドさせても無理なことですが、ここまで進めてこられた努力は、見習うべき点が大いにあります。

 現在福岡市では、医師税制の改正に関係があるのか、マンツーマンの調剤専門薬局が増加しつつあります。分業の量の拡大はもちろん必要です。しかし、大切なことはその中味で、これからは質の向上を基本に考えて行かなければなりません。

 本会として分業を進めて行くに当り、会営薬局、備蓄センター、そして面分業の推進と、理想とする所は多々ありますが、実際に着手するには大変困難な問題が多く残っています。今後は、執行部、支部、部会の役割を明確にし、三者が一体となって進めて行きたいと考えています。そのためには会員の皆様の熱意と団結力が必要です。頑張りましょう。

 会館建設問題については、7月28日に第1回のプロジェクト委員会を開催して以来、5回に渡って詳細な検討を重ねて参りました。まだまだ会員の皆様方に提示出来る状態ではありませんが、次世代の会員のためにも、立派な会館を建設したいと思い、精一杯頑張っています。今後とも皆様方のご協力、ご支援をお願い致します。

 「試験センターの意義と今後の課題(厚生大臣指定成る)」
                 福岡市薬剤師会 会長 古賀 隆 昭和63年11月30日

 昭和63年10月17H付で、薬事法施行規則第11条の2項に基づく試験検査機関として、公式名称「福岡県薬剤師会福岡試験センター」が厚生大臣指定を受けました。(指定番号第74号)。

 昭和62年6月1日「薬局等構造設備の一部改正」について、官報により告示され、6月10日より実施、但し既設の薬局、一般販売業については一年間の猶予を置き、63年6月1日より実施が決定しました。

 県薬では直ちに62年6月3日、試験センター特別委員会を招集し、対応の協議に入ったのですが、この席で福岡市薬は厚生大臣指定申請をすることを表明し、県薬の協力と理解を要請、賛成を得ました。

 6月10日に当時の神谷県薬会長、荒巻専務に同行していただき、市薬より会長、三役が揃って薬務課を訪問、福岡市薬試験センターの厚生大臣指定の必要性を説明し、指定申請を行なうについての協力要請を行なったのが公式に表明した始まりでした。

 しかし乍ら、条件整備がなかなか大変で、器具、備品の整備はともかく、理化学試験に経験ある技術者及び薬剤師の雇用が必要であり、この点でも多くの人にお世話を願いながら、いま一歩のところで駄目になるケースが殆んどでむつかしい問題のひとつでした。

 それと福岡市内には、もともと製薬工業協会の試験センターが在り、ここがすでに厚生大臣指定を受けていることもあって市薬の指定をむっかしくしていることもありました。そうこうしている中に、62年7月4日に、かねて申請しておりました水道法34条の2による、いわゆるビル管の厚生大臣指定を受けることが出来ました。このことが大きな弾みとなり、更に会員の総意を得ておく必要から62年8月22日に臨時代議員会を開催しました。

 全員の賛成と、しっかりやれとの励ましを受け新たな決意で取組みを開始したのであります。ところが今度は、関東方面において東友会、東薬協等、アウトサイダー5団体が独自に試験センターの指定申請を行なう動きを見せたことから厚生省が、未設置の県以外の大臣指定は当分しないという方針を打出したために、又ここで大きな壁に阻まれることになりました。

 従ってその後の折衝は主に対厚生省、日薬に方向転換いたしたわけですが、私も神谷県薬会長に同行して幾度か資料を抱えて説明、説得に参りました。県薬会長が荒巻会長になりましてからも継続して大変努力をしていただきました。このようにして県薬、日薬の協力をいただき最終的には名称問題で北九州市薬にも大変協力をいただき、薬務課の審査を得て、本年8月24日付でようやく申請書が薬務課に受理されたわげであります。

 このようにして念願の厚生大臣指定を受けたわけですが、そうまでして福岡市薬が指定を受けねばならない理由を述べておきたいと思います。

 昭和55年藤野会長時代に市薬会館が建設されましたが、その当時すでに日薬は厚生省と今回のような折衝をしており、会館建設の際は試験センターの設置が是非必要になるとの見通しで、厚生大臣指定が得られるにふさわしい施設を備えた試験センターを併設したことがひとつの理由であります。

 しかしこの時はそのような法改正の話しがいつの間にか立消えとなり、会員からの搬出金と多額の銀行借入金を抱えて財政上逼迫しており、多額の維持経費を要する指定検査機関の申請は時期早少との結論で見合せることになり今日に至っていたわけです。今回法改正が行われこの際大臣指定申請に会をあげて全力を注いできた理由は、上に述べましたことの他に、将来医療法の数次の改正によって、薬局は次第に医療の中の一員の性格が強くなっていくものと予想されます。

 そうしますと調剤薬局、一般薬局を問わず販売する医薬品。取扱う医薬品については、自らの試験検査によって保存桂、品質管理について一層の責任と義務を負わなければなりません。

 唯、物売り薬局、安売り薬局では大資本の或いは商売本位の大店舗に押しつぶされるのは間違いありません。薬剤師的薬局経営はそうした基本的な使命感をしっかり基盤に持っていなければならない。そうすることによって社会的に信頼される薬局が確立されるのではないか。そのような考えから、この際、市薬試験センターは、何時でも、誰でも、気軽に、安く利用出来る厚生大臣指定の試験センターにしておかなければならない。というのが最大の理由であります。

 具体的な事業としては、早速63年度においては、先ず日薬から依頼される日薬統一医薬品試験戴あります。これは数品目を試料が日薬から送付され、それぞれについて指定検査項目を試験するものです。

 これは全国試験センターの試験技術修練を意味するものでもあります。第2は各県薬独自に計画的に支部会員より医薬品を提出願って数項目について試験を行なうものです。福岡県薬では、63年度は福岡市薬と久留米市薬の会員から試料の提出を願ってこの分については福岡試験センターで実施することになっております。

 第3は以上の他に会員、非会員を問わず医薬品について試験検査の依頼があれば何時でも要望事項について試験を行なうというものです。この分については有料になります。そのほかに、薬局、一般販売業について当試験センターと利用契約をすれば、各自薬局等において一部の設備器具の設置が免除されるという代行機関の機能については御承知の通りです。

 厚生大臣指定を受けた試験機関は、このように公的に認定される種々の事業を行なうことになりますが、前言しましたように収益事業としては必ずしもメリットがあるものではありません。むしろ当分は赤字覚悟の経営になると思います

 福岡試験センターは福岡市薬会員のみならず県薬の西部、南部地域、すなわち県薬の半数を受持つ試験センターとしてこれからは育成に全力を注いでいかねばなりません。将来は更に発展して食品検査事業(北九州市薬はすでに申請中)の可能性もあります。医薬品開発の発展にともなって試験センターの使命は益々重要視されていくことを確信しております。

 厚生大臣指定を受けました機会にその報告を兼ねて会員皆さんの理解と御協力を切にお願いする次第です。

 <特別寄稿> 「氾濫、カタカナ外語」 東保健所 所長 田上昭夫 昭和63年11月30日

 始めに断っておくが私は言語学者でも国粋主義者でもない。ただ日本の国語を大事にしたいと思う一人である。世の中には私と同じ意見の人が沢山居られると信じるが、近頃は見るもの聞くものにカタカナ外語が多くなっている。

 新聞、テレビ、ラジオ、商業広告の類は言わずもがな、地名や建物名などの固有名詞までがカタカナ外語が多い。官公庁などが自粛しようと言っているが、その官公庁までが刊行物や新建築物や公事まで外語をつける風潮にある。よく新設ものの名称募集があるが、なぜか外語が採用されることが多くて、〇〇会館とかの日本名がつくことが珍しくなった。

 先日、タクシーの運転手に聞いた話だが、タクシー会社で地名建物名の研修会がよくあるそうで、マンションなどのよく似た名前が覚えにくいためだそうである。そういえばカタカナ、横文字名のマンションが多くて、地元の人でも分らぬくらいだから、地方から来た運転手がすぐに分る筈がない。

 一寸その気になって街を歩いて見てみるとよい。建物も看板も商品もチラシも英語、仏語その他のカタカナ外語の多いこと。そのままのSpellで書くと、どこの国かと思うくらいである。それも、縦書き横書き斜め書きと無茶苦茶である。

 学問的用語、スポーツ用語、生活文化の用語の中で慣れ親しんだものの中には、無理に日本語に訳すと反対に不明になるものがああり、それらは別として、この有様は少し考えものであろう。

 日本人は、カタカナ、ひらがな、漢字を国語として世界に類をみない卓越した文字で高い文明文化を持っているのに、この有様は、乱用、氾濫と言えるかもしれない。明治維新の文明開化に次いで第二次大戦後の経済、文化の急ピッチな国際交流が、外語の日常使用化に拍車をかけたのに違いないが、何でも彼でも外語をカタカナ化して使い過ぎるのはどうであろうか。

 文字のみでなくて話でも、例えば或会議で司会者が、「今日のテーマについてディスカッションしたが、A、B両案ともメリット、デメリットがある。両者のコンセンサスを得るまで、このプランをペンディソグする」と言ったら何がなにやら分らぬ。

 雑談か又は言葉の遊びにしか聞こえないし、横文字でボカしてしまったとしかとれない。これを日本語で「今日の議題について種々話し合ったが、AB両案ともに各々長所短所があるので、皆さんの御賛同を戴くまで、この案を未決とし審議しよう」とやるとピシャリと分かるのではあるまいか。

 いやこの方が可笑しいと思う人があるなら、その人の方が司笑しいのである。私は、何もドンタークやカステーラの語源まで日本語でやれといっているのではない。バスはバス、センターはセンター、ナイフ・フォークなど、そのままでよい。国際交流も大いに結構。外語の勉強は、大いにやるべしと思っている。やたらに使っていないかと言っているだけである。

 ところで、次の広告文をみて皆さんは、どう思うか白由であろうが、例をあげる。「高度なデザインテクニックで世界のファッション界をリードずるOO〇〇。クラシックをベースにしたそのコンテンポラリーなスタイリングは、時代のクリエイターらしいティストが充満。現代をアクティブに生きる男の、ステイタスブランドである。」

 何が可笑しい!どこが悪い!と言う人もあろう。私は文章が悪いというのではない。善悪でなく、カタカナ外語が多いとだげ言っているのである。古いヤツとか新しいヤッとかの問題ではないのである。

 外語を沢山人れて話したり書いたりすると、耳障りがよくて流れがよいと思う人があろうが、焦点がボケて逃げの話となる傾向にあるようだ。外語は消化吸収すべきだが、日本語をキチンと使わないと消化不良になる恐れがある。

 暴言多謝。昭和63年10月

 <特別寄稿> 「第三次流通再編成」 若狭薬品株式会社 取締役社長 若狭範隆
                                 昭和63年11月30日

 第三次流通再編成が始まっています。昭和36年、国民皆保険制度が実施され、国民の健康と福祉に、国の政治的判断が加えられることが多くなった頃より、医薬品業界は制度依存型産業として、陰に陽にその影響を受け、触発されてまいりました。

 近年では、たび重なる薬価改正と、第一次、第二次医療制度の改革が進むにつれ、多くは増えない市場でのシエア争奪戦は、ますます激しさを増し、中小卸の脆弱化と共に、急速に二極分化への兆が見え始めてまいりました。戦後40数年、第一次、第二次の流通再編成の時代を生き抜いた卸も、今や弱小卸として、第三次の再編成に取り込まれようとしています。

 社団法人日本医薬品卸連合会の本年4月に発表された「医薬品流通の現状と課題」の資料によりますと、昭和61年度の卸販売額は、3兆7,894億円、その中で販売額100億円以上の上位卸84社で72.8%の実績シェァが報告されております。

 最近、全国卸の適性数を100社とする意見が、最も多いといわれておりますが、それでいくと今後4社のうち1社しか残れないことになります。

勿論、規模の大小だげが、生き残りの条件とは思いませんが、医療環境の変化に伴う流通の近代化、効率化、コンピューターを中心としたメーカーお得意様との情報ネットワークの構築、一般情報の収集、分析・加工といった付加価値の高い企業活動が要求される時代を迎え、はたしてどこまで、お得意様を満足させるだけの対応ができるか、また、これからの時代を荷負う優秀な人材の確保育成ができるか、中小卸の現状を考えるとき、第三次流通再編成も、時のすう勢としてとらえざるを得ません。 

 合併にあたっては医薬品卸業としてのあるべき姿の実現を目指して、お得意様、メーカー各位それぞれにご構足いただける再編成ができるよう、最大の努力を注いで行くことが要件だと思われます。

 過去の合併は、メーカー主導がはっきりしていましたが、今後における合併は、卸の自主性によるものが増えてくるものと予想されます。しかしメーカーにとって卸の再編成は、地域のシェア競争上重大事であるだけに、卸の自主性を尊重するとしながらも、再編成後の動向に深く関心を寄せているのも事実です。

 この様な情勢のなかで、若狭薬品株式会社と株式会社ケンコー、良和薬品株式会社の三社は、過去2年の年月を費し、将来のあるべき姿を模索して検討を重ねてまいりましたが、経営の基本理念において相通ずることを確認し、資本の充実、物流リストの改善、生産性の向上、人材の育成強化など、質の高い近代卸への脱皮を念願して、来る64年5月1日付をもって大同団結をいたすことになりました。

 創業の原点に返り、お得意様のご繁栄のお役に立つ卸として、お取引メーカー各社の希望と信頼に応えられる卸として、地域社会に貢献できる企業となるよう全力を注いでまいりたいと存じます。

 何卒今後とも倍旧のご支援、ご鞭撻を賜りますようよろしくお願い申し上げます。

 <特別寄稿> 「再び、おねがい!」 日本薬剤師連盟 幹事長 高橋輝一郎
                                昭和63年11月30日

 10月14日・15日の秋晴れの上天気、九州、鹿児島で、全国国民健康保険組合協会の総会がありました。会議の合間を見て、西郷さんの南洲神社の尚吉館に行き、鹿児島の歴史のあとを尋ねて、大変に感動したものがありました。西郷さんの事蹟をしるした小冊子の中の一文です。

 「時勢に制せられ、制限を慢りにして、出つるを見て、入るを計りなば、たとえ事業は一旦進歩する如く見ゆ共、国力疲弊して済救す可からず」

 この意味は、時の勢いにまかせ、制限を緩慢にし、支出を優先して考え、それにあわせて収入をはかるようなことをすれば、たとえ事業は一時的に進むように見えても、国力が衰えかたむいて、ついには救いがたいことになるであろう」と。

 私は南洲先生の思想の一コマを知りました。今、新行革審を推進力とした流通の喜編成がおこなわれようとしています。現在、総務庁などにおいて、流通業に係る公的規制の在り方について、見直しの作業が進められており、その中で、医薬品販売業についても規制緩和の動きが見られます。

 しかし、医薬品は、生命関連製品であり、単に、経済効率、自由競争の原理などを優先して、他の商品と同じような視点恥ら規制緩和を考えるのは誤りだと思います。医薬品販売業について、薬事法で各種規制が設けられているのは全て、保健衛生との理由によるものなので。保健衛生上の問題を犠牲にして、経済性のみを追求することは許されないことだと思われます。

 特に、医薬品の販売については、薬局、薬店の薬剤師が用法、用量、効能効果、使用及び取扱い上の注意など、その医薬品に関する必要な情報を直接消費者に説明し、また、消費者からの相談に適切に応対することが、医薬品の有効かつ安全な使用を確保することで、極めて重要なのです。

 従来から、厚生省においては対面販売の原則が示されてきたところなので、また、それに対応して、薬局、薬店にあっては、医薬品の販売については、各都道府県の行政当局の指導を得て、対面販売の実施に努めてきました。

 ところが、単純な経済発想で、弱肉強食の市場原理を導入して、一方で、一切の規制を排除しようとする考え方の基本には、企業間の競争を自由化し、産業構造を転換するというものであり、経済構造を転換するというものであって、流通の激変はさけられないと思われます。

 「医薬品は特殊性があるから大丈夫」とした安堵感にひたっていると、後で嘆きをみるのでありましょう。このように、現実は甘いものではなく、他の世界の人々と無関係に運営されている訳でもありません。

 まさしく、複雑多岐にわたる・社会的、経済的要素が、直接的、間接的に絡みあっているので、そのために、関係行政や、各業界の諸団体とが、互いの利害や方向を調整したり、妥協したりしながら、ソフトな思考も加えて、解決策を模索しながら、社会と共存共栄していくべきなので、時代の大きな潮の流れや、経済的な動きを大変だ、ダメだととらえるのでなく、私たちの意見の代表者、調整役を選出して、白らの行くべき方向を定めるべきだと思います。

 石井道子先生の仕事振りは十分に御存知のはず、11月26日、福岡県薬剤師会館では、分刻みの石井道子先生が熱辯をふるう会合が開かれるとの事、御成功を祈ります。

 ここ一番の所で、力のたりなかった薬剤師会が押えのきいた行動をするためにも、一層の御支援をおねがいします。

 もう後援会名簿の作成、おすみですか? 頑張って下さい。将来の方向を選択するのは、あなたがたです。

 <コ ラ ム> 「世 代 交 替」 専務理事 藤原良春   昭和63年11月30日

 新しい市薬会員名簿が出来たので頁を捲ってみた。開局薬剤師について予想はしていたが、福岡大学(薬)及び第一薬科大学卒の会員増加には、やはり驚かされた次第である。

 福大及び第一薬大の第1回卒は共に昭和39年で、又薬専卒の最後が昭和26年であるので、12年刻みで会員の分布状況を調べてみた結果表の通りになった。

表

 なお、新制大学の第1回卒は昭和28年で、昭和27年卒は存在しない。

 この表を眺めて思うことは、昭和39年卒以後の世代が56。4%を占め過半数を超えており、正に、世代は交替していると言う現実である。そしてこの世代の70%を福大(60名)、第一薬大(40名)卒で占め、この傾向はますます強まって行く。

 今まで市薬をリードして来たのは、熊本と長崎薬専卒であった。しかしそれも終りに近づいている。今後は、福大、第一薬大卒が引張って行かなければならないのは明白(その他の大学出身者には、大変失礼ですが)であり、市薬の発展は、両者の肩にかかっていると言っても過言ではない。

 前向きなら、学閥意識も大いに結構である。両者で競い合って市薬のため、又、母校の名誉のために頑張って頂きたい。

 <分業特集> 「面分業について」  
          (社)福岡県薬剤師会 常務理事 井上浩一 昭和63年11月30日

 人間は良きにつけ悪しきにつけ、いろいろと智恵を生みだすものだと感心する。良き智恵は善行・善意として人々に喜ばれ、悪しき智恵は詐欺・欺瞞として人々に激しい憎悪を感じさせる。

 すこし古い話ですが、豊田商事事件では悪しき智恵を絞って大きな社会問題になりましたが、被害にあった人は激怒し、被害にあわなかった人達は種々な見方をしている。豊田商事のやり方は社会悪と考える人。いや奴は頭がよい、欺された人間が欲に絡んでしたことだから欺された者が悪いと、他人ごとなので考え方も違ってくる。

 ただし、欺された人間が悪いと決めつけた人も、直接自分が欺されると、口角泡を飛ばして瞞した奴を極悪非道の人間と罵る。このような悪徳の智恵が、良き智恵を活かし真面目に生居している人々の間に隙をみて侵入してくるのは、いつの時代においても変らないものだろうか。

 三年間の医薬分業推進モデル地区を終え、若松分業方式とか面分業の呼び方で各支部の賞賛を浴びてきたが、物事すべて良い面・悪い面があるものです。組織の人達が良い面を知的に白覚したときには悪い面は影をひそめるものです。

 若松地区の分業を振り返ってみると、30年前に3人の会員が、処方箋を手にすることは薬剤師の職務であることを自覚し、当時の調剤は殆ど散・水剤であったので、ダイアジン末・サルゾールから液剤の苦味チンキからヒマン油まで50品目位を備蓄したが、受けた処方箋は年間2〜3枚だったと記憶しています。

 何処から処方箋が発行されるかは不明ですがヨーロッパ型の分業である面分業を夢みて、是が非でも実現させたいとした理念が現在の若松地区分業の基礎になったと思います。その後、保険法の改正で処方箋発行数が伸びていって、現在の状況になったことは略させていただきます。

 面分業が発展してゆくに従って会員にも処方箋を応需する機会が必ずあるとそして、処方箋を手にした会員が喜ぶ顔、また会員同志で何枚扱ったと誇りをもって話しあっている姿を見るときに、コストやシェアの問題を度外視し、医療の一部に参加できたと胸を張り、更に分業がすすむことを願っているのが身に泌みて感じられました。

 ところが、歳月が経つにつれて、世知辛いと言うのか、経済的というのか、考え方の異ったコスト・シェアに異状に執着する人達(卸・メーカーに勤務又薬剤師でない人がオーナーになった一部の薬局)が開局し処方箋の独占をする薬局を開設するようになり、面分業を利用して既存の薬局に関係なく有利場所に割り込み出店してきます。

 面分業の一番弱点をついて、薬局開設許可はどうのと一方的理論を展開し会員を困惑させる。その都度、個と組織の理論が激突する場面が繰り返されてきたが、幸いに若松地区では三師会の基本理念である"薬剤師は吾々のパートナーである"で、割り込み開局者に開設を思いとどまらせていた。

 薬事法ではどうにもならぬと思案している薬剤師会に力をかしてくれた医師会に感謝しています。医師会長の信念は、既存の薬局に処方箋を出し、近くの薬剤師と一緒に患者のために、より良い医療を……で、薬剤師もこれに答えねばと思っているのが若松面分業です。

 30年前は20軒足らずの薬局が分業の進展とともに47軒に増加。それに従い処方箋を手にして薬剤師の喜びを噛みしめた人の数は少なくなり、コストとシェアを競う現場体験主義者が多くなり、コストやシェア重視の理屈が幅をきかせて、分業本質論の人まで巻き込みコスト重視論へと変えてゆく。

 コスト重視論の同志が多くなれば、既存薬局に関係なく、他人がどうなろうと知ったことではないと割り込みを始め、白分の行為を同志の数に頼って正当化しようとする智恵が起り始めている。

 経営が堅実であることは大切ですが、分業の基本理念を忘れてはならないし、白分自身で分業をしたから薬剤師会には関係ないとの発言を聞くことがあるが、薬剤師会が分業の下地をつくっていたから医師も関心をもってスムーズに出来たことを忘れてはならない。

 個で分業論を唱えても社会は認めにくいが、組織で唱えれば認めやすくなる。それで組織の知恵で面分業が実現されてゆくのではないでしょうか。

 頭の中で理屈をこねまわし、俺も年令をとったなと思い、椅子にもたれながら半廻転させて眼を凝らして棚を見ると、缶の縁の所々に鋳があり薬品棚の隅に置き忘れられ使われることもなかったダイアジンのポンド缶が時代の移り変りをみてきたように思われます。

 30年前に3人の若い薬剤師が損得を度外視して同年輩の医師達に医薬分業を語りかけ、その医師達が、ここ10年間に医師会の役員になり面分業を実現したことを古びた缶は話しかけてきます。

 立ちあがって、その缶を手にとり、ソーッと蓋をあけてみると、白い小さい結晶に光線があたりキラッキラッと光り、丁度ダイヤモンドの輝きのように見えました。

 <分業特集> 「点から面へ」    市薬社保委員長 正岡民次 昭和63年11月30日

 福岡市における立地可能なマンツーマン分業は、ほぼ終了に近づいたのではないかと思われる。

 福岡市においては63年8月現在、1ケ月に人口1、000人当り240枚の処方箋が市内の会員によって調剤される。又地域的には東区において保険薬局の62%が800枚薬局であり、300枚薬局と800枚薬局が同じというのは、マンツーマン分業の終了をさしているものと思われる。

 博多、城南、中央各区については、300枚薬局が多く序々にマンツーマンの終りに近づくものと思われる。

 早良、西、南各区は、これからというところであろう。市全体的には、ほぼマンツーマンの終了をあらわしているもので、保険薬局の40%が800枚薬局である。

 しかし福岡市の分業率はマンツーマンでは、これ以上伸びる余地はなかろう。しかしこの数では国民、市民の医薬分業の理解はむずかしかろう。しかるにこれからは面による拡大こそ薬剤師の生き残りに大切な道ではなかろうか。

 面分業の先進若松は70%の医療機関で処方箋を発行し、44薬局で受け入れ一店当り2、000〜3、000枚の処方箋を受けている。

 しかし、これには33年に三師会(医歯薬)会館が建ってからの長い道のりを経て出来たものであり、決して簡単に進むものではない。そこには役員のものすごい努力と会員のこれしかないという考えが結びついて成り立っている。

 福岡市においても各自が医療に参加する薬剤師という立場に立ち、部会又は隣近所の薬局と団結しスクラムを組んで地域医療にとび込もうではないか、待っていてもそれはやってこない。

 自分の近隣の医療機関との信頼、地域住民の信頼が重なりあって部会の信頼になり、その積み重ねが進み支部、市薬への面分業の道が開けるのではなかろうか。上からの面分業、全面分業はまず無いと私は断言する。分業は各自の意識の問題である。

表
 <分業特集> 「患者志向の調剤とは」 (社)福岡県薬剤師会 理事 光安龍彦
                                昭和63年11月30日

 保険薬局の調剤報酬として、投薬特別指導料と薬剤服用歴管理指導料が設定され、薬剤師の調剤業務のメンタルな部分が拡大されてきました。いわゆる患者志向につながる調剤です。

 全国的に見て分業も遅々と進んできましたが、ここまでの分業化への要因は我々薬剤師の努力以上に外的条件の医療費改正や薬価改正に負う部分が大きいと思います。今後医薬分業(協業)の進展および社会的定着を目指すには薬物の専門家としてまず医師に信頼されることは当然であり、更に患者さん志向の分業を進めなければならないでしょう。

 最近の新聞紙上を見れば、厚生省健康政策局の諮問機関である「患者サービスの在り方に関する懇談会」において患者サービスガイドラィンの試案が作製されていますのでここに少し紹介します。

 @信頼関係の確立
 A二一ズへの積極的な対応
 B積極的な情報提供
 C組織的な対応
 D地域とのかかわり
 などを重視し、より開かれた医療の必要性を訴えたものです。

 この中で薬局に対して特に「薬剤のうけ渡しは薬剤師が行ない、服薬指導は正しい服用を徹底し、治療効果を高める上で極めて重要であり、患者さんがわかりやすく納得して服用できるように十分に説明することが大切であり、又薬を受け取るまでの待ち時間の短縮も重要である」と強調しています。この試案を読みますと、医療の中心は患者さんであるということを再確認させられます。

 次に参考資料として、北里大学病院薬剤部によって実施されたアンケートの集計結果が出ていますので見て下さい。このデーターを見ますと患者さんが薬局および薬剤師に何を求めているか一目瞭然です。薬剤師がどういう行動をとらなくてはならないか判明するでしょう。

 (参考資料)

表 表

 調剤は処方箋にしたがって正確に薬剤を調剤する行為から患者さん志向への調剤へと向かっています。今後の調剤報酬のアップが調剤技術そのもののフィーよりも、服薬指導、薬歴管理のフィーのウエイトが大きくなることは当然の事でしょう。

 薬歴料が新設された当初は薬局業務の繁雑化で問題もありましたが投薬する際に薬歴がなければ適切な服薬指導も行うことが不可能であり、薬歴を作製して始めて、薬歴なしの投薬業務の危険性に気がつく事でしょう。

 医師のカルテ同様に一枚の薬歴に患者さんの情報が種々たくわえられ、薬局にとって無くてはならない物となっています。単に薬の用法用量など事務的な説明であれば、薬歴も服薬指導もその評価が低くなります。

 病気をかかえているという不安を抱いている患者さんに対して人間的でより効果のある対話ができるかがこれからの薬剤師職能向上に結びつくものと思います。

 最後に、今昔の薬剤師像を表わすことばがあります。
 昔、薬の倉庫の番人。
 今、患者を通じて薬を管理する。

 <分業特集> 「若松における分業活動見学記」
                   南支部 社保委員 大庭秀臣 昭和63年11月30日

 故郷に、昔日の思いを馳せながら、福岡を出発する。人口九万人、東南北は、響灘、洞海湾、にて区切られ、西は郡部に鎖され、中央には、高塔山,石峰山,花房山の丘陵が起伏する山近く海近い、小じんまりとした市です。

 昔は人口十三万人、石炭の集まる工業地帯として活気があり、人情豊かな町であった事は、火野葦平の小説に紹介されている通りです。気性は荒いが、「義理」と「人情」、「血」と「涙」にあふれ、出船、入船で賑わった街も、現在は、不況による工場閉鎖,人口流出に悩まされ、昔日の活気は無くなりました。

 それに反して、分業促進活動は盛んで、今日のモデル地区として成長しました。「文明は、逆境より生ずる」と云う諺の通りです。医歯科の先生方との交際は、日夜を間わず、事ある毎に、薬剤師としての職能をアピールして来ました。

 除々に三者が心を開く様になり、マンツーマンの処方箋発行が見られる様になった。と同時に会営薬局をニケ所に設置し、各会員の卒後教育も含め、医師、歯科医師への信頼を深める事に成功しました。初めは、1枚2枚の応需を喜び合いました。

 促進要因として、最も有為な事は、三師会館の存在で、事務所面積は均一で同居し、各会幹部の交流が盛んで、学術研究会を再三開いていた事も、二師に認められ、より一層の信頼が高められた。その間に相互の理事会への招待が行われる様になり、相互信頼は、ますます進み、薬剤師会を学術団体として認め、投薬は薬剤師へ任せ任せる事が、医師理事会で決議されました。

 時に政治の変革(税制改革、薬価の切り下)により、S54年から今日まで、急速な延びを示す様になり、「点から面へ」の分業へと発展しました。この時点で、医師会の地区割りに沿った六ブロック制を採用し、ブロック毎に医師との疎通に気を配り、分業基盤の確立を計った。

 又三師会で薬事委員会を設立し、医薬品のDI活動に努めると同時に、他からの、割り込み開業への阻止に全力を盡くしつつ、薬剤師会員間では、「備蓄リスト」をフルに活用し、C価にて融通し合う事により、患者のタライ廻しを避け、各会員間の融和を保つ事が出来ました。

 既存の薬局の小改造で、大きな設備投資もなく、処方箋応需に事欠かない現状です。之に於て、会営薬局は閉鎖し、会員間の切磋琢磨に依って、より一層の発展に努めている様です。まだまだ多くの問題があり完全分業とは云えないまでも、その発展には目を見張るものがあります。

 福岡に於いては地区割りも完全でなく、医師との交流は、まだまだ少ないとは云え、粘り強く疎通を計るべきと思います。若松に於いても二十数年の時を経ています。「ローマは一日にして成らず」の通りです。

 卒後教育を通して、自己啓発に努め、DI活動を通して、医師歯科医師に働きかげ、分業伸展時には、信頼される薬剤師として、何時でも処方箋応需が出来る体勢にしておくべきと思います。

 二十一世紀の調剤は、コンピューターがする様に成るとも云われますが、DI活動は、入間の頭脳と対話によってのみ出来るものです。薬剤師としての職能を認識し、地域医療に奉仕出来る様、努力しましょう。

 懇切な御説明下さいました、岡本昌明先生、井上浩一先生、薬局実務を御提供下さいました、平山光栄先生、仁宮寛治先生、森重勝子先生に深く感謝致します。

 <分業特集>
 「若松モデル分菜を視察して 福岡の面分業にどう生かすか」
                 早良支部 社保委員 清水達三 昭和63年11月30日

 医薬分業モデル地区の成功例として厚生省より高い評価を受けただけあって、うらやましい理想郷であった。それをマンツーマン分業の進んだ福岡の面分業推進にどう生かすかと言われて、頭をかかえ込んでしまいます。まず若松面分業の成功の理由を探ってみますと、

 @地域的に隔離された半島に、ほどほどの人口と医院数,薬局数があった事。
 A強力な指導力と熱意を持った薬剤師会長がいて、医師等との交際を上手にこなし、 分業獲得の努力を行使した。
 B医師,歯科医師,薬剤師が等分して三師会会館を建て同格の立場で同居したお陰で医歯薬が嘗に親しい]ミュニケーション作 りを育てることができた。
 Cグループ(部会)別地域分業を鷲立したり、初期には会営調剤薬局も効果を上げた。
 D若松薬剤師会が団結力を持ち、飛び出し薬局や外部からの榛取り薬局を完壁に押え 込んだ。その他にも成功原因や努力は沢山あります。

 さて福岡の場合は都市規模が大きすぎる上にマンツーマン分業が先走っていて、これを面に置き換えるには容易ではない。

 しかし福岡では今度国立中央病院が百道埋め立て地に新築移転するのをきっ掛けに処方箋発行を働働きかけ、できれば会営薬局を、処方箋が出廻ればそれを受け入れる為に出来る限り多くの薬局が薬を揃え処方箋受け入れを実行し、受け入れ薬局は標示をはっきりして面分業の先駆者として頑張ること、もちろん全薬局が備蓄薬品の小分げが出来る状況を作り、それを契機に受け入れ可能薬局を増やしてゆく。

 若松でもとりかかってから十数年の努力が実った。福岡でも根気強くやる必要がある。また現在薬剤師会の部会割りと全々違っているが、地域分業を目ざす為には医師会組割に合わせた薬剤師会部会作りが必要になってくるだろうし、そうすればその中から、いくつかの部会は若松の様なグループ(部会)面分業に成功して行き、その影響が次第に広まり面分業が推進されるだろう。

 福岡のマンツーマン分業は多くなったが、もしリベート分業が潜入しているとしたら絶対に面分業は進展しないだろうし、それどころか面分業を阻害するであろう。また各支部、部会にしても医師と薬剤師が顔を合わす機会が少なすぎる。これを薬剤師会でもっと研究して対策を講じてほしいものだ。それに伴い薬局薬剤師は医師の信頼を得るべき努力をしてゆかなくてはならない。

 我々は、薬局の「局」の意味と、薬剤師の「師」の意味をわかっているのだろうか。店に「局」を掲げ「師」が白衣を羽織っているのはよいが、「局」に雑貨が山積みされ、白衣を着た「師」が雑貨の安売りに血道をあげていて、どうして患者や医師の信頼を得られるのでしょうか。ましてや分業など得られるはずがない。

 今からでも遅くはない我々はどの道を職能と考えるのかを決断し本来の薬局を追求するのか、それとも「局」の看板を降ろし白衣を脱いで雑貨の安売りに商道を追求するのかはっきり別れてゆかなくてはならない。

 そして薬局と薬品の区別を明確に区別できる方策を打ち出し、又薬局の方でも処方箋を受け入れる薬局と雑貨の安売りに血道を上げる薬局とに別れ、後者は「局」の看板を降ろし白衣を脱ぐべきである。

 もちろんその区別も明示できる状態にしなくてはならない。もし面分業を本気で考えるならば薬剤師会がイニシアティブを取り薬剤師が襟を正して、医師や患者、そしてお客様から信頼される薬局になってゆかなくては、面分業は遠い夢の世界になってしまう。 分業は寝て待っていては、転がり込んではこないのです。

 <会員の広場> 「白分史を書く」 大橋部会 織田薬局 織田登紀子 昭和63年11月30日

 この頃カルチャーセンターや文化講座等で自分史の書き方があったり、雑誌で目についたりしますので、私の自分史とは、というより過去を振り返ってみました。

 特別良かった事、自慢できる事もなく、かといって悪い事や悔やむ事もありませんでした。両親健在、主人も健康、子供も健康、幸せな毎日に満足しています。

 子育てにおいても幼い時はこのようにして育てているとか、こうして育てたいとか書けてたけど、今問題の中学高校の子供を育てている(育てているというより自分達で育っている)時期は不安定なシーソーに乗っているようなもので、2、3月後はどうなるかわからないから、どうこうしているという事を文字にして書けません。それで履歴書みたいですが薬剤師史でも書いてみました。

 昭和43年福大卒業後千早病院の検査室に就職しました。学生時代実習をうけて、検査の仕事をしたいと思いました。社会入の一員となり希望にあふれていました。血清はピペットで吸い試薬も手作りの頃でした。最新の検査の仕方は血清を取ってデータが出るまで全部自動で行われると聞きましたが、ずいぶん検査時間も短縮されている事でしょう。

 私は肝機能の検査をしていました。この頃B型肝炎の事がよく話題になりますが、当時患者さんの検査後の血液は流しのゴミ入れに捨てて、手袋もしないで血液の入っていた試験管をザザブザブ水洗いしていたのを思い出すと、よく肝炎にならなかったものだと思います。

 今病院にかかると検査結果を中心に話しをされるので、検査にたずさわっていた事が大変役にたっています。46年に退職しました。

 47年から54年まで薬局の管理薬剤師をしました。

 55年、調剤薬局の管理薬剤師になりました。ここでは久しぶりに処方せんに触れて薬剤師らしい気分になり、保険の書き方の勉強になりました。

 57年、場所的に薬局に向いてなかったかもしれませんが、家を新築したので薬局もそこに開きました。お客様のために薬を私が選んであげる、大変責任のいる又信頼を預かる仕事です。5年目を迎えた今、諸先輩の先生方に店の事、薬の事、いろんな事を御指導いただきやっと自信らしきものができてきました。

 友達に進められて学校薬剤師にもなりました。小中高校が近所にあるので地域のための学校薬剤師になりたかったのですが他校区の小学校に決まりました。私にとって学薬はまったく新しい分野だったのでとまどいましたが新鮮味があって楽しいです。1年後に近くの中学に変わり楽になりました。

 保健の先生が、「校医さんより、薬剤師さんの方が学校とかかわる時間が多いですね。」とおっしゃっていられましたが、ほとんどの父兄が私達学薬が学校でしている仕事を知ってないと思いますので残念です。

 私も3人の子供を育てている間、校医さんは身体検査があるので知られていましたが、学薬の先生はどなたか又生徒の為に何をしていられるのか等はまったく知りませんでした。

 薬剤師としていくつかの仕事をしてきましたが、まだまだいろんな職域でたくさんの先生方が活躍していらっしゃると思います。薬剤師となって他人の為ならず家族の為又自分の為に知識が生かせて本当によかったと思い、一生薬剤師としてかかわっていられる事を誇りに思います。

 <会員の広場> 「支部対抗親善ソフトボール大会に参加して」
                   福岡市立第一病院 中尾泰正 昭和63年11月30日

 今年もスポーツに最適な季節となり、各地で色々な催物が行なわれています。世界中が待ちに待ったソウルオリンピックも始まり、日本選手の活躍が大いに期待され、テレビ,ラジオ,新聞等を通して国民全てがオリンピック情報に耳を傾けています。またプロ野球に目を向けると、セリーグは星野中日ドラゴンズが優勝街道をまっしぐらに走り、パリーグは独走かと思われた西武ライオンズが近鉄の猛追に慌てふためき出しました。

 そんな中での9月18日、我々市薬の親善ソフトボール大会が、抜ける様な青空の下、流通センター内武田薬品グランドにて開催されました。

 昨年は勤務部会は初参加であったため特別参加となり、順位争いには入れずに、その為か(?)1勝1敗の成績を取り、今年への勝利の為のエネルギーを残す事となった。

 今年度より勤務部会も一般参加を認めてもらう事ができ、選手を初め応援団(若干名)一同優勝を目指して一致団結し、試合に望む事になった。

 抽選の結果、第一試合は南支部との対戦になった。1回の表、南支部の猛攻にあい、一挙6点を先取され敗戦の色がただよったが、勤務の底力もたいしたもので、すぐにその裏5点を返し、2回には7点を取り一気に逆転し、そのままリードを続け結局14対8のスコアで勝利を得た。

 第二試合は中央支部との対戦であった。あまりの晴天に目中の気温は30度を越えた様な暑さの中での試合となった。さすがに両軍とも2試合目ともなると疲労の色も見え始めたが平均年齢の若い勤務の方が暑さも克服し、そのためか一方的なゲームとなり16対6の大差をつげて勤務の決勝進出が決まった。

 決勝戦は昼食後に行なわれる事になっており、食事は各支部ごとに集まり、午前中の試合の反省や午後からの試合の作戦をねったりしながら、お互いの親睦を深めるのに最適な時間ともなった。

 暑い中での試合でもあったので、昼食時にビールを飲む選手も多く、決勝戦では全員が持てる力を十分に出し切れるかどうか不安でもあった。

 いよいよ決勝戦である。対戦相手は昔から足でかきまわすことで定評があり、過去数回の優勝経験を持つ強豪・東支部である。

 さすがに決勝戦となると両チームとも気が引き締まり好守好打の連続で緊迫したゲーム展開となった。結果は少し押されぎみであった勤務に勝利の女神が笑えみ、8対7のスコアで勤務の初優勝となった。

 接戦をものにした勤務の選手の顔には疲労の中にも喜びの表情が見られた。まさにスポーツの秋を全身に感じとることのできた支部対抗ソフトボール大会は、各支部間の親睦を深める役割を十分に果してくれた様であった。

 本大会を企画し、運営していただいた大会役員の皆様に深く感謝致します。来年も連続優勝に向けて頑張りますので、どうぞ宜しくお願い致します。

 <会員の広場> 「馬場正守先生の死を悼む」
              警固部会 永瀬永寿堂薬局 中野 佐 昭和63年11月30日

 私の独断と偏見的な見解だが、過去の福岡市薬剤師会の三傑は四島久、白木太四郎、馬場正守先生である。

 故馬場正守先生は私より五才年下であるが彼の衛生化学、分析化学の学識の深さはプロフェッサー級の頭脳の持主である。

 薬科大学の教授でいたら恐らく薬学博士になっていたであろう。小売薬局の経営者では本当に惜しかった。今後彼より優れた開局者は出ないであろう。福岡市薬剤師会にとって大いなる損失であった。せめて後10年は長生きしてもらいたかった。

 42才で福岡市学校薬剤師会長になり、13年の長きに亙って学薬会長を務められたのは、彼にそれだけの実力があったからである。

 彼は物事を為すに何事も几帳面である。ちょっと頑固なところがあったが中途半端な妥協は許さぬ人だった。然し我々先輩に対しては敬語を使い白分の学識を威張るようなことは無かった。解からない試験法など何回聞いても苦笑し乍ら教えてくれた彼の横顔が脳裏をかすめる。

 学校薬剤師会の全国大会に獺越先生と三人で何回も御一緒したが、会員から拠出された金だからと言って経費を節約、ビジネスホテルに泊り会場迄のタクシー代は三人で割り勘だった。

 学会には朝9時より午稜4時迄真面目に出席し、学会では良く質問や指名されると明解に解答し積極的に発言されていた。全国学校薬剤師会に名前が知れ渡っていて各県、各市の会長が向うから挨拶にこられていた。

 彼は甘いお菓子が大好きで、酒とタバコは一滴も飲まず吸わなかった。大体歌の好きな人に悪い人はいないと言われているが、彼は演歌が好きで宴会ではカラオケで良く歌いレパートリーも広かった。

 そして薬剤師会きっての愛妻家で彼程奥さんを海外旅行に同伴した人はいないだろう模節亭主である。皆見習わなければならないと思う。33年間の長い学薬生活で多くの教訓と思い出を残してくれた。本当に借しい人をなくした。

 <フレッシュさん紹介> 「現代性シンドローム」
        福岡市立こども病院 感染症センター 安河内尚登
 昭和63年11月30日

 私が薬剤師になって、早や3年が経ちました。1年間は九大病院に、2年目からはこども病院に勤務しています。大学3年の時、病院実習をここでやらせてもらい、またここで働く事になるなんて夢にも思っていませんでした。

 薬剤部は男5名、女1名、平均年令30才という若い部所です。若いが故に未熟かもしれませんが、若いが故に薬剤師として希望を持って仕事をしていると思います。薬剤部というのは大体入員の少ない部所です。院内での影も薄くなりがちなので院内の行事にはなるべく参加するようにしています。

 バレー,ソフトボール,バドミントン,テニス,ボーリング,卓球薬剤部は男5名、女1名、平均年令30才という若い部所です。若いが故に未熟かもしれませんが、若いが故に薬剤師として希望を持って仕事をしていると思います。薬剤部というのは大体入員の少ない部所です。院内での影も薄くなりがちなので院内の行事にはなるべく参加するようにしています。などです。色々な行事に参加して、他の部所の方の話しを聞くのは大変勉強になりますし、薬剤師の仕事の内容をアピールできるのも良い事だと思います。しかし最大のメリットは院内のコミュニケーションを取れる事だと思います。現在も来月に行なわれるバドミントン大会,テニス大会に向けて練習に励んでいます。

 当病院の患者さんは、やはり子供さんが多い訳ですが、今の子供さんの名前がユニークなのには驚かされます。例えば、アイコ,アイミ,アスカ,アリカ,オリネ,カレン,コウエツ,コウセイ,コトネ,スミト,セイト,セイヤ,ゼンタ,タイチ,ダイキ,ツバサ,ヒカリ,ミク,メイシン,ユウト,ユウダイ,リナ,レオナ,レイカ,レイナ,レナなどナウイ名前が付けられています

 それぞれに親の愛情が込められた名前なのでしょうが、よくこのような名前が考えられたものだと感心します。子供さんをお持ちの先生方が自分の子供さんに名前を付けられる時に、これらの名前が候補に上げられたでしょうか。

 でも子供さんの名前だけでなく、今の若い母親というのもユニークです。まずスタイルですが、MIKI-HOUSE(ブランド名)のトレーナーを親子でペアルックしている母親、メーカーに関わらずペアルックを着たがる傾向があるみたいです。

 ロビーで薬を待っている時、白分の子供が土足で長イスに上っても何も言わない母親、薬を子供に取らせに来て、説明を聞くよりもそれが子供の教育に良いと勘違いしている母親。子供さんは薬の重要性を認識する事が出来ないので、母親が代りにその重要性を認識し、きちんと服薬させて頂きたいと思います。

 やたら薬に対して過敏な母親。これも我が子がかわいいからだと思いますが、度を越すとヒステリックな母親に見えてきます。薬の本などを入手し独学で薬の知識を吸収している母親。この手の母親には感心させられます。

 私は独身ですので親がどうあるべきかを勉強させられているみたいですし、これらのユニークな名前は、自分の子供に名前を付ける時に参考にさせて頂きたいと思います。しかし、今はユニークだと思える名前も10年、20年後は違和感のない名前、むしろ在り来たりの名前に変わっているかもしれません。

 そういう時になると薬剤師を取り巻く環境も変化しているでしょう。今年から病院薬剤師に服薬指導料(100点業務)が認められた事もその一歩だと思います。服薬指導料が取れる為にはいくつかの条件がありますが、残念ながらこども病院はその条件に該当しませんでした。

 しかし将来は服薬指導料が取れる様になると思いますし、こういった変化は病院薬剤師に限らず開局薬剤師にも波及してくると思います。私達薬剤師は、いつ、そういった状況になってもいいように日々努力していかなげればいけないと思っています。
                         (S60年明治薬科大学薬剤学科卒)

 <フレッシュさん紹介> 「開局2ケ月目にして」
            六本松部会 ファーマシーフジキ 藤木弘美 昭和63年11月30日

 日一日と風が冷たくなってゆき、朝の洗顔がつらい季節となってまいりました。 急な寒波で風邪をひかれた方も多いようですが、諸先生方はいかがでしたか。私もついに寒さに負けてしまい、ズルズルと鼻をすすりながら風邪のお客様に「この薬効きますよ」と頼りない説明をしております。

 薬学部を卒業後、福岡県立高等学校の教員に採用され、しばらく薬剤師としての仕事から離れていたのですが、この度退職し開局するにあたり、諸先生方のお仲間に加えていたいただくこととなりました。

 約三年間の教員生活で、私の頭のかたすみにあった、ただでさえ乏しい薬の知織はすっかり"無"になってしまった上、開局してまだ一ヵ月余りですので、わからないことだらけ。お客様から教えていただくようなこともあるくらいです。

 お客様が入ってみえると、胃がキリキリ痛みだし、そして考えることは"薬の相談じゃありませんように"ということですので、全く情けない限りです。一刻も早く胸を張って「薬剤師」と言えるだけの専門的知識を身につけたいと思ってはいるのですが、こればかりは、一朝一夕にはいかず、もどかしく思っております。

 よく薬剤師は閉鎖的な社会であるとか世間知らずとか言いますが、教員の世界も負けず劣らず閉鎖的。しかも生徒や父母からちやほやされる"一お山の大将"。そういった社会にどっぷりつかっていたわけですので、薬局を始めて、環境がガラリと変わってしまいました。

 例えば、対人関係にしても、以前は他人が造ってくれていたものですが、現在はこちらから造っていかねばなりません。目下、なかなかお客様と「世間話」ができず、頭を悩ましております。

 毎日、色々な方と接してみて、やっと社会という所に出たのだという開放感とともに、日々の新鮮な経験を白己の人間形成に少しでも役立てることができたら、と奮闘中です。今後、色々な面で薬剤師会の職員の皆様や会員の先生方にはお世話をおかけすることと思いますが、未熟な私に力をお借しください。

 どうか末長くよろしくお願いします。厳しい冬が迫っています。どうぞ風邪など召しませんよう。
                         (S60年長崎大学薬学部卒業)

 <部会紹介> 「原部会について」早良支部 原部会長 清水達三 昭和63年11月30日

 私達の原部会は新生早良支部薬剤師会を構成する三部会の一ツとして21会員を有する大所帯部会です。昔から原部会といえばまとまりのない部会の代表のように言われ「お荷物部会」と陰口をたたかれる恥ずかしい部会でした。過去には会計が部会金を全額持ち逃げしたり、又ある時は不渡り手形の会費をつかまされたり惨々な目にも合いました。

 今までの原部会では部会長も会計も廻り当番制であった為、部会長は規定の年期をやり過ごすのがやっとという状態でした。この無気力原部会を憂う会員もいてなんとかしなくてはと悩んでおりました。

 そこえ突然去年の11月、かつて例をみない悪らつ薬剤師が店舗も構えず姑息な手段で薬剤師会A会員に入会してきたのです。その上一旦入会したら後は我々原部会をないがしろにし、卑劣な手段で会員資格だけを持って逃げ廻ったのです。

 こんな悪事を許すまいとして原部会は決起したのです。毎晩の様に会員有志が集まり如何にして部会が強くなって闘うか、また部会を活性化させ団結させるかを談合しました。その中から無関心会員を起こすにはどのようにしたらよいか、薬剤師会とは?何故薬剤師会に入会するのか?そして会員の義務とは、権利とは?会員になるとどんなメリットがあるのかを何度も部会を開いて討論し合いました。それを契機に新生原部会が誕生したのです。

  今年度からは熱意のある部会長を選び、その部会長の元で次の事を実行して部会活性化を計ることになりました。
 1. 部会会則の制定。
 2. 部会会費月一万円の徴収(今までは0)
 3. 部会会報を毎月一回発行する。
 4. 部会会合を出来るだけ多く開く。
 5. 部会長、役員は出来るだけ多く会員店を巡り話し合う。

 丁度時期が良く石井道子後援会名簿獲得という大仕事があり、これを遂行する活動の中で頻繁に会員店を訪問し、何故薬剤師会が政治力を必要とするのかを説明する事で会員意識の高揚や部会団結の必要性を理解してもらい盛り上がりました。

 また何度も足を運び直接面と向かってお願いした事で会員の多くが情にほだされ一生懸命後援会名簿集めに協力してくれました。お陰で9月末で石井道子後援会会員集めも目標の83%(1,739名)を上回り、100名突破会員は市薬の中でも一番となりました。そして今年中には部会目標100%突破をめざして再度挑戦中であります。

 薬剤師会は事業計画のトップに組織強化と部会支援と活性化を打ち出しているのであるから、もっと強力に積極的な対策を打ち出してほしいのです。会員が薬剤師会事業を身近に感じて活性化する為には部会という太いパイプが必要なのです。

 薬剤師会は今、医薬品検査センター、卒後教育100時間、石井道子政治連盟、市薬会館の建て直し、地域分業施策等で多忙だとは思いますが、これらを会員の前に突き付ける役目を部会長にさせる事の中にこそ組織化を生みだす絶好のチャンスがあるのではないでしょうか。

 今、O.T.C薬局は不景気の中で浮上策もなく不安におののいていますが、そのすき間を縫って悪質薬局が既会員店を襲います。彼等は薬剤師会が苦労して得た宝物だけをねらって入会して参ります。入会できたら最後彼等は会の活動にはほとんど協力もせず義務も果しません。それは後援会名簿集めの結果にも如実に現われています。悪質な会員が部会に入会する度に部会内部は弱体化し、団結が崩壊するのです。

 この件では今年の市薬細則第2条の2の改正は支部や部会の強化にとって本当に有り難いことでした。この改正は我々原部会の再起に大きな力づけになってくれました。とは申せ我々原部会は再出発してまだ一年たらずで、これから解決しなければならない事が沢山残っております。悪徳薬局との戦いは、まだケリがついていませんし、同様な薬局開設情も沢山ききます。

 いつの日か「闘う原部会」から成長し、「モデル原部会」となる日を夢みて切磋琢磨してゆきたいと思います。市薬の支援と会員の暖かいご支援をお願いして原部会紹介を終らせていただきます。

 <コラム> 「バードウォッチングしてみませんか」
                  九大病院薬剤部 野仲範子 昭和63年11月30日

 −鳥達の身上調査−

 皆さん、動物はお好きですか。いろいろな動物をペットとして可愛いがっていらっしゃる方も多いことでしょう。私も動物が大好きで、動物園なんかにもよく行きます。

 動物園って楽しいけれど哀しくもなるところですね。特にいかめしい顔をした動物ほどオリ越しに見るのは見ている方がつらくなってきます。しかし、そんな動物は野生状態で見るのはまず無理ですから、動物園で、というのも仕方のないことでしょう。

 でも、大層な動物でなければ身近にその野生が見られるものがあります。野鳥です。見なれたものから季節ごとの渡り鳥,フラフラと迷いこんで鳥キチ達を喜ばせる渡り鳥といわれるものまで種類も数も沢山です。

 いつもより、少し注意深く周囲を見ると思いがけない出会いがあります。昨今は自然ブーム,健康ブームです。アウトドアライフの楽しみの一つにバードウォッチングを加えてはいかがでしょうか。

 それでは今月号から鳥達を紹介していきます。まずは身近なものから。

 シリーズNo.1 [スズメ]

 余りに人に身近なため、なぁんだスズメか、とまともに観察してもらえない。

 ハタオリドリ科の留鳥。濃茶の帽子に白い顔、ほほの黒い斑がポイント。背は褐色に黒い縦模様、腹は白く、くちばしの下に黒いよだれかけ。幼鳥は全体的に色が淡く、黒斑も不明瞭。

 地上では足をそろえてピョンピヨンと(ホッピング)意外な速さで移動する。

 繁殖期の春には沢山の昆虫を食べる益鳥なのに、実りの秋にはその実りの一部を失敬するため害鳥だと白眼視される損なヤツ。

 庭にエサ台をつくるとまず偵察にくる先兵役。スズメばっかりきて……と落胆しないでほしい。スズメがきて安全だとわかると他の鳥達も徐々に訪れるのだから。

 春先には可愛いい光景がみられる。親子づれである。ヒナは大きさは親と変わらないくらいなのに、口を大きくあけ羽をふるわせてエサをねだるのですぐわかる。乾いた砂があると砂浴びもしてみせてくれる。

 一見地味な鳥だが野鳥の基本的な情報を沢山提供してくれる貴重な鳥でもある。もっと私達をみて!チュンチュン。

 <トピックス> 「ゲルマニウム含有健康食品 による腎障害」
                       市薬 学術委員会 昭和63年11月30日

 ゲルマニウム(Ge)は、健康に対する影響に関して、その良い効果も悪い効果も、十分な科学的根拠がないまま、健康増進や滋養強壮剤として使われ、いわゆる"健康食品"として市販されている。

 現在、ゲルマニウム健康食品として市販されているものは、わが国だけで約60社以上、60種類以上にのぼる。その成分として、酸化ゲルマニウム(GeO2),有機ゲルマニウム(Ge-132類似物),スピルリナ(藻体)成分に大きく分けられる。

 最近、このようなゲルマニウム含有健康食品を、長期間服用したことによると思われる腎不全を主症状とする中毒例を、和田らは23例報告している。(表1)

 佐内らは、Ge剤長期服用により腎障害を呈した6例を報告し、注意を喚起している。(表2)

表2 ゲルマニウム製剤服用による腎障害例

表

 腎障害の特徴は、@蛋白尿,血尿などの異常所見がないこと、A腎組織では糸球体は異常なく、遠位尿細管に上皮の変性が認められ、一部遠位尿細管上皮に顆粒状物質がみられること、B腎組織変化は軽微であるが、腎機能障害は強く遷延することなどである。
 和田攻ら:日本医師会雑誌,99,1929(1988)
 佐内透ら:臨床と研究,65,1850(1988)

「機能性食品とは」 

 食品には従来から、生命の維持に必要な栄養を補給する「栄養機能」と、食べた時においしさを付与する味覚・嗅覚などにかかわる「感覚機能」の二つが知られている。最近では第三の機能として、生体防御,疾病の防止・回復,体調リズム調節,老化抑制などの「体調調節機能」が注目されている。

 一般的に機能性食品とは、これらの三機能のうち、とくに第三次機能を生かし、医食同源的に人間の健康に寄与する食品を意味するが、明確な概念は未だ確立されていない。

 大手食品メーカーで組織する健康食品懇話会は、機能性食品の概念やあり方について検討している。そこで機能性食品の定義を「人の健康に直接関与する生体の諸系統の特定な調節に有効に作用するように設計加工され、健康の維持,増進,疾病の防止などを目的として、食品として日常的に摂取される形態を有し、栄養機能,感覚機能を合わせもつ食品」としている。(図1,2)

表
表

 機能性食品であるための条件として、@作製目標が明確であること、A機能性因子を含有すること、B作用機序が解明されていること、C機能性因子の存在状態が特定されていること、D機能が実際に発想すること、が必要となる。(図3)

表

 現在考えられている機能性食品には、月見草油,にんにく抽出物,人参抽出物,深海鮫エキス,ローヤルゼリー,レシチン,オリゴ糖,EPA(エイコサペンタエン酸)などのものがある。
 卸薬業,12,733(1988)

 これらのトピックスは、九大病院薬品情報室月報,10,No 7,41(1988)より一部変更して転載したものであり、転載を許可下さいました藤井俊志先生に感謝の意を表します。

 <広報> 「アジア太平洋博覧会「健康いきいきドーム」・起工式」 昭和63年11月30日 画像

 日 時 昭和63年10月19日(水)午前11時
 場 所 シーサイドももち「健康いきいきドーム」建設予定地
 出席者 松田医師会長他三師会役員、田中丸玉屋社長他出展企業関係者、友池助役、加藤衛生局長他福岡市関係者、三洋電気,博報堂,電通,松尾建設各関係者

 起工式は松田一夫出展者会長の挨拶で始まり、友池助役の歓迎の辞があって、神式によりおごそかに取り行われた。

 市薬からは古賀会長、竹尾副会長、藤原専務理事、松枝,藤下各常務理事が出席した。出席者総数約60名

 <理事会他会議報告>                    昭和63年11月30日

第187回理事・監事会 

 日 時 昭和63年9月12E午後7時
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 古賀会長、竹尾,高倉各副会長、藤原専務理事、三津家,戸田,松枝,正岡,藤下各常務理事、木原,高杉,南島,冷川,城戸,小野,藤田,成澤,市花各理事、礒田監事

 1. 会長挨拶
 試験センターの新規認可は、各県一ケ所だけしか認められないので名称を福岡県薬剤師会福岡試験センターとしなければならない。北九州試験センターと改名して欲しいとの事で、北九州市薬に大変迷惑をかけて、ようやく8月30日申請書が県薬務課より厚生省に提出されました。なお8月26日には薬務課より市薬試験センターの視察がありました。会館建設については、会館プロジェクト委員会で充分な検討がなされ、現在基本設計の段階まで進められている。

 2. 報告事項 藤原専務理事
 (1) 薬事功労者禦知事表彰の推薦について三津家正友先生を推薦した
 (2) よかトピア総会実行委員会について
 (3) 県薬臨時代議員会について
 「県薬会報」第3種郵便物の認可に関して
 「 石井道子後援会について」
 (4) 簡易専用水道検査員講習会について、城戸先生を派遣(10月11日〜14日東京)
 (5) 63年度試験センター技術者講習会について
 (6) 63年度市薬事業補助金交付について、福岡市より補助内示金額 150万円
 (7) 「とびうめ国体」の会期について
 夏期 65年9月9日〜9月12日
 秋期 65年10月21日〜10月26日

 3. 委員会報告
 各委員会より活動状況の報告

 4. 協議事項
 (1) 県薬アンケートについて
 情報機器に関するアンケートは、組織委員会よりのアンケートも一緒に行う。
 (2) 試験センター委員の任命について
 委員長 坪根百彦
 副委員長 城戸嘉寿子
 委員 藤原,瀬越,野口,細井,真鍋
 (3) 県薬支部連絡協議会について、各支部長の出席を県薬に要請する。
 (4) 九州山口薬学大会について、出席者の確認を行う

 第188回理事・監事会

 日 時 昭和63年10月18日(火)午後7時
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 古賀会長、竹尾,長谷川各副会長、藤原専務理事、三津家,戸田,松枝,坪根,正岡,藤下各常務理事、木原,高杉,南島,冷川,城戸,小野,藤田,成澤,市花各理事、日高,礒田各監事

 1. 会長挨拶
 試験センターについて、本日薬務課より、薬局等構造設備規則に基づく試験検査機関として、厚生大臣より指定されたとの連絡があった。62年6月10日、薬務課へ正式に指定申請の表明を行って以来、さまざまな障害に出会い大変苦労したが、念願が適い喜ばしいことである。この間、神谷前県薬会長や荒巻県薬会長には強力な御支援を頂いた。又努力して頂いた関係者の方々に対しても感謝申し上げたい。なお、10月24日には厚生省薬務局監視指導課の三沢係長が来館し、試験室を視察するので関係者の出席をお願いする。

 2. 報告事項
 藤原専務理事より報告
 (1) 63年度薬事功労県知事表彰について、表彰式 10月20日 三津家正友先生
 (2) 上水試験方法講習会について、城戸理事派遣 11月8日〜10日 東京
 (3) 9月28日付西日本新聞に「第5回福岡市健康週間行事」についての広告掲載  (4) 健康いきいきドーム起工式について、日時 10月19日(水)11:00博覧会場
 (5) その他

 3. 委員会報告並びに協議事項
 (1) ボーリング大会について、64年1月15日実施予定で準備中。
 (2) 組織委員会のアンケートについて、現在約270名の回答あり今後集計する。
 (3) 薬と健康の週間行事について協力依頼
 (4) 各区健康展について
 イ) 早良,城南,西の各支部より薬局委員を出す必要がある。次年度に検討する。
 ロ) 東区健康展に参加させてもらえない問題について東保健所内の実行委員会で検討するとのこと。
 (5) 薬草観察会について
 (6) 社保委員会で10月13日若松分業視察
 (7) 11月25日学術研修会実施
 (8) 市立学校飲料水検査(219校)終了
 (9) 会報26号(11月発行)について
 (10)会館建設の進行状況について

 4. 会計中間報告

 5. 協議事項
 (1) 石井道子議員後援会について
 イ) 後援会名簿獲得状況についての報告並びに現状分析
 10月15日現在33,309名達成率45%
 ロ) 福岡地区石井道子議員を励ます会について
 11月26日県薬会館で行われる。会員の動員方を支部長,部会長に依頼する。

支部長会(第4回) 

 午後7時
 場 所 千太
 出席者 古賀会長、竹尾,高倉,長谷川各副会長、藤原専務理事、松井,高杉,松枝,深江,南島,吉田,有田各支部長

 1. 石井道子後援会について
 後援会名簿獲得状況は、県薬全体で約30%の達成率となっており、危機的な状況にあるそこで、県薬としては会長及び副会長が県下各支部を訪問し、強力な要請を行うことになった。福岡支部は10月15日が予定されており市薬としてはどの支部・部会を廻ってもらうか、9月30日現在の資料を基に検討した。

 2. 福岡市健康週間行事について
 10月11日より10月22日の間に、各区で健康フェアが行われることになっており、そのための連絡及び打合わせを行った。

 <委員会報告>                        昭和63年11月30日

 「組織委員会」

 日 時 昭和63年9月8日 午後7時
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 竹尾副会長、戸田常務理事、高杉理事、松井,吉村,森川,吉田,森田,戸田,占部,糸岐,深見各委員

 1. ソフトボール大会の準備及び当日の役割分担の確認。組織委員は当日7時30分武田薬品グランドに集合。
 2. 入会のしおり案を理事会に計る。
 3. 会員名簿の作成について

 日 時  昭和63年10月14日 午後7時
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 竹尾副会長、戸田常務理事、高杉,南島各理事、戸田(重),深見,森田,糸岐,森川,松井,吉田各委員

 1. ソフトボール大会の反省
 2. ボーリング大会について、例年通り実施、1月15日 博多スターレーンにて
 3. 入会のしおり、1,000部作成 \135,000.
 4. 非会員対策について

 「薬局委員会」

 日 時 昭和63年9月20日 午後7時
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 竹尾副会長、松枝常務理事、冷川理事、石井,本村,青谷各委員

 1. 薬と健康の週間について
 天神イベントコーナー出動者
 午前    午後
 18日 柴田,冷川 戸田,坪根
 19日 国武,篠崎 大黒,青谷
 20日 本村,彼多江 中野,大庭

 2. 各区の健康フェアについて、市薬倉庫保管品の確認をする。

 3. 「薬草観察会」について、9月25日に行う。
 臨時講師 福大薬学部 岡部光助教授

 日 時

 昭和63年10月6日 午後7時
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 松枝常務理事、冷川理事、篠崎,石井,本村,青谷,国武各委員、吉田西支部長、深江城南支部長、藤野城南保健所実行委員

 1. 各区の健康フェアについて
 西支部城南支部からも出席いただき再度器具、薬草材料の確認及び、各支部毎の引き引き渡しを確実に行うよう指示。

 2. 10月16日開催の「薬草観察会」について
 指導員用のパンフレットを作成

 「社保委員会」

 日 時 昭和63年9月5日 午後1時
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 正岡常務理事、藤田理事、鶴原,大庭,清水,小野,入江,岩穴口各委員

 1. 県薬での分業推進月間の報告及び市薬としての対応
 2. 若松の面分業視察計画の決定
 3. レセプトチェック及び指導
 ○処の記載もれが多い

 日 時

 昭和63年10月4日 午後1時
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 正岡常務理事、藤田理事、鶴原,山口,大庭,岩穴口,入江,平島,清水,小野,藤野各委員

 1. 県薬社保委員会報告
 イ. 新しいフィーの希望(漢方、小児等加算)
 ロ. 薬歴管理の向上
 2. 若松面分業視察打ち合せ
 各区毎の面分業に対する計画案を練って質問、視察を行いレポート提出する。
 3. 分業推進基盤事業について
 国公立病院の院外処方箋の現状報告
 4. コピー添付(処方箋)問題を県薬社保委員会に提案。
 5. 薬品小包装(特に漢方)希望アンケートの件。

 「学術委員会」

 日 時 昭和63年10月5日 午後6時半
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 長谷川副会長、藤下常務理事、市花,成澤各理事、中島,車田,久池井,山田各委員

 1. 薬物療法研究会(10月20日)の準備
 当日の役割分担について
 2. 会館建設(研修会場)について
 アミカス(高宮)福岡市女性センター見学報告。
 3. 学術研修会(11月予定)  不安、ストレスによる疾患
 4. 会報原稿(トピックス)内容検討

 「急患委員会」

 日 時 昭和63年10月21日(金)午後7時
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 藤下常務理事、成澤理事、小松,深見,北島,打越,竹尾,馬場各委員

 1. 九州山口薬学大会「救急医療担当者協議会」について
 日 時 10月22日(土)午後2時30分〜4時30分
 場 所 熊本市民会館2F第5,6会議室
 出席者
 県薬理事
 井上浩一、獺越 寿、大神信勝
 北九州
 大野義昭、諸岡 均
 福岡
 成澤哲夫、藤下 修
 2. 薬局業務手引書の配布先及び配布方法の検討。
 3. 年末、年始の急患センター出動者表作成
 4. 「石井道子先生を励ます会」への人員動員について
 B会員へは電話連絡を行う。

 「広報部会」

 日 時 昭和63年10月3日 午後7時
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 藤原専務理事、木原,城戸各理事、野仲,宮崎各委員

 1. 「市薬会報」11月号の編集について
 11月の分業推進月間に合わせて、特集記事として分業問題をとり上げたい。

 「第1回試験センター委員会」

 日 時 昭和63年9月17日(土)
 場 所 市薬会館図書室
 出席者 古賀会長、坪根委員長、城戸副委員長、獺越,野口,細井,藤原,真鍋各委員

 1. 会長挨拶
 学薬と試験センターの業務内容を明確に区別して、今後試験センターの仕事は、できるだけ職員だけで行ない、経費の節滅に務めたい。試験センター事業は収益事業であるので、予算関係は別会計とする。

 2. 委員会の性格について
 試験センターの運営に関する協議が主である。

 3. 事業内容
 @ 市立学校飲料水水質検査
 A 簡易専用水道の検査
 B 県立高校プール水の検査
 C 医薬品の試験
 D 日薬統一試験
 E 協議会・講習会への出席

 「第4回会館プロジェクト委員会」

 日 時 昭和63年9月7日(水)午後2時30分
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 高倉,長谷川各副会長、藤原専務理事、三津家,正岡各常務理事、小野,藤田各理事、瀬越学薬会長、二宮事務長、渡辺八千代建設会長

 1. 協議
 前回の協議で大巾な手直しを求め、それに基づいて出された設計図について検討した。その結果、いくつか変更すべき点が出てきたが、大方の了解点に達し次回の委員会で、基本構想の決論を出すことになった。

 「第5回会館建設プロジェクト委員会」

 日 時 昭和63年9月16日(金)午後2時30分
 場 所 市薬会館会議室
 出席者 古賀会長、高倉,長谷川各副会長、藤原専務理事、三津家,正岡各常務理事、小野,藤田各理事、瀬越学薬会長、二宮事務長、渡辺八千代建設会長

 1. 協 議
 平面図及び断面図に基づき、基本構想の最終的な詰めを行った。建物は4階建とし、1階が駐車場、2階が事務室その他、3階が試験室、4階が研修室となる。次回の委員会は見積りが出来次第開催されるが、見積り金額によっては、基本構想の再検討もありうる。

 県薬のお知らせ 第13回 保険薬局セミナー          昭和63年11月30日

 日 時 昭和64年1月15日(日)午後1時30分
 場 所 福岡県薬剤師会館

 プログラム
 開講挨拶 県薬会長荒巻善之助1時30分
 演題
 「医療保険改革の今後の問題点」1時50分
  厚生省審議官 岡光序治先生
 「医療制度変革への日薬の対応」
  日薬専務理事 小宮宏宣先生
 セミナー終了後懇親会を行います。出来るだけ懇親会にもご出席下さい。
 午後 4時30分より、会費 3,000円

 <事業報告> 「薬草と花とハイキング(予備調査)」     昭和63年11月30日

 福岡市健康週間行事

画像

 場 所 西区小田・灘山,小田神社周辺
 日 時 昭和63年9月25日
 出 席 竹尾副会長、松枝常務理事、冷川理事、篠崎,石井,国武,本村,青谷各薬局委員、調査応援 大庭,末田,城戸理事、根津
 臨時講師 岡部福大薬学部助教授
 市役所  三輪衛生部予防課職員

 前夜迄の雨で天候が心配されたが、朝9時頃雨が上がりかかってきたので、決行することに決定。午前10時市薬に集合。全員揃って車に分乗して出発。現地に着く頃には雨がすっかり上る。福大の岡部先生を先頭に調査に入る。

 先ず有毒の「ヨウシュヤマゴボウ」,@番の杭を打つ。続いて「イノコヅチ」,山道に入りすぐに「カワラタケ」,続いて有毒の「ムサシアブミ」と番号杭を打っていく。山道を登っていくと、アマチャズルがあちこち郡落を作っている。実をつけたアオツヅラフジにカラスウリ,丁度花ざかりのゲンノショウコ,花が終りかけたヤブラン,クズと見つけていく。

 薬草ではないがスズメウリが非常にかわいらしい。その他オオバコ,ヤマノイモ,テイカカズラ,スギナ等に番号杭を打っていく。小田神社の境内で休息し昼食を摂る。ここまでに23種類の薬草(毒草も含めて)が見つかった。境内で花と実がついたヒヨドリジョウゴが見つかる。

画像

 休息後、神社の石段を下りる。傾斜が恥なり急で足もとが危ない。本番の観察ではコースからはずすことにする。石段をおり終った所で元の上り道をもう一度登って少し先まで行って見ることにする。

 来る時に見落していたニワトコ,タラノキ,ネズミモチが見つかる。畑の横に野生化したシソ,反対側に花がついたウド,実をつけたカキが見つかる。道が二つにわかれた所で上りを止める。岡部先生がアケビをみつける。かなり多くの実がなっている。ちょっと採れそうにはないが岡部先生がうまく木を登って5,6個採ってこられる。

 さっそく全員で味見をする。青谷先生もハゼの木にもかかわらず採取にいどみ、3個ほど採ってきた。その横に実をつげたサネカズラも見つかる。こちらはまだ色がついていない。

 ここから元きた道をひき返す。薬草ではないが、黒熟したイヌビワが見つかる。岡部先生の「これだけ熟れてばうまい」の一言で、皆それぞれ味見。イチジクに似た甘味がある。名前はイヌビワとついているが、クワ科イチジク属で、イチヂクに近い種類である。

 少しおりてきた所で下から草刈り機のエンジン音が聞こえてきた。市役所の三輪さんが慌てて番号杭の回りは切らないように頼まれる。時すでに遅く、キンミズヒキ,ヨモギ,イタドリなどが刈られていた。

 クコがみつかったので、キンミズヒキの変りにこちらにH番を移移す。本日全部で40種類の薬草が見つかった。リストは下記の通りである。

 1.ヨウシュヤマゴボウ,2.イノコヅチ,3.カワラタケ,4.ムサシアブミ,5.クサギ,6.アマチャズル,7.イタドリ,8.スギナ,9.クコ,10.テイカカズラ,11.オオバコ,12.アオツヅラフジ,13.ヤマノイモ,14.カラスウリ,15.ゲンノショウコ,16.ツワブキ,17.ヨモギ,18.ヤブラン,19.クズ,20.カキドオシ,21.ドクダミ,22.カニクサ,23.ツユクサ,24.ヒヨドリジョウゴ,25.ニワトコ,26.ナワシログミ,27.タラノキ,28.ネズミモチ,29.シソ,30.ウド,31.カキ,32.ヤブジラミ,33.アケビ,34.サネカズラ,35.ジャノヒゲ,36.アカメガシワ,37.ビワ、38.ノダケ,39.ネムノキ,40.ウメ
                          報告担当 冷川 襄

 <事業報告> 「薬草と花とハイキング」           昭和63年11月30日 画像

 日時 昭和63年10月16日
 場所 西区小田、小田神社
 主催 福岡市衛生局保健予防課
 協賛 福岡市薬剤師会
 出動者 竹尾(副会長)、松枝,冷川,篠崎,石井,国武,本村,青谷(以上薬局委員)、柴田,大庭,大久保,末田(以上依頼)
 講師 第一薬科大学生薬学 木村教授

 午前9時半、市薬集合。班分け担当を決める。第一班…柴田,松枝、第二班…本村,青谷、第三班…篠崎,国武、第四班…大庭,大久保、第五班…冷川,末田。写真係…本村、用具係…石井。現地に向う。木村教授,竹尾副会長とは現地で落ち合う。正1時過ぎ、市民100名貸切バス2台にて到着する。

 市より予防課長他5名出席。竹尾副会長と予防課長の挨拶の後、各指導員の紹介。各班に分れて観察に出発する

画像

 予備調査で立てた立札1番から40番迄を説明する。1番のヨウシュヤマゴボウは1本だけ刈られずに残っていた。ツワブキが丁度花ざかりになっている。オオバコやスギナも大部分刈りとられている。フユイチゴの実を味見する。アケビは2個の実をとることができた。サネカズラの実も色づいていた。ヒヨドリジョウゴは刈られていて、枯れ姿を見せながら説明した。小田神社にて昼食。

 13時30分下山。予備調査で見つからなかった、センニンソウ,サルトリイバラが見つかる。公民館前で挨拶の後、市民はバスで西の浦の花の栽培園に向う。我々は別れて市薬に戻り解散する。天候にも恵まれ、無事好評のうち終えることができた。
                          報告担当 冷川 襄

 <事業報告> 「各区保健所の健康週間行事」         昭和63年11月30日

 博多区健康フェスティバル

 日時 10月22日(土)午前9時〜午後1時
 場所 博多区市民センター(200名)
 出席者 鶴原、山口、冷川、高杉、蔵元、森川
 時間が午前中と、短かったので、相談者が集中して忙しかった。

 中央区健康づくりフェア

 日時 10月11日(火)午前9時〜午後4時
 場所 福岡市中央保健所(100名)
 出席者 三津家、国武、松枝

 早良区健康フェスティバル

 日時 10月19日(水)午前9時〜午後4時
 場所 早良区保健所(200名)
 出席者 富永、糸岐、有馬、青柳、坂本、本村精、本村敏、波多江、清水、南島

 城南区健康展

 日時 10月13日(木)午前9時〜午後4時
 場所 城南保健所(150名)
 出席者 合澤、深江、磯本、有馬、彼多江、前田、占部崩、浦野、荒木、藤野(久)

 西区健康フェア

 日時 10月20日(木)午前9時〜午後3時
 場所 西区保健所
 出席者 占部、川添、竹尾鬨、中野、坂巻、岩穴口、佐藤、吉田、清水

 南区市民健康フェア

 日時 10月12日(水)午前9時〜午後3時半
 場所 南区保健所(200名)
 出席者 青谷、大黒、岩佐、末田、有田

 薬剤師会の展示、相談コーナーは、県臨床検査技師会と共に保健所が手狭なため区役所ロビーで行った。そのため来場者が昨年よりも少なかったようです。

 1. 展示
 (1) 薬用植物鉢植 28種
 (2) 薬用酒     8種
 (3) 薬用民間薬  11種
 (4) 常備薬(救急箱)
 (5) 小児薬
 (6) 小柴胡湯生薬
 (7) 殺虫剤(アースレッド,ダニアース)
 2. 健康茶試飲コーナー
 3. 薬の相談コーナー
 4. アンケート調査

 上記のように、各区保健所による健康週間行事が開催されました。東区保健所だけは、薬剤師会が参加しておりませんので、来年からは、薬剤師会も参加できるように働きかける事に理事会で話し合われました。

 この行事のために準備をなさった薬局委員の先生方、各区保健所運営委員の先生方、各支部長さん、本当にご苦労さまでした。

 「中央区健康づくりフェア」

 中央区健康づくりフェア実行委員 松枝茂雄

 シリーズで行われる国の健康週間行事の一環として「人生80年時代をあなたはどう生きますか。」をキャッチフレーズとして福岡市健康週間も第5回を数えそのトップを切って中央保健所の各室で行なわれた。

 我々薬剤師会のコーナーは毎年同じ玄関入口の待合室を利用し、近頃マスコミで騒がれた漢方小柴胡湯の処方の生薬(小太郎漢方)の種類を展示し、同時に健康茶の2種を試飲願い、これらの処方説明と健康相談に応じた。

 来訪者には、薬事情報センターの役割パンフ、害虫、福岡県の薬草読本を手渡した。本年は高齢者の各病院から貰った薬についての相談よりも所謂60才前後の人々のより健康に生きるにはについての相談が多かった。心臓病,白内障,糖尿病等血管系の相談が多かった。

 健康茶の試飲はやはり100名前後で飲み易いと大変好評であった。

 <事業報告> 「薬物療法研究会」              昭和63年11月30日

 日時 昭和63年10月20日(木)午後6時30分
 場所 市薬会館研修室
 出席者 98名
 演題 「抗不安薬について」
 講師 ダイナボット医薬品事業部営業企画部
   製品第一課長 伊藤 治先生

 薬物療法研究会のまとめとして、スライドでも引用されました表を資料として掲載します。(なお、講師の都合で時間を短縮しましたことを紙面を借りてお詫び致します)

表
 「第9回 市薬ソフトボール大会」              昭和63年11月30日

 9月18日(日)雲一つ無い秋空の下「第9回市薬ソフトボール大会」が開催されました。今夏は"納涼船"が中止された事もあって組織委員の先生方は大張り切りで、当日の会場の武田薬品グランドには、午前7時30分の集合で準備をしてくださいました。本当にありがとうございました。

 午前9時開会式の後、AB二つのコートに別れて、試合開始です。古賀会長による始球式は、ボールがちゃんとキャッチャーミットに納まるかしらと危ぶむ声もありましたが、どうしてどうして、お齢を感じさせないくらいご立派なものでした。参加チームは、東、博多、中央、南、旧西(城南,早良,西)、勤務の6チーム、応援者も含めて127名の先生方が頑張りました。

 試合経過はと申しますと、なかには、これはもしかしたらバスケットボールの試合なのではないかしらと思われるようなスコアもありましたが、さすがに東と勤務で争った優勝決定戦は、1点差を争う追いつ追われつの好試合で、東支部の礒田先生をして「うーむ、こりゃー日本のソフトボール史上に残る名試合ですばい」と言わしめる程のものでした。

 ホームラン賞は24本も出まして、予算をオーバーするのではと心配されましたが何んとか範囲内に納まって、会計の先生はホットされたようです。

 という次第で「第9回市薬ソフトボール大会」は勤務部会の優勝で幕を閉じました。皆さん本当にお疲れ様でした。

 試合結果
 優勝戦 勤務8-7東 3位決定戦 博多20-0中央
 A−1 博多23-3西   B−1 南8-14勤務
 A−2 東11-9博多   B−2 南9-15中央
 A−3 東16-4西   B−3 勤務15-5中央

画像 画像

 写真提供 中央支部組織委員 森田先生(記 木原)

 御礼 組織委員会
 会員先生並びに御家族の皆様、多数御参加下さり誠に有難うございました。御蔭様で盛大裡に終了する事が出来ました。心から厚く御礼申し上げます。又来年元気でお会い致しましょう。

 「第25回 福岡市薬剤師会ゴルフ同好会」           昭和63年11月30日

 日時 昭和63年9月15日
 場所 玉名ゴルフ場
 参加者 11名
 優勝 藤野義彦先生
   スコア71(ハンディ17)

画像 画像
 <薬連関係報告> 「もう一息の頑張りを」
                (社)福岡市薬剤師会 会長 古賀 隆 昭和63年11月30日
画像

 来年夏に行われる参議院選挙、特に比例代表制の事前居動は、新聞紙上でも見られる通り、目毎に熾烈を極めてまいりました。特に新人の活動はすさまじく、為に石井道子候補は、予想のランクが次第に、これら新人に追い越しをかげられ、極めて危ない状勢となってまいりました。残された最大の条件である後援会員獲得が未だに低調であることが危機感を一層強めております。

 福岡市薬では毎月各支部長のもとで、獲得数を集計し、支部長会で発表、これからの対策を協議、会報にもこの実数を公表して、会員の衝起をうながし、協力をお願いしておますが、荒巻県薬会長も、低調な県下の状況を憂えて、自ら県内支部をくまなく訪問して目標達成を訴えておられます。

 福岡市薬の現況は、各支部長先生以下部会長先生全員の努力によって、10月の集計では50%程々のところまで上ってきております。数ケ月以前と比べると急速な伸び率です。しかし、これも一部の先生方の数百名或いは、1,000名を越える血眼な努力をされているものが率を高めているわけで、0に近い或いは50名に満たない会員も相当にいるわけです。それとB会員の頑張りがいまひとつ足りないことです。

 この活動は石井道子のためにやっているのではありません。私達薬剤師の将来の灯を消さないためにしているのです。もう少しの努力です。現に100%を達成した支部もあるのです。

 どうか、A会員、 B会員の先生方、先生の力をいましばらくお貸し下さい。お願いいたします。

 「千名も 集めた女性が 現にいる」

 「福岡大学薬学部同窓会総会」                昭和63年11月30日

 日時 10月30日(日)午後5時
 場所 福岡国際ホール 16階
 出席者 約150名

 上記のように、福岡大学薬学部同窓会総会が行われました。

 その席に石井道子議員が沖縄からの帰途出席され御挨拶がありました。県薬から荒巻会長、市薬からは古賀会長も出席され、会場で皆さんから「石井先生、しっかり頑張って下さい。」と激励されました。

画像 画像
 「受賞おめでとうございます」                 昭和63年11月30日
表
 「石井道子後援会員獲得状況(11月4日現在)」          昭和63年11月30日
表
 「石井道子後援会名簿100名以上獲得した人(11月4日現在121名)」 昭和63年11月30日
表
表
 「訃  報」                         昭和63年11月30日

 斎田和夫 先生
    亨年79才
 昭和7年 熊本薬学専門学校卒
 昭和39年 福岡市薬剤師会副会長
〃     福岡県医薬品小売商業組合副理事長
 昭和45年 (社)福岡県薬剤師会常務理事
〃     (社)幅岡市薬剤師会会長

 (社)幅岡市薬剤師会の初代会長を務あられました斎田和夫先生が10月8日お亡くなりになりました。謹しんで御冥福をお祈り致します。

 「弔  辞」

 謹しんで斎田和夫先生の尊霊に拝します。不肖私は三十有余年御交誼をうけた一人として、また福岡市薬剤師会を代表して、ここに霊前に伏して幽明別離の辞を述べる最も悲しい役目を負う乙とになりました。

 ほんの数週間前に先生を病室にお見舞し談笑握手して来ましたのに、この様に早く幽明境を異にしましょうとは思いもしませんでした。

 先生は熊本薬学専門学校を卒業後、昭和十年七月福岡市箱崎において開業以来四十有余年の間地域の方々に密着され、薬剤師職能を自覚された薬局経営は常に私共の範とすることでありました。

 昭和三十一年以来今日まで戦後の様々な変革期の薬剤師会・薬業界の中にあって職能の確立と建設に当って頂きました。

 数多くの職員は今さら申しのべるものではありませんが、特に昭和四十五年より四十有余年に及ぶ福岡市薬剤師会会長としての事蹟については特筆してお礼を申さねばなりません。

 今までの任意団体であった薬剤師会を地域医療の一翼を荷う職能団体としての社団法人化と、現在福岡市薬剤師会員が物心両面の拠点とする天神今泉の土地の取得にすべてをなげうって福岡市薬剤師会の原点を作って頂いたことは、先生の先見と熱意と行動の賜として感謝するのみです。

 文字では一行か二行の事蹟でしかありませんが、その間の苦労は並大低ではありませんでしたね。当時夜おそくまで議論し、又酒も飲みました。色々のことが走馬燈の様に思い出されます。天地の悠久に比べれば寸陰の経過かも知れませんが、明治、大正、昭和の人生八十年、国家の消長、産業経済の大変革時代に生きられた先生の偉大さをつくづく感じるのです。

 常によき先輩会長として前向きの姿勢と多くの経験に基づく見識そしてすぐれた実行で私共をリードして下さったことは教訓として忘れること謹出来ません。重き病床にあられて必ず「神に謝す我はわが務めをなせり」として永眠につかれたのであろうと思います。

 最後に終始かわらぬ温き御交誼に対し厚くお礼を申し上げ、先生の在天のみたまが安らけく、とこしえに鎮まりあられんことを祈ります。 合掌

昭和六十三年十月十一日
 社団法人福岡市薬剤師会
 顧問 藤野 義彦

表
 「川  柳  お知らせ」                   昭和63年11月30日
表
表

 「編 集 後 記」                      昭和63年11月30日

 ●年賀状が発売され、カレンダーが届き、いよいよ忙しい年の瀬が思いやられるようになりました。
 今月号は、11月の分業推進月間に合わせて「分業」を特集してみました。

 ●一年余りの歳月を費やして、10月17日ようやく「福岡試験センター」の認可が下りました。古賀会長、本当に御苦労さまでした会館建設は、もともと試験センター構想の上にあったとは今回初めて知りました。

 ●薬連関係の記事が多くなっています。でも100名以上獲得会員名のページ数がもっともっと増え、そして各支部状況表が100%達成部会のゴチック文字でまっ黒になると良いのにと思っています。

 ●新年特別号には、市薬広報部、4名の美入スタッフの写真を載せる予定です。
 ご期待下さいませ!!

 

昭和63年11月30日発行
福岡市中央区今泉1丁目1番1号
社団法人 福岡市薬剤師会
TEL 092-714-4416
発行人 古賀 隆
編集人 木原三千代