医薬分業 分業闘争史 第一幕

 占領下の昭和24年、強制医薬分業の幕が切って落とされた。結果的には失敗に終わるがこれを主導したのがサムス准将である。しかし、サムス准将はマッカサー元帥の厚い信任を得て数々の功績を残している。現在に至る医療・福祉行政の基礎を築いたと言っても過言ではない。それを記載してまえがきとする。

 クロフォード・F・サムス(Crawford F. Sams、1902年4月1日−1994年12月2日)は、米国陸軍軍医准将・元GHQ公衆衛生福祉局長。

 日本を訪れたサムス准将は、患者が入院するときに家族が鍋や釜を病院に持ち込んで、煮炊きをしていた現状を見て、まるで「中世の病院のようだと」驚いていた。ここから数々の改革を実行した。

(1)疾病予防、(2)治療、(3)社会福祉、(4)社会保障の四分野をバランスよく統合させた。

(1)サムス准将は予防医学の見地から、児童の体力を回復させるために学校給食制度の導入に踏み切った。学校給食によって児童が健康に成長すれば、疾病を予防することができ、最終的には医療費削減に繋がる。

(2)DDT散布を実施し徹底的な公衆衛生対策および包括的な予防接種を確立し、多くの日本人を救った。

(3)「生存権」を規定した日本国憲法第25条の制定にも関わり、「無差別平等の原則」「公的責任の原則」「必要充分の原則」を日本の公的扶助・福祉行政に導入し、福祉三法(生活保護法・児童福祉法・身体障害者福祉法)の成立に寄与した。

(4)医学教育に関して、インターン制度を導入して、学閥解体、医学生の交流と競争、現役医師の技術向上を目指した。さらに、看護婦の質を強化し専門性を高めるために医師と看護婦の上下関係を是正し、対等な関係を構築することに全力を注いだ。

 こうした流れの一環にあったのが、強制医薬分業の実施であった。それは、医師が薬を売る商売人ではなく、専門家としての医学的知識と技術料によって収入を得ることを望んでいたからである。

 ◆注 准将とは

 准将(じゅんしょう)は軍隊の階級の一。北大西洋条約機構の階級符号では、OF-6に相当する。将官に区分され、少将の下、大佐の上に位置する。

 アメリカ合衆国 陸軍では3600人前後の大佐が居るがそのうち准将になれるのは150人前後であり昇進は大変に狭き門である。大佐から准将になるためには大統領の指名を受け、上院の承認を受ける必要がある。
 米国薬学使節団 マッカーサー元帥の招請により来日 昭和24年6月29日

 団長 グレン・エル・ジェンキンス博士(米国薬剤師協会長、パーヂュー大学薬学科長)
    ヒュー・シー・マルドン博士  (ヂュケスン大学薬学科長)
    トロイ・ダニエル博士     (カリフォルニア大学薬学科長)
    ドン・フランタ氏       (ミシガン大学付属医院薬局長)
    エフ・コイス・フランゾール氏 (米国薬事委員会連合会副会長、ワシントン市で開局)

 日薬臨時総会(7月5日〜7月7日)

 米国使節団を歓迎して行われた。この年、マッカーサーの要請により、日本の制度、事情等社会問題にまで、各種調査及びそれを基にしての勧告を目的とした米国使節団に薬剤師会は多大の期待を寄せた。

 米国使節団薬事勧告書提出

 米国使節団は6月末に来日し、1ヶ月にわたり、本州及び九州を視察し、勧告書を提出した。9月13日、サムス准将は、厚生省及び三師会の代表を総司令部に呼び、それぞれに手渡しした。

 その内容は45項目に渡るが、法律的、教育的方法で完全医薬分業を目指している。調剤に関する医師の特例事項の廃止、薬局の分散及び過剰防止のための開局制限、薬種商は新たに認めない、又薬事審議会等の委員は過半数を薬剤師とする等。 これによって、分業運動はいっそう加速度を加えることになった。

 昭和25年1月9日 三志会(三師会)開催

 医薬分業の早期実施を目指すサムス准将の後押しがあって実現したものであり、この後、日薬は多大の期待をよせることになる。また、薬剤師会活動は全国的に分業一色となる。

 当日のサムス准将(総司令部公衆衛生福祉部長)挨拶

 「それぞれ異なった専門分野にある医師、歯科医師、薬剤師は、各々その専門による学問と知識と経験において、一般公衆の尊敬を得、かつ収入を計るべきである。日本において、この根本問題(薬事勧告による医薬分業)が解決しない事には、自分が今日まで努力してきた開拓事業が全く無意味となる。この根本的問題の解決は、5年先、3年先、1年先に延ばすべき性質のものではない。問題解決は、かかって本日会合の三団体にあるので、速やかに無理なき改正案をまとめるべきである」

 昭和25年1月11日 全国医師会長会開催

 分業問題を討議。結論は分業反対で、阻止の目的で政治力を強化することにした。

 昭和25年1月13日 サムス准将による三志会への通達

 「分業問題に対し、3週間以内に態度決定せよ」

 1.23 第2回三志会

 1.26 第3回三志会

 1.28 第4回三師会

 医師会は法律をもって、医師の調剤権を禁止するのは反対であるとして、結論が出なかった。

 昭和25年1月31日 慶松薬務局長の国会答弁に高野日薬専務理事怒る

 「薬事法改正を今国会で計画しているか」に対し、局長は「薬事法改正の噂は誤報である」。「勧告を至上命令と考えるか」に対し「勧告は2種ある。1つは使節団の勧告で分業が説明されている。他の1つは三志会でサムス准将の示唆であるが、これは結論を早急に出せということではなく、早速分業問題に着手せよとの意味に解している」と答弁した。

 これに対し高野日薬専務理事は記者会見で「薬事法改正の噂は誤報であるとは、全く言語道断な言辞である。サムス准将の示唆・・・と答弁した如きは、薬務当事者として(今日迄の経過を詳細に知っていながら)無責任も甚だしい」と憤慨した。

 昭和25年2月10日 九州薬事新報の論調

 第4回三志会において、医師会の提出案は「民主的な現行任意分業の遂行には積極的に協力するも、法律をもって医師の調剤を禁止せんとすることには賛成できない」とある。何と表面立派な表現であろうか。なるほど、現行制度においては、患者が進んで医師に処方せんの交付を要求して、その処方せんにより薬局で調剤してもらうことは、できる事となっているが、実際問題として、患者の何パーセントがなし得るであろうか。

 心理的に弱い立場にある患者、封建的医療に馴れきっている日本民衆に、民主的という文字にかくれ、現実として殆ど不可能を容易に可能であるかの如き字句は、まことに悪口で言いそうなことである。いかに秘密療法と特権階級維持に焦慮しているにかられているかが、うかがい知らされるのである。薬剤師側の謙虚な態度に対し、医師側の心的態度は実に傲岸そのものであり、俗悪政治家そのもの姿であるといいたくなる。

 昭和25年2月27日 日本医師会臨時代議員会

 「任意分業には賛成であり、医薬品の販売による生活は改善すべきであるも、法律による強制分業には絶対反対である」と決議し、サムス准将に上申し、会議は2時間に及んだ。

 サムス准将、日医代表に対する説示

 医師は自らの知識と技術によって医療の向上を希望しているが、このためには研究と勉学の時間を持たなければならない。医薬分業はその目的に対して、最良の方法であると信じている。医師側は医薬分業問題についてその真意を把握せず、いたずらに事を紛糾させている様に見受けられる。

 また、医師のある者は、調剤の意義を全く知らない。分業になれば、綿棒に薬液をつけることさえできなくなると思っているのではないか。まことに笑止の沙汰である。薬局に症状を訴えて薬を求める者があれば、これを医師に廻すことは、薬剤師として当然の務めである。医師本来の仕事が治療とその処置にあることは、これまた当然であって、薬を売って生計をたてるなどは邪道である。診断、処置に適当な診察料、処置料を設定すればそれでよいのである。

 米国では、医師の収入は普通労働者の5倍であるが、日本では診断と処置料のみで7.5倍となる。米国よりはるかに良率である。三志会において、医、歯、薬の専門分野を明確にすることは、すでに決定したが、その具体的方法がまだ結論を得ていない。しかし、法律的にはこれを行う事は至極簡単である。本日の代議員会では、法的分業に反対している様だが、来月の代議員会では、諸君の賛成の声を聞きたい。医師は一層、治療知識の向上に努力されんことを望む。

 昭和25年3月1日 日薬幹部(会長、副会長、専務)サムス准将訪問

 サムス准将はに日医に対し、3月開催の定時代議員会において分業賛成の態度を決定し報告する様重ねて指示、また、賛成しない場合は別個の方法を考慮している。そして、薬事法改正案の第7国会提出が時間的に間に合わない時は、参院選後の臨時国会に提出すべきであるとの意向を表明。

 昭和25年3月10日 サムス准将、衆参両院医系議員を招き懇談

 日医は分業問題に対し徹底的反対であるが、客観姿勢としては不利になりつつあり、その場合医系議員による審議未了に持ち込みたいと考えられることから、サムス准将が先手を打ったものである。

 昭和25年3月16日 福岡県薬剤師協会支部長会

 1.須原理事、原田日薬代議員、中央情勢報告
 日薬としては、会費および運動寄付金の収納状態悪く、来たるべく臨時国会に改正法案の提出が確実視されるに至った今日、国会対策費に困窮している。今後は、従来よりも、より以上に資金を必要としていることを会員は充分認識してもらいた。

 2.九大 松村薬局長より
 分業の実施が予想外に早められる事もあり得るので、開局薬剤師は直ちにこれに対応し得る様、調剤技術はもちろん、関係事項について至急修得しておく必要がある。またこれに関し、県下有力病院の薬局において、短期実地講習を実践する案を提唱された。

 昭和25年3月20日 日薬大衆運動小委員会設置

 運動方針案
 1.医療を明るくする会ともいうべきものを設けて大衆に呼びかける
 2.移動展覧会による宣伝
 3.街頭、放送、アドバルン、新聞雑誌、ポスター等による宣伝
 4.薬局ウインドウ、包装紙等の利用
 5.署名運動

 昭和25年3月27日 サムス准将、再び日医代表を招く

 日医代表を呼び分業問題に対する態度を決定するよう指示

 昭和25年3月30〜31日 日医定時代議員会開催

 第1日 役員改選に終始、従来の役員は総退陣し、分業反対の強固派によって固められた。なお、武見太郎氏は三志会以来偏狭な議論をもっての分業反対論者であるが、圧倒的な指示を得た。日医の意志表現と見られる。

 会長 田宮猛雄 副会長 榊原 亨、武見太郎

 第2日 分業問題で終日を費やし、「米国と事情を異にする日本では、分業を強制する必要はない。強圧を受ける位なら、会長始め役員、代議員は辞表を懐にして対処せよ」また「調剤権確保のため、実費投薬を即時断行すべし」とか「強制分業が実施されても、これに対処できるだけの対策案を日医幹部において研究すべし」など強固な意見が続出し、ついに分業反対の4項目の決議を行った。

 1.投薬は治療行為であり、治療は医師の全責任である。
 2.医師の売薬的投薬だと誤解せられる点極力これを排除する。
 3.医師、薬剤師は協力して、この民主的な任意分業の法の精神を生かすべきである。
 4.日本人は無形の労力に対して報酬を支払う観念がほとんどない。これを強力に教育して診察、技術料に対する新しい理解を与えなければならない。

 日医決議に対する厚生省見解

 「大衆のため治療行為を完遂するには、その一部門である調剤行為を従来の医師たる非専門家の手から分離の上、専門家である薬剤師の手に移すことが最も必要であり当然のことである」(厚生省は消極的態度から積極的態度へ変換)

 昭和25年4月1日 九州薬事新報の論調

 あの温厚な日薬刈米会長を先頭に、幹部連はメーカー方面に対して運動資金の懇請に大わらわであるらしい。

 メーカー連曰く、協会充実のためならいざ知らず、分業運動資金とあっては、医師を徒らに刺激するばかりだと。

 メーカーの言葉としては決して非常識ではない。しかし、日薬幹部にこの赤恥をかかすものは、薬剤師自身ではないか。

 かって刈米会長は「資金面の不足は、政治運動意識の低調と比例している」と、しみじみ述懐されたことが今現に。

 分業は一体だれのためか。第一が大衆、第二が薬剤師と医師のためではないか。医師の認識不足は今更ここに言わぬ。

 70年悲境に呻吟してきた薬剤師にとっては、今や暁光を見んとして最後の岩頭にたっているのではないか。

 分業は薬剤師にとって社会的向上である。開局者もサラリーマンも共に起て。今一度、収入の幾割かを直に裂け。

 昭和25年4月1日 九州薬事新報の論調

 サムス准将は最初、高橋日医会長に2回目は2月27日日医臨時代議員会で「法的医薬分業に絶対反対」を決議して、副会長以下役員数名がこれを携えて准将と会談した時、約2時間に渡り准将は「医薬分業は大衆幸福のためのもっとも進歩した医療であり、しかも医師、薬剤師にとってもまた、もっとも合理的な方法である」と条理をたて諄々として解き、なお当日の反対決議は、日医代議員の誤れる考えの結実であるので、よく条理と趣旨を代議員に伝え、代議員はまた帰郷の上、各会員に趣旨徹底を計られたいと要望された。

 しかるに日医は、医系新聞には准将の説示内容を掲載してくれるなと頼んでこれを伏せんとした事は、実にこっけいである。その翌28日の総会において、前日同様「分業絶対反対」を決議した事は、医師会がいかに頑冥度し難きかをうかがい知る事ができる。

 この頑冥の因ってくる処は何処にあるか、これ全く薬を調剤して売る甘みを忘れることができぬからである。なぜその甘みをお忘れる事ができぬか、その原因は次の一言である。即ち、医師自ら調剤をしないからである。看護婦、女中に調剤せしめ、自ら手を下すことをせず、その利益のみを獲得するからである。

 薬事法第22条によって、開業医の調剤投薬を徹底的に取締り、医師自らの調剤以外を絶対に黙過することがないならば、必ずや医師は、医薬分業がいかに医療合理化の結実であるかを悟るであろう。その時始めて、准将の説示が理解できるであろう。

 ◆高野専務、呪われる

 医薬分業問題に関して、医界より呪の的になっているのは高野専務である。「あ奴がいる間は、我々には枕を高こうして寝られぬ」とは、東大医学部教授の話しだそうだ。教養のあるべきグループのこの言や怨骨髄に徹しているものと思われる。薩摩ポーの意気、もって冥すべし。

 昭和25年4月1日 処方に出る薬品の数(九大薬局 松村久吉)

 医薬分業は正論である以上、遠からず実施される事と思う。それにつき開局者の方々は、そろそろ対策に着手されても決して早過ぎるとは考えられない。その際、開局者各位の最も関心を持たれている事は、どんな薬品を準備すべきかという点であろうと想像する。病院の種類、診療科目、予算関係などで現在分業の形式を整えている病院でも、それぞれ相違はあろうが、その大綱はそう違うものではない。九大で現在調剤に使用されている薬品の数は案外少なく、局方品、新薬、製剤を合わせて300種足らずである。この300種の中には、1年に1回くらいしか処方されなおものもあって、案外処方薬品の数は少ないことを知っていただきたい。

 昭和25年4月3日 日医、サムス准将へ決議書提出

 サムス准将、前回同様の見解示す

 昭和25年4月4日 サムス准将、林厚相を呼び具体的指示

 これにより厚相は、早急に医療に関する技術料、処置料を合理化し、また適正化するための審議会を設置することになった。

 日本獣医師協会は医薬分業に対し家畜除外を要望、人間の場合における医薬分業は反対ではないと強調。

 医薬分業問題 いよいよ社会問題化

 昭和25年4月8日 毎日新聞医薬分業座談会実施

 日医 武見副会長、日薬 高野専務理事、厚生省 宮崎事務次官代理、2時間に渡り具体的問題が大衆に明らかにされた。

 NHK夜のニュースで座談会の解説

 熊谷解説委員より医師会、薬剤師会の考えを対照して伝え、結論としては医薬分業によって、従来の医療の秘密性が患者または第三者に明らかにされ、意義のあることであると述べた。

 昭和25年4月21日 福岡県薬剤師大会(福岡市商工会議所 出席者約300名)

 高野日薬専務理事を迎えて開催。高野専務2時間に亘り熱演し、内藤、長野、古賀氏他諸氏の熱血あふれる叫びに一同興奮した。白木理事によって宣言ならびに決議文が朗読され、割れるが如き拍手の中に可決した。

 ◆決議

 本大会はアメリカ薬剤師協会使節団の勧告ならびにサムス准将の指示に基づき、国民保健衛生の健全なる発展をはかるため、医学薬学の緊密なる協力により医薬分業の即時実施を期す。右決議す。

 昭和25年5月15〜16日 第3回日薬代議委員会

 会長 刈米達雄 副会長 伊藤 薫、武田幸三郎 理事長 高野一夫 常務理事 平塚善太郎 (理事に磯田秀雄氏)
 分業運動対策として、定款の一部を改正し、専務理事制を廃して、理事長、常務理事を置いた。

 重要事業計画

 1.薬事法改正運動
 2.第6改正日本薬局方の刊行
 3.薬剤師の地位並びに業務の確立(勤務薬剤師他)
 4.社会保障制度

 昭和25年6月1日 九州薬事新報 論調 

 武見副会長を中心とする日医の新役員は、総司令部の意思表示、或いは交渉経過等を会員に対して率直に報告せざるのみならず、欺まん的中間解決を加えて発表し、そのために会員は正しい事情をも知らない模様である。また、医師会事務局や厚生省の係官に対しても医師の不利益となる場合は、ボス的、政治的暴力をもってその地位をおびやかしている。

 昭和25年6月1日 九州薬事新報 論調

 日本の開業医は、収入の大部分を薬を売ることによって得ている。実に不合理なことであるが、医師も大衆も不合理なことと思っていないらしい。

 多忙の医師は、まじめに患者の診断に没頭すれば、自己の診療所付設の不完全な薬室で、調剤にあたる時間は無いはずである。また、研究に要する時間も。

 かかる医者が患者に与える薬は、医師としての診断に基づいた薬であるというよりも、自己薬室の棚にあるあり合わせの薬との場合もあろう。

 以上は、衛生福祉部のH.G.ジョンソン大佐の講演要旨で、分業制の必要を真向より解き他面、開局薬剤師に対してもまた、しんらつに警告された。

 医師の売薬行為以上に有害かつ危険なことは、薬剤師が患者を診断し処方することである。これは法律違反であり分業制を壊すものである。

 昭和25年6月5日 分業問題放送討論会(日比谷公会堂 NHK)〜混乱とヤジ罵声

 講師 日医 武見太郎、日薬 高野一夫、第三者 読売新聞編集局次長 高木健夫

 当日は午後5時開場というのに、早や午前10時には医、薬の学生50余名が集まり、正午過ぎには延々たる列となった。5時開場とともになだれ入った3000余名の超満員の入場者には負傷者を出す騒ぎであった。開場当初から緊迫した雰囲気であったが、討論は例により武見氏の任意分業、高野氏は強制分業を主張して譲らず、聴衆の質問は乱れ飛んだとはいえ、核心をつくものはなく、第三者の高木氏は結局分業賛成であったが、ヤジ、罵声には毒気に当てられた顔であった。

 この醜態に導いた責任は、武見氏の非常識な放言、即ち「調剤は看護婦や女中で結構である」また、薬剤師の道徳は低級であるというが如きの暴論にあった。

 ともかく時代はすでに分業を要求している。

 昭和25年6月12日 福岡県分業懇談会開催(福岡商工会議所)

 後世悔いなく最後の猛運動展開 目的達成せずば薬剤師協会も解散

 70年にわたる医薬分業制度実施の熱望は、英邁なるサムス准将の指示を得、第7回通常国会提案を期して努力したが、これを見送り次期国会提案が約束された。講和会議の1月開催が伝えられているが、占領軍ひとたび去らば有力なる助言者を失って形成は逆転し、医師と薬剤師との政治的勢力の懸隔は、再び70年の過去を繰り返させるに過ぎないであろう。我々はこの千載一遇の機を逸することなく、悔を後世に残すことなきよう、ここに総決起して、第8回提出とその実現を期し次の決議をおこなうものである。

 ◆決議

 1.医薬分業に関する法律案の今期国会提出を期し、会員中より100名の委員を挙げて大挙上京せしめ、あらゆる方面に対し建議陳情を行い、死力をつくして後世悔いなき猛運動を展開する。
 2.而して、若し目的の達成を見ずんば将来再びこれを叫ばず、医薬分業への希望を放棄し薬剤師協会を解散する
 3.本県下の熱血の有志を叫合して医薬分業実現挺身隊を結成する。
 4.薬剤師会の重大なる危局に際会している時に、慶松薬務局長の渡米ありたるところ、今刈米日薬協会長の渡米を見、重要ポストにある士がその任務を放てきすることに対しては、衷心より遺滅の意を表する。
 5.本会は全国の同憂同志の上に飛檄し、我らと行動をともにせられんことを希望するものである。
 (福岡県薬剤師協会、福岡県薬事協会、福岡県薬政会)

 昭和25年6月21日 西日本新聞「どうなる医薬分業問題」

 厚生省では、ついに最終的勧告(医師会に対して)を決意し、場合によっては医師会を相手にせずとも分業問題を強行する決意を固めたもようである。

 昭和25年6月24日 夕刊フクニチ「医薬分業70年の論争に終止符」

 厚生省では、この際医師会をボイコットしても早急に協議会を設置し、懸案の医薬分業法案を遅くとも来る通常国会に提出し、70年間の闘争をくり返してきた問題を一挙に解決する決意を固めている。

 昭和25年7月7日 県医師会との分業問題懇談会(18時 福岡市因幡町建設会館)

 県医師会 : 渡邊会長、岡部、朔、坂本、鮎川、清原各理事
 県薬協  : 礒田会長、白木、須原、小松、武田、倉光各理事

 県薬剤師協会の主催で行われ、礒田会長の挨拶があり、なごやかに分業論に花を咲かせた。医師会長の渡辺氏は、珍しく分業論者で現に分業を続けている人で理解ある話しがあったが、他の理事は時期尚早論や修正分業論であった。

 昭和25年7月10日 厚生省、サムス准将の公開状発表

 「日医代表との会談または多くの交渉において、その代表は不正と不真実を繰り返し、会員に真実を伝えないことは、幹部少数者の独裁に日医がゆだねられたことを示すもので、現日医幹部は信頼できない」

 <上記に対する添付書状>

 「厚生省作成による臨時診察報酬協議会案に対する日本医師会の修正意見に関し、小生と日本医師会並びに日本歯科医師会代表との会談につき、貴省渉外課長よりの文書およびその他各方面よりの報告に接してきた。この会見に関しては、日本医師会役員がその会員に報告せるところは、事実と全く相違するものである。日本医師の如き民主的専門団体がかかる少数者の独裁に委ねられ、会員に事実をおおい隠し、前述の会合を正確に伝えざるのみならず、その他すべての交渉において、不誠意と不真実とを繰り返しつつあることはまことに遺憾である。

 小生は、医師会役員になんらの信頼をも持つ能わざるにいたった。故に、ここに貴下に公開文を送り、貴下が日本の全医家のみならず、日本国民のための医業を向上せしむるという基本的問題に関心を有する人々に対しても広く事実を知らしむるために、これを役立たしめるよう要請することの必要を感じるものである」

 昭和25年7月11日 毎日新聞「医薬分業問題重大化す」

 元来医師団体は医薬分業に対しては、過去60年間絶対反対の方策を取ってきたため、困難な政治問題となっているばかりでなく、医師の政治的勢力が強力なため、歴代の内閣もこの問題に対しては。不触主義を一貫して来ているのである。

 しかるに昨年、米国薬学使節団の勧告によって総司令部においても、世界唯一の非分業国である日本の医療界にメスを入れ、いよいよ公衆衛生福祉部長 サムス准将がその衝に当り、三志会を指導し厚生省に示唆を与え、これがため厚生省もやむなく起ち上がり、本格的に分業問題と取り組むこととなったのであるが、日本医師会では60年来の堅塁を犯された形で客観情勢が最も不利な立場となったので、講話会議までこの問題を引延し、外部圧力の弱化時に於いて分業問題を一気に医界の政治力によって押し切らんとする、いわゆる「日医の大方針」を建てたものと見られている。

 従って、日医が関係筋に対し、また厚生当局に対しその目的完遂のため、あらゆる方法をひそかに講じているので、そこに種々の不誠意と無理が生じ、ついにサムス准将の公開状問題と発展したわけである。ことに、日医を事実上代表している武見副会長の非常識な言論、醜悪なる自己宣伝は関係筋、厚生当局、また一般関係界のひんしゅくを招いている事実が、ようやく日医会員にも問題となりつつある模様であるが、この時に当りサムス准将の公開状が厚生当局の手によって発表されるに至ったのである。

 昭和25年7月26日 臨時診療報酬調査会、臨時医薬制度調査会設置

 「調査会設置についての高野理事長談話」

 両調査会の誕生については、まことに難産であったが、医師会も多少ときの動きに目覚め、ともかく三志会の意見の一致を見た事はもことに喜ばしい事である。この調査会は、実質的に分業実施を目標に医療費問題、法律改正問題を審議するので、その結果により厚生省案が作成され国会に提出されるという事になる。同省では、年末の通常国会をめざしているように思われる。この際、この調査会に特に要望する事は秘密会を排し、公開として衆人監視の中で討議する事である。従前の三志会が秘密会としたため、種々の誤解を生じた事を思い起こすべきだ。

 昭和25年8月7日 両調査会開催時におけるサムス准将挨拶
(サムス准将の医薬分業に対する基本的な考え方がよく現れている)

 医薬分業問題は独り日本に限ったものではなく、他の全文化国家においては既に実施されている事柄である。これは医学、歯学、薬学の三分野において、各自が進歩発達した結果現れたものである。

 例えば、米国に於いては1916年に分業が実施されている。日本に於いて未だにこの問題が未解決であるという事は、医、歯、薬三分野の学術が他国に比していかに遅れているかを示している。

 近時日本を来訪した医療関係者、または私自身が終戦直後強く感じた事は、医師が薬を売り、歯科医師が金を売り、薬剤師並びに医師が自ら取り扱う薬品の品質について、何ら考慮を払っていないという事であった。

 その後米国の医学、薬学の使節団も指摘した様に、医、歯、薬者の受ける報酬の大半が自己の専門技術によるものではないという事実である。これは開業した医師、歯科医師および開局した薬剤師が専門人というよりも、むしろ小企業者であると考えられる所以である。

 これは他の近代文化国家と比較し、日本の医療界の不透明を明確に示すものというべきである。元来、専門人ともいうべき者は、第一に自己の専門知識並びに有すること、第二に、自己の専門知識や体験を絶えず進歩増進させることに努力すること、第三に国民大衆への奉仕を常に念頭におくべきこと、第四に専門人としての規格基準に適合すべきこと、第五にその受けるべき報酬は自己の専門技術に対するものであるべきである。

 昨年、米国薬剤師協会使節団も「医師は自己の専門職たる診断と治療に、薬剤師は調剤と医薬品保管に専心すべきである」と勧告し、しかもこの勧告の主旨は、米国医師会の支持を得たものである。

 この問題は、医歯薬三団体代表による三志会で解決される事と期待していたが、数次の会合でもついに解決点にたっしなかったことはまことに遺憾に耐えない。そこで日本政府は、即ち厚生省で分業問題の適切なる解決を得るために、臨時の両調査会が設置されることとなった。

 この調査会は、三志会、政府、医療を受ける側の人々によって構成されているが、問題解決の協議に当たって、特に次の三点に留意されなければならない。第一に医師が薬を売ることによって収入を得ているという現実を検討し、医療費、薬価を適当に改定すること。第二に、歯科医師についても同様に改定すること。第三に薬事専門家が最低の価格で薬品が大衆に与えられる様、その報酬を考慮することである。

 次に、国民全体に及ぼす影響であるが、予備的調査によると実質的医療費の増加は1〜2%であると見られている。

 次になすべきは、大衆に対する啓蒙でこれに関連する法律の条文を検討し、分業の目的にそう様改正すべきである。本調査会の勧告による改正の最終決定がなされたならば、実施迄には一定の期間を置き、また地域的にも充分検討し日本の実情に合う様考慮すべきである。

 尚、本調査会の協議については、本問題が既に相当の日時を経過しているし、資料は直ぐに提出できるはずだから、諸君の勧告はここ2〜3ヶ月でなされることを期待するものである。

 昭和25年8月16日 日本医師会臨時代議員会

 サムス准将の公開状に対し引責辞任した正副会長並びに常任理事の選挙が行われた。
 会 長 谷口弥三郎(熊本、参議院議員)
 副会長 仲田一信、塩澤総一

 昭和25年8月27日 西日本新聞 医薬分業問題紙上討論

 応募総数 187通(医師 33名、薬剤師 29名含む)

 分業賛成 91名  分業反対 96名
 賛成意見:誤薬が少なくなり危険率が低下する。また、処方公開で薬九層倍やおつきあいで飲む薬がいらなくなるため、大局的に薬価が安値になり公正となる。

 反対意見:薬局に走る時間、ことに全国7割の無薬局町村では一層不便になる。また、診察料と薬代の二重になるから、経済的に負担が重くなる。

 昭和25年9月1日 九州薬事新報 論調

 両調査におけるサムス准将の説示が1時間に亘ってなされた結果が、第三者的委員の分業問題に対する考え方に微妙な変化を与えたことは見逃されないものがある。ともかく分業は実施すべきものであるとの観念がにわかに浮かび上がったようである。

 従来、知識階級たる第三者にしても、分業問題は多少公衆保健衛生に関係はあろうが、主たる論点は、医師、薬剤師の業権問題で利害関係であると考えていたのであって、大衆の医療費負担が増加するや否やについては殆どわからず、ただ単に患者の便、不便が問題となっていたので、分業実施には難色を示す傾向があり、従って「時期尚早」という文字をややもすれば用いていたのである。

 しかるに、今度の准将説示により、医師、薬剤師が各自独立した大学教育を受け、その修得した知識と技能によって、いわゆる技術分業をなすのであるということを聴収したわけである。よって、両調査会の帰趨は自ら明らかなものがある。薬剤師側としては、まことに意外な拾い物というべきであろう。

 社会保障制度試案要綱の最終案の審議がこのほど小委員会で決定されたが、これにより薬局が医療機関中に含まれることを明確にしたことは結構なことであるが、今頃になって何だかおかしな感じも与える。

 従来医療機関といえば、病院、診療所、歯科診療所を意味し、薬局は商的機関として除外されていたものであるが、このたびようやくその仲間入りしたわけである。当然法規的にも医療機関であるべき薬局が除外されていた。その基因するところは、薬事法22条の但書にあり、この但書こそ怨みは深しというところであろう。

 ともかく社保小委員会が認めたことは、事小なれども分業制を認めんとするその黙示とも見られ、薬剤師としては括目すべきことで、よくその点を理解し、来るべき情勢に応じ己の使命を果たすようつくすべきで、速やかに薬局の外観、内容の整備と心構えを具現すべきである。大衆に対し、正しく医療機関であるとの実感を与えなければならない。

 昭和25年10月13日 衆院厚生委分業論聴取

 <第三者代表意見要旨>

 ・健保連合会 : 上山専務理事、山本理事
 「分業のため医療費が高くなるとは考えられないから賛成である。薬剤師は大学教育資格を要求されている。薬剤師の仕事が簡単なものであるはずがない」

 ・国保連合会 : 江口専務理事、寺島理事
 「適正な方法を講ずれば医療費は安くなるから賛成である。無理のいかない地域から実施してもらいたい」

 ・日本オリンピック協会 : 坂入常務理事
 「秘密主義の医療は文化的でない、絶対排斥すべきだ。また、適当な方法によれば医療費は高くならない。薬剤師は医師のやる薬理学とは違った薬学を修得している。分析や鑑定や製薬、その他の学問とつながりのある調剤は薬剤師のなすべきことである」

 ・弁護士(日薬顧問) : 中本氏
 「医師も薬剤師も国家試験で資格を得ている。真の任意分業は理想ではあるが、現在の日本では法律による強制分業でなければ実際に即応しない」

 ・神奈川県金目村村長 : 柳川氏
 「農村窮乏は病気による。今の制度ではあきたらない。方法さえよければ、医療費はやすくなる。分業も一方法だ」

 ・北大教授 : 中谷氏
 「法律で禁止するのは感情的にいやだ。分業に反対するものではないが、教育によって自然分業を希望する」

 ・弁護士(医師会顧問) : 山崎氏
 「調剤は治療行為に属するから、これを切り離すことはよくない」

 昭和26年1月24日 診療報酬調査会

 約6ヶ月13回に亘って行われた会合の結果、答申案が決定した。

 昭和26年2月5〜7日 第4回医薬制度調査会

 厚生省討議項目提出

 1.医薬分業の原則を認むべきか
 2.認めるとせば任意分業とすべきか、強制分業とすべきか
 3.任意分業とする場合、実施を確保する方法
  @処方せん交付の問題
  A国民に対する教育の問題
 4.強制分業とする場合
  @実施の時期
  A実施の地域
  Bその他実施上考慮すべき条件

 3日間討論したが結論出ず、三志会懇談の場に移されることになったが、これも失敗に終わる。

 昭和26年2月28日 第6回医薬制度調査会

 8回の小委員会、6回の調査会を通じ医師側は強制分業に終始反対で今回決選投票を行った結果、19対11で強制分業法案が可決された。医師会では「調査会でどう結論が出ても、国会で必ず握りつぶす」との電報が地方医師会に発せられた。

 ◆強制分業答申

 施行については前提として医療報酬に関し、昭和26年1月24日付臨時診療報酬調査会答申に基づく所要の措置がとられることが必要であるので、昭和28年からとすべきである。

 1.医師法第22条の改正(歯科医師法も同様改正)
  医師は診療上投薬を必要と認める場合には、患者に対し処方せんを交付しなければならない。

 2.薬事法の改正
  薬剤師は調剤する場合には、医師、歯科医師または獣医師の処方せんによらなければならない。

 3.薬事法第22条の改正(昭和33年から施行すること)
  薬剤師でない者は、販売または授与の目的で調剤してはならない。

  前項の規定にかかわらず、医師、歯科医師、獣医師は次に挙げる場合において自己の処方せんにより
  自ら調剤することができる。
 (1)審議機関の審議を経て厚生省令で定めるところにより、診療上必要と認められる場合
 (2)審議機関の審議を経て厚生省令で定めるところにより、薬局の分布が充分でない地域で行う場合

 昭和26年3月20日 医薬分業期成九州薬剤師大会開催(福岡市消防会館 出席者400名)

 「我らは医薬分業制度の確立を妨害せんとするあらゆる勢力を国民の敵として排除せんことを期する」と決議

 昭和26年3月28日 分業法案国会審議

 衆参両厚生委員会で同時審査となり、法案の早急な成立を目的として衆院では事前審査(3/28〜30終了)のみで、この後地方選挙のため自然休会となり、5月の再会国会の参院厚生委員で審議されることになった。

 昭和26年4月1日 礒田会長、檄をとばす

 「若き薬剤師諸君よ奮起せよ」

 分業法案が3月20日の閣議を通過した。今後は両院の厚生委員をしらみつぶしに説得するしか手はない。日刊紙の報道によれば、医師会の勢力により反対論が圧倒的で、審議未了、即ち握りつぶしは免れないとある。そうなれば永久に望みはない。それにしても、薬剤師の技術講習会を開催しても、若い諸君の顔が余りに少ない。また、分業達成の薬剤師大会が開かれても出席が見受けられない。若き薬剤師諸君こそ、春秋に富むだけに努力しなければならないのに、一体何を考え、何を夢に描いているのであろうか。
 薬剤師の運命はここ2ヵ月のうちに一切が決定される。今からでも遅くない。若い薬剤師諸君がこの危局に思いをいたし奮起一番せられんことを望む。老薬剤師すら死を賭して分業案の通過に努めているとき、多くの若い薬剤師諸君が深い眠りを続けていることは、余りに無気力過ぎはしないか。

 昭和26年5月7日 参院厚生委員会開催

 山下厚生委員長談話

 「会期中に審議を終了するよう努力はするが、薬剤師と医師との熱意には相当開きがあり、医系に比して薬剤師は熱意が低い。地方医界からの盛り上がってくる反対の力はまことに強いものがある。政治力の面から見ても、政治訓練の行き届いた医師に比べて薬剤師は比較にならぬほど弱い」

 昭和26年5月8日 参院医薬分業公聴会を開催

 4月10日の理事会で、一般大衆から広く口述人を募集して公聴会を開催する事が決定し発表されていたが、これに対する口述人の申し込みは132人に達し、賛成者47人、反対者85であった。
 この中から賛成、反対各6名を選び公聴会を実施した。

 参院厚生委員会証人喚問

 1、両調査会関係(5月11日)

 証人 診療報酬調査会、医薬制度調査会の各代表

 「委員質問」

 (1)医師の調剤を法律で禁止する根本理由はどこにあるか、又医師には調剤能力がないのか。
 (2)医師の調剤禁止は憲法違反ではないか。
 (3)分業実施後、医歯薬三者の協調が期待できるか。
 (4)分業が国民に与える利害をどう思うか。

 「証人答弁」

 (1)分業は原則的には賛成であるが総医療費の上下がはっきりしない点は不満である。
 (2)薬剤師の制度がある以上分担するのは当然であるが、まず医師の技術料を決定してから(決定済)自然に分業に向うのが理想的。
 (3)医師は薬剤師ほど医薬品の製造、性状、監識等について詳しくないが、日常の調剤はできる。
 (4)医師の調剤権禁止については現在でも薬剤師が調剤を行うこととなっている。ただ法律制定当時の特殊事情で例外的に医師の調剤が認められているのであって、原則にもどって禁止することは憲法上の問題ではない。
 (5)今後医師会との妥協は困難であり、医歯薬の協調は見込み薄であろう。
 (6)医療費の増減については、分業実施の範囲、及びその程度が決まらなかったので不明である。
 (7)進歩とともに専門化されるのは当然で、分業が医療の向上につながるのは事実だ。

 2、三師会関係(5月15日)

 日医 武見前副会長

 「わずか3年前GHQの承認の下に国会を通過した現行任意分業が、この間何ら客観的情勢の変化がないのに、どうして法律による強制分業を今日行わなければならないか、その理由の発見に苦しむ」

 日薬 高野理事長

 「各層の分業論は、賛成の基調の下にその方法論が論議されている。最も関心の的である医療費の問題は、分業の結果上がるか下がるかではなく、上げるか下げるかの問題である。今の国民の医療費負担は最大限に達しているので、現在より上げないことを条件として調査会では答申している。

 又医師が言う強制という言葉は誤解を招きやすい。例えば右側通行も法律で決められたから強制右側通行というか、農地改革も強制農地改革というか、当然あるべき姿の法制化を求めているのである」

 日歯 佐藤会長

 「分業は既に薬律の制定された時に決まっている。現制度は受療者の一習慣であり、薬を薬剤師から貰うことは当然である。しかし医薬の分離は、医師の経済問題が解決しなければとうていできないため、まず医療の新体制を期間を決めて強制化し、納得がいった時実施する。この二つが是非必要である」

 日薬 横井理事

 「処方公開は医療を向上させ医薬協力すれば薬価も高くならない。現在薬剤師は自らの職能で奉仕ができない。昨年法律による薬局改修に数万〜数十万円を投じて完成した薬局も現在ではなんら用をなさない」

 日医 榊原前副会長

 「医師には調剤能力がある。処方を公開しても国民の衛生知識が向上するとは限らない。むしろ弊害を生じるおそれが大である。分業によって医師の調剤が省け医術が向上するという如きは、不器用な他国民のことであって日本人には適用しない。分業を実施すれば必ず医療費は増大する。ただ新医療体系で、医師が投薬することによって少しももうからない状態になれば自然に分業になる」

 松原委員 榊原証人に詰め寄る

 「医系は薬系や政府を責めることは厳しいが、医師自身に調剤することはなく、看護婦などに任せている点、自己反省が乏しいとは思わないか」

 3、医・薬大関係(5月16日)

 医系 児玉(東大)、田中(岡山)、黒川(東北)、黒津(阪大)、戸田(九大)医学部長

 (1)医大における医薬関係教育中には薬理学、処方学があるが、これは全教育の4%に当たる。医師にも調剤能力はある。
 (2)医師の国家試験に調剤学があるかとのことであるが、大体調剤技術は国家試験を必要とするほどのものではない。
 (3)分業には賛成であるが、医師から調剤権を強制的に奪うことには賛成できない。

 薬系 村山東京薬大学長

 (1)新制薬大も従来通り、旧制と同様薬学教育は調剤に重点が置かれている。なお医学領域である薬理学、生理解剖学、細菌学、免疫学等も同時に教課されている。
 (2)調剤を完全にやるために医薬品の製造、合成、分析等の学課が課せられているが、もちろん調剤学は国家試験で学説、実地を通過しなければならない。医師の調剤知識程度では不十分である。
 (3)医師が素人よりも調剤知識があるという理由で、国民の便利のため調剤すべきであるというならば、薬剤師が素人よりも医学の知識があるという理由で、国民の便利のため対症投薬を行ってもよいではないかとも言える。

 昭和26年5月15日〜17日医薬分業 街頭署名運動

 全国一斉に展開されたが福岡市では、東中洲、天神、渡辺通1丁目、博多駅前の4カ所で3日間朝9時より午後7時までスピーカーにビラにと宣伝、署名活動を行った。

 昭和26年5月16日 東京神田共立講堂分業達成国民大会

 出席者 3,000名

 昭和26年5月21日 一大デモ行進

 東京 薬剤師 5,000名

 昭和26年5月21日サムス准将辞任 (帰国5月25日)

 あまりに突然のことで薬剤師会は愕然とし悲惨な思いに沈んだ。

 なお、サムス准将辞任の理由についてはどの歴史書にも書かれていない。このページ最後の分業攻防史を参考にして頂きたい。この原稿は、平成26年7月15日に加筆訂正したものである。(藤原)

 昭和26年6月5日[任意医薬分業法成立]

 分業法案は難航しており審議未了となる公算が強かったが、会期を延長し政府案を修正して成立した。ここに強制分離案は一蹴され全くの骨抜き法となったわけである。

 ◆[修正点]

 (1)医師、歯科医師は省令で規定された特別の理由ある場合は調剤ができる。
 (2)患者、又はその看護人が特に調剤を希望するときは、医師、歯科医師で調剤できる。
 (3)実施期日を3年短縮する(昭和30年1月1日から実施)。

 第4回福岡県薬剤師協会代議員会

 昭和26年6月27日 福岡商工会議所
 副会長補欠選挙で波多江嘉一郎氏選出
 事業計画の主なものは、分業法案の成立によりその受け入れ態制についてのもの

 総会に移り高野理事長講演
 2時間に亘り分業問題の経過説明

 医薬分業 政治ドラマ〜分業攻防史 総括

 昭和24年6月29日、米国薬学使節団が来日し医薬分業の勧告書を提出して以来、2年間にわたる分業という一大政治ドラマが繰り広げられた。このドラマは、3人の主人公によって演じられたが、26年6月5日劇的な幕切れを見ることになる。ここに登場する3人の主人公とは、一人が連合軍総司令部公衆衛生福祉部長サムス准将で、今一人が武見目医副会長、そして高野日薬理事長(専務)である。さて、このドラマを演出したのは何者であったのだろうか、それは後で述べることにする。

 そもそも薬剤師の職能をかけた医薬分業の戦いは、明治22年(1889年)に成立した薬律(法律第10号)に端を発している。それはこの法律の付則で、医師の調剤権を特例事項として認めたからである。医師の調剤権は、これを医師側から見れば、医療の歴史から考えて至極当然のことであり、薬剤師のことなど念頭に無かったと言うべきであろう。したがってその後、明治から昭和23年まで数回、法律改正案を提出しては否決され、或いは薬事法の改正で何ら進展しなかったことも、医師は当り前だと思っていたはずである。

 大衆の意識、認識も殆んど無く、知識人でさえ医師と薬剤師の単なる薬の取り合いと考えていた時代、世の中を見れば覚醒剤が薬局で自由に売られ、社会問題化していた時代、そこに絶対権力を有するサムス准将が登場し、医師の調剤権を認めない強制分業という刃を突き付けてきた。医師側にしてみれば、まさに青天のへきれきであったろう。医師の、医師会の所有する辞書には、任意も強制も分業という文字は無かったのだから。

 これに猛烈な抵抗を示したのが、武見氏率いる日本医師会であった。当時武見氏は副会長であったが、事実上、日医の代表者であり時の首相吉田茂をはじめ実力者に対しても大きな影響力を持っていたのである。この強制分業法案を取り扱かった最終責任者、参院厚生委員長山下議員が「その政治力は日医と日薬では比較にならない」と、言ったように強大なものであった。

 ちなみに、当時の開業医と開局者の収入は10倍の開きがあるが、政治資金においては10倍どころではなかったであろう。薬剤師会では、絶好の機会を迎えながら、目標に達していないのである

 さて、武見氏の頭にあったのは何であろう。分業論など当初から持ち合わせていなかった。25年6月5日、NHKが行った放送討論会で「調剤は看護婦や女中で結構である」と発言した言葉が全てを物語っている。武見氏にはいかに医師の権益を守るか、つまり経済面のことしか頭に無かった、ただ頭にあったのは当時の政治情勢だけである。毎日新聞が25年7月、分業問題の解説を行なっているように、日米講和条約の締結がいつになるかということであり、それまでは何んとしても分業問題を引き伸ばしたい。そのためにはあらゆる抵抗手段を取る。この一点だけであった。

 この事情はサムス准将もまた同じで、事を急ぐ必要があった。三志会(三師会)の俎上に乗せての世論の喚起、矢継ぎ早に厚生大臣、厚生省幹部、三師会代表を呼びつけての指示、そして、ついには武見氏の辞任に迫い込んで行くのである。一方、高野理事長に旗振り役をつとめさせ、高野理事長は千載一遇のチャンスとそれに乗り突き進んで行く。わずか2年前の昭23年に改正された新薬事法では、なんら変りなくというよりむしろ調剤権に関しては後退しており、薬剤師にとってみればサムス准将の登場は、まさに神さま仏さまであったに違いない。しかし、挫折の連続であった薬剤師には、今一つ盛り上がりが欠けている。礒田県薬会長が嘆いているが、旗振れど、笛吹けど踊らず、政治資金も出さず、集まらず、無関心の会員が多くいたのも事実である。

 さて、話しは戻るが、サムス准将は日医を甘く見過ぎていたのではないか。財閥解体、農地解放、レッドパージ、その他諸々思うように改革してきた総司令部に対し、何が何んでも絶対反対の態度を示す日医には驚きもし、腹も立て切歯扼腕したに違いない。武見氏の首を切っても事態は変らず、ただ時間を浪費しただけであった。

 年が変り、昭和26年には勝負が見えてくる。少なくとも武見氏には、はっきりと見えていたはずである。厚生省の医薬制度調査会が、2月28目強制分業法案を答申するが、それも計算済みであった。最後の舞台となる参議院厚生委員会を、どのようにも動かせる自信があったからである。なお、当時の谷口日医会長は参議員で、この厚生委員会のメンバーであった。そして薬剤師会は一人の議員も有していない。辞任させられた武見氏が無役でありながら、この委員会の証人喚問に医師会を代表して登場している。またこの年には連合軍最高司令官が、占領法規の再審査権を日本政府に与えている。

 長びく朝鮮動乱、講話条約の早期締結とアメリカ側にも日本の協力を必要とする時代になりつつあったのである。もはやサムス准将にオールマイティーの権限は無くなっていた。というより、行使できない状態になっていた。武見氏は、それを承知していたのである。

 サムス准将は方針を問違ったと言える。25年の初めから絶対権力を行使し、法案を成立させるべきであった。なまじっか、三師会を舞台に上げたことが失敗だったのである。しかし薬剤師は、その存在を国民に知らせることができただけでも、サムス准将に感謝しなければならない。

 ドラマも終りに近づくが、サムス准将は、5月25日参院厚生委員会に最後の司令(おそらく強制的なものと考えられるが)を出す予定であった。ところが突然5月21日に辞任し、25日には帰国してしまう。薬剤師会は愕然とする。私には武見氏に動かされた吉田首相の顔が見えてくる。武見氏は吉田首相の侍医でもあった。

 サムス准将の辞任の理由はどの歴史書にも書かれていないが、その根本原因は昭和25年6月25日に始まった朝鮮戦争にある。ソ連・中国の同意を得た北朝鮮軍は、圧倒的な軍事力で南進し、一時的は国連軍を釜山周辺まで追い込んで行った。これに対しマッカーサーは、トルーマン大統領の命令を無視し、「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を政府の許可を得ずに発表した後に、38度線以北進撃を命令し、国連軍は3月25日に東海岸地域から38度線を突破した。さらに中国本土まで侵攻する作戦まで立てていた。これに対し、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することによってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にし、その結果として第三次世界大戦に発展することを恐れたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーをすべての軍の地位から解任した。

 これによって、マッカーサーから全幅の信任を得ていたサムス准将は、その後ろ盾を失ってしまった。連合国軍最高司令官の後任には同じくアメリカ軍の第8軍及び第10軍司令官のマシュー・リッジウェイ大将が着任するが、吉田総理より17歳年下で、マッカーサー(15歳年上)とは違い対等の関係にあって親しかった。そして何より、これ以上国会の混乱を長引かせたくないという両者の思惑が一致し、サムス准将に辞任を促したものと考えられる。

 なお、現在ではほとんど忘れられているが、その当時、日本からは、日本を占領下においていた連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、海上保安官や民間船員など8000名以上を国連軍の作戦に参加させ、開戦からの半年に限っても56名が命を落とした。また、アメリカ軍によって集められた日本人港湾労働者数千人が韓国の港で荷役作業を行った。

 開戦直後から、北朝鮮軍は機雷戦活動を開始していた。アメリカ海軍第7艦隊司令官は9月11日に機雷対処を命じたが国連軍掃海部隊は極僅かであったため、元山上陸作戦を決定した国連軍は10月6日、アメリカ極東海軍司令官から山崎猛運輸大臣に対し、日本の海上保安庁の掃海部隊の派遣を要請された。国連軍のアメリカ極東海軍司令官の指示により解隊されるまで特別掃海隊は、46隻の掃海艇等により、元山、仁川、鎮南浦、群山の掃海作業に当たり、機雷27個を処分し、海運と近海漁業の安全確保、国連軍が制海権を確保することとなった。戦地での掃海活動は、戦争行為を構成する作戦行動であり、事実上この朝鮮戦争における掃海活動は、第二次世界大戦後の日本にとって初めての参戦となった。このような時代背景があっての国会論戦であったのだ。

 強制分業法案が修正され、骨抜きとなって参院を通過したのは、准将帰国一週間後の6月2日であった。そして6月5目衆院を通過し、ドラマの幕が降りるのである。と同時に薬剤師が長年戦い取ろうとしてきた強制分業の夢も、この日をもって消え去った。

 さて、このドラマの演出者は誰れであったのか?サムス准将であったのならば、幕を引かずに帰国するはずがない。とすればそれは総指令部であり、米国薬学使節団を招いた最高司令官マッカーサー元師であったと言える。

 日本の医療制度のほんの一部である医薬分業に、何故これほどのエネルギーを使ったのであろうか。当時の先進国がすべて分業を実施していたのは事実である。従って非分業国の日本が奇異に写ったこともまた事実であろう。しかし、何が何でも一年以内に(最初の目標はそうであった)強制分業を実現させようとしたのには、他に理由があったはずだ。私にはそう思えてならない。アメリカは確かに分業を実施していたが、法律による強制分業では無かったのである。従って、日本に対しても分業実施の勧告だけですますこともできたはずである。

 総司令部の目に写ったのは、日本医師会という巨大な財力を持った政治力と、上意下達の一枚岩に団結する大集団に、封建性を有すると危惧したのではないだろうか。そのことを昭和23年の薬事法改正で見て取ったに違いない。一度承認した新薬事法を直ちに改正する。それも強引にである。

 天皇の人間宣言、日本国憲法、教育、宗教改革等、既成組織の解体、或いは改革と軍国主義につながるもの、または封建思想を有すると見なしたものは全て排除していった。その一連の流れの中に、日本医師会の改革、民主化という組織の弱体化、それが真の目的であったと考えられる。

 以上は、私の独断であるが、この時代の動きを見た感想である。従って、薬剤師による分業闘争史とは言えず、分業攻防史としたわけである。

 ともかく、医師の権益と、医師の組織を守り技いた武見氏は偉大であったと言わなければならない。そして武見氏が分業に理解を示し、新しい協調分業、つまり任意分業の芽が生れ出てくるまで、十数年の年月を待たなければならない。

 また、この時奮闘した薬剤師はその時のエネルギーでもって、昭和28年高野理事長を参議院議員に押し上げ、真の薬剤師代表議員が誕生することになる。

「先達の 事跡を尋ね 今想う」


 〔年 表〕

 昭和23年(1948)

 7月29日  薬事法公布 医師の特例調剤権本則へ

 昭和24年(1949)

 6月29日  米国薬学使節団来日
 9月13日  使節団、薬事勧告書提示 サムス准将 厚生省及び三師会代表を呼び提示
         医師の調剤特例事項廃止を

 昭和25年(1950)

 1月9日   三志会(三師会)開催 サムス准将 早急に三団体で改正案をまとめるよう指示
 1月11日  全国医師会長会議 分業阻止へ
 1月13日  サムス准将三志会へ通達、分業問題、3週間以内に態度決定せよ
 1月23、26、28日 三師会(医師会分業反対)
 2月15日  日薬両院議長へ請願書提出
 2月27日  日医臨時代議員会 強制分業反対決議
 3月1日   日薬幹部(会長、副会長、専務)サムス准将訪問
 3月10日  サムス准将 両院医系議員と懇談
 3月20日  日薬大衆運動小委員会設置
 3月27日  准将 日医代表に再び態度決定迫る
 3月30〜31日  日医定時代議員会 4項目の反対決議
 4月3日   日医、サムス准将へ決議書提出
 4月4日   サムス准将、林厚相を呼び具体的指示
 4月8日   毎日新聞分業座談会(武見、高野氏)
 5月16日  日薬代議員会 専務制廃し理事長制に
 6月5日   NHK放送討論会(武見.高野氏)
 6月13日  日薬厚相へ陳情書提出
 6月25日  朝鮮戦争おこる
 7月10日  厚生省 サムス准将の公開状「日医幹部は信頼できず」発表 日医役員辞任
 7月11日  毎日新聞「医薬分業問題重大化す」
 7月26日  臨時診療報酬 医薬制度両調査会設置
 8月7日   両調査会開催時におけるサムス准将挨拶
 8月16日  日医臨時代議員会 新役員決定
 8月27日  西日本新聞 医薬分業問題紙上討論
 10月13日  衆院厚生委員会第三者代表意見聴収

 昭和26年(1951)

 1月24日  診療報酬調査会答申
 2月5〜7日  第4回医薬制度調査会
 2月28日  医薬制度調査会 強制分業法案答申
 3月20日  全国薬剤師大会開催(東京共立講堂)
 3月20日  医薬分業期成九州薬剤師大会開催
 3月28日  分業法案国会審議
 5月8日   参院 医薬分業公聴会開催 「参院厚生委員会証人喚問」
 5月11日  両調査会代表者証入喚問
 5月15日  三師会代表者証入喚問
 5月16日  医・薬大代表者喚問
 5月15〜17日 医薬分業街頭署名運動(全国)
 5月16日  分業達成国民大会(東京共立講堂)
 5月21日  薬剤師一大デモ行進(東京5,000名)
 5月21日  サムス准将辞任
 5月25日  サムス准将帰国
 6月2日   医薬分業法案 一部修正され参院可決
 6月5日   衆院 会期を3日間延長し同法案可決 ここに任意分業法案が成立した。

 「修正点」

 @ 医師、歯科医師は省令で規定された特別の理由ある場合は調剤ができる。
 A 患者、又はその看護人が特に調剤を希望する時は、医師、歯科医師で調剤ができる。
 B 実施期間を3年短縮する。(昭和30年1月1日から実施)

 9月8日   サンフランシスコ平和条約調印

 この時代は分業運動史上、実に特異性を有し、ここから新たなスタートとなる。
福岡市薬剤師会会報 平成元年5月号(文責 藤原良春)
平成26年7月15日、上記文章改定並びに訂正