医薬分業 分業闘争史 第二幕

 昭和26年(1951)6月5日、任意分業法案が成立し、昭和30年(1955)1月1日から実施と決まったが、昭和28(1953)年になると日本医師会は、「昭和30年から実施の分業法は、サムス准将が作ったもので占領下の遺物であるから、当然改正が必要である」として、激しい反分業法闘争を開始した。

 なおこれより前、昭和25(1950)年3月30〜31日の日医定時代議員会で選出された「会長 田宮猛雄 副会長 榊原亨、武見太郎」の三氏は、同年7月10日、厚生省より発表された、サムス准将の公開状「日医代表との会談または多くの交渉において、その代表は不正と不真実を繰り返し、会員に真実を伝えないことは、幹部少数者の独裁に日医がゆだねられたことを示すもので、現日医幹部は信頼できない」を受けて、同年8月16日に開催された日医臨時代議員会で辞任したが、昭和27年(1952)2月11日の日医臨時代議員会で復活。この三氏は強硬な医薬分業反対論者であった。これにより分業法攻防の第二幕があがることになる。

 日本医師会は、医薬分業反対資料として昭和28年4月より10月まで、薬局実態調を査実施した。
 @薬局の管理薬剤師は常在しているか
 A調剤機能は充分であるか
 B各地区の薬局数
 10月の時点で7〜8割調査を終えているが、そのうち3割は不良としている。そして12月9日の全国医師会長会議で、分業対策として「占領法規是正」の方針を決定した。

 一方、福岡県薬剤師協会では12月8日に支部長会を開催し「分業実施期成同盟」を結成した。これは、全国会長会議において決定されたもので、昭和30年より実施されることになっている医薬分業について、医師会は「占領行政行過ぎの是正」として再び反対運動が盛り上がってきており、その対策として結成されたものである。
 昭和27年(1952) 分業に関し日薬厚生大臣に陳情

 1、新医療費体系樹立の促進に関する陳情
 2、医薬分業関係法律改正に基づく審議会設置の促進に関する陳情

 医薬分業に関する医師法、歯科医師法、及び薬事法の三法律の改正で除外例的規定を定めるため審議会を設置することになっているが、厚生省はその審議会の意見を聞き新たに省令を公布すべきである。規定すべき事項は極めて重要なもので、その調査研究には相当の日時を要する。分業実施時期の昭和30年1月1日以前に省令を制定すべきはもちろんであるが、分業の円滑なる実施のためにはそれ以前において、相当の総合的訓練と用意の時期を必要とするので、早急に審議会設置に着手されん事を切望する。

 昭和27年2月11日 日本医師会臨時代議員会

 会長  田宮猛雄
 副会長 榊原 了、武見太郎

 この三氏は強硬な医薬分業反対論者で、サムス准将総司令部在職時辞任したが、ここで復活した。

 昭和27年11月15日 北九州薬協「檄をとばす」全国地方薬協へ

 日本独立後の政界は復古的風潮多く、昭和30年1月1日実施のいわゆる医薬分業法も占領下における強制的戦時立法であるとなし、この際一挙に葬り去らんとする医系策謀の存在することは諸種の情勢によって明らかである。これを阻止するには、28年5月の参議院選対策をいかにすべきか、九州薬剤師大会において、高野氏を候補に指名したのであるが、日薬はいまだに候補者の数、人選について決定を見ていない。候補者については剤会の実力から見て、絶対一人でなければならない。

 それには現日薬理事長高野氏が最適任者であり当選確実であると信ずる。
 願わくば貴協会におかれても高野後援会を結成せられ、明年の準備に突入されん事を切に懇願する。

 昭和28年12月8日 礒田秀雄 福岡県薬剤師協会長 檄文

 薬剤師の運命を決する最後の闘いは開始された 70年の分業運動収穫の秋

 医薬が医師と薬剤師との分業たるべきは世界の通則で、何れの国もがこの制度をとっている。薬科大学は全国で27を数え、薬剤師も激増して6万に達したので、昭和26年 医薬を医療制度の原則に基き分業制とすることに法律を改め、昭和30年から実施することになった。

 全国の薬局は、薬局基準(昭和25年)に基いて薬局を整備し、試験室や調剤室を設けて施設の完備を期するとともに、薬学の講習を行って薬剤師の再教育を施すなど鋭意、その受け入れ態勢の整備を行ってきたのであるが、医師団においては、莫大な運動資金を準備し、政治勢力を駆使して医薬分業制度の実施を阻止すべく、目下着々とその準備を進めている。

 もし医師団のこの運動が奏効して医薬分業制度が行われないことに決ったら、薬剤師の使命、職能は全く失われることになる。

 既に決定している医薬分業制度の実施を期するためには、降りかかる火の粉は払わねばならぬ。医師団の妄動が既に開始された以上、我ら6万の薬剤師は分業実施のために総決起し、死力を尽くしてこれに対抗、善処の努力を惜しんではならぬ。

 そして70年に亘る分業運動の収穫を期せねばならないのである。全国の薬剤師代表は11月東京に参集し「分業実施期成同盟」を結成し、医師団の妄動を排撃し分業を闘い取るための最後の運動を開始した。

 矢は既に弦を放たれている。営利追求の一物品販売業者に甘んずるものは知らず、医療機関として真の薬剤師職能に生きんとするものは猛然起って本同盟に参加せよ。起つべき秋はこれが最後の機会である。逡巡して悔いを後世に残すことのなきよう、全薬剤師諸君が本会の下に結集、協力せられんことを敢えて檄する次第である。

 薬剤師会と医師会の攻防は、昭和29(1954)年、国会を舞台にして頂点に達する。医師会は、同年11月25日、神田共立講堂に約10,000名を集め「医薬分業反対全国医師大会」を開催、薬剤師会は同じ場所で11月29日約8.000名を集め、「医薬分業実施全国薬剤師総決起大会」を開催し気勢を上げた。

 この攻防は、12月3日、「医薬分業法の実施は1年3ヶ月延期」で一応の決着となるが、翌昭和30年(1955)医師会の巻き返しで、再度分業法修正案が提出され、7月25日衆院通過、7月30日参院通過で最終的な決着となった。この経過については、熊本県薬剤師協会情報によく纏められているのでまずそれを取り上げ、その後に一連の経過を記す。
 昭和30年8月8日 修正医薬分業法について 熊本県薬剤師協会情報より

 「経過」

 過ぐる国会に所謂分業改正案なるものが上程された。原案は医師にも薬剤師と同様調剤権を与えようとするもので、医師会が企図する所の事実上分業廃案を狙ったものであった。日薬は当初、その上程阻止に努めたが、数の力で到底不可能とわかってみれば、極力審議未了に持ち込むか、或いは又その修正に死力を尽くす以外に途はない。

 「苦戦」

 2ヶ月に亘る全国協会幹部の国会議員に対する啓蒙、懇請をバックとして、衆議院の野沢、参議院の高野両闘士の孤軍奮闘よくその効を収め、最悪の事態を辛うじて防ぎ得た。彼我の会員数、国会議員数、社会的地位の優劣、運動資金などの多寡等の比較に基いてあらゆる角度から冷静に判断するならば、国会の決定に仮令、不満ありとはいえ、連日敢闘の両代表に先ず心からなる感謝の拍手を送りたいと思う。

 「結果」

 通過した修正案は、既にご承知の通り、都市、農村の区別を設けず、医師が処方せんを交付しなくてもよい場合の除外例が8項からなり、その場合の判断が医師の主観によって決められることと、その罰則が軽減された事である。これを以ってジャーナリズムは「薬剤師は名をとり医師は実をとった」ともいう。我々はこの修正の影響を断じて軽々に過小評価するものでないが、多数を相手に国会に於いて、あくまで理に訴え医薬分業の根本原則を再度確認させ、大義名分を明かにしたことは、せめてもの成功であったと観じたい。

 「犠牲」

 双方傷ついたものの、払った犠牲の度合いから見れば、もっぱら彼等の失望の方が大であろう。案は既に決定し法となった。もとより批判の余地は人によっていくらでもあるであろう。しかしながら我々は徒らに概嘆することなく、実施の面に次の準備こそ急ぐべきであり、これこそ同志諸君の関心事だと考える。

 「先例」

 先進文明国の分業といえども、実はその大部分が国民の科学的自覚と医師の良識と社会道徳の昂揚進歩によって、必然的に実施されつつあるもので、法律によるものは割合に少ない。我々はとかく払うべき必要な努力を怠って、他に強い力を求めがちであり、ファッション的な他力本願のくせがある。もちろん法律によった方が近道ではあるが、我々の可能な努力こそ欠くべからざる要素であり、これを怠っては何事に限らず成功するものではない。我々は深くこのことを銘記し、お互いに反省すべきではあるまいか。

 「対策」

 次に最も急を要する対策として、各地の連携を密にし、運営の完璧を期するために更に団結の要あるは勿論であるが、先ず医師から出来るだけ多くの処方せんを出させるために、顧客の啓蒙その他について、あらゆる工夫研究すべきは論をまたない。しかしながら、諸君の薬局は明年よりの実施に対して、あらゆる処方せんの受入れ態勢は果たして万全であろうか。もしも患者が薬局2軒以上で調剤を断られたとしたら、折角闘い取った分業の将来は一体どうなるのであろうか。調剤内容について、患者の疑惑や不信を招く場合を知悉しているであろうか。万一の失態に医師がお互いに同志の非をかばい合うのに対し、我々同志間のかようなセンスは一体どの程度のものであろうか。

 「覚悟」

 今後の分業実施の成否の鍵は、我等の掌中にあり、待望の医療機関として、今度こそ更に一致結集、真剣に「調剤」と取り組み、相互の善意と良識をもって再出発すべき時が、いよいよ来たのである。

 「最後に」

 昭和26年の分業法成立で、30年1月1日から実施されることになっていたが、昭和29年12月3日、医薬分業延期法案が成立し、昭和31年4月1日からの実施となった。今回の医薬分業法一部改正は、処方せん発行除外範囲を拡大し、8項目の除外例を本則に規定した。この間、薬剤師会と医師会はまさに死闘を演じ、この結末を薬剤師側は骨抜き法と呼んだ。いずれにしても法律闘争は、ここに終わりを告げることになる。

 昭和28年 厚生省医療機関分布調査

 昭和30年1月1日より実施される医薬分業法の準備のため、8月1日現在で調査することとなった。
 @病院診療所調査
 従事薬剤師数、薬局までの距離等
 A薬局調査
 Bその他

 日本医師会薬局実態調査実施 28年4月より

 医薬分業反対資料として
 @薬局の管理薬剤師は常在しているか
 A調剤機能は充分であるか
 B各地区の薬局数
 10月の時点で7〜8割調査を終えているが、そのうち3割は不良としている。

 昭和28年12月9日 全国医師会長会議

 分業対策として「占領法規是正」の方針決定

 朝日新聞文化事業部主催「無料診療」で分業実施

 昭和28年11月16〜17日 福岡市医師会、市薬剤師協会後援で診療班を組織し、福岡市の保育園及び養老院に医師2名ずつ無料診療に当たり処方せんを交付した。
 箱崎保育園分 馬場薬局で受け入れ
 西新保育園分 西新薬局
 平尾養老院  古賀薬局
 花畑養老院  花畑薬局

 福岡県薬剤師協会支部長会 「分業実施期成同盟結成」

 昭和28年12月8日 午後1時 県薬事務所
 全国会長会議において決定されたもので、昭和30年より実施されることになっている医薬分業について、医師会は「占領行政行過ぎの是正」として再び反対運動が盛り上がってきており、その対策として結成されたものである。

 昭和29年2月12日 福岡県薬協 理事・支部長合同会議 午後1時

 期成同盟全体執行委員会報告(礒田会長より)

 @医師向および大衆向パンフレット作成について
 医師会が分業になれば生活に大きな支障を来たすとして反対または実施延期を目標に、全会員の結束を図っているが、臨時診療報酬調査会での算定では、その様なことにはならないのでパンフレットを作成することにした。
 A分業実施促進国民大会について
 出席者 日薬代議員 長野義夫、白木太四郎、山本秀一
     会員より  五郎丸勝、古賀常吉、岡野幸一郎、加藤次郎、藤純太郎

 昭和29年3月5日 分業審議会設置法案国会提出

 医薬分業実施促進国民大会

 昭和29年3月5日 12時 神田共立講堂
 参加者 約3,000人

 昭和29年3月9〜10日 全国都道府県医師会長会議

 分業反対国会対策

 @議員立法による分業法の再改正(分業法成立以前の法にもどす)
 A分業審議会設置法案を審議未了とする(分業法実施の有名無実化)
 B設置法成立の場合は三志会関係委員の半数以上を医系委員とする
 C分業法実施時期を3〜5年延長する

 昭和29年4月8日 医薬関係審議会設置法案衆院通過 参議院へ

 昭和29年4月19日 医系議員参院へ分業延期法案提出

 昭和26年成立の医師法、歯科医師法、薬事法の一部を次のように改正する
 「付則第1項中 昭和30年1月1日」を「別に法律で定める日」に改める

 昭和29年4月20日 九州薬事新報 コラム 審議会について

 医薬分業には法律による「強制分業」と「任意分業」との二種類がある。それは第一が「医師の意志による任意分業」と第二が「患者の意志による任意分業」である。

 現行の制度は第一のものであるが、これは医師自身の経済関係上現実は「医薬兼業」と見るべきである。ところが、明年1月1日から実施確定の分業は、前記第二の「患者の意志による分業」であって、医師がこと更に放言する「強制分業」では絶対にない。

 明年から実施される分業法の付則第2号に「厚生大臣は、この法律施行前においても、その施行の準備のため・・・・省令を制定することができる」とある。「制定しなければならない」とは規定してない。制定しなくてもこの法律は生きている。ところが「省令を制定しようとするときは、別に定める審議会の意見を聞かなければならない」とある。

 そこで問題なのは、現在参議院厚生委員会で審議中の「医薬関係審議会設置法案」が万一否決されるか、又は審議未了になれば、審議会の設置ができない事となり、従って省令が作れない。大体省令は医師側の主張であって、
 @処方せんを交付しなくてもよい場合
 A医師自身が調剤投薬してよい場合
 B地域限定
 の3点を規定しようとするものである。この省令はなくても分業法を実施できるのである。しかし剤界にとって重大な問題は、この設置法案ではなく、医系が画策している議員立法での「分業法実施延期」である。

 昭和29年5月28日 医薬関係審議会設置法案参院通過

 付帯決議の要点
 「9月中に政府は新医療費体系の資料を国会に提出すること」

 分業実施期成同盟 幹部講習会

 昭和29年6月28日〜29日 東京青山青年会館
 全国代表217名出席
 福岡県より須原勇助、長野義夫、古賀治 出席
 分業受入態勢検討を目的として、分業理論、薬事法規、経済問題、その他について講習会を実施したものである。

 昭和29年6月26日 第1回医薬関係審議会)

 東京都医師大会 医薬分業と健保点数引き下げ反対でデモ行進

 昭和29年7月月10日 休診し4,000名の開業医参加

 全国地域医師会で分業反対大会実施

 熊本県医師会 7月末
 宮崎県医師会 8月15日〜24日

 「強制医薬分業反対運動週間」
 @反対理由を印刷した薬包紙100万枚配布
 A宣伝ビラ6万枚新聞折込
 B各市郡医師会で宣伝カー巡回
 C県下10数ヶ所で映写会および講演会

 昭和29年8月10日 九州薬事新報コラム 「分業実施地域」

 現在、医薬関係審議会で審議されている「分業実施地域」は、診療所と薬局の距離は1キロ以内でなければならないという条件が出ているが、恐らく医師会側より不便だとの抗議が予想されるので、期成同盟では1キロ歩行時間の測定を行った。
 成人男子9〜10分、成人女子10〜11分、赤ん坊を背負った妊婦で11〜12分、自転車の場合3分。さほど不便のようでもないが考え方次第であろう。

 日本医師会雑誌「錠剤投与は調剤に非ず」との山崎弁護士発表

 昭和29年8月18日 日薬協 佐生、増田両弁護士に依頼し、山崎理論に反論

 昭和29年8月25日 第9回 医薬審議会

 緒方委員(日薬会長)の発言に日医委員怒る

 日医側が確約した資料提出をなかなか行わないため、緒方委員がたまりかねて発言したもの。
 「日医側は、今日に至って尚、医薬分業実施の根本義に反対している。審議会が諮問に応えるために、審議すべきものである事は充分最初より知られていたはずだ。なぜ日医から委員の委嘱があったときに辞退しなかったのか。受諾した以上、常に建設的意見を述べてもらいたいものだ」

 昭和29年9月8日 第11回 医薬審議会

 緒方委員の陳謝の意表明により、日医側よりやっと「処方せん発行除外例案」が提出された。これにより専門部会設置
 第一部会「分業実施地域指定」
 第二部会「処方せん交付除外例」

 昭和29年9月9日 鹿児島県 強制医薬分業絶対反対県民大会

 県医師会、歯科医師会主催

 九州薬学会 並びに薬剤師大会

 昭和29年10月21日〜24日 宮崎 参加約1,500名
 医薬分業達成西日本薬剤師大会を開催

 昭和29年10月13日 第16回 医薬審議会

 分業実施地域指定の日医案が提出されたが、実行不可能なものだった。その内容は「診療所と薬局の歩行距離は500M以内とする。更に、すべての診療所が各々に6ヶ所以上の整備された薬局が配置されている行政地域であること」というものであった。

 以上の基準に合致していたのは、東京の一部にただ一ヶ所存在していただけである。
 尚、日薬は、厚生省試案「行政地域に存在する医療機関の80%が1km以内に薬局も存在していなければ、分業実施地域として省令で指定する」という案を支持していたが、日医案が示されて以来審議会は暗礁に乗り上げる。

 分業期成同盟 地方議会対策指令

 医師会による分業反対または延期の地方議会における決議が次々と出てきたことに対して、陳情、討論会の開催、パンフレットの配布などを指示した。

 昭和29年11月25日 医薬分業反対全国医師大会

 神田共立講堂 参加約10,000名

 昭和29年11月29日 医薬分業実施全国薬剤師総決起大会

 神田共立講堂 参加約8,000名
 臨時国会を翌日に控えての大会
 県薬協より、礒田秀雄、五郎丸勝、古賀治、長野義夫、早川政雄、砥上守男、野辺一の各氏出席
 礒田氏は開会宣言を行う。
 大会終了後一行は厚生省までデモ行進を行う。

 昭和29年12月3日 医薬分業延期法案国会通過

 「医薬分業法の実施は1年3ヶ月延期」が決定。
 前国会で参議院議員 苫米地義三氏(改進党)など38名の「法律に別に定める日まで分業を延期する」ことを内容とする無期限延期法案が参院に提出され、その後参院厚生委員会で継続審議されていたが、11月29日ついに1年3ヶ月延期に修正可決された。
そして、左社党の「再度延期しない」という付帯決議について2日間もめたが、12月2日付帯決議なしに参院本会議で可決。12月3日衆院も通過し、昭和31年4月から実施が決定した。

 衆院厚生委員会(12月3日)に於ける実施延期法案提出

 理由説明・・・衆院 有馬厚生委員(医師)
 @現在の様な医療関係者、すなわち医、薬の対立状態においては正しい分業の成立は困難である。
 A実際上の分業の前提となる厚生省提出の新医療費体系には、幾多の欠陥があるので再検討の必要あり。
 B医療向上に対する分業合理性の確認が国民大衆に不足しており、そのために支持が得られていない。

 昭和29年12月16日 分業期成同盟全執行委員会

 各県薬から80名出席
 来賓 草葉前厚相他
 @組織強化並びに運営について
 A運動方針について
 B資金造成について(継続闘争資金)
 医師会は今回2億円の資金を投じた様である。1薬局について3,000円割り当てる。
 (目標7,000万円か?藤原)

 昭和29年12月20日 九州薬事新報 コラム 分業実施延期

 医薬分業の闘争は1年3ヶ月の実施延期によって継続闘争の形となったが、過去を充分反省し新運動方針を確立すべきである。

 参院右社の山下厚生委員は延期法通過後、「私の議員生活7年で、これほど呆気なく、又もろく負けたことはない。これは薬剤師が油断していたのか連絡不十分であったようだ。国会内における分業賛成者との作戦会議が1回も開かれていない。そのために余り応援ができなかったのは残念であった」と伝えられているが、一体これは何を物語っているのであろうか?心残りがする。

 12月7日、吉田内閣総辞職の結果、分業に理解のあった唯一の草場厚相も退くことになった。剤界にとっては誠に残念である。同日厚相は「医薬分業の延期は残念であったが、実は明年1月1日からの実施は少し無理があったと思う。しかし1年3ヶ月の内には充分の準備ができると思うので、その意味では今回の延期は、剤界にとって不幸中の幸いと言わなければならない」と言っている。分業運動はこれからである。

 医薬品メーカーでは、明年1月1日からの分業実施に備えて、調剤用医薬品や麻薬などの小包装製品の販売計画をなし、又既に一部発売したほどであったが、1年3ヶ月の延期で気抜けした表情である。ところが、果たして31年4月から分業が実施されるや否や?メーカーとしては疑いたくなるばかりでなく、今の医界の政治力では或いは、分業法そのものが廃案になるのではないか?メーカーとしては慎重にならざるを得ないであろう。

 昭和30年1月12日 第8回 福岡市薬剤師協会臨時総会

 午後1時 恵比寿会館 出席56名

 1.分業問題についての経過報告 礒田県薬協会長

 2.議事
 @運動資金について
 同盟本部で決定した1薬局3,000円の新たな拠出金問題を中心に討議。県薬協はもっと強硬な運動を展開すべきであるとした。(注、 昭和29年度のA会員会費は5,300円(184名)B会員は2,200円(68名)である)
 A分業運動対策として「特別対策委員会」を設置する
 B分業運動の敗戦責任をとるとして、全役員辞任を申し入れたが否決された。

 昭和30年1月14日 第8回 福岡県薬剤師協会臨時代議員会

 午後1時 商工会議所

 1.特別講演「1年3ヶ月延期を向後如何に対処すべきか」高野一夫衆議院議員

 2.会員意見発表
 会員11名 3時間の討議は従来の穏健主義を排し、医界の醜悪手段に対抗すべきであるとの意見が殆どであった。

 3.議案

 @3,000円の追加徴収可決
 A広報委員会を新設し分業宣伝を行なう
 B八女、浮羽、三井の三支部新設
 C役員総辞任の件否決

 昭和30年2月10日 福岡市薬剤師協会 分業対策小委員会設置

 午後2時 県薬協会館
 委員 樋口 甲、平島貞幸、工藤益雄、工藤敏夫、結城一夫、大賀昌子、岡本弘、伊藤善蔵、竹内文人、
 藤野義彦

 昭和30年3月27日 福岡県薬剤師協会 広報委員会(第1回)

 午後2時 県薬協会館
 委員長 祝 十郎(甘木)
 副委員長 久保川憲彦(福岡)
 @同盟作製の分業宣伝ビラを各支部で配付
 A宣伝文入投薬袋を各薬局に配付
 B病気とくらし(分業解説書)を婦人会、青年団、労組等に配付

 昭和30年5月10日 第9回 福岡県薬剤師協会通常代議員会

 午前11時 消防会館

 来賓 古野県衛生部長、村山東薬大学長、竹中日本薬政会長、野沢同盟会長、江口佐賀県薬協会長

 野沢同盟会長は分業問題について、もし医系が分業法案実施再延期又は廃案などの暴挙をあえてせんとするならば、同盟としては、医系の非合法運動の暴露戦術をもって、これを粉砕せんとするものである旨熱演。

 竹中稲夫(参院選)後援会県支部結成

 松村副会長辞任 後任 古賀治氏
 古賀治監事の後任 馬場勘二氏

 会費値上げ A会員500円で4,500円 B会員800円で2,500円に決定

 昭和30年5月13日 第21回 医薬関係審議

 29年12月以来休会していたが、5ヶ月振りに再会。総会は月1回、部会は月2回開催を決定。
 第1部会(実施地域)第2部会(例外事項)

 昭和30年6月27日 医薬分業実施期成同盟全国執行委員全体会議

 東京 交通協会
 磯田氏議長となり開催
 医師会の分業反対請願および分業法修正案対策

 昭和30年7月14日 分業法(医師法、歯科医師法、薬事法)一部改正案提出

 医師出身議員を中心に民主党95名、自由党70名の議員により衆院に提出

 昭和30年7月25日 分業法修正案 衆院通過

 昭和30年7月30日 分業法修正案 参院通過

 8月8日交付 昭和31年4月1日実施

 昭和30年9月14〜15日 日本医師会黒沢会長以下総辞職

 日医代議員会に於いて、医薬分業修正法の成立及び数度の保険診療点数改正に対する会員の不満爆発の結果。

 昭和30年10月18日 日医臨時代議委員会

 会長  小畑惟清(東京都医師会長)
 副会長 丸山直友、田沼宗市

 昭和30年12月20日コラム 医師会の動き

 日医ではいかに厚顔とはいえ、今日では正面から分業廃棄を絶叫しがたいので、新医療費体系が処方箋料を認めていないのを種に、相当の点数を強要して体系を粉砕し、分業制度の否定に発展させて側面的に最後の分業廃止運動を展開させようと国会内部工作を進めている。

 (注、当時薬剤師会側の考え方は、処方箋料の設定については、患者の負担が大きくなり、患者側より処方箋発行の申し入れはなされないし、又発行しようとしても患者側が拒否するであろうとして反対であった。)

 東京都医師会がこのほどから「昭和31年4月1日から実施される新しい医薬制度でも、お申し出があれば今まで通り医師から薬を受けられます」と窓口に掲示しているそうだが、なんと豹変の早きことか。分業になれば、絶対に医師から薬はもらえない云々と素人騙しに懸命だった医師が、そうまで変られるものかと思うと実に情けなくなる。

 昭和31年2月20日 日本医師会の動き

 新医療費体系に反対して全国保険医総辞退決議

 厚生省 医薬分業について都道府県へ通知

 分業の留意事項について
 1.薬局を管理する薬剤師の責務について
 2.薬局に勤務する薬剤師の責務について
 3.調剤応需の態勢の整備について
 4.処方箋の保存義務について(2年間)
 5.麻薬小売業者の免許取得について

 厚生省 分業留意追加事項通知

 1.処方箋に記載する医薬品の名称は公定書名、一般名、または商品名のいずれでもよい。
 2.商品名を使用する場合は、処方医は(特)と付記すること。
 3.(特)の注意がなくて、その商品名の医薬品が手許ない場合は、他の同一成分分量を含有するものを使用してよい。

 昭和31年5月20日 コラム 九州薬事新報

 ▽医師会のアバレン坊で有名な武見前副会長が、薬局の選び方について次のようなビラを患者に配布した。

 @処方せんを批判する薬局、A別によい薬がありますと別の薬をすすめる薬局、B病状を聞いて勝手な説明をする薬局、C自分のところで注射してあげるという薬局、D処方せんの期間が過ぎたのを調剤する薬局、E薬剤師の名義を借りていて平常はいない薬局、この様な薬局にはお頼みならない方がよろしい。

 ― 仲々面白い ―

 ▽新規開局の距離問題が全国的に問題になりつつある。現在都の武蔵野地区協組で問題が火の手をあげている。「300m以内に新規に開局しないこと」という規約があり、そこに問題が生じ協組理事長が辞任した。

 福岡地区では100mになっているが、規約を無視するのが非常識なのか、規約そのものが無理なのか・・・。

 ◆ 医薬分業闘争を終えて

 医薬分業闘争史第一幕、第二幕を書き終えて思うことは、第一に、薬剤師会の政治力がいかに弱かったかと言うことである。そのため医師会の圧倒的な政治力を前にして脆くも敗れ去った。さらに、昭和32年には、武見元日医副会長が会長になり、辣腕を振ることになる。第二は、薬剤師の存在が国民には全く理解されておらず、認められていなかったということである。

 任意分業法案が成立したとはいえ、ザル法であり、医師はもともと分業には反対であったからその後も処方せんが発行されることは無かった。これまた当然の話である。したがって、当時活躍した開局薬剤師は分業の恩恵は全く受けられず、屍累々としてこの世を去って行った。そうした中で、食うためには化粧品・洗剤・チリ紙等の雑貨を扱わざるを得ず、本来の薬局の姿は消え雑貨屋となるしかなかった。

 そしてこの時代から全国的に安売り合戦に突入して行くことになる。そのため日薬を初めとして傘下の薬剤師会は、医薬分業対策よりも、商組活動が主体となって行く。

 医薬分業闘争の中で、心ある薬剤師は何を考えたのか。国民に広く薬剤師の存在を知らしめるためには何をしなければならないのか。社会貢献として一番アピールするものは何か。そう考えたとき出てきたのが学校薬剤師の存在であり、その法制化実現に向けて日薬も全力を尽くすことになる。なお、学校医制度は明治時代、学校歯科医制度は大正時代に成立していた。詳細は学校薬剤師の歴史の中で述べることにする。
 文責 藤原